「コンラッド…っ!!」 咄嗟に瓦礫の山に手を延ばす。 「姫っ!」 「渋谷、危ないっ!」 両側から声がして、同時にがっちりと動きを封じられる。それを振り払おうと、ユーリは力任せに両腕を振り回した。 「渋谷!」耳元で怒鳴りつける声。「ここはもう崩れる! 逃げるんだ!」 「嫌だっ! こんな山、吹っ飛ばしてしまえば……」 「皆がどういう状態か分らないだろう!? 下手をしたら誰かを一緒に吹き飛ばしてしまう。だから……!」 ユーリ…! 建物の崩れる音と爆風の余韻の中、だがその呼び声は確かにユーリの耳に届いた。 「……っ! コンラッド…っ!?」 ……ユーリ!? 無事ですか!? 確かにコンラートの声だった。 だが、瓦礫の小山が2人を遮る壁となり、同時に空間を押し潰すように溢れる荒々しい破壊音に紛れ、その声はすぐに消えそうになる。 「コンラッド! 大丈夫か!? 怪我は!? 皆は!?」 「ウェラー卿!?」 ユーリのすぐ隣に村田も身体を寄せて、一緒になって瓦礫の向こうに声を掛ける。 ユーリ! 猊下! ご無事ですか!? 「無事だよ! そっちは!?」 ああ、陛下! ご無事ですのねっ!? こちらは大丈夫でしてよ! ただ……。 「ツェリ様!?」 ライラと兵士達が瓦礫に挟まれているんです! 「コンラッド!? 何だって? ライラが!?」 大丈夫です! もうすぐ助け出せます! ユーリ達はすぐに避難してください! 「でも!」 爆発で回廊の壁が破られました! ヨザ達が穴を広げています! 我々はそこから脱出できます! 大丈夫ですからユーリと猊下は早く避難して下さい! 「ホントに!? 本当に大丈夫なのか、コンラッドっ!?」 大丈夫です! …そこには他に誰がいますか!? ラーダンのメンバーは!? 「…え? あ、あ…え、っと……」 振り返って見回すと、視界を灰色に埋める粉塵の中、ラーダンの王太子と側近の金髪の青年が、吹き飛ばされていたらしい仲間の女性達を起こしているところだった。王太子はそれでもユーリ達が気になるのか、ちらちらと絶え間なく視線を送ってきている。 彼を、王太子を呼んでください! 「あ、う、うん…!」 あの…! と呼びかけて、名前をちゃんと覚えていない事に気づいた。一瞬口篭ったユーリの隣で、村田が立ち上がる。 「君! ドン・アーダン殿! こっちに来て!」 呼ばれて、飛び上がるようにこちらを向いた王太子が、慌てふためいて飛んでくる。 ……ドン・アーダン殿? 「あ、は、はい! ウェラー卿、ご無事でいらっしゃいますか!?」 こちらのことは良いから、すぐに2人を連れて避難してください! 「しっ、しかしっ、皆様は!? 国王陛下や王妃様は……!?」 こちらは脱出口があります! むしろそちらの方が危ない! 一刻も早く2人を安全な場所に連れて行ってください! 「ですが……」 さっさと行け! 「は、はい…っ!!」 ドン・アーダン殿! 「はいっ!」 2人の命をあなたに預ける。我々にとって大切な人だ。この期待を裏切らないで欲しい! ……もしへい、いや、2人にもしものことがあったら…… 王太子の喉がごくりと大きく動いた。 地獄の果てまであなたを追って、その命を頂きます。 「……は、はははは、はいぃ…っ!!」 「…こ、コンラッド…?」 丁寧な口調でなんつー物騒な内容。 「お命頂戴いたしますってヤツだね。唐獅子牡丹だね。あ、獅子繋がりでぴったりだね」 「呑気に言ってんじゃねーよっ」 さあ! 早く行きなさいっ!! 「かっ、畏まりましたっ! 姫、えっと、従兄弟殿も、参りましょうっ!」 「渋谷、行こう。ここで僕達がグズグズしてたら、ウェラー卿も逃げるに逃げられないよ」 「………お前な…。コンラッド! 皆! 外で待ってるからな!」 「ああ、そうだ、ウェラー卿。僕からも君に一言」 …え? 「実はただ今瀕死の重傷を負っていて、僕達を逃がすために虚勢を張ってました。で、僕達が逃げたのを確認した後、安堵の微笑を浮かべて事切れました。なんてオチは許さないからね」 ……………。 「もしそんな時代遅れのベタな展開で渋谷を悲しませたりしたら。ウェラー卿、僕は君を八つ裂きにするのに地獄の鬼の手は借りない。それこそ地獄の果てまで追っていって、僕のこの手でミンチにしてやる。そして沸騰する血の池に放り込んでシチューにしてやるからそのつもりでいるように」 …………絶対死にません。死んでも死にません。何を踏みつけても生き延びます。……ヴォルフ! ヨザ! ここで凍るな! アントワーヌ殿まで! 早く作業を進めるんだ!! 母上、何をうっとりしてるんですか! 早くライラを引っこ抜いてください! クラリスは……そのまま続けてくれ。 よし。 瓦礫の向こうで早口で指示を与えているコンラートの声を確認して、村田はすくっと立ち上がった。 「さあ、行くよ! って、こら、そこの君達! 僕達を安全なところまで案内するんだろう! そんなところで腰をぬかしてどうする!? さっさと立つ!! ……渋谷? 君まで何を子兎みたいにぷるぷ震えてるのさ」 さあ、ぐずぐずしないで行くよ! 親友に腕を引っ張られて、「ひょ〜え〜……」と心の叫びを上げながらユーリは走った。二人の前を、ラーダンの王太子とその側近達が転がるように駆け、炎と瓦礫から逃げている。……逃げているのが、炎からなのか、それとも別の何かからなのかははっきりしないが。 「……む、村田、コンラッド達、ホントに瓦礫の下敷きになってたりしないよな…?」 「さあね」親友はにべもない。「でももしそうだったとしても、さっきの僕の励ましで元気百倍になってるんじゃないかな。瓦礫なんて吹っ飛ばして、壁に体当たりして穴を開けてるよ」 「そ、そっか……?」 だったらまあ……良い、か…? 「そんなことよりもね、渋谷」 安心して良いのか不安になって良いのか、よく分らずに首を捻るユーリの耳に、妙に低い村田の声が響いた。 「…え?」 「僕はさっきから気になって仕方がないんだ」 「何、を…?」 「どうしてこの回廊は、こうも静かなんだろうね」 え? と見回せば。 「……ほんとだ……」 いつの間にか、火の気は全くなくなっていた。炎という灯が消えて、霧の様に薄く漂う煙が辺りを一層の闇に落とし込んでいるようだ。邸が崩壊する音も次第に遠いものになっている。 「誘導されている気がする……。イヤな感じだな」 「村田?」 「とはいえ、本当にここ以外安全な回廊がないというなら……」 出口です! 前方を走るラーダンの青年の1人、王太子の側近らしい金髪の青年が叫んだ。 □□□□□ 「………静かだね」 館の裏庭に当るのだろうか、潅木の茂みが広がる奥に、森の木立が黒いシルエットとしてぼんやり浮かんでいる。 村田は静かだと言ったが、背後からは風に乗って邸が崩壊する音や炎の弾ける音が聞こえてくる。 だがそれも、確かに遠い。先ほどまでいた場所の喧騒に比べれば、静かだという言葉はあながち間違いじゃない。 とはいえ……。 まったく……嫌だな。村田が苦々しい口調で呟いた。 「……村田?」 「用意された場所にのこのこ来てしまった。そんな気がしてならないんだ」 「用意された…?」 それはどういう意味だ? そう続けようとユーリが口を開いた、その時だった。 唐突にその場に灯が灯された。 いや、松明を手にした黒衣の、頭の先から爪先まで、まるで忍者か何かの様に黒い布で全身を覆った者達が木立の奥からいきなり姿を現し、ユーリ達を取り囲んだのだ。 ラーダンの王太子とその仲間達が、ユーリと村田を中心に集まってくる。 「お待ち申しておりました! 我が愛しの姫よ!」 「………はあ?」 男達の、さらに背後から貴公子然とした若い男が現れた。年の頃は22、3歳といったところか。松明の灯に浮かんだ顔は顎が細く、妙に高慢な気がする。綺麗に整いすぎた髭のせいかもしれない。 夜目にも鮮やかな絹を身に着け、大きく腕を広げるとユーリ達に向かって歩いてくる。 と、そのすぐ後から、白髪白髭の小柄な男性が転がるようにやってきた。 「若! 若、お待ちください! 他の者もおりますのに、そのようにお姿を晒しては……」 「何を申すか、じい! 我が妻となられる姫に初めてご挨拶するのだ! 顔を隠してどうする!」 バカだね。村田がぼそっと呟いた。 「黒幕が堂々と顔見せしたんじゃ、手下が覆面してる意味がないじゃないか」 そりゃそうだ。 「姫! 私はアリリャット王国の第5王子、タクパと申します!」 おまけに名乗ってるし。 若〜っと、涙目になっているらしい「じい」の苦労が忍ばれる。 「はーい、そこの不審者さんにちょっとしつもーん」 ユーリの隣で村田が手を上げた。 「何だ、貴様」 姫にご挨拶している時に無礼な。 細い顎をつんとあげ、あからさまに人を見下している。不審者の癖に生意気な。ユーリも思わずユーリもムッとなった。 「僕はこちらの姫の従兄弟ですけど?」 「なに、従兄弟殿とな!」 いきなり不審者の態度が変わった。 「おお! 姫の従兄弟殿とあれば、我にとっても従兄弟! 私はアリリャット王国の第5王子タクパ! 見知りおきたい!」 「ありゃりゃ王国のタッパー王子ね。どうでも良いけど、質問には答えてもらう」 「アリャリャではなく、アリリャ……」 「ここがフランシアの国王夫妻の別荘であり、国王陛下と妃殿下がおいでになることを知った上での狼藉だったのかい?」 な、なんと…! 不審者王子が口元に手を当て、仰け反るように2、3歩後退した。 「何ゆえ、私の仕業と分ったのだ!?」 申し訳ありませんが。剣を構えるラーダンの王太子と側近の金髪青年が、同時に振り返って言った。 「あまり経験がないのでこのように申しては何なんですが……。こいつ、頭のネジが弛んでませんか?」 「じゃなけりゃ、もともとネジなんかないとかね」 ひょいと肩を竦めながら、村田が辛辣な口調で返す。 「ああ、我が姫!」 誰が我が姫だ! ラーダンの王太子が怒りも露に怒鳴りつけるが、不審者王子は見向きもしない。どうやらユーリとせいぜい村田以外目に入っていないようだ。 「過ぎし日、かの天下一舞踏会において姫のお姿を目にしたあの瞬間、私は我等が結ばれるべき運命にあることに気づいたのです!」 「……は?」 「……油断してると湧いて出るんだよねえ、こういう害虫が。僕もうっかりしてたけど、水溜りや藪はいつもちゃんと始末しとかなきゃダメだよ、渋谷」 「………って、おれの責任かよ」 運命に逆らってはならじと、私はあの者達に申しました! ユーリと村田にほったらかされている間も、不審者王子は身振り手振りも大げさに、切々と思いを訴えている。 「しかしあの者共、このフランシアの国王とその妻は、姫の御名すら私に教えようとしませんでした。すなわち! 神が定めたもう運命を踏み躙り、姫と私の間を引き裂いたのです!」 「裂かれてない裂かれてない」 「ゆえに! フランシアの王とその妻は神に逆らう悪鬼にも等しい反逆者。この大罪人に対し、神に変わってその罰を下すのは決して狼藉とは呼ばぬ!」 これは正義なのだ! 闇夜。邸が崩壊し、炎の中に人々の叫びが交錯するその夜。なぜか一画においてのみ、沈黙が広がっていた。 「……こいつ、マジ…?」 「どこの世界にもいるんだよなー、こういうのが。ほら、政治家とは到底呼びたくない幼稚な某政治家がさ、辞任の時に言った言葉が『国民が聞く耳を持たなくなった』だったもんね。何をしようが自分は正しいって信じてるのが国のトップにいると、国民は本当に迷惑するよね」 「……あ、あのな……」 「その証に!」 己の言葉に酔い痴れているらしい不審者王子は、その時、莞爾と笑った。 「姫はちゃんと我らが用意した道を選び、我が前にこうしてお姿を御見せになられた。これこそ、私が正義を為した証拠、神意の賜物なのです!」 あ、ムカつくなー。村田が本気で嫌そうに顔を顰める。 「あの通路しかなかったとはいえ、このバカ王子の望みどおりのシチュエーションになるなんて……。ったく、他の通路は本当になかったのかい!?」 背後から叱り飛ばされて、ラーダンの王太子の側近である金髪青年がおろおろと振り返った。 「あ、あの…申し訳ありません。避難路を探しておりましたら、邸の者らしい男があの道をと……。姫たちをすぐにお連れするようにと言われて、その……」 ちっ。盛大に舌打ちされて、金髪青年がびくりと肩を竦めた。 「つまり利用されたんじゃないか。……切羽詰った状況とはいえ……ったく……! はい! もう1つ質問!」 「……従兄弟殿、いい加減に……」 「今回の襲撃はなかなか手際が良かったね」 「おお、そう思われるか? いやいや、お褒めにあずかり恐悦至極」 「…ある意味、ものすごく幸せな性格してるね、君」 「もちろんでござるよ! 姫をこうしてお迎えできて、私は今、幸福の極に立っておりまする!」 「それで? 今夜の襲撃は誰がどういう段取りをつけたわけ?」 言いながら、村田がちらちらと邸の方向を確認していることにユーリは気づいた。 コンラッド達が来るのを待ってるんだ……。ユーリは心中で頷いた。親友は懸命に時間稼ぎをしている。 早く来てくれ、コンラッド! 「なに、大した策は必要ございませんでした。ご存知でしたか、従兄弟殿? このフランシアには貴方方魔族を嫌う人間も多くいるのですよ」 「知ってるよ?」 「その者達に申したのですよ。お前達の望みを叶えてやろう。王の別荘に我が物顔に居座る魔族に正義の鉄槌を喰らわしてやろうと。……おお! どうか勘違いなさらないで下さい、姫! これはあくまで方便でございます!」 「それで? 続けて」 「いや何、そのような輩が色々と策を練っていることを聞いておりましたもので、金と、少々手練を融通することに致しました。それで襲撃を唆したのでございますよ。もちろん我らが何者であるかは伏せました」 「それなら、最悪襲撃犯が捕らえられても、君達は傷つかないものね」 「その通りでございますよ! よくお分かりですな!」 心底感心したという様子のタッパー王子(…違う)に、敵味方双方色んな方面からため息が漏れる。 「ところが、どうもそやつら、口先ばかりの情けない輩ばかりでして。気炎を上げるところまでは勇ましいのですが、いざ実行となるととんと腰が引けてしまうのですな。これでは姫をお迎えするに到底力不足と判断しました。それゆえ致し方なく、出来の良い策だけ借りて我らにて実行したのです。いやあ、実に上首尾! 実にめでたい!」 不思議なもんだよね。村田がふと呟いた。 「超絶頭悪いのに、悪だくみだけは10人前ってのがいるんだよね、確かに。そういや、シュトッフェルもそんな類の男だったな」 「……過去形だけど、一応生きてるぞ、シュトッフェル」 「あれ? そうだっけ」 「…………」 ああ、姫! 不審者王子がユーリを見つめ、切なげに身を揉んだ。 「この国のあの騒がしい通りで姫のお顔を見つけた瞬間の感動を、何と言葉にすれば良いのか! 私はあの時、神のお導きであることを確信しました。早速にも手に手を携えての道行きをと思いましたが、供の者に止められてしまいました。そのため、お迎えに上がるのがかように遅くなってしまい……。しかし! あの通りの陰に身を隠し、姫のそのお姿を目に焼きつけた折、その輝かしい御名をはっきりこの耳にいたしました! 麗しくも雅なるそのお名前、キューリ姫ーっ!!!」 ただでさえしょもない名前を、力の限り叫ぶんじゃねーっ! 声にしなかった自分を褒めてやりたいとユーリは思う。だがのんびりしている暇はなかった。 不審者、いいや、放火強盗殺人未遂器物損壊不法侵入教唆実行現行犯テロリスト、タッパーだかアララだかを名乗る王子(ユーリの中ではもう名前も国名もごっちゃごちゃだ)が、感極まった様子でユーリに向かって突進してくるではありませんかっ! 「…げっ、来た!」 「渋谷、僕の後に隠れて…もらっても何もできないけど!」 「お前、空手やってんだろっ!?」 「いやー、通信教育ってやっぱ限界があるよねー」 「さんざん自慢しといて、ここで限界持ち出すな!」 「…ウェラー卿達、まだかなー。あんまり遅いとお仕置きしちゃうよー」 「姫! そちらの従兄弟殿も、お下がりください!」 ここでようやく、これまで綺麗さっぱり無視され続けたラーダン王国の王太子達が、敢然とその声を上げた。 「ここは我らが食い止めます! お2人はどうぞご避難下さい!」 眦を決して剣を構えるラーダン王国王太子、ドン・アーダン。主の決意を感じ取ったのか、臣下の青年達もあたふたと剣を抜き、構える。……が、どうにもキマってない。やる気だけは満々らしい王太子も、コンラート達の剣技を目の当たりにしてきたユーリの目には、何とも不恰好に映る。 ……腰が全然据わってない、気がする。 「あ、あのでも…」 「うん! よろしくお願い。じゃねっ!」 村田ーっ! 親友に腕を引かれ、タッパー達とは反対方向に走り始めながら、ユーリは思わず叫んだ。 「んな、良いのか!?」 「だってあっちの人数が段違いに多いじゃないか。多勢に無勢って言葉があるだろ? それにせっかく良いカッコしたがってる人がいるんだから、任せちゃおうよ。王太子なんだし、かなり鍛えた体格してるし、最低でも時間稼ぎくらいにはなるさ」 「そ、そうかな…?」 何か不安が……と言いかけた瞬間、ユーリと村田の足がたたらを踏み、止まった。 目の前に、いきなり黒装束の襲撃犯達がバラバラと姿を現したのだ。 「…くそっ!」 珍しい悪態をつき、村田はラーダンの援けを呼ぼうと振り返った。と……。 ラーダンの王太子とその臣下達は、全員黒装束に剣を突きつけられ、地面に固まってへたり込んでいるではないか。 「早っ!」 「弱っ!」 歴とした一国の王太子とその側近達が、良いのか、こんなに弱くて!? 「…あの鍛えぬいた感じのする身体は見せかけ…?」 一国の王太子が、よもや農作業で身体を鍛えているとは、さすがの大賢者にも推察不可能だったようだ。 「くっそー…! やっぱこうなったら、おれが上様になって………え?」 凶悪無比の大魔王(?)化することを決意しかけたその時、ユーリは背中にピタリと張り付くような人の気配を感じ、振り返った。 「…っ! ぐ…っ」 「渋谷!」 瞬間、黒装束の1人が、ユーリの腹に当身を喰らわしたのだ。 けふっと体内の息を吐き出しながら、ユーリの身体がくたくたと崩れていく。それを黒装束ががしりと受け止めた。 「渋谷を離せ!」 己の無力も忘れて飛び掛る村田。だがその華奢な身体は、側に滑るように近づいてきたもう一人の黒装束に捕らえられ、情け容赦なく地面に放り出された。 「…っ、うわっ!」 倒れた村田は即座に身体を起こす。だが、その間にユーリは黒装束に抱きかかえられ、タッパー王子の下へと運ばれていった。 「おお、姫! ついに貴女を我が手に抱くことができました!」 「分かってるのか!!」 立ち上がろうとしたところを黒装束に邪魔され、剣を突きつけられ、村田は膝立ちのまま叫んだ。 「僕は! 魔族は! お前達を絶対に許さない! お前の国に明日はないと知れ!」 「何とかなりますよ、従兄弟殿」 タッパー王子が不気味なまでに無邪気な声で言い切った。 「いつも必ず何とかなるのです。私は実に、幸運の星の下に生まれたのだと確信しております!」 「…………」 さあ姫! 我等の幸福に満ちた未来が待っておりますぞ! 王子は幸せいっぱいの笑顔でユーリを受け取ると、村田達への関心をあっさりなくしたらしい。「じい」に向かって「後は頼むぞ」と一言言い置くと、さっさと踵を返した。そして数人の黒装束を引き連れ、その場を去っていった。 残されたのは「じい」と、村田達に剣を向けたままの、半分くらいに減った黒装束達。 間もなく馬の嘶きと、馬車らしきものが車を軋ませる音が響き、やがて消えた。だが馬の嘶きだけは続いていたから、木の陰にまだ馬が待機しているのだろう。 ほう……、と。誰かの深く切なげなため息が沈黙の場に流れた。 村田の視線がその主に向く。……「じい」が、哀しげに背を丸め、佇んでいる。 「……申しわけございませんな」 「じい」の低い声には複雑な感情が織り込まれているようだ。 「剣をつきつけながら謝られてもね。で? どうするつもり?」 村田の冷たい声に、「じい」が頭を巡らせる。村田と「じい」の視線が合う。 「あなた様方には、ここで死んで頂きまする」 ええぇっ!? ラーダンの青年達から驚愕の声が溢れた。 「なに驚いてるんだよ?」村田が呆れた顔で青年達を振り返る。「僕達は彼らの正体を知ってる。生かしておけるわけがないだろ? 死体は燃える邸の中に放りこんでおけば良いわけだし」 「仰せの通りでございます」 「理解してどうするんですか!?」 村田の言葉に、「じい」とラーダン一行の声が重なった。 なるほどね。 その場の反応は無視して、村田は納得したと頷いた。 「いつも必ず何とかなるって言ってたね。幸運の星の下に生まれたとも。つまり、あのバカ王子の尻拭いを、何から何まで君がやって、バカを反省させるどころか増長させ続けてきたというわけだ。だろ?」 「じい」の気が、ぐうっと暗く重くなったのを村田は感じた。 「あの王子を嫌ってる、いや、もしかしたら王家に恨みがあるとか?」 「……まさか。とんでもございません」 「わざとじゃないと? だとしたら『じい』失格だな。扶育の才能がないにも程がある」 またまた空気が重くなる。 ふっと「じい」が顔を上げ、まじまじと村田を見つめた。それから黒装束の中の数人を指で指し示すと、そのままその手をゆらりと村田達に向けた。 「やれ」 瞬間、ラーダンの王太子が地を蹴り、黒装束の1人を突き飛ばして村田の下に走った。 王太子の咄嗟の行動に、一瞬全ての動きが凍るように止まる。その隙を縫って、金髪の青年が、さらに他の青年達が、主の後を追って村田の周囲に集まった。 「ロディオン!」 王太子、ドン・アーダンが叫ぶ。 「この剣を、鎌か鍬だと俺に思い込ませてくれ!」 はあ!? こんな状況にありながら、村田は呆気に取られて傍らの大柄な男を見上げた。……王太子は現実を見るまいとするかのように、ギュッと目を瞑っている。 「頼む! ロディオン!」 「ドナ!?」 ……例えば。 戦士が、うっかり剣をどこかに置き忘れてしまって、手近にあるのが鍬だったり鎌だったりした場合、「これは剣だ、農機具じゃない。俺が持っているのは、何がなんでも大業物の名剣なんだ!」と自分に言い聞かせるってことは……かなり無理矢理だけどあるかもしれない。 でも、逆はありえないだろう!? 「ドナっ、これだけを相手に戦うつもり!?」 「戦わないと殺されてしまうだろうがっ! そっ、それに俺は…っ」 もう2度と姫に早っとか弱っとか言われたくないんだ!! 「………あー」 ちょっと男の沽券に関る単語だったかもしれない。 「……男なら、好きな子には言われたくない、よねー」 村田が納得している間に、信頼しあう王太子と側近の思いは一致したようだ。 ロディオンと呼ばれた青年は王太子の手を取り、ギュッと目を瞑った王太子に懸命に語りかけ始めた。 「ドナ! これは剣じゃない。鎌だ! 羊毛を刈り取る大鋏だ! お前が大切にしている宝物。完璧に磨がれた自慢の鎌で大鋏で鍬なんだっ!!」 無理すぎ。ってか、剣じゃなく鎌だの鋏だのをコレクションしてる王子って? まあとにかく、黒装束共の意識を引きつけてくれればそれで充分と、村田はそっと周囲を見回した。 展開があまりに意外だったからだからだろうか、村田達を取り囲む黒装束一同は、反応に困ったように互いに顔を見合わせ、熱血する主従の様子を見守っている。 「よしっ!」 顔がくしゃくしゃになるほど強く目を瞑る王太子が、そのまますっくと立ち上がった。 「行くぞ!」 ブンッと、刃が空気を鋭く切り裂く音が響く。…が、足を前後に開き、腰を落とし、両手で握った剣を思い切りよく振り上げた姿は、どう見てもお百姓さんだ。荒地の開墾に意欲満々の。 「ドナ! 俺達も付き合うぞ!」 そう叫んで、ロディオンと呼ばれた金髪の青年と、他の青年達が剣を抜きながら主に寄り添った。彼らも皆、剣を剣とは無縁の形で構えている。 「ついに『これ』を使う時がきたんだね!」 青年の1人が嬉々として声を上げた。 これ? 村田が内心で首を傾げる。 「私だって!」女性二人も飛び出してきた。「畑を耕す速さはドナにだって負けないんだから!」 ……意味不明なんだけど、それが戦いにどう関係するわけ? っていうか、さっきあっさり負けてたのに、今度は違うとでも言いたいわけ? そもそもれっきとした王国の王太子とその側近達が、正式な剣術も習得してないってどういうこと? 珍しく素朴な疑問に悩む村田の見ている前で、村田を庇う様に、他国の青年達が思い思いに剣を構え、黒装束と向き合う。 「ラチェル! ルチェル! お前達は姫を追ってくれ!」 王太子が叫んだ。そんな! と、2人の女性が不満の声を上げる。 「一刻も早く姫に追いつきたい! 方向を見失いたくないんだ! 頼む!」 目を瞑ったままの主の真剣な声に、双子の女性は一瞬だけぎゅうっと唇を噛み締め、それから同時に頷いた。 「分った。そんなヤツら蹴散らして、すぐに追いかけてきてね!」 「怪我しちゃダメよ!」 踵を返して走り出す女性二人。そうはさせないとばかりに間合いを詰める黒装束達。 「邪魔をするな!」 その声と同時に、王太子の目がカッと見開かれる。 戦いが始まった。 □□□□□ ……へえ。 正直な話、村田はラーダンの青年達を根本的に見直す思いでいた。 村田を護ろうと飛び出したのも、女性二人にユーリを追わせたのも、咄嗟の動きとしては悪くない。……剣については理解不能だが。 ……もしかしたら、ある意味切れる男、かもね、この王太子。たぶん無自覚だろうけど。 とりあえず。 ユーリの後は2人の女性─確かラチェルとルチェルと呼ばれていた─が追ってくれている。2人いれば、1人が追跡役、1人が伝令役と役割を分担できるので、自分が1人で追うよりも効率が良いだろう。 ならば自分は無理をせず、コンラート達がやってくるのを待って動けば良い。ユーリのことは心配だが、誘拐犯のあの様子なら、命の危険はまずない。 それに……。 貞操の危機は、自力で防いでもらおう。いざとなれば上様化する手もある。となると危険なのはむしろあのバカ王子の方だ。 上様魔王と大魔神化したウェラー卿を相手にして、ありゃりゃ王国が明るい明日を迎えられるとは思えない。 もちろん、僕もタダじゃあおかないしね。 という訳で、村田を護りつつ戦う青年達を見守っていたのだが……これが意外と面白い。 戦いぶりは、戦士の視点で観ればかなり無様だ。 構えはもちろん、剣の振り方1つ、全く様になっていない。そもそも剣を扱ってるつもりがないんだから当然だろう。 だが驚いたことに、剣士に喧嘩を売ったお百姓さんそのものの青年達は、数で勝る黒装束達を確実に追い込んでいる。もしかしたら、王族としての剣の修行においても、こうやって馴染み深い農機具で戦う稽古をしてきたのかもしれない。……想像すると笑ってしまうが。 黒装束達は、全く勝手の違う構えと攻撃に戦いあぐねている。むしろ辟易してるという感じだ。 田を耕すように、もしくは実りを奪おうとする害虫を殲滅するかのように鍬を、いやいや剣を振るうラーダンの青年達。 その気合と、剣士の闘いのセオリーを無視した無茶苦茶な、なのに妙に慣れた様子の激しい動きに、黒装束達は1人、また1人と地に伏していった。実に不本意そうに。 そしてついに最後の1人が地面に倒れこんだ。 「………や、やった……っ!」 「ぼっ、僕達、勝ったんだねっ!」 「信じられない……」 ……勝った…。勝ったんだ……。 ラーダンの王太子が自分の握る剣を見つめ、呆然と呟いた。 「やったぞ! ドナ!」 ロディオンと呼ばれていた金髪の青年が、興奮に顔を紅潮させて王太子に駆け寄ってきた。 「ああ、ロディオン! 皆で考えて習得した俺達の剣法が立派に通用した! 俺達の剣は充分戦えるんだ!」 「僕達は強い! 強いんだ!」 「やった、やったあ!」 4人は手を取り合い、肩を組み、歓喜の声を上げながらぴょんぴょんと跳ね回り始めた。 地面に転がり、呻く黒装束達、それから歓びに溢れる青年達に視線を移し、村田は思わずこめかみをくりくりと揉んでしまった。 「……俺達の剣法って……」 アレが彼らの生み出したオリジナル剣法…? てか、まさかと思うけど……。 「君達、実戦は初めて?」 村田の声が耳に届いた瞬間、はしゃいでいた青年達がぴたりと動きを止めた。 「あ! あのっ、ご無事でしたか! え、えーと…姫の従兄弟殿……」 「僕は村田っていうんだ。…お蔭様で無事だよ。で? これが初めて?」 「あ、はい!」興奮を懸命に抑えつける様子で王太子が答える。「剣を遣う必要など、これまで全くありませんでしたので……。体力には自信がありましたが、よもや俺達の剣術がこれほど強いとは驚きでした」 敵が弱かっただけだよ。村田は胸の内でため息と共に呟いた。 あの「じい」は彼らを激弱と見て、手勢の中でも遣えない者を残していった。後始末を確実にするより、自分の護りを固める方を優先したのだ。 ラーダンのメンバーを瞬く間に打ち据えた最初の戦闘を観ていれば、この程度の分析もできて当然なのに、と思ったが、ラーダンの王太子達のあまりに嬉しそうな様子に、さすがの村田も何となく言えなくなってしまった。 「とにかく早くシブ…彼女を助けに行かなきゃね。森の奥に馬がまだ残っているはずだ。ウェラー卿達と合流したら、あれで後を追おう」 指示する村田に、一気に表情が引き締まった王太子が「はいっ!」と頷く。だが、その時、金髪青年がズイッと前に進み出てきた。 「一刻も無駄にはできません! 我らはこのまま姫の後を追います。ムラタ様には、ここにお残り頂き、ウェラー卿や皆様方に状況のご説明をお願い致します!」 「……何だって…?」 事もあろうに村田に指示してきた。 「僕をこいつらの中に1人で置いていくつもりかい?」 足元には黒装束達が転がっている。もちろん全員が生きていて、気絶をしている者もいるが、起き上がろうともがいている者もいる。時間が経てば全員復活するだろう。 「ウェラー卿がおいでになるまで、どこかに隠れておられればよろしいかと。とにかくこの者達は捕らえねばなりませんし、何が起きたかを説明する者が必要です。こう申しては何ですが、このままあいつらを追えば、またもや戦いになる可能性があります。ムラタ様がおいでになりますと、お怪我をされる可能性もありますし、このままこちらにお残り頂くのが最も良いかと存じます。……時間をこれ以上無駄にしたくありません。我らはこれにて」 そう言い捨てると、ロディオンという名前らしい金髪の青年は、王太子の二の腕をガシッと掴んだ。 「ボサッとするな! 行くぞ、ドナ!」 「ろ、ロディ…だけど……」 途端にオロオロしだした王太子が、側近に引き摺られながらも、ちらちらと村田に視線を送っている。本当にこのまま置いていって良いのかと、不安になっているらしい。 「俺達で姫をお助けするんだ! この……な…!」 ……この僕を足手まとい扱いしたな……。 ムッとしたその足元で、倒れたままの黒装束の1人がそっと手を伸ばし、村田を捕まえようとしていた。その手が今にも足首を掴む、という瞬間、村田の足が無造作に動き、黒装束の顎の急所をこれまた無造作に蹴った。ショックで一瞬硬直した黒装束が、そのまま意識をなくして地に伏せる。 「何がムカつくって、言ってることに一応の筋が通ってることなんだよね。でも……」 一刻も早く救出するために、時間を無駄にしたくない。そう言った、あのロディオンという男の……何だろう、口調か、物腰か、目つきか、口元か、何かが引っ掛かる。 「この好機を逃すな、と言ってたな……」 森の闇に姿を消す間際、ロディオンが王太子ドン・アーダンに言い聞かせていた言葉を、村田の耳はしっかり拾っていた。 崩壊しかけた自然を救うため、ラーダン王国は眞魔国の援助を何より欲している。だから、恩を売れるチャンスを逃すわけにはいかない。眞魔国の高貴な姫を拉致監禁から救ったとなれば、彼らの願いは最大の感謝と共に報われるだろう。 だが……。 「それだけか……?」 村田は森の奥の闇を睨みつけた。 「陛下! 猊下!」 やがて邸の方向から幾人もの気配と、彼らを呼ぶ声が聞こえてきた。 「………っ! 猊下!?」 先頭はウェラー卿コンラートだ。声でそれを確かめた瞬間、村田は勢い良く振り返った。 「遅い!!」 その理不尽な怒声に、駆けてきた全員がザッと音を立てて足を止める。 「……猊下」 それでも聞くべきことは聞かなくてはならない。コンラートが感情を押し殺した声で村田に尋ねた。 「陛下は……。それにこのいかにも怪しい連中は……」 「渋谷は今夜の襲撃犯達に誘拐された」 「……っ!!?」 一斉に息を呑む一同。即座に状況を知ろうと、全員の視線が村田に集まる。 「それからこいつらは、見て当然分るだろうけど、誘拐犯の一味、というか下っ端だ。倒したのはラーダンの連中。アントワーヌ殿、彼らを捕縛してください」 「わ、分りました! すぐに尋問し、身元を……」 「ああ、それはもう分ってます。ありゃりゃ…アリリャット王国のタクパ第5王子の手のものです。その王子が今夜我々を襲撃した者達の黒幕ですよ」 「……猊下、あの……お見事です。よくぞこれだけの時間で悪漢の正体を突き止められました」 「別に。自分で名乗りましたから」 「……………」 「猊下」コンラートが眉を顰めて確認の声を上げた。「一国の王子が、陛下を拉致したと…?」 「そう。どこかの誰かと同じ、あの舞踏会で渋谷の可憐な姿に一目惚れしたんだってさ。あの時はどこの誰かも教えてもらえなかったけど、たまたまフランシアに来て、またまた渋谷の姿を目にして、辛抱堪らなくなっちゃったんだね。で、力ずくでも渋谷を自分のモノにしようと、反魔族の連中から策を借りて襲撃してきたわけ。あ、これも全部、その王子が得々と話してくれたことだから」 「何たる……アリリャットといえば、確かラーダンよりさらに北にある小国です。国王陛下は大変真面目な方で……。よもやあの国王陛下が……」 「アリリャットの王は何も知らないだろうね。まず間違いなく、あの王子の独断だよ」 「しかしそれでは……! 魔王陛下とは知らずとも、眞魔国の『高貴な姫』を拐かした以上……」 「当然、アリリャット王国には責任を取ってもらう。例え王子の独断だろうが関係ない。……さあ、行くよ! 今、ラーダンの王太子達が渋谷の後を追っている。馬を用意して、僕達もすぐに出発だ!」 □□□□□ 逸る思いと、高揚する気分のままに、ドナ達は馬を走らせていた。 キューリ姫のことはもちろん心配でならない。あの可憐な姫のことだから、もし今目を覚ましていたら、きっと恐怖と不安の直中で震えていることだろう。それを思うとドナの胸の鼓動が嵐のような音を立てる。 一刻も早く追いつかなくては。そして姫を救出しなくては。 同時に、自分達で生み出した剣術が悪漢共を打ち負かしたことに、堪らない興奮も覚えていた。 体力と、腕力脚力肺活量、ついでに頭突きの力強さはこれまでずっと自慢にしてきた。これに剣術が加わるのだと思うと、一国の王子として、一応剣を携える者として、嬉しさも一入である。何せこれまで、自分達がどれだけ剣を使えるのか、試すことも比べることもできなかったのだ。その実力を実戦で、しかも愛する人を拐かした悪人共を倒すことで証明できたのだから、これは素直に喜んでも良いのではないだろうか? 「ロディオン」 ドナは、併走するロディオンに声を掛けた。馬の上で前方を睨み据えていたロディオンが、ちらっと視線を向けてくる。 「アリリャットと言っていたな?」 「ああ」ドナの言いたいことを察したようにロディオンが頷く。「北のルーバー山脈を越えたところにある国だ」 だから今、ドナ達は街道を北に向かってひた走っている。 「山脈を越える街道は、街道とは名ばかりの険路だ。あれを馬車で行くと思うか?」 「いや、それはあり得ないな。ルーパーは険しい山だし、アリリャットに続く街道を馬車で行く時には相当注意しないと命に関る。人目に触れるのも避けるだろうから、まず間違いなく間道を使うだろうな」 「ああ、俺もそう思う。問題は、アリリャットの民が通した間道を俺達は知らないということだ」 大陸北東は急峻な山脈が多い。街道はそれを迂回したり、山の斜面を削りながら造成したものが村と村、街と街、国と国とを繋げている。旅人や商隊のほとんどが使うのはそういう道だ。しかし山岳地方に住む人々は、昔から何世代にも渡って、国境線とは関りない自分達だけの道を山の中に切り開いてきたのである。山には山の民しか知らない間道がある、というのは、大陸の者の常識なのだ。 その間道は、ほとんどが獣道と大差ない。大抵は地元の民が行き来をしたり、猟に使用したりする。戦が起きたときには避難路となり、時には軍隊の密かな移動路にもなり連絡路ともなる。 その、アリリャットの民が開いた『山の道』が、今回使われるのではないかとドナ達は考えていた。 「ラチェル達が間に合ってくれれば……」 その願いが届いたのか、街道を全力で、ひたすら馬を走らせるドナ達の視界に、やがてものすごい勢いで近づいてくる馬影が現れた。 「あれは……」 「あの上着の色…ルチェルだ!」 間もなく、ルチェルの馬がドナ達と合流した。興奮して激しく足踏みする馬をあやしながら、弾む呼吸を懸命に整えるルチェルにドナが迫る。 「ルチェル! どうなった!? あいつらはどこへ向かった!?」 「……ま…まっすぐ、北、よ…! きっと国に逃げ込む気だわ。どこかで山の中に入って、間道に入ってから国境を抜けるつもりだと思う。ラチェルが間道に入るまで追っていって、道の入り口を確認したら1度戻って合流することになってるわ」 「よし、急ぐぞ!」 一気に速度を上げ、彼らは北へ向かう。 その中で、ロディオンは半馬身前を走るドナの背中をじっと見つめていた。 姫を助け出せたら。ロディオンは唇を噛み締めながら思った。 その次を俺は考えている。 姫の救出は綱渡りの危険に満ちているだろう。 だが、その綱を渡り終え、俺の考えが実行されたら、俺達が歩むその先の綱はさらに細くなる。 それでも……その綱を渡り、自分達は生き残らなくてはならない。 ラーダンはまさしく、生き残るか滅亡するかの瀬戸際にある。 イチかバチか……。 頼むぞ、ドナ。全てお前に掛かっているんだ。 馬にさらに激しくムチを入れ、彼らは先へ先へと突き進んで行く。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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