宴の前の嵐・13

「何が起きておるのだ! いったい、何が……っ!?」
 ベイルオルドーン王宮の広間で、大宰相が顔を真っ赤に膨らませながら怒りの声を発していた。
 大広間では兵士や宮廷に仕える者達が右往左往して走り回っている。玉座ではテランが、肘掛の端を間接が白くなるほど強く握り締めて、頬を震わせている。
「バンディールからの連絡は、まだ届かんのか!? なぜだ、なぜ……! 一体国境地帯で何が起きているというのだ!? 魔王はどうなったっ」
 突如、国境から王都に至る数箇所で、降って湧くように起きた紛争。その地で本当に何が起こっているのか、全く不明のまま、王宮はただ混乱しているだけだった。
「閣下!」
 広間に近衛の兵が駆け込んできた。
「たっ、大変です! 今伝令が……! 大シマ、いえっ、新連邦の軍がわが国に攻め入って参りましたっ!!」
「何だとぉっ!?」
 大広間に集まった重臣、貴族達が口々に驚愕の叫びを上げる。
「なぜ……」
「侵略行為ではないかっ!?」
「そ、それが…」兵士が咳き込むように言葉を発した。「わ、わが国の、兵士達が……新連邦の国境を侵し、戦闘状態に突入したのだと…! 新連邦はベイルオルドーンによる侵略に対抗するために兵を……」
「馬鹿なっ!」
「では、国境地帯から王都に向けて各所で起きているのは、新連邦との戦闘だと!?」
「それにしては、わが国の兵達の動きが妙ではないかっ」
 バンディールを除き、軍の主だった将軍達はすでに国境地帯に赴き、各所の混乱に当たっているはずだ。だが、指揮と連絡系統が混乱しているのか、ほとんど情報が上がってこない。
 大宰相は握った拳を震わせ、きりきりと歯噛みした。そして、ふっと、何かを思い出したように顔を上げた。
「……そうじゃ。カインはどうしたのだ? どうして姿を見せん。カイ……」
「申し上げますっ!!」
 第二の伝令が広間に飛び込んできた。
「如何したっ!?」
 伝令は、大宰相の前に、汗だくになった身体を投げ出した。
「……も、申し上げ……っ。…辺境各地区の砦にて……い、一斉に……」
「一斉にどうしたというのだっ!? 早く言わぬかっ!」
 ぜえぜえと荒い呼吸をしていた伝令は、ごくりと唾を飲み込み、大きく息を吸った。

「一斉に! 反乱が発生いたしましたっ!!」

「……反、乱…だと……?」
 はっ! と、伝令が叩頭する。
「テラン陛下のご退位、そして、大宰相ガヤン様が地位を退かれることを求める檄文が撒かれ、特に北方地帯を中心に民を巻き込んだ暴動が勃発している模様でございます!」
 北方は、ベイルオルドーンの中でも、特に荒廃の激しい地域だ。
「………窮乏に耐え切れなかったか……」呟いて、大宰相は深い息を吐いた。「もう少し早く、魔王をわが手の内に引き入れる決断をしておれば……」

「まだそのような台詞を口にされるのですか」

 大広間に、静かな、だが強い芯を感じさせる声が響いた。
 大宰相、国王、そして広間に詰めていた人々が一斉に視線を向ける。
「……カイン……!」
 剣を手にし、扉の前に立つカインの姿に、大宰相ガヤンは思わず安堵の息を漏らした。いまや玉座に座る事以外何もできない長子に比べ、この次男の堂々たる姿はどうだ、と、彼は目が覚めるような思いで息子を見た。
 だが、幼い頃より自己主張も少なく、ただ父と兄の言うままに、何一つとして逆らう事なく生きてきたはずの次男の瞳に、鋭く冷たい光が瞬いていることを、その父は全く気付かなかった。


「開門!!」
 王宮の大門の前で、百名近い兵士達が集っている。門衛が慌てたように、その先頭に立つ騎馬の兵に駆け寄った。
「何処の部隊の者かっ!? これほどの数の兵を揃えて王宮内に入ろうとは、何ゆえ……」
「この非常事態に何を悠長に問答しておるかっ!? 今国土は反乱軍と外的に荒らされ、滅亡の危機に瀕しておるのだぞっ。……何処の部隊かだと? 貴様、この俺がどこの誰か分からんのかっ!?」
 騎馬の男が、顔をずいっと門衛の持つ松明に近づけた。
「……あっ。こ、これは……」
「連隊長殿!」
「ロットリン様!」
「分かったら、さっさと扉を開かんかっ!」
「は、はっ!」
 大門が押し開かれ、それが半ばまで開くか開かぬかの内に、ロットリン達は一斉に王宮内部になだれ込んだ。

「皆、聞け!!」
 王宮正面の庭を駆けながら、ロットリンは声を限りに叫んだ。
 宮廷内に詰める数多の兵士達が、剣を手に、何事かと駆けてくる。
「テラン王、そして大宰相と重臣どもは、国を護り、民を護る使命がありながら、それを全うすること叶わず、挙げ句荒廃し窮地にあるこの国を、さらに滅亡へと追いやる大失態を犯した!」
 国主達に対する、ロットリンの突然の糾弾に、兵士達が戸惑った顔を見合わせる。
「何とやつらは! 眞魔国、かの魔族の王を拐し、その魔力を我が物にしようとしたのだ!」
 何も知らされていなかった末端の兵達は、信じがたい言葉に一斉にどよめいた。
「大宰相達は、密かに事を運んだつもりらしいが、この所業は即座に眞魔国の知るところとなった! わが国は、魔族を全面的に敵に回したのだ!」
 ロットリンは再び言葉を切って、その持つ意味が兵士達の脳裏に浸透するのを待つ。
「それだけではない」油断なく周囲に視線を送り、言葉を続ける。「逃げた魔王が新連邦内に逃れようとしているとの誤った噂を信じたわが国の兵士達が、功を焦り新連邦内に侵入。連邦兵と偶発的な戦闘状態に入った。新連邦はこれをベイルオルドーンの侵略であるとして、宣戦を布告。今現在戦闘状態にある! この意味が分かるか!?」
 兵士達の顔に、急激に恐怖が湧き上がってくるのを確かめて、ロットリンは大きく頷いた。
「眞魔国と新連邦は、友好国同士。この二国は必ずや手を携え、わが国に攻め入ってくるであろう! 今っ、窮乏に苦しむわが国が、この二つの大国を敵として正面きって戦えるか否か! 兵士諸君! その答えは明らかである!」
 明らかに浮き足立った兵士達を目にして、ロットリンは最後の言葉を舌に乗せることとした。
「何ゆえわが国がこのような事態に至ったか!? それは全て、王と側近の失政、失態によるものである! 事ここに至ったからには、その責任を糾弾し、王の速やかな退位、そして全ての側近を権力の中枢から放逐しなくてはならない! 如何か、諸君!!」
 ほとんどの兵士達が集まる庭に、声にならない呻きが満ちる。
「……れ、連隊長、どの……。しかし、それは……反逆、では……」
 一人の兵士の言葉に、同意する声があちこちから上がった。
「歴史ある祖国と、民を救うためである! 反逆者の名を恐れ、英雄の誉れを逃してもよいのかっ!?」
 ロットリンはその場でいきなり剣を抜き、高々とそれを掲げた。
「もはや言を尽くす時間はない! 我々は目的を遂行するため宮廷内に突入する! これを反逆とする者は、遠慮せず我が行く手を遮るがいい。たとえ同胞といえど、邪魔するものは叩き伏せる!」
 行くぞっ!
 ロットリンの一声で、彼らは一気に王宮内部に奔った。
「……お、おれも、連隊長殿についていくぞ…!」
「俺もだ! 俺の田舎の家族は、ずっと寒さと飢えに苦しんでいるんだ。それが上のやつらのせいなら……!」
「俺達がまともに食えないのに、あいつらだけが贅沢してたんだ!」
「しかし…っ、バンディール様は……」
「だったらお前は残っていろ!」
「よし、行くぞ!」

 王宮内に飛び込んでいったロットリン達の後を、ほとんどの下級兵士達が剣を抜いて続いていく。

「兵士達は我々に従う模様です!」
 部下の一人が馬を寄せて、ロットリンに報告を入れた。
「どれだけ上のやつらが命令を出そうとも、一般の兵士達が動かなければ国は何もできん。……よし、計画通り、部隊を展開させて宮殿内の完全制圧と行くぞ! これから向かってくるものは、全て斬り捨てろっ!」
「はっ!!」
 宮殿内の美しい廊下を、騎馬の一団と兵士達が、数方向に分かれて駆け抜けていく。
 間もなく、王宮内の複数の場所で剣戟の響きが湧き起こった。


「……カイン、そなた、何を言っておるのだ? それに……そなたの後ろにおる、そやつらは何者だ…? 我等が兵士ではあるまい……」
 カインの後ろには、ガルダンとカーラ、そしてアリーとレイルが油断なく周囲に気を配りながら立っている。もちろん、彼らが何者であるかなど、大宰相が知る由もない。
「悠長なことを申されているのですね、父上。……今この国を襲う事態が、何故に起こったのか、まさか見当もつかぬと仰せではありますまいな?」
「……カイン……」
「他国の王を拉致、監禁する。国家がこのような犯罪を犯して、それが露見せぬとでも? そして事態が発覚した暁には、この国にどのような災厄が降りかかるか、想像すらしていなかったとでも?」
「……この国の民を救うためじゃ! この国を破滅から救うため、私は……! 相手は魔族だぞっ! 人間の王というならまだしも、魔物の王に何を気遣う必要がある!?」
 一歩一歩自分に近づいてくる息子に気おされるように、大宰相は掠れた声を上げた。その口から発せられる言葉に、カインはきゅっと整った眉を顰める。
「今や、眞魔国と友好を結ぶ人間の国がどれだけの数に上るか、ご存じないのですか?」
「そのようなもの、便宜上のものに過ぎぬわ! 魔族に本心から友好を求める人間など存在するはずもない! 我等が魔王を絡め取り、彼奴らの国を窮地に陥れたと知れば、どの国も躍り上がって歓ぶであろうよっ!」
 父親のその言葉に、カインはキリッと唇を噛み、そして苦々しく吐き出した。

「………愚か者が……っ!」

「……カ、カイン……」
「…殿下…?」
「カイン様……一体あなた様は何を……」
 今まで、ほとんど影の薄かった第二王子のその辛辣な言葉と態度に、大宰相も、そして玉座の下に集う重臣達も、呆然と立ち尽くしている。
「………カイン、そなた一体……。魔族が何だというのだ…。あの大シマロンとて、魔族との友好など本気で考えているはずがないではないか…。おそらくは国力が回復したらすぐに、魔族の寝首を掻こうとするに決まっている! そ、そうだ、カイン、そなたすぐに大シマロンとの小競り合いが起きている場所に赴くが良い。そして我等の侵略など、誤解である事を伝えるのだ。必要なら、魔王の身柄を押さえていることを教えてもよい! それを知れば、大シマロ……」
「大シマロン大シマロンと、いい加減にして頂けないでしょうか!?」
 突然、女性の声が大宰相の言葉を遮った。
 カインの隣に、亜麻色の髪の女性騎士─カーラが進み出る。
「お、おまえは……」
「大シマロンはとうの昔に滅んで、いいえ、我々が滅ぼしました。現在は新連邦を名乗っております。くれぐれもお間違えのなきように!」
「…っ! ま、まさかお前達……!」
「そしてもう一つ。我々新連邦は、眞魔国との変わらぬ友情を誓っております。我々は魔族の方々と共に手を携え、世界の平和を目指して行く所存。あなた方の狭量な偏見で、我々の友情の誓いを汚すのはお止め頂きます!」
「……新連邦……! カ、カインッ、お前は……っ!」
 その時。
 爆発するような勢いで、大広間の扉が押し開かれ、それと同時に、近衛と思しき兵が転がり込んできた。
「なっ、何事…っ!?」
「は……はんらん…連隊長が……!」
 数人の、以前は煌びやかであったろう上級近衛の軍服をボロボロにした兵達は、広間に這い蹲り、いざるように玉座に近づこうとする。だがしかし、そのすぐ後ろから、怒涛のような勢いで、多数の兵が雪崩れ込んできた。
 兵達は抜き身の剣を手にしたまま、大広間に入るとすぐに重臣貴族達にそれを向け、彼らの動きを封じ始めた。
「何事であるかっ!? 王の御前であるぞ! 無礼は許さんっ!!」
 とっさに玉座の前に立ちふさがり、大宰相が大音声を上げた。しかし、兵達は全く表情を変えないまま、更に貴族達に迫る。
「カイン殿下!」
 大広間に足を踏み入れてきたロットリンが、ゆっくりとカインの側に歩み寄った。
「宮殿内の制圧、全て完了いたしました」
「ご苦労だった、ロットリン」
「……カイン……! お前、まさか…お前……」
 震える大宰相の言葉に、カインはロットリンと新連邦の武人達を従えて、玉座に近づいていった。
「父上、いいえ、大宰相ガヤン殿、そして、テラン陛下。すでに王宮は我等の支配下にあります。そして、新連邦の方々と我等の軍は、王都の包囲網を完成しつつあります。もはやあなた方に、逃れる道はございません。陛下には、速やかなご退位を望みます。その上で、あなた方がこの度犯した罪について、裁きを受けて頂く。……よろしいですね?」
「……カイン、そなた……父を…兄を……祖国を裏切るのか……っ!?」
「お間違えあるなっ!!」
 大宰相の言葉に、カインが怒りの叫びを上げた。
「いつからあなたが祖国そのものに、ベイルオルドーンを象徴する存在になったというのだっ!? 思い上がるのもいい加減になされよ! まだ分からないのか!? あなたの行いこそが、この国を、国の誇りを裏切るものだという事をっ!ベイルオルドーンを愛しているからこそ私は……っ。……自分達に愚かな行いの責任を、我が祖国になすり付けるなっ」
「………カ、イン……」
「全員拘束せよ!」
 カインの指令に、兵達が一斉に動き始めた。



 ベイルオルドーンの王都、王宮の一室に、彼らはいた。
 カイン、ロットリン、そしてカーラ、アリー、レイルの新連邦メンバー。彼らに相対する大宰相と国王テランである。
「………よし、ご苦労。頼むぞ」
 報告に来た兵士に、ロットリンが声を掛けて送り出す。
「重臣たちの身柄は全て押さえました。他の貴族達も、殿下にお味方するお歴々の説得が功を奏して、混乱は見られません。ま、今のところは様子見というところでしょう。神殿もこちらにつきましたしね。王都も、特に騒ぎなどは起きておりません」
 ロットリンの言葉に、ソファに座ったカインが頷く。彼の向かいの席には大宰相、そしてテランがいる。全員の前にお茶のカップが置かれているが、ほのぼのとした雰囲気には程遠い。
「………いつからこのような事を…?」
 大宰相ガヤンが、低い声で言った。その隣では、テランが蒼白な顔を小刻みに震わせて、ほとんど放心状態で座っている。
「準備ならとうの昔に。あなたに従う重臣以外の、貴族や商人達への根回しも終わっています。ご存知でしたか? あなたは商人達からかなり恨まれているのですよ。新連邦との交易を禁止しただけではなく、商売の利権まで取り上げようとしましたからね。それに逆らうものは財産の一切を没収して、一族郎党全てを投獄した。……これでは抵抗の声がどれだけ小さくなろうとも、恨みの根が深くなるばかりだ……」
「…………商人は己を肥やすことしか考えておらん。あやつらが何を言おうと、国を護ることが先だ……。カイン、民に媚びても、国は治まらんぞ」
「それは分かっています。分かっているから……私は、決断することができなかった……」
 カインが辛そうに目を伏せた。
「あなたが、己の利益だけを求める卑しい男であればよかった……。そうすれば私は、実の父親であろうとも、何の躊躇もなくあなたを討つことができただろう。だが……。しかし私が躊躇っている内に、あなたは国家の柱として、犯してはならない罪を犯した。他国の、王を……事もあろうに拉致するなど……!」
 もはや言葉は無用とばかりに、大宰相がそっぽを向く。
「……それで? これからは、そなたが王になるというのか?」
「いいえ」カインが首を振る。「王の位に就く、正当な権利をお持ちの方がおいでになります」
「……余は……」
 その時突然、今までほとんど発せられなかったか細い声が、二人の間に割って入ってきた。
「…余、は……正当な王では、ない、と……いうのか……?」
「………兄上…?」
「テラン、何を言う!」
 ソファに座り、視線を宙に向けたまま、聞き取れないほどの低く細い声で、国王テランが呟いている。
「余は……国を繁栄させる……。民は…英君と……余を讃える……。ベイル、オルドーンの、栄光、は……過去のものでは……ない、のだ……!」
「……ね、何か変だわ、この人……」
 近くに座っていたアリーが、腰を浮かせながら言った。
 テランの震えは、今やまるで痙攣の様に激しくなり、口からは唾液が泡の様に零れ落ちてくる。
「テラン、見苦しいぞ! しっかりせぬかっ!」
 ガヤンの言葉に、テランはカッと目を瞠いて、父親を睨み付けた。
「テラ……!」
「余こそが王だ! ベイルオルドーンの正当な王は余以外にはおらぬっ! なのにお前がっ!!」
「テッ、テラン……ッ!?」
 全員が呆気にとられる前で、まるで獣の様に、テランが父親の首に飛び掛った。
「お前が! いつも、いつでも余に指図しおって…っ。余などどこにもおらぬように、何もかも余から奪いおって…! 余だけではない、神も、神までもないがしろに……。だから見よ! 神罰だ! 神罰が下ったのだ! 全てお前が、お前が、余を、余をこうまでも……!」
 死ねっ!
 渾身の力をこめて父親の首を絞めるテランを、カインとロットリン、そして詰めていた兵士達が必死で引き剥がそうとする。だが、狂気は尋常ならざる力をテランに与えていた。
「…っ、何て力だ…!」
「兄上! 止めるんだ!」
 苦しげに顔を歪めながら、ガヤンも必死でテランの腕を己の首から剥がそうとするが、もがくだけでどうにもならない。
「…テラン…兄上……っ!」
 大宰相の罪を問わないまま、死なせるわけにはいかない。もはやテランを斬り捨てなくてはならないかと、カインが覚悟を決めかけたその時。

「もうお止めなさい、テラン」

 柔らかな声が、不思議な程にその場を圧した。
 カインが、ロットリンや新連邦の面々が、そして兵士が、思わず振り返ったその先に、ガルダンと並んでもう一人、質素なドレスに身を包んだその人が立っていた。

「………母上……」

 サリィだった。
 彼女は、かつての夫と、そして二人の息子を哀しげに見つめると、静かに歩を進め、テランの背後に膝をついた。
「………テラン……」
 サリィは腕を伸ばすと、片手をいまだ父親の首に掛かったままのテランの手に、もう片方の手を、息子の胸に回して抱きしめると、その耳元に頬を寄せた。
「父上にそのような事をしてはいけないわ。もうお止しなさい。ね? テラン。……さ、こちらを向いて」
 嘘の様に力がテランの肩が、がくりと落ちる。そしてサリィが導くまま、ゆっくりと身体の向きを変えた。その向こうでは、命拾いをしたガヤンが身を捩って咳き込んでいる。
「……は、は……うえ……?」
「ええ、私よ…? ここにいるわ。……ずっとあなたを一人で苦しめてしまった。……許してね。何もできなかったこの母を、どうか許して下さい、ね……?」
 涙と唾液と、そして襲ってきた狂気の余韻で、汚れ、弛緩した息子の頬を優しく暖める様に掌で包むと、サリィはテランをその胸に抱き寄せた。
「…ははうえ……ははうえ……はは……」
 呆然と呟くと、テランはサリィの胸に顔を押し付けて、大きくしゃくりあげた。
「……わたし、は……はは、うえの…名誉の…ためにも……りっぱな王に……なろう、と……」
「ええ、分かっているわ。あなたは頑張ってくれた。私はちゃんと見ていましたよ」
 おおう、おおうと声を上げて泣くテランの頭と背を、幼子にしてやるように撫でながら、その耳に優しげに何かを囁く。サリィのその姿を、その場に居合わせた人々は声もなく見つめていた。

嗚咽と、苦しげな荒い息。沈黙の室内にそれだけが響いていた。
 しばらくして後、ふと気配を感じて、カインは振り返った。
「……ユーリ陛下……!」

 開かれた扉から、村娘姿に変装したユーリとコンラート達眞魔国の一行、そしてミゲルとウォルワース達、チェスカ村から同行してきた者達が入ってくる。
「ユーリ!」
 アリーが明るい声を上げ、レイルと共に弾むように駆け寄っていった。
「アリー! レイル! 久しぶりっ」
 抱きつくように手を取り、はしゃぎながら肩を抱き合う三人を、傍らでコンラートが一見にこにこと笑って見ている。が、「そんな目で見るんじゃないの! 大人気ないわね」と近づいて来たカーラに肩をどやされて、複雑な表情に顔を改めた。隣でヨザックとヴォルフラムがため息をついている。
「無事でよかった、ユーリ!」
「ホントによかったわ! …それにしてもあなたったら、相変わらずねっ。むっちゃくちゃ似合ってるわよ、その格好」
「こ、これは、できれば見ない振りを………あっ、カーラさん!」
「お久しぶりです、ユーリ、いえ、陛下。ご無事で何よりでした」
 カーラの様子に、ユーリもきちんと威儀を正して向き合った。
「ありがとうございます。この度の新連邦の方々のご協力には、心から御礼申し上げます。…えっと、あの、こんなカッコでごめんなさい」
 照れくさげに頭を下げるユーリに、くすっと笑みを零して、カーラはユーリを愛しげに抱きしめた。
「本当に無事でよかった。会えて嬉しいわ、ユーリ。………背中にちょっと突き刺さってくるものがうっとうしいから、キスは止めて置くわね。………さ、こちらへ。皆さんも」
 カーラに促され、彼らは部屋へと足を向けた。
 彼らが近づいてくるのを確かめて、ゆっくりと頭を下げるカインやロットリンに声を掛けようとして、ユーリは床に座り込んだままの人々に気付いた。
「……! サリィ様……!」
「母上! ……これは……」
 ユーリとミゲルが、ほとんど同時に声を上げる。
 肩を震わせ続けるテランの背を撫でていたサリィが、顔を上げ、二人に笑みを投げかけた。
 ようやく揃った三人の息子を順繰りに見遣ると、サリィは、カインに向けて静かに口を開いた。
「テランはもう、あなた達に逆らうどんな力も持ってはいないわ。この子に必要なのは、お医者と静かに休める場所よ。カイン、あなたの兄に慈悲を与えてちょうだい。…お願い」
「……兄上が傀儡に過ぎないことは分かっております。ですが……」ふう、と一つ、カインは息をついた。「…分かりました。とにかく、兄上には休んで頂きましょう」

 暖かいベッドと医師の手配を終えて、またも放心状態に陥ったテランが丁重に連れられていく。それを見送って、カインは父をソファに座らせるよう指示し、自分はサリィに手を貸し、彼女を立ち上がらせた。
 見上げる母と、表情を探りあうように視線を交わして、カインはほんの少し、辛そうに目を伏せる。だが次に顔を上げたときには、決然とした反逆者の顔を取り戻していた。
「……失礼致しました、ユーリ陛下。…ご無事で同胞の皆様ともお会いになれたご様子。よろしゅうございました」
「………カイン」
 丁重に頭を下げるカインを暫し凝視していたユーリだったが、自分を見つめるカイン配下の兵達の視線を感じ、すぐに大きく息を吸って背筋を伸ばした。
「この度の、事にあたって、色々と手助けして頂いて、本当にありがとうございました、カイン、殿。眞魔国の王として、心から感謝します。……えーと、ただ今変装中なので、着替えたらあらためてご挨拶させて頂きマス」
 集中する視線の複雑な色合いを感じ取り、ユーリは頬を赤らめて付け加えた。その様子に、カインが微笑む。
「恐れ入ります、陛下。…この度は、眞魔国、そして新連邦の皆様のご協力を得て、精神を病んだ王を操り、国を危うくしようとした奸臣達を捕らえることができました。こちらこそ御礼申し上げます」
 そう言うと、カインはそっとユーリに顔を寄せて小さく囁きかけた。
「……結果として、陛下のご災難を利用することとなりました。何卒お許しください」
「カイン……」
 カインはすっと身体を離すと、傍らにいた母の背に腕を回した。
「……陛下」
 息子に押し出され、ユーリの前に出てきたサリィが口を開く。
「サリィ様…!」
 微笑む、だがひどく哀しげなサリィの姿に胸を突かれて、ユーリは思わず駆け寄りその手を取った。
「サリィ様! あっ、あのっ、サリィ様のおかげです! 助けて下さって、本当にありがとうございました!」
 懸命にそう言うと、ユーリは急いでコンラート達を手招いた。
「皆、サリィ様だよ! カインやミゲルのお母さん。ここを逃げ出した後、匿ってもらったんだ!」

「陛下をお助け頂きまして、ありがとうございました」
 一通り紹介しあった後、コンラートが改めてサリィに頭を下げた。
「とんでもございません、閣下。こちらこそ、末の息子がお世話になっております。……ウェラー卿の御名は、息子からもローガンからも、よく聞かされております。陛下だけではなく、ウェラー卿にもお会いできるなんて……想像以上に素敵な方ですのね。お会いできて光栄ですわ」
 そう言って、ユーリに向けて軽くウィンクしたサリィは、それからようやくミゲルに顔を向けた。
「ミゲル……。元気そうでよかった…!」
「お久しゅうございます、母上。……母上もお変わりなく……」
 そこまで言って感極まったのか、ミゲルがいきなり母に抱きついた。少しだけ目を瞠ったサリィもすぐに顔を綻ばせて、末息子を抱きしめた。
「……ミゲル、あなた、何だか一回り大きくなった気がするわ……。眞魔国でがんばっているのね……」
「陛下や閣下方にお助け頂きまして、充実した毎日を過ごさせて頂いております……」
「よかった…本当に…!」

 だが。
「……く、くくく……っ」
 久しぶりに再開した親子が、久しぶりにその温もりを味わうほのぼのとした雰囲気の中に、その時突如、異質な音が混ざってきた。




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