「やっほー! おっはよーっ!」 車から飛び出すとほぼ同時に、有利は土手下のグラウンドに向けて大きく手を振った。 グラウンドでは、早朝にも関らず練習着姿の青少年達がランニングや柔軟を始めている。その中の数人が有利の声に気づいたのか、顔を向けて手を振り返してきた。 「皆張り切ってんなー! よし、おれもさっそく……」 「僕、後部座席で少し寝ていってもいいかなー? あんな早くに叩き起こされるなんて思ってなかったから眠くって……」 「お前なあ…」 あふぅとあくびをする親友に、今にも土手を駆け下りようとしていた有利がキッと振り返った。 「あの時間だから練習に間に合ったんじゃないか! 大体お前マネージャーだろ!? サボってどうすんだよ!」 ほれ、行くぞ! 遠慮会釈なく背中をどやしつければ、村田も「あ〜あ」とため息をつきつつ歩き始める。 「コンラッド!」 車を降りて気持ち良さそうに辺りを見回しているコンラートに声を掛け、有利はグラウンドの一画を指差した。 「ほら、あそこにベンチがあるから。終わるまで待っててくれな?」 「見学させて頂きます。俺のことは気にしなくていいですから、時間まで存分に練習してください。ちゃんと学校に間に合うようにお送りしますので」 「うん、頼むな! じゃあ………あれ?」 「美子さん…!?」 有利が声を上げるより先に、その姿に気づいていたコンラートが渋谷美子の名を呼んだ。 自転車を引きながら近づいてきた美子が、「ゆーちゃん!」と笑顔で息子の名を呼ぶ。 「おふくろ、どうしたんだよ…? つーか、それおれの自転車だろ?」 「ママでしょ? ゆーちゃん。それに、生活の基本はまず挨拶からよ? おはよう、ゆーちゃん、健ちゃん、コンラッドさん」 「…あ、うん、おはよう、おふくろ」 「おはよーございます、ママさん!」 「おはようございます、美子さん」 3人の挨拶ににっこり満足げに笑みを浮かべて、美子は改めて息子に顔を向けた。 「昨日は楽しかった?」 「うん、もちろん! 意外なサプライズもあって、かなり楽しかったぞ!」 「そう、良かったわ。後でお話してね?」 「おう! …って、それでどうしてここに?」 「決まってるでしょ? 可愛い息子のためにここまで運んできたのよ?」 だってこれがないと学校に行けないでしょ? 当然の様に言う母に、有利はきょとんと目を瞠った。 「おふくろ…。だっておれ、練習が終わったらコンラッドに車で送ってもらうことになってるんだけど……」 「行きはいいわよ、それで。でも帰りはどうするの? 学校が終わるまでコンラッドさんに待ってもらうわけにはいかないでしょ? 健ちゃんはもともと電車通学だから大丈夫だけど、ゆーちゃんはそんな荷物を抱えて歩いて帰るつもり?」 言われてみれば確かに。 傍らのコンラートを見上げれば、護衛で名付け親の婚約者が苦笑している。……この男は、おそらく待っていろと言われれば、放課後まで喜んで待機しているだろう。だが、そんなことを頼む気はさらさらない。 「というわけで」納得する息子の様子に、美子が続けて言った。「ゆーちゃんは練習が終わったら自転車で学校に行きなさい。いらない荷物はママが持って帰るわ。コンラッドさん、健ちゃんを学校まで送るついでに、私の事も家まで送って下さる?」 有利の表情を確認してから、コンラートはにっこり笑って頷いた。 「ええ、もちろんです、美子さん。喜んでお送りします」 良い男の爽やかな笑顔に、美子の笑顔も満足げだ。 「じゃあママもゆーちゃんの練習を見学させてもらうわね?」 □□□□□ 「…! レフト、バック! バック、バーック!! ……よーし、ナイスキャッチ!」 有利の声がグラウンドに響き渡る。 自分では気づいていないようだが、有利の声には濁りがない。気持ちが良いほど真っ直ぐに、空気をすうっと通るのだ。 「ゆーちゃんったら、張り切ってるわねー」 コンラートが購入してきたペットボトルのお茶を口に含みながら、美子はにこにこ笑って言った。 隣で缶コーヒーをちびちび飲んでいるコンラートも、目を細めて有利達の練習風景に見入っている。 清々しい朝の澄んだ空気と青空の下、健康的にスポーツに勤しむ青少年の姿を見るのは気持ちの良いものだ、と、有利が聞いたらどこのオッサンだと吹き出すようなことを考えていたコンラートの耳に、その時ふいに「コンラッドさん」と呼びかける美子の声が飛び込んできた。 「美子さん?」 「考えてみたら……」息子の姿に目を向けたまま、美子が言った。「こうしてコンラッドさんと2人だけでお話しするのは、あのタクシーの中以来かしら?」 「…あ、ああ、そうですね。そういえば……」 「ゆーちゃんたら、あの時はまだ私のお腹の中にいたのに……大きくなっちゃって」 「本当ですね。……待つ間は長いと思いましたが、こうしてみるとあっという間でしたね」 あのね。 鳥の声と、選手達の歓声と、土手の上を時折走りすぎる車の音が響く平和な光景に、ほんのわずか沈黙してから、美子があらためて口を開いた。 「しょーちゃんに怒られてしまったの」 「怒られ……勝利に、ですか? どうして?」 「有利が異世界で魔王にされることを勝手に了承しておきながら、何のアクションも起こさず、あちらの為すがままにまかせて、今頃になって慌ててるって」 「……慌てて、おられるのですか?」 落ち着いた声で尋ねられて、美子は「そうねえ」と首を傾げた。 「コンラッドさんにここで再会した時、どうしてかしら、私達何の不安も持たなかったの。ゆーちゃんが生まれる前から知っていたし、ウマちゃんも、コンラッドさんはゆーちゃんを護ってくれる人だって分っていたからかしら」 コンラッドさん、あの時いっぱいのお花を持ってきてくれたのよね? 覚えてる? と尋ねられて、コンラートはもちろんと頷いた。 賢者に「面白いことになりそうだからおいでよ」と軽く誘われ、なぜかそれに乗ってしまったあの時。 初めて訪れる家にはやはり花だろうと、母が自分の名をつけてくれた花を花束にしてこの世界に来た。 もしかしたら、忌避されるかも、有利を奪う者の象徴として憎悪されるかもと、実は柄にもない緊張を自覚しながらインターフォンを押した。だが、自分を迎えてくれたのは、ここにいる美子の、ユーリと同じ開けっぴろげの笑顔だったのだ。 「コンラッドさんには何も感じなかったの。不安も、それから……恐怖も」 「恐怖……」 そう。頷く美子の顔を覗きこむ。 グラウンドのホームベースに立って何か大きな声で叫んでいる次男坊を見つめたまま、美子はどこか哀しげに微笑んでいる。 「あちらの人に会って恐怖を感じるなんて考えてなかった。……ツェリ様達に会うまでは」 「美子さん……」 「詳しいことはまだ聞いていないんだけど」そこで初めて、美子はコンラートに顔を向けた。「ゆーちゃん、あちらでとっても頑張ってるんですって? 眞魔国だけじゃなくて、他のいろんな国にもたくさんお友達ができたって」 「……ええ、そうなんですよ。魔族と人間が共に手を携えて、戦争のない平和な世界を創ろうと頑張っておられます」 「そうなんだ……。すごいわね。さすが私の息子よね! ……でも……」 すご過ぎて、どうしてかしら、何だかピンとこないわ。 呟くように言って、美子は再び、今度はグラウンドを走りまわる有利に目を向けた。フッと頬が緩む。 「ゆーちゃんがあちらで王様になって、でもあまり気にしないでいたの。だって、ゆーちゃんは私達の自慢の子だもの。きっと元気いっぱいに走り回って、ほら、今みたいに、力いっぱい頑張ってるに違いないって思っていたから。何になったって、何をやっていたって、ゆーちゃんはゆーちゃんだもの。私達の自慢のゆーちゃんだもの」 でもね。 ほんのわずか、美子の声が沈むようにコンラートの耳に響いた。 「ツェリ様達がこちらに来て、そうしたらいきなり分ってしまったの。ゆーちゃんがあちらで王様をしているってこと、私達はまるで真剣に考えていなかったってこと。いつも元気だから、きっとあちらでも元気なんだろう、頑張ってるんだろうって思うのがせいぜいだったのよ。だって、ゆーちゃんはいつだって当たり前に家にいて、普通に学校に行って、普通にご飯を食べて……ゆーちゃんはやっぱりいつもの私達のゆーちゃんのままなんだもの。だから、あちらでゆーちゃんがどんな風に暮らしているのか、具体的にどう頑張っているのか、辛いことはないのか、健ちゃんの他にもお友達はいるのか、そんなことをちっとも知ろうとしてなかった。ううん、知りたくもなかったし、考えたくもなかったの。だって……詳しく、本当にちゃんとゆーちゃんの話を聞いてしまったら、考えずにはいられなくなってしまうもの」 ゆーちゃんの将来について。 「ねえ、コンラッドさん」 まるで息子の笑顔が眩しくて堪らないと言うかのように、美子は足元に視線を落とした。 「あるのかしら。ゆーちゃんが……いつかあちらに行ったきり、私達のところに帰って来なくなる、そんな日がくるなんてこと、あるのかしら? あり得るのかしら……?」 「それは……」 あるともあり得ないとも、今のコンラートには答えられない。 それはユーリ自身が、自分で考え、そして決断しなくてはならないことだ。今のまま、2つの世界での生活を両立させるにしろ、もしくは……決別するにしろ。 その決断の日は、いつ来るかも分らない。 「それは俺にも分かりません。ただ……美子さん」 呼びかけて、美子の顔が自分に向けられるのを確かめてから、コンラートは口を開いた。 「どこにいて、何をしていようと。万一、離れ離れになったとしても、それでも、ユーリにとっての家族はあなた方以外にあり得ません。俺達がどんなに頑張っても、どれだけユーリの側にいたとしても、決してあなた方に成り代われはしないんです」 でしょう? 囁くように言われて、美子が小さく微笑み頷いた。 「だから、ユーリの話を聞いてあげてください。ユーリが何を思い、何を夢見て、何ををしてきたか。しっかり聞いて、理解して、そしてユーリと思いを共有してあげてください。何があろうと自分達はユーリの味方だと、それを伝えてあげて下さい。そうすれば、例え何が起きてもユーリを見失うことはありません」 コンラートは思いをこめてそう告げた。 恐怖や不安、そして疑念は時として、目の前にいる人すら見えなくさせてしまうから。 「ユーリはあなた方に話したがっている。あなた方にこそ、理解して欲しいと思っているのです。唯一無二の家族であるあなた方に」 「……ええ、そうね。そう、分るわ。もちろん何が起きても、私達はゆーちゃんの味方よ? 世界中の人が敵になったって絶対よ。……ありがとう、コンラッドさん」 少しだけ力を取り戻した笑顔で、美子はコンラートに告げた。 いやね、私ったら。 しばらく見詰め合うように目を見合わせ、それから美子はことさらはしゃぐ様に声を上げた。 「私までコンラッドさんに甘えちゃったわ。コンラッドさんてば、甘やかし上手なんだもの」 「甘やかし…上手、ですか?」 「そうよ! ゆーちゃんも言ってたもの。コンラッドには、いつも甘えてばっかりって」 「そんなことは……」コンラートの頬に苦笑が浮かぶ。「確かに兄達からは、俺は陛下を甘やかしてばかりいると言われますが……」 「でしょう? コンラッドさんと一緒にいると、胸に溜めておいたものがふわーっと解れてしまう気がするわ。それでついつい何でも喋ってしまうのね。きっとゆーちゃんもそうよ」 「だったら……嬉しいですね」 ありがとうございます。微笑むコンラートの顔を覗き込んで、それから美子は困ったように眉を寄せると、コホンと咳払いして正面を向いた。 練習用のユニフォームで走り回る少年達の歓声が、河川敷のグラウンドに溢れかえっている。 困っちゃうわ。 美子はそっと呟いた。 コンラッドさんといると、自分が主婦だってことを忘れちゃいそう。 こんな最高級の男性をとっ捕まえるなんて、ゆーちゃんてば快挙よ。コンラッドさんの前では世の常識なんて紙より軽いわ。そもそもコンラッドさんはこの世の人じゃ、えーと、この世界の人じゃない訳だし。 ウマちゃんもしょーちゃんも、もっと柔軟な頭で考えないと、ゆーちゃんのことを理解して上げられないじゃない。 男ってホント、困った生き物よね。 「………美子さん?」 「…え!?」ハッと見ると、コンラートがいきなり黙り込んだ美子を訝しむように見つめている。「あ、あら……お、おほほっ、いえいえ何でもないの! …あーっと、コンラッドさん?」 「はい?」 「あの……今さっき口走っちゃったこと、ゆーちゃんには内緒に、ね?」 「ええ、分ってます」 心得たように頷くコンラートに、美子はホッとしたように息をついた。その時。 「コンラッドー!」 ユーリが仲間達から離れ、コンラートと美子に向かって駆けてくる。 「……さっきから何2人で話しこんでんだ?」 ベンチの前にやってきた有利が、座る二人を見下ろして言った。 「あら、ゆーちゃん」美子が呆れた声で息子を呼ぶ。「あなたったら、練習中によそ見してたの? それってキャプテンとしてどうなのかしら? ……それともー」 焼きもち? 母親ににんまり笑われて、ユーリの頬がぶわっと赤く染まる。 「…っ、なななな、何を言って…っ!」 「やーねー、ゆーちゃんったら。母親に焼きもちやくなんて〜」 「おふくろっ!!」 「落ち着いてください、ユーリ」コンラートがくすくす笑いながら間に入る。「練習はもう良いのですか? まだ時間はあると思いますが?」 「あ、そうだった!」 コンラッド! コロッと表情を変えて、有利が身体ごとコンラートに向いた。 「ちょっとピッチャーやってくれ!」 「…え…? 俺が、ですか?」 おう! 大きな目をキラキラさせて、有利が頷く。 「ミニゲームやるんだ! でもピッチャーが1人休んでてさ。実はさー、おれ、コンラッドのこと、アメリカの草野球チームでピッチャーやってるって言っちゃって」 皆がぜひ本場アメリカのピッチングをって。 てへ。笑う有利に、コンラートは呆れた様に目を瞠った。 「俺が!? ユーリ、それはアメリカで草野球をしている人達に対して、ちょっと申し訳ないですよ?」 「んなことないよ!」有利が心外だと声を上げる。「メジャーリーガーって言ったわけじゃないんだし、謙遜すんなよ。コンラッドのボールは草野球レベルじゃないっておれは思ってるぞ?」 「でもユーリにはよく打たれてますよ?」 「それはー……コンラッドがおれに甘いから」 「とんでもない! 俺なんてまだまだ……」 コホン。すぐ傍らから咳払い。ハッと見れば、ベンチに座ったままの美子が呆れた顔で2人を見上げている。 「仲良く言い合いするのは良いけれど、皆さんお待ちよ?」 あ。 振り返れば、グラウンドのチームメイト達が、どうしたんだろうなー、まだかなーという様子でこちらを眺めている。 「とっ、とにかく! もう言っちゃったんだし、皆待ってるし、ピッチャー足りないんだし、な!?」 というわけで。結局有利に手を引かれ、コンラートはピッチャーズマウンドに立つことになったのだった。 まだ温まりきらない朝の空気に包まれて、コンラートがゆっくりと振りかぶる。 バッターボックスに立つのは有利だ。 「手ぇ抜くなよ、コンラッド!」 「はい、ユーリ」 行けー! キャプテン、でっかいの1発! ツーアウト、ツーアウト! チームの仲間達(それこそ学生から社会人まで年齢はバラバラだ)の歓声が交差し、混じりあいながらグラウンドに響く。 ユーリをバッターボックスに迎えるのは初めてではないけれど。 コンラートは微笑みながら思った。 この世界のこの国、ユーリが渋谷有利であり、渋谷有利として生きるこの地で、異質な存在と排除されることもなく、家族から忌避されることもなく、その母親に見守られて、彼と共に野球ができる。 100年を越えるこれまでの、ユーリがいない人生がふと霞むような、そして今のこの瞬間が例えようもなく濃厚なもののような、不思議だが不快ではない充足感に、コンラートは胸がいっぱいになるような気がしていた。 河川敷のグラウンドに、カーンという空気を突き抜ける、爽快な音が響いた。 □□□□□ 「かんぱーい!」 純和風のお座敷に、元気な声が揃った。 「これが『とりあえずびーる』というにっぽん特産のお酒ね!」 「ツェリ様、ビールです。ただのビール。でもって日本の特産品じゃないです!」 お座敷の最も上座で、泡立つ生ビールのジョッキを手にはしゃいでいるのはもちろんツェツィーリエだ。 その隣で、ウーロン茶のグラスを手に、有利が一生懸命説明している。 「今宵は私の招待に応じて下さり、大変嬉しく思っております。皆さんのご身分を思えば粗末な宴ではありますが、この国の風情を少しでもお感じ頂ければ幸いです」 今日ばかりは江戸弁を封印して、香坂教授がにこやかに挨拶した。穏やかな笑顔を見れば、英国紳士にも通じる上品な雰囲気だ。 これが江戸っ子モードになると、とことん伝法な下町の頑固爺さんになるんだから。祖父の隣に神妙な顔で座る透は、胸の内で小さく吹き出している。 「ご招待、感謝する」 応えるのはグウェンダルだ。 「それに、謙遜される必要はない」広間を天井から畳まで見回しながらグウェンダルが言った。「このような造りの建物も部屋も、私は初めて目にした。実に……独創的で新鮮だ。我々の世界にはないこの意匠は…どうだ、ヴォルフラム、刺激的だと思わないか?」 「兄上の仰せの通りです…! アサクサという土地のテラとやらを訪れた時もしみじみ感じ入りましたが、世界の違い、文化文明の違いを肌で感じるのは芸術家として得がたい経験です。ここも決して華美ではありませんが、とても美しく思います」 「そう仰って頂けると嬉しいですな」香坂教授が本当に嬉しそうに笑う。「ご招待した甲斐があるというものです」 「日本の文化は世界的にも有名だし、ファンも多いんだぞ! それに和食は美味い!」 ツェツィーリエの隣に座る有利が、弾んだ声で言った。 「ヘルシーだし見た目もキレイだし……。おれをこんなに元気に生んで育ててくれた、おれの故郷の料理だからな。皆にも美味しいって思ってもらえると嬉しいな」 ゆーちゃん…。美子達家族の、これまでわずかに緊張していた頬がふわっと緩んだ。 そう、この世界のこの国、渋谷家こそが有利の故郷、有利の根っ子なのだから。 「そうだな、ぜひじっくり味わわせてもらおう」 そんな渋谷家の人々の思いを感じ取っているのかどうか、グウェンダルが穏やかな笑顔で応えた。 コンラートはもちろん、ツェツィーリエもヴォルフラムも「楽しみだ」と頷いている。 ツェツィーリエ達一行が、日本最大のリゾート地から都内に戻ってきた日の夕刻。 有利達はとある料亭を訪れていた。 本当なら馴染みの神楽坂の店が良かったんだが、と苦笑して言ったのは、一行を招いた香坂教授だ。 神楽坂の鳥料理の店は構えが小さく、座敷もなく、一行を迎え入れるだけのスペースがなかったのだ。それと。 「神楽坂の店に、妙に女客が増えたらしくてね」 とは香坂教授の言葉だ。 「ほら、コンラートさんを初めて招いた時以来、コンラートさん目当ての客が通ってくるって話をしてただろう?」 そういえばと、勝利と有利がうんうんと頷く。 「どうもなあ、携帯か何かでコンラートさんの写真を撮って、サイトだかブログだかに載っけたのがいたらしいんだな」 「あー……ありそうかも……」 「あの店に来るってんで、これまで神楽坂には縁のなかったような若い女客がうようよ集まってくるんだと。こいつもまた、女将が店に招きたくなかった理由らしいんだ。狭いってのもあるんだが、変に騒がれてご迷惑を掛けたくないってな」 「うわぁ、気を遣わせちゃったんだ」 という訳で、今回の晩餐は別の料亭に決定した。勧めてくれたのは神楽坂の女将だ。その料亭の女将は、神楽坂の女将のかつての姐芸姑だったという。都心にあるとは思えない、門構えもどっしりと立派で庭も驚くほど広い。有利はもちろん渋谷家一同の誰も、普段であれば絶対足を踏み入れることのない高級料亭だ。 黒のイブニングドレスに身を包む絶世の美女と、彼女に付き従う4人の美貌の外国人。 彼らから溢れる黄金のオーラに、セレブのお持て成しに慣れた料亭のスタッフ達ですら眩しげに目を細めている。 だがそんな人々の目がほんのわずか、不思議そうに揺れたとしたら、それは後光が射してみえる外国人御一行の後から、あまりこのような料亭に縁のなさそうな日本人一家がついてきたためかもしれない。おまけにその中には、到底この場に似つかわしいとは言えない制服姿の2人の男子高校生までもが混じっているのだ。……なぜか両親らしい大人より、その高校生の方がよほど落ち着いているのも妙だ。 だがそこはプロ。仲居達は即座にお持て成しモードの表情に戻ると、「お待ち申しておりました」と、彼らを教授達が待つ座敷に招いたのだった。 「……床そのものが敷物になっているというのは……初めてだな。どのように座れば良いものなのか……」 「畳と呼びましてね。我が国独自の文化なんですな。特に外国の方々は、初めてだと上手く座れないものなんですが……ほら、こうやってこの座布団の上で胡坐を掻けば良いんですよ」 「ああ、なるほど、これなら楽……」 「ツェリ様、待って! そのドレスで胡坐は…っ! これは男性だけでっ!」 畳の上で戸惑うグウェンダル達に香坂教授が座り方を指南すれば、一緒になって胡坐を掻こうとするツェツィーリエを、繭里が慌てて押し留めている。 何のかんのと騒いで、ようやく全員が座に落ち着いた頃合を見計らったかのように、その時座敷を訪う声がした。 「いらっしゃいませ。今宵はようこそお出で下さいました」 しっとりとした和服姿の、どこか威厳すら漂う2人の老女が座敷に入ってくると、三つ指をついて頭を下げる。 「おう、女将!」 香坂教授の呼びかけに、老女の内の1人が微笑んで会釈する。 反応したのはコンラートも同様で、女性を認めると「ああ、これは…」と笑顔になった。 「お久しぶりです」 コンラートに声を掛けられて、女性の笑みにどこか婀娜っぽい艶が加わった。 「はい、お久しゅうございます。またお会いできて嬉しゅうございます」 コンラッド? きょとんとしたユーリの問い掛けに、「神楽坂のお店の女将さんですよ」とコンラートが答えた。 あ。有利は改めてその女性に顔を向けた。 ぴんと背筋の伸びた、老いてはいるもののかつての美貌が容易に想像できる、品の良い女性だ。 「わざわざ来てくれたのかい?」 香坂教授の嬉しそうな声に、神楽坂の女将がにっこり笑みを返した。 その女将の視線がふっと揺れたのは、教授の身体越し、コの字型に設えられた膳の最も上座に座っている3人の姿が目に入ったためかもしれない。 その3人とはもちろんツェツィーリエと、彼女を挟んで座る有利と村田である。 しかし女将たちの目からすれば、これは何とも奇妙な配置だった。女性はまだしも、なぜ上座に高校生なのか。年齢的にも社会的にも若い客は、正餐の場ではもっとも下座ーだが気楽に食事ができるーに座るのが普通だ。ましてそれが学生なら尚のこと。 これが外国人だけの集まりなら理解できないこともない。しかし、連れには日本人が、それもこのような宴席に長けた大学教授までが同席しているのに。 女将はざっと席についた人々に視線を走らせた。 主客と思われた2人の外国人男性は1段下がった座に端然と位置し、この変則的な位置に疑問は全く感じていないらしい。対して、彼らと向かい合う形に座る日本人一家は、どこか居心地が悪そうにしている。……単にこのような場所に慣れなくて、緊張しているだけかもしれないが……。 女将の瞳に現れた揺らぎは瞬間的に目の奥に隠れ、彼女は即座に愛想の良い笑顔に戻った。 「せっかくのお申し出でしたのにお受けできませんでしたし、こちらをお勧めいたしました責任もございますので。実は、皆様には私共の料理も味わって頂きたく、姐にお願いしましてお品の中に私共の料理も加えさせて頂きました。ご賞味下さいませ」 「やった!」 ひょいと上がった声は村田だ。 「今回神楽坂が駄目だって聞いて、すごく残念だったんですよ〜。良かった、秘伝のタレも味わえるのかな?」 子供の言葉に、二人の女将が揃ってころころと笑う。 「坊っちゃん?」 姐女将が、往年の色気を漂わせた瞳で悪戯っぽく村田を一睨みしてみせた。 「ウチの料理も神楽坂に負けず劣らず美味しゅうございますよ? ぜひご賞味下さいましな」 「あ、ごめんなさーい!」 てへ。 いかにも無邪気に小首を傾げ、頭を掻いてみせる少年に、女将達は「可愛らしい坊っちゃんだこと」と笑い、有利は「むーらーたー」と呆れた声を上げ、美子は「健ちゃんたら」と叱る真似をし、勝利は「…ったく」と舌打ちして睨んでいる。対して眞魔国の三兄弟と透は、突如背後で吹雪がうなりを上げたかの様に背筋を震わせていた。 無邪気で子供っぽい大賢者など、これまでの所業を涙ながらに謝罪する毒女よりも胡散臭いし無気味だ。 何か企んでいるに違いない! かも! 王を補け国政を担う国家の重鎮、じゃなくても、大賢者を知る者なら誰でも頭に浮かぶ言葉が4人の脳裏に閃いた。……閃いただけだが。 「素敵なドレスね!」 ふいに、弾むように明るい声が響いた。ツェツィーリエだ。2人の女将の顔が正面に座る黄金の美女に向く。 「貴女方のドレス! この国にきてから時折目にしたけれど、私達の世界にはない珍しい形だわ! それに色合いも柄も、とっても個性的で素敵よ。巻いているのはリボン? ベルトかしら? ドレスとセットになっているの?」 「まあまあこれは、ありがとうございます」 二人の女将が嬉しそうに、それから若干の驚きを籠めてツェツィーリエを見返した。 「日本語が堪能でいらっしゃること」 では私からご説明いたしましょうと、姐女将が切り出した。 「これは和装、和服と申しまして、日本の民族衣装でございます。仕立ても着付けも独特のもので、情けないことではございますが、若い人の多くは自分で着ることができないんですのよ」 「民族衣装といっても、単に衣服だろう? それを自分できることができないというのは? それほど複雑な作りなのか?」 不思議そうに質問するヴォルフラムに、女将が「あらまあ、こちらは振袖がさぞ似合いそうな…」と笑う。 「難しくはないのですが、手順が少々面倒かと。帯も慣れないうちは1人で結べませんし。昔は親から子へと教えまして、誰でも当たり前に着ていたものですが、今はもう…。世界の中でも、民族衣装の着付けを教える学校があちこちにあって、着方を教える者に資格を与えるのはこの日本だけなんでございますよ? それから先ほどのご質問ですが、着物と帯は別々でございます。季節や場の格、柄や布地などによって色々と自分なりに組み合わせますのですよ」 「どんなお着物を着るか、帯はどうするか、髪型や小物の組み合わせ方にも着る人のセンス、感性が試されるんですよね」 解説に付け足したのは美子だった。わずかに身を乗り出してツェツィーリエに話しかける。 「こちらのお二人の様に趣味の良い方の着る和服は、私達日本人の目から見てもとっても素敵だと思いますわ」 ね? ゆーちゃんも昔からずっと和服が好きよね? 母に笑い掛けられて、有利は力強く「うん!」と頷いた。 「和服ってカッコ良いよな! 武士の着流し姿なんか最高! あれは腰の据わり方と裾捌きが命なんだ。剣の達人ほど着こなしがキレイなんだよなー。……きっとコンラッドも滅茶苦茶カッコ良く着こなせると思うぞ! あ、着流し姿のコンラッド、すげー見てみたいかも」 「ありがとうございます、ユーリ。いずれ機会がありましたら」 「……さすが時代劇好きというか、どこまでウェラー卿大好きなんだか」 「ユーリ! 剣の達人ほど美しく着こなせると言うなら、僕や兄上だって完璧に着こなせるはずだぞ!」 「………グウェンはそうだけど、ヴォルフは女将さんの言う通り、振袖の方が似合うと……」 「フリソデとは何だ!? 僕に似合うというからには、さぞ華麗な衣装なのだろうな!?」 「華麗っちゃ華麗……」 「あらあら、私共としたことが!」 場が子供向けに横滑りしかけていることに気づいたか、姐女将がかなり強引に声を上げた。 そしてぽんぽんと手を叩いて、閉まった襖の向こうに呼び掛けた。 「はい、皆さんお待ちですよ!」 はーい! 華やかで艶やかで、その声だけで場が一気に盛り上がりそうな声が応えた。と、同時に、さっと襖が開かれる。 「お邪魔いたしますー!」 おお! きょとんとしていた眞魔国組も、もしかしたらと期待していた地球組も、目に飛び込んできた華のように鮮やかな一団に思わず声を上げていた。 部屋に入ってきたのは芸者衆だ。日本髪に満開の笑顔、長いお引き摺りの裾裁きも鮮やかに座敷に入ってくる。 「んっまー、ステキ! 民族衣装も色々あるのね!? 街では全く見なかったわ。これまでどこに隠れてたの!?」 「きゃー、もしかしてお座敷遊びができるわけ!? 実はママ、前からすっごく興味があったのよ〜」 「おれ、生の芸者さん見たの初めてだ!」 「うん、僕も。うーん、残念、お酒が飲めたらもっと楽しいのに」 「……緊張してどうするんだ、俺! いずれ都知事になった暁には、こんな宴会はそれこそ日常だぞ!」 「ほう……やはり旅はするものだな、コンラート。幾つになっても初めて知ることが多くある」 「ええ、確かに。部屋の装飾が上品に落ち着いている分、この華やかさは映えますね」 「なるほど、部屋と人で華やかさを競うのではなく、1つになった時最高の美しさを醸し出そうというのだな! それにしても、僕達の世界のドレスも美しいが、このワフクとういものも美しい。所作も優雅だ。芸術家としての魂が刺激されるな!」 「教授、これは……とんだ散財をさせてしまったのでは……」 「いやいや、せっかくですし、昔なじみの伝手もありましたのでどうぞお気遣いなく。存分に楽しんで頂ければ嬉しいですな」 「お爺ちゃん、太っ腹! さすが江戸っ子!」 などなどお客がわいわい騒いでいる間に、仲居達は酒やつまみを膳に運び、芸者衆は定位置につき、同時にそれまで閉まっていた隣座敷に通じる襖がスラリと音をたてて開かれた。 うわあ、という有利の声に皆が一斉にそちらに顔を向ける。 隣座敷にはお囃子担当のベテラン姐さん達が並び、すでにスタンバイオーケーである。15センチ程の高さだろうか、板敷きの舞台が設えられ、金屏風が灯を弾いてしっとり輝いている。 眞魔国一行にとっても、渋谷家一同にとっても、初体験の夜が始まった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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