宴の前の嵐・14 |
穏やかに静まった神経を引っ掻くような、それは悪意に満ちた声。 部屋にいた者の視線が一斉に集中する。その先に、大宰相ガヤンがいた。 大宰相は、ソファに深く座り、だが腹を抱えるように身を捩り、顔を片手で覆って……笑っていた。 低く、何かを呪う様に嘲笑っている。 「…くくっ、くくく…くははははは……っ!」 「ガヤン殿!」 叱り付ける様なロットリンの声に、ぴたりとガヤンの笑いが止まった。 だが、顔を覆う指の隙間から、鈍く重い光を放つ瞳が彼らを睨み据えている。 「……どいつもこいつも……茶番を演じるのが上手いことよ……!」 誰かが鋭く息を吸う音が響く。 「魔族と人間が友情だと……? 馴れ合うて見せる姿がどれほど見苦しいか、貴様ら少しも分かっておらぬようだの! ……いやはや白々しい。さすがは魔物の王。そして、さすがはかの国を滅ぼした奴輩だけのことはある。…いい加減にするがいい。浅ましい根性が透けて見えるぞ!」 「いい加減にするのはあなたの方だ!」 顔色を変えたカインが、怒りを露に父親の前に立ちはだかった。 「……一体いつから…」懸命に心を鎮めようと、震える口元から大きく息を吐き出すカイン。「いつから…そんな卑屈な、捻じ曲った心根の持ち主となってしまわれたのだ……っ!?」 カインは父に迫るように近づくと、拳を握って見下ろした。 「あなたの……民を思うお気持ちは本物だったはずだ。私の知っているあなたは、己を甘やかす贅沢には一切目を向けず、ただひたすら国を豊かにし、他国の侵略を受けて民や国土が傷つく事のないよう、民が飢えることのないよう、いつも必死に政務に打ち込んでおられた。あなたが1年で最も嬉しそうに頬を綻ばすのは、作物が豊かに実った年、民達が盛大に行う豊作の祭を見物に行く時だった……。農民達に混じり、粗末な椀で濁った酒を飲み、誘われるまま、無器用に踊りの輪に入り、そして……」 辛そうに目を閉じ、カインはまた一つ、今度は哀しげな息をついた。 「『この国に生まれて良かった。民に、そう思ってもらえる事こそ、政に携わる者の歓びだ。人の上に立つ者に特権や贅沢が許されるのは、それ以上に重い責任と義務を遂行せねばならんからだ。そなた達もこの国の指導者の1人となるからには、やってよい事よりも、やらねばならん事を、先ず第一に考えるのだぞ。……だがな、その責任も義務も、重くはあるが、辛いものでは決してない。民の笑顔、感謝、尊敬といった、金や宝石や美麗な屋敷といったどんな贅沢よりも価値のある、素晴しいものが与えられるのだからな!』……いつかのあの時、祭の帰り道、私と兄上の手を引いたあなたは、私達にそう話してくれた。私達にゆっくりと語りかけてくれるあなたの……あの夕焼け色に染まった笑顔を、私は今も忘れる事はできない……!」 カインは泣いているのだろうか…。 ユーリには、彼の背中しか見えない。初めて会った時よりも、ずっと広く、堂々として見える背中に震えはない。しかし、両脇に垂らし、強く握りしめられた拳の関節が白く浮き上がっているのを、ユーリはしっかりと見ていた。 『特権や贅沢が許されるのは、それ以上に重い責任と義務を遂行せねばならんからだ』 『国の指導者となるからには、やってよい事よりも、やらねばならん事を先ず第一に考えよ』 『民から与えられる、笑顔、感謝、尊敬は、どんな贅沢よりも価値のある、素晴しいものだ』 「…………立派な人、じゃん……」 その当時、ガヤンは第一位の王位継承権を持つサリィの夫で、トップクラスの権力者だったはずだ。 その人が、王子様である息子達の手を引いて、農民達の祭に混ざりに行ったり、一緒にお酒を飲んだり躍ったり……。 「王宮の中だけで成長すると、『民』というものが、時として血も温もりもない『道具』か、もしくは単なる『数字』としか思えなくなる王族もいます。……彼は息子達に、生きている民の姿や思いをしっかりと理解できる支配者になって欲しかったのでしょうね」 ユーリの呟きから、その思いを的確に受け取ったコンラートが囁いてきた。うん、と頷いて、ユーリは再び大宰相とカインの背中に目を向けた。 そんな立派な人だったのに。 天の理、地の理が崩れ、国土が壊れていく。人為の及ばぬ滅びの前では、どれほど有能な為政者であろうとも、できることなど何もない。その圧倒的な力に、大宰相の心が負けてしまったのだろうか。 知恵も努力も、何もかもが間違った方向へ捩じ曲ってしまったのだろうか。 「……あなたが、魔族と真剣に友好を結ぼうとさえしてくれたら……こんな事態には至らなかった……」 「…………誰が魔物風情とっ!」 「魔物魔物って、いい加減にしろよなっ!」 気がついたら。 ユーリは前に進み出て、思いきり大宰相を怒鳴りつけていた。 ベイルオルドーンの国内事情、というか、親子の会話に口を挟んじゃいけないと、大人しくしていたのにこの有り様。カッとなると後先考えない相変わらずな自分に、思わず心の中で深いため息をついたがもう遅い。一瞬の後悔と、背後から聞こえてくる複数の声を振り捨てて、ユーリはキッとガヤンを睨み付けた。 「あんた、立派な人だったんじゃないか! 国民を本当に大事にする、立派な人だったじゃないかっ。なのに、何だよっ。どうして魔族のこと、そんな風に決めつけるんだよ!? どうしてもっと公平な目で見てくれないんだよっ!? あんた、眞魔国がどんな国か知ってるのか? 魔族が何を考えてて、毎日をどんな風に暮らしてるのか、ちょっとでも知ってるって言えるのか!? 友好条約結んでも、あんた達は全然何にも知らないんだろうっ!?」 ユーリは一度きゅっと唇を噛むと、また口を開いた。 「………あんたは、おれの力が欲しいって言っときながら、おれと話そうとはしなかった。おれって存在も、全然見ようとは、理解しようとはしなかった。ただ……力だけを欲しがって……。どうしてだよ? どうしてあんたは……」 「おかしな子供だ」 言葉半ばで、きょとんとユーリは目を瞬いた。目の前に座る男の、本当に不思議そうな表情に、興奮が一気に冷めるような気がする。 「………え?」 「家臣とも会えたのだろうが。この国は、逆族と新連邦の侵略に会うて混乱しておる。まあ、新連邦の影にはお前達魔族の意志も関わっているのだろうが。……拉致された報復というなら、そのあたりに任せておればいいものを、なぜお前はここにいるのだ? お前の家臣共は、大切な王をなぜ危険なこの地に連れてきたのだ? そのような貧しげななりをしてまで…。なぜさっさと新連邦なりどこなり、安全な場所に逃れなんだのだ? 部下に命令を下すなら、その地からでも充分できたであろうに……」 本心から不思議でならないと思っているらしい大宰相は、言いながら首を捻っている。 思わず「うー」と唸ってから、ユーリはぶんぶんと首を振った。あらためて腹に力を込める。 「そういうの、おれは嫌なのっ!」 「…………いや…?」 そうっ、と思いきり大きく顔を上下させるユーリ。 「大切な人達が危険な場所にいるのに、自分だけ安全なトコに逃げて、そこから命令だけ出すなんて! そういうの、おれの趣味じゃねーのっ! それにっ」 ユーリはビシッと大宰相に指を突き付けた。「人を指差しちゃいけません」はこの際なしだ。 「おれはっ。あんたとも、それから大神官とか神殿の人達とも、きっちりケリをつけたかったんだよ!」 「けり……」 分からん、とガヤンが更に首を捻る。 「だから報復なら……」 「じゃなくてっ」ユーリが叫ぶ。 「おれのコトだけじゃなくてっ。眞魔国のコト、魔族のコト! おれ達が何を思って、何を願って生きてるのか、人間達とどんな風にやっていきたいって考えてるのか、世界をどうしたいって思ってるのか、とことん徹夜してもいいから話し合って、勘違いとか、誤解とか分かってもらって、しっかりきっちり理解してもらいたいって言ってるんだよっ!!」 ぱちくりと。ほとんど間抜けと評してもいい程の顔で、大宰相がユーリを見上げていた。 「…ほ、ほう……ふ、ふふ、ふはははは……」 どこか力の抜けた笑いが、大宰相の口から押し出されるように洩れてくる。 「何だよっ」 「…………本気で言っているのか?」 「本気だっ」 「お前達が何を考えているというのだ? どのような存在だと?」 「人間達と何も変わったりしてねーよ! 朝起きて、朝食食べて、仕事や学校に行って、帰ってきたら家族でまたご飯食べて、お風呂に入って寝て! 丸っきりふつーの生活してるよ! どんな存在も何もあるもんかっ。でもって! 争いがなければいいと思ってる! 戦争はもう二度としたくないって、世界がずっと平和であるようにって願ってる! 魔族だ人間だってのに関係なく、仲良く暮らして行けたらいいって思ってる!」 「それを信じろと?」 「事実だ!」 「それを儂らが信じてどうなる?」 「やり直せる!」 ユーリの言葉に、ガヤンの目がふと細く光った。 「………やり直す……?」 そうだ、とユーリが頷く。 「もともと眞魔国とベイルオルドーンは友好条約を結んでいるんだ。それを本物にしたい。使節を送ってくれ。そして眞魔国がどんな国なのか、きっちりと理解してくれ。それからおれ達は、この国の荒れた大地が少しでも回復するように協力する。……呪文一つで一気に緑が蘇るなんて思ってもらっちゃ困るけどさ。でも、確実に少しづつ蘇らせていく方法がある。それをちゃんと分かって貰えたら、神殿とも協力して、できる手助けをする。………友好国として、もう一度最初からやり直してくれ」 そう言って、真摯な眼差しを送るユーリを、大宰相は無言のままじっと見つめていた。だが、突如「…くくっ」と小さく吹き出した。 「………それを儂に言ってどうする」 「だってあんた、大宰相だろ?」 さらりと答えるユーリに、大宰相の視線が厳しくなる。 「あんたがこれからどうなるかなんて、おれは知らないよ。この国の問題なんだし。でも、今現在は、あんたがこの国の最高権力者だ。そうだろ? だから、眞魔国の王としてあんたに頼んでるんだ」 「……………報復はどうなった…?」 「そんなん、何の意味もねーだろ。おれはこうして無事に生きてる。国の仲間とも合流できた。問題なし! 後は、すれ違った二つの国の付き合いを、ちゃんと修正していくだけ。それだけだ!」 言い切ったユーリの周囲から、複数の「陛下…」、「ユーリ…」と言う声が湧き上がった。 幾つかは、感に堪えないといった風の、感動とか歓びの感情に溢れた声だったが、更にいくつかは、呆れたとか、やれやれとか、「あーあ」といった諦めの境地に至った声のようでもあった。 「………くっ、くくっ、は…はは……は……っ」 今度こそ我慢できないといった風に、ガヤンが吹き出す。 わっはっはっは、と、腹を抱え、ソファに転がるように笑う大宰相に、ユーリが「何だよっ」と、憮然と頬を膨らませた。 「……はっ、ははっ………こっ、こんな子供がっ……こんな……これが一国の王とは……!」 「貴様っ、我々の王を侮辱するかっ!」 ユーリの背後から、ヴォルフラムが怒りの声を上げる。だが大宰相はそんなヴォルフラムを、哀れむように見遣った。 「儂はお前達のために言っておるのだぞ…?」 「……何だと?」 「こんな」ガヤンがまじまじとユーリを見直す。「このような事を本気で考えておる王に仕えていては、命が幾つあっても足らんわい」 その言葉に、ユーリが「う」と怯む。 「なあ、おぬし」ガヤンがどこか父親めいた表情と声で、ユーリに話しかけた。「理想を持つのはいい。寛大であるのもいい。王としての素質というか、素材としては、中々悪くない。だがなあ。……理想だけを求めて中道を知らず、赦すばかりで罰することを厭うていては、王として半人前ですらないぞ? お前がこのまま成長せずにおれば、お前の家臣が蒙る労苦は並み大抵ではあるまい。理想主義に凝り固まった王など家臣にとっても民にとっても迷惑千万! それにしても……聖者と呼ばれたがる魔王がいるとは思わなんだのぉ。……気の毒に。家臣は忠義を尽そうと思えば思う程、悪名を一身に被らねば、国は一切立ち行かなくなるわ!!」 怖じ気づく。 自分は今、そういう状態なんだろうと、ユーリは頭の隅でぼんやり思った。 自分のすぐ後ろに入るコンラッドの気配が、何故かひどく重く感じられる。そしてまた、今国で国政の一切を処理しているであろうグウェンダルやギュンターの顔が、くっきりと目の前に浮かび上がる。 おれは聖者なんかじゃない。そんな風に呼ばれたいなんて、これっぽっちも思ってない。自分1人、いい子になりたい訳じゃ絶対にない。 でも、自分が口にするのは甘い理想論ばかりで。なのに、いつも誰かがそれを実現しようと頑張ってくれていて。 宰相フォンヴォルテール卿。王佐フォンクライスト卿。そして……ユーリの理想のために、反逆者の汚名をあえて被ろうとしてくれたウェラー卿コンラート。 なのに。 いつも自分は、自分だけは護られていて……。 言い返せない自分をはっきりと自覚して、ユーリは狼狽えるように視線を逸らした。だが。 「それが苦労だなどと、ただの1度として思った事はない」 ふいに耳に流れ込んできたその言葉は、一筋の光のように、ユーリの胸に一直線に飛び込んできた。……温もりと共に。 「魔族も人間も、皆が打ち解けあい、心から理解し合い、対等に、平等に友好を築き、永遠の平和と繁栄を共にする。………確かに、甘い夢だと言われるかもしれない。しかし、夢を夢だと切り捨ててしまったら、その先に何が生まれるというのだ? 陛下の理想は、確かに夢だ。だが同時に、未来への確かな希望でもある。それがどれほど厳しい道のりでも、歩むに難しくとも、俺は夢と希望を実現させる道を諦めたくはない。だから……そのために被る苦労なら、それは苦しみじゃない。むしろ、歓びだ」 「…………コンラッド……!」 振り返った先で、コンラッドが優しく微笑んでいる。頬と目蓋の裏がじんわりと熱くなってくるのを感じながら、ユーリは満面の笑みで愛する人を見上げた。 ちょっと駆け寄って抱きつきたい。やっと会えて、堪え性がなくなっているみたいだ。けれど、いくら何でもそれはまずいと自重して、ユーリは一生懸命動きそうになる足を踏ん張った。 「…これはこれは……」 嘲笑を交えながらガヤンが言う。 「おぬし、名は?」 「ウェラー卿コンラートという」 ほう! と、ガヤンが目を、どこかわざとらしく瞠いた。 「かの有名な、魔族の英雄殿か! 大シマロンの叛徒共をけしかけて、反乱を起こさせた手腕、中々お見事だった! …いや、さすがは魔族。人の心の闇を突き、悪心を起こさせる技は大したものよな」 「私達の行動は闇から生まれた訳でも、悪心から起こった訳でもないっ!」 カーラが前に飛び出すようにしながら叫んだ。アリーとレイルもそれに続く。 「僕達は僕達の正義を貫き、そのために戦ったんだ。そこには善も悪もない。だが、大シマロンに支配されていた民達は、間違いなく僕達を支持してくれた。その声を背負って戦ってきたと、僕達は胸を張って言うことができる! 勝手な理屈で、僕達を、新連邦として蘇った国と民達を、侮辱する事は許さない!」 「その通りよ! それから言っておきますけどねっ。コンラートは魔力なんて使わないわ。彼がくれたのは、希望よ! 決して夢を潰やしてならないという決意よ!」 「そしてユーリは」カーラが、笑みを浮かべてゆっくりと口を開く。「夢が花開く姿を目の当たりに見せてくれたわ。その歓びもね。……あなたはそれを力づくで奪おうとした。そんな必要はこれっぽっちもなかったのに。ほんの少し、見る目を変えるだけでよかったのに。本当に……」 気の毒な人ね。 カーラの最後の言葉は、ほとんど小さな呟きだった。だが。 「私のせいですね」 何の気負いも衒いもなく、そして怖じ気づいた風もなく、静かな確信だけが満ちる声。 すっと、部屋の中に柔らかな風邪が吹いたような気がして、ユーリは声の主に顔を向けた。 「……サリィ様」 「私の、不実な行いが、あなたをこれ程までに傷つけ、苦しめ、そして狂わせてしまった……」 ユーリの呼び掛けに答える事もなく、サリィはじっとかつての夫を見つめていた。 「全て、私の責任です……。あなたの事も、そして……テランの事も……」 「思い上がるのは止めてもらおう!!」 いきなりの大声に、ユーリは思わずビクリと身体を竦ませてしまった。すかさず、後ろからコンラートの腕が回り、彼の胸元に引き寄せられる。背にあたる確かな感触に、ユーリはホッと息をついた。 「…………ガヤ……」 「たかが尻の軽い小娘の火遊び如きで、この儂が道を誤ると本気で考えているなら、とんでもない思い上がりだぞ、サリィデラノーラ!」 「…っ! 母上に何と……っ!」 咄嗟にミゲルが飛び出し、母を庇うように彼女の前に立つ。だがサリィは末息子の腕を優しく押さえると、確固とした足取りで前に進み出た。そして、やはり止めようとするカインをも押し止め、ガヤンの真正面に立った。ソファに座ったままで、ガヤンがサリィを見上げる。 「許しを願うつもりはありません、ガヤン。乞うて許される過ちと、許されない過ちがあります。私の行いは、許しを乞うべきものではない……。それでもあれは……」 サリィは目を伏せて、何かを思い出すようにふと微笑んだ。 「幼い、あまりにも幼かった私の、初めての、それでも本物の、恋、でした……」 じっとサリィを見つめていたガヤンが、ふいと顔を背けた。 「確かに……幼かったな、あなたは……」 大宰相の意外な程穏やかな落ち着いた声に、ユーリはハッと顔を上げた。 微笑みを残したまま、サリィが頷く。 「己がどういう立場にあるのか、何を背負っているのか、あの頃の私にはそれが全く分かっていませんでした。身分も王位継承権の第一位という立場も、物心ついた頃には当たり前に私のもので、意味もろくに考えていませんでした。あなたの…妻であるということも、そして子の母であるということも……」 サリィの視線がふと遠くを見た。 「あれは、心の幼い娘の遊びでも、気の迷いでもなかった。私は真剣にあの人を愛した……。でも、そのために私は、自分が何を天秤に掛けようとしているのか、全く分かっていなかったのです……」 「後悔しておられるのですか!?」 切羽詰まった、ミゲルの叫びが部屋に響く。 「私を……お産みになったことを……」 「馬鹿な事を言ってはいけません」 静かな声で、サリィが息子を嗜める。 「真剣に人を愛した事を、そしてその結果としてあなたを産んだ事を、私は後悔してはいません。ミゲル、あなたが生まれて、私は本当に嬉しかったのですよ? 私は心からあなたを愛していると、どんな場所であろうとも、堂々と胸を張って言う事ができます」 「……母上……」 「でもね」サリィが哀しげに目を伏せる。「私の行動のために、両親やたくさんの人達を傷つけ、苦しめてしまった事には、心底申し訳なく思っているわ。……あの頃は、人を愛した自分の感情が一番大切で、他の事は見向きもしなかったけれど……。後悔するとすれば、それは愛したことでもなく、あなたを産んだことでもなく………」 しばし瞑目したサリィは、やがてクスリと笑ったかと思うと、ガヤンに笑みを投げかけた。 「ねえ、ガヤン。私と乳母とあなたしか知らない事だけれど、私、もっとすごい事を仕出かそうとしたのよね? 覚えていて?」 サリィの言葉に、ガヤンが小さくため息をつく。 「全く、とんでもない女だとほとほと呆れ返ったな。……あなたが言っているのが、あの雪の夜の事ならば」 ええ、そうよ、とサリィが頷く。 「私、大きなお腹で、荷物を抱えて、ベイルオルドーンを出奔しようとしたの。吹雪の夜にね。……眞魔国へ渡ろうと思って」 「しっ、眞魔国へ…っ!?」 「まことですか、サリィ様!?」 ユーリ達やウォルワースまでもが驚きの声を上げる。彼らの様子に、サリィがころころと笑った。 「そうなのよ。だって、魔族と人間の国の状況は悪くなる一方だし、早くしないとあちらへ行けなくなるんじゃないかと思ったの。眞魔国へ行って、あの人の押し掛け奥さんになって、子供を産もうって。……テランやカインには悪いと思ったけれど、二人には私の両親も立派な父親も入るんだから大丈夫って思ったのね。今思えば本当に勝手な思い込みなのだけれど。………あちらから追い返されないようにって、嫁入り道具代わりのドレスとか宝石とか、とにかく持っていける金目のものを片っ端から馬車に積み込んで、吹雪の夜に飛び出したのよ。………若いってすごいわねえ」 「……すごいわねえ…って……」 「押し掛け奥さん……」 「……嫁入り道具ですか……」 お腹の大きなサリィが、肩にひっ担いだでっかい荷物を「そおれっ」と馬車の中に放り込んでいるというあり得ない姿が頭に浮かんで、ユーリは思わず天を仰いだ。……なぜかサリィの顔がマルゴに変わっている。 「でも、乳母がすぐにガヤンに報告してしまって。あっという間に捕まっちゃったの」 「……当然だ。そのままだったら、翌朝には間違いなく凍死体が一つできあがっていた」 「本当にね」 軽やかにサリィが笑う。しばし呆然とその姿を見つめる人々。 やがてサリィがふうと小さな息を吐いた。 「ガヤン、あなたは……あの頃から、ミゲルが自分の息子ではない事を知っていたのよね?」 ハッとミゲルが顔を上げ、大宰相をまじまじと見つめた。 「もしも、ミゲルの成長が人間と変わらずにいたら、あなたは誰にも何も告げないまま、ミゲルを息子として育てるつもりだったのでしょう?」 「………父上……?」 驚きの表情を浮かべて、カインが思わずガヤンを父と呼び掛けた。 「……………知らんな」 そっぽを向いたまま、ガヤンが答える。 「本当の事が分かって以降、幽閉と称して、あなたは私とミゲルをあの離宮で保護してくれた。あなたの護りがなければ、ミゲルはとっくに殺されていたわ。……ベイルオルドーンの王家の血筋に魔族の血が混ざった事を、何よりおぞましく思っていたのはあなたではない、私の……両親だったのだもの…」 「……母上……それは……」 「少しづつ分からないように離宮に手を入れ、暮らしやすくしてくれたのもガヤン、あなただわ。人手も食料も、暮らしに必要な全てのものを、あなたはそれと分からないように密かに手配してくれた」 「………都合のいい様に思い込んでもらっては困るな」 「そうでなければ、ミゲルの側にローガンがいられるはずがないもの。ローガンは陰に日向に、私達を助けてくれた。ミゲルのことも、隠す事なく庇ってくれたし、剣の修練や、学問にも気を配ってくれた。表向きの態度を貫くなら、あなたはローガンを私達から引き離し、罰を与えるはずでしょう?」 「ローガン・ウォルワースの実力も人望も、並み大抵のものではなかった。簡単に罰を与えては、軍の士気にも関わる。慎重を期しただけだ」 「慎重を期すのも、ちょっと長過ぎるわね?」 楽しそうに笑うと、サリィはガヤンの前に膝を着いた。そして節くれだった男の老いた手に、そっとその白い手を乗せた。ガヤンの手が、ぴくりと震える。 「……ミゲルを、眞魔国へ使者として送ってくれたのも……、それで役目を果たせれば、ミゲルの立場も良くなる。そう考えてくれたからでしょう?」 今度こそ、ミゲルは目を大きく瞠いて、かつて父と呼んだ男を見た。誰より最も憎まれていると、そして自分もまた憎んでいると、信じ続けてきた相手だ。 「………穿ち過ぎだな」 「ありがとう、ガヤン」 「だから…。勝手に思い込んだ挙げ句に礼を言われても困る…!」 そう言ってサリィの手を振り払い、さらに顔を背けるガヤンの態度は、もうほとんど照れ隠しにしか見えない。 「お側にいさせて下さいね、ガヤン」 囁くようなサリィの声に、ガヤンがハッと顔を戻した。カインも母を凝視している。 「あなたが、これからどのように裁かれるのか、私には分かりません。カイン達が」サリィがちらと息子を見遣る。「…あなたをどうしようと考えているのかも…。でも……魔王陛下もあのように仰って下さいましたし、もし罪を償うことで許されるなら……その場が例え牢獄であろうとも……私は、これからあなたとご一緒させて頂きますわ」 「………サリィ………」 再び自分の手を取り、それを胸元に引き寄せて微笑むサリィに、ガヤンは唸る様に声を上げた。 「あの頃の私は、自分が背負うものの重みを分かっていなかった。感情のままに突き進む事が許されない立場にある事を分かっていなかった。その分別を、私はつけることができなかった。そんな私を護ってくれたあなたの大きさを、私は理解できなかった。私が心底悔いているのは、私自身のその幼さと未熟さ、未熟であった自分自身です。……過去を、過去の想いを否定することはできませんが、あなたが許して下さるなら、これから先の人生、お供させて下さいな」 人ってすごい。 ユーリは半ば呆然と、大宰相とサリィを見つめていた。 「……人って……人の心って…ものすごいよね」 愛して、憎んで、怒って、泣いて……笑って。燃えて、溶けて、ぐちゃぐちゃになったものがいっぱい詰まってて、でも心は、魂は、折れない。斃れない。輝く事をやめない。だから。 「おれは……信じることを、やめられない……」 ユーリの背後から回された腕が、ぎゅっと強くユーリを抱き締めた。その腕を、ユーリもしっかりと抱き締める。出会って、愛して、愛されて、人生を共にできることがどれほどの幸運か、どれほどの奇跡に恵まれた結果なのかを、しみじみと実感しながら。 「サリィ」 これほどまでにと驚く程優しい目で、ガヤンはサリィを見ていた。そして手を伸ばし、両の掌の中で、愛おしそうにその頬を撫でる。 「ガヤン…」 自分の頬を包む乾いた手に自分の手を重ね、サリィは笑顔を向けた。 ガヤンが一つ頷く。 「そう……。そうやって笑っておられよ」 「………ガヤン…?」 ガヤンがサリィから身体を離した。 あまりにも自然な動きだったが故に、誰も足の一歩も踏み出すことはできなかった。 ガヤンは穏やかな表情のまま、自分の指に嵌っている大きな宝石が埋め込まれたリングを玩ぶように弄りながら、再びサリィに笑顔を向けた。それは、あまりにも穏やかな優しい笑顔で、人々の目には大宰相が突如急激に老いさらばえたような印象を与えた。 そうして、ふと何気なく上がった手の、指に嵌められたリングにはなぜか宝石がなく……。 「…っ! 止めろっ!」 誰かの叫び。だがほとんど同時に、ガヤンは指輪の中に隠されていたものを呷り、そして飲み下した。 「ガヤンッ!!」 どさりと、ソファの背もたれに身体を投げ出したガヤンに、サリィが抱きつく。 「ちっ、父上!」 「ガヤン殿!!」 一斉にソファの周りに集まる人々。 「うろたえるな!」 大宰相らしい一喝に、ハッと人々の動きが止まった。 「……儂は憶病者だからな…。これはそう苦しい薬ではない。利き目もゆっくりだしな……。カイン、裁判ができずに残念だったな。だが儂は、結果の決まった裁きの場などで、生き恥をさらすつもりはない」 「父上……」 「待って! おれが……」 人々をかき分け、ユーリが前に出てくる。 「毒を飲んだんだよな? 待って、やってみる。おれの力で毒の効果を……」 「無用!」 鋭いガヤンの言葉に、ユーリはキッと眦を上げた。 「何が無用だ、バカヤロー。死んでいいことなんか全然ないんだゾ! これ以上サリィ様や皆を悲しませ……」 「だから先の見えん子供は困る」 「…な…っ!?」 「……魔王を勾引し、監禁し、その力を思いのままに操ろうとした。そのような暴挙を企たからには、この命、引換えにする覚悟は元からつけておったわ。それに……」 ガヤンはカインを見上げた。 「この計画を企てたのは一国の主。事破れたからには、眞魔国と戦をして勝つか、もしくは罪を認めて謀の張本人を差し出すか、それ以外にベイルオルドーンが生き残る術はない。……反乱という形をとったのは良かった。これで、新しい国の主導者はこの度の謀に一切関わりがないことを主張できるし、何よりも国を傾けようとする悪を討つという大義名分が成立する。故に、ベイルオルドーンには傷がつかん。実に…良い手であったぞ、カイン」 「……ちち、うえ……」 「だが、その形を最後まで一つの瑕疵もなく成立させるには……儂は死なねばならん」 「ま、待てよ!」我慢ならないとユーリが叫ぶ。「どうしてそうなるんだよ! おれが…攫われたおれが許すって言ってるんじゃないかっ!!」 はあ、と大宰相が呆れたようなため息をついた。 「まったく、どういう教育をしているのだ、眞魔国の者は。……おまえが許す許さぬという問題ではないのだ。これが、国が国を相手にするということなのだ。おまえ個人の満足など、何の意味もない。もし、儂が死なねば、カインの大義名分はあやふやなものになる。親子である以上、反乱など上っ面だけの事で、実は裏で儂と繋がっているのだろうと、疑われるのは必定ではないか……」 「そんな事おれは……」 「おまえが信じようが信じまいが関係ない、のだ…。眞魔国という……国が…。新連邦、が……。そして…世界が……カインを、ベイルオルドーンを信用の置けぬ国と……疑いの目で、見るだろう。それだけは……何としても、避け、なければ………」 うむ、と大宰相が唸った。 「そろそろ…効いてきたよう、だの……」 「ガヤン! ガヤン……いいえ、世界にどう思われようと構いません! 生きて下さい! ユーリ陛下、どうか……」 「いらぬ世話だ、サリィ!」 大宰相の声に、サリィの瞳から涙が零れ落ちる。 「魔族は悪魔! 魔王は人間を闇に陥れようと画策する悪の帝王! 誇りある人間として、そのような悪鬼の力を借りてなるものか!」 怒鳴るように一気に言い切ると、大宰相ガヤンは、愕然と目を瞠るユーリを見上げて、にっと笑った。 「……これが……ベイル、オルドーン、大宰相たる儂の……最後の矜持、だ……。儂は、魔族嫌いの、頭の固い、悪党、だからの……」 大宰相の、ユーリに向ける瞳が力なく、だが穏やかに瞬く。 「悪党を悪党のままに………最後まで……貫かせてくれ……」 細かく震え始めたユーリの肩に、コンラートの手が置かれる。 彼らの見ている前で、ガヤンの手が、そっと何かを求めて彷徨った。その手を、サリィが包み込む。 大宰相が笑った。 「……儂は、あなたを……女として見ることはできんかった……。だが……あなたは……儂が護りたい、全ての、象徴、だった……。あなたの、笑顔を……護り、たかった……。誰の、ど、んな、笑顔より、も……サリ…あなたの笑顔が……」 サリィの手を引き寄せて、白いその指に、ガヤンはそっと口付けた。 「笑って……おられよ……。よい、な? 何が……あろう、と……あ、なたは……わらって………」 「……ガヤン……?」 サリィが囁く。 「…ガヤ、ン……?」 サリィの手から、男の手が滑り落ちる。 「………ガヤン……!」 一国を支え続けた一人の男が、今、その人生を終えた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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