その世界で、世界地図を必要とする者はそう多くない。 生活が自分の目に見える範囲で完結してしまっていれば尚のこと。 彼らは、自分が生きているこの世界が広いのか狭いのか、裕福なのか貧しいのか、他と比べる必要も感じないのだ。 これは、そんな環境であるが故に起きてしまった物語である。……たぶん、きっと。 「ラチェル、ねえアレどうにかして」 「ルチェル、私に言われても」 そっくり同じ顔の娘が、鏡を見るように互いの目と目を合わせ、やれやれと肩を竦めた。 彼らの前には、青年が1人、ボーっと宙を見つめている。 ……見つめているんだろうと思う。 何せ、青年の目は文字通りの糸目で、開いているんだか閉じているんだか、傍目にはさっぱり分らないのだから。 「……相変わらずか……」 2人の娘、ラチェル、ルチェルと互いを呼び合った双子の姉妹は、背後から響いた声に振り返った。意外な表情ではない。聞き慣れた声だからだ。 「ロディオン……ああ、なんだ、スラヴァにエフレムもいたんだ」 頷きながら、3人の青年達がその部屋に入ってくる。 「我らが殿下のご機嫌伺いにね」 ロディオンと呼ばれた金髪碧眼の青年が答え、視線をぼんやりしている同年代の青年に向けてから、やれやれとため息をついた。 「……どうしたもんだろうな、これは」 「分ったことが一つだけあるわ」 ラチェルと呼ばれる双子の片割れが言った。 どこかあらぬ場所をボーっと見つめている青年を除く4名の視線が、鹿爪らしい表情で腕組みするラチェルに向けられる。 「遅すぎる初恋って、ものすっごく傍迷惑だってことよ!」 □□□□□ その国の名をラーダンという。一応王国だ。 近年、眞魔国が世界地図を完成させた。その地図の中、大陸の東の端には、国境線とは違う太線で囲まれた一画がある。そこは「群小国家域」と記され、30ばかりの国名が列記されている。つまるところ、世界地図では形を描写することができないほど小さな国が群れているということだ。ラーダンはその中の一国である。 ちなみに、その「群小国家」の中には「アシュラム」という名もある。ただ、アシュラム公領が大陸の東南にあるのに対し、ラーダンは大陸の北東にあった。 国の規模はアシュラムよりまだ小さい。 総人口、2万5千そこそこ。羊と牛と馬の数の方が圧倒的に多い。 そこそこの高さの山とそこそこの森があるものの、国土の9割9分がなだらかな丘陵地帯であり、ほとんどが放牧に利用されている。故にラーダンは「牧場国家」と呼ばれていた。 羊と牛の肉質、ミルクとチーズの味の良さ、良馬を産することで近隣諸国では名が通っている。 最も近くにある「大国」はフランシアで、ラーダンの王はもちろん、国民にとってフランシアは「仰ぎ見る」という表現が相応しい「超大国」である。……これだけでもラーダンの国の規模が分るというものだ。 牧場国家の名に相応しく、のどかでのんびりした国だった。 王城、というより、国王の館は水源となる山の中腹にあり、そこからは国土が一望できる。ので、王の館の庭は国民の憩いの広場となっていた。 王の館の眺めの良い場所に敷物を敷き、家族で弁当を遣うのは、ラーダンの民の晴れた休日の楽しみだ。それに対して国王が眉を顰めたという記録はない。王の館の庭は常に民に開かれている。収穫祭を除けば、特に大きな催しのないラーダンの民にとって、良く手入れされた王の庭でのんびり過ごすことは取っておきの娯楽なのだ。 農業と畜産を主な産業としているラーダンの、生活の基本は自給自足だ。家族は皆、生まれ育った村に属している。個々の家庭も庭に菜園くらいなら持っているが、農場や牧場は村の共有だ。何といっても国土が狭いので、貴族でもない民が農場を所有することなどない。農作業も牧畜も、村人が皆、力を合わせて行っている。 狭い国土の中でも、森とその周辺は王家が直接管理している。ラーダンの民なら誰でも森に入ることができるが、恵みを1つの村や個人が独り占めすることのないよう、王家が管理しているのだ。 この、富の管理と分配こそが、小さな小さな国の王の最も重要な役目なのだ。 国境は土塁の低い壁だったり、何千歳か分らない巨木だったり、垣根だったり。 周囲の国も似たり寄ったりの農業小国だから、特にそれで困ることはない。 近隣諸国との紛争はしばしば起こる。……牛や羊や馬が逃げて、国境の垣根を飛び越えたとか、それを追った農夫が国境侵犯したとか。 ラーダンにも周囲の国々にも兵士はいるが、職業軍人なる言葉は元より存在せず、兵士は皆、住まいする村の農民で、農業や畜産に従事するのが本分だった。ただ、王の館など、常に兵を必要とする場所があるのも確かなので、それは各村が当番制で当っていた。つまり、村が1つの部隊を兼ねてもいるのだ。 必要があれば鎧兜を身につけて剣を取り、敵と戦う。だが、そんな機会はここ数代誰も経験していない。 川は支流が多いので、あまり国同士の水争いは起きず、国境紛争は国境線を挟む農地の主同士の話し合い、もしくは喧嘩で済んだ。武器─大抵は鋤とか鍬とか─を手にして威嚇しあうこともないではないが、部隊長でもある村長が間に入って大体事は収まった。 国境線を挟む村同士の雰囲気が何となく険悪になると、両国の王はある祭りを行うことにしていた。 国境線を挟んで、2つの国の2つの村の民が向かい合い、お互いの村で収穫した作物、野菜や木の実を武器に見立てて相手側に投げ入れ、攻撃するのだ。一種の模擬戦争だが、つまりは身体を思い切り動かすことで、溜まった鬱憤を発散させようというのである。 食べ物を投げるなど罰当たりなことだとか、かぼちゃが頭に当ったら危険だという意見もあるが、少々の危険は承知の上だ。それに、防御用の盾を持つことや、兜を被るのも自由となっている。何の手立てもせずに祭りに参加し、怪我をするようなお調子者は自業自得と笑われる。 そして夢中になって野菜を投げて、スッキリした気分で祭りが終われば、皆で落ちている野菜や木の実を全部拾って分け合って、その日の夕食のおかずにするのだ。これで野菜も木の実も無駄にせずに済む。 そんな風に、ラーダンもその周辺の国々も、民人は皆、目に見える範囲の世界に満足し、子孫を繋げてきた。全てが自分達の世界で完結して、それに何一つ不満を覚えることもなく、畑を耕し、羊を飼い、牛を飼い、乳を搾り、チーズやバターを作り、パンを焼き、時折野菜を隣国に投げ、皆仲良く暮らしてきたのだ。 唯一、ラーダンとその2、3の隣国が他の近隣諸国から眉を顰められている慣習があるが、近年実質的な害を他国に与えることは少なくなっていた。 その慣習とは、いわゆる「略奪婚」と呼ばれるものだ。男が気に入った他地域の女性を、ほとんど誘拐同然に我が物にするという前時代的な蛮行である。 いまだ女性の地位は低く、ラーダンのような古い国では特に、女性は男性の従属物と扱われることが多い。しかしさすがにこのような暴力的な行いで男の力を誇示する婚姻は、昨今かなり形骸化してきた。今では「略奪婚」は、本人同士はもちろん、双方の家族が合意の上の、結婚式の前段階的イベントとなっている。 すなわち、どれだけ男性が恋人を情熱的に想っているか、を周囲に示すための儀式なのだ。 「略奪された花嫁」は、夫となる男性の家で、恋人の腕に抱き上げられ、家族友人達にひやかされながら口付けを交わして求婚を承諾することになっている。 平和な国の、平和な民の、幸福な生活の第1歩、である。 だが昨今、その全てが昔の話になってしまった。 お定まりの自然の崩壊が、この小さな国家にも襲ってきたのだ。 牧場国家と呼ばれた国の、大地を覆う緑がどんどん枯れていった。森の葉が落ちて、落ちたきり木が枯れ、実を結ぶどころではなくなった。時には川が完全に干上がった。 国の最大の財産である家畜が、飢えと渇きと疫病でどんどん倒れていった。もちろん人も。 ……野菜を投げあうだけでは済まないほど、人々の争いが深刻化していった。 魔族の仕業なのだと、そんな話がどこからともなく国に入り込み、民の間でまことしやかに交わされるようになった。 ラーダンの民にとって、元々魔族は遠い存在だ。 もちろん「魔族」が実在することは聞いている。世界の西の端、自分達が唯一知っている「世界」と遠く遠く離れた、本当にあるのかないのか知りようもない、遥か遠い場所に「魔族」の国があるという。 そんな彼らにとって、「魔族」はほとんどお伽噺の世界の住人だった。 「世界」がどれだけ広いのかも、自分達の国がどれだけ小さいのかも知らないラーダンの民人達は、「角があって、不気味な羽があって、牙があって、子供を攫ったり食べたり、疫病をばら撒いたりするお化け」だという「魔族」など見た事もなく、見た事のない存在などいないも同じなのである。 よって、ラーダンの民にとって「魔族」とは、それがどれほど怖ろしいお化けであろうと、あくまで空想の産物に過ぎなかったのだ。 その「魔族」が、自分達の村にこんな災いを運んできたのだという。 これまでさんざん想像を逞しくしてきたラーダンの民は、自分達自身が作り上げた「魔族」の姿に震え上がった。 民は皆、今にも魔族が大挙して襲ってくるのではないかと、びくびくと空を見回し、森の奥、木立の闇を避け、陽が落ちると即座に扉の鍵を閉め、「魔族」が嫌うという香草を焚き、家の中に籠もった。 「……まあ、噂話というものはぁ、とかく話半分というからのぉ」 切羽詰った国情と民の危機感の割りにのんびり宣ったのは、ラーダンの現国王アルマンゾ7世である。 顔の半分を白い髭で覆われた王は、糸目の尻をたらりと下げ、寝ぼけた犬のような表情で、自分の言葉にうんうんと頷いた。 「ワケの分らんことが起きれば、どこかに原因を求めずにはおれんもんだわ。魔族などという、正体のよく分らんモノなら、責任を押し付けるのにちょうど良かろうて。……じゃがのう……?」 自分の言葉が真実から微妙にズレているようで、実は意外と真実を突いていることにも気づかないまま、国王アルマンゾ7世は深々とため息をついた。 「そもそもラーダンの民が、魔族に何をしたと言うのじゃ? 化け物に祟られたり呪われたりする謂れはないしのう。とはいえ、理屈が通らぬから化け物と言えば言えるのじゃろうが……。かといって……さあてどうしたもんだろうのう……」 原因が魔族だとしても、自分達に何ができるというのか。 この王はそこそこ真っ当な見識の持ち主なのだが、だからといって現状の打開には何の役にも立たない。 だが。 そうこうしている内に、今度は全く違う噂が国外から疾風の様に流れ込んできた。 大地が枯れ始めたのは魔族のせいではない。それどころか魔族は人間を助けようとしている。 眞魔国と友好を結んだ国は、魔王の力により大地の荒廃から救われる。 というものだ。 ラーダンの民は困ってしまった。 そもそも「魔族」をお伽噺の住人としてしか理解してこなかったお国柄である。それがいきなり「敵」になったかと思えば、はたまた「救い主」になったりと、聞かされる方はどちらを信じて良いのかさっぱり分らなくなってしまったのだ。 ラーダンの民の頭の中では、翼や角や鉤爪を持った竜のようなトカゲのような熊のような狼のような……とにかく想像し得る限りの「お化け」が、ひたすら右往左往している様に思えてしまう。 だが、大陸東部に住まう人々にとって最も身近な「大国」フランシアが魔族と結び、それによって自然が蘇り始めたという噂が風に乗って流れ込んできたことで、「魔族との友好」はラーダンの人々にとっても一気に現実味のあるものとなってきた。 「何でも、魔族の国、眞魔国は、実は世界で1、2を争う大国だったそうですぞ」 「私が聞いた話によると、条約の調印を果たした瞬間、その国の大地から一気に緑が芽吹いたとか!」 我らもさっそく、と意気込む廷臣達に、だがアルマンゾ7世は「なんだかのう…」と首を傾げてみせた。 「わしがいつも言うとるじゃろ? 噂話というものは、話半分に聞くもんだと。世界で1、2を争うなど大げさな。魔族など、わしゃ見たこともないが、おそらく数は人間よりずーっとずーっと少ないはずだしのう。もし大勢おるというならば、この辺りにだって飛んできたはずだもの。ほれ、魔族というのは翼があるんじゃろ? それを誰も見たことがないというのは、やっぱりちょびっとしかおらんのだろうて。そんなものの住む国がいくら大きかろうと、フランシアには到底及ぶまいよ。それに、調印したとたん緑が蘇るというのも……。お前達、もーちょびっと頭を冷やして考えてみよ。それこそお伽噺の類じゃろうが。そんなに都合の良い話がそうそう巷に転がっておるものか。話半分、話半分」 国王の見識は、かなり真実に近づいている。だが、重要な部分で思い切り外してもいた。その外しっぷりのおかげで、王の真っ当な見識もほとんど台無しである。 結局、噂話から距離を置くという冷静な対応が、逆にラーダンを身動きできなくさせてしまった。 そうこうしている内に、大地の荒廃は加速し、緑は日を追うごとに枯れていき、水はどんどん減っていく。 もはや二進も三進も行かなくなった、というある日。 思いもかけない話が、「大国」フランシアから舞い込んできた。 曰く。 フランシアにおいて、天下一舞踏会を開催する。 これに眞魔国の、魔王陛下に大変近しい、ある高貴な人物が参加することとなった。 眞魔国との友好を検討されているのであれば、ぜひこの舞踏会参加され、この人物と会談してみては如何か、と。 ラーダンと舞踏会は、あまり縁がない。 もちろんラーダンとて、小さくとも王国だ。城はないがそこそこの大きさの館があり、王族もいれば貴族(領主というよりは、地主と呼ぶ方が近い)もいるし、館を守る兵士もいる。…農作業を交代しながらだが。 だから夜会だってあるし、舞踏会もある。 ただ、ラーダンの舞踏会は近隣に住む民もお呼ばれに預かるので、実体は結構雑然としていた。 はっきり言えば洗練には程遠く、舞踏も村人達が収穫祭の折に輪になって踊るものと大差ない。というか、同じだ。大国で開かれる舞踏会に参加するなど、できることなら遠慮したいと皆が思った。 しかし……。 ここで二の足を踏んでいては、ラーダンの未来は絶望的だ。 動きの鈍い国王も、さすがに危機感を募らせたのだろう、ついに大きな決断を下した。 「よし、わしらも天下一舞踏会に参加しよう! そして、その高貴な魔族とやらと会うてみるのじゃっ!!」 「しかし、陛下」 いきなり異論が出た。 「一体誰が魔族と会談するのですか? ……申し訳ありませんが、私は御免蒙ります。そのー…トカゲとか蛇とか、そっち系が苦手なので……」 「なんじゃ、その、そっちけいというのは」 「あら、魔族は熊そっくりだとウチの祖母が言ってましたが……」 「私はコウモリだと」 「頭が猫で胴体が美女で足が……」 「頭が猫なのにどうして美女だと分るんじゃ? というか、お前達が聞いたのは、全部子供の頃の寝物語じゃろうが」 ったく…。気味の悪いお化けと面と向かい合うのは怖いし嫌だという気持ちは分かるが、国のことを考えてくれればもうちょっと……。確かに気持ちは分かるが……。 そこで、ふむ、と国王は考え込んだ。 「フランシアもそうじゃが、中央のお人らは魔族とよくまあ面と向かって平気でいられるものだのぅ。国を助けてもらえると思えば、化け物とも笑って話ができるものじゃろうか……」 それとも。王はふと思った。 自分達は何か間違っているのだろうか……? 王の脳裏を小さな疑念が過ぎったその時だった。 「父上、じゃあ俺が行きましょう」 救いの主は王の息子、王太子ドン・アーダン、子供の頃からの習慣で、ドナと呼ばれる人物だった。 ここでようやく今回の主役を紹介できる。 王太子ドン・アーダン。急いで呼ぶと「ドナーダン」になることから「ドナ」と縮めて呼ばれることが多い。ちなみにドナは女性名だ。幼い頃は女の子の様に愛らしかったので、だれも違和感を覚えなかったらしい。だがどんなに愛らしい子供でも、大人になれば変わるのだということは、どうやら皆が失念していたようだ。 特に、美しい女性に対し賛嘆の意を籠めて「ドナ」と呼ぶ習慣が群小国家地域にあるため、王太子が長じてから色々と問題も発生してきた。初対面の人物が王太子の呼び名を「ドナ」と知ると、一体どんな美女が現れるのかと期待してしまうからだ。 ドン・アーダン、ドナは、現在24歳。実に筋骨逞しい大男に育った。 見事なまでに骨太で、全身つくべきところに豊かに引き締まった筋肉がつき、頭の先から爪先までがっしりしている。肌は赤銅色。藁色の髪は短く刈り込まれている。 顔は四角く、大きな口は力強く引き締められて、見るからに顎が強そうだ。 首も太く、二の腕も盛り上がり、胸板は厚く、ぎゅっと締まった腹の筋肉は綺麗に割れ、太股も太い。かなりの偉丈夫、つまりでっかくて逞しい男なのだ。 向かい合うのはもちろん、隣に立たれると圧迫感がすごい。だが、よくよくその顔を見ると、大抵の人はホッと安堵の息をつくことになる。 四角くがっしりした造りなのだが、何とも……のんびりした表情の人物なのだ。 特徴的なのが目だ。糸目なのだ。誰も瞳の色を知らないんじゃないかと、巷の噂になっている。 笑うとへにゃっと目尻が下がって、何とも愛嬌がある。 がっかりしたり、悲しんだりすると、目尻だけじゃなく太い眉毛までもへろへろっと八の字になって、誰もが思わず頭を撫でてやりたくなる。……かなりの長身なので、梯子を掛けないと頭に到達できないため、十を過ぎた頃から彼の頭を撫でた者はいないが……。 とにかく。 「おお、息子よ、行ってくれるか!」 「はい、父上。俺はトカゲも蛇も平気ですし、猫は好きですし、美女は……ゴホゴホ、熊との取っ組み合いもやれと言われればやりますが、今回は会談だというから大丈夫でしょう」 「魔術はもちろんじゃが、剣を出されたら逃げるのじゃぞ? お前は取っ組み合いは強いが、剣はからきしじゃからのう……」 「そうですねえ。俺も鍬や鎌や鋏なら誰より上手く遣う自信があるんですが……」 ドン・アーダン、ドナは根っから農村系の王子だった。 川の堤が切れたと聞けば、工事道具一式やもっこを背中に担いで飛んで行く。一家の主が怪我や病気で、作付けや収穫、家畜の世話ができないと聞けば、腕まくりをして手伝いに行く。牛や馬が難産だと聞けば、獣臭い小屋で夜通し世話をするのも厭わない。 一番の得意は、羊の毛刈りである。 ラーダンの誰よりも、早く丁寧に羊を毛を刈ることができる。10年連続毛刈り大会優勝は伊達ではない。毛刈り用の鋏を使わせたら、どんな剣の達人にも勝てる自信があった。……剣の達人は鋏で戦ったりしないだろうが。 つまりドナの赤銅色の肌は農作業や牧畜による日焼けであり、逞しい筋肉は剣術ではなく鍬や鎌を振るうことで身につけたものなのだ。彼が逞しい肉体の割りに剣術が苦手であることは、おそらく本職の武人であればすぐに見抜くことだろう。 結局、ドナがラーダン王国を代表してフランシアの天下一舞踏会に参加することとなった。 同行するのは、王子の乳兄妹や幼馴染、いずれは王の側近となる予定の若者達である。 ラチェルとルチェルのウッド姉妹はドナの乳兄妹だ。乳母は2つの乳で3人の赤ん坊を見事に世話した子育ての達人だ。 ロディオン・イヴァは国防大臣兼外務大臣兼大将軍兼地主寄り合い会議世話役の息子で、ドナの幼馴染で親友だ。エフレム・バムは母親がドナの母、すなわち王妃の従姉妹で、親を早くに亡くした後、王妃に引き取られ、王の館でドナと共に育った。今年19歳の、ドナの弟のような存在だ。スラヴァ・メッテは父親が儀典長、母親がドナの教育係の1人で、やはり幼い頃からの親友の1人だ。 何をするも一緒で育ってきた、この気の置けない友人達と打ち揃って、ラーダン王国王太子ドン・アーダン、愛称ドナは魔族という名の「お化け」と対峙するべく、覚悟を決めてフランシアを訪れたのだった。 が。 「……えーと」 「初めまして。眞魔国第27代魔王、ユーリ陛下にお仕えしております、ウェラー卿コンラートと申します」 ぽかんと口を開け、目を瞠って……は、全然いないが、とにかく呆気に取られた表情でドナが見つめる先で、生まれて初めて間近で見た本物の「魔族」が微笑んでいた。 きゃあ。ドナの背後で、乳姉妹2人の悲鳴(?)が嬉しげに弾んでいる。 化け物と向かい合って、それでも笑って話ができるものなのか。 それが父王の素朴な疑問だった。 その疑問の答えは、「魔族」と真正面で向き合うことで簡単に得られた。 「魔族」は、少なくともその見かけは、人間と何一つとして違いがなかったからだ。いや、それどころか。 「高貴な魔族」であるという人物、ウェラー卿コンラートという男は、ドナ達がこれまでの人生で目にしたことがないほど整った容姿の、実に颯爽とした、男の目から見ても惚れ惚れするほど「良い男」だったのだ。 「………あのー」 「はい?」 「人間に化けてもらえて助かりました。ウチの森にも色んな動物がいるので、ちょっとやそっとのモノなら驚かない自信があったんですが、やっぱり緊張してたみたいです。あ、でも、本当はどんな姿をなさってるんですか?」 「……………」 端麗な容姿の「人間に化けた魔族」は、数呼吸の間きょとんと目を瞠って、それから苦笑を浮かべると、傍らに立つフランシアの国王夫妻─王は手で顔を覆って天を仰ぎ、王妃はなぜか怒り心頭の様子で肩を震わせている─に向かって楽しげに声を掛けた。 「本当に今回は、懐かしいというか新鮮というか、愉快な反応の方が多いですね」 申しわけありまっっせんっっ!! 大勘違いだった。 ウェラー卿コンラート閣下─前魔王の子息というからには「殿下」と呼ぶべきではないかと思われたが、「閣下」で良いのだと言われた─は、美青年に化けたトカゲでも竜でも熊でもなく、そもそも「魔族」は「お化け」ですらなかったのだ。 それを、怒りに震えるフランシア王妃に実力行使─やおら椅子に飛び乗ったライラ王妃が、驚くドナの襟首を引っ掴み、思い切り締め上げて怒鳴りつけたのだ─と共に教えられた「事実」に、ドナ達は自分達が長年の間勘違いをしていたこと、それによって今、自分達が自分達の国を助けてくれるかもしれない相手にとんでもない無礼をしてしまったことに思い至ったのだった。 「……あの、それでは結局のところ、人間と魔族の違いとは何なのでしょうか?」 何度も何度も頭を下げて謝った。 相手が苦笑しながら「もうよろしいですから」と許してくれても、自分達の国を挙げての幼稚な勘違いと思い込みが恥ずかしく、一旦恥ずかしさを自覚すると、謝れば謝るほどその恥ずかしさが増し、ドナ達はいつまで経っても頭を上げることができなかった。 それでもいつまでもそんなことを続けているわけにもいかない。律儀すぎる謝罪に、ライラ王妃の怒りが呆れに変わり、フランシア国王とウェラー卿の苦笑がいかにも可笑しそうな笑いに変わった頃、ドナ達はようやく落ち着きを取り戻し、まともな挨拶ができるまでになったのだった。 お茶を飲み、ホッと一息ついて、そこで出たのがその質問だった。 口に出したのは、主従6人の中で最も知性派と評判のロディオンだ。 確かにそれが知りたいと、ドナ初め全員が思い、それが顔に出たのだろう、ウェラー卿は全員の顔を見回し、にっこり笑って「そうですね」と応えた。 「最大の違いは寿命でしょうね。個人差やお国柄はありますが、人間の寿命は7、80年というところでしょうか」 はあ、と全員が頷く。 「それに対して魔族は、平均して400年、500年生きる者も珍しくありません」 「ご、500、ねんっ!?」 「この生きる時間の違いが、人間と魔族の何より大きな違いを生み出していると思われますね。人生観とか時間に関する概念や価値観とか……。しかしそれ以外に人間との違いなどありませんよ? 生活も全く同じです。よく言われるように、魔族は闇に生きるとか、人を食べるとか、そのようなことも迷信に過ぎません」 「はあ……」 だから人間と大して変わりがないと判断するべきなのかどうなのか。 500年といえば、ちょっとした国が生まれて滅びるまでの年月と大差ない。 何と答えて良いのか、どんな表情をして見せれば良いのか、全く判断がつかないまま、ドナ達はただただ深いため息を漏らした。 「あのー…」 「はい?」 「ではあの、閣下は一体お幾つで……」 どう見ても、ウェラー卿コンラート閣下は20歳を少々出たか出ないか、くらいにしか見えない。 「俺は魔族としてはまだ青二才ですが……100年以上生きています」 同年代どころではなかった。 ラチェルとルチェルが手を取り合った姿のまま引き攣っている。 ところで、と、雰囲気を変えようと考えたのか、ウェラー卿が声の調子を切り替えて言った。 「こちらの国王ご夫妻から伺いましたが、ラーダンは風光明媚な御国のようですね?」 は、はい! 自分の国の話になり、ドナはピンと背筋を伸ばして答えた。 一生懸命さが全身から溢れている。 「ウチは、あ、いえ、我がラーダンは、フランシアに比べますと、そりゃもう小さな国です。でも、水は山からどっさり下りてきますし、緑も濃くて、俺達は、ととっ、私達は素晴らしい祖国を持つことができたと、神様に感謝してます。上から下まで皆のんきですし、まあちょっとはケンカもしますけど、でも戦らしい戦は、ひいひい爺様の代からありません。小さすぎて大シマロンの世界統一戦争とやらからもほっとかれましたし。ええと、あの、ウチは牧畜が盛んでして、羊や牛も良い乳を出してくれます。おかげで俺、私もこんなにでかく育ちましたし、ウチの、じゃない、我が国の、えーと、何て言うんだ? あ、そうだ、にゅ、乳製品は、天下一品だと皆自慢しております。本当に良い国です。いえ、その、つまり……前はそれくらい良い国、でした。……ご存知と思いますが、今は色々と苦しい状態です。でも、もし眞魔国にお助け頂けたらば、またすぐ元に戻ることができると信じております…!」 あまり長々と話すことが得意ではなさそうな、訥々とした、だが生まれ育った国への愛情に満ちた言葉に、ウェラー卿が穏やかな笑みを浮かべて耳を傾けている。 もし魔族が、この人物から受けた印象通りなら。 ウェラー卿の品の良い、優しげな笑顔を見つめるドナ達の胸に希望が湧いた。 ラーダンは迷信から抜け出して、魔族という未知の種族と新たな契りを結び、それによって救われるかもしれない。 魔族のことを学び、理解しよう。そしてラーダンを蘇らせるため助力を願おう。 国を思うドナ達の熱意溢れる、そして懐疑的な中央の人間にはない素直で前向きな決意は、だが間もなく、否応なしにねじ曲げられる運命にあった。 □□□□□ 魔族と新たな契りを結ぼうという国はラーダンだけではなかったらしく、ドナは期待したほどウェラー卿と直に話をする機会に恵まれなかった。 どうやらウェラー卿自身も、色々と忙しいらしい。 とにかく、魔族が化け物ではなかったこと、そして眞魔国と友好条約を結んだことで実際に魔王の援助を受け、大地が蘇った国がいくつもあることが分かったことは大収穫だった。 とりあえずこの事実を国に報告し、改めて眞魔国に対し友好条約締結を申し入れよう。 ドナ達の決意は固まっていた。 そんなこんなと過ごしている内に、ついに天下一舞踏会の日を迎えることとなった。 その日。 人間の国の多くが滅亡の危機に瀕しているはずの今、フランシアに集まった親眞魔国の各国代表は、煌びやかな礼服に身を包み、飢えも病も知らない顔で笑いさざめいている。 ラーダンやその周辺の田舎国家では、到底目にすることのできない派手やかさだ。精一杯のドレス─どう贔屓目に見ても地味で、さっぱり垢抜けない─を纏ったラチェルとルチェルの、生来の気の強さをどこかに置き忘れたかのように悄然とした姿に、ドナの胸がかすかに痛む。 何だかなあ…。 思わず口から飛び出してしまった一言。ドナの二の腕を親友のロディオンの手がぽんと叩く。 「俺達は別に舞踏を目的にここに来たわけじゃないだろう? 俺達は俺達の目的を果たせれば良いんだから」 うん。逞しい顎を上下させてドナが頷く。 そして何気なく顔を向けた先に、ふとドナの視線に引っ掛かった姿があった。 少女だ。 鼻が詰まりそうな脂粉の香り、絢爛を競う女性達の群れに気後れしたのか、その少女は舞踏会場の隅、柱の陰に隠れるように立っていた。 なぜか扇で隠されて顔は見えないが、様子からしてまだ15、6だろうか。親兄弟はもちろん供の姿も見えない。ドレスはドナの乳兄妹のものより粗末だ。 身の置き所がなさそうな、頼りなげな様子が、ドナの保護欲をいたく刺激してしまう。 こんなところで一人ぼっちなんて。可哀想に。 ドナの脳裏に、親を亡くして震える、寄る辺ない動物の仔達の姿が過ぎる。 ……自分では怖がられるかもしれないし、ラチェル達に声を掛けてもらおうか。同じ様に田舎っぽい自分達と一緒なら、あの娘も気後れしないだろうし、心細くないのではないだろうか……。 そう思いつき、ドナが乳兄妹に声を掛けさせようとしたその時だった。 「ただ今より、天下一舞踏会を開催いたします!」 進行役の開会宣言と、それに続く拍手が舞踏会場に溢れた。 ハッと顔を巡らせれば、進行役に促されたウェラー卿が会場の中心に歩み出てくるところだった。 会場の、特に女性達のため息と歓声が一気に高まる。ドナの傍らからも、ルチェルとラチェルの「どうしてあんな素敵な人がこの世にいるの」「ってゆーか、どうして私の周りにいないの」という、幼馴染の男共のいたいけな心を薙ぎ倒すような会話が聞こえてくる。 と思ったら、ドナ達の前で女性達が一斉に理解不能な動きを始めた。 会場中心に佇むウェラー卿に向かって、装いを凝らしたうら若き姫君達が、じわじわとその距離を詰め始めたのだ。 ……まるで…獲物を狙って匍匐前進する縞狼の群れのような……。 もしこれが自分に向かって忍び寄ってくるとしたら、嬉しいよりも恐怖を感じるかもしれない。 「…何なんだ、あれ……」 「ウェラー卿の舞踏の相方に選んで欲しいんだろうな」 間髪入れずに答えたのは、ドナの頭脳役を務めるロディオンだった。 聞いていなかったのか? と、不思議そうに首を傾げるドナにロディオンが呆れように続ける。 「天下一舞踏会では、誰と踊るかその場で決まるんだそうだ。それがそのまま恋のお相手に発展することも多いと聞いたぞ? つまりこのたおやかで淑やかな姫君達は、皆ウェラー卿の恋人候補に名乗りを上げているわけだ」 はあ、なるほどと見れば、すぐ近くに立っていた薄紅色のドレスのいかにも清楚な姫君が、猛禽の様に目を吊り上げ、今にも舌なめずりしそうな様子でゆっくり前に進んでいる。 ちょっと背筋が寒くなったドナの目の前で、やはり同じ様に感じたのか、姫君のお付きらしい娘が主の歩みを止めようと、姫君を羽交い絞めにし始めた。 そういえば。 ふと気づいて辺りを見回すと……あの娘がいた。 高貴な姫君達の、身分に似つかわしくない振る舞いに恐れをなしたのか、ますます柱に隠れるように身を縮めている。 なぜかホッとする思いで、ドナは改めて少女に声を掛けようとした。 誰もその存在に気づかない一人ぼっちの少女を、自分こそが保護しなくてはと考えてしまったのだ。 ドナが幼馴染達を引き連れて、少女の側に行こうとした、だがその時だった。 ウェラー卿がいきなり行動を開始したのだ。 姫君達の悲鳴に似た声が高まる。 おや、とドナ達が目を遣ると、ウェラー卿はドナ達のいる場所に向かって真っ直ぐやってこようとしていた。 そこにいる姫君といえば……。 あの、見た目は清楚だが、お付きの娘を引き摺って前に進む姿はすっかり猛獣という様子の姫しかいない。 その清楚型猛獣系の姫君もそれに気づいたのだろう。つい今しがたまでの、爪を立てて獲物を狙う獰猛な様子が幻だったかのように恥じらい深くその場に佇み、ウェラー卿がやってくるのを待っている。 「……ウェラー卿って趣味が良いのか悪いのか、良く分らないね」 エフレムがプッと吹きだしながら言った。ドナも思わず頷いてしまう。 ……そりゃ、あの姫君はなかなか美人だけど、見た目の淑やかさは絶対嘘だものなあ……。 何となく皆で観ている内に、ウェラー卿はどんどん姫君に近づいていく。姫君が勝利感を全身から漂わせながらも、淑やかにドレスを摘み、優雅にお辞儀を……。 「あれ?」 真っ直ぐ前を見つめたまま、ウェラー卿はすたすたと姫君の横を通り過ぎてしまった。舞踏のお相手、もしくは恋人の座を目指していたはずの姫君の姿など、どうも視界に掠ってもいないらしい。 姫君はもちろん、皆が呆気に取られて見つめる中、ウェラー卿は迷いもなく目的地に向かって進んでいく。 そして、ドナ達のすぐ目の前、粗末なドレスに身を包み、扇で顔を隠した頼りなげなあの少女の真ん前まで行くと、魔族の青年(100歳過ぎてるけど)はぴたりと足を止めた。 ウェラー卿が少女に何か囁いている。 扇越しに、少女も応えている。 その姿を、ドナ達はただじっと見守っている。 と。 話が纏まったのか、少女の身の置き所がなさそうな雰囲気がスッと治まった。 一呼吸置いて。 少女がずっと顔を隠していた扇を下ろした。 ……………。 ……………。 ……………うわあ。 糸目を思い切り瞠って(本人比)、ごつい顎をガクンと落として、ドナは呆然と素顔を現した少女を凝視していた。 うわあ。 うわあ。 うわあ。 もとより口数の少ない男だ。詩的情緒も持ち合わせていない。弁を弄するより、まず牧場を駆け回り、動物達の世話をし、農地を耕す男なのだ。目に飛び込んできた少女の容姿を的確に表現する術もない。 彼の幼馴染も、得意分野はそれぞれだが、情緒が不足しているところは大体似たり寄ったりで、全員が目の前の少女をただただ眩しそうに見つめているばかりだ。 ウェラー卿に手を取られ、少女が歩き始める。 思わず手を伸ばしそうになって、ドナはたたらを踏んだ。ロディオンが咄嗟にドナの腕を捕まえる。 「すごい、な、おい。……何というか……」 「……う、うん。何と、いうか……」 ロディオンの囁くような声に、ドナはウェラー卿と少女の後姿を見つめながら、ほとんど無意識に頷いた。 「ウェラー卿のお知り合い、なのよね?」 「もちろんそうでしょう? でもあんな……信じられない……!」 「なんだかもう……びっくりしたぁ」 あんなキレイな子がこの世にいるなんて。 エフレムの呟きに、ドナは何度も頷きながらため息をついた。 本当に……何て綺麗な人だろう……。 粗末なドレスが天使の衣に見えるほど、その少女は光り輝いて見えた。 美しいものなら、俺だってこれまでの人生たくさん見てきた。ドナは思う。 夜を徹して馬のお産に付き合った朝、馬小屋を出た瞬間に目にした、登る朝陽の輝き。 朝露に濡れる花々や果実の鮮やかな色。 自分を見上げる子羊のつぶらな瞳……。 綺麗なもの、と言われて頭に思い浮かぶ無数の情景。だが……。 その全てを押し退けて、今ドナの脳裏に焼きつき、その胸を支配したのは、数回瞬きするほんのわずかの時間目にした少女の、陽の光より、朝露より、澄んだ川の水面より、煌くように美しいそのかんばせだった。 呆然としている内に、いつの間にか舞踏会は終了してしまっていた。 ドナが自分の迂闊さに気づいた頃には、もう少女の姿はどこにも見えず、その名も何も分らない。 「ドナ! どうしたの!? 何をする気!?」 乳兄妹の叫びも何のその、ドナは本能(?)の命ずるままに突っ走った。 目的地は舞踏会の主催者、フランシアの国王夫妻の元だ。 面会の許しをほとんど勢いで押し切って、国王夫妻の客間に飛び込んだときには、ドナはぜーぜーと肩で息をし、顔は汗びっしょりだった。 「もっ、申し訳ありませんっ! このような無作法を…っ!」 叫んだのは、ドナのすぐ後から飛び込んできたロディオンだ。ドナは無言のまま、ひたすらぜーぜーと荒い息を繰り返している。ロディオンの後から幼馴染達が慌てふためいてやってくる。 「本当に無作法ですこと」 ライラ王妃が眉を顰めて言った。国王の姿は見えない。 「これから大切なお客様との約束があるのです。緊急だと仰せとか? どのようなご用件でしょう。ラーダンの王太子殿?」 そこでようやく息が整い始めたドナは、大きく息を吸い込んだ。 「……おっ、お伺い、致しますっ! 王妃様!!」 気合の入りすぎた無用にでかい声に、ライラ王妃の眉間がますます狭くなる。 「ほ、本日っ、のっ、天下一っ、舞踏会においてっ、う、ウェラー卿のっ、おおお、お相手となったっ、あの方っ、はっ、どっ、どちらのっ、姫君、でしょうかっ!!」 ウェラー卿の? ふっと小首を傾げてから、ライラ王妃の目がハッと瞠られた。 まるで自分の周りに答えが落ちているかのように視線を左右に巡らせてから、ライラ王妃は傍らのグラスを取り上げ、中の水をぐいと呷った。 「どうしてそのようなことを?」 ホッと息をつき、ライラ王妃が改めてドナに向け尋ねる。 「はっ、はい!」 ドナがぴんと背筋を伸ばし、律儀に大きな返事を返した。 「俺、いえっ、私はっ、あの姫をぜひ、私の后に迎えたいと思います!」 タイミング悪く、二口目の水を口に含んでいたライラ王妃が、盛大に咽せ始めた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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