………あれ…? 自分が誰だとか、今何がどうなっているとか、答えに行き着くより先に感じたものがある。 頭が痛い。…グラグラする。 吐き気も……ちょっとする…? つまり。 気分が悪い。 もしかして、二日酔いってこんな感じ? 親父や兄貴が、休みの朝になるとしょっちゅう「ちくしょー! もう酒なんか2度と飲まないぞー!」と喚いてたっけ。だったら毎週繰り返すなよと思っていたけど……やっぱりおれは酒なんか飲まないぞ。少なくとも、こんな思いをしてまで飲み続けるなんて……。 ……って、あれ…? おれ、いつ酒飲んだっけ? 飲んでない、よな? 目蓋が重い。身体も重くて……揺れてる? おれ、揺れてる? 何で? 「………え……と…?」 擦れた小さな声が耳に響く。それでようやく意識がはっきりしてきた、気がした。 彼─ユーリは、目を閉じたまま、そっと深呼吸した。状況が分らないままいきなり動けば、身に危険が及ぶ可能性もある。 だからユーリは、ゆっくり呼吸を繰り返しながら、自分の現状を把握しようと試みた。 自分は今、身体を横たえている。そして……揺れている。 このリズム、身体に伝わる振動、音。これはいつもよりかなり大きくて強いものの、確かに馴染みのあるもの。……馬車だ。 ……つまり、今おれって、馬車で運ばれてるわけだよな? 身体を横たえているのは座席だろう。酷く硬い。どうやら毛布のようなものを敷いている(粗い布の感触と、糸がちくちく肌を刺しているので分る)ようだ。 ……て、ことは、これはいつもおれが使っている馬車とは違うってことだよな? 仮にも魔王陛下の乗る馬車となれば、座席もクッションが実に良く利いている。柔らかくふかふかで、長距離移動も苦にならないように配慮してあるものだ。といっても、どれだけ豪華な座席だろうが、現代日本人高校生にとって馬車での長距離移動は苦痛以外のなにものでもないけれど。 ……でも皆で気を遣ってくれるし、かなり慣れたからもう大丈夫……って、ことじゃなく。 一体どうしてこうなっちゃったんだ? 記憶を逆に辿ってみる。 ……確かおれはフランシアの別邸で……。 …………。 …………。 …… 「……っ! ああっ!!」 うっかり飛び起きてしまった。 と。一気に頭痛と眩暈と吐き気が襲ってくる。 ガクン、と身体が崩れ落ちそうになった瞬間。 「姫様!」 焦った声と同時に、手が伸びてきて身体を支えてくれた。 ぐっと歯を噛み締めて吐き気をやり過ごし、あらためて深呼吸して息を整える。 「大丈夫ですか? 水をどうぞ」 ゆっくりと上げた視界に飛び込んできたのは、見覚えのある女性の心配げな眼差しだった。 「……あ、あなた、は…」 差し出された水を反射的に受け取りながら、ぼんやりと言葉を押し出す。 次第にはっきりしてくる記憶に目を瞬きながら、ユーリは「あ」と改めて声を上げた。 「確か…え、と……ラーダン、の……」 ユーリの言葉に、女性が「はい」と頷いた。 「ラーダン王家、私自身は現在王太子ドン・アーダンに仕えております、ルチェル・ウッドと申します」 姫様が目を覚まされたわよ。 ふいに別の場所から同じ様な女性の声が聞こえた。あれ? と思って見回して、ユーリは自分が乗っている馬車が、馬車は馬車でも荷馬車であることに気がついた。クッションがないのも当然だ。屋根すらない。 声は御者台に座る、ルチェルとそっくり同じ顔をした女性のものだった。 ……そういや双子の女の人がいたっけ。 手綱を操る女性は振り返ると、ユーリに向かってニコッと笑みを投げかけてきた。 姉のラチェルです。傍らの女性の言葉に、ユーリはコクッと頷いた。 そうこうしている内に、馬上の男性達がわらわらと寄ってきた。見覚えのあるラーダンの王太子と側近達だ。 ……つまり、ここにいる全員に寝顔を見られてたわけ? そっと口元を拭ってみる。……大丈夫、よだれは垂らしてない。 「あ、あのっ、確かおれ、あー…アリャリャ? 王国? の、タ、タ、えーと、何とか王子ってのが出てきて、その…っ」 「アリリャット王国のタクパ王子ですわ、姫様」 ルチェルと名乗った方の女性がフォローしてくれた。そして。 「姫様は彼らに拉致されまして、その……」 「拉致!? って、誘拐!? あ、でも助けてもらえたんですよね!?」 この状況ならそうだろう。 「良かったぁ! …あ、じゃ、じゃあ、コンラッドは!? 村田や皆は!? 一緒なんですよね!?」 コンラッド達が後を追ってくれて助け出してくれたのなら、ここに今、彼や親友がいないのはどういう訳だ? それに何より、あの名付け親の護衛が、こんなシーンで自分を他人に任せるはずがないのに。 何か問題が起こった、とか? 「………あ、あの……」 すぐに答えは得られるはずと待っているのに、2人の女性と荷馬車を囲む青年達は互いの顔を見合わせ、まるでユーリの視線を避けるようにそれぞれあらぬ方向を向いた。 「あの…えっと……?」 何かあったんですか? 尋ねようと身を乗り出したとき、馬車がガクンと揺れて停まった。 □□□□□ 「姫様、あの…どうぞ」 差し出されたのは、日持ちがするよう硬く焼かれた平べったいパンと、水で薄めたワインだった。 瞬間、「二日酔い」の4文字が頭に浮かんだが、肌に触れる空気の冷たさの方が気になって素直に受け取った。胃に食べ物を入れれば、体温も上がるだろう。 馬車を降り、車座になって座るユーリ達の周囲では、ざわざわと梢が風に鳴る、乾いた音が響いている。 場所は、山と山に挟まれた谷間の道だった。 湿った霧が地を這うように流れている。太陽は雲に隠れているのか、天を仰げば一端に薄明かりが、その反対側には闇が横たわり、間は灰色のグラデーションとなっている。……夜明けなのか、夕暮れなのか、曇った昼間なのか、さっぱり分らない。 季節は初秋。アントワーヌの離宮があるあの場所では、北方にありながら心地良い風が吹いていたはずだ。それなのに何だろう、何日も経ったわけではないはずなのに、この寒々しさは。 木々は痩せて、まともな葉もない。周囲に人家の気配はない。空気からも大地からも、生命の営みがほとんど感じられない。 「……あのー……」 灰色の風景の中で、ワインの薄い赤味が妙に浮いて見える。 ユーリの中に、不安が徐々に募っていく。 「……おれ、アリャリャ…えっと、アリ、リャット…? の、王子に攫われたんです、よね? でも、あなた達が助けてくれたんですよね?」 「はい、仰せの通りです、姫様」 答えたのは、ユーリの真正面に座るラーダン王国王太子ドン・アーダン(やっと名前を覚えた)ではなく、彼の隣に座る金髪の青年だった。 「失礼致しました。王太子ドン・アーダンに仕えております、ロディオン・イヴァと申します」 顔を覗きこむユーリに応えるように青年が自己紹介した。 彼らの名前はフランシアの別邸でも聞いていたはずだが、すっかり記憶から抜け落ちている。なので、ユーリは素直に「よろしく」と頭を下げた。 「あの……助けて下さって、ありがとうございます」 一行の主である王太子に向かって、ユーリは頭を下げた。だが……。 ドン・アーダン王太子は、ユーリに何の反応も示さなかった。 というか、どうも……雰囲気が妙なのだ。 ドン・アーダンは、馬車を降りたユーリの正面に座った瞬間、なぜかカチコチに固まってしまった。それはもう、カキーンと音が聞こえた気がするくらいにあからさまだった。以来、彼は真一文字に結んだ唇を、接着剤で固めたかのようにピクリとも動かさない。 そしてまた、彼の左右に座る側近、だと思われるメンバーも妙な態度で終始している。 落ち着かないというか、ユーリと全く目を合わそうとしない。顔を覗き込もうとすると、パッと避けられる。落ち着いて見えるのはロディオンと名乗った青年くらいで、逆にそれが不自然だ。 何より、空気にぴりぴりとした緊張感が漂っている。それが空気の冷たさと相まって、不安感を増しているような気がする。 冷たい霧が、襟元から忍び入ってくるようだ。一瞬背筋を震わせたユーリは、飲みやすく薄められたワインをそっと一口、口に含んだ。 イヤな予感がどんどん濃くなっていくが、とにかくはっきりさせたいことをはっきりさせなくては。 「それで、ここって……フランシア、じゃないんですか? あの、王室の別邸に向かってるんですよね? それで、おれの友達はどうしてるんでしょうか? 無事なんですか? あの…いつ頃合流できそうですか?」 漂う緊張に気づかない振りをしようとしても、口を開いてみると不安を抑えることは難しかった。 ユーリの矢継ぎ早の質問に、だがなぜか誰も応えようとしない。本来ユーリの相手をすべき王太子は、唇をぴくぴくと神経質に震わせるだけで、声が出てこない。 不自然な間を置いて、もう一度問い直そうとしたユーリだったが、それより早くロディオンが口を開いた。 「申し訳ありません、姫様。まず私から説明させて頂きます」 □□□□□ 「じゃあ……ここは……」 「アリリャットの民が通した山の道を出て、フランシアの隣国に入ったところでございます。幸いアリリャットの中に協力してくれる者がおりましたので、無事にここまでやってくることができましたし、山のふもとの集落で馬車を借りることもできました」 「そ、そうです、か……」 山岳民族というものが、他国もお構い無しに勝手に道を作っているとは知らなかった。……眞魔国の周りにも、そんな民族がいるのだろうか? ということはさて置いて。 ユーリはちらっと、自分達の輪の外で小さくなっている男性に目を向けた。 おそらくこの男性が、彼らをここまで案内したという「協力者」なのだろう。アントワーヌの離宮を襲撃した中にもいたのだろうか。 30歳過ぎと思われる彼は、所在無げに膝を抱え、困ったような表情でユーリをちらちら見ては手の中のパンをもそもそと齧っている。 ……何つーか…どう見ても快く協力してくれたようには見えないんだけど……。 「あの、それでおれ達、今どうしてこんなとこで?」 山岳民族の「山の道」については理解した。だったらどうしてそのまま後戻りをしないのだろう? そうすれば、最短時間で元の場所にもどれるではないか。 なのに、どうして隣国? 「……姫様には」 そこで、ロディオンの表情が厳しく引き締まった。 「ぜひともお願いしたき儀がございます」 「……お願い…?」 繰り返すユーリ、いや「キューリ姫」に、ロディオンが頷く。 「この度は、思いも寄らぬ出来事に巻き込まれ、姫様におかれましてはさぞ怖ろしい思いをされたと存じます。たまたまその場に居合わせました我らも、大変驚きました。しかし、我等の手で、姫様を無事お救いできましたこと、我が主、ドン・アーダンは心より栄誉と思っております」 「………えー、と……だからその、助けていただいて、おれ、も、とっても嬉しく思ってます。ありがとうございました……」 彼の言葉が「お願い」の前振りだということは、さすがにユーリにも分る。「我等の手で」というところに、かなり力が入っていたし。なので、2度目のお礼の言葉は、我ながら不審感がてんこ盛りだ。 「姫様」ロディオンの声が改まった。「我らは我が国の現状を、ぜひ眞魔国の方々に直にご覧頂き、我らがどれほど魔王陛下のお力を必要としているか、ご理解頂きたいと考えておりました。今回、起きた事件そのものは憂うべきことではありますが、こうして我が国まで後もうわずかというところまで姫様と辿り着けましたことは、ある意味僥倖、神のお導きではないかとすら感じております。姫様……」 「ちょ、ちょっと待って! 下さい!」 思わずロディオンの言葉を遮ってしまった。 「お願いって、まさか……おれにラーダンに行って欲しいってことなんですか!?」 「仰せの通りでございます、姫様。ご承諾いただけますでしょうか?」 ご承諾もなにも。 グッと、言葉も息も詰まって胸が苦しくなる。 「……ここまで来てそういうことを聞くわけ? おれが嫌だって言ったら、引き返してくれるわけ?」 申し訳ありません。低い声でロディオンが言い、小さく頭を下げた。 「我々には時間がございません。故に、偶然訪れたこの好機を逃すわけには参りませんでした。お許しください、姫。ですが、我々はアリリャットの様に、姫様の御身をどうこうしようなどと考えているわけでは決してありません。ただただ、我が国の現状を見て知って頂きたいと願っているのでございます。故にできますれば、姫様には快くご理解をお示し願いたいと考えております」 「………何だかイロイロ言ってるけど、結局はおれが何と言おうと無理矢理でも連れて行くってことなんだろ?」 「無理矢理などと…! ただ我らは……」 「無理矢理じゃないか! おれを助けた恩に着せて、おれを従わせようってしてるんだ! その証拠に、おれを連れて行くこと、コンラッド達に知らせたか!? してないだろ!?」 今このとき、コンラッドや村田はどれだけおれを心配しているだろう。 「恩に着せるなどとんでもございません!」 ロディオンが驚いたように声を上げた。だが、どう見ても芝居っぽい。 ……ニブいニブいって良く言われるけど、おれにだってそれくらい分るんだぞ! 心の中で突っ込んで、ユーリはロディオン以外のメンバー、ドン・アーダン王太子や他の側近達の顔を見回した。 ドン・アーダン王子は頬が削げて見えるほど引き攣っているし、ラチェルとルチェルの姉妹、それから後2人は、会話の成り行きが不安なのか、どこかオロオロと落ち着かない様子だ。 「先に申しました通り、我が国の現状を知って頂きたいのです。そして我らがどれだけ貴国の援助を必要としているかをご理解頂きたいのです。我らが望んでおりますのは、ただただこの一事のみでございます。……姫様、我等に、超大国である眞魔国の姫君を、恩に着せてどうこうなどできようはずがございません。確かに仰せの通り、ウェラー卿や皆様にはこのことを申し上げてはおりません。それについては大変申し訳ないと考えております。ですが、お願いして、それが許されたでしょうか? 我が国の浮沈など、眞魔国の上つ方々が関心を持たれますでしょうか? 我がラーダンは恥ずかしながら、眞魔国の小指の先で簡単に潰されるような小国でございますれば……」 なぜか急にムッとした。 何なんだ、このイヤミったらしい言い方は。超大国なんて言われて、おれが良い気分になるとでも思ってるのか? バカにすんじゃねー。 「……おれが理解して」我ながら、声がぐっと低く地を這う。「だからどうなると?」 「我が国の苦境をご理解頂きました暁には、姫様、ぜひ御国にてそのことをお伝え頂きたいのです。できますれば、魔王陛下ご本人に。そして、我がラーダンへの援助をご進言頂ければと……」 「馬っ鹿やろうっ!!!」 一気に燃え上がった怒りのままに、ユーリはすっくと立ち上がった。 目の下には、驚きに目を瞠るラーダンの王太子達が硬直した姿でユーリを見上げている。 「あんた! ドン・アーダン!!」 ビシッと指を突きつければ、糸目を懸命に瞠っている王太子の上半身が、レーザー光線に打ち抜かれたかのようにビクンと跳ねた。 「これがあんたの意思か!? 魔族と友好を結び、魔族と共に何を求めていくのか、ツェリ様が出した宿題への、これがあんたの結論か!? ラーダン王国の、眞魔国への答えなのか!!?」 怒鳴りつけられ、口をぱくぱくさせる王太子を睨みつけ、ユーリはキリッと歯を噛み締めた。 「……あんた達だけじゃないんだ…!」 ごくりと、誰かの喉が鳴る。 「大地が壊れて、自然が狂って、旱魃や飢饉に苦しんでいる人たちは、この世界にたくさんいるんだ。自分の大切な故郷を救いたいと必死になっているのは、あんた達だけじゃない! おれ達に助けて欲しいと、眞魔国に来る人も大勢いる。皆、一生懸命おれ達に訴えてくる。皆、必死だ! でも! その中の誰も! 魔族を拉致して誘拐して略奪して、でもって言うこと聞かせようなんて卑怯な真似をする人はいない!!」 恥を知れ!! ピンと張り詰めた空気の中、粗い息がいくつか重なり、流れる霧が乱れる。 ……りゃく、だつ……。 かすかな、呻きとも呟きともつかない声が漏れたが、小さすぎて誰の声かは分らない。 身動ぎもせず呆然とするラーダンの王太子達をしばし見つめ、それからユーリはクルッと身体の向きを変えた。そしてスタスタと、輪の外で呆気に取られた顔で座り込む男の元に歩み寄った。 「働かせて悪いんだけど、おれをあんた達の道にもう一度連れてってくれないか? フランシアに戻るから」 ひ、姫様っ! 背を向けた誰かから、切羽詰った声が上がった。ロディオンだろう。 「お待ちください、姫様! 山の道に戻るのは危険でございます! アリリャットの者共が……!」 「おれの仲間が見つけてくれる」 振り返らないままでそう言えば、激しく首を振る気配がする。 「フランシアにおける山の道の入り口は偽装されておりました! あの入り口を見分けることは、まずできません! それに、ウェラー卿達は、アリリャットが姫様を拉致したままであると思い込んでおられ、姫様が私共とラーダンに向かう地にあることをご存知ありません! あの方々は山の道を通らず、遠回りしてアリリャットに向かうしか選択の余地はないのです。万一正しい道に入れたとしても、山の道は複雑に枝分かれしており、あの方々が姫様を見つけることはあり得ません! このまま山の道に入られることは危険です! 姫様、我らは決して姫様を……」 「あのさ」 そこでようやく、ユーリは振り返ってラーダンのメンバーに顔を向けた。そして、目覚めて以来初めての、明るい笑みを浮かべた。 「あんた達、甘いよ」 馬を貰っていくからな。 あっさりと、不安も迷いもなく、木に繋いだ馬の下に歩いていくキューリ姫の背を見つめて、ロディオンはほとんど恐慌状態に陥っていた。 事態は最悪の展開を迎えている。 ……こんなはずでは……こんな……! ロディオンの頭の中では、深窓育ちの心優しい姫君は、どれほど不安であろうとも、1人で決断することも行動することもできないまま、結局は自分達に従う他ないはずだった。いや、アリリャットに連れ去られ、身を汚されて無理矢理妻にさせられるところを救われたとなれば、自ら協力を申し出てくれる可能性も高いと楽観していたのだ。 ロディオンの計算では、難しい局面は姫君をラーダンに連れて行ってから、どれだけラーダンの現状を理解し、魔王にどれほどの熱意で進言をしてもらうかであって、ラーダンに連れて行くこんな段階でではなかった。 それが……。 まさか、怒りを爆発させ、自分達を怒鳴りつけ、一人でフランシアに戻ろうとするなんて……。 ……このままではラーダンへの援助どころか……! 「お待ちください、姫様! 我らは決して、決して姫様を害するようなことは考えておりません! ただ、我がラーダンはあまりに小国であり……」 「大国だとか小国だとか、おれ達は差別も区別もしない。準備が整ったところから援助している。だからむしろ、国が小さい方が環境も整いやすくて、援助の実行は早いくらいだ。そういうの、調べたことはないのか?」 馬の手綱を外しながら言われて、ロディオンはぐっと言葉に詰まった。 魔族がどういう手順で各国の援助を行っているか、確かに調べたことなどなかった。ただ、そういうものだろうと想像していただけで。 「ま、貧しく、田舎者にて気も利かず、ご注目いただくための貢ぎ物などもなく……」 「そんなものを欲しいと言った事は、ただの一度もない! 差し出されたものは、ほとんど全部返している! ってゆーか、おれはそういう自分で自分の国を貶めるみたいな、卑屈な態度は大っ嫌いだ!」 キッと振り返り、叱り飛ばすキューリ姫の怒りの眼差しに、ロディオンはますます焦りを募らせた。 言葉を重ねれば重ねるほど、状況を悪くしていく。次代を背負う頭脳派を自認し続けてきて、こんな事態は初めてだった。 「…おっ、お願いでございます、姫! 山の中は本当に危険なのです…!」 「んじゃ、おれは行くから。主張したいことがあるなら、あらためて眞魔国に来てやってくれ。……ほら、あんたも馬を引いて」 「どうかお待ちを……!」 ロディオンを無視して、姫君はおずおずと手を差し出すアリリャットの男に手綱を渡した。 そうして選んだ馬の鐙に足を乗せ……。 「これはっ! 略奪でございますっ!!」 突如、一気に霧が晴れるほどの勢いで、とんでもない宣言が山間に谺した。 ユーリは乗せようとした足を鐙から滑らせ、アリリャットの男は思わず飛び上がって手綱を放し、ロディオンは言葉が喉を逆流して息が詰まり、声の主の傍らにいたラチェル達は愕然として口をぽかんと開けている。 ユーリを含め、全員がそろそろと言葉の主に向かって顔を巡らせた。 と、そこには、ラーダンの王太子、ドン・アーダンが顔を真っ赤に火照らせ、頬を引き攣らせ、額から汗を滴らせ、おそらくは目を力いっぱい見開き、両の拳を震わせ、大地を踏みしめ……和風総本家的に表現するなら仁王もかくやとばかりの形相で立っていた。 「……ど…ドナ……?」 誰かがそうっと主に向かって声を掛ける。すると、まるでその呼びかけが切っ掛けになったかの様に、ドナが凄まじい形相のまま、ずんずんと歩き始めた。一直線に、ユーリに向かって。 獲物を見つけたゾンビみたいだ、と一瞬思ってから、いや、違うな、とユーリは考え直した。 あんなふらふらしてないし、ガタイも良くって力強い感じがするからー……。 あ、突っ張りにくるお相撲さん。 状況も忘れて手を打ちそうになったその時。 身体がふいに宙に浮かんだ。 「…っ!? なっ、何っ!?」 なぜかいきなりのお姫様だっこ。 顔を上げれば、視界に飛び込んでくる他国の王子の引き攣りまくった顔。 ドレス越しでも分る、身体を支える無骨な腕は激しく震えている。 「あっ、あんた…っ!!」 「我が国の古来からの慣習に則りっ!!」 いきなりドナが大声で宣った。 「キューリ姫を我が妻にすべくっ! 略奪させていただくっ!!」 はあっ!!? 唖然と見上げる「姫君」に、ドナの顔から一気に汗が吹き出てくる。 ドナ!? 気でも狂ったの!? 何言い出すんだよっ! 周囲の友人達から一斉に声が上がる。 だがドナは、幼馴染達の眼差しや声、何より自分自身の迷いを振り切るように、さらに大股にどしどしと地面を蹴り、腕の中の姫君を荷馬車へと運んだ。 「……っ、勝手なことを言うなっ!! この誘拐魔! 変質者!」 バカヤロー!! 次の瞬間、ドナの上半身が思い切り仰け反った。 「……うわぁ」 「……す、すご……」 「……平手じゃないんだ……?」 「あれ、急所にもろ入ったわよね?」 ラチェル、ルチェル、スラヴァ、エフレム、それから呆然自失のロディオンの前で、ドナに抱き上げられた姫君の拳が勢い良く天を衝いている。 「……いったー! 痛っ、たたた……!」 グーでドナを殴った姫君が、次の瞬間ひーひー言いながら手を振り始めたのを目にして、ドナの幼馴染達は意外に男前だった姫君にかなり感動していた。 これでドナやロディオンの頭が冷えてくれれば良い。 だが。 姫君を抱きかかえたまま仰け反っていたドナの上半身は、いきなりグンッと勢いをつけて元に戻った。と、ドナは先よりもさらに決意を固めた様子で、ずんずんずんずん姫君を運んでいく。 「やめろっ、バカやろーっ、離せっ、離せってば!!」 腕の中で暴れ始めた姫をものともせず、一言も発しないまま、ドナは姫君を荷馬車に、ほとんどありえない勢いで放り込んだ。 「…ど、ドナ……?」 「我が国の古来より定まった風習でありラーダン王家次期当主であるこのドン・アーダンの口より発する言葉であるから!」 息継ぎもなく言い切るドナの声は極限まで引き攣り、完全に裏声になっている。顔もすごい。水で洗ったかのように、汗でぐしょぐしょだ。 「キューリ姫には粛々とこれに従い、ラーダンに帰国の後は、速やかに婚姻の儀に臨んで頂くものとするっ!!」 姫君の拳は、ドナの理性を戻すどころか、一気に蒸発させてしまったらしい。 言葉もなく、呆然と見守る友人達に構わず、ドナは荷馬車の御者台に乗り込んだ。そして、即座に手綱を振ろうと腕を上げる。 「…っ、ま、待ってっ! 待って、ドナっ!」 ラチェルとルチェルが大慌てで動き始めた馬車にしがみ付き、よじ登るようにして中に乗り込んだ。 「ひっ、姫様! 危ないです! 止めて下さい!」 2人が乗り込んで最初に目にしたのは、馬車の縁に掴まって足を振り上げ、外に飛び出そうとするキューリ姫の実に男前な姿だった。 「今飛び出したら大怪我します! 戻ってください!」 「何が旧来の慣習だっ! おめおめ連れて行かれてたまるもんかっ!」 「必ず眞魔国にお返し致します!」 「そうです、必ず!」 馬車から身を乗り出すユーリの両側にぐっと身を寄せて、ラチェルとルチェルがそっと、だが力強く囁いた。 今にも飛び出しそうだったユーリの動きがぴたりと止まる。 「私達、姫様をお連れすること、最初から反対してたんです。だってこんなの……犯罪だもの…!」 「ラチェルの言う通りです。あの…ドナも混乱してるんです。国のこととか、姫様のこととか……」 「おれのこと?」 尋ねられて、ラチェルとルチェルは顔を見合わせた。今ここで口にして良いものだろうか。ドナのキューリ姫への恋心を。 「…と、とにかく、あの、姫様、誰にも姫様を傷つけさせません…! 結婚も…! あんな、略奪婚なんて大昔の慣習なのに、ドナったら…!」 「大昔? 奥さんを略奪する慣習?」 「はい。本当に昔々のです。今は、恋人同士が結婚する時の一種の儀式みたいなものなんです。その気もない相手を無理矢理略奪する慣習なんて、現代のラーダンにはありません」 「じゃあ、ラチェルさん……本当におれを助けてくれる?」 「姫様、お約束します…!」ルチェルも、ラチェルと反対側で懸命に頷きながら言った。「ドナにも誰にも、姫様には指1本触れさせません! 必ず無事にお返し致します!」 そう言って、ルチェルはそっと後、御者台に座るドナの背中に目を遣った。 釣られる様に、ユーリとラチェルの視線もその広く逞しい背に向かう。 ドン・アーダンは今、何か怖ろしいものから必死で逃れようとするかのように、ひたすら無心に手綱を振り続けている。 「……ですから姫様、今しばらく我慢してお待ちください。実際、ここでお1人になっても危険なだけです。これは、嘘でも誤魔化しでもありません。今しばらくだけ……」 そしてどうか……お怒りを納めて頂ければ……。 そこまで言って、ラチェルはギュッと顔を顰めた。そして今にも泣き出しそうな顔を、ユーリの目から背けた。 反対側にそっと目を遣れば、ルチェルも哀しげに目を伏せて唇を噛み締めている。 確かに。 走り始めた馬車から周囲を見回して、ユーリは改めて思った。 こんな山の中で1人きりになっても、動きようがない。見知らぬ山の中に、道案内もなく自ら飛び込むなんて、ほとんど自殺行為……。 あれ? 道案内……? 「あいつ、いつの間にか逃げちゃったね」 馬を繋いだ紐を解きながら、スラヴァが状況にそぐわない穏やかな声で言った。 ドナは、おそらく頭が真っ白になっているのだろう。友人達をほったらかしにして馬車を走らせて行ってしまった。早く後を追わなければならない。 それなのに、スラヴァの手は自分でも意外なほどのろのろとしか動かなかった。それはエフレムも、なぜかロディオンも同じだ。 ロディオンの顔は、霧の中でもはっきり分るほど青ざめている。 「……分かってるよね? ロディオン」 魂が飛んでしまったかのようなロディオンと無理矢理視線を合わせ、スラヴァは続けて言った。 「ドナは、ううん、僕達は、眞魔国に宣戦布告しちゃったんだよ?」 隣で、エフレムがゴクリと喉を大きく鳴らした。 □□□□□ 「………おのれ…おのれ、おのれおのれおのれーっ!!」 「若! お声を潜めて下さりませ!」 森の木々と岩の陰に身を縮めるその一行は、主の癇癪にハラハラと辺りを見回している。 紛れもない、アリリャット王国の第5王子タクパと、その側近護衛取り巻き達だ。 「……ラーダン、と申したな、爺」 「は。確かにあの時、離宮にラーダン王国の王太子とその一行が招かれていた、と聞き及んでおります。若がお耳にされました『ドナ』という名も、王太子のものであると……」 「あの大男が『ドナ』だと? ドナといえば美女を表す言葉ではないか。変質者だな。そうだ、絶対に変質者に決まっておる。我が姫を横から奪うなど、異常な男でなければできぬことだ!」 じゃあ他国の離宮に火を放ち、姫君を拉致したのはどうなのだと、今タクパ王子に問い掛ける人間はいない。 天幕の中で目覚めたタクパ王子は、愛する姫君が奪われたことを知った。 奪われたのは姫君だけではない、馬も、それから食料品もだ。 災難はそれだけでは済まなかった。 姫君の姿を追い、姫を横取りした悪漢の影を追い、馬を追う彼らの元に、フランシアの兵士達が殺到してきたのだ。 次々に捕らえられる同胞を救うどころか置き去り、さらには囮にすらして、タクパ王子とその護衛達は山道を逃げていた。 「よもや間道の入り口が見破られるとは……!」 「ラーダンの奴腹が生きているということは、あやつらを始末するために残してきた者共も既に捕らえられているということでございましょう。おそらくは、あの者達が口を割ったのではないかと。でなければ、並大抵で見破られるはずがございません」 「うぬぅ……不甲斐ないヤツらめ。どのような罰を与えてくれよう……」 「若! 今はそれどころでは…。今回の事件は間違いなく国元に知らされます。下手をすれば、アリリャットはフランシアのみならず眞魔国にまで攻め入られまするぞ!」 ハタと。見たくもない光景を無理矢理見せられたかのように、タクパ王子が目を瞠り、すぐに盛大に顔を顰めた。 「私は愛する姫を手に入れる。私に愛され、姫も心から私を愛するようになる。そうなれば、魔族は姫の嫁ぎ先である我が国をどこよりも篤く護ってくれる。私と姫は幸福になり、魔族も喜び、我が国の民も喜ぶ。……全てが良い形に納まる計画であったのに……」 それは計画とは呼ばない。単なる妄想だと。その場に居合わせたほとんどの者の頭に浮かんだが、煽てておきさえすれば気前の良い王子に諫言する者は、やっぱり誰もいなかった。 ……今さら諫言したとて、何がどう好転するとはもはや全く期待できないのだから。 これからどうすべきなのか。王子を除く全員がそっと互いの目の中を探り始めた時だった。タクパ王子が「よし!」と確信に満ちた声を上げた。 「この場を何としても逃れるのだ。そしてラーダンに向かう! 姫君をかの者共から取り返し、アリリャットにお連れするのだ! そして国元に戻るまでの間に姫を説得して、我等の味方になっていただく! そうすれば、フランシアはもちろん、眞魔国とて我らを責めるわけにはいかなくなる!」 それがラーダンの王太子達と全く同じ発想であることを、当然のことではあるが、タクパ王子とその一行は気づかなかった。だが彼らは、ラーダンの青年達のように悩みはしなかった。なぜなら、もはやその途以外、彼らに国と自分達を救う方法が見出せなかったからだ。 「よし、参るぞ!」 全員が頷くのを確認して、タクパ王子の逃避行が再開された。 □□□□□ 馬車が、軽やかに走っていく。 ユーリはその馬車から、初めて訪れた土地の風景を見回していた。 すでに、荷馬車から普通の、屋根はないものの農民や庶民が移動に使う2頭立ての馬車に乗り換えている。そこそこ経済活動のしっかりした人里にやってきたということだ。 ……それでも……。 どこか枯れた感じがするなあ……。 季節は秋で、だから緑や花々の彩よりも、枯葉が目立ち、茶系の濃い風景なのはある意味当然なのだろう。だがその枯れ方が、巡る季節の中のひとコマとは思えないのだ。 山の木々に紅葉は全く見られず、里に下りて、本来「田園風景」と呼ばれるはずの周囲を見回しても、どこか生命が枯れ落ちているように見える。 「荒廃」という単語が、唐突にユーリの脳裏に浮かんだ。 ラーダンの王太子達の焦りようを考えれば、その印象はおそらく正しいのだろう。 「…じゃあ、酪農が盛んなんだ」 「はい! ウチの羊毛は質が良いですし、山羊乳の酪は美味しいって評判なんです。あの…姫様の舌に合うか分りませんが、牛や山羊の乳を発酵させると、ドロドロになるんです。タムと言うのですが、これに砂糖や蜜を混ぜるととっても美味しいんです。身体にも良いんですよ?」 「……あー…ヨーグルト、かな? おれの国にもあるよ」 「眞魔国にも!? じゃあ、ぜひ私の手作りのと食べ比べてみてください! あ、それから、馬も自慢なんです! ラーダン産といえば、近隣の国でも名馬の代名詞です」 「へえ」 興味を持ってもらえて嬉しいのか、瞳を輝かせて説明するのはルチェルだ。 すでに馬車の手綱はラチェルが握っている。最初、何かから逃げるように馬を走らせていたドン・アーダンは、ロディオン達が追いつき、何やかやと窘められて冷静になったのか、すぐに場所をラチェルに譲った。彼は今、馬に乗り、ロディオンやスラヴァ(彼らの名前と顔も、ようやく一致するようになった)と一緒に、馬車を囲むようにして馬を走らせている。ちなみにエフレムはラーダンへの先触れとして馬を走らせており、すでに姿は見えなくなっている。 ラーダンが近付くにつれて、ドン・アーダンの口が一気に重くなっていた。今はもう、ユーリに全く話しかけてこないし、目も合わそうとしない。……あのようなやり方でユーリを拉致したことを悔やんでいるのかもしれない。 ……後悔してるなら、潔く「ごめんなさい」って解放してくれれば良いのに。 「ラーダンそのものは、国全体がなだらかな丘陵地帯で、牧場国家なんて呼ばれてるんです。街らしい街なんてなくて、村が幾つも点在している、という感じですわ。唯一の山が水源となっていて、ここから流れる川がそれはもう澄んでキレイなんです。ラーダンの全土を潤して、私達にたくさんの恵みを……」 そこまで言って、ルチェルの息がふっと抜けた。隣に座るユーリが見上げても、哀しげに視線を落としたままでいる。 「……恵みを、与えてくれました。でも、もう……」 ぐすっと、ルチェルが小さく鼻を鳴らす。 「どうも世界がおかしいらしい。旅人や商人から初めてそんな話を聞いた時は、誰も全然気にしなかったそうです。私も子供の頃は、『大地の崩壊』なんて聞いても、さっぱり意味が分らなかったんです。でもその『おかしいこと』は、本当はとっくにラーダンにも忍び寄っていたんですね。少しずつ少しずつ、今年は去年とちょっと違う、何か違う、どうも妙だって…だんだん皆の口にも上るようになって……。ここ数年、ラーダンも一気におかしくなってしまいました……」 水源の水がどんどん涸れて、川が干上がっていく。 牛や羊が乳を出さなくなり、疫病に罹って倒れていく。 森の木々も次々に枯れ、倒れ、唯一の作物である小麦も、麦の穂を結ばなくなった。 「そして…民も飢え始めました。飢えは身体だけじゃなく、心まで蝕みます。水や食料の奪い合いで、周辺の国々とはもちろん、国内でも争いが頻発するようになりました……」 「…暴動、とか…?」 「いいえ、まだそこまでは。もともとのんびりした気風の国ですし」 そう言って、ルチェルはクスッと笑った。 「本当に……ラーダンは、小さい小さい国で、決して豊かではないけれど、でも皆、仲良く幸せに暮らしてきたんです。贅沢なんか求めず、皆、畑を耕して、動物達を育てて、家族と共に日々の生活に満足して生きてました。何かあっても助け合ってきましたし、飢えるものなんて、人も動物達も全然なかった。皆働き者で、国王陛下だって皆と一緒に王宮の畑を耕して、実りを分け合ってきたんです。ドナだって同じです。彼、すごく体格が良いでしょう? あれは武人としての修行で作ったんじゃないんです。というか、そんな修行、全然してないんですよ? ドナがしてきたのは、農作業です。羊の毛を刈るのが得意だし、剣より鍬を振るほうが絶対上手いです。変でしょう? れっきとした王子なのに」 ルチェルの表情はどこか泣き笑いのようで、ユーリは何も言えない。 「誰かの馬や牛が難産だって聞いたら、飛んでいって手助けしてました。大雨が降って、川が氾濫しそうになった時も、率先して石や土嚢を積んで、河沿いの村を護る作業をしていました。お城のふもとの村の子供達なんて、皆ドナに遊んでもらってます。居酒屋にも普通に通って、村の若い衆としょっしゅう一緒に飲んで食べて、友達づきあいもしてきました。本当に……働き者で頼りがいのある、皆から好かれる良い王子なんです」 絶対後悔してます! ラーダンの紹介からドナの弁解に、ルチェルの話が突っ走る。 「こんなことをする人じゃないんです。本当です! むしろ、生真面目すぎるくらい生真面目で……。こんなことをしてしまったのは、国のことが心配で堪らないのと、それから……姫様のことで……」 ルチェル。 ふいに声がして顔を上げると、馬車にぴったり寄り添うように、スラヴァが馬を寄せて二人を見下ろしていた。それに、御者台からもラチェルが振り返ってこちらを見ている。 ルチェルがグッと唇を噛み締め、目を伏せた。 「前も言ったよね? おれのことがどうとか。どういう意味か教えてくれないかな。……頼むよ」 ユーリの言葉を受けて、ルチェルとスラヴァの視線が先を進むドナ─ロディオンと馬を並べて馬車を先導している─の背中に向けられる。 そこそこの距離と馬車の音で、おそらく彼らの会話は聞こえていないのだろう。だがその背中にはずっと緊張感が漂っている、気がユーリにはしていた。 「あの……」 わずかに逡巡を見せてから、ルチェルは前に座るラチェルと、横を走るスラヴァに頷き掛けた。 「姫様、天下一舞踏会を覚えていらっしゃいますか?」 「天下一舞踏会って……フランシアでやった?」 「はい。あの折り、私達はウェラー卿に魔族について伺うため、フランシアを訪れておりました」 「うん、確かそうだったね。それでウチと友好を結ぶかどうか考えるって……」 そこから妙なコトになってしまったわけだが……。 「実は……あの天下一舞踏会で、ドナは初めて姫様を目にして、そして……そのー、有体に、率直に、簡単に言いますとー……」 ドナは姫様に、一目惚れしてしまったのですっ! 「……………なんで?」 ついに主であり乳兄妹であり友人であるドナの秘めた思いを、姫様に教えてしまった! 口にしてから、姫君の反応が怖くて思わず目を閉じたルチェルの耳に、想像もしなかった言葉がかえってきた。 「……は?」 ルチェルが、ラチェルが、スラヴァが、姫君の意外すぎる一言に、驚いて目を向ける。その視線の先で、姫君が訳が分からないという顔できょとんとルチェルを見返してきた。 「どうして、おれ?」 「どうして……って、その……姫様のあまりのお美しさに、一目で心を奪われて……」 口に出すと陳腐この上ない表現だが、その通りなのでどうしようもない。 だが姫君は、ルチェルのその言葉に、今度は目を剥き、「はあっ!?」と大きな声を上げた。 「美しい……って、おれ!?」 自分を指差す姫君に、「も、もちろん」と3人揃って頷いてしまう。 「あんた達、魔族じゃないし、人間だろ? 美的感覚、もっとまともじゃないの? てか、そういうお世辞言われて、おれが喜ぶと思ってるわけ? それってすっごい勘違いなんだけど」 「あ、あの、姫様? 仰っている意味が……」 「あのさ、おれはちゃんと自分が分かってるの! お美しいなんて、ったく、おれに当て嵌まる言葉じゃないんだよ。それはヴォルフとかツェリ様に対して存在する言葉なんだよね。あ、あと、ギュンギュンとか。…って、知らないか。えーと、とにかく! おれは自分の顔の出来が平々凡々だってことはじゅーぶん自覚してるし、美しいって言われたってうんざりするだけで逆効果だから! そこんトコ、よく覚えといてよね!」 唖然としたのはルチェル達3名だった。 姫君の、「ぷんぷん怒ってます!」な様子はどうみても本物だし、というか、芝居をする必要などないし、ということは、この姫君は本気で自分の容姿を平凡だと思って……いるのか!? 「あ、あのっ、姫様? 姫様は本っ当にお美しくていらして……」 ビシッと。いきなり指を突きつけられて、ルチェルは軽く仰け反った。 「2度、言わないから。おれ、そういうありもしないこと言われるの嫌だから。嫌いだから。分った? もう絶対口にしないこと。良い?」 は、はい。ルチェルは仕方なく頷いた。これ以上言い合っても、どうやら臍を曲げられるだけで事態の好転はなさそうだし。 そっと見遣れば、ラチェルは振り返った姿のまま、スラヴァもぽかんと口を開いたまま、呆気にとられて姫君を見つめている。 「で?」姫君が話を変えるように言った。「あの人がおれに一目惚れしたってのは本当の事なのか?」 「…あ、はい! それは本当のことです! ですから、ドナはずっと、姫様を思って、その……悶々としておりました」 今思い返しても、ドナのあの状態は「悶々」が最も相応しいと思う。だが、友人だからこそ同情できるものの、大男の「悶々」とした姿は、頭に浮かべてあまり楽しいものでないのは確かなことだ。 実際、想像したのだろう、姫君は気持の悪いものを目にしてしまったかのように、盛大に顔を顰めている。 「……モンモンとして…その挙げ句にこういうことをしちゃったワケ? てか、そもそもどういう趣味してんだ? まさか、おれが羊や牛に似てるとか!? いや、いくら変な人でもそこまでは……」 ぶつぶつ呟く姫君に、ルチェルとスラヴァは焦った。 「あっ、あのっ、姫様…っ! 今も申しましたとおり、ドナは本当に優しくて頼りになる良い人なんです!」 「ルチェルの言う通りです、姫! 口下手で、不器用ですが、心根は真っ直ぐで正直者で思いやりが深くて友達甲斐があって、本当に良い男なんです! ……今回のことは、確かに許されることではありません……。ですが…!」 どんな立派な人間でも、ついうっかり失敗してしまうことはあると思います! 友人を庇って必死に言葉を紡ぐ2人に、ユーリは思わず「つい、うっかり、かあ…」と呟いてしまった。 確かに、「ついうっかり」な人なら身近に約1名、心当たりがある。 「そりゃまあ、ある、よね」 でしょう!? 2人が勢い込んで頷く。 その時、馬を操るラチェルが「国境よ!」と声を上げた。 ルチェルとスラヴァ、そしてユーリも前方に目を向ける。 「橋が見えますか? 姫様。あの川、川っていってもほとんど干上がっているんですけど、あれが国境なんです。橋を渡ればラーダンです」 「……橋があるだけだけど、国境警備とかは?」 「隣国なんていっても、ほとんど隣村って感じで…そういう仰々しいことをしたことがないんです。でも、近頃は物騒になってるので、場所によっては自警団なんかもできて警戒してるんですが……。ただこちらの国とはまだそういうことはありません。国境も、橋のこちらと向こうに代々橋守りをしている家があって、どちらも私達とは顔見知りですから、一声掛ければそれで済みます」 なるほどね。「あの、それで姫様」と、ユーリに話しかけるルチェルの声を耳にしながら、ユーリは前方に目を凝らした。 小さな、いかにも農村にありがちな粗末な石の橋。その袂に行商人が1人、腰を下ろして一服しているのが見える。ユーリの目には荒廃して映ったが、まだ行商人がやってこれる状況なのだろうか。 こちらの国とはまだ険悪な状態にないと、今ルチェルが言っていたから、それはつまりまだ余裕があるという……。 ユーリの目が、わずかに瞠られた。 「姫様の御身は、私達が必ずお護りします!」 ルチェルの声は、ドナ達に聞こえないよう顰めているものの、力が籠もっている。 「ですから、どうか、あのっ、ドナを、ラーダンを許して頂けないでしょうか!?」 行商人は荷を足元に下ろし、マントを羽織ったまま、煙管のようなものでのんびりと煙草を吸っている。顔はマントのフードに覆われて全く窺えない。 「……もともと姫様をお連れする計画は、ドナじゃなく、ロディオンが立てたんです。ドナはずっと迷ってて……。こんなことになったのも、魔が差したっていうか、気の迷いっていうか……。もしこのことで眞魔国から責めれらたら、ラーダンは瞬く間に滅んでしまいます! どうかお願いします! ドナを許してやってください!」 「僕からもお願いします、姫様」スラヴァも続いて言った。「ラーダンは決して眞魔国の敵ではありません。」 馬車はどんどん橋に近づいていく。 「できれば、それでその……図々しいのは重々分かっているのですが、今回のことはなかったことにして頂ければ嬉しいな、と……」 言葉以上に図々しいと自分でも分かっているのだろう、スラヴァの語調はいかにも情けなさそうだ。 「今のまんまじゃなかったことになんかできないし、もちろんあんた達の国を助けることもできないよ」 「で、でもっ」ルチェルが懸命に反論する。「まだ誰も私達が姫様をお連れしたことは知りません。誰にも知られない内に姫様をお返しできたら……。もしそれができたら、今度のことを姫様の胸1つに納めていただくことはできないでしょうか…!?」 ラーダンの王太子の、眞魔国の「姫君」拉致が表沙汰になれば、ラーダンは眞魔国の敵国認定間違いなし。彼らに待っているのは破滅だけだ。 だから、ルチェルたちが必死になるのは分る。 馬車が橋の袂に近づく。行商人は馬車にも乗客にも何の興味もないらしく、そっぽを向いて煙草を吸っている。そのフードから髪が、夕焼け空のような明るい色の髪が一房、はみ出ている。 風が吹いた。冷たい風だ。 行商人が寒そうにマントの襟を寄せる。馬車が彼の脇を通り過ぎるその瞬間、襟元を握る行商人がさりげなく親指を立てたのをユーリは確かに見た。 髪を直す振りをして、ユーリはさりげなく後頭部に回した右手を握り、それからスッと親指を立てた。 彼は今、間違いなくこちらを見ている。 だから。 「あんた達の気持ちは分かるよ。だけど」 もう、遅い。 □□□□□ 「ツェリ様、よろしいんですか?」 村田の確認に、ツェツィーリエが優雅に微笑んで頷いた。 「ええ、もちろんですわ、猊下。アントワーヌ殿に伺いましたが、アリリャットの国王という方はとてもきちんとした方なのですって。跡継ぎの第一王子も同じだそうですわよ? 5番目はちょっと失敗なさったみたいですけど。それに……このままじゃコンラートがイライラ死にしそうなんですもの」 クスクス笑うツェツィーリエに、コンラートが憮然とした声で「母上…!」と文句を言う。 「どうかコンラートをラーダンに遣ってくださいませ、猊下。ヨザックのことは信頼してますが、でもやっぱり、私は息子に陛下を助け出してもらいたいですわ。アリリャットの使者が到着しましたら、私がしっかり苛めておきますから」 私もそれくらいはできましてよ? 微笑むツェツィーリエに、村田も苦笑を浮かべる。 アリリャットの間道をフランシア兵に押えさせて、村田達はフランシアの王宮に戻ってきた。 そして知らされたのは、何人かのアリリャット人を捕らえたものの、ユーリの発見はもちろん、アリリャットのタクパ王子を捕らえることには失敗した、という捜索結果だった。もちろんラーダン王太子一行の姿は消えたままだ。 予想の内だったとはいえ、かなり情けない状態に、アントワーヌは一生に一度あるかないかの怒りを露にした。 そして、アリリャット人にタクパ王子の行いを全て白状させた上、捕らえた者を証人としてアリリャットに使者を派遣した。もちろん、事と次第によっては戦も辞さない構えである。 アリリャットは使者を派遣してくるだろう。眞魔国の姫君を拉致するため、フランシア国王夫妻と眞魔国の正使が滞在する離宮に放火し押し入ったとなれば、そしてその対応を間違えれば、アリリャットはフランシアのみならず眞魔国、さらには親魔族の国々をも一斉に敵に回すことになる。よほどの愚物でなければ、謝罪と弁明に死に物狂いになるはずだ。 今、フランシア宮廷と、事件に巻き込まれた眞魔国の正使は、アリリャットがどう反応するかを待っている状態だ。 本来なら、コンラートは当然のこととして、宮廷で被害者の一方を代表する位置にいなくてはならない。 おかげでコンラートはここ数日、かなりフラストレーションを溜めていたのだが、ここでツェツィーリエが息子の手助けに動いた。 「……そうです、ね。ツェリ様がそう仰せなら……」 「では僕も! コンラートだけに任せてはおれません! 母上、僕も参ります! 僕がユーリを必ず救い出してきます!」 もう1人の、近頃すっかり男前に成長した息子が力強く宣言した。だが。 「ああ、フォンビーレフェルト卿、君には残ってもらうよ」 「何故だ!? コンラートが良くて、どうして僕は駄目なんだっ!?」 「君は目立ちすぎる」 即座に反論しようとして、ヴォルフラムが言葉に詰まる。 「魔族が珍しくない都会ならまだしも、これから向かうのはかなりの田舎だし、僕達の任務は潜入捜査だ。君の顔立ちは露骨に目立って、任務の邪魔にしかならない。君はここに残って、ツェリ様の護衛とアリリャットへの対応に力を注いでくれ」 「……あ、あのー、猊下」 「何? ウェラー卿」 「今、僕達が、と仰せでしたが、まさか……」 「僕も行くよ?」 当然だろうと、村田がコンラートを見返す。 「しかし、猊下の護衛の必要が……」 「僕の護衛はクラリスがやってくれるよ。君とヨザックは陛下捜索と救出に全力を注いでくれて良い。クラリス、大丈夫だよね?」 「もちろんです、猊下」クラリスが無表情のまま、キッパリ言って頷いた。「猊下の御身は私が必ずお護りいたします」 はい、決定。 不満たらたらな顔の兄と弟に、村田がにこやかに宣言した。 「君達だけに活躍はさせないよ?」 にっと笑う村田に、誰からかかすかに「…ち」と音がした。誰とはいわないが、全員の視線がそちらに向く。 ふふんと村田が楽しそうに鼻を鳴らした。 「それじゃ早速、ラーダンに向かって出発だ!」 □□□□□ おのれおのれおのれ……。 「おのれ、ラーダンの農夫めが……!」 もうほとんど呪詛である。 ラーダン王国を目指す数人の旅人─頭の先から爪先まで、泥だらけのボロボロだ─の先頭に立つ男は、ひたすらその言葉を口から吐き出し続けている。もうその呪いの言葉だけが、彼を動かす動力源になっているかのようだ。 「おのれ、許さぬぞ……!」 何としても。何としても。 ラーダンに入り、そして。そして。 「我が姫を、略奪者から救い出して見せようぞ!」 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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