宴の前の嵐・15

「………御祖よ、血の始まりの祖よ。いまこそこの魂を受け入れられよ。現世の罪は現世において購われたり。いまはただ、その広きかいなに赤児を抱くごとく……」

 大神官の祈りの声が続いている。
 王宮内の大宰相の私室で、かなり簡略化されているらしい葬送の儀式が行われていた。
 本当は、国家的犯罪者である大宰相の葬儀など行うべきではないという意見もあったらしい。やるなら王宮の外、罪にふさわしい荒れ地でやれという声も。おそらく本人は覚悟していたのだろうが、大宰相ガヤンへの恨みの声は、部外者のユーリも驚く程大きく根深いものだった。それはもう、ユーリを拉致監禁するという所業に至る、ずっと以前からこの国の底辺で渦巻いていたのだろう。
 カインもかなり悩んだらしいが、結局サリィの訴えを受け入れ、私室での簡素な儀式ということで収まった。
 儀式には、頼み込んで、ユーリも参列させてもらうことにした。
 サリィとカイン、そしてさりげなくだがミゲルも、ユーリに心からの感謝を示してくれた。だが、見知った人々以外の、この儀式に至るほんの数刻の間に見た多くの兵士や貴族達の、ユーリ達を見る恐怖や疑念に満ちた眼差しが、ユーリの脳裏を離れずにいる。

「……そなたの全ての苦しみは終わった。もはや何ものも、そなたの魂を騒がすことはない。真白き魂のまま、御祖にそれを委ね、一つに溶け合い、これよりはそなたの血を継ぎし子等の……」

 ……悪い人じゃなかった。決して悪い人では。
 でも。
 「悪い人」って、何なんだろう。「善い人」って?
 大宰相は、必死だった。国を救おうと必死だった。それが結局民を抑圧する事になり、次第に誤った選択が悪循環を為すように繰り返され、最後には他国に対する犯罪にまで走らせた。

「見ろ、あれが魔族だ」
「本当に黒だ! 信じられるか? 黒い髪に黒い瞳だぞ!?」
「魔王? あの子供が?」
「魔族というのは、う、美しいものなのだな……」
「馬鹿、あれはきっと魔力を使って化けているんだ」
 王宮内を移動するユーリ達を見て、あからさまな言葉を交わす兵士達。視界に入れまいと、懸命に目をそらす女性達。
 かと思えば。

「魔王様のこと、ずっと村で言い伝えていきますねっ」
「そりゃもうお美しくって、お可愛らしくって、愛らしくて、麗しくってって……」
「泉は大切に護っていきます! またいつか、ぜひお立ち寄り下さいませ!」
「私っ、亭主をもらったら、新婚旅行は眞魔国へ行かせて頂きますッ!」
 ユーリ達の出立を、総出で見送ってくれた、チェスカ村の人々。
 彼らが贈ってくれた、花やお菓子といった、素朴ながらも心尽くしの餞別。
 「お許しを!」と一声叫んで、ユーリを抱き締めたかと思うと、コンラッド達が止める間もなく、抱き上げて、振り回して、「どうぞお元気で!」と囁いてくれたマルゴの涙の暖かさ。

 100人いれば、100通りの意志。
 1000人いれば、1000通りの価値観。

 それを一つにしてしまう事なんて、できるはずもないし、してはならない。
 人の数だけある、全部がばらばらの人の想い。
 その上に立つ王。

 「よい王」って何だろう。「悪い王」って……。

 ふと、頬に優しい感触を覚えて、顔を上げた。
 コンラートが、目には心配そうな光と、口元には柔らかな笑みという複雑な表情を浮かべて、ユーリの頬を指で拭っている。指と頬の間に、自覚のなかった水の感触。
「大丈夫?」
 うん、と頷いて、ユーリは心持ち彼との距離を縮めた。

 ローエン大神官が、燻された香草の入った黄金の球体を遺体の上に掲げている。網目状の球体から、不思議な香りの煙が漂い、ゆっくりと霞みながら広がっていく。
 略式の葬儀を行うと言われ、入った部屋で大神官の姿を見つけた時、さすがにユーリも緊張した。装束からそれと察したコンラート達も、ユーリの周囲を固めるなどして警戒したが、それ以上険悪な雰囲気になることはなかった。チェスカ村で見知った神官達がいたこともある。だが、誰よりも、大神官の隣にダード老師が付き添っていたことが大きかった。
 老師はユーリの姿をみとめると、優しげに微笑んで軽く頷いた。それだけでまだ会話を交わすには至っていないが、大神官といるダードの様子は穏やかで、安心できるとユーリは思った。

 大神官が香草の煙がまだ漂う球体を、遺体の枕元の台に置く。そして、地球で言えば絹だろうか、光沢のある真っ白な布でガヤンの全身を覆うと、様々な、やはり黄金らしい神具をその胸元や身体の周囲に配置した。それで儀式は終了したらしい。神官達は寝台の脇に揃うと、ガヤンの遺体に向かって深々と頭を下げ、それから無言のまま静やかに部屋を退出した。
「父もこれで穏やかな眠りにつけます。……ありがとうございました」
 頭を下げたカインに、「ではあちらへ」と促され、ユーリ達も部屋を出ることになった。遺体の側には改めて椅子が置かれ、サリィが座っている。埋葬される時まで、ああして付き添うつもりなのかも知れない。

 ……さようなら。
 部屋を出る直前、そっと振り返って、ユーリは白い布に包まれた人に、心の中で語りかけた。
 ……できれば。もうちょっと違う形で会ってみたかった。話してみたかった。カイン達みたいに、話をきいてみたかった。徹夜してでもいい。とことん話し合ってみたかった。
 最後まで、すれ違ったままだったとは、不思議だけれども思えない。
 ガヤンはユーリに、ユーリの足りない何かを教えようとし、同時にユーリの何かを受けとめていった。そんな気がする。
 ユーリに投げかけられたものの正体と真意は、ユーリがこれから考えていけばいい。
 しかしユーリからガヤンに向かって放たれた想いは、どこへいったのだろうか。
 ガヤンの死とともに、虚空の中に霧散したのか。
 それとも、ガヤンの魂の中に飛び込んで、それとともに行くべき場所にいったのか。
 いや、ユーリのような子供が、想いを放つということ自体がおこがましいか。

 ユーリという存在そのものを、ガヤンは受け止めてくれただろうか。

 肩に回った手にそっと促されて、ユーリは部屋の外に出た。
「……さようなら」
 目の前で、扉が閉ざされた。


 案内された部屋には、すでに大神官、それから見覚えのある神官や法術師達が顔を揃えていた。
 彼らの他部屋にいるのは、ユーリ達眞魔国の魔族一行、ダードとカーラ、そしてクロゥとバスケス、アリ−、レイルの新連邦一行、合わせて、カイン、ミゲルの兄弟、ウォルワース、ロットリン、カスミ、ガルダン、アレクディール、そして村の騎士代表としてアレクについてきた、ヘルマを始めとする3名の若者達である。
 初めての顔はない。それを確認した途端、ユーリは思わずホッと肩の力を抜いた。
 ……思っていたよりも、ずっと緊張していたらしい。
 コンラートとどこか喧嘩腰なヴォルフラムにぴったりと寄り添われ、ユーリ達は部屋の中央に進んでいった。
 正面にはローエン大神官とダード老師、そしてその後ろに侍るように神官と法術師達が並んで彼らを見つめている。

「思いも掛けない所で御会い致しましたな、ユーリ陛下。いささか複雑な心境ではありますが……。お元気そうで何よりです」
 ダード師が相好を崩して手を差し伸べてきた。最後の一言に、この人らしい暖かな、そしてしみじみとした思いを感じ取って、ユーリもホッと笑みを浮かべた。
「はい、本当にお久し振りです。ダード様もお元気そうでよかったです」
 うんうん、と何度も頷いて、ダードは「相変わらずお可愛らしい」と笑みを深めると、それからコンラートに向けて「変わりはないかね?」と尋ねた。
 そうやってそれぞれがしばし久闊を叙した後、ダードは傍らに控えるローエンを招いた。
「……陛下、あまり幸せな出会いとはいかなかった模様ですが……、彼、ローエンは私達が神学生であった頃からの友人でしてな。私が教義に背いたとして神殿を追放された後も、密かに援助し続けてくれた、中々に友情厚い男なのですよ」
「………老師様の、友達……」
 ぱちくりと目を瞬かせ、自分を見つめるユーリに、ローエンは神妙な顔つきを崩さず、緩やかに腰を折った。

「……眞魔国魔王ユーリ殿……結果として、貴殿と貴殿の御国に対し、大変なご無礼を働いた事を、ベイルオルドーンの神殿を司る大神官として、衷心よりお詫び申し上げまする……」
「無礼だと!?」顔色を変えたヴォルフラムが詰め寄る。「無礼の一言で済むと思っているのかっ!? 一歩間違えれば、魔族と人間の戦をも招きかねん企てに加担した、貴様もまた罪人の一人だろうがっ!!」
「お、落ち着けよ、ヴォルフ……」
「僕は落ち着いている! ……大体ダードの友人だから何だと言うんだ!? しゃあしゃあとした顔でよくも……! ユーリ! 分かっているのか!? お前のその首に嵌っている忌わしいものは、こいつが作ったんだぞ!」
 ハッと、ユーリは自分の首に巻き付いたままのモノに手をやった。
 服はサリィの離宮に預けたままになっていた学生服と再会して、あらためて身につけていたが、結局首輪と鎖の欠片はそのままだ。
 ヴォルフラムの糾弾に、ローエンは表情を変えないまま、小さく息をついた。
「まさしく、その通り……」
 呟く様にそう言うと、ローエンはユーリに近づき「ご無礼致します」と手を伸ばした。
「きさま……っ!」
 止めようとするヴォルフラムの怒りも気に止めない様子で、ローエンはさりげなくユーリの首、不自然に巻かれた布を解き、その下に隠された首輪に触れた。
「…………あ」
 まるでウソのように、法石で彩られた首輪が、鎖の破片をぶら下げたまま、ローエンの手の中に落ちる。
 急に軽くなった首が何だか不思議なもののような気がして、ユーリは何度もその場所を撫でた。
「………首がすかすかして…寒いかも……」
「……お身体の具合は如何でしょうな? この地は法力に満ちた場所。最初はお辛そうだったと伺っておりますが……」
「あ……そう言えば……」
 初めてこの国で目覚めた時は、確か目眩と吐き気がひどかったような気がする。
「これは、あなた方魔族の力を封じるために作られたものではありますが、同時に法力の影響からあなた方を保護するものでもあるのです。……とは申しても、それは副次的に生まれた効果ではありますが……」
「そうなんだ……」
 でも、と、ユーリは呼吸を繰り返して自分の身体の様子を確認した。
「慣れたのかな…? もう大丈夫みたいだ」
 なるほど、と頷いた大神官は、今度はヴォルフラムに視線を向けた。
「あなたの腕輪は……まだ外さずにいた方がよろしいですかな……?」
「何だと……?」
 きょとんとするヴォルフラムに、「申し訳ありません」とカインがおずおずと進みでる。
「あの……あの時にお渡しした腕輪は……その、大神官殿から渡されたものでして……」
「なっ、何ぃ……っ!?」
 目を剥いたヴォルフラムが、一瞬後、むしり取るように手首に巻いた腕輪を外すと、床に叩き付けた。
「冗談ではないっ、汚らわしい……!」
 腕輪が床を跳ねる。だが次の瞬間、何かに押し潰されるように、ヴォルフラムが床に崩れ落ちた。
「………ぐっ……ふ……っ!」
「ヴォルフっ!」
「ヴォルフラム!」
 口と胸を押さえ、上体を起こしておく事すらたちまちできなくなったヴォルフラムに、ユーリとコンラートが慌てて肩と腕を掴んで顔を覗き込んだ。
「…隊長! これ…っ」
 ヨザックが拾い上げた腕輪を受け取ったコンラートが、急いでそれをヴォルフラムの手首に巻き付ける。
「……し、眞、魔国の……ぶ、武人と……して、の……誇りが……!」
「法力にカエルみたいに潰されている方が、よっぽどみっともないだろうが。我慢しろ」
 容赦のない兄の言葉に唇を噛んで、それでも結局ヴォルフラムは抵抗しなかった。


 ようやくヴォルフラムの状態が落ち着いて、彼らはとにかく話を進めることにした。
 ここで初めて、眞魔国と新生ベイルオルドーンのトップ会談が行われる事になったのである。
 おそらくは賓客が過ごすためにあるのだろうその部屋の中央には、豪華で巨大なソファセット。
 そこに腰を落ち着けたのは、魔王ユーリと、その両側に座するウェラー卿コンラートとフォンビーレフェルト卿ヴォルフラム。彼らに相対する場所には、ベイルオルドーンの臨時の指導者となったカイン・ラスタンフェルと大神官ローエン。その隣には反乱を援助する事となり、今回のトップ会談の見届け役となった新連邦を代表して、ダード老師とカーラが座っている。その他の者は、それぞれが属する国の代表の後方に立っていた。ミゲルもまた、自らの意志で眞魔国代表一行の中にいる。

「……これまでの事、これからの事、お話せねばならん事は多々ございますが……」
 だが、その前に。ローエン大神官がそう言って、傍らに合図した。
 それを受けて頷いたロットリンが、別室に続くドアの前に立ち、それを開く。
 ドアの向こうには。
「………ベル!!」
 あの、眞王廟に仕える見習い巫女、ベルティアが、緊張した面持ちで立っていた。
 目を伏せていた少女が、ユーリの声に弾かれるように顔を上げる。
「…っ、陛下……っ!」
 一声叫んだ少女は、一目散に駆け寄ってくると、立ち上がったユーリの前に身を投げ出すようにひれ伏した。
「陛下! ご無事で、ご無事でよろしゅうございましたっ!」
「…ベル、君……声が出るんだ……」
 はい、と目を上げて答えた少女の顔は、すでに涙でぐしょ濡れになっている。ベルは何度も袖で目を拭い、それから改めて顔を伏せた。
「……だ、大神官、殿に、封印を解いて……頂きまして……」
「そっかー、よかった…」
「ユーリ」ホッとして笑うユーリに、ヴォルフラムが怪訝な声を掛ける。「…この娘は何だ? ……これは…魔族だろう…? どうしてこんな所に……」
 ヴォルフラムの声にハッと顔を上げた少女は、ヴォルフラムと、それからコンラートの姿をみとめて、緊張に身体を強ばらせた。顔からすうっと色が失われる。と、さらに小さく縮こまるように、ベルは顔を床に伏せた。
「……あの、えっとな……この子は、ベル、ティアっていってー…」
「わたくしは!」
 何とか穏便に紹介しようとするユーリを遮って、ベルが声を上げる。
「わ、わたくしは……エールベント・ベルティアと、申します。………あの……眞王廟にて、見習い巫女を勤めさせて頂いておりました。あの………」
「眞王廟の巫女だと……!?」
「では」
 驚くヴォルフラムの声に重なるように、静かな、だが重い、コンラートの声が響いた。
 既に立ち上がっていたコンラートが、ユーリを自分の後ろに押しやるように前に出る。
「お前が、裏切り者ということだな」

 穏やかな、しかし鋼のように冷たい口調に、ベルの肩が大きく震えた。
 彼女の想いを知っているユーリは、すでに剣に手を掛けているコンラートと、いつのまにか退路を断つように、少女の背後に回っているヨザックとクラリスを見て、思わず彼らの間に飛び出した。
「待って! ちょっと待って。話を聞いて、コンラッド!」
「なぜ止める!? そいつから離れろ、ユーリ! ……卑しくも眞王廟に仕える巫女でありながら、魔王を裏切るとは……恥知らずめっ!」
「だから、そうじゃなくて……っ」
 憎々しげに言い切り、ベルを上から睨み付けるヴォルフラムに、ユーリは慌てて手を振った。
「お待ち下さい、ウェラー卿! 陛下の仰せを、我々の話をどうか……」
「口を挟むな、ウォルワース。……ベイルオルドーンの罪は大宰相が一身に背負っていったように見えるが、我々陛下の臣にとって許し難い者は他にもいまだ存在している。その中でも……この巫女は……」
 床に這いつくばり、全身を細かく震わせる少女を、コンラートは冷たく見下ろした。そしてそれから、今気づいたといった様子で、剣から手を離した。
「この場で切り捨てたりなどしない。安心しろ。……我が国は野蛮な国家ではない。いかな罪人といえど、裁判もせずに勝手に処刑するなど許されない。まして他国の、このような場所でなど………。我々が帰国の折に、この娘は引き渡してもらおう。それまでそちらで責任をもって……」
「だから待ってってば、コンラッドっ!!」
 自分を無視してさくさく話を進めるコンラートに、ユーリは思わず大きな声を上げた。
「陛下……」
「このへなちょこ」
 ユーリの考えなどお見通しだとでも言いたげに、コンラートは困ったように眉を顰め、ヴォルフラムは眉を釣り上げた。
「…陛下、この際申し上げておきますが、どのような相手であろうと、哀れめばよろしいというものではないと存じます。つまり……」
「お人好しもいい加減にしろということだ」
「……陛下って呼ぶなー。それから兄弟仲良しなのは良いけど……って…じゃなくてー」
 はああーっ、と疲れたようにユーリが深ーくため息をつく。さっきから話を全然先に進ませてもらえない。

「その娘に、この度の件につきましての罪は、一切ないと申し上げる」

 唐突に、その言葉が彼らの背後から投げかけられた。
 一斉に振り向いた先に、大神官ローエンがいる。
「……どういう意味だ?」
「それも含めまして、これまでの事、そしてこれからの事、お話させて頂きたく存ずる」
 まっすぐにコンラートに視線を向けて、大神官が答えた。
「どうぞ、お座り下され」

 さくっと人を動かすのに必要なのは、冷静なことだろうか、うまくタイミングを計ることだろうか、キャリアだろうか、それとも、もって生まれた威厳だろうか…?
 ……どれを取っても、おれにはないものばかりだ。
 などということを少々情けなく考えつつも、ベルを立たせてやろうと近づいたユーリの動きは、今度はクラリスによって阻まれた。
「この巫女は、私にお任せを。陛下は何とぞあちらへ」
 隣にいたヨザックと共に、王への正式な礼を返され、それでようやく今自分が魔王として、他国のトップと会談している最中なのだという現状を再認識した。
「陛下」
 声に見上げれば、コンラッドが穏やかに自分を見下ろしている。
「お戻りを」
 ………ああ、そうか。だからコンラッドはおれを「陛下」と呼ぶんだ。
 やっぱりおれってば、頭わるい。
 眉がちょっと八の字を描いてるような気がする。
 それでも、ユーリは涙で顔をくしゃくしゃにしたベルに微笑みかけ、一つ頷いてみせると、ソファに戻った。


「……私は、このベイルオルドーンで生れ育ちました」
 大神官ローエンの話は、そこから始まった。お年もお年だし、これはかなり長くなるかも知れないとユーリは覚悟した。隣でヴォルフラムが、ふん、と忌々しそうに鼻を鳴らしている。
「我が一族は代々優秀な神官を輩出してきたことを誇りとしてまいりました。私も…法力の素質に恵まれ、当然のように神官を目指し、そして大陸で最も大きく、かつ入学も卒業も難関と名高いシマロンの神学校へ入学したのです。ダードとは、そこで出会いました」
 神学校での勉学は、何よりも先ず歴史から始まった。
 神官の一族に生まれ、知り尽していたつもりの歴史だったが、それでも己の使命感を燃え立たせるには充分な内容だった。邪悪な魔族に虐げられ続けた祖先達。そしてついに抵抗を決意し、長い戦いの後、滅ぼすことこそ叶わなかったものの、魔族を自分達の土地から追い出すことに成功した。それは神によって、世界の支配者であることを約束された人間が、ようやく本来の地位を勝ち取った瞬間だった。魔族は、あらゆる闇の眷属を引き連れて、世界の西の端に逃れそこで国を建てた。それが、戦いより数千年後もいまだ命脈を保っている、魔族の国、眞魔国である。
 世界の光という光、恵みという恵みは、人間のためにある。魔族は滅びに至る闇の種族である。
 魔族はその中に滅びの種を持ち、それを憎き人間達の中に植え付け、闇と滅びの根を人の世にはびこらせようとしている。魔族、そしてその眷属達は、邪悪の分身である。魔王はその首魁である。
 神官は、そして法術師は、よく学び、闇に無力な民を導き、護らなくてはならない。そしていつの日かくるであろう光と闇との戦いに参戦し、邪悪な魔族と戦い、勝利しなくてはならない。世界を護るために。
「疑ったことなど一度もありませんでした。疑う人間がいるなどとも、思いもしなかった。だが、その基本的な教義に、疑問を持った神学生がいたのです。それが…」
 ダードだった。


「おかしいとは思わないか?」
 友人の言葉に、ローエンは眉を顰めた。
「何がだ? それだけでは意味が分からん」
「魔族についての言い伝えだ」
「魔族?」
 そうだ、と友人、ダードが頷いた。
「魔族は悪魔で、闇の眷属で、人間の滅亡を企む危険な存在というなら、どうしてこうも当たり前に、彼らは我々の国を闊歩できるのだ? なぜ我々人間は、悪魔に対する聖戦をいつまでも実行しないんだ?」
 その通りだった。小競り合いこそ何度も起きてはいるものの、圧倒的多数であるはずの人間は、この数千年、魔族達が国力を充実させていくのをただ傍観しているだけだった。そしてまた、魔族はほとんどの人間の国で自由に行動することができた。大っぴらではないが、交易も意外な程自由に行われている。人間の国にいる魔族達は、商人であったり、旅行者であったりしたが、自分は魔族だと標榜して歩いている訳ではない。だが、その人間とはやはりどこかが違う整った風貌や雰囲気から、分かる者にははっきり分かった。
 シマロン内においても、田舎でこそ珍しかったが、都会では至る所に魔族の姿を見ることはできた。彼らの中には人間の国に住み着く者も、また人間と結婚して混血の子供をもうける者さえいたのだ。
「誰も良いことだとは思っていない。だが、今わざわざ眞魔国と事を構える状況でもなければ、その必要もないからだろう」
 だがその言葉に反応しないまま、ダードは言葉を継いだ。
「人間の国に残る、魔族の伝承について調べているという魔族と知り合ったんだ」
「何だと?」
 あっさりというダードに、ローエンは目を剥いた。
「魔族にも学者がいるのかと尋ねたら、大笑いされた。王がいて、貴族や武人もいれば、学者も医者も商人もいる。学校があれば学生もいる。家族がいれば子供もいる。当たり前だろうと言われた」
「魔族の言葉などに……」
「神学生だと教えたら、まだお伽話を真実だと教えられているのかと問われた。その男は、人間の国をあちこち歩き回って、魔族が関わっていると思われる様々な言い伝え、伝説、迷信の類いを集めているのだそうだ。いずれ本にして出版したいと言っていたが………。彼が面白いことを言っていた。伝説には必ずある特徴があるのだそうだ。それは、その物語りの元となる事実に関わった人間にとって後ろめたいこと、罪悪感があるだろうと推察できる行いこそ、華々しく美化されていて、その人間の正当性がこれでもかと語られているものなのだと。行った悪行を隠すため、また後の世に美談として残すため、様々な仕掛けが……」
「それを信じた訳ではあるまいな!?」
 思わず詰め寄って、ローエンは声を荒げた。
「神学校で教えられている歴史が、その最たるものだと彼は言っていた。真実といわれる言葉の奥にあるもう一つの真実を見抜けなくては、世界の本当の姿は見えてこない、と」
 頭に血が登るというのは、こういうことなのだろう。気がついたら、ローエンはダードの襟首を締め上げていた。だが、ダードはきつい眼差しをローエンに向けたまま、怯む様子は見せなかった。
「人間と魔族が戦わないのは、魔族が人間を滅ぼすような真似を何もしないから、戦いを吹きかける何の理由もないからではないのか?」
「……何を……」
「俺は……真実が知りたいんだ」


「……絶交しようと思いました。二度と顔も見るまいと。しかし、何と申しますか……不思議なことに、それが異端だと思えば思う程……惹かれるのですな……。それにダードは、学校始まって以来の秀才と呼ばれる程の頭脳の持ち主で、教授ですら彼の質問に窮することもありました。思想は先鋭的で、弁説は扇動的、舌鋒鋭く、学生達は次々に彼の言葉に魅了されていき、いつしか学内であなどりがたい一派をなすようになりました。教授達からは、教義に対して挑戦的な、学校に対して挑発的な言動は止めるようにと何度も警告がなされて、それでも……いやはや、実に過激な性格の男だったのですよ」

「へええーっ」
「……老師が……」
 ユーリとコンラートが同時に声を上げ、目を瞠いてソファに座るダード師の顔を見直した。ダード老師といえば、優しい、物静か、穏やか、というのが一般的なイメージだ。その証拠に、ダードの隣に座るカーラ、彼らの後ろに立っているクロゥとバスケス、そしてアリーとレイルもまた、呆気に取られた顔で旧知の老人を見つめている。
「いやいや、これは困ったのお……」
 照れくさそうに笑って、ダード師が顔を擦っている。

「ですから、彼が後に神殿を追放されたと聞いた時には、さもありなんと思いました。何せ、魔族は悪ではない、むしろ救世主だと言い出したのですからな。異端どころか、心の病を疑われても仕方がなかった。しかし……私は、それまで何度も文のやり取りをし、その思想に諸手を上げて賛同こそできなかったものの、正しいかも知れないと思っていることは自覚しておりました。なぜなら……」
 世界の自然の秩序に、綻びが見え始めてきたからだ。
 気がつかなかっただけで、それはもうずっと前から起こっていたことなのかも知れない。
 少しづつ、世界が壊れかけていることに、ローエンもまた気づき始めていた。
「それが……魔族の奸計だと思いたかった。思い込みたかった。思い込もうと必死になった…! 眞魔国と大シマロンが戦争に突入して、結果として眞魔国が勝利したものの、実際は痛み分けのような状態だったあの時。甚大な損害を蒙った眞魔国の、その頃の魔王がほとんど実権を持たず、摂政が政を私しているのも分かりました。とすれば、眞魔国の国力も低下していて、故に世界の崩壊も収まるのではないかと、わずかな期待もしてみました。だが、そんなことは全く関係がなかった。眞魔国がどうあれ、魔族がどうあれ、世界は壊れ続けていくのだと……!」
 込み上げてきた興奮を抑えるように、ローエンは胸を押さえて息を整えた。
「……だが、私には勇気がなかった…。ダードのように、真実を世に問いかける勇気が……。私のできることは、せいぜい各地各国を流浪していたダードを、陰ながら援助することだけだったのです……。そうして月日が流れ……ついに」
 ローエンの目が、真直ぐにユーリを見た。
「あなたが、ユーリ陛下が、新たな魔王として即位なされました」
 そして。

 世界は一気に変動を始めた。

「変化など欲しくはなかった。……数千年ですぞ? 数千年、何事もなくこの世は続いてきたのだ。神官も法術師も、そしてまた魔族も、ずっとそれまでの自分達の教えを、言い伝えを信じて、自分達の生活を続けてきた。それで何も起こらなかったのだ。数千年、世界は平和に成り立っていた。それがどうして、今頃になって、この私が大神官を勤めているこの時代になってこんな……っ!」
 ローエンが両手で顔を覆う。掛ける言葉もなく、ユーリは老人の悲嘆を見つめていた。
「先人達と同じように、私も教えられてきたことを、何の疑いもなく信じていたかった。それで民を救えるのだと、導けるのだと、これこそが真実で、最も正しい道で、信じてきた教えを全うすることで世界は完成するのだと、ひたすらに信じて道を歩みたかった…! 何故だ。何故私は、無知のままでいることが許されなかったのだ……? 知りたくはなかった。一族の、私が知る多くの先人達の全てが間違っていたのだと、私達の存在こそが悪なのだと、私達こそが世界を滅ぼす元凶なのだと、そんな事をどうして、どうして今頃……っ!」
「……ローエン……」
 ダード師が、顔を覆ったままついに肩を震わせ始めた旧友の肩を抱いた。その温もりが届いたのか、ローエンは数回深呼吸を繰り返して、それからそっと目を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
「……年がいもなく……お見苦しい様をお見せ致しました……」
 ローエンがほう、と息をつく。
「大宰相から計画を持ちかけられた時、すでに私は、あの男が口に出した言葉とは違う企みを持っていることに気づいておりました。しかし、私はあえてそれに乗った……。人間の国が、次々と魔族と友好を結んでいるのは何故なのか。大シマロンの荒れ地は、本当に蘇ったのか。そして何より……魔王がどんな存在なのか……。ダードから様々に聞かされていたものの、私はどうしてもこの目で、己の感覚であなたという人物を確かめてみたかったのです。それで、大宰相の言葉に従い、神殿からも法術師達を送り込みました。眞魔国からの使節団が入っているという大シマロン、いいえ、新連邦に」
 コンラート達がハッと顔を上げる。ローエンの視線がベルに移った。
「この娘には、一切の罪科はございません。この企みに加担した者として、これだけは申し上げておきまする。魔王陛下はもうご存知のようですが……我々はまだ未熟なこの娘に術をかけ、我々の人形に仕立てたのです」
「人形だと!?」
 ヴォルフラムが声を荒げる。
「ええ、そうです。我々はどうしても魔王の秘密が知りたかった。魔族の国にも神殿があり、巫女がいるという事実には驚きましたが……」
「神殿ではない! 初代、健国の王がいます廟だ!」
「そのようですな」ヴォルフラムの怒りの声を受け流して、ローエンが頷く。「そのような場所に仕える巫女ならば色々と奥の事も知っているだろうと思われました。正規の巫女に近づくことはなりませんでしたが、この娘は見習い巫女。細々とした雑用もこなし、人間達と混じって働いておりました。我々の間者はこの娘に目をつけ、親しく言葉を交わすようになり、やがて機をみて術を掛けました。そうして、陛下の秘密─異世界とこの世界を行き来しているという情報を引き出したのです。怖れながら、陛下のお身体の事もその時に……。そして娘には、帰国の際は異世界を行き来する仕組みを探り、全ての情報を我々に渡すようにという暗示を掛けました。……魔力は持っているようですが、彼女がいたのは人間の土地。我々の間者は複数で、そろいも揃って強力な術者。抗う術などあろうはずもございません。この娘は、己の意志を持たない完璧な人形となったのです。後はこちらの命じるままに……。情報を引き出すためにこの国に連れてこられた後に暗示が解かれましたが……己の仕出かしたことの恐怖と罪悪感に責め苛まれたのでしょう、陛下がおいでになるまでほとんど泣き暮らしておりました。後は……陛下がご存知の通りです」

 ユーリとコンラートとヴォルフラムが、項垂れて立ち尽くすベルに顔を向けた。ベルの傍らに立つクラリスとヨザックも、どこか痛ましげに少女を見つめている。
「……そうか。裏切ったのではなくて、操られていた訳か……。ユーリ! 知っていたのなら、どうしてさっさとそれを言わないんだ!?」
「あのなーっ!」
 声を上げながらも、ユーリは内心ホッとしていた。ローエン大神官が、どうしてベルがたやすく操られてしまったのか、地球の事をいつ口に出してしまったのか、そんな細かいことを一切言わず、全て自分達の罪であるとして、ベルの無実を主張してくれたからだ。
 ユーリは、さりげない感謝の気持を込めて大神官に視線を向けた。

「なるほど……」コンラートが頷く。「それならばこの娘はむしろ被害者だな。意志に反して罪深い行為を繰り返させられ、拉致同様に他国に連れ出され、己を取り戻してみれば、すでに罪人となった自分に気づかされる………つくづく罪深いことをする…」
 コンラートの言葉に、大神官も「確かに」と頷く。
「……更に、余計なことを喋らぬようにと言葉まで封じられました。だが、陛下がこちらにおいでになってからは、懸命にお仕えしていたようですな」
「そう! そうなんだっ!」
 勢い込んで、ユーリは言葉を挟んだ。
「あのなっ、ベルは、呆然としてたおれを一生懸命世話してくれて、毒味も全部自分でしてくれて……そうだっ、暗殺されかかった時も、剣とおれの間に身体を投げ出して、おれを全身で庇ってくれたんだよ!」
 必死で言葉を綴るユーリに、「魔王に仕えるものならそれくらい……」と言いかけるヴォルフラムを視線で制し、コンラートは立ち上がった。
「…ベルティア、と言ったか?」
 コンラートの問いかけに、ベルがぴくんっと身体を跳ねさせた。それを見て、コンラートが申し訳なさそうに微笑む。
「さっきは…分かっていなかったとはいえ、申し訳ないことをしたな。ただでさえ辛い心境だっただろうに、余計に傷つけるようなことを言ってしまった。……済まなかった」
「いっ、いいえ!」
 軽く頭を下げるコンラートに、ベルは全身を振って否定を現す。
「いいえっ! わたし、だって…わたし……あのっ、わたし……っ」
 それ以上何の言葉にもならず、ひくうとしゃくり上げた後は涙を流し続ける少女の肩に、クラリスがそっと両手を乗せる。何かを囁きかけられ、うんうんと頷くベルを見ながら、コンラートはソファに腰を下ろした。隣で、ユーリがホッとした顔で嬉しそうにコンラートを見上げている。
「ありがとな、コンラッド」
「いいえ。悪いのは俺ですから」
 微笑みあう二人の隣で、ヴォルフラムが「やれやれ」とわざとらしいため息をついた。



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先を急ぐ余り、いい加減にやっつけてしまうのはよそう。
と思ったら、また……。
考えてたサブタイトルに、全然行き着かないしー。
でも、後1話。……か、2話!

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