たわわの実りと初恋と 6


「……ロディ…? 何を言ってる?」

 間道に入り、やがて陽が傾き始めた頃、ドナは全速力で追いかけてきた幼馴染と合流した。
 だが、なぜか彼は1人きりで、同行しているはずの人影はなかった。

「ロディオン、どういうこと?」
「ウェラー卿達は?」

 親友達に口々に尋ねられて、だがロディオンは何も応えない。
 ただ「走りながら話す」と言って、馬の速度を上げただけだった。
 そうして、間もなく山道が薄墨のような夜の霧に覆われ始めた頃、馬の歩みが遅くなるのを待っていたかのようにロディオンが口を開いた。

「あの王子は自信過剰のバカ野郎だ。そしてこの間道に入ったこともあって、もうすっかり安全だと油断しているに違いない。そこを襲う。はっきり言えば寝込みを襲う」
「どうやって?」
「まず何よりも姫の身柄を確保する。それからアリリャットの一味から1人、これを捕らえる。こいつは道案内に使う。この間道はアリリャットに到る途中の国々にも通じているはずだ。地理的にラーダンは外れているだろうが、隣国のベウリンやダーダスには繋がっているかもしれない。とにかくラーダンに一番近い道を案内させるんだ。それから馬を放し、火を放つ」
「馬?」
「火!?」
「あ、危なくない?」
「だから何だ? 俺達は命懸けなんだぞ! それを分かっているのか!?」

 怒鳴りつけられて、スラヴァとエフレムが馬上で仰け反る。ラチェルとルチェルも戸惑う顔を見合わせた。

「それから」構わずロディオンが続けて言う。「混乱に乗じて、俺達はそのまま道を突っ走る。そして間道を出てラーダンに戻る」
「待て、ロディオン」

 厳しい声でドナが遮った。

「それだと、姫をラーダンにお連れすることになるぞ? そのこと、ウェラー卿は了承なされておられるのか?」
「……………」
「……なされる、訳がない、な……」

 ロディ。
 すでに馬は歩みを止めている。
 全員が、ロディオンの乗る馬の周りに集まって、物心ついたころからの友人を凝視している。

「ロディオン。答えろ。答えて、くれ。お前は一体……」
「キューリ姫を」

 噛んでいた唇を開き、キッと眦を上げ、決意をその瞳に漲らせ、ロディオンが言った。

「アリリャットから奪う。そしてそのまま、姫にはラーダンに来ていただく」

 ラーダンの実情を、その目で確かめていただく。

 その言葉に、ドナ達の喉がごくりと鳴った。

「…それって」スラヴァがおずおずと口を開いた。「あれだよね? 姫様にお願いして、納得してもらって、そして来て頂くってことだよね? まさか……無理矢理連れて行っちゃうとかじゃ……ないよね…? ね?」

 ロディオンの表情に切羽詰まったものを感じたのか、スラヴァの表情も声も引き攣り始める。

「「ちょっと待ってよ!」」

 ラチェルとルチェルが同時に叫んだ。

「それってどういうこと? ロディオン、説明して!」
「だって、それじゃ、私達も姫様の誘拐犯になっちゃうじゃない!?」

 あいつらと同じよ!?

「違う!!」

 ロディオンが気色ばんで怒鳴り声を上げた。

「姫の御身をどうこうしようと不埒な事を考えているわけじゃない! ただ…姫にその目で、その耳で! 我らがどれほど魔族の救いの手を欲しているかを理解していただき、魔王に対して口添えをしてもらいたいと考えているだけだ!」
「だったら!」スラヴァが切羽詰った声を上げ、身を乗り出した。「僕達の手で姫様を助け出すだけで良いじゃないか! そしたら眞魔国だって僕達に感謝して、きっとすぐに助けてくれるよ!」
「そんな保証がどこにある!?」

 即座に言い返したロディオンに、全員がウッと詰まって黙り込んだ。

「キューリ姫を救えば魔王が感謝して俺達を救ってくれると、どうして断言できるんだ……? 俺は、そんな能天気に彼らを信じることなどできない……!」
「ロディオン! 魔族は決して……」
「別に魔族だからどうこう言ってるわけじゃない! ただ……」

 ラーダンは、眞魔国からすればあまりにもちっぽけな国だ……。

 哀しげに、呟くようにそう言われて、ドナは思わず唇を引き結んだ。

「別に歴史の本を紐解くまでもない。小国は常に大国の都合に振り回され、利用され、そして蔑ろにされて踏み潰されてきたんだ…! 俺達から見れば大国のフランシアさえ、大陸では小国に過ぎないんだぞ? 眞魔国の鼻息1つで吹っ飛ぶと言っていたのはフランシアじゃないか! あのフランシアすら簡単に捻り潰すことのできる眞魔国が、姫1人を助けたからといって、俺達ごときに気を遣ってくれると思うか!? 一旦姫を渡してしまったら最後、良くやった、褒めてつかわすの一言で終わらされてしまう可能性だってあるじゃないか!」

 そんなことは……。言い返そうとして、そのまま全員が押し黙ったしまった。
 ないと言えるのだろうか。
 ふと胸に兆した不安と疑問に瞳が揺れる。

「魔族は確かに、多くの人間の国を崩壊から救っている」

 友人達の心が揺れ始めたことに力を得たのか、ロディオンの続く言葉に力が籠もる。

「だが、国というものが、何の下心もなく、無償で他国を救うなどということがあると思うか? 別に魔族だからどうこういう訳じゃない、人間だって同じだ。個々人が己の信条に従って慈悲深い行いを為すことはあるだろう。だが国が、王が、己の国の利益を損なおうとも他国を救うなど、そんなことを俺は到底信じられない!」
「じゃあロディオンは」エフレムが尋ねた。「どうして魔王が人間の国を助けていると考えているのさ?」
「俺は……分らない。だが、きっと何か目的があるんだと思う。それが悪しき企みかどうかは分らない。とにかく何か、最終的に魔族に利するものがあるからこそ、魔王は人間の国に救いの手を差し伸べているのだと思う」

 重要なのは、それがラーダンのような小さな国にも当てはめられるかどうかだ。
 きっぱり言われて、ドナは眉を顰め、ラチェル達はまたも互いの表情を確かめ合った。

「……だから、姫を…?」
「ああ、そうだ。だから姫にラーダンに来てもらう。あの方ともほんのわずかしか触れ合っていないが、しかしお心の優しい方なのは確かだと思う」

 ロディオンの言葉に、ドナが勢い込んで頷く。

「ラーダンをその目で見て、俺達の民と触れ合って下されば、あの姫君のことだ、きっと同情してくださると思うんだ。そして姫の口から魔王に進言してもらう。前王が親戚だと言っていただろう? だったらあの姫も紛れもない王族のはずだ。王族の姫君が、自分を救ってくれた恩人をぜひ助けて欲しいと言ってくれれば、ラーダンに救いの手が差し伸べられる可能性は遥かに高くなる。そう思わないか!?」
「でもそれ、重大な問題があるよね?」

 怒りだろうか、わずかに低く、尖った声が割り込んできた。スラヴァだ。

「結局はさ、ロディオンがやろうって言ってることは拉致誘拐だろう? 目的はどうあれ、アリリャットと同じ、姫様を無理矢理連れ去ろうってしてるんだよね? ロディオンは姫様がラーダンの応援をしてくれるって決め付けてるけど、どういう根拠があるわけ? 姫様が、自分を誘拐するような国の味方に、どうしてなってくれるって言えるのさ」

 それは。ロディオンが目を閉じ、軽く息を吸う。

「…根拠なんか、ない」
「っ! ロディ…!」
「それでも姫を、魔族の王族の姫という駒を、容易く手放しては絶対ならないと思う。ラーダンを救うためには何としても魔族の力が必要だ。ここで得た縁を繋げなければ…! 後は……誠意、だと思う」
「セイイって、誠意?」
「ああ。俺達の思いを、誠心誠意訴えるんだ。俺達がアリリャットの王子の様に、己の欲望の赴くままに姫を拉致したのでは決してないのだと、ご理解頂けるように全力で訴え、そしてお願いするんだ。姫に、俺達の後ろ盾になろうと考えていただくには…それしかない」
「…そりゃ、そうだろうけど……」

 眉を顰めるスラヴァから視線を外し、ロディオンは難しい顔のドナと改めて向き合った。

「ドナ。それにこれはお前のためでもある」
「お、俺!?」

 意外な言葉に、ドナが目を(本人的には)瞠った。そんな幼馴染に、ロディオンが大きく頷く。

「ああ。このままだとお前、姫にとって単なる通りすがりの誰かにしかならないぞ?」
「…っ!!」
「ロディオンっ! ちょっと…っ!」
「間違ったことは言ってない!」

 確実に動揺を見せたドナに、ロディオンは叩き込むように言葉を続けた。

「確かに助けてもらえれば感謝もするだろう。恩にも着るだろう。だがそれだけだ! 俺達の手を離れ、ウェラー卿達の下に戻されれば、姫の記憶から俺達のことなど早々に消えてしまう。ドナ、お前のことも、記憶の片隅に残ったとしても、到底お前が望むような相手にはなってくれない。姫はそもそも大国の王族だ。ラーダンのようなちっぽけな国の王太子など、妻はおろか、友人にすらなってもらえないだろう」
「……………」
「ロディオン、それは言いすぎ……」
「事実だ。それくらいお前達だって想像がつくはずだぞ」

 言い返されて、言い返すことができなくて、ドナの表情はぐっと暗くなり、スラヴァもエフレムも、もちろんラチェルやルチェルも口元を歪ませ黙りこくった。

「だから姫と過ごす時間を作るんだ! ドナ!」

 お前は良いやつだ。
 確信を持って言われて、ドナが自信無げな顔を上げる。

「お前が、思いやり深く、働き者で、だから民にも慕われていることを、俺達はよく知っている。だが、他国に居ては、お前の良さを発揮することはなかなか難しいだろうと思う。ラーダン人は王も民も、皆のんびりしているというか、人が良いというか、誰かを押し退けて自分を主張することができないからな。だがラーダンでなら! ラーダンでのお前を見てもらえれば、お前がどれほど良い男かということを姫にも分ってもらえる。ラーダンの良さも分かってもらえる。お前が、国は小さくとも立派な王になれる人物だということを、夫とするに相応しい男だということも、きっと分ってもらえるはずだ!」

 確かにドナの心は揺れ動いている。それが分ったから、ロディオンは馬上でさらに身を乗り出した。
 だがそこで、ドナはキッと顔を挙げ、ロディオンを鋭く睨みつけた。……糸目でも、長い付き合いでちゃんと分るのだ。

「……いまは…っ。今は姫をお助けすることだけを考える! まだ姫の御身を救い出しもしていないのに……。その後のことは……後のことだ!」

 それだけ言うと、ドナはパッと馬首を巡らし、先を進み始めた。慌てて全員が後を追う。

「……ロディオン。今のはちょっと卑怯よ」
「そうよ、ドナの恋心を利用するようなものじゃない…!」

 ロディオンの乗る馬の両側を、ラチェルとルチェルが抜いて行く。そして抜きしなに左右から掛けられた非難の声に、ロディオンは苦笑を浮かべた。

 今は、これで良い。
 少なくとも、ドナはロディオンの提案を拒絶しなかったのだから。


□□□□□


「……どうしている?」
「のんびりしてるよ。いい気なもんだよね」
「よもやこの道を追ってくる者がいるとは考えもしていないんだろう。確かに、俺達だってラチェルとルチェルがいなければ、ここを発見することはできなかったんだから」

 暮れなずむ山道。山肌を覆うような幾つもの大きな岩陰に隠れて、ドナ達ラーダン追跡隊の一行は囁きあっていた。
 山の夜は早い。どんどん闇が濃くなっていく中、彼らが見つめる一画だけが異様に明るく浮き上がって見えた。もちろんそこにいるのはアリリャットのタクパ王子とその一行だ。彼らは数人ずつ、固まりになって焚き火を囲んでいるのだ。食事の準備だろうか、串に何かを刺したり、湯を沸かしているらしい動きも見えるから、おそらく今夜はここで夜を明かすつもりなのだろう。

 岩の扉を抜け、ここまでアリリャットを追ってきた。
 アリリャットに向かうまでは1本道なのだろうと高を括っていたのだが、実際のところ、道はいくつも枝分かれして後を追うのはかなり難しかった。良く考えてみれば、アリリャットの山の道は様々な国に繋がっているのだ。枝分かれするのも当然だろう。
 自分達の問題で話し合うのに時間を喰ってしまい、何度も見失ったかと危ぶんだ。だが何とか、馬が通った真新しい跡を見つけることができてここまでやってきたのだ。もしこの場所に辿り着くまでに陽が完全に落ちていたら、もしくは、アリリャットの王子達が慢心せず、一目散に国に向かっていたならば、今日の内にアリリャットを見つけるのは無理だったかもしれない。
 だがとにかく、ドナ達は追いついた。

「……お腹、空いたよねぇ……」

 エフレムが情けなさそうに呟いた。

「それは言わない約束でしょ!」
「………してないよ、そんな約束……」

 食事だの何だの、考えもせずに追いかけてきたのだから仕方がない。アリリャットの焚き火から流れる、肉の焼ける匂いが堪らない。

「…で? 何か計画があるようなコト、言ってたよね、ロディオン?」

 スラヴァが挑発するように、ロディオンに向かって顎をしゃくってみせる。それに苦笑を返しながら、ロディオンはアリリャットの野営に視線を向けた。

「見てみろ。ヤツ等が2つに分かれているのに気づいたか?」
「2つ? 焚き火は4つあるじゃない?」
「そうじゃない。ほら、良く見ろ。木立の中に入ったところに小さな天幕がある。おそらくアリリャットの王子はあの中だろう。姫も当然あの中だな。…落ち着け、ドナ。まず話を聞いてくれ。……あの天幕のすぐ側に焚き火が1つ。あれを囲んでいる連中は料理も何もせずに酒を、あれは多分酒だろうが、飲んでいる。せいぜい剣を磨いているのが2、3人だ。あいつらはあの中でも身分が高いんだろう。それに比べて、残りの3つでは、ほら、火にあたってのんびりしている者はほとんどいない。肉を焼いたり、鍋で料理をしていたり…靴を磨いているのもいる。自分はちゃんと靴を履いているのに。おそらく命じられてやってるんだろう」
「つまり、あの3つの焚き火に集まっているのは小者ってことだね?」
「そういうことだ。腐っても王子の一行だからな。取り巻きと、召使をそれぞれ引き連れてきたんだろう」
「…と、いうことは……」
「全員が剣を使えるわけではないということだ。注意するのはあの焚き火の側にいるヤツらだけだ。本当ならまだ剣の使える者がいたんだろうが、そいつらは俺達が倒したからな!」

 声を潜めつつも誇らかに言えば、ドナはもちろん、ラチェルやルチェル、エフレムや少々反抗的なスラヴァも大きく頷いた。

「よし。じゃああらためて計画を聞いてくれ」

 ほんのわずか躊躇いながらも、ドナ達はロディオンの周りに顔を寄せた。


□□□□□


 夜が更ける。山の全てがシンと闇に沈む。時折響くのは、ほうほうと鳴く鳥の声、羽ばたき、移動する獣が立てる密やかな葉ずれの音、そして人間が熾した炎の爆ぜる音、それから……。
 長靴の爪先が石を踏みつけ、ジャリと音がする。それにピクリと足が止まり、わずかな沈黙が戻ってくる。それからコクリと誰かの喉が鳴る音がした。
 それ以上、何も変化は起きない。間もなくまた土を踏む音が続いた。

 時折思い出した様に朱の輝きを弾かせる4つの焚き火。身を寄せ合うように寝転ぶ男達。その中の1つ、1人の男を囲むように足が並んだ。
 そしてその男の身体をそっと、だが容赦なく抱き起こす。

「………? え……っ!?」

 不自然な動きに男の目が開き、口から声が発せられようとする。
 だがその瞬間。男の口が大きな手に覆われた。

「静かにしろ」耳元に囁かれる言葉。「動くな」

 危険を察して、男が懸命に頷いてみせる。

「眞魔国の姫は天幕の中か?」

 わずかな炎に照らされた男の顔が引き攣る。

「答えろ。嘘は言うなよ? う、嘘だと分ったら、お、お前の、いいいい、命は、な、なな、ない、ぞ…!」

 ぱちんと皮膚を叩く音がした。なぜかいきなり舌が動かなくなったらしい男が、自分で自分の頬を叩いたのだ。男はもちろんドナである。

「こっ、答えろ! って言ってるのに、何で答えないんだ。早く言え!」
「ちょっと、ドナ! 口押さえてんのに、返事できるわけないだろ? 無理だって。…えーとぉ、天幕の中に姫はいらっしゃいますか? いるなら頷いて下さい。いないなら…」
「スラヴァ、何でそんな丁寧なの?」
「こういうのって僕の性格に合わないんだよね。暴力的だしさ」
「そんなことどうだっていいでしょ!? 時間がないんだから! ちょっとあなた、何見てるのよ。姫はいるの? いないの? 言っとくけど、もし嘘だって分かったら、命は取らないけど大怪我するわよ?」

 最後はぐっと低くなった女の声に、口を塞がれた男は慌てて何度も頷いた。

「よ、よし…! エフレム、ロディに知らせてくれ。俺たちは次の準備にかかる。確認でき次第次に進むぞ」
「その前に」スラヴァが身を乗り出し、男の顔を覗き込んだ。「あなた、この間道に詳しいですか? どの道を選んでいけばどこに出るとか、分かりますか?」

 一瞬きょとんと目を瞠った男が、また急いで頷く。

「そうですか。助かります。ラチェル、ルチェル、この人、確保」
「りょーかーい」
「任せといて」

 はい、あなた、こっちよ。にこやかに声を掛けたかと思うと、二人はどこから調達したのか、荒縄を取り出して素早く男を縛り上げた。そして布で猿轡を噛ますと、「そーれっ」と声を合わせ、軽々と男を持ち上げ、じゃあねと暗闇の中に消えていった。

「……あの縄、どこから持ってきたって?」
「あっちの、馬がまとめて繋がれてるところ。色々置いてある中から物色してきたんだって。あ、食料も確保したってさ。意外とこういう才能があるのかもね、あの二人」
「………不満そうだな、スラヴァ」
「当たり前だろ? 今更何言ってるのさ。やってることもそうだけど、どんどんロディオンの思い通りになってることがさ。不満っていうか、腹が立つっていうか…」

 いいの? ドナ。
 主はお前なんだぞ。思いのこもった眼差しで覗き込まれて、ドナは思わず顔を背けた。


□□□□□


 深い山の闇に、突如「ヒンッ!」と馬の嘶いた。
 眠りについた男達がそれに気づく間もなく、次に鳴り響いたのは馬蹄の音と地響きだった。

「…っ!? な、何だ!?」

 男達が跳ね起きる。

「馬がっ! 馬が逃げる!」
「何だと!?」
「どうしてそんな…っ!?」
「捕まえろ!」
「獣か!? 獅子か何か……」
「この辺にそんなものが出るという話は……」
「火だ!!」
「荷が燃えているぞ!」
「見ろ! あそこにも……こっちにも炎が!」
「囲まれた!」

 最後の叫びに、馬を捕まえようと右往左往していた男達の動きが一瞬止まった。
 有り得ない禍々しい輝きに、彼らの視線が一斉に向く。
 それは、他の木々に燃え移らないよう、注意深く周囲の処理をした(野焼きや山焼きでこういう作業は慣れている)上で灯された小さな炎に過ぎなかったし、めぼしい荷はラチェル達が抜き取った後だったのだが、もちろんアリリャットの男たちは知る由もない。ただ、存在するはずのない炎に囲まれてしまった事態に、彼らは一気に恐慌に陥った。

「何事だ! 騒々しい! せっかくお休みの姫が目を覚ましてしまわれるではないか!」

 天幕から飛び出してきたのはアリリャットのタクパ王子だ。それが嗜みとでもいうのか、しっかり夜着を着込んでいる。

「若! 馬が! 馬が暴れだし、それで…!」
「餌を求めて猿でも飛び込んできたか?」
「とは思えませぬ! いきなり炎がいくつも出現いたしたのです! よもやこれは、魔族の呪いでは…!?」
「ば、バカを申せ!」明らかに狼狽えながらも、王子は声を張り上げた。「火を、とにかく火を消すのだ! じい! お前達もぐずぐずせずに火を消せ! それから馬を集まるのだ! 今から馬をなくしては、国に帰れぬ! さっさと行け!」

 王子の命令に、ハッと畏まって老人始め男達が駆けていく。
 その背を見送ってから、タクパ王子は思い出したように身体を震わせた。

「魔族の呪いなど信じぬぞ。そうとも、ここで姫を手放してなるものか! すぐに出発だ。まずは着替えねば……」 

 その瞬間だった。 
 ガツっという不穏な音と共に、王子がよろめき、地面に膝をついた。
 何を、と振り返る間もなく、背後から襲いかかってきた数人分の腕が王子の上半身をさらに強く地面に押し付ける。

「はい、ごめんなさいねー」

 女性の声がしたと思ったら、いきなりグイグイと身体を締め上げられた。
 王子として生まれて生きて20数年、いまだ経験したことのない無体な扱いに愕然として見れば、縄で身体が縛り上げられているではないか!

「なっ、何者だ、無礼なっ! 小なりといえど一国の王子の身体をまるで罪人のように扱うとは! 貴様、許されることではないぞ!」
「罪人のようにって、人を拉致誘拐したら文句のつけようのない罪人でしょーが」
「……って、人のコトを言えなくなりそうな状況だけどね」
「余計なこと、言わないで、スラヴァ」

 縛り上げられ、そのまま天幕の中にずるずると引きずられ、さらに気楽な会話を交わされ、タクパ王子が憤然と抗議しようとしたその時。
 天幕の中に二人の男がいることに王子は気づいた。その一人、大柄な男の腕には、毛布に包まれた人型の……。

「っ、そ、それは、よもや我が姫……!」
「誰が我が姫よ!」

 背後の女が王子の後頭部を叩く。ぱこん、と軽い音がした。

「き、貴様ら、確か……あの離宮で姫のお側にいた用なし共!? …さては貴様ら、姫を略奪せんと離宮に押し入ったところであったか! 私が救い出したというのに、まだ諦めきれずに追ってきたのだな!」
「事態をとことん自分中心で語るな! それより! このような事態でも姫は目を覚まされない。眠りが深すぎる。お前、姫に一体何をした?」
「まさかと思うが、姫の御身を汚したりなどは……」

「馬鹿を言え!」天幕にいた二人の男の言葉に、王子は憤然と言い返した。「私は誇り高い王族であるぞ! 姫との記念すべき初めての夜は、我が王宮にて華麗な花々と宝石と良き香りに飾られた優雅極まりない寝台にて過ごさねばならん! このような場所で野合などできるか! …恐れながら姫には、国に戻るまで眠っていただくのが最善と、少々眠り薬を飲んでいただいただけだ」
「眠り薬だと!?」姫を大切そうに抱き上げた男が怒りの声を上げた。「そんな怪しげなものを姫に飲ませたのか!?」
「我が国ではどの家にも常備してある薬の一つだ! 決して危険はない! この私が愛しい姫に危険なものを飲ませると思うのか!?」
「フランシアの国王陛下がおられる宮を焼き払い、姫を拉致したお前など……!」
「落ち着け、ドナ。とにかく、こいつが最低限の良識を備えてくれていて助かった。だろう? というわけで」

 王子の傍らに膝をついた男が何か合図をしたと思った瞬間、タクパ王子は再度の衝撃を受け、そのまま意識を失った。


「さて、と」

 王子をその場に転がして、男、ロディオンは立ち上がった。そしてキューリ姫を抱いたまま立ち尽くすドナに顔を向けた。

「ドナ?」

 決断を促すロディオン、戸惑うドナ、そして二人をじっと見つめる幼馴染達。 

「俺は……」

 惑う心を表わすように、ドナの目尻が震える。…本来なら瞳が揺れるところだが、ドナは糸目なので瞳で表情をはかるのは至難の技なのだ。
 だが。
 見つめる幼馴染達の視線から逃れるように、ドナが毛布に半ば隠れた姫の顔をのぞき込んだ、その瞬間だった。
 まるでドナの視線を感じたかのように、キューリ姫が身じろいだ。

「………う…うぅん……」

 形の良い眉がかすかに顰められ、淡い紅色の唇がわずかに開き、それから……ふわりと微笑んだ。

「………っど……」

 そっと囁きかけるような声がドナの耳を打った。
 ドナ、と。
 そう呼ばれたような気がした。
 だから……。

 ドナの心に、魔が差したのかもしれない。


□□□□□


「ウェラー卿。君、ポケットからさりげなく暗視スコープとか出して、僕を感動させる気はないの?」
「………申し訳ありません、気が利きませんで」

 すっかり陽の落ちた山道で。
 街灯はもちろん、懐中電灯なんぞもあるわけがなく、松明の揺れる炎だけが頼りの眞魔国&フランシア合同救援隊はほとんど身動きが取れなくなっていた。
 間道の偽装は軽々と見破ったものの、そもそもの出発の遅れは如何ともし難く、ただでさえ日の暮れが早い山中のこと、またたく間に闇に閉じ込めれらてしまったのだ。

 間道はアリリャットへの一本道ではない。山中を国境に関わりなく走る間道は、様々な国や地方に逸早く、誰にも知られることなく抜けるためのものであり、複雑に枝分かれしている。
 先行する一行に追いつく方法は唯一、馬が通った真新しい痕跡を見つけることだけだ。だが、不安定に揺れる松明の炎だけではそれもかなり難しくなる。

 闇の中をせわしく走り回るいくつもの炎を眺めながら、村田はやれやれとため息をついた。

「アントワーヌ殿が張り切ってくれたのはありがたいんだけど、道を探す兵士の数が多すぎたのも仇になったよね」
「ええ。多人数で無用心に動き回ってしまったため、道が荒らされてしまいました。これでは赤外線スコープがあったとしても役に立ちません」
「まったくだ」

 ところで、と、村田は隣に立つコンラートの顔を見上げた。

「ラーダンの連中は本格的に敵に回ったようだね」
「根は善人のはずですから、翻意を期待したのですが……。この時間まで何のコンタクトも取ってこないとなりますと……」
「恋は人を狂わせるってことか。ったく、渋谷は可愛いけど男前だし、傾城ってガラじゃないんだけどなー」
「どうなさいますか?」
「どう、とは?」
「傾城傾国とは国を滅ぼすという意味でしょう? ラーダンを潰しますか?」
「魔王だと知っているかどうかは別にしても、眞魔国の高貴な存在をそうと知って拉致すれば、それ相応の報いは受けるべきだろう」
「その点に異論はありません」
「その点以外では?」
「陛下がどのように判断なされるか、それを考えております」
「渋谷は……さあ、どうだろうね。僕も一刻も早くそれを知りたいと思うよ。そのためにも早く彼を取り戻さなくちゃね」
「はい」

 答えて、コンラートはバタバタと無秩序に走り回る兵士達を見回し、改めて眉を顰めた。フランシア軍は、戦闘以外の軍事行動に関する訓練を、もっと充実させるべきだ。……立場上口を出すわけにはいかないが、見ているとイライラする。
 溢れそうになるため息を隠すように、コンラートは「とにかく」と言葉を発した。

「今夜はここで夜を明かすしかなさそうです」
「ああ。でも、ま、今やれることはやっておこう。というわけで」

 言いながら振り返れば、焚き火で調理した食料を皿に乗せて運んでくるヨザックとクラリスの姿が目に映る。

「ライラって、ホントに気が利きますよねー。焼肉と焼き野菜です。スープとお茶はクラリスが運んでますんで……」
「ヨザック」

 呼ばれて、皿を手にしたままヨザックが「はい」と応えた。

「君、今からラーダンに走ってくれる?」
「……先回りですか」
「察しの良い御庭番だ」

 にこっと村田が笑う。

「状況的にみて、ラーダンはすでに渋谷を手に入れた可能性が高い」
「…彼らが陛下奪取に失敗した可能性はないのでしょうか?」

 思わず、という様子でクラリスが口を挟む。すぐに「申し訳ありません」と頭を下げたが、村田は気にせず、「それはないね」と答えた。

「もし彼らが、自分たちでは『キューリ姫』を奪うことができないと判断していたら、とっくに僕たちと合流しているよ。それこそ、横取りなんか微塵も考えていませんという顔でね。そして、僕たちに協力することで自分達の点数を上げる方に態勢をシフト、切り替えるだろうね。ドン・アーダンという王子は分からないが、あのロディオンという側近はそれくらい考えつくだろう。それがないということは、彼らが成功したということだ。だからヨザックに馬を走らせて彼らより先にラーダンに入ってもらう」
「俺ではいけませんか?」

 どことなく不満そうにコンラートが尋ねた。村田が軽く肩を竦める。

「君は現在、ツェリ様と並んで眞魔国の代表だ。眞魔国の上王陛下とフランシアの国王夫妻を巻き込んだ事件が起きたからには、事件解決まで公的な場に公的な存在としてあるべきで、他国に単身潜入などすべきではない。なんてことはとっくに分かってるんだろう?」
「……俺は陛下の護衛で、それはどこで何をしていようが永遠に変わりません」
「イイ役をヨザックに取られそうだからって、僕相手に子供っぽく拗ねてみせても無駄」

 ムッとしたのを隠しもせず、コンラートの眉が顰められる。

 あらま、隊長ったらすっかり分かりやすくなっちゃって。ヨザックは内心呟いて肩を竦めたが、実際のところヨザック自身も冷静とは到底言えなかった。
 権謀術策に長けた相手とがっぷり四つに組んで闘うというならまだしも、相手はアレだ。
 にも関わらず、先んじられ、あまつさえ魔族の至高の宝、魔王陛下を奪われた。
 隊長にしたって猊下にしたって、もちろんこの俺様だって、どうして冷静でいられようか。

 …あの王子様達もなあ……。
 恋心が募って突っ走って、それがたまたま上手く事が進んでしまっただけ……と、そこまで考えて、ヨザックはいやいやと小さく頭を振った。
 上手くなんかいってない。あいつらは失敗すべきだった。そして頭を冷やし、理性を取り戻すべきだった。それが誰にとっても最良の道だった。
 あいつらは最悪の、国の頂点に立つ者として最低最悪の道を選んだ。
 人として、指導者として、民の上に立ち、民の生命をその背に負うことを自覚する者として、何かひとつでも凌駕するモノがなければ決して敵に回してはならない相手を、二人も同時に敵に回してしまった。そしてその二人の後ろには、俺達を含め、魔王陛下を愛してやまない魔族の民と、少なくない人間が続いている。
 猊下と隊長の2人は、その人々全員の怒りの体現者でもある。
 ラーダンのあの連中は、それを全く分かっていない。
 それどころか……。

「あのラーダンの王子達ですが」クラリスがふいに発言した。「もしかして、自分たちが陛下を、彼らにとっては『姫』ですが、拉致したことを気づかれないと考えているのでしょうか」
「そうだね」
「ああ、そうだな」

 コンラートと村田が、ほとんど同時に答える。コンラートが軽く頭を下げて会話を村田に譲り、村田が小さく頷いて応える。

「自分は賢いと、中途半端に自覚しているものほどこういう間違いを犯すね。誰もが自分以上に物事を見ることができないと無意識に思い込み、そしてその判断に従って行動してしまう。ラーダンの連中、策を講じているのはあのロディオンとかいうドン・アーダン王子の側近だろうけど、彼はフランシアと魔族が、『キューリ姫』誘拐犯としてアリリャットだけに的を絞って動くと確信している。全ての目がアリリャットに向かい、自分達が『姫』を拉致するなど誰も思いもしないだろうとね。そうして彼らは、自分達の企みを気づかれていないと思い込み、アリリャットの間道の偽装が誰にも見破れないと思い込み、時間稼ぎは十分と思い込み、そして何より、『キューリ姫』を手に入れさえすれば、『姫』を操って自分たちの都合良いように事を動かせると思い込んでいる。いや、何としても『姫』に言うことをきかせると決意している、という段階かな? その気合でドン・アーダンを焚きつけたんだろうな。とにかく、彼らの思惑の中で、わずかながら成功しているのは時間稼ぎだけだ。……実をいえば、僕もね」

 言って、村田がふと暗い空を仰いだ。

「彼らが根っから悪人じゃないことは重々分かっている。だから、ウェラー卿と同じく、彼らが考え直すことを期待して、僕たちの下に戻ってくるのを待っていたし、あのぼーっとしているようで案外しっかりした王子が先走る臣下を抑えてくれるんじゃないかとも考えていた。だけど…」

 そうして視線を戻した村田は、信頼できる魔王陛下の臣下をぐるりと見回した。

「残念ながら、時間切れだ。彼らが稼いだ時間と距離は、これから一気に逆転させてもらおう。そして、僕たちの大切な人を取り戻すことにしよう」

 ヨザック、頼むよ?
 大賢者の指名を受け、ヨザックは手にしていた惣菜をクラリスに渡し、それからピシッと敬礼した。

「畏まりました、猊下。グリエ・ヨザック、これよりラーダンに向かいます」    


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長らくお待たせいたしました〜。
とにかく、切りのよさそうなところで一旦アップすることといたします。……って、結局ヨザックが良い役を取りそうなところで終わっちゃってるんですけどね。
……なぜだかどんどん影が薄くなる獅子……(笑)。あ、もちろん大好きだよ〜!

陛下は寝っぱなしだし(汗)、全然見どころがないと申しますか、イロイロ冷や汗ものではありますが、ちまちま先にすすんでいきたいと思ってます。
でもまー私ってば、根っから悪人もいなければ、欲も下心もない善人なんぞもいないと思ってますし、その思いを下敷きにキャラを作ってはいるのですが、今回のドナ君たちはかなりやっかいです。
もっとはきはき、善行も悪行も自分で考えて、シャキシャキ動こうよ! と言い聞かせてるのに全然ダメで。
弱ったもんだと思いつつ、とにかく進んでまいります。
頑張りますので、どうか最後までお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます〜!
ご感想、ご声援、心よりお待ちしております。