「キューリ!? 様!?」 フランシア王家の別荘。その広い客間の大きな卓を挟んで、片方のソファに座るのは、フランシア国王アントワーヌとその妻ライラ、そして眞魔国の正使としてフランシアを訪問中の上王フォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエだ。 そしてその反対側には、ラーダン王国王太子ドナを始め、側近の青年達が身体を固く強張らせて座っている。 彼らは目当ての国王夫妻だけでなく、眞魔国の正式な使者にまで紹介され、揃って緊張と興奮の極に達していた。 アントワーヌ、ライラ、ツェツィーリエの3人は、ラーダンの王太子の暑苦しい顔─顔を真っ赤に染め、タラタラと汗を流している─をじーっと見つめてから、その視線を横に流した。 その視線の向かう先は、彼らのソファと直角に設えられた3つ目のソファだ。そこにはツェツィーリエの随身の形を取ったユーリ達が控えている。 「……キューリ、様、ね……」 3人分のジト目を向けられて、コンラートはさりげなくそっぽを向いてその視線を外した。 ……俺が「キューリ」と紹介したことは教えていないはずなのに……。 どうしてバレているんだろう。 表面上は冷静沈着を装いながらコンラートは内心首を捻った。それから、命より大切な主に白い目で見られる原因を作った男を、恨みを籠めて睨みつけた。……が、相手はコンラートの射殺さんばかりの眼差しに全く気づいてくれていない。 ……どうしてこんなことになったのか……。 コンラートの胸には、とっくにため息の池ができている。 そう、理由は分かっている。他でもない、コンラートの最愛の主が極めつけに心優しい人だからだ。 あの時。 「キューリ様」に会えた歓喜に打ち震えるラーダンの王太子は、その喜びに突き動かされるままにユーリの手を取ろうとして、コンラートに殺気をぶつけられ、側近からは実際に後頭部を遠慮のない力で張り倒され、そこでようやく正気に戻ったらしかった。 自分をぶん殴った側近に襟首を引っ掴まれ、怒りに燃えているらしいその側近に何事か囁かれ、王太子は突如あたふたと慌てたかと思うと、いきなりコンラートに向かって土下座せんばかりに謝り始めた。 分りやすい人だねえ。村田が呟き、それが耳に入った全員(除ユーリ)が無意識に頷いてしまう。 『あっ、あのっあのっ、き、貴国に対しまして、そのっ、大変失礼な書状をお送りしてしまいっ! まま、まことに申し訳なく! 魔王、陛下におかれましてはっ、さぞかしお怒りのことと存じますがっ、あの、私共は決して……!』 『あの程度の書状をいちいち陛下にお見せすることは致しません。担当の者が処理しておりますので、どうぞお気になさらず』 べしっと謝罪を蹴飛ばされ、ぽかんと口を開けたまま言葉を押し出せずにいる王太子をちらりと見遣ると、コンラートはユーリをさりげなく自分の身体の陰に隠して、『それでは失礼します』と足を踏み出した。 だが。 『でっ、ではっ』 コンラートの心境を全く斟酌しない王太子が懸命に声を絞り出す。 『まだ望みはありますでしょうかっ!? 眞魔国は我がラーダンと友好を結んで下さいますでしょうか!? ラーダンを助けて頂け……』 『そのようなお話をここで声高になさるのはお止め頂きたい。場を、弁えて下さい』 厳しい口調で遮られて、ラーダンの王太子一行はハッと目を瞠った。それから周囲を見回し、注目されていることを確認すると、とてつもない不手際を犯したと恐怖するかのようにうろたえ始めた。 ……見事なまでに世慣れていない。 やれやれと、コンラートはため息をついた。 『申し訳ありませんっ!』 もう何度目かの謝罪を繰り返す。 『よっ、よもやこのような場所で閣下にお目にかかれるとは思わず、焦ってしまい、あの、俺達、いえっ、私達はその……っ』 『今我々はフランシア宮廷の客です。私にお話があれば、まずはフランシア王室を通してください』 よろしいですね? 低い声で念を押せば、話を続けることが決して良い結果を生まないことにやっと思いが到ったのか、王太子はごくりと喉を鳴らして口を閉ざした。と思ったら、すぐに切なげな表情でユーリを見つめてくる。 このままぐずぐずしていてはマズい。コンラートは思った。 こんな顔で見つめられたら、優しいユーリのことだ、きっとこの場で事情を知ろうとするだろう。 『……コンラッド、何があったのか教えてくれないか? この人達、おれ達と友好を結びたいって思ってるんだろう? 書状って?』 ………そう。こんな風に。 結局、近くの茶館に全員で腰を下ろして、掻い摘んだ話をすることになってしまった。 とはいえ、コンラートはラーダンの者に話をさせることはしなかった。何を言い出すか分らなかったからだ。近年の、「魔族との友好」という言葉に対する人間達の認識の程度の低さは、人間と魔族の対等な友好と共存共栄を理想とするユーリの心を少なからず傷つけている。そんな人間達の愚かな失敗をまたぞろ耳に入れて、ユーリをさらにがっかりさせることはしたくなかった。……ユーリを側室にしてやるから、感謝して自分達の国を助けろと言ってきたことは、後で大賢者猊下にこっそり耳打ちしておけば良い。 『人間の多くは、まだまだ我々魔族を誤解しているからね』 「身内」への話なので、敬語はご法度だ。コンラート自身、直接話す相手はヴォルフラムだ。ヴォルフラムはもちろん、ユーリも村田もその辺りはちゃんと心得ているので、ちゃんと「おまけ」の顔で大人しく話に耳を傾けながら、新たに出会った青年達を興味深げに見つめている。 『ラーダンの宮廷にも、どうやらそんな誤解をした方がたまたまいらっしゃったらしい。魔族を文明度の低い、未開の種族と勘違いしていたらしいんだな。ところが、ラーダンの国王陛下がうっかり間違って、そんな人に我が国への書状を書かせてしまわれたんだよ。そのために意思疎通が上手くいかなかったらしくて。ラーダンを紹介して下さったアントワーヌ殿に、こちらから確認の書状を送ったことでそれが判明してね』 そして、ひたすら恐縮しているラーダンの一行がこの地にやってきた理由、それが仲介役であるフランシア国王に対する謝罪と、魔族への再度の橋渡しの依頼であることを説明した。 ……結果は、コンラートが密かに予想していた通りだった。 □□□□□ 「まず申し上げさせて頂きます!」 ラーダンの王太子が切羽詰った声で、半ば叫ぶように宣言した。大きな声に、ツェツィーリエがわずかに身を引く。 王太子は表情を改めると、姿勢をピンと正した。側近の青年達も同様だ。釣られて、アントワーヌとライラの姿勢も改まる。 「アントワーヌ陛下のご厚情により、せっかくウェラー卿にご紹介頂きながら、我々の不徳にて陛下のお顔に泥を塗る真似をしてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます! まことに、申し訳ありませんでした!」 言うや否や、王太子はガバッと音がするほどの勢いで頭を下げた。側近達もほとんど同時にそれに続く。 「そっ、それから!」 次に王太子の糸目がツェツィーリエに向けられる。 「眞魔国の御使者殿には、本来関りのない我々が突然乱入する形になりましたこと、ご無礼をお詫び申し上げます。もしお許し願えますならば、我が国の非礼に対する謝罪の思いをに貴国にお伝え頂ければと存じます。それから…その……」 王太子がどこか申しわけなさそうな表情をユーリに向けた。 「キューリ様は、私共の話を親身に聞いて下さり、ご親切から私共をこちらにご案内下さいました。私共がアントワーヌ陛下にお会いして、直接お詫びできるようにとのお心遣いでございます」 そう。優しいユーリは、世間知らずから外交上の失敗─それも眞魔国絡みの─を仕出かしてしまったラーダンの話を聞かされた途端、『じゃあおれ達と一緒に行こうよ!』と声を上げたのだ。 無防備な笑みを投げかけるユーリと、飛び上がらんばかりに感激を表す王太子の表情に、コンラートはただただため息を落すばかりだった。 「ご親切なお言葉に甘えてこちらに押し掛けましたのは我等でございます。御使者殿におかれましては、どうかキューリ様をご叱責などなされませんよう、伏してお願い申し上げます!」 彼らの勢いに、アントワーヌとライラ、それからツェツィーリエが顔を見合わせた。 へえ。コンラートはちょっとだけ若い王太子を見直した。 一目惚れした姫に偶然再会できて、こうして親切にしてもらえて、ひたすら舞い上がっているばかりだと思っていたのに。 武人らしさは微塵もないが、ピンと伸ばした背筋と真面目な表情の王太子に、眞魔国のメンバーはほんの少しだけ彼を見る目を変えた。だが、王太子の側近達に驚いた顔はなかったから、たまに失敗はあっても、彼らは自分達の主を根本的に信頼しているのだろう。 そんなことを考えていたら、隣に座っているユーリがふいに話しかけてきた。 「さっきは詳しく説明してくれたけど、コンラッドはあの人たちのことをいつから知ってたんだ? おれ、全然聞いてなかったぞ?」 「失礼しました。俺も街へ出かける直前に、アントワーヌ殿から教えてもらったのです。1度だけ紹介したことのある国の王太子が謝罪にきていると、たまたま話題にされたのですよ。俺もその場限りの話として軽く聞いていて、特にお話しする必要を感じていませんでした。でもまさか、あんなところでばったり出会うとは思ってもいませんでした。さすがの俺も驚きましたよ。こういう偶然ってあるものなんですね」 「この頃ウチと関わる人間の国も増えたからねー」ユーリの向こう隣に座る村田が、軽くフォローに入ってくれた。「色んな国が色んなアプローチをしてくるから、話題には事欠かないよね。あの人たちみたいな失敗談も、僕達の耳に入らないだけで、実は結構あるみたいだよ?」 「どうしておれ達の耳に入らないんだ?」 「下手に君や側近レベルの耳に入れてごらんよ。うっかりミスも深刻な外交問題に発展しかねないじゃないか。ちょっとしたことなら役所で片付けなきゃね」 「そっか。そういやそうだな。……でもあの人達、ホントに深刻な顔してたよな」 「まあ……僕達には笑い話でも、当事者にとっては重大事件ってこともあることだからね」 笑い話で済まないんだろう? ユーリの頭越しに向けられた村田の眼差しが、コンラートにそう語りかけていた。 後でちゃんと説明するように。そう無言の命令を受けて、コンラートはそっと頷いた。 「ゆ、ええっと、キューリちゃんを叱ったりしませんわ」 ツェツィーリエが面白そうに瞳を煌かせながら請け合った。 「キューリちゃんはとっても優しい子ですの。困っている人を見ると、放っておけないのですわ。あなたの御国が私達に何を仰せになったのかは耳にしておりませんけれども、真摯に謝罪なさりたいとのことでしたら、少なくとも私は喜んで受け入れますわ」 「あ、ありがとうございますっ!」 ホッとしたのか、王太子の肩からホウッと力が抜けた。だが、彼と入れ替わりに、王太子の隣に座っていた金髪の青年が厳しい表情のまま身を乗り出した。 「御使者殿におかれましては、ただ今我々の謝罪を受け入れて下さるとのお言葉、まことにありがたく存じまする。つきましては、そのお言葉は貴国の、魔王陛下のお近くに我等との条約締結をご奏上頂けるという意味だと受け止めてよろしゅうございますでしょうか。我々と致しましては……」 「お控えなさい!」 卓を叩きつける勢いでライラの叱責が飛んだ。 王妃の、というより、武人の気合に、コンラートの隣でユーリの身体がぴくんと跳ねる。同様に、ラーダンの面々も驚いたように背筋を伸ばし、顔を王妃に向けた。 ライラは文字通り柳眉を逆立てている。 「無礼は承知の上で申し上げます!」 青年も負けていない。取り成すように手を上げたアントワーヌが言葉を発する前に、さらに力を籠めて言葉を継いだ。 「眞魔国との友好条約締結には、我が国の存亡が掛かっております! こうして眞魔国の御使者殿と会見させて頂きましたこと、大変光栄に存じております。しかし! ただ単に御使者お1人にご納得頂けましても、それだけでは到底…… 」 「ツェリ様は眞魔国上王陛下にあらせらるぞ!」 ………え? まだ言葉を続けようとしていた青年が、ソファか身を乗りだした姿のまま動きを止めた。 ラーダンの王太子や他の面々も、意味が分らなかったようにきょとんとしている。 「ライラ、落ち着きなさい」 アントワーヌが隣の妻に優しく言い聞かせた。 「そして君も」それから王の目が青年に向けられる。「こんなところで声を荒げても良いことはない。とにかく座りなさい」 「…あ、の……」 「王都においでになったというから、分っておられるのだろうと思い込んでいた我々の失態だね。ツェリ様、失礼致しました」 「いいえ」ツェツィーリエが婉然と笑って、ソファの背もたれにゆったりと身を任せる。「どうぞお気になさらずに」 「ありがとうございます。…では、改めてご紹介しよう。ドン・アーダン殿、こちらはフォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエ上王陛下、すなわち、眞魔国の前魔王陛下であらせられます」 「………え……ええぇっ!?」 うそぉっ!! ラーダンの一行全員が、驚愕に飛び上がった。そして目と口を揃って大きく開け、まじまじとツェツィーリエを見つめた。 「え、だって…魔王って言ったら…!」 「ラチェル!」 「魔王って言ったら、何かしら?」 思わずだろう、何か叫びそうになった女性の1人に、金髪の青年の叱責が飛んだ。ラチェルと呼ばれた女性と、何故かその隣にいた瓜二つの女性とが、バッと両手で口を押さえた。 「こんな女が魔王であってはおかしい? 角や牙がないとダメかしら?」 ツェツィーリエがくすくす笑いながら追い討ちを掛ける。 「もっ、申し訳ありませんっ!!」 もう何度目になるのか、ラーダンの王太子が慌てふためいたように上半身を折り曲げる。 「ご無礼を申しましたっ!」 王太子とほぼ同時に、金髪の青年も顔を引き攣らせて謝罪する。もちろん他の側近達も真っ青になって頭を下げた。 前とつくとはいえ、よもやここで魔王と顔を突き合わせることになるとは思わなかったのだろう。 下げた頭を上げることのできない一行の姿に少々哀れを覚えて、コンラートは「母上」と声を掛けた。 「あまり皆さんを苛めてはいけませんよ?」 「まあ、コンラートったら。私は誰も苛めたりしてないわ。ねえ? ライラ、そうよね?」 「仰るとおりですわ、ツェリ様」 ……はは、うえ…? ぽかんとした声が上がる。王太子が腰を曲げたまま、顔だけを上げてツェツィーリエを、それからコンラートを見る。 「前魔王は俺の母ですよ。以前お会いした時にその旨ご紹介頂いたと思いますが……」 「し、失礼、いたしまし、た…。あの……」器用な格好のまま、王太子が改めてツェツィーリエを見つめる。「あまりに、その、お若くて、お美しくて、まさかこんな…ご子息がおられるなど思えなくて……」 呆然と綴る言葉は率直で素直で、阿る色は欠片もない。朴訥そのものだ。ついでに、自分達の主の言葉にうんうんと頷いている側近達も。 もちろんツェツィーリエもそれが分ったのだろう、「あら、お上手だこと」と言いながらも、笑顔は素で嬉しそうだ。 「前王の言葉では頼りにならないかしら?」 「とっ、とんでもございませんっ!」 慌てて手と首を振る人間の若者たちににっこり笑みを投げかけると、「でもね」と、ツェツィーリエがほんの少し言葉の調子を変えた。 「1つだけ、確認したいことがありますわ」 「……は、はい…?」 「あなた、先ほど仰ったわね」 あなた、というのは王太子の隣に座る金髪の青年だ。美貌の前魔王の視線を浴びて、青年が眩しげに目を細める。 「…あの……ご無礼は平に……」 再び頭を下げようとする青年を、「そうではなくて」とツェツィーリエが遮る。 「眞魔国との友好条約締結は、我が国の存亡に関る。あなた、そう仰ったわ」 「あ…」青年が納得したように頷く。「はい、仰せの通りです。現在大陸の多くの国がそうでありますように、我が国も自然の崩壊が激しく、存亡の危機にあります。ですからぜひ、貴国と友好条約を結ばせていただき……」 「あなたの御国が存亡の危機にあることと、私達と友好を結ぶことが、どうして繋がるのかしら?」 「…そ、それは……!」 今さら何を言ってくれるのか。そんな表情で青年達が一斉に瞠目した。 「あのっ!」王太子が焦ったように声を上げる。「眞魔国と友好を結ぶと、魔王、陛下が友好相手国を大地の崩壊から救って下さると伺っております! あ、あの、違うのでしょうか…?」 「違うとかどうとかではなくて……」 ちょっと困ったように微笑むと、ツェツィーリエはちらっとコンラートの隣、ちょこんと座っているユーリに視線を向けた。 「では私からお伺いしますけれど、もし魔族が、あなた方のお国の自然の崩壊は救えないと申し上げたらどうなさるの? 魔族と友好を結ぶのをお止めになる?」 「…っ、そ、それは……」 事の始めからご説明しましょうか。 困惑する人間達に、ツェツィーリエが微笑みを浮かべたまま言った。 「最初はね、こうでしたのよ。当代魔王陛下のご尽力で、多くの人間達が私達魔族への偏見を捨てて下さいました。種族の違いを乗り越えて友情を結び、共に手を携えて平和な世界を作っていこうと誓ってくれた国々も現れました。このフランシアもそのような御国でいらっしゃいます」 にっこりと笑みを投げかけられて、アントワーヌとライラが笑みとお辞儀を返す。 「でも、そんな人間の国が自然の崩壊に苦しんでおいでなのを知った私達の魔王陛下が、友人として、できる手助けをしたいと思い立たれましたの。幸い私達の陛下は精霊の王と呼ばれるほどの偉大な力の持ち主でいらっしゃったため、滅びかけていたその土地の精霊達を復活させ、大地が蘇る切っ掛けを作ることが出来ました。よろしいかしら? 陛下の行いは、魔族に対する長年の偏見を捨て、魔族に対して真の友情を抱いて下さった方々への友人としての行いなのです。大切なお友達が困っておられるから、精一杯できるお手伝いをしようということなのですよ? 何よりまず最初に、魔族への公正な認識と、友情がありますの。ところが時が経ち、陛下が復興のお手伝いをする国が増えるに従って、話がおかしくなってきてしまいました。つまり、あなた方が今仰ったように、『魔族と友好条約を結べば、国土を崩壊から救ってくれる』という噂が、友情も何もかも置いてけぼりにして広まってしまったのです。魔族への友情などとんでもない、偏見も誤解もそのまま、魔族なんて化け物としか思っていないのに、とにかく条約さえ締結すれば国が救われる。魔族も人間が条約を結んでくれさえすれば満足するのだから、自分の国を救うために、とりあえず魔族と結んでおこう。近頃、そういう国が一気に増えてしまいました」 私達、人間が友好条約を結んでくれるなら何でもするなんて、これっぽっちも思っていませんのに。 ため息混じりにそう言われて、ラーダンの王太子達は表情を強張らせ、だが何も言い返せないままに視線を落としていた。 これがもう少し図々しく世間擦れした連中なら、「我々は魔族との友好を真剣に考えております」などと、白々しく主張して見せるのだろうが、素朴な人柄の彼らにそんな真似はできない。 「ひどい国になりますとね? 友好条約の文書に署名した瞬間に国土が蘇るなんて、馬鹿げた噂を信じる方もいらっしゃるの。条約締結を終えて国に戻ってみたら、全然変わっていない、これは一体どういうことだ、我々を騙したのか、なんて、こっちが言った覚えの全くないことで噛み付いてこられたり。少しは常識というものを考えて頂きたいのに、本当に困ってしまうわ」 母上が常識を口にされるようになったとは……。感慨深いものを噛み締めながらコンラートが人間達を見れば、元女王と「常識」の溝の深さを知らないラーダンの王太子達は顔をさらに引き攣らせ、その中の3人ほどが頬を紅く染めて項垂れていた。どうやら彼らもその噂を信じていた手合いらしい。 やれやれと、コンラートの心中にまたもため息が零れた。 「そんなことが重なって、私達魔族の中では、今友好を求めてくる人間に対しての不審感が広まってますの。本気で友好を求めているのか、魔族と共に生きていこうという意志を持っているのか、条約を結ぶからにはそれをちゃんと確認すべきでないのかと、多くの魔族が考えています」 というわけで。 言って、ツェツィーリエは小首を傾げてラーダンの王太子の顔を覗き込んだ。 「あなた方はどうなのかしら?」 「………え……」 「友好条約締結には国の存亡が掛かっているとか、条約を結んで国土を我等の陛下に救って欲しいとか、ご自分の国の都合しかお話になっておられないけれど、あなた方は私達と友好条約を結んで、そしてどうしていこうと考えていらっしゃるのかしら? あなた方が本気で末永い友好を求めておられるなら、私達はそれに応えますわ。でもあなた方はどんな風に私達の友情に応えてくださるの?」 友好条約はあくまで対等の関係でなされなくてはなりません。 ツェツィーリエの声はいっそ厳かなまでにその場に響いた。 「慈善でも奉仕でもなく、対等に向き合ってこそなされなくてはなりません。それはつまり、一方的に何かを奪うとか、求めるとか、そしてまた与えるとか、そういうことではありません。お分かりになりますわね? あなた方は友好条約を結びたいと仰る。では、どんな形で、私達との友好を深めていこうと考えていらっしゃるのか、教えてくださらないかしら? 一国の為政者ともあろうものが、それもなしに他国との条約締結をお考えでは、まさかないですわよね?」 これはちょっと意地悪だな。思わず苦笑するコンラート。 「ツェリ様も言うようになったねえ」 隣を見ると、ユーリはどこかオロオロと心配げにツェツィーリエと人間達を見守っており、その向こうでは村田が面白そうに笑っている。 そしてある意味当然のことながら、ラーダンの誰もそれに応えられずにいた。 特に王太子の頬の赤味は顔全体に広がり、こめかみには汗が滲み、何の言葉も出てこない唇は痙攣するようにぴくぴくと震えている。 「国と国の友好は、続けていかなくては意味がありませんのよ?」 それをお分かりになっておられるのかしら。言われた青年達は、ただ唇を噛み締めて視線を落としている。 「お国にお戻りなさいな」 ハッと。青年達が一斉に顔を上げた。目は驚愕に見開かれ、瞳は困惑と不安に揺れている。 「そして私達との友好についてどう考えるか、私達とこれからどう付き合っていくのか、自分達の都合の良し悪しではなく、自分達と魔族、そして世界とどう関っていくのか、それを国家の意志としてちゃんと纏めておいでなさい。その結論が出た上で、あらためて私達と友好を結びたいと願うのなら、そしてそれが今私が申し上げたように本当の意味での友好なら、私達は喜んで話し合いの席につきますわ。でも、あなた方があくまで、自分達の国を救って欲しいだけだと仰るなら……」 もう2度と、私達に向かって友好などという言葉を使わないで下さいな。 客間に沈黙が下りた。 コンラート達の前で、人間の青年達が、どう応えようもなくただ肩を震わせていた。 「申しわけございません、陛下。勝手な事をいたしましたわ」 「いっ、いいえっ、そんなこと…!」 淑やかに、そしてあくまで優雅に頭を下げるツェツィーリエに、ユーリは慌てて手と頭を振った。 ラーダンの一行はツェツィーリエの問い掛けに何一つ応えられないまま、アントワーヌに促されてすでに客間を退出している。今夜はこの別荘に部屋を借り、明日にはラーダンに向かって発つだろう。 「……すみません……。おれもイロイロ話は聞いてたんです……」 ユーリが王位に就き、人間の国に飛び込んで、大活躍(?)しながら得た友人達。その彼らのために、ユーリは惜しまず力を使ってきた。そしてユーリの無私の努力と献身によって、多くの国が救われ、さらに友人を増やし、魔族と人間は着実に友情を深めてきたのだ。 その評判が広がって多くの人間の国が魔族との友好を求めてきた当初、ユーリはもちろん、眞魔国の誰もが喜んだ。 コンラートも当然そうだ。 ユーリの、「人間と魔族との対等な友好と共存共栄」を実現させるための確実な歩みの証なのだから。 だが……。 後になればなるほど、人間が求めるのはユーリの力─それもかなり曲解された─だけなのだということが、あからさまになってきた。 魔族への偏見も誤解も、何一つ解けないまま、解く気もないまま、自分達の国の大地が蘇ればそれで良い、それ以外魔族に何も求めない、魔族と何かを求める気もない。そんな人間達が増えてきた。 それでも、ユーリは人間の国を助け続けてきた。 それほどまでに、なりふり構わないほど救いを求めているのだろから。できることを続けていれば、そんな人間達もいずれ必ず魔族を理解してくれるだろう。そんな願いを抱いていたからだ。 しかし……。 「ユーリが謝る必要なんて、これっぽっちもないんですよ?」 コンラートが言えば、ユーリは情けなさそうに眉を落としながらも、「ありがと、コンラッド」と小さく微笑んだ。 「ウェラー卿の言う通りだよ」村田が続けて言う。「渋谷、君が謝る必要なんてない。ただ……友好を求める人間達が増えてきたのは良いけれど、それが今の連中同様、友好って言葉の意味をまともに考えたこともないのが大半というのがね……。そしてそんな連中は自分達の言動をこれっぽっちも疑わない。今の…ラーダンって言ったっけ? 彼らはまだ恥じ入ってみせるだけ可愛げがあるよ」 まったくだ、と、ヴォルフラムも頷いた。 「そのためだろうな、妙な話だが、友好を求めてくる人間が増えれば増えるほど、あらためて人間に反感を持つ者が血盟城を中心に増えていっている。……ユーリも知っていると思うが」 「……うん。それは……おれも悪かったって思ってるんだ……。おれが、力になれることが嬉しくて、できることは何でもかんでもやろうってしたから……」 「それは違うわ、ユーリ! …いいえ、ユーリ陛下」 「…ライラ……」 ユーリの前に立ちはだかるようにライラが立ち、厳しい表情でユーリを見下ろしていた。 「恥ずべきなのは人間です。相手が魔族だからと、感謝することもなく、ただ自分達の願いを叶えるために陛下のお力を利用しようとする人間が悪いのです。本当に……私達こそ、魔族と人間とのきちんとした友好の橋渡しも出来ず、申し訳なく思っていますわ」 ライラ。ユーリが長年の友人の名を、感謝を籠めて呼んだ。 「ありがとう、ライラ。……でもやっぱり、おれは考えなしだったなって思うよ。おれは誰のお役にも立つ何でも屋じゃないんだ。何より眞魔国の王様なんだってこと、忘れちゃいけなかったんだ。一国の王だってこと、それからさっきツェリ様が言ってた友好って言葉の本当の意味を、おれは最初からちゃんと考えて友好国の力にならなきゃいけなかったんだ。それをしなかったから、だから、今のあの人達みたいな、まるで魔族が人間に奉仕してるみたいな勘違いを生んじゃったんだって思う。せっかくたくさんの人間の国と友好を結んでいるのに、魔族の間に人間への反感が生まれてるのもそのせいだ。おれが……ちゃんとしなかったから……」 しょぼっと肩を落とすユーリにコンラートが慌てて手を伸ばそうとした、その瞬間、ぱこっと音がしてユーリの頭が揺れた。 「…っ、いてっ!」 頭を抱えるユーリの背後に、拳を握ったヴォルフラムがいる。 「なにすんだよっ、ヴォルフ!」 「王の自覚を持てと、ユーリお前、兄上にどれだけ言われ続けてきた?」 「…ど、どれだけって……そりゃもう数限りなく……」 「つまり、お前の王の自覚が全然足りないことを、兄上も、それから僕もコンラートもギュンターも、皆最初から分かっていたということだ」 「それは……」 「だから、お前の自覚が足りないために今日の状況を生んだのだというなら、それはお前だけの責任じゃない。それが分かっていながらしっかりした手立てを取れなかった、兄上やコンラートや僕やギュンターの責任でもあるんだ。いや、むしろ僕達の責任の方が重い。僕達は国政に長く関ってきたんだからな。ドのつく素人から始めたお前より、この方面の問題については遥かに精通していたはずなんだ。それなのに、僕達は無鉄砲に暴走するお前を止めなかった。コンラートに至っては、それこそがお前らしさだと好きにさせて喜んでいたくらいだ」 「ヴぉ、ヴォル……」焦る兄。「それはちょっと……」 「だから、今日の状況を自分ひとりの責任だなどと考える必要はない。僕達兄弟やギュンターもまた、責任の、そうだな、3分の2くらいは負っていると思うぞ。お前が責任を感じるのは、全体の3分の1くらいで良い」 「ヴォルフ……」 ユーリが感動したように、目をウルウルさせている。 コンラートも、よく言ったと褒めてやるつもりで微笑みかけ……ようとしたら、その弟からジロッと睨まれた。 「ちなみに、僕達の分のさらに3分の2はコンラートの責任だ」 きっぱり言われて、コンラートはグッと詰まって……だが何も言い返せなかった。 イロイロ無茶をしたし、心配も面倒も掛けっぱなしに掛けたのは事実だし……。 客間にパチパチと軽やかな拍手の音が響いた。 「いやー、男前だね、フォンビーレフェルト卿。さすがだよ」 にこやかな大賢者に、ヴォルフラムが軽く目礼する。 ……ヴォルフラム言うところの責任に、大賢者の分はないんだろうか。 ふと思ったコンラートだが、思うと同時に湧いたその疑問を即座に掻き消した。危険な思考が浮かんだことに気づかれなかったかとドキドキする。が。 ……いつから俺はこんなに小心者になってしまったんだろう。 ありがと、ヴォルフ。 ちょっと切なげに微笑んで、ユーリが言った。 「でも……ホントにさ、友達だからおれが何でもするとか、したいとか、してやるとか、そういうことじゃないんだよな。……国家と国家の友好や友情って、もっと基本に大事なものがあるんだ。もともと魔族と人間は長い間すれ違っていたんだし。そういうこと、おれはもっとしっかり考えて……あ痛っ」 いきなりデコピンされて、額を押えたユーリが恨めしげに見上げた相手は村田だった。 「いい加減にしなよ。…ねえ、渋谷、後からするから後悔なんだよ。たらればは無意味だ。考えるだけ時間の無駄。ウェラー卿じゃないけど、君は君らしく行動した。そしてそれは成功も失敗も生み出した。君がいましている後悔も、未来への決意も、その過去の積み重ねがあったからこそだ。だから良いんだよ。君や僕達が考えなきゃならないのは、これからのことだ。この先、あのラーダン人みたいな人間達がますます増えていくよ? ああいう人間達とどんな友好の形を造っていくのか。大事なコトはそれだ。だろ?」 「………うん。そうだな。村田の言う通りだ」 頷くと、ユーリは額を押えていた両手を思い出した様に下ろし、その掌をまじまじと見つめた。 「…ところでさ。気にするなとか言われてるわりに、後ろ頭はたかれたりデコピンされたりすんのは何でかな?」 納得できないなー。ぶつくさ言う割にはのどかな顔に、コンラート達もホッと頬を緩める。だがユーリはすぐに表情を引き締めた。 「友好をどんな形で結んで、それから深めていくのか……これからおれ達もあらためて考えていかなきゃな。あの人たちも……」 おれ達と本当の友達になろうって思ってくれたら良いのにな。 □□□□□ 「済まん! 本当に、済まん!」 「ロディオン!?」 土下座せんばかりの勢いで謝り始めた幼馴染の親友に、ドナは心底慌ててしまった。 「ロディオン、どう……」 「俺のせいだ。先走ってあんなことを口走ってしまったから……! 眞魔国の正使と聞いて、この機会を逃してはと……。俺が考えなしにあんなことを言わなければ、何の成果も得られずにここを追い出されるようなことには……」 「それはロディオンのせいじゃないわ!」 「そうよ! それに、ちゃんと意見を纏めてこいって言われただけで、決して追い出されるわけじゃないし……」 「だが、フランシアの使者殿にちゃんと教わっていたじゃないか。魔王が友好国を救うのは好意にすぎないと! 友好条約は国土を救う条件にはならないんだ。俺はそれを忘れてしまって……。俺のせいでラーダンの心象を悪くしてしまった……」 慰めるルチェルに、眉を顰めたロディオンが苦渋の滲む声で言った。 「それもロディオンのせいじゃないよ。忘れていたって言ったら、僕達皆忘れていたよ」 仕方がなかったんだよ。 スラヴァが穏やかな声で、だが真摯な口調で友人に語りかけた。そうだよ! とエフレムも大きく頷く。 「魔王の使者だもん。ここでラーダンを助けてくれって言わなきゃって、僕達みんなが思ったはずだよ? 真っ先にロディオンが口を開いただけじゃないか。自分を責めるのはやめてよ。皆、ロディオンのせいで状況が悪くなったなんて思ってないよ。ただ……まさかあの使者が前の魔王だなんて思わなかったよね?」 「そうなのよ!」ラチェルが勢い込んで同意する。「だから、心象を悪くするって言ったら、私の方がマズかったわ。あんな声を上げちゃったし…」 「それもしょうがないよ。だって魔王だもんな。魔王って言ったらそもそも悪魔の王って意味だろ? どんなすごい化け物だろうって想像しても当然じゃないか。それが、あんな目が瞑れそうな美人だなんてさ。詐欺だよね、ホント」 「不謹慎な言い方をするな、エフレム」 兄のようにドナが叱る。だが、肩を竦めるエフレムを他所に、ドナはギュッと顔を顰めてため息をついた。 「結局俺が一番悪いんだ。俺が……しっかりしなかったから……。それに今日だって……」 ロディオン。ドナが深く息を吐き出すと、親友の名を呼んだ。 「お前が悪いんじゃない。悪いのは俺だ。……キューリ様に、再会、できて、話もさせて頂けて、親切な申し出もして貰えて……。だから……舞い上がってしまっていた、と思う。みんな…嗤ってくれ。俺はキューリ様と出会えたあの瞬間から……」 ラーダンのことを忘れていたんだ……。 部屋がしんと静まった。 「俺は恥ずかしい。本当に今恥ずかしいと思う。民が皆あれほど苦しんでいるのに、俺は……。済まん、ロディオン。謝らなきゃならないのは俺の方だ」 皆、本当に申し訳ない! そう言ってガバッと頭を下げたかと思うと、すぐに顔を上げ、大きな手で両頬を勢い良く叩き始めた。パンパンッと張りのある音が響く。 「ド、ドナ…!?」 「ラーダンに帰ろう!」 「ドナ……」 いっそサバサバした顔で、ドナが友人一同を見回す。 「さっきルチェルも言っていただろう? 追い出されるわけじゃない。魔族と友好を結ぶということを、もっとちゃんと考えてこいと言われただけだ。だから帰って皆で考えよう。そして答えを出して戻ってこよう。考えてみたら、眞魔国の前魔王に直接話ができたんだ。ここにやってきたときより、ずっと前進してるんじゃないか?」 前向きな言葉は、むしろ自分に言い聞かせているように友人達には聞こえる。だがそれでも、次代の王の側近候補である青年達は、笑みを浮かべ、大きく頷いて見せたのだった。 しかし…。 「……あのさ」 寝室に引っ込むドナの背中を見送ってから、スラヴァが誰にともなくそっと呟いた。 「僕達、そもそも魔族が助けてくれるっていうから条約を結ぼうって考えたんだよね。助けてもらえる確約もないのに、あらためて友好を求める意味ってあるのかな…?」 「でも! 魔族に頼るしか私達にできることはないのよ? じゃあどうすれば良いってスラヴァは思うわけ?」 「分らないよ! ただ…ほら、あの前魔王だって言ってただろ? 友好条約を結んだら、お前達は何をしてくれるのかって。僕達が魔族に対して何ができるっていうのさ」 「あれってアレかな? やっぱり貢ぎ物を持って来いっていう暗黙の要求なのかな?」 会話に参加してきたエフレムに、スラヴァとラチェル、ルチェルの視線が向く。 「そんな……風には思えなかったけど……」 「私も、もっと真面目な意味に感じたわ。つまり、私達の友好って問題に対する認識の甘さを指摘するっていうか……」 「でも外国と条約を結ぶって言ったら、結局は国益第一だろ?」スラヴァが小首を傾げながら言う。「僕達の今一番欲しいものっていったらやっぱり国土の復活だし、それを求めて条約を結ぶのは間違ってるわけじゃないよね?」 「だからそういう一方的に求める姿勢がおかしいって言われたのよ。それじゃ、眞魔国が私達と条約を結ぶ理由が1つもないじゃない」 「それだよ!」 「それって…何よ?」 我が意を得たとばかりのスラヴァの態度に、ラチェル達がきょとんと目を瞠る。 「つまり魔族が人間に求めるものさ。エフレムが言ったみたいに、貢ぎ物とか、僕達に何かを捧げろっていうことじゃないのかな」 「捧げるって…?」 「例えば……」スラヴァが芝居気たっぷりに声を低める。「ラーダンの民を奴隷としてよこせとか……」 「いい加減にしろ、スラヴァ」 静かだがきっぱりとした非難の声に、スラヴァが慌てて背を伸ばす。 「ロディオン…」 「魔族が人間を奴隷として求めたという話はない。むしろ我々のそういう態度が問題だと、あの元女王は仰ったのではないか?」 「…え、っと……」 「私もそう思うわ。求めるのは貢ぎ物じゃなくて、もっと精神的なものだと思う」 「私も同感よ。ただ……」 「ルチェル?」 「ただね、魔族と無事に条約を結べたとしても、このままじゃラーダンを助けてもらえるかどうか分らないっていうのも確かよね。もし話が上手くいったとしても、魔王の救いの手がラーダンに齎されるのがいつになることか、これはもう……かなり悲観的な気分になってしまうわ……」 うん、と誰かが頷き、そのまま沈黙が彼らの間に横たわる。 ふうと息を吐き出して、それからロディオンが幼馴染を見回した。 「ここでどうこう言い合っていても仕方がない。とにかく明日ラーダンに戻って、それからあらためてラーダンとしての考えをまとめよう。貢ぎ物どうこうはそれからだ」 さあ、もう休もう。 そう声を掛ければ、友人達も頷いてそれぞれ寝室に引き上げていった。 そうして自分もまた己に宛がわれた部屋に向かい……ロディオンはふと足を止め、それから突如として湧き上がってきた堪らない思いに突き動かされるまま、壁に拳を打ちつけた。 ……ラーダンに戻って、何を話し合うというのか。 今ラーダンを救えるのは魔族だけだ。 ならば、何を問われても、自分達にできるのは魔族が求める答えを出すだけだ。どんな答えが欲しいのか教えて欲しい。何をすれば良いのか、具体的に教えて欲しい。貢ぎ物なんかないし、民を奴隷にも出せないが、できることがあるなら何でもする。それ以外、自分達に出せる答えなんかない。 望む答えを出すから、ラーダンを助けると言ってほしい。 ロディオンは壁にもたれ、天井を仰いだ。 ドナは一本気な男だ。善良で、素直で、人の善い面を信じている。だから、あの元魔王に言われたことをそのまま宮廷に諮り、真剣に答えを纏めようとするだろう。そして良い答えを持っていけば、眞魔国が条約を結んでくれ、頼めば国土を救ってくれると考えるだろう。 それを甘いというつもりはない。それはそれで正しいのだし、ドナはそうやってラーダンという国の大きな流れを作っていけば良い。細かい枝葉を整えていくのは自分の役目だ。 だから今自分がやるべきは……。 瞑目するロディオンの脳裏に、その時なぜか1人の姿が浮かび上がった。 ドナが恋した少女、キューリ姫だ。 ……あの姫が我々の力になってくれないだろうか。 元女王とはかなり近しい間柄のようだった。親戚と言ったか? おそらくあの姫も王族だろう。王家の一員というなら、あの姫に口を利いてもらうという手があるのではないか? 人柄も良さそうだし、ウェラー卿も可愛がっている様子だった。彼は当代魔王の側近中の側近だ。あの姫が口を利いてくれれば、ウェラー卿とて耳を傾けてくれるかもしれない。娘だの愛妾だのといった存在は、意外と無視できない影響力を持つものだ。 ……何とか、あの娘を味方につけることはできないだろうか……。 □□□□□ 夜。 フランシア国王の別荘は穏やかな眠りの中にある。 ユーリも同じく、天蓋付きの大きなベッドの中に埋もれるようにして熟睡していた。だが。 「………。……リ。ユーリ、起きて下さい」 ふぁ…? 視界がコンラートで占められて、それが夢の続きだとぼんやり思ったユーリは、ぼんやりしたまま手を伸ばした。と、その手が掴まれ、そのまま身体を引き起こされた。 「……? ほんりゃっと…?」 「目を覚ましてください、ユーリ。……ほら、これを飲んで」 何を? と疑問が湧く前に口に含まされたのは水だった。ほとんど反射的に飲み干して、そこでようやくそれが夢でないことに気づいた。 「…コン…? あれ?」 「目が覚めましたか? ユーリ、着替えて下さい」 「ど、どうしたんだ?」 「不穏な気配を感じます。今、ヨザとクラリスが調べに行っています。さ、起きて」 コンラートがそう言うからには、本当に何かあるのだろう。ユーリはベッドの上から慌てて服に手を伸ばした。 ユーリが身に着ける衣服は、前の晩にコンラートがベッド脇に用意しておく。侍女が選んで運んでくる服を、数人掛りで着付けてもらうという習慣を持たないユーリのためだ。これが血盟城なら、当然朝トレ用のジャージがあるのだが、ここではそうはいかない。 だが、服に向かって延ばされた手は、コンラートによって止められた。 「?」 「それはドレスですので、こちらを着てください。女性用ではありますが、こちらの方が格段に動きやすいですので」 それはツェツィーリエが「遊び着」として用意したキュロットドレスだった。膝下までの長さで、デザインはツェツィーリエが選んだにしてはスポーティなものだ。柔らかな皮製で、ベストとキュロットがセットになっている。こちらの世界では女性用乗馬服の代わりにもなるもので、キュロットの下にスパッツのようなものか厚手のタイツを穿き、さらに長めのブーツを履いて素足を見せないことになっている。 「人目もありますので、鬘とコンタクトも忘れないで下さいね。慌てなくても良いですから、急いでください」 「そーいう難しいことを……」 言わないでよと言い返しながら急いで着替え(もちろんさりげなくコンラートが手助けした)、鬘とコンタクトレンズを慣れた手つきで装着(もちろんこれまたさりげなくコンラートが手助けした)し終わったとき、まるで見計らったかのようにヨザックが部屋に飛び込んできた。この男には珍しく、声も掛けず、ノックもなしだ。 「コンラッド! 坊っちゃん連れて早く外へ出ろ!」 「ヨザック!? 一体何が……」 「ユーリ、説明は後で。すぐに出ましょう」 「う、うん…!」 コンラートが先導し、ヨザックに背中を護られ、3人で廊下に飛び出した途端、ユーリの鼻が異質な臭いを嗅ぎ付けた。よく見ると、灰色の煙がゆっくりと渦を巻きながら回廊を満たしつつあるし、パチパチという、不安と恐怖心を掻き立てる不穏な音もそこかしこから聞こえてくる。 「……コンラッド…? これ……」 「火ですね。どこかが燃えています。この別荘の内部でしょう」 「急いでください」ヨザックが背後から声を上げた。「あいつら、どうやら油か何か使ったみたいだ。思ってたよりも火の回りが速い」 「あいつら……?」 「渋谷!」 ハッと見ると、廊下の向こうから村田とヴォルフラム、そしてツェツィーリエが駆け寄ってくるところだった。ツェツィーリエは昔懐かしい「美熟女戦士」のコスチューム(いつ用意して、どうして今、何のために…と尋ねるのは無駄だ)に身を包んでいる。彼らのしんがりにはクラリスがいて、既に剣を抜いていた。 「渋谷、だいじょ……」 ドゴゥ…ッ!! 「わあ…っ!?」 腹に響く破壊音と、別荘を基礎から揺るがす振動が突如ユーリ達を襲った。 吹き飛ばされて倒れかけるユーリをコンラートが、壁に激突しかける村田をヨザックが、それぞれ身体を張って支える。ツェツィーリエはヴォルフラムにしがみ付き、何とか踏ん張ったヴォルフラムはギリギリ武人の面目を保った。 「くそっ、ヤツら、油だけじゃなく爆薬まで使いやがったな…!」 「やつ等って…?」 「邸を見回ったときに見つけた連中です。いかにも不審者ですって黒尽くめで、見つけたときにはもう油を撒き始めていやがりました」 「申し訳ありません」クラリスも話に入ってくる。「捕らえようとしたのですが、火をつけられてしまい、とにかく中の人々を避難させることの方が先だと考えました。一応衛兵には賊を追うよう命じてあります」 「うん、人命第一だからね。その判断で良いと思うよ。…うわっ!」 ドゥッとまたも鈍い音がして、壁から漆喰や装飾がバラバラと砕けて落ち始めた。 「急ぎましょう!」 コンラートの号令で、煙や炎の気配のない方向へと走り始めた。と、間もなく回廊の角から人影が飛び出してくる。咄嗟に剣を構えるコンラート達。 「陛下!」 「皆さん、ご無事ですか!?」 アントワーヌとライラだった。衛士や女官に囲まれて、ユーリ達の元に駆けてくる。 「ご無事で良かった! 陛下、まことに申し訳ありません! よもやこの地に賊の侵入を許すとは……!」 「そういう話は後です、アントワーヌ殿! さあ! 急いで外へ!」 「待って、コンラッド! あの人たちは!? ほら、あのラーダンの人たち!」 「大丈夫です、陛下」慌てて答えたのはアントワーヌだ。「邸の者をやっておりますので、おそらくすでに避難しているでしょう」 その言葉に背を押されるように、ユーリ達は走り始めた。だがすぐに、前方からまた別の人影が飛び出してきた。 「ひ、姫ッ! ご無事でいらっしゃいましたか!?」 どんどん濃くなっていく煙を掻き分けるように姿を現したのは、ラーダンの王太子で……。 ……何て名前だっけ…? 「ドン・アーダン殿!? まだ中におられたのか!?」 「一旦出ましたが、ひめ…いいえ、皆様方がまだ中と聞き、矢も盾も堪らず……」 「一体何があったんですか!? どうして……」 大きな王太子の身体の陰から、2人の女性と2人の青年が咳き込みながら顔を出す。 「いいから早く外へ!!」 「もっ、申し訳ありませんっ!」 「こちらです!」 王太子の背後から、今走ってきたらしい金髪の青年が飛び出してきた。その間も、天井からパラパラと石の欠片や金属が落ちてくる。柱のようなものが崩れる大きな音も、段々近づいてくるようだ。 「外まで火の気のない回廊を確認してまいりました! ついてきて下さいっ!」 「よし! 全員走って! さあっ!!」 コンラートがユーリと村田を前に押し出し、後に続く母や弟、そして友人達を振り返り、叫んだ。 だがその時。 ドゴォッ!! 強烈な爆発音と振動が再び彼らを襲う。同時に、鼓膜を叩き潰すような破壊音と落下音、凄まじい衝撃波がユーリ達のいる空間を揺るがした。 またもや吹っ飛ばされたユーリを、反射神経を総動員させた王太子が石の廊下に身を投げ出して受け止めた。 「……ヤ! 渋谷! 無事か!?」 舞い上がる粉塵と煙に、視界は灰色に覆われている。爆音の余韻と、壁や柱が崩壊していく音を掻き分けるような親友の声が耳に届き、ユーリはやっとのことで身体を起こした。自分を支える人の身体の感触が、違和感だらけで気持が悪い。 「……み、みん、な…だいじょ……?」 見上げた視界に映ったのは。 崩れた壁か柱の残骸の小山だった。 「……っ、みっ、みんな…!?」 咄嗟に見回せば、村田とラーダン王国の王太子達が愕然と、粉塵と煙に半ば姿を掻き消されるようにしながら瓦礫を見つめている。 他の、ユーリにとって慕わしい、大切な人々の姿が全く見えない。 「………ラッ、ド…?」 呆然と、声が漏れた。 「コンラッド…っ!!?」 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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