「よっしゃーっ!」 朝ごはんもしっかり食べた! お米のご飯と具沢山の味噌汁と大根おろしを添えた塩鮭と厚揚げの焼いたのと卵焼きと納豆と糠漬けの大根と茄子と胡瓜! これぞ日本の朝ごはんを早起きしたお腹にしっかり納めて準備万端! 洗濯もしてもらって真っ白パリッとしたユニフォームを身につければ、もう気持ちはすっかり試合に向いている。 ついにやってきたのだ、この日が。 チーム一丸、練習を重ねてきて迎えた草野球全国大会の県予選、「ダンディライオンズ」の試合の日だ。 ふんっと気合をこめて、有利は床に置いた荷物を持ち上げた。 「送って行かなくて良いのかい、ゆーちゃん?」 こちらはゆっくり新聞を読みながら、起きぬけのお茶を嗜んでいる勝馬が尋ねれば、有利はすかさず「いらねー」と答えた。 「河川敷に集合して軽く朝練したら、車持ってるメンバーが乗っけてってくれることになってんだ!」 有利がキャプテンを勤める草野球チーム「ダンディライオンズ」は、年齢経験を問わず、野球好きを集めてできている。入団テストなどもない。入団の条件は「野球が好き」だけなのだ。だから少年野球チームに入れなかった小学生や中学生から社会人、かなり年齢が進んでしまったおじさん達も、気兼ねなくメンバーになっている。という訳で、移動手段には事欠かない。 「試合時間、1時半からだったな。第2試合だっけ?」 父と同じく食卓について、コーヒーのカップを手にした勝利が聞いてきた。 「おう! おふくろ、早めに弁当頼むな! 試合会場たくさんあるんだから、間違えないでよ!?」 「ママでしょ、ゆーちゃん! 任せて、ママ、最っ高のお弁当作って持っていくから!」 「献立は……」 「分かってるわよ。エネルギーになる炭水化物をしっかりとね。ちゃんと考えてるから任せて」 「うん、よろしく! あ、でも一番大事なのは…」 「皆で楽しくお食事できること! でしょ?」 「そーゆーこと! さすがおふくろ、分ってくれてる!」 「ママでしょ、ゆーちゃん。もー、誰だと思ってるのよ。のびのび楽しめるのが草野球だものね〜。……そうそう、ゆーちゃん、コンラッドさん達はどうするって?」 「うん、やっぱり昼までに球場に来るって。……そういや、昼飯のことはうっかり聞き忘れたけど……コンビニでも寄ってくるのかな?」 「あのメンバーがコンビニ寄る姿ってのは、どうも想像できないんだけどな」 勝利が口を挟むと、有利も頷いた。 「うん、おれも……。どうするつもりかな? 携帯で聞いてみようか?」 「一応多めに作って持っていくわ。もし余っても、チームの皆さんと分け合えば良いんだし。でしょ?」 「うん、そーだな! おふくろ、よろしくお願いします!」 「任せて〜! あ、ほら、ゆーちゃん、そろそろ行かないと」 「ホントだ! じゃ、行ってきますっ!」 「頑張れよ、ゆーちゃん!」 「後でね」 「今から興奮して事故るんじゃねーぞ! 気をつけて行けよ!」 バタバタと玄関に向かう足音と一緒に、「分かってるよー!」と声が返ってくる。やがて「おー、良い天気! 行くぞー!」という元気な声が響いたかと思うと、バタンと玄関扉が閉まる音がした。 「さあ! お弁当作らなくっちゃ!」 よしっ、と力強く握り拳を作ると、美子はキッチンに向かっていく。 そのやる気溢れる背中を眺めて、勝馬は小さく微笑んだ。妻の元気は家庭の元気だ。 だがすぐに、勝馬の口から小さなため息が漏れる。「あの夜」以来、何かある毎に、胸から泡が立ち上るように息が溢れて漏れる。 「親父、またため息ついてるぞ」 勝馬の新聞を横から奪おうと手を伸ばし、勝利が言う。 「何考えてんのか知らないが、今日は有利の大事な試合なんだぞ。んな暗い顔するなよ。縁起でもない」 「……ああ、そうだな」 こういう時ばかり妙に縁起を担ぐ長男に苦笑しながら、勝馬は勝利の手に掴まれた読みかけの新聞を取り返した。 あの夜。 フォンヴォルテール卿から齎された一言が、気がつくと勝馬の頭の中で谺し続けている。 勝馬は、弁当作りに勤しむ妻の、弾むように動く後姿を見つめた。 その脳裏に、宴会の翌日、妻と交わした会話が蘇る。 『ゆーちゃんが王様になってもう10年くらい経ってる?』 『……ああ。フォンヴォルテール卿に教えられた……。話そうかどうしようか迷ったんだが……』 ショックを受けたなら済まない。 勝馬は向かい合って座る妻に頭を下げた。 『あらやだ、ウマちゃんたら』 『え?』 『だって前にゆーちゃんが言ってたじゃない。あっちで長く暮らしていても、こっちに戻ってきたら5分も経ってないって。ウマちゃんも一緒に聞いてたはずよ?』 『あ……ああ、そりゃそうだけど』 『この前だって言ってたわ。ほら、教育指定? だったかしら? 区域とか地域とか……あの話よ。荒地が何万人も人が住むくらい発展したって』 『…確かに…』 『そんなことが半年や1年で達成できるわけないじゃないの。私、きっと長く掛かったんだろうなって思ってたわ』 『そう、だったのか?』 『そうよ? 前から色々と想像してみてたの。あちらで何日も、何ヶ月も、もしかしたら……何年も過ごしてきたのに、帰ってきたらちっとも時間が経ってないって、ゆーちゃんはその度にどんな気持ちになるんだろうって』 『そ、そうなのか!?』 そうよぉ。ウマちゃんたら、今頃何言ってるのよぉ! 妻に呆れ果てた顔で言われて、さすがに勝馬の頬も熱くなる。 『本当はね』美子の表情がわずかに沈んだ。『ゆーちゃんはもちろんだけど、ウマちゃんともしょーちゃんとも、そのことについてじっくり話してみたいって思っていたの。でも……言い出せなかった』 『………』 『自分で自分にびっくりよ?』 そう言って、美子が照れくさそうに、だがどこか切なそうに笑った。 『私ったらこんなに臆病だったの!? って。ハマのジェニファーともあろう者が!』 『嫁さん……』 『ゆーちゃんの王様ライフって、正直想像もつかないでしょ? ちらちらっとこぼれ話を聞くだけでもびっくりなのに、全部聞いちゃったらゆーちゃんが……私達のゆーちゃんがいなくなっちゃうような気がしたの』 『いなくなる…?』 そう。上手く言えないんだけど。呟くように言って、美子が小さく微笑んだ。 『ちゃんと家にいるのに。ちゃんと私達と一緒に暮らしているのに。まだまだ私達が護ってあげなきゃならない可愛い子供なのに。この……』 胸元で両手の掌をお盆の様に丸めて上に向け、美子はそっと目蓋を閉じた。 『手の中に、まだちゃんといてくれると思っていたのに。でも……とっくにそうじゃなくなっているかもしれない。私達はとっくにゆーちゃんをなくしちゃってるのかもしれない。気づかなければこれまで通りの生活ができるのに、話を聞いたらそれに気づかなきゃならなくなる。それが……怖かった』 『………』 でもね! 美子が意外なほど晴れやかな笑みを浮かべて勝馬に目を向けた。 『そうじゃないって気がついたのよ、ウマちゃん! コンラッドさんが教えてくれたの』 『コンラッドが?』 「……とことん話をしてとことん理解して、そしてとことん有利の味方になれ、か……」 そうすれば、目の前にいる有利を見失うことはない。 「分かってるってんだ、そんなこと。わざわざお前に言われるこっちゃない…!」 妻の密やかな悩みを解決した男は、自分の可愛い息子─であり、あろうことか娘─を奪おうとしているヤツだ。 こともあろうに自分を「花嫁の父」にしようとしているけしからんヤツなのだ。 「何か言ったか? 親父?」 新聞を読んでいた勝利が顔を上げて言う。その勝利に、勝馬はぐっと顔を近づけた。 「俺達は何があろうとゆーちゃんの味方だ。だろ?」 「何を今さら」勝利が妙なモノを見るように眉を顰める。「あったり前だろうが、そんなこと」 「そういうことだ」 怪訝な表情の勝利を他所に、勝馬は腕を組んで胸を反らせ、フンっと力強く鼻を鳴らした。 何より勝馬こそが率先してしなくてはならないことがあったのに、それを怠ったこと。妻が気づいていたことに、自分が全く気づいていなかったこと。そして何より。今の自分達に一番大切なことから、あえて目を背けていたこと。 それに気づかせてくれた男には、いずれ、そう、いずれ礼をさせてもらおう。 でも、それは今じゃない。 いつか、ずっとずっとずーっと未来にくるかもしれないその日に、拳を一発入れた後に言わせて貰おう。 それまでは。 「……ありがとよ」 本人のいないところで、そっと呟くだけにさせて貰おう。 □□□□□ 朝練で軽く汗を流して、チームメイトの車に分乗して、やってきたのは予選会場となる球場の1つ。今日、有利達の晴舞台となる場所だ。 昼食にはまだ早いかな? どうかな? という時間に到着して、有利達は駐車場からわいわいと歩き始めた。向かうのは球場に隣接するちょっとした面積の芝の広場だ。ここでメンバー達の家族や応援団が合流するのを待ち、芝の上にシートを敷いて、皆で車座になって昼食を取る予定、だったのだが。 「……いつのまにこんなものが…?」 「経営改善の一策かな? 球場に集まった人に、さらに金を落としてもらうために…」 「都会の有名球場じゃあるまいし、こんな町外れの市営球場じゃ集客は望めないよ?」 社会人メンバーが話し合うのを聞くともなく、有利はぽかんとソレを見つめていた。 目的地の芝の広場は、球場を囲むかなり大きな敷地の一角にあり、試合を控える選手達がキャッチボールをしたり、応援に来た人々がのんびり腰を下ろして一休みしたりする場所だ。敷地の中には遊具を揃えた小さな遊び場もあるので、家族連れが多い。 だが今そこは、なぜか妙に垢抜けたオープンカフェに様変わりしている。 すっきりと背筋の伸びたギャルソン達が、銀のお盆を片手に捧げてきびきびと動き回っている姿が、古ぼけた市営球場とエラくミスマッチだ。 「渋谷」ぽかんと口を開けている有利に、村田が話しかけた。「ほら、ウェラー卿が手を振ってるよ?」 「…へ?」 見れば確かにいる。カフェの奥、キッチンを兼ねているらしい大きなワゴン車のすぐ近くのテーブルで、コンラートが立ち上がって手を振っていた。同じテーブルにはグウェンダルも透も、そして繭里もいる。 「コンラッド…どうしてこんなとこに……」 「待ち合わせしてたんじゃないのかい?」 「球場の隣の芝でお昼を食べるって言っといたけど……」 言って、有利はコンラートに向かって小走りに駆け寄って行った。コンラートも有利に向かって歩み寄ってくる。 「コンラッド!」 「ユーリ、お待ちしてました。これからお昼でしょう?」 「う、うん、そうなんだけど……。こんなところにいつの間にかお店ができちゃってるから、どこか他所に行かないと……」 「いえ、こちらでどうぞ。ほら」 と手で示されるままに顔を向ければ、そこはテーブルの上、何と『ダンディライオンズ御一行様』と流れるような毛筆で書かれた予約席カード(どこから持ってきたのか、麗々しい金縁だ)が鎮座している。 「皆さんの御家族の分も含めテーブルは確保してありますので、ご遠慮なくこちらでお昼を召し上がってください」 「いつの間にそんな数を把握して……って、あ、で、でもコンラッド、おれ達持込みになるし……」 「問題ありません。飲み物は用意させますので……」 「でもっ」 あのぉ。そこでふいに声が割り込んできた。透だ。隣には繭里もいる。 「隊長、説明抜きでなし崩しに事を進めようとするのは悪い癖ですよ? 今回はわざとでしょうけど」 言われたコンラートがうっと詰まった様子で、不器用に視線を逸らせた。 「どういうこと? 透さん?」 「あ、いえ、俺から説明します」 話し始めようとする透を遮るようにコンラートが宣言する。それから観念したように小さく息をつくとユーリを見下ろした。 「この店ですが……少々言いにくいのですが、実はその……」 「もしかして!」 ハタッと気づいた表情で、ユーリが声を上げた。 ビックリ眼のユーリと、ちょっと困った笑顔のコンラートが、視線を合わせてしばし見詰め合う。 「つまり、このお店はツェリ様印なわけだね」 なるほどなるほどと、腕組した村田が頷きながら言った。 「申し訳ありません。母上が、食事をするならお店が必要ね、と……」 ……やっぱりツェリ様達がコンビニで食料を調達するはずがなかった……つーか、だからどうしてそこでお店を1つ作っちゃおうって発想になるんだよ……。 思わず呟く有利の隣で、村田も「まったくね」と肩を竦めている。 「それにしても、ケータリングサービスにしちゃ大掛かりだね。公有の土地にこんなの作っちゃうのだって、手続きが大変だったはずだよ?」 「サービスはホテルの支配人が紹介してくれました。野外パーティーや、確か園遊会とかでも仕事を任されている事業所を知っているからと」 「……えんゆうかい……って、まさか……」 「それと、これは店の体裁を取っていますが営利を目的としていません。実際、ユーリとそのチームのメンバーの食事の便を図ろうというだけのものですので。もちろんテーブルが空いていれば他の誰が利用しても良いようにしてありますし、無料であることも告知してあります。……黙っていて申し訳ありません。このような、その、浪費は、有利も渋谷家の皆さんもあまり喜ばれないだろうと思ったものですから……」 「日本人の一般常識からでっかく外れちゃってるしなー。でもツェリ様のは純粋に好意だし」 「そうなんです。悪気が皆無だから、逆に俺達の苦労も増えるわけなんですが……。とにかく、母上が仰せになるには、陛下に対し地面に直に座りこんで食事をさせるなどとんでもないとのことで、このようなことになってしまいました」 「とんでもないって……ツェリ様、ピクニックもやったことがないのか!?」 驚く有利に、コンラートが「いいえ」と首を振る。 「もちろんあります。取巻きを引き連れての豪華なものを何度も。ただ、母上のピクニックというのは、料理人はもちろん、侍女や侍従も多く付き従って、母上がここで食事をするとお決めになると、即座に御座所を設置するというもので……」 「シートを敷いてそこでお弁当を、ってんじゃないんだ……」 「まあ……女王陛下だしね」 「でもそれって、人生の楽しみを色々逃しているって気がするんだけど……」 「その分、俺達がどんなに頑張ったって体験できない楽しみをモノにしてるわけだろう?」 最後の会話は美子と勝利だ。 今、ヨーロッパの洒落た街並みを彷彿とさせる(隣にそそり立っているのは市営球場のコンクリートの壁だが)カフェに設えられたテーブルのほとんどを、ダンディライオンズのチームメイトとその応援団が占めていた。 軽食はもちろん、ドリンクもデザートも頼み放題と聞いて、一般的な社会常識を備えた大人は驚いて遠慮したものの、大喜びの子供達と、突然の美青年(それも方向性が良い具合に違う美形が2人もだ!)の登場に大歓喜する女性達の勢いに負け、結局全員がカフェの席につき、それぞれが食事の真っ最中だ。 有利達もやってきた家族と一緒に、ほとんど諦めの境地で席に着いていた。ちなみにテーブルはいくつか寄せて、コンラートもグウェンダルも、透も繭里も同席している。テーブルの上には美子のお弁当がどっさり並べられ、透たちもお相伴に預かっているところだ。 「ところでその肝心のツェリ様は? それにヴォルフとクラリスの姿も見えないけど」 おむすびをパクつきながら尋ねる有利に、コンラートとグウェンダルがちょっと困ったように顔を合わせた。ところがそこで答えたのは、他の誰でもない美子だった。 「お着替えよ」 「お、お着替え…!?」 でしょ? 美子に笑い掛けられて、グウェンダルとコンラートがどこかそっくりな苦笑を浮かべた。 実はツェツィーリエ達一行は、料亭での宴会の翌日から、二人の女将の案内でさっそく和服と和風小物を購入に繰り出していたのだ。 「案内して頂いたのは、さすがに良いものを揃えたお店でした」 コンラートが穏やかな笑みを浮かべながら説明を始めた。 あちらの世界は地球世界の中世ヨーロッパと酷似している、というのは有利もよく知っている話だ。政治経済文化、国によって多少の差はあるものの、詰まるところどこもほぼ「ヨーロッパ」なのだだ。すなわち。 「『和風』文化との出会いは、我々も良い意味で刺激的だったのですが、特にファッションにはうるさい母上にとって、和服文化は文字通り衝撃だったようです。着物の形にしろ柄にしろ、それに着物と一緒に身につける帯や様々な紐や、それに簪なども大変美しく、素材もデザインもあちらにないものばかりですしね」 「確かに、すっかり心を奪われたご様子だったな」 コンラートの隣でグウェンダルも頷きながら言う。 「すごかったわね〜。大人買いなんて生易しいものじゃなかったわ」 「…って、何でおふくろが?」 「あら」今頃何を言ってるのという顔で美子が答える。「繭里さんと一緒に、お買い物にお付き合いしたもの」 「そ、そうだったのか…!?」 おれ、知らなかったぞ! 自分ばっかりと文句を言えば、「ゆーちゃん、学校でしょ?」と言い返される。 『素晴らしいわ! この髪飾りを見て! この私が初めて見る品がこの世にこんなにたくさんあるなんて、本当に信じられないわ!』 異世界なんだから、ここは厳密に言って母上にとっての「この世」じゃないんじゃないでしょうか? と言いたい気分の息子達だったが、そんな理屈は母に通用しない。まして世界のファッションリーダー(?)を自認する(??)ツェツィーリエ、自分の知らない、自分達の美的感覚とは一線を画した、だが目を瞠るほど美しく斬新なデザインのドレスやアクセサリーが存在することに驚愕したらしい。 ツェツィーリエはそれこそ狂喜乱舞の勢いで、着物や帯はもちろん、簪から草履に到るまで、見るもの手にしたもの、片っ端から買い上げていった。 「私達がお茶を頂いている間も、ツェリ様ったらすごかったわよ〜。もー、超有名ブランドのバーゲンセールやデパートの初売りで戦う主婦よりすごい迫力だったわ。セレブもお買い物には全力でぶつかるのね。良い勉強になったわ〜。でね、最後には呉服店のご主人が電卓手にして顔を引き攣らせてね、お買い上げ金額がすでにこのようなことになっておりますがよろしいのでしょうかって」 そこで美子と繭里は顔を見合わせ、共通の思い出を再確認するように頷き合い、どこかしみじみと首を振りながら深いため息をついた。 「「一度で良いから、あんなお買い物をしてみたいものだわぁ〜〜」」 勝馬と透がドキリとしたように胸を押さえる。 「で? お着替えって?」 ツェリ様の超大人買いと、今ここに3人がまだ姿を現さないのがどう繋がるのか分らない有利が、首を捻りながら母に尋ねた。 「だからー。ツェリ様達は昨日から、和服の着付け方と着こなし方、髪の結い方から小物の活用法について、特別講習を受けていらっしゃるのよ! 女将さんと呉服店のご主人が、こうなったらとことんお付き合い致しますっ! って請け負って下さって」 「と、特別講習〜っ!?」 「だって、お着物って持ってるだけじゃどうにもならないじゃない。あれをちゃんと着られるようになるにはそれ相応の練習が必要だし。でしょ?」 「そりゃ…そう、だけど。……あ、でもヴォルフは? クラリスは分るけど、何でヴォルフも?」 「もちろん、自分で着付けができるようになるためでしょ?」 はあ!? ユーリが思いっきり不審な声を上げた。 一体どうしてヴォルフラムが……。 そう続けようとした有利の動きは、だが唐突に割り込んできた声に遮られた。 「渋谷君! コンラート様! グウェンダル様!」 え? と顔を向ければ、そこに並んでいるのは見慣れたクラスメート達の顔だ。 「委員長!? 皆も……どうして……」 「イヤだわ、渋谷君ったら! クラスメートが出場している試合ですもの、応援にくるのが当然じゃないの!」 胸を張って言い切る委員長に、「そうよそうよ!」とクラスメート、主に女子、が一斉に同意する。 んなコト言ったって、これまでただの1度だって応援に来たことなんかないくせに。 だが、そう言い返そうとしたユーリより先に委員長が動いた。満面の笑みに頬が輝いている。 「私達、学校の皆に呼びかけてきました! 渋谷君のチームの応援、私達もご一緒させて下さい!」 よろしくお願いしまーす! クラスメート、ほとんど女子、が一斉に声を揃えて、ぺこんっとお辞儀をする。 「まー、皆さん、ありがとう! ゆーちゃん、良かったわね! 学校のお友達がいっぱい来てくれて!」 でもこいつらの目的は絶対おれの試合じゃないぞー。有利は心の中で断言した。いくら鈍くたって、女子の目が誰を向いているかぐらい分る。 と、やはり。 「あのー」委員長がテーブルにつく人々の顔を確かめながら言った。「ヴォルフラム様は……?」 その時だった。 「お・ま・た・せ〜っ!」 艶やかによく伸びる声がカフェに響いた。 人々の目が一斉に一方向に向き。 うおおっ!? とどよめきが上がった。 「ツェ、ツェリ様!」 やってきたのはもちろんツェツィーリエ。それも、色香が滴らんばかりの絢爛たる和服姿だ。 すげー! ユーリは思わず賛嘆のため息をついた。 テレビや映画で、外国人が着物を着る姿は時折目にする。だがそれは何故か、似合っているとは言い難いのがほとんどだ。和服、着物とは、そもそも小柄で寸胴、顔の造りも平坦で、何より黒髪黒瞳である日本人に似合う形として進歩してきたデザインなのだ。色素も薄く、体格も大柄でくっきりしたラインを持ち、そして彫りの深い顔立ちの外国人が着ると、どこかちぐはぐな印象を見る人に与えてしまう。 だが、そこは正真正銘の女王陛下……であることは何の関係もないが、それでもツェツィーリエは着物を着こなしていた。 有利の全く与り知らぬところだが、それは最高級の丹後縮緬の布地に京友禅染めで柄を、もちろん手描きして、さらにその上にこれでもかというほど繊細な刺繍を、これまた当然手縫いで施したという逸品である。 魔王に相応しく(?)漆黒の地に絢爛豪華な御所車、そして緩やかな京の都の水の流れを象った染めの淵には四季の花々が群生し、それが満開に咲き誇るといういわゆる古典柄、それが全て色鮮やかな染めと艶やかな極彩色の手刺繍で描かれているのだ。 さらに結い上げた髪には、螺鈿で花々の文様を埋め込んだ黒と朱の漆の簪、銀と七宝の髪飾りが絶妙のバランスでツェツィーリエの黄金色を際立たせている。……長年「和」の美を追求してきた料亭女将と呉服店店主の、いわばプライドを懸けた作品である。 のだが。 「何か……威厳っつーか迫力っつーか…ありすぎて……どうしてかなー、三代目姐って単語が頭に浮かんで消えないんですけど」 「渋谷、極道の主婦達は振袖は着ないと思うよ?」 「弟のお友達、それを言うなら極道の妻達と書いて極道のおんな達だ。しかし……野球の応援に振袖で来るか、普通?」 「勝利、ツェリ様に普通を求めるな」 「そうよ、しょーちゃん。負けを悟って土下座する普通を足で踏み潰してこその女王陛下じゃないの」 「……説得力があるようでワケが分らんぞ、おふくろ……」 ツェリ様、この上なくお似合いですわっ! クラスメートの女子達が、一斉にツェツィーリエを囲んで声を上げた。 「まあ、ありがとう。あなた達は本当に美に関して敏感なのね」 「もちろんですわ! ……ところであの、ツェリ様、ヴォルフラム様は……」 「母上、お一人で行ってしまわないで下さいっ!」 ここで少女達の期待に応えて登場したのは、お約束どおりのヴォルフラムだ。 「…! ヴォルフラ! ム……さ、ま…?」 「ったく! 民族衣装がこんなに動きにくくて良いのか!? まともに歩くこともできんぞ!」 ぷりぷり怒りながら、ヴォルフラムが有利達の集まるテーブルにやってきた。半歩後からはクラリスが澄ました顔でついてくる。 「ユーリ! どうだ、似合うか! 剣の達人であればあるほど着こなしが美しいと言っただろう。女将達も素晴らしく似合うと褒めてくれたぞ!」 「本当にヴォルフは私にそっくり! とっても似合うわあ。何度見てもうっとりよ!」 「ヴォルフラムさん、ステキよ! ああ〜ん、ゆーちゃんにも着て欲しい〜!」 光沢のある白綸子。リズミカルに跳ねる色艶やかな組み紐と手鞠の柄をメインに、風に舞う愛らしい小花をさりげなく配した格段に清楚で愛らしい大振袖を纏い、ヴォルフラムは思いっきり自慢げに胸を反らした。 「………………」 「………………」 「………………」 「……確かさ、それって着流しの侍の話だったよね?」 「うん……」 「2日の内にフォンビーレフェルト卿の頭の中で話がごっちゃになってたみたいだね」 「と申しますか」 「何? ウェラー卿?」 村田と反対隣に座るコンラートが、どこか申しわけなさそうに言葉を挟んできた。 「母上が、何としてもヴォルフに振袖を着せようと、あの時ユーリがされた話を無理矢理変えてしまわれたのです。ヴォルフがまた軽々と乗せられてしまいまして」 「あー……目に見えるようだなー」 「それと」 「なに? まだ何かあるの? コンラッド」 「………ヴォルフとお揃いで、そのー……ユーリの分も……」 「え……ええっ!?」 「えー! コンラートさん、それホント!? ツェリ様、ゆーちゃんの分の振袖も買って下さってたの!? 私、聞いてないわ!」 「だってぇ」 惚れ惚れと息子の振袖姿を見つめていたツェツィーリエが、ふいに顔を巡らせると美子ににっこりと笑いかけた。 「あの場でそんなことを口にしたら、きっと遠慮されてしまうと思ったのですもの。本当にこちらの方々って遠慮深くていらっしゃって。でも私、こんなに美しいドレスをへいか、いえ、ユーリちゃんが持っていないなんてあり得ないって思って」 「いや、充分あり得るんですけど。っていうか、持ってなくて当然なんですけど」 「ですから黙って買っちゃったの!」 「買っちゃったの……って……」 「いや、そんなことをして頂いては、我々としてはその……」 「親父、1度の昼飯のために店一軒作っちまう相手に遠慮しても通じないと思うぞ」 「しょーちゃん、しかし……」 「もう俺はムカつくのを通り越して諦めの境地だ。……だが……振袖姿のゆーちゃんは捨て難いっ!」 「勝利! お前はそれだけだろ!」 渋谷家がわいわいと騒いでいる間に、彼らのテーブルはチームメイトはもちろん、やってきた多くの観客達に取り囲まれていた。 突如降って湧いたかのように現れた美男美女の登場に、歓声が溢れ、デジタル音やシャッター音がそこかしこから響いてくる。 そんな中で。 「しっかしまあ、さすがはマイペース一直線の女王陛下だよねえ」 村田はコーラをずるずる啜りながら、視線を人々に向けた。 周囲の賛嘆の眼差しと賞賛の言葉を心地良さそうに受けてはポーズを決めているツェツィーリエと、この「着物」が似合うのは剣豪ならではだと自信満々に腕を組み、仁王立ちする愛らしい振袖姿のヴォルフラム。それから……。 彼らの傍らには、今や眞魔国御一行の親衛隊を自認しているらしい女子一同が、ムンクになって凍りついている。 「揃いも揃って夢と憧れを潰されたような顔しちゃって……。振袖姿の王子様も悪くないと思うけどね」 可哀想な委員長殿。 ちっとも可哀想に思っていない笑顔で、村田は目の前の空揚げに手を伸ばした。 □□□□□ 「……すげー……」 「………なあ、あれってやっぱり俺達の応援なのか?」 「じゃ、ねーのかな、やっぱ」 「高校野球の決勝戦みたいだなー」 試合を前に、有利達ダンディライオンズのメンバーはグラウンドで最後の調整に入ろうとして……観客席に目を奪われていた。 県大会とはいえ草野球。観客席を応援団が埋め尽くす、ということにはなかなかならない。 ところが今、ダンディライオンズの応援席は、文字通り立錐の余地もないほど人が埋まっている。もちろん選手達の家族もいるが、ほとんどが高校生だ。 「たださあ」 「うん」 「ほとんどこっち向いてるのがいないなー」 「だなー」 応援席を占める観客達の視線は、ほぼある一点に集中しているのだ。もちろん眞魔国一同、和服を纏った黄金の美女と、彼女に侍るように位置する3人の、それぞれ方向性の違う美青年達(約1名、美少女と勘違いされているが)、そして慎ましく控えているクールビューティーなスーツ姿の美女がその標的である。 「試合でこっちに向かせてやろうぜ!」 え? 力強い声に、全員が振り返る。 キャプテンである有利が、キャッチャーのプロテクターを身体にセットしながら笑っている。 「まだ試合は始まってないんだから、皆が集中しないのも当たり前だって。でも試合が始まったら違うぞ。おれ達のプレイで、皆の目を釘付けにしてやるんだ!」 これだけの人数の応援だもんな。きっとすごい迫力だぞ! 嬉しそうに言う有利に、チームメイト達の顔も綻んでいく。 「だな! キャプテン!」 「よっしゃ! 行こうぜ!」 「……勝ったら、あの美女のチューがもらえるとかだったら嬉しいかも」 「キャプテン、あの人たち知り合いなんだろ? お近づきになりたいなー。ちょっとお願いしてくれないかなー」 「どういう関係なんだ? あんな揃いも揃って超美形なんて。……芸能人?」 「……あー……ちょっとした家族ぐるみの付き合いっていうかー……と、とにかく練習しようぜ!」 「そうそう! 勝たないことにはチューどころじゃないって」 「よーし、行きますか!」 メンバーは一斉にグラウンドに散っていった。 「ユーリのちーむは強いのか?」 声を掛け合ってキャッチボールを繰り返すユーリ達を見つめながら、グウェンダルが隣のコンラートに声を掛けた。 「うーん……実は全然強くないんだ、ってユーリは言ってたけど……」 「強くはないですよ」 答えたのは勝馬だった。 つい今しがた、クラリスと替わってもらってグウェンダルの隣の席についたのだ。 「草野球とはいえ、全国を目指すチームは勝つために選手を組んできますからね。でも有利のチームは勝つためのチームじゃない。野球が好きだってことが入団の条件で、テストもない。年齢だってバラバラだ。だから試合に勝つのはなかなか難しい。ま、有利は平気な顔で笑ってますけどね」 「勝つためじゃなく、楽しむことが第一だから、か」 「その通りです。勝てればもちろん嬉しいでしょうが、負けたとしても、充実した良い試合ができればあの子は満足した顔で帰ってきます。あ、もちろん勝つことを最初から諦めているわけじゃないですよ?」 言われて、グウェンダルは「もちろんそうだろう」と頷いた。 「ユーリは最初から勝負を諦めるようなことはしない。今ある力で最大限できることをしようと努力するはずだ」 「ええ………その通りです」 グラウンドを見つめたままのグウェンダルの横顔を見つめながら、勝馬はゆっくりと頷いた。 ……赤の他人が息子を理解していることが嬉しく、同時に少々悔しくもある。 やめよう。勝馬は静かに深呼吸した。 いい加減、同じ場所をぐるぐる回ってばかりではいけない。前に進まなくては。妻にこれ以上呆れられるのもうんざりだ。 「フォンヴォルテール卿」 勝馬の呼びかけに、グウェンダルがすっと視線を向けてくる。 「妻と話をしました」 静かに話し始める勝馬。グウェンダルの表情は動かない。 「妻は私よりもよっぽどしっかりしていましてね。自分が情けなくなりましたよ。とにかく、これからは有利としっかり話をしていくつもりです。どうも……見ない振りをしてきたツケは思っていたより大きかったようです」 「……私に妻はいないが……女性というものは、いざという時、男など足元にも及ばぬほど大胆に、そして強くなれるようだ。私の母もそうだが、幼馴染も……いや、アレはいつもか……いやその……」 そうしてもらえれば、陛下もお喜びになるだろう。 グウェンダルは重々しくそう言った。 「家庭が揺るがず自分を支え護ってくれる。その確信が心の安らぎも落ち着きも、そして活力も生むだろう」 「そう仰って頂けると……」これまで反発していた自分が、ますます愚かに思えてしまうじゃないか。「……有利がすでに王としての仕事をちゃんと始めているというのなら、我々もそのつもりであの子の力になっていきたい。幼い息子ではなく、1人前の男として……というのは、なかなか難しい気もしますが、それでもこれまでのような何もできない子供という目で見るのはやめようと思います」 勝馬の述懐を受けて、グウェンダルは「ふむ」と小さく唸った。それから、何か思い定めたように改めて勝馬を見ると、ゆっくりと口を開いた。 「正直に言えば」 「…はい?」 「私は、あなたに、あなた方に、陛下を手放すように告げるつもりだった」 「え……ええっ!?」 手放すって…!? 思わず身を乗り出す勝馬を、グウェンダルが手を上げて制する。 「ユーリは我等の王。我が国の唯一無二の主だ。それが突然国からいなくなったり、いなくなれば今度はいつやってくるのかも分からぬというのでは、政は成り立たん。以前の様に、まだまだ未熟というならまだしも、今はそれなりに立派に王の勤めを果たしている。だから私達は陛下に、生活を眞魔国に完全に移して頂きたいと願ってきた。それが当然だろうと考えてきた。……それは、臣下として、臣民として、決して無茶な願いではないと思うが?」 「それは……」 彼らの立場からすれば、そう願うことも考えることも確かに無理もないのかもしれない。しかし……。 あの子はまだ子供、と言いかけて、自分がたった今、「何もできない子供という目で見るのはやめる」と宣言してしまったことを思い出した。しまったと思ったが、言葉は飛び出してしまった後だ。 勝馬は、それでも何か言い返さなくてはと唇を噛み締めた。 「だが、それを今回、あなた方に願うのは止めようと思う」 「………え…?」 突然の方針撤回に、今度はぽかんと口が開いてしまう。 「この世界に、この国にきて良かった。私は今しみじみとそう思う」 グウェンダルが青空を見上げてそう言った。口調はひどくさばさばとしている。 勝馬は、どう答えて良いか分らないまま、その横顔を見つめていた。その向こう隣では、コンラートがやはり同じ様な表情で兄を見ている。 「なるほど、世界とは広いものだ。文化も芸術も国のありようも多種多様、それぞれ独自のものを持っている。それは決して、異世界だからということではあるまい。あちらでもこちらでも同じ、人の世なのだからな」 「……ええ、そうですね」 「私はここへ来る前、分っていたはずであったのに、この世界を我等の世界の延長の様に考えていたと思う。我等の文明を中心に、そこから派生した亜種のようなものだとな」 「まあ……歴史を思えば、それもあながち間違いじゃない気もしますが……」 「だが違う。特にこの国と我が国とでは、何もかもが違う。それはもちろん、優劣でもなければ善悪でもない」 答える必要のない問いだったので、勝馬はただ黙って頷いた。 「今朝、宿の窓から朝焼けの空と海を見つめながら考えた。あなた方のこと、この世界がユーリの故郷である意味。私達を知らず、私達の知らぬこの世界が……我等の王を生み、育てた、その意義を」 「……フォンヴォルテール卿……」 「あなた方はもちろんそうだが、あの学舎の学友達にしても、今日初めて会ったちーむめいととやらも、皆、ユーリの今を形造っている存在だ」 「はい」 「魔王でも何でもなく、当たり前の家族として、当たり前の友人の1人として、ユーリはここに生きている」 「そうです」 「彼らも含め、あなた方は皆……」 ふと言葉を捜すように唇を閉じてから、グウェンダルは改めて勝馬に目を向けた。 「今のユーリにとって、未熟だからでも、子供だからでもなく、今のユーリがさらに成長するために、必要不可欠な存在なのだな。……結論は出なかったが」 少なくとも、それだけは分った。 その言葉を受け止めてようやく、勝馬はほうっと息を吐き出した。 「……ありがとう、ございます、フォンヴォルテール卿。 そう仰って頂けると……嬉しいです」 安堵の思いのまま礼を述べれば、グウェンダルはどこか照れくさげにそっぽを向き、向こう隣のコンラートはさも嬉しそうに笑顔を見せる。 「だが!」 これだけは言っておく。まるで何かの埋め合わせの様に厳しい言葉で、グウェンダルが言葉を継いだ。 「ユーリは王だ。これからも王としてあらねばならん。だからいずれは、その魂の故郷であり、本来属する世界である我らのもとに帰ってもらわなくてはならない。何度も言うが、これは我等の切なる願いであり、決して無体なものではないと確信している」 「それは……」 「覚悟だけはしておいて欲しい」 きっぱりと言い、グウェンダルは視線を真っ直ぐ前、グラウンドに戻した。 言うべきことを言って静かな表情に戻ったグウェンダルの横顔を、勝馬は無言のまま見つめていた。 子供は成長して、いずれは親元を離れ、独り立ちする。 だが、グウェンダルが望むのは、決して日本的な子供の親離れではない。もしかすると、永遠の別れになりかねない話だ。 そんなことは…! と言いかけて、だが勝馬はぐっと言葉を飲み込んだ。 「……全ては、有利が決めることです……」 視線を向けないまま、グウェンダルが小さく頷いたのを勝馬は確かめた。 「ほら、ユーリが」コンラートが声を上げた。「手を振ってますよ」 勝馬が慌てて頭を巡らせれば、確かに息子がこちらに向かって両腕を大きく振っている。 楽しそうだ。満面の笑顔だ。 美子や勝利、眞魔国一行、関係者一同が一斉に手を振り返す。 いきなりヴォルフラムが立ち上がり、袂を振って大きく叫んだ。 「ユーリー! この僕がわざわざ応援しているのだからな! 負けたりなどしたら許さんぞ!」 おおー! ツンデレ美少女っ! 金髪に和服が萌える! 負けたらお仕置きしてほしい……! ヴォルフラムにとっては全く意味不明の歓声とシャッター音が一気に高まった。ちなみに男の声は歓声だが、なぜか女子の声は悲鳴に聞こえる。 「うん、良い笑顔だ、ゆーちゃん」 思わず頬を綻ばせ、勝馬が言った。 「本当に……良い笑顔だ」グウェンダルが繰り返す。「あの笑顔を、私も、弟達も皆、護りたいと心から思っている」 眞魔国の民が、こよなく愛する笑顔だ。 勝馬は無言のまま、グラウンドに立つ有利を見つめていた。 有利は観客席に陣取る家族と眞魔国の人々をすぐに見つけることができた。というか、観客のほとんどの視線がそこに集中しているのだから、探す手間などほとんどなかった。 不思議な感じだ。 笑いを抑えた口元が、ヘンな風に緩むのが分る。 草野球の県大会で、いつものあの観客席に、自分の家族と、そしてあの世界の家族がいる。 並んで、手を振って、一緒になって応援してくれている。……恋人(本当はもう自分達はご夫婦だが)も、いる。 彼らがいまここに、同じ場所に集まって自分を見ている。それが何とも不思議な感じがして、そしてとても嬉しい。 きっと。 有利は小さく呟いた。 このままじゃいられないんだろう。 こうして一つ処に全員が集まった。自分のもう1つの人生が始まったこの年月の中で初めて、予想もしなかったこの時、それが起こったことが、逆にこれから大きな変化が訪れる象徴のようにも感じられる。 2つの世界をホームグラウンドにして。 2つの世界で、2つの世界の平和と幸せを手にして2つの人生を歩む。それを続けることは許されるのだろうか。 世界は。この2つの世界は。 おれに、それを許してくれるだろうか。 「渋谷、そろそろだよ?」 パッと振り返れば、スコアボードとノート、ペットボトルの水を小脇に抱えたマネージャーの村田が立っている。 「……おう!」 ユーリはお腹に力を込め、大きく頷いた。 「それにしても目立つねー。バリバリ注目されてるし」 「ただでさえ美人なのに、振袖だもんな。ヴォルフは勘違いしたまんまだけど」 「でもさすがに動じてないね。まああのメンバーは注目されることに慣れてるから当然だろうけど」 「まーなー。……ヴォルフがさっき何か叫んでたけど聞こえたか?」 「いーや、全然。でもあの雰囲気ならさしずめ、僕が観ている試合で負けたら承知しないぞーとか何とか、その辺じゃない?」 「あー、すごく納得」 「…おっと、渋谷、そろそろ整列みたいだよ?」 「おう。んじゃ、行ってくるな! マネージャーよろしく!」 「任せなさーい。頑張れよ!」 おう! もう一度、しっかり息を吸い込んで、ぐっとお腹に力を溜めて、有利はホームベースに向かって走り始めた。 そうして、観客席で手を振る2つの世界の家族達に、もう一度大きく手を振った。 今はまだ。 おれは力いっぱい、2つの世界で生きていく! 贅沢だって言われるかもしれないけれど、でも、どちらもおれの大切な、大好きな世界だから。 だからどちらの世界でも、おれのできること、したいこと、しなくちゃならないこと、全力でぶつかっていく! それをどうか。 支えてください。支えてほしい。他の誰でもない、あなた達に。 「整列!」 審判の声がする。 「よろしくお願いしますっ!!」 チームメイトが一列に並んで、一斉に頭を下げて挨拶し。 それからすぐ、有利はキャッチャーマスクを顔に被せ、ホームベースに立って大きく腕を広げた。 「よーしっ! 行っくぞーっ!!!」 おーっ!! 青空の下、返ってくる仲間達の元気な声と観客席から溢れる歓声に、有利の笑顔が広がった。 おしまい。(2010/11/02) プラウザよりお戻り下さい。
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