宴の前の嵐 |
「……よって、陛下に申し上げます。わが国の発達した技術を、友好的な他国に対し無償で与えるとの仰せ、まことに慈悲深きお考えであると思われまする。しかしながら………っ、だあっ!!」 スパーんという、えらくキレのいい音が響いた次の瞬間、柔らかいものが何か硬いものに激突する、ダンッともガツンともボコッとも聞こえる複雑な音がその場に響いた。 「…………………何、鏡の前でポーズつけてるのよ、気色悪い男よね」 部屋の壁にはめ込まれた巨大な、床からほぼ天井までの高さのある鏡。それに四肢を大きく、抱きつく様に広げてへばりつく男に、真後ろに立っていた女が、ふふん、とせせら笑ってそう告げた。 べったり鏡に貼り付いたままの男の身体が、ふるふると震えだす。 「おはよ………あら、ミゲ? ……何やってるの?」 扉の開く音がして、今ほどの声とは別の声が、彼らの更に背後から、聞こえてきた。 「ああ、グレイス、お早う。…何かしらね、ミゲはこのところ近眼が進んだんですってよ。うんと近づかないと、自分の顔も見えないんですって」 あら、ま。後から混ざってきた声が首を傾げる雰囲気。 「……いくら何でも、鏡にそんな風にくっ付いていたんじゃ、何も見えないと思うけど……? でもあなた、そんなに近眼だったかしらね?」 「……だ……だ……だぁ………」 「………何をだあだあ言ってるのよ」 「誰がっ!」べりっと音がしそうな程の勢いで、鏡になついていた男が振り返る。「近眼で乱視で老眼だっ!!」 「……………誰もそこまで言ってないでしょうが」 「言おうとしてただろうっ。ちゃんと分かっているんだぞ! 生憎だったなっ。僕はまだぴちぴちの25歳だ!」 確かにぴちぴちだろう。純血魔族ならまだ幼児の年齢だ。グレイスは肩を竦めて大きく息を吐き出した。目の前の青年は混血で、魔族としては90歳前後、人間ならば17、8歳に見える。 「………………ねえ、グラディア?」 「何かしら?」 「ミゲの被害妄想がここまでひどくなったのは、あなたの責任とか思わない?」 「思わないわ、全然。それに、ミゲのは妄想じゃないし」 また僕の悪口を言っているな、この無礼者!と、がなる男─ミゲに、のぼせてんじゃないわよ、この臨時雇いの見習い! と、丸めた書類を振り上げる女─グラディア。 二人の様子をもう一人の女、グレイスがげっそりとした表情で眺めていた。 「この、近眼で乱視で老眼の元バカ王子!」 「やっぱり言ったなっ!」 「言って欲しかったんでしょう?」 付き合ってられないわ、と、グレイスはため息をついて、仕事の準備に入った。グレイスは仕事が大好きだ。だから背後の喧騒は、すぐに意識の外に追いやることができた。 ……始業時間まで後1時間。もう間もなく、仕事熱心な同僚達が姿を見せることだろう。 第27代魔王ユーリ治世下の眞魔国。 かつてない程に人間と良好な関係を保ちつつ、名君を戴く事と平和が続く事、そして未来に明るい展望が抱ける事のありがたみをしみじみと噛み締めながら、眞魔国臣民は日々穏やかに暮らしていた。 即位以来、斬新な政策を次々と打ち出す魔王が近頃新たに設けたのが、「行政諮問委員会」だ。 官僚とは別の独立した、魔王陛下の私的な諮問機関である。官僚的なしがらみや固定化した概念、旧弊な慣習に囚われることなく、眞魔国と世界のよりよき有り様について、魔王陛下の諮問に答え、その発想を具体的な政策として練り上げるるために創設された。とは言っても、彼らの王は時折姿を消してしまうので、事実上宰相の指揮下にあるのだが。 そのメンバーは、官僚であっても、自由かつ大胆な発想でその能力を知られた者、専門的な知識、そして人格的にも優れた学者、合わせて、各分野の突出した才能達が、多士済々に渡って揃えられている。 彼ら諮問委員会のメンバー、すなわち「委員」は、いつ如何なる時であろうとも、優先的に、魔王陛下ご自身に直接に意見を具申することが許されている。そんな彼らは、血盟城、そして国の有識者、官人達から、選りすぐりの才能を認められた者として羨望の眼差しを受けていた。軍人は別として、官僚になるなら中央、血盟城の官僚に、そしてできることなら更なる高み、「行政諮問委員会」の委員に。まだ創設されて間もないにも関わらず、彼らはすでに魔王陛下直属のエリート集団として、その地位を確かなものにしていたのだ。そして。 「いつもいつも僕のやることに文句ばかりつけて! 全くここの女共ときたら、そろいも揃って超年増揃いの行かずご……!」 ガタンッ、という音がミゲの言葉を遮った。 「……何だか聞き捨てならないセリフが聞こえてきたけれど、気のせいかしら?」 「違うみたいよ、グレイス」 「世間知らずのバカはこれだからイヤよね。自分の立場ってモノが全然分かってないんだから」 「だからこそ、私達がちゃんと躾をしてあげなくちゃ、ね」 今の今まで、何も聞こえていない様子で背を向け、仕事の準備に勤しんでいた女性達─この数分で人数が増えていた─が突如立ち上がったかと思うと、一斉にミゲにその視線を集中させた。そしてゆっくりと席を離れ、彼を取り囲むように歩き始める。 あごの下から灯りで顔を照らしているような、何とも不気味に怖い形相で迫ってくる女性陣を眼にして、彼、ミゲことミゲル・ラスタンフェルは唇を噛んだ。………自分は、またも女達(先輩諸氏と敬うべきらしいのだが)の逆鱗に触れてしまったらしい。 真実を言葉にしているだけなのに、どうしてこうもここの女達は自分を目の敵にするのだろう? さっぱり訳が分からない。おそらく自分の若さと才能に対して嫉妬しているのだろうとは思うが。 「……どうしてあいつはいつもいつもああなんだ?」 「これほど学習能力がない奴も珍しいよな?」 「こうも毎日繰り返していたら、普通気づくって。いくら元王子で世間ずれしてないからって……」 「この国で、この血盟城で、この部署で、女の怒りを買うなんて………」 恐ろしすぎる……。 どたばたと走り回る音、「暴力反対!」「お黙りっ」「大人しくお仕置きを受けなさい!」等々の怒号。それを見ない振り、聞かない振りをしながら、大きな会議テーブルの隅に固まって、出勤してきた男性委員達がひそひそと囁きあっていた。 「皆さん、お早うございます! さ、今日も眞魔国のため、魔族の未来のため、はりきってまいりま………おや? 何です、そのボロの塊は?」 「お早うございます、フォンカーベルニコフ卿!」グラディアがにっこり笑って振り返る。「どうぞお気になさいませんよう。少々礼儀を知らない男に教育を施していただけですので」 「確かに、男というのは愚かで忘れっぽくて困った生き物ですね。……ま、よろしい。さあ、皆さん、本日の仕事を始めましょう。この国と女性の未来は、私達の双肩に掛かっているのです!」 はいっ、と、女性委員一同が声を揃えて元気な声を上げた。部屋の隅では、男性委員一同が「一体いつからフォンカーベルニコフ卿が上司になったんだろう?」と素朴な疑問に首を捻りながら、口には出さずに黙々と仕事の準備を続けている。 魔王陛下直属、宰相フォンヴォルテール卿管理下、フォンカーベルニコフ卿アニシナ嬢支配下の「行政諮問委員会」。その、いつもと変わらぬ朝が今日も始まった。 ウェラー卿コンラートは、部下が差し出す王都警備に関する書類に目を通しながら、回廊を足早に歩いていた。 今、眞魔国には王がいない。地球世界という、彼らが生きる世界とは別の次元に存在する異世界に赴いているのだ。その世界こそが、彼らの魔王が生まれて15年の歳月を過ごした故郷であることを知る者は、眞魔国でもそう多くはない。 足を止めないまま、ウェラー卿コンラートはふと空を見上げた。 魔王が地球世界に渡って、もうやがて1ヶ月になろうとしていた。近年、これほど長く国を空けたことはない。 コンラートの本来の仕事は魔王陛下の護衛だ。だが護るべきその相手がいない場合は、王都警備の総司令官となる。魔王ユーリが即位する直前まで、これがコンラートの本来の職務だった。 「……あの、閣下……?」 「何だ?」 書類に目を戻したコンラートに、半歩下がって歩く部下がおずおずと声を掛けた。 「あの……閣下は、いつまでこのような仕事をお続けになるのですか?」 え? と、コンラートは思わず足を止めて、部下をまじまじと見つめた。どうして部下が突然そのような事を言い出したのか、さっぱり分からない。 怪訝な表情で自分を見つめる上司の姿にひるんだのか、その若い部下は困ったように視線を落とした。…心なし頬が赤い。 「……その……閣下は、陛下と、その、ご結婚なされるのですし……となれば、夫君殿下となられるわけですし、本来このような仕事をなされていては……」 部下の言葉に、コンラートは小さく息をついて視線をそらした。 ウェラー卿コンラートは、第27代魔王、ユーリ陛下の正式な婚約者である。 二度目のシマロン行。元大シマロンの広大な領土に連邦国家の新たな礎を築き、新体制の発足をその目で見定めて、彼はようやく長かった自分の仕事が終わったことを実感した。 そうして、引き止める数多の手に別れを告げて、彼は祖国眞魔国に帰ってきた。 彼の帰国を歓迎するため、「お帰りなさい、ウェラー卿」と、「英雄ウェラー卿を讃える歌」、「魔王陛下とウェラー卿の愛は永遠」といった曲を引っさげて、大合唱団が港に待機している、という情報を得た彼は、合唱する人々の間を手を振りながら笑顔で歩く自分の姿を一瞬想像して、ぞっと背筋を凍らせた。 という訳で、彼は眞魔国広報局と眞魔国祭事祭礼いべんと統括企画運営局の裏をかき、本来上陸するはずのない港で船を降り、陸路別ルートをとって王都を目指すことにしたのだが。 情報とは、洩れるからこそ情報というのだと、そう口にしたのは誰だったか。 朝、意気揚々と船を降りたウェラー卿の目の前、まるで朝もやを振り払うようにその姿を現したのは、揃いのコスチュームに身を包み、楽譜を手にした準備万端の大合唱団だった。 結局、荷揚げ荷下ろしに忙しい港に、時ならぬ大音響の歌声が響いたのみならず、その彼らを引き連れて、ウェラー卿は王都までパレードさせられる羽目に陥ってしまった。道中、延々と合唱は続き、ついには沿道の民達も歌に加わり、やっとの思いで王都に到着した頃には、パレードの人数は倍以上に膨れ上がっていた。 ウェラー卿コンラート、100年を越える人生の中で、1,2を争う恥ずかしい経験だったという。 あれほど消え入りたい風情のウェラー卿を目にしたのは初めてだったと、思い出し笑いと共に魔王陛下及び側近達に報告したのは、ウェラー卿の行動を察知し、合唱団を引き連れて港に待機させ、いべんとの主人公が脱兎のごとく逃げ出そうとするのを取り押さえ、王都までぴったり張り付いてきた、某敏腕諜報部員だった。 というような事はさて置いて。 王都に戻り、王や家族や友人達と無事の再会を喜び合い、何のかんのと忙しくしている間に、何がどうなりどう決まったのか、ある日、魔王ユーリとウェラー卿コンラートとの婚約が、正式に発表されたのだった。 だが、正式発表の直後、式の日取りだの何だの、細かな事を決める前に、ユーリは地球に渡ってしまった。 王の不在の間に決めるべき事は決めているようだが、最終的な決定権は王にある。よって、今魔王の結婚については、さまざまな事が宙ぶらりんのままだ。 そして、この1ヶ月の間に、ウェラー卿の表情に生まれた影が、だんだん深くなっていることに、気付いている者はまだ少ない……。 「お早うございます! 閣下!」 部下と別れ、一人歩いていたコンラートは、掛けられた声にハッと視線を上げた。そしてその先に見つけた人の姿に、思わず後ずさりしかけた。 「……あ、あー……お早う、グラディア」 「如何なさいました? お顔の色が優れないような……」 どこか引きつったぎこちない笑みと挨拶を返すコンラートに、満面の笑みを浮かべて近づいてきた女性の表情が曇る。 「いや、別に。……お早う、グレイス、サディンも」 「お早うございます、閣下」 「お早うございます」 グラディアと並んで歩いてきた男性がびしっと背を伸ばしたかと思うと深々と頭を下げ、もう一人の女性が、こちらは控えめに微笑んで軽く頭を下げた。 行政諮問委員会は、コンラートが眞魔国を不在にしている間に創設された機関だ。帰国して、きわめて異世界的なその存在を知らされた時、コンラートは、地球の学校や図書館で、行政について懸命に勉強している主の姿が頭に浮かび、微笑ましい思いを禁じえなかったものだ。もっともそのほのぼのとした気分は、紹介されたメンバー、委員の中に、できれば忘れたかった数人の顔を見出した瞬間に消えてしまったのだが。 今、コンラートの目の前でにこにこと、彼の次の言葉を待っている女性、グラディアもその一人だ。 ………悪い人物ではない、いやむしろ、正義感、使命感共に強く、それでいてさっぱりとした気持ちのいい性格の持ち主だ。コンラートとて、嫌っているわけではもちろんない。ない、のだが……。コンラートは胸の奥でため息をついた。 イロイロと、苦手なのだ。 コンラートは気を取り直して、グラディアの隣に佇むグレイスに視線を向けた。 この3名の中では唯一、グレイスだけが帰国後初めて対面した相手だ。以前は地方の行政府の最下級の職員だったらしいが、学者なみの知識と教養、小役人とは到底思えない豊かで柔軟な発想、そしてベテランの事務職員らしい卓抜した事務処理能力を認められ、委員に大抜擢されたのだという。その経緯に魔王陛下が関わっているのだと知らされて、コンラートは後になるほどと頷いた。 役人と学者の両方の資質に恵まれたグレイスは、かつて変わり者という烙印を押され、人とまともに視線を合わす事すらできなかったという。だが今は、水を得た魚同様、のびのびとその才能を発揮し、すぐに諮問委員会のリーダー的な存在となった。魔王陛下はもちろん、宰相や王佐の信頼も厚い。 「……これから、グウェ、いや、宰相閣下の所へ?」 はい、とグレイスが頷いた。 「友好国に対する魔王陛下の思し召しについて検討いたしたく」 「ああ、あの、上下水道や海水の淡水化技術を無償で与えるという……」 「そうです。我々といたしましては、更なる徹底した調査と検討を続けたいと考えておりますので」 「しかし、技術移転についてはもうだいぶ以前から進んでいたんじゃないのか?」 「はい、基本的な部分につきましては。しかし……」 ああ、すまない、とコンラートがグレイスの言葉を遮った。 「こんな所で立ち話すべきじゃなかったな。…俺も今から宰相閣下の元へ行くつもりなんだが、同席させてもらっていいかな?」 「もちろんです。…………あの、コンラート閣下」 ん? と歩き出そうとしていたコンラートが顔をグレイスに向ける。 「あの、中々申し上げることができずにおりましたが……」 ご婚約、おめでとうございます。 グレイスがそう言って、頭を下げた。グラディアとサディンも、一拍遅れて同様に頭を下げる。以前ちょっとした縁で知り合ったこの二人は、もう後数人と共に、婚約が発表されてすぐにコンラートの元へお祝いに押しかけてきていた。 あ、ああ、いや……。ほんの少しの間を置いて、コンラートが静かな笑みを顔に浮かべた。 「…ありがとう」 ふと、グレイスの眉が曇った。 4人で宰相フォンヴォルテール卿の執務室に向かう間、グレイスはウェラー卿の背中を見つめていた。 故郷の家、夜、眠りにつく前の一時、香酒入りの熱いミルクを飲みながら読んだ「ウェラー卿の大冒険」。 これほどまでにロマンティックで、英雄的な働きをなされるウェラー卿とは一体どんな方なのだろう、と、胸をときめかせ、うっとりと月を眺めていたあの頃。 ……………よもや90歳近くも年の離れた子供に手を出す男だったとは………っ! 帰国したウェラー卿に、初めて紹介された日。 偉大な救国の英雄に会えるのだと緊張し、この人が憧れの王子様なのだと興奮し。期待以上に素敵な男性だったことが嬉しくて、親しげに名前を呼ばれて舞い上がって、次の瞬間。 『16の子供に手を出すなんて、そいつ絶対変態よ!』 あの日、あの時、心に叫んでしまった瞬間が脳裏に蘇ってしまった。 遅まきながら、「変態」=「憧れのウェラー卿」という図式が、その時グレイスの中で初めて結びついたのだ。 ……………あの時の衝撃は忘れられないわ。でも。 陛下とウェラー卿は、本当にお互いを大切に想っておいでになられる。 これまでの日々、同僚達と共に物陰からそっと二人の様子をかんさ……偶然何度か目にするうちに、次第にグレイスにもそれが実感として分かったきた。 ………実年齢を考えなければ、実にお似合いのお二人なのだし。それにお人柄を知れば知るほど、お二人が互いに惹かれる気持ちも理解できる。というか。 ほんっとにいい男なんだもの、ウェラー卿ってば……っ!! グレイスは密かに、ぐぐっと拳を握り締めた。 魔王陛下と張り合う自分という、ありえない幻はとっとと捨て(おそらく膨大な数の女性が、同じ思いをしたことだろう)、ついでに、同年代の大人として、いつか一発説教してやらねばという決意も捨てて、二人を応援し、幸せを祈ろうと心に決めたグレイスだったが。 ………ウェラー卿のご様子が何だか……。 心に引っかかるものを覚えながら、それを言葉にできないまま、グレイスはウェラー卿の後に従って回廊を歩き続けていた。 「よっ!」 もう間もなく宰相閣下の執務室、という所で、彼らは背後から場に馴染まぬ明るい声で呼び止められた。 「……ヨザ!」 ウェラー卿が破顔して、彼らの後方からやってくる軍服の男に手を上げた。……ヒクッという、奇妙な音がグレイスの耳に飛び込んでくる。 「帰ってたのか、ヨザック」 「ああ、1ヶ月振りだな。……すっかり元通りに落ち着いたみたいだな。てーか、そうそう、俺が出張に出てすぐだったじゃねーか。聞いたぜ」 男、グリエ・ヨザックがにやりと大きく笑いながら、ウェラー卿の背中をどんとどやしつけた。 「御婚約、おめでとうございます、閣下! ったく、発表するなら俺が出かける前にしやがれっての。祝ってやるから今夜奢れよな」 よほど痛かったのか、眉を顰め、背中をさすりながらウェラー卿が苦笑を浮かべた。 「……それは普通逆じゃないのか…?」 「いいんだよ! 幸せなのお裾分けってのを…………よぉ、久し振りの顔だな! ……って、おい…?」 そこでようやく気がついたのか、ヨザックがウェラー卿の側に控える3人に目を向けた。グレイスも彼の事は見知っていたが(それでもウェラー卿とこれほど親しいとは、今初めて知った)、グラディア達も顔見知りらしいと、ふと同僚に目を向けて……瞠目した。 グラディアは、どこか苦々しい顔で髪をかき回しているし、サディンは。 ─泣いていた。 「……お……い……?」 「さ……サディン?」 無言のまま、唇を噛み締め、瞠いた瞳が盛り上がった涙でうるうるしている巨漢の姿は、可哀想というよりはっきり言って無気味だとグレイスは思った。何となく腰が引ける。 と、サディンがやはり無言のまま、もっていた書類を乱暴にグラディアに押し付けた。そしてヨザックをじいぃっと見つめると、さらに大粒の涙をぽろぽろと零し、次の瞬間くるりと向きを変えたかと思うと、いきなり床を蹴って駆け出した。瞬く間に皆の視界からその姿が消える。 「……………」 「……………」 「………何だったんだ、いったい……?」 呆気に取られた声はウェラー卿。隣で、はあ、と大きく息を吐き出すヨザック。きょとんとしていたグレイスが「一体何が起きたワケ?」と、同僚の顔を覗き込む。問われたグラディアが、きゅっと顔を顰めた。 「……まあ、何て言うのかしらね……青春の傷あと…?」 訳が分からないグレイスは、「あいつ、まだ根にもってやがったのか」という、ヨザックの呆れた声に顔を上げた。 「ちょっと、根にもつってのは何よ!」 グラディアが書類を胸に抱いたまま、ずいずいとヨザックに迫っていく。 「私だって、あんたの正体知った時は、ホントにビックリしたんだから!」 そもそもねえ。グラディアの文句は続く。 「こうして見たら、どこをとっても筋肉ばりばりの逞しい男なのに、何であんな格好したら、ああなっちゃう訳っ!?」 あんな恰好? ああなっちゃう? 話が全く見えずに首を捻るグレイスの前で、ヨザックがくすっと笑った。 そしていきなり。ヨザックの纏う雰囲気がガラリと変化した。 腰に右手を当て、左手を口元に。手の甲でそっと口元を隠して、優雅に科をつくる。……腰付きと流し目がゾクゾクする程色っぽい。 「あら、それは才能ってものじゃないかしらあ? ダメよ、そんな顔しちゃ。美人がだ・い・な・し」 ね? とウィンク。 はあ、と今度はウェラー卿が呆れたため息を零し、「もう行くぞ」とさっさと踵を返して歩き始めた。 グラディアはまだ言い足りないらしく、声を潜めて、それでも何やらきゃんきゃんとヨザックに突っかかっていく。そしてヨザックは、「あーら、あたしの美しさに嫉妬してるのね、グラディアちゃんたらあ」と、歩きながらおほほーと軽やかに笑って、グラディアの怒りを躱している。 ………………なんだか、イロイロと奥が深いのね……。 現在に至ってなお、日々これ新発見のグレイスだった。 「………………お前か」 ミゲルは、美しく整った眉を不快げに寄せ、目の前に立つ男を睨み付けた。 「お久し振りでございます。殿下」 男が礼儀正しく腰を折る。 無礼な言動も、嫌味な表情もない。その代わり、敬意も情も感じられない、ただ完璧な形だけの礼。 これをこそ、慇懃無礼というのだと、ミゲルは苦々しく思った。 嫌がらせとしか思えない使い走りをさんざんさせられ、今日も一日中血盟城内を走り回った。グラディアを先頭とする性格の悪い女達と舌戦─時々手も足も出る─を繰り広げ、男性委員達に同情されるやら呆れられるやらした挙げ句、酒と食事を奢ってもらえる事になった。このところ、時折こういう誘いを受ける。男ばかりで色気はないが、あらゆる意味で自分より遥かに経験値の高い学者や官僚の話を聞く事は、そう悪いことではないとミゲルは考えていた。 ……プライドが高すぎて、自ら頭を下げて教えを乞うことができない彼の性格的欠点に気づいた先輩諸氏が、気を遣って場を設けてやっているのだとは、全くもって気づいていないミゲルだった。が。 「奢ってやるのだから、先に店に行って席を確保してこい」と言われ、結局使い走りだとぷんぷんしながら城を出ようとしたところに、来客の知らせを受けたのだ。 客は。 ミゲルの生まれ故郷から来た人間。国王であるミゲルの兄の乳兄弟に当たり、現在は王の補佐役を勤める男、バンディール・シャストンという名の人物だった。 僕は楽しいんだ。 突然の自覚がミゲルの中に生まれた。 不思議なものだと、ミゲルは目の前に座る男から視線を外して苦笑した。 バンディールと目を合わせた途端、眞魔国に来る前の、かの国で名ばかりの王子だった日々が一気に脳裏に蘇った。 絶えまない屈辱感と劣等感。身体の中を冷たい風が渦を巻くような孤独と憂鬱。同時に相反する強烈な怒り……。だが、それと同時にミゲルは、自分がどれほど今現在の生活を楽しんでいるかに気づいてしまった。 女性達と口げんかをし、血盟城を走り回り、時折酒を飲み、討論を交わす。一日中、大きな声で喋り、時には叫び、喚き、怒鳴り、愚痴を言う。膝を抱えて坐り込む時間など一瞬足りともなく、仕事を終える頃にはくたくたに疲れている。 でも、楽しい。 喧嘩も楽しい。怒鳴るのも楽しい。使い走りも楽しい。酒を飲んでクダを巻くのも楽しい。 ……僕が彼らの一員だからだ。 ミゲルは不思議な程の満足感と共に、言葉を胸に呟いた。 ……例え臨時雇いの見習いであろうとも、僕は彼らの、行政諮問委員会で共に働く仲間の1人だ。 僕はそれを知っている。そして彼らも僕がそこにいることを認めてくれている。グラディア達も……… …たぶん。 僕は、たった1人の孤独な存在じゃない。 僕は、この国で、あの場所で、存在している事を認められた、この世界を構成するものの1人だ。 己が己のままに生きる事を、当たり前に許される自分の居場所。ミゲルはそれを得た。 自分が何に根付く存在なのかを、わずかな時間にはっきりと自覚して、ミゲルはしみじみと満ち足りた笑みを顔に上せた。 「…………お幸せそうですな」 ハッと顔を上げて、ミゲルはすぐに表情を消した。バンディールのミゲルに向ける眼差しは厳しい。 「……この国も」バンディールが、すっと視線を周囲に巡らす。「以前よりさらに繁栄の度を増しているように思えます」 今彼らは、茶店のテーブルについて向き合っていた。元々自家製のパンやケーキを並べていたこの店は、近年改装し、中で喫茶もできるし、軽食も出すようになった。見習いの身分ゆえ城内に部屋を貰うには至らず、城下で下宿住いをしている(彼の名付け親は泣いて止め、使用人付きの一軒家を用意しようとしたが、ミゲルは頑として我意を通した)ミゲルのただ今お気に入りの店だ。 大きなガラス窓に囲まれ、一日中陽射しが射し込む店内は明るく清潔で、あちらこちらに飾られた花々も瑞々しく輝いている。 「…魔王陛下の御尽力の賜物だ」 前に置かれた好物のロールケーキに先割れスプーンを突き刺して、ミゲルは呟くように言った。バンディールの前にも同じケーキとお茶が置いてあるが、彼はそれを不愉快気に睨み付けるだけで食べようとはしない。 「食べないのか。旨いぞ」 ケーキの欠片に、層になって巻かれた蜜を絡め、口に運ぶ。いつも通り、美味い。 「………この店は、庶民も利用しているのですな」 「貴族用のサロンじゃない。こんな街中にあるんだ、当然だろうが。むしろ一般庶民のためにある店だ」 近くに住んでいるのだろう、主婦らしいエプロン姿の女性が、子供の手を引きながらパンを選んでいるのが見える。そんな店だ。それがどうした。悪いのか。睨み付けると、バンディールが苦々しげに視線を外した。 「……我が国の庶民は、こんな店で、こんな菓子を口にする事などできません」 それは。言いかけて、だが、ミゲルはすぐに唇を噛み締めた。 「殿下」 バンディールの表情が、苦渋へと変化する。 「……あなたの故郷が、今どのような状態にあるかご存知なのですか!?」 低い、だが激情を必死に押さえた声がミゲルの耳朶を打った。 「いつ……一体、いつになったら、魔王は我が国を救ってくれるのですか……っ!?」 深く息を吐き、バンディールは懸命に感情を抑えようとしている。だが握りしめた拳は細かく震えていた。 「……あなたが……魔王の側近として、上級機関に登用されたという知らせを受けました。我らが陛下もそれはもうお喜びで……。今度こそ、魔王が我が国の大地に、その癒しの力を齎しにやって来てくれるだろうと……。なのに、いつまで待っても……っ」 「誤報だな」ミゲルはそっけなく言い放った。「行政諮問委員会は確かに魔王陛下直属の機関だが、僕はまだ見習い、身分は学生のままだ。仕事は使い走りがほとんどだし。陛下の側近への道は、まだまだ遥か彼方だな」 「しっ、しかし、それでも…!」 「また同じ話を蒸し返す気か?」 バンディールが、ぐっと言葉を飲み込んだ。 ミゲルがまだ学舎で学んでいた頃。1度だけ、やはりバンディールがミゲルを訪ねて来たことがあった。 『何をのんびりなさっておられるのです!? 一刻も早く、魔王に我が国を救うよう、進言なさって下さい!』 学舎で暮らす王子に何を思ったのか、目に怒りすらたたえてバンディールはミゲルを怒鳴りつけた。 『敵国であったあの大シマロンに、魔王がその力を奮ったこと、お聞き及びでございましょう! 我が国よりも荒れていたシマロンの大地に、瞬時にして水が湧き、木々が葉を伸ばし、花が咲いたと聞いております。麦が、木の実や様々な作物が一気に実りを結んだと! 飢えた民人が救われたと! 敵国を救っておきながら、何ゆえ魔王は友好国である我が国を救おうとはしないのですかっ!?』 『……あれは突発的な事故だったと聞いている。学舎の先生のお話によると、本来、大地と精霊の復活には数年掛りの時間が必要なのだそうだ。詳細は知らないが、力の発動は陛下のご意志ではなかったとも聞いた。それに、無理矢理発動された力による復活は、歪みも生むという話だ。自然の摂理に則ったものでなくては、真の復活とはいえないからな。……その事故のため、陛下は病を発せられたとも聞いている。だから……』 『数年がかりでは困るのです! それでは我が国は滅んでしまう! どうあれできるのなら、すぐにも魔王の力を……っ!』 『待て、バンディール!』 「……僕はあの時お前に尋ねたな? 一体何のために眞魔国と友好条約を結んだのかと」 香高いお茶で口の中に残った甘味を流し、カップの底を見つめたまま、ミゲルは口を開いた。 「お前達の言い分を聞いていると、まるで友好条約を結んでやったのだから、ありがたく思えと居丈高にふんぞり返っているように見えてくるぞ。それに、魔族が自分達に礼を返すのは当然のこと、救いの手を伸ばさないのは、自分達に対する罪だとでも言わんばかりのその態度………恥ずかしいとは思わないのか?」 それには答えず、バンディールはぷいと窓の外を向いた。ミゲルが小さく息をつく。 「今だ魔族を敵視する人間の国は多い。だが同時に、魔族と真の友好を結ぼうという国もまた増えている。新興の都市国家のように商業貿易で栄えている国は別としても、多くの国々で自然が荒れ、大地の実りが枯渇して来ている。……国主自らが辞を低くして、魔王陛下の御助力を乞い願う光景も、血盟城では珍しいものではないのだぞ」 「我らが陛下に、魔王に対して物乞いの様に施しを願えと仰せになるのかっ!?」 そうではない、と、ミゲルはまたもため息をついた。 そもそも、魔王陛下が人間のために力を奮うのは、純然たる好意なのだ。魔族の義務でも何でもない。世界が滅びに瀕しているのは、長い年月に渡る人間の営みの結果に過ぎないのだから。 「陛下のお力を求める国は、かの国だけではないと言っているのだ。……条約を結んだのは、単に陛下のお力が欲しかったから。魔族を尊敬し、友情を育もうという意志もない。魔族と人間が共に繁栄を目指すべきだという信念もない。助力を願いにやって来るでもなく、それどころか、魔王陛下がいの一番に自分達を救いに馳せ参じないのは無礼だと思い込んでいる。……そんな国、僕が陛下でも救いたいとは思わんな」 バンディールの瞳の光が剣呑さを増した。頬が怒りのためか、ぎゅっと引き締められる。 「……魂の芯まで、魔族になられたようですな、ミゲル・ラスタンフェル殿。………民の期待を背負っていながら、何の役にも立たんとは。……歴とした第三王子でありながら………!」 グラディア達からも「無能」「役立たず」と罵られることは多いが、同じ言葉でありながら、注がれる毒は天と地ほどにも違う。ミゲルは失笑を押し止める事ができなかった。 「お前達に第三王子として大事にしてもらった覚えはないな、残念ながら。……僕の姿を目にした途端、『朝からイヤなものを見た。今日は悪い事が起こるかもしれん』と言って、舌打ちしながら去っていった男がいたが、アレは誰だったかな?」 「…………存外、執念深い質でおいでだ」 顔を顰めるバンディールに、ふふんと鼻で笑ってみせて、ミゲルは残ったケーキを口に放り込んだ。 「魔王陛下のお力をお貸し願いたいという話は、宰相閣下を通して陛下にお伝えしてある。だがな、大地と精霊を正しく復活させるには、世界の地脈水脈、気の流れに沿って、正しい順に行わなくてはならないそうだ。だから復活の儀式を行う時期と場所は、眞王廟の巫女達が決定する。かつての聖地など、精霊達が宿りの地とする場所を探し、儀式の次第を決めていくんだそうだ。……シマロンの事は事故。そしてかの国で儀式が行われないのは、まだ順番がきていないだけ。あちらの陛下にはそうお伝えしておけ」 分かったら、もう帰れ。 ミゲルの言葉に促されるように、バンディールが立ち上がる。だが、上からミゲルを見下ろしたまま、遠い国の使者は動かなかった。 「………………あなたが生まれ育った国のため、兄上であらせられる陛下の御為に尽力する気がないと仰るのなら、仕方がない」 誰が尽力しないと言った。言い返そうとして、だがその無駄を悟り、ミゲルは口を噤んだ。 「後々のために、覚えておいて頂こう。私達は決して祖国を見捨てたりはしない。国家と王家と、そして民を、必ずや滅亡から救ってみせる。………そのためなら、どのような事でもしよう。私達にはその覚悟がある」 ミゲルは訝しげに男を見上げた。 バンディールの言葉は、今までの様子が嘘の様に静かで、ひどく穏やかで、それ故に不吉な影を纏っている。 「……何をする気だ? バンディール、お前……何を考えている?」 「あなたには、もう関係のないことだ」 言い捨てて、会釈一つせず、男はミゲルに背を向けると、何の未練もこだわりも覚えぬ歩調でその場を去って行った。 「…………………くそ……っ!」 バンディールが去った方向をじっと見つめていたミゲルは、やり切れない思いのまま、らしくない言葉を吐き捨てた。 結局、二人の会話はわずかも交わる事がなく、すれ違ったままだった。 自分達の国が大陸一古い、由緒ある歴史を背負った国なのだという、抜き難い誇り。幼い頃から骨身に叩き込まれたその教え故に、かの国の人々は常に意識して、他国を見下すような態度を取ってきた。四千年の歴史を持つ魔族に対してでも、それは同じだ。いや。 「……友好条約を結ぼうとも、魔族を魔物と同一視していることに変わりはない……」 自分達を救ってくれるのは、魔族だけだと分かっていても。 ふう、とミゲルはどこか疲れた息を吐いた。そして徐に手を伸ばし、バンディールが置いて行った手付かずのケーキの皿を引き寄せた。……………美味いケーキと悩みは別腹だし。 手元の先割れスプーンをケーキに突き刺し、大きな切れ端をぱくんと口に含んで。 ─思い出した。 「……し、しまった……!」 目の前に、居酒屋の前で困った顔で立ち尽くす先輩諸氏の姿が浮かぶ。 今日を限り、ミゲルは男性委員達からも見捨てられてしまうかもしれない。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
|