Take Us Out to the Ball Game! 6−2



「………っ、それ…!」

 ヴォルフラムが投げた扇は、美しい絵付けがされた桐箱の上の「蝶」に触れることなく畳みに落ちた。

「ああっ、しまった…!」
「金色の若様、惜しい!」
「お尻を浮かしたら反則でござんすよ?」
「よし、もう一度……」
「ヴォルフ! 次、おれだぞ!」
「さっきから2人ばっかりじゃないか。僕にもやらせてよ!」

 おほほ……と、少年達を囲む綺麗どころが一斉に、弾ける様に笑い始めた。

 座敷では、ヴォルフラムと有利と村田が代表的なお座敷遊び「投扇興」にすっかり夢中になっている。
 桐箱の上に置かれた「蝶」と呼ばれる小さな置物を、扇子を投げて落すゲームだ。ただ落すだけでなく、落とした後の箱と「蝶」と扇の形で点数を競う。その形はいくつかに分類され、その一つ一つに「源氏物語」54帖の巻名がつけられているという実に雅なゲームだ。

「すっかり夢中だな。しかし、他愛ない遊びをよくここまで洗練させたものだ。長い歴史があるというから、この民族の文明度はかなり高い。そう思わないか?」
「ええ、確かに。本当ならもっと時間を掛けて、じっくり見て回りたいところですね。陛下を育てた文化を知るのは、実際の所かなり重要なものだと思いますし」
「この国に来る前なら、その意見にさほど感銘は受けなかっただろうが、こうして独特の文化を知ると……確かにお前の言うことには一理ある」

 ぐい飲みの中の日本酒を口に含み、じっくり味わうように転がしてから喉を通す。満足したのか、隣の弟に話しかけるグウェンダルの声は楽しそうだ。

「麦酒とワインはほとんど同じものがあるが、この国の酒の風味は何ともいえぬ味わいだな。悪くない。この国の料理に合う。料理の味もまた独特だが」
「本当に。でも俺は好きですね、この味」
「陛下を育てた味だと思えば、また格別と言うのだろう?」
「ええ、もちろん」

 くす、と笑って、兄弟は顔を見合わせた。そんな2人を、それぞれ接待する芸者衆がうっとり見つめている。

「この国で陛下がお育ちになって、本当に良かったと思っていますよ。それに女性達も異国的情緒に溢れていて……とてもお美しい」

 最後の言葉だけを日本語で、極上の笑顔つきで伝えれば、彼らの前に座ってお銚子を手にする芸者さん2人がぽおっと頬を赤らめた。
 瞳の奥に、この2人の担当をもぎ取った勝利感が漲っている。もっとも、3人ものすこぶるつきの美少年の遊び相手ができる芸者衆も、彼女達に負けないくらい楽しそうだ。

「フォンヴォルテール…卿」

 声を掛けられてグウェンダルとコンラートが顔を向ければ、渋谷勝馬が向かいの席ーコの字の上下の線の様に、有利を除く渋谷家一同と、ツェツィーリエを除く眞魔国一行が向かい合っているーから、まっすぐグウェンダルを見つめている。

「ちょっと……お話したいのですが、よろしいですか?」

 その表情を確かめて、グウェンダルはコンラートとそっと目を合わせた。このような場で見せるには、勝馬の様子は少々固い。
 わずかに眉を顰めて、それから「では」とグウェンダルが席を立った。そしてそのまま、勝馬の隣、本来美子の席に腰を下ろした。ちなみにツェツィーリエと美子は揃って席を外している。
 雰囲気から重要な会話がなされると判断したのか、グウェンダルを担当していた芸妓が彼の膳を手にして運んでいく。それを何とはなく見ていたコンラートは、ふと感じた人の気配に振り返った。

「よろしいですかな?」

 香坂教授だった。透と神楽坂の女将がにこやかに続いている。


「お楽しみ頂いておりますでしょうか?」

 膳を挟んだ反対側、担当の芸妓と並んで座り、お銚子を芸妓から受け取るとコンラートに向けながら女将が尋ねた。
 コンラートの隣には香坂教授が、傍らには透とクラリスが座っている。クラリスは眞魔国側の最も下座に静かに座っていたのだが、「今日は無礼講なんだから、クラリスさんもそんな端っこにいないで」と呼び寄せたのだ。そのため今座敷には、お座敷遊びに夢中な有利と村田とヴォルフラムのグループ、コンラートと教授と透とクラリスのグループ、話し込んでいるらしい勝利と繭里の2人、その同じ並びに同じ様に話し合っている勝馬とグウェンダル、そして席を外している美子とツェツィーリエ、という5つに別れていた。そしてそれぞれに芸妓衆がさりげなくついて酌をしたり遊びに付き合ったりしている。

「ええ、とても。我々のせか…いえ、国とは全く違う文化ですからね。とても楽しい体験です」
「そう仰って頂けますと、こちらを紹介した甲斐があったというものですわ」

 コンラートが手にした盃に酒を注ぎながら、女将が婉然と笑った。年はとっても、長年に渡って練り上げた色香は決して褪せていない。

「あちらがお兄様で」女将の顔がグウェンダルに向く。それからヴォルフラムへ。「あちらが弟様」

 感心しきりという様子で女将が言う。

「あのお美しい女性がお母様と仰せなのは本当のことで?」
「ええ。俺達3人を生んで育ててくれた母ですよ?」
「驚いたこと」視線を天井に向け、どこか呆れた様に首を振りながら女将が言った。「やっぱりこちらをご紹介したのは正解でした。もし私どもの店にご招待などしましたら、貸切にでもしない限り大変なことに……いえいえ」

 問い質したそうに自分を見ているコンラートに、軽く首を振って女将は続けた。

「私どもの店は狭くて、こちらの様に料理以外でもお楽しみ頂くことはできませんでしたしねえ。……坊っちゃん達も楽しそうでいらっしゃること」

 座敷の中央に微笑ましく目を遣れば、3人の少年達が芸者さん達に囲まれて、一生懸命扇を投げて歓声を上げている。

「店の者が騒いでおりまして。こんな華やかにお美しい御一行は初めてだ、一体どういう方々なんだって、仲居や芸者衆のうるさいこと。こちらの女将が叱り付けておりましたが、治まるものじゃあございません。ねえ?」

 女将が声を掛けると、透とクラリスにお酌をしていた芸妓が「はい、他のお客さんまで巻き込んで、もう大騒ぎ」と笑って頷く。

「でも…」女将がさらに酒を勧めながらコンラートの瞳を覗きこむ。「またこうしてお会いできて、嬉しゅうございますわ」

 無駄のない所作でスッと身を寄せ、お銚子をコンラートの盃に傾ける。

「いつまでこちらにご滞在でいらっしゃいますか? よろしければ、ぜひまた私どもの店にお立ち寄り下さいまし」
「おいおい、コンラートさんだけかい? 俺を誘っちゃくれねえのか?」

 横から教授が意地の悪い口調で口を挟むと、「おや、先生ともあろうお人が無粋な」と女将が応じる。

「おいでのことをすっかり忘れておりました。まあ、こうなりゃ仕方がございません、ええもちろん先生もご一緒に」
「おきやがれ。ったく、昔なじみでなきゃあ怒って席を立ってるところだぜ?」
「こちらの若旦那にならそれだけの価値がありますよ? お怒りなら構いません、ささ、ずいっと遠くへどうぞ」

「小憎たらしい女だなあ、おい」

 言い合いながら、2人の目は笑っている。
 おそらく本当に長年の付き合いなのだろう、気心の知れた同士の言い合いに、コンラートは笑みを浮かべながら盃を干した。

「女将の誘惑は別にしても」教授が笑顔をコンラートに向けた。「もし時間があったら、また飲みに付き合って頂けると嬉しいですな。この薄情な女将の店以外にも」女将を睨むと、ちろりと舌を突き出した。「ぜひご一緒したい店が他にもどっさりありますから」
「喜んで。楽しみにしてます、教授」
「あらま、お二人して憎たらしいこと!」

 今度は女将が教授に向かってベーッと舌を突き出した。教授、コンラート、透の口から思わず笑いが漏れる。…クラリス1人が無表情に、黙々と盃を空にしている。 あらこちらイケる口だこと、と、傍らで酌をする芸妓が声を上げた。
 穏やかな笑いが座を満たす。

「コンラッド!」

 ふいに呼ばれてみれば、有利がおいでおいでをしている。

「コンラッドもやろう! お酒ばっかり飲んでないで、こっちこいよ!」

 有利が一声呼べば即参上のウェラー卿。失礼、と教授達に声を掛けてコンラートは立ち上がった。慣れないはずの胡坐をかいていた足は、もちろん小揺るぎもしない。
 コンラートの参戦に、周りを取り囲んでいた芸妓衆がワッとはしゃいだ声を上げた。

「おやおや、取られちまいましたね」
「本気で残念そうだな、女将」
「あんないい男、そんじょそこらにゃいらっしゃいませんからねえ。これまた良い男のお兄上様は、何やら深刻なお顔でお話中だし……残念だこと」
「……ふん」教授の目がちらっと向かい側に並ぶ席、勝馬とグウェンダルに向く。「……まあ、なんだ、幾つになっても女は女ってことかい?」
「……そういう口をおききになると、その内手痛いしっぺ返しをくらいますよ? せんせ?」
「おお、こわ」

 そんな祖父達のやり取りを微笑みながら見ていた透は、ちらりと隣に座るクラリスに目を向けた。
 スーツ姿の女性士官はニコリともしないまま、一体誰に習ったのか正座で、しかし辛そうな様子も不機嫌な様子もなく、注がれるままに酒を呑み、膳の上の料理を少しずつ、その味を確かめるようにしながら口に運んでいる。

「……足、大丈夫…?」
「……? 別に怪我をした覚えはないが…?」

 不思議そうに透を見返すクラリスに、思わず苦笑が漏れる。

「そうじゃなくて、正座。その座り方は日本独特で、日本人でさえ足が痺れて大変なんだ。さっきからほとんど膝を崩していないし……」

 きょとんと透を見ていたクラリスが、ピシッと折り畳んだ自分の足に目を向ける。

「最初に店の者に教えてもらったのだが……そういえば、先ほどから足の感覚が妙な気が……」
「妙なって……それ、痺れてるんだよ!」

 ほら、ゆっくり足を崩して、と透が差し伸べた手は、パンッと跳ね除けられた。

「貴様ごときが私に手を貸そうなどと思うな。たかが………あ…っ!」

 足の感覚をなくす、という経験がないはずなのに、クラリスは足を崩すどころか立ち上がろうと無造作に身体を起こし、途端がくりと膝が折れ、よろめいてしまった。咄嗟に透が腕を伸ばす。
 さすがにその手を跳ね除けることもできず、クラリスの身体は透の胸の中に音を立てて納まった。が。
 勢いがあったせいか、単に透の体力不足か、ガクッと砕けたクラリスの身体を受け止めた透はそのまま一緒になって畳みの上に倒れこんでしまったのだ。

 どすん、という鈍い音に、座敷にいた全員が一斉に一方向に顔を向けた。
 彼らの視線の集中するその場所では、クラリスと透が、ほとんど折り重なるようにして倒れている。

「どっ、どうしたの!?」

 今にも扇を投げようとしていた有利が、びっくりした顔で振り返っている。

「申しわけございませんっ、私……っ!」

 主の前でみっともなく転がってしまったことがよほど恥ずかしかったのか、いつもは冷静沈着を崩さないクラリスの顔が真っ赤になっている。そして慌てて身を起こそうとしたのだが、もちろん感覚のない脚が言う事を聞くはずもなく。
 正座で足が痺れるという人生初体験の感覚に、立ち上がろうとしたクラリスの身体はまたも横に崩折れた。そのまま四つん這いになってしまったのだが、次に彼女を襲ったのは、あの、痺れた足にいきなり血が巡り出したことによる独特の感覚だ。
 痛いというか何というか、両足を襲う何ともしがたい不快感に、氷の美貌が激しく歪む。

「くっ、クラリスっ!?」

 食べなれない和食にアレルギーでも起こしたか、もしや食中毒か、それとも……と焦る地球組。
 だがそこで、クラリス達の側にいた芸妓がちょっと困ったような笑顔を有利達に向け、手を振った。

「大丈夫でございますよ。こちらのお嬢様は、あの、足が痺れなすったご様子で……」
「ずっと正座のままだったんです」透も慌てて付け足した。「初めてだったので、足が痺れてることに気づかなかった、らしくて」

 なんだあ。笑う有利と一緒に、ほーっと胸を撫で下ろす地球組一同。座敷の真ん中ではヴォルフラムが、「足が痺れるとはどういうことだ?」と村田に尋ねている。

「クラリス、正座なんかしなくていいから。楽にして、楽に。足も伸ばしてたらすぐ良くなるから」
「もっ、申し訳ありません! まさかこのような無様な姿を御前に晒そうとは……」
「く、クラリス!」透が急いでクラリスの腕を抑えた。「言葉遣い、気をつけないと」

 囁かれて、クラリスがハッと口を閉ざす。閉ざしてから、透に注意されたことが腹立たしいのか、キッと傍らの男を睨みつけた。

「笑うな」
「笑ってないよ」
「そもそもお前がちゃんと私を支えていれば、このような事態に陥ることはなかった!」
「……あー…はい」
「女1人の身体もろくに支えられんとは、貴様つくづく軟弱だな!」
「……お恥ずかしい」
「あちらへ戻ったら、今度こそ鍛練するぞ。もう決して逃がさんから覚えておけ!」
「………畏まりました……」

 ふいっと顔を逸らして、だがまだ足が動かないのだろう、不自然な横座りのままクラリスは盃に手を伸ばした。芸妓がすかさず酒を注ぐ。
 ぐいっと一息に酒を呑み干す妹─魂の─を苦笑を浮かべつつ見つめ、それから透は席を立った。

 お手洗いに行ってきます、と祖父に断りを入れ、座敷を出て行く透の後姿をクラリスはじっと見つめていた。
 ああは言ったが、ほとんど突き飛ばすように倒れこんだのだから、彼が自分を支えることなどできなかっただろう。倒れた時に触れたあの男の身体からは、鍛えた筋肉の感触など微塵もなかったのだから。
 しみじみ、軟弱だ。武人の匂いはかけらもない。自分とは全くそりの合わない文官そのものの……。

「足はもう楽になったかい?」

 優しい声にふと横を向くと、香坂教授がにこにことクラリスを見ていた。

「……はい。みっともないところをお見せしてしまいました」
「なに、日本人でもおんなじさ。それが初めての外人さんなら、むしろ当たり前だよ」

 良かったら、爺ぃの相手をしてくれるかな? 教授が盃を軽く掲げてみせる。

「私で……よろしければ」

 笑い掛けられて、自分でも不思議なほど素直に頷いた。


「彼は……」

 自分はもしかすると結構酔っているのかもしれない。クラリスは胸の中でそっと呟いた。
 
「彼?」

 教授が問い返す。

「あなたの……お孫さん、です」
「ほう……透が何か?」
「………良い、孫、ですか?」

 自分でも何をどう尋ねたいのか分らない。いやそもそもどうしてこんな質問をしているのか分らない。そんな戸惑いを珍しく露にして(それが珍しいことだと教授は知らないが)、クラリスが言った。
 ふむ。わずかに宙を睨むようにして、それから教授は頷いた。

「掛け値なしの自慢の孫だよ。俺ぁ、家族には恵まれたとつくづく感謝してるんだ」
「感謝? 何に?」
「…そりゃあ……神様仏様ご先祖様、それから……まあ巡り会わせというか、運命に、かな?」
「自慢とは、どういったところに?」
「質問ばっかりだな」思わず苦笑が浮かぶ。「少々堅物なのが玉に瑕だが、勉強熱心で真面目だ。平和主義者で暴力が大嫌いで悪いことはできねえ。心根が優しいし、誰に対しても親切で礼儀正しいし、爽やかな好青年だって大学の女の子達や近所の評判も高いらしいぜ?」

 その情報に胡散臭さはないのだろうか? 身近で似たような評価をされている人物を頭に描きつつ、クラリスは首を傾げた。

「………彼は……スズミヤ・トールという人生は……幸せでしょうか…?」

 妙な質問に、香坂教授は眉を顰めた。見れば、そんな質問をしたことを後悔しているかのように、クラリスもまた眉を顰めている。

「……幸せだと…思うがね。これまで色々あったが、長年あいつを苦しめていた悩みもすっきり解決したし、それどころか……」

 妄想だと、自分達から親切顔で一蹴されていた『隊長』と再会を果たし、夢の世界だった眞魔国に行き来することもできるようになった。そうして……。
 クラリスの顔を真っ直ぐ見て、教授は続けた。
「俺の目から見ても、今のあいつは、凉宮透は、幸せだと、夢も希望もどっさり持って充実した人生を生きてると思う」

 そうですか。クラリスが小さく頷く。

「それなら……良かったです」

 それだけで満足したような女の様子に、教授は深く息を吸い込んだ。

「クラリスさん、あんた………知ってるんだな?」

 何を、とは聞かず、クラリスは教授を見返した。

「透はそれを……」
「別に、彼に教える必要はありませんから」
「しかし……」
「私の知っている人物は」

 そこで初めて、クラリスの唇が優しい曲線を描いた。

「見上げるほど大きく、筋骨逞しい男で、筋金入りの喧嘩屋でした。口より拳にものを言わせる乱暴者と巷の大評判だったのです。礼儀などクソ喰らえだといつも口にして、気に入らなければ上官だろうと殴り飛ばし、営倉入りなどしょっちゅうでした。勉強はもちろん、頭で考えることが大の苦手で、『決断は隊長がしてくれりゃあいい。俺は隊長の剣でいられりゃ本望だ』が口癖でした。敵がいると聞けば、理屈も後先もなく、誰より先に剣を振り回して突進して行ったそうです」
「そりゃあすごい」

 ぐいっと盃を傾けて、教授は楽しそうに喉を鳴らした。

「もう……ずっと前に戦場で命を落としました。あなたの孫と、何の関係もない全くの別人です。2度と会うことのない人物のことで、彼と話し合う必要などありません。そのようなことは、今とこれからの私と彼にとって無意味です。でしょう?」

 ふむ。顎に手を遣り、しばし黙考してから、教授が頷いた。

「確かに、あなたの言う通りだ。………ああ、戻ってきた。それじゃあこの話はこれっきりということで構わないかね?」
「ええ。これきり忘れてください。……本当はこのような話をするつもりは全くなかったのですが……。どうやら私はこちらの酒には弱いようです」
「おお、美女を酔わせることができたとは光栄だ」

 びっくりしたように目を瞠り、それからクラリスはクスッと小さく、たまたま運良く(?)それを目にした者が思わず目を疑って呆然とするほど可愛らしく笑った。
 少なくとも透にとってそれは、はるか彼方の、だが決して忘れられない大切な記憶、あの村で自分の帰りをひたすら待っていた妹の、懐かしい笑顔に他ならなかった。


「私、本当は結構緊張していたのよね」

 そう言ったのは繭里だ。
 勝利と並んで、投扇興をしながら歓声を上げる有利達や、祖父と話し込むクラリスに時折目を向けながら言葉を交わしている。

「緊張?」
「そう。分かってると思うけど、私達、あなたよりずっと前から眞魔国のことや魔族のことを知っていたのよ?」
「信じてなかったくせに」
「…そりゃそうだけど」ちょっと口を尖らせて、それでも本当のことだから繭里は頷く。「でも知っていたわ。そしてずっと聞かされてきたのよ。コンラートさんのこと、それから……コンラートさんの家族のこと」
「……ああ」
「混血だって差別されて、家族からも疎ましがられてって、あなたも聞かされたでしょ?」
「ああ。だが家族のことは間違っていた」
「あれは透の、じゃないわね、カールさんの実体験だったけど、でも結局は一兵卒の目から見た一方的なものだったのよね」

 近頃は政治的に微妙な使われ方をする「一兵卒」という言葉を使って、繭里は透に目を向けた。

「辛いエピソードをさんざん聞かされてきて、正直コンラートさんの家族に対しては嫌な印象しかなかったわ。生まれの良さを鼻に掛けて、血の繋がった実の兄弟を貶めて、そして……悲惨な戦場に放り出してって」
「だけど会ってみたら違っていた」

 うん。繭里が頷いた。

「ヴォルフラムさんがグウェンダルさんを兄上って呼ぶのに、コンラートさんのことを呼び捨てにするのはどうもー…耳にするたび引っ掛かるけどね。でも親子仲はもちろん、兄弟仲も悪くは見えないわ」
「ウチの弟によると、フォンビーレフェルト卿はプライドが超絶高くて不器用で、だから2番目の兄貴が大好きなくせに意地を張ってるだけだってことらしいがな」
「うん、分る。だから私も何も言わないんだけど」
「分らなかったら突っ掛かっていったのか?」
「たぶんー……喧嘩売ってたかもね。……そりゃ信じてはなかったけど、でも私とコンラートさんの付き合いは……うーん、ちょっと表現が間違ってる気もするけど、とにかく長いわけだし」
「ちょっとどころか相当間違ってるぞ」

 その話は良いのよ。繭里が無理矢理話を変えた。肩を竦めて先を促す勝利。

「ほら、私、ツェリ様と一緒にいる時間が割りと長かったでしょう? で、少し話をしたのよね。って言っても、プライベートなことだからあまり深くは聞かなかったけど……印象なんだけどね」
「ああ」
「ツェリ様……罪悪感っていうのかな、あんなに朗らかになさってるけど、心の奥ですごく自分を責めてるような気がするのよ」
「コンラッドのことでか?」
「それもあると思うけど、自分自身のこととかね。ヴォルフラムさんが友達のために遊園地を作ろうとしてる話を聞いて、ツェリ様すごく喜んでいたわ。そこから話が少し弾んだんだけどね。会話の端々に、ポロッポロッと零れてくるのよね。息子達に比べて自分はずっと自分のことしか考えてこなかったとか、過ちを正す機会はいくらでもあったのに、私はそれを怠ったなんて……。だけど自分の後に素晴らしい王が立ってくれて良かった、ユーリ陛下なら民は幸せになれるとも言ってたわよ?」

 良かったじゃない。繭里に気軽に言われて、勝利はきゅっと眉を顰めた。

「可能性の問題だろ? こう言っちゃ何だが、有利が素晴らしい王になるかどうかなんて、あの人に分かるとは思えんしな。可愛けりゃ何でも良いんじゃないのか? そもそも『有利陛下』ってのがピンとこない」
「そういう言い方しなくたって良いじゃない。ツェリ様だって一国の頂点に立ってた女性よ? もっと敬意を払うべきじゃない?」

 軽く肩を竦めて躱す勝利を繭里が睨む。

「あいつらのこと、気に入ったのか?」
「あいつらなんて言い方よしなさいよ。誰より有利君の支えになってくれてる人達よ?」
「あいつの一番の支えは俺達家族だ」
「………ブラコン」

 なんだとぉ!? 勝利が眦を釣り上げて繭里を睨みつけた。今度は繭里がわざとらしく肩を竦めてそっぽを向く。

「とにかく。あなたに理解してもらえるかどうか分らないけど、お爺ちゃんや私にとってコンラートさんって特別な存在なのよ。象徴って言っても良いわ。もうずっと長い間ね。実在してるって分って良かった。透の長い間の苦しみが、全部報われて本当に良かった。そしてコンラートさんが、透が語ってくれた通りの人で、透をちゃんと受け止めてくれて本当に本当に良かった……! そのコンラートさんが、一緒にいて笑顔でいられる家族なら、私もお爺ちゃんもあの人たちを嫌いになんてなれないわ。ええ、気に入ってるわよ。何より最高の目の保養じゃないの」

 でしょ? にーっこり笑顔を向けられて、勝利は大きくため息をついた。そして、ふと表情を改めた。

「俺は……お前みたいに単純に考えられない」
「……ツッコミを入れたい箇所が2、3あるんだけど……」
「俺は」繭里の言葉を無視して、勝利が続ける。「有利が異世界の王だって話を、実感することがずっとできずにいた」
「それはある意味当然……」
「有利と離れ離れになるわけでもないし、俺達の生活は何も変わってない。それに、剣と魔法が幅を利かせる異世界と聞けば、頭に浮かぶのはゲームだ。存在してる実感なんかあるわけがない」
「まあ、ね…」
「だから、弟がどこかでゲームをやっていて、『魔王』なんてキャラになって遊んでるんだとしか思えなかった。コンラッドが来ても、あいつは……何ていうか、当たり前にこっちに順応してるから、異世界を感じさせる違和感みたいなものが皆無だ。パッと見同年代だしな。だからあいつが異世界の弟の側近だって聞かされても、やっぱりピンとこなかった。せいぜい……野球のチームメイト程度のイメージしか湧かなかった」
「うん……分る気はするけどね」
「でも……その家族がな……」

 『違うモノ』なんだ。根本的に。
 そう言う勝利に、繭里も真面目な表情で頷いた。

「だから今頃……実感してるんだ。情けない話だが。そして今ようやく実感できたことに慌ててる自分に気づいた。親父も……きっと同じだと思う」


「本来なら、こんな場所でするべき話じゃないんですが」

 自分達でやるからと芸妓を追い払い、グウェンダルの盃に酌をしながら勝馬が切り出した。

「私も仕事があるし、貴方方もそうそう時間が取れない。ということで……」
「私は構わん。何か言いたいことがあるのなら聞こう」

 偉そうだな、と思ったが、考えてみたら本当に偉い人なのは確かなので、不満の表明は小さく息をつくだけにしておいた。

「改めて申し上げますが、あなたにはウチの次男坊が本当にお世話になっています。私達にはどう助けてもやれない場所で、あなた方がいらっしゃったから息子は何とかやっていけると笑っていました。本当にありがとうございます」

 勝馬に頭を深々と下げられて、だがグウェンダルはどこか迷惑そうに眉を寄せた。

「最初お会いした時にも伝えたかと思うが……陛下は国の主であり、私が忠誠を誓った唯一無二の方であり、私はすべき職務を果たしているに過ぎない。これは魔王である陛下と、臣下臣民の問題であって、そもそも異世界の住人であるそちらが我々に感謝する謂れは……」
「有利は私の息子です。あなた方がどう考えようと、これは紛れもない事実だ。我が子が世話になっている人に礼を言うのは、親としてごくごく当たり前のことであって、文句を言われる筋合いはない」

 なるほど。グウェンダルは胸の中で呟いた。
 礼を述べるという形をとりながら、この男は私にある意味挑戦状を突きつけてきたわけか。
 例えお前達の世界を知らずとも、何ら力を及ぼすことができずとも、自分達はお前達の王の親、家族であることを忘れるな。関係ないなどとは言わせない。一歩も引く気はないから覚えておけ。そう言いたいわけだ。

 正直知ったことではないと思う。この先、ユーリが生活の基盤を完全に眞魔国に移せば、その瞬間から消える縁だ。とはいえ。
 ……もしもこの先、ユーリを通して何かと干渉しようとするならば……厄介だな。
 グウェンダルがちらりと視線を流した先に、楽しそうに遊んでいる賢者の笑顔があった。
 こうして見ると、何の変哲もない無邪気な子供だ。だがあの少年の姿をした男の中にある冷徹非情さには、グウェンダルですら寒気を覚えることがある。
 ユーリと、ユーリが治める眞魔国を護るためにのみ発動する非情さには、一片の野心も下心もない。そして容赦もない。それは先だっての新連邦との一件でもよく分った。大賢者が味方で良かったと、心底胸を撫で下ろしたのはグウェンダルとて同じだったのだ。

 猊下に相談してみるか。いざとなれば、こちらの魔王を通してそれ相応の処分を……。

「……か?」
「…え?」

 わずかに考え込んでいたためか、質問されたことを聞き逃してしまった。
 グウェンダルの様子に、勝馬はもう一度質問を繰り返した。

「あなたのご意見を伺いたいのですが。息子は……あちらでどんな風に暮らしてますか?」
「……? コンラートから聞いていると思ったが?」
「ええ、まあ…。でも彼はどうも有利贔屓というか、良いことしか口にしないようで…。毎日元気に走り回っていて、国民からも慕われていると……」
「その通りだ。弟は嘘を言ってはおらん」グウェンダルが重々しく頷く。「毎朝ろおどわあくとやらで、実際城の庭を走り回っておられる。王は体力がなくては務まらんからな。身体を鍛えるのは良いことだ。それに、民に慕われているのも事実だ。陛下の政に、最初は戸惑うこともあったが、今は全ての民が熱狂的に支持している」
「熱狂的に支持…? 何を、ですか?」
「だから」グウェンダルの眉が寄って、皺が深くなる。「陛下の政、全てだ。…そう言っているつもりだが?」
「まつりごとと言っても、あの子はまだ社会をろくに知らない高校生ですよ? ……それはつまり、宰相であるあなたが、ウチの息子の評判に配慮しながら、ちゃんと政治をやって下さっている、ということでしょう?」

 自画自賛か? 勝馬の目に何となく棘が混じる。

「確かに私は宰相に任じられて以来、陛下と眞魔国を護るために邁進してきた。だが決して陛下のご意志を蔑ろにした覚えはない」
「蔑ろにしているとまでは言いません。だが……」

 一国の政治を司るにあたって、異世界育ちの平凡な16歳の「ご意志」などどれほどの重みがあるだろうか。
 それから勝馬はあらためてグウェンダルに視線を据えた。

「あなたは、長年国家の中枢にあった人だと聞いています。政治的にも、それから…軍事的にも、あらゆる意味で」

 コクリとグウェンダルが頷く。

「そのあなたから見て、有利は、その、国王としてやっていけると思われますか?」

 有利の親として当然の質問だと思ったが、だが問われたグウェンダルは愕然とした顔で勝馬を見返した。そしてそのまま、まじまじと勝馬を見つめてくる。

「……あ、あの……」
「さっぱり分らん」
「それはつまり有利が……」
「陛下ではなく、あなただ。なぜそのような質問をする?」
「なぜって……当然でしょう? 息子が一国の王になると聞けば、ウチの子にそんな大それた仕事ができるんだろうかと不安になるのが親ってもんじゃないんですか? そりゃあなたの様に、もともとそういう家柄に生まれて育ったなら違うかもしれませんが、我が家は根っから庶民で……」
「それは知っている。当時、人間の国と一触即発の危険を抱えていたこともあり、陛下の登極に不安や不満の声が上がったことは事実だ。突如現れた異世界育ちの王。帝王学も知らず、考え方も感じ方も違うとなれば、それも致し方ないことだ。実際、私自身も陛下を陛下として迎えることに躊躇していた。だがそれらはとうの昔に全て解決した。陛下を支えるために我々は為すべきことを日々為し、我が国の政は第27代魔王ユーリ陛下の御元で恙無く進められている。……今頃なぜそのような的外れな質問をされるのか、全く理解できん」
「だからそれは貴方が国を安定させるために力を尽くしていると言うことで、息子がやっていることではないでしょう。何度も言いますが、あの子はまだ子供で、国家を背負うことなど……」
「私が陛下を傀儡にして、政を縦(ほしいまま)にしているとでも?」
「個人的な欲得づくとは思っていません。宰相なんだし。有利が王と言っても形ばかりのものであるのは仕方がない、当然のことだと考えています。むしろ貴方のような人が側にいて、しっかり政治をやって下さっていることに感謝してます。だから別に貴方を責めているんじゃないんですよ。有利は……親の目から見て、立派な王様になる可能性は充分あると思います。それでも全てがこれからなんだし……」
「どうも」グウェンダルが眉を顰めたまま、慎重に言葉を継いだ。「我々の間には大きな認識のズレがあるような気がするのだが……」
「認識の……ずれ?」

 ああ、とグウェンダルが頷く。

「あなたはことさら陛下を無力だと主張している。王として何の力もないと。なぜそのように考えるのだ?」
「なぜって……当然でしょう。有利はまだ子供です。さっきから何度も言っているじゃないですか。有利はまだ社会の仕組みもろくにしらない学生だ。高校生にいきなり会社の社長をやれと言ったってできるはずがない。まして一国を背負うなんて。すべてこれからです。あの子はこれから色んな経験を積んでいかなくちゃならない」
「………なるほど」

 何がズレていたのか。ようやく得心したとグウェンダルは頷いた。

「そういうことか……。分った」
「分った、とは…?」
「あなた方は重大な思い違いをしているようだ。知らぬのか、教えられてもよく理解していないのかは分らないが」
「だから、何です? 思い違い?」

 そうだ。グウェンダルが大きく頷いて言った。

「我々の世界とこちらの世界は、時間の進行がほとんど一致している」
「知っています。1日24時間、1年365日、時間概念がほとんど同じ。それが、二つの世界を結びつけ、扉を生み出した要因の1つだと」
「そうだ。だがそれもそれぞれの世界にいればこそだ。しかし、陛下や今回の我々の様に、こちらとあちらを行き来する場合、そこには大きな時間のズレが生じる」
「それは……」

 ふいに、勝馬の脳裏に次男坊がかつてポツリと口にしていた言葉が蘇った。実感がなかったから、深刻に思わないまま聞き流していた記憶がある。
 そう、有利は言っていた。あちらで1年過ごしていても、こちらに戻ると5分と経っていない、と。
 皆が思っている以上に、自分はあちらで長く暮らしているのだと……!

「フォンヴォルテール卿……聞いて良いですか?」
「構わん」
「有利が……あの子が王位についてから……そちらではどれだけの時間が経っているんですか……?」

 質問した己の王の父親の表情をしばらく見つめて、それからグウェンダルは答えた。

「すでに、10年近く経っている」

 勝馬の心臓が、大きく1つ、ドクンと鳴った。


「お待たせ〜っ!」

 襖がカラリと開いて、突き抜けるように明るい声が座敷に響いた。

 うわぁ〜っ! 座敷に一斉に歓声が湧きあがった。
 座敷に入ってきたのは、ツェツィーリエと美子の2人、それからこの料亭の女将だ。
 どう頼み込んだのか、ツェツィーリエと美子は見事なまでの芸者姿だった。ご丁寧に日本髪の鬘までつけている。

「どう? どう? 似合う? 着るまでものすごく手間が掛かるの。こんなドレス、初めて。でもとってもステキだわ! ねえ、グウェンダル、この衣装と生地、絶対買って帰るわよ! こちらのオカミサンが良いお店を紹介してくださるそうなの。明日早速行くわよ! きっと素晴らしいドレスができるわ!」
「お似合いです、母上!」
「とても優雅ですよ? 母上は何をお召しになっても見事に着こなされますね」
「でしょう? 良い子ね、ヴォルフもコンラートも」
「ウマちゃん、どう!? 色っぽいでしょー? 惚れ直した?」
「結構見れるぞ、お袋!」
「結構って何!? 最高って言いなさい! それから、ママでしょ、ゆーちゃん!」
「写真撮りましょうよ! ちょっと透、カメラ出して出して! ねっねっ、記念写真撮りましょうよー!」

 周囲の言葉も何も聞こえない様子で、無意識だろう呆然と髪をかき回す男を、グウェンダルは無表情に見つめていた。


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長くなってしまいました。最後まで読んで下さって、ありがとうございます。

日記にもちらっと書いたのですが、この物語には「有利の2つの家族が初めて出会い、新たな理解と共に次のステップへと移行する切っ掛けになる大事なお話」というテーマも潜んでおりまして(リクエストにはないのに、勝手なテーマをくっつけて、ゴメンなさい!)、そのために野球の試合に行き着くまでイロイロ起きております。
あちらとこちらで時間のズレがあることは、以前「青空」の中で有利が話していたと書いてるんですよね。なので、今回はそれをあらためて確認する形にしました。
10年というのは、正直どうしようかと思いました。
ただ、コンラッドが2度シマロンに行って、一国を滅ぼしたり再生させたりしていた時間を考えると、これくらいはするだろうと思いまして。……となるとグレタ(ほとんど出てきませんが)もすっかり良い年のお嬢さんになってる訳ですね。
10年近く王様やってる割には、いつまで経っても子供っぽいと思われるかもしれませんが……あちらの世界で暮らす魔族は成長が心身ともに遅いということで(汗)。
私的にもイロイロツッコミどころが満載ですが、ご感想、お待ちしております!