「だーかーら、ゴメンっ! ほんとにゴメンってば! ……うん、そう、だから……うん、ホント、うん、うん……分った、じゃあ、明日。うん、分かってるって。じゃなっ!」 ふう、とため息を1つ。有利はリビングにあった電話の受話器を置いた。 そのままくるりと振り返ると、リビングのソファに座って自分をじっと見上げている両親と兄の姿がいきなり視界に飛び込んできた。……こういう時、携帯を持っていたら良かったかも、と思う。 ほんのわずか、ウロウロと視線を泳がせてから、有利は観念したようにソファの空いたスペースに腰を下ろした。すかさず母が熱いお茶を淹れた湯飲みを勧めてくれる。 「……そもそもあいつらって」勝利がいきなり会話を開始した。「お前の試合を観にきたんだよな?」 「………だっけ」 「その試合に備えた練習を、きれいさっぱり忘れるってのは、キャプテンとしてどーなんだ?」 「………るせー」 「たっぷり1日練習できる日曜を、ほけほけ観光に費やしやがって……」 「るせーっつってんだろ!」 「ゆーちゃん」 そこでふいに父が言葉を挟んできた。兄に向けた言葉の勢いのままに、有利が口を開く。 「明日から社会人メンバーの早朝練習に参加するって決めたから!」 「その話じゃないよ」 ……父の顔が真面目だ。珍しく。 それに気づいて、有利はもぞもぞと姿勢を戻した。膝に手を置いて、ちょっとだけ首を竦めて、お説教拝聴モードの顔になる。 「そんな顔をしなくて良いよ。それとも何かお説教される心当たりがあるのかい?」 上目遣いで自分を見上げる次男坊の様子に、勝馬は思わず苦笑を浮かべた。 有利がきょとんと小首を傾げている。 「ただちょっと……ゆーちゃんと話してみる必要があるかなって思っただけなんだ」 「……おれと…?」 妙にあらたまった父親の言葉に、有利はぱしぱしと目を瞬いた。 「ウマちゃん、どうしたの? 今日は1日歩き回ってたんだし、皆疲れてるわ。それにゆーちゃんも早朝練習するんなら、もうお風呂に入って休まないと……」 「分かってるよ。本格的に話そうって言うんじゃない。確認しておきたいだけなんだ」 「親父……一体何だよ? 確認って?」 「ああ」 次男坊の顔にじっくりと目を遣って、それから小さくため息をつくと、勝馬は湯飲みを手にした。だが湯飲みは口に運ばれることもなく、ただ勝馬の手の中でゆっくりと円を描くように揺れている。 「……ゆーちゃん、今日は楽しかったかい?」 「え? ……うん、そりゃまあ……」 午前中に委員長と合流し、有利のクラスメートを含めた女子が主導権を握った後は、眞魔国上王陛下一行と渋谷家プラス村田健の1日観光は一気に加速度を増した。 ニューヨーク滞在のおかげか、超高層ビルに驚愕することはなくなっていたが、観覧車に乗り、シースルーの箱でちょっとしたスリルを存分に味わいつつ、堪能した景色はツェツィーリエ達を相当楽しませたらしかった。 『これなら我が国の技術でも作れるのではないか!?』 地球のような超高層ビルはできないが、ある程度の高さの観覧車ならできるのではないか、これがあれば我が国の技術力の高さを諸外国に誇示できるし、民の楽しみにもなる。頬を紅潮させたヴォルフラムの熱心な主張は、グウェンダルさえも頷かせた。 だったら遊園地に行こうということで、一行は観覧車のほぼ真下にある、少々規模の小さな屋内型遊園地へと向かった。そこで一通り楽しんだ後、その隣のヨーロッパの街並みを模したショッピングタウンに突入。女子(ツェツィーリエ含む)が凄まじい勢いでショッピングに駆けずり回るのを男子一同はお茶を飲みながらひたすら待った。そしてショッピングタウン内のレストランで昼食を摂った後は、某有名テレビ局へ。 この間、行く先行く先で人々に見つめられ、取り巻かれ、レンズを向けられ、ナンパされ、スカウトされた。もちろんツェツィーリエとその3人の息子達、そしてクラリスが、だ。 彼らの姿を目にしたその瞬間、ほとんどの老若男女は、瞠った目に星を飛ばし、頬を灼熱の太陽に炙られた様に火照らせ、ぽかりと開いた口から音にならない嬌声を虚空に鳴り響かせ、胸元でうっとりと手を組み、一部手のひらを合わせて拝む、という彫像と化していた。 「……たく、そんな大層なモンかぁ?」 ウチの弟の方がよっぽど……と、ぶつくさ文句を言いながらついていく勝利をちらっと見上げ、有利は苦笑を浮かべた。 いい年をして「おにーちゃん」と呼ばれたがるバカ兄は別にして、これが正しい姿なのだ。 自分のこの、特に注目もされない平凡な容姿を「奇跡の美貌」と呼ぶあちらの人々の美的感覚がおかしいのだ。 ……なんかー…あるべき形に納まるって、和むなあ……。 日本人『渋谷有利』という、いわばベールに覆われ、眞魔国の民やあちらの人間達が絶賛する美貌はもちろん、存在感も全て包み隠された状態の有利は、確かにその時、ツェツィーリエと3兄弟が放つ圧倒的な場の支配力に埋もれていた。かつて凉宮透が愕然とした違いがあるのだが、有利にそんな自覚は全くない。 テレビ局の見学コースを進むにつれて、携帯を構えた人々と、芸能プロダクションの関係者だのモデルクラブのスカウトだのプロデューサーだのディレクターだの演出家だの監督だのといった名刺を差し出しながら纏わりついてくる人々の厚みがひたすら増してくる様子を、有利は感心しきりにただ眺めていた。 この間、コンラートだけは有利の側からわずかも離れようとしなかった。 様々な声が掛けられ、名刺が突き出され、携帯やデジカメが向けられても、一切を穏やかな微笑と共にスルーして、有利の動きが妨げられないよう、思うままにテレビ局見学ができるよう、何より不審者や不審な手足(?)が有利に触れようとしないよう、培ってきた軍人のスキルを全て使って護っている。 家族同様のツェツィーリエと3兄弟が人々から賞賛と憧れの眼差しで見られていることは嬉しいし、何よりキラキラの目で見つめられているコンラートが、自分にぴったり寄り添っていてくれることも嬉しい。 この後、遊園地をすっかり気に入ったヴォルフラム達をさらに喜ばせようと、人だかりにもすっかり慣れた一行は、女子に率いられ、浅草花やしきへ、上野の公園と動物園へ、最後はやっぱり東京タワーへと、がんがん観光を進めていったのだった。 「東京タワーに上ったの、何年ぶりかしら。あらためて行ってみると、結構楽しいものだったのね〜」 「おふくろ、写真ばっかり撮ってたじゃん。……でも、記念写真撮ろうとするたんびにカメラマンが殺到してきたのにはびっくりしたよな」 「ありゃあカメラマンじゃなくて、単に便乗を狙ってたヤツラだろうが。俺、見も知らない女に『あんた達、邪魔』って言われたんだぞ。ったく、観光してたんだか、日本人がどれだけ美形好きかを確認しにいったのか、さっぱり分らなかったな」 勝利のボヤキを聞き流し、有利は美子が淹れてくれてた湯呑のお茶を喉に流し込んだ。 「でもやっぱりツェリ様はキレイだし、グウェンは渋くてコンラッドはカッコ良いし、ヴォルフはまじ天使だもんな。……喋らなければだけど」 「……ゆーちゃんは、彼らのことが自慢かい?」 「そりゃあ……」 妙に穏やかな眼差しで自分を見る父が何を言いたいのか、分らずに有利は再び首を傾げた。 「ゆーちゃん」 「ん?」 「ゆーちゃんにとって、眞魔国の彼らは大切な存在なんだな?」 「当たり前、じゃん?」 「……当たり前か……」 寂しそう? 父親の奇妙な表情に、有利の眉も曇る。 「……オヤジ…?」 もの問いた気な有利に、勝馬は気を取り直したように「うん」と頷いた。 「ゆーちゃんはやっぱりコンラッドと……」 「ウマちゃん!」 父が言いにくそうに発した言葉を、いきなり母が遮った。え? と妻に顔を向ける勝馬、勝利、有利の3人。 「疲れたこんな夜に、そういう話をしなくちゃいけないのかしら? ゆーちゃんの将来についての大切な話、でしょ?」 「…ああ、もちろん…」 「だったら、なおのこと家族皆がじっくり時間を掛けて話ができる日にするべきだわ」 「そうかもしれないが……。でも、顔を背けていた問題があることに、いきなり気づかされてしまったからな……」 「それは…そうだけど。でも……」 いいわ。 ふいに美子が納得したように頷く。 「じゃあ、今夜は1つだけ。1番大事だと思うことを私から質問させて。それ以外のことは、あらためてきちんと話しましょう」 真面目な声できっぱり言う美子に、勝馬も確かに疲労を感じていたのだろう、「分った」と頷いた。 「じゃあ、ゆーちゃん」 「お、おう…!」 何を聞かれるのか、有利が唇を引き結び、身構えるように母と向かいあう。 「お式はやっぱりウェディングドレスかしら? 白無垢や文金高島田はなし? お色直しのドレスは、ママが選んでも良いわよね?」 「……………」 「……………」 「………話をそこまでふっ飛ばすな、嫁さん!」 つーか! 有利もたまらず拳を握る。 「何でタキシードがないんだっ!?」 「あのさ」 落ち着こうと、家族全員で熱いほうじ茶をゆっくりと啜る。 冗談じゃないとぶつぶつ文句を垂れ流す夫と息子に、お茶目をかましたつもりの美子は少々お冠だ。 ほうと息をついてから、有利が徐に口を開いた。 「おれも、ちゃんと話さないまんまにしてたのは悪かったと思うんだけど……」 「うん」 「あのさ……おれ……コンラッドのこと……」 本気で好きなんだ。 きっぱり言えば、美子は頷き、勝馬はきゅっと眉を顰め、勝利は苦々しげに口を歪めると、腕を組んでソファにふんぞり返った。 「ゆーちゃん」勝馬が静かに言う。「……こんな風に言われたら反発したくなるだろうが、ゆーちゃんはまだ子供だ。これは素直に認めてほしい。まだ保護者が必要な年齢で、勉強と運動で頭と身体を鍛えるのが何より大事な年頃なんだ。……コンラッドはああいう男だから、まあ……男だろうと女だろうと、憧れる気持ちはよく分かる。それにゆーちゃんの年齢なら、愛や恋にも同じ様に憧れるだろう。だから父さんは、正直に言ってゆーちゃんのその気持ちというのは……」 「恋に恋するっていう、アレだって?」 「……まあ、そうかな」 即座に切り返してきた息子をちょっと意外な目で見つめ、それから勝馬は頷いた。 そしてそんな父の顔をじっと見て、それから有利はかすかに唇の端を上げて笑みを作った。 「そんなんじゃないよ」 そんなんじゃない。 家族は知らないが、自分はコンラッドと、あの世界と、両親や兄が想像できないほどの長い時間を共にしてきている。そして自分とコンラッドが経てきたその年月は、決して甘ったるいものではなかった、はずだ。 失くしてしまうのかと怖れた時期があり、見切りをつけたと自分自身が信じた時期もあった。 自分は一国の王だと、それを思えば、この胸の中にとぐろを巻くものを全て封殺して前に進まなくてはならないと心に決めたときもあった。 恋に恋する、そんな心情を否定するわけじゃない。でも、自分にはそれを楽しむ余裕もなかったと思う。 勝馬は勝馬で、次男坊が見せる表情に内心驚いていた。 この単純素直が持ち味の息子が、今自分達に見せている表情。彼はそれがどんなものなのか、自覚しているのだろうか。 酷く静かな、大人びた、心臓に立てることのできない爪を立てようとしているかのような、もどかしくも切ない顔。 妻とそっと目を見合わせて、それから勝馬は息を吸い、吐き出した。 「悪かったと思ってるんだ」 突然の言葉に、有利がふと顔を上げる。 「父さんも母さんも、ゆーちゃんが眞魔国の魔王になることを知っていた。でも、ずっと、ただの一度も、それをゆーちゃんに告げることはしなかった。いつか迎えが来る心積もりをしておけとも言わなかったし、一国を支える役目があることを覚悟しておけとも言わなかった。そのための勉強もさせなかったな。そして……ゆーちゃんが魔王になってからも、そのことについてろくに話し合おうともしなかった」 「……親父……」 「ウマちゃん……」 家族の視線を一身に浴びながら、それに気づかぬ様子の勝馬は唇を噛んでいる。 「怖かったのかもしれないな」 真っ直ぐ自分を見つめる有利の視線から目を逸らすことなく、勝馬は言った。 「コンラッドとのこともそうだが、向こうと関ることを話題にするのが怖かったんじゃないかと…思う」 大事だから。 勝馬が続ける。 「平凡に、何事もなく過ぎるこの日々は本当に大事だから。嫁さんがいて、しょーちゃんがいて、ゆーちゃんがいて、俺は会社に行って、しょーちゃん達は学校に行って、帰ってくれば嫁さんが笑顔で迎えてくれて……。毎日毎日、この家族と一緒に当たり前に繰り返すこの日々が本当に大事で、かけがえのないものだと思うから、だから……ゆーちゃんの運命と正面から向き合うのが怖かったのかもしれない」 「子供の承諾もなく、その運命とやらを言われるままに受け入れた親父に、そんなことを言う資格があるのか?」 しみじみとした勝馬の述懐に、硬い声で応じたのは勝利だ。 「ボブは強制したわけじゃないんだろう? だけど説得されて、親父とお袋はそれを了承した。その親父達が、有利の人生から目を逸らしてどうするんだよ」 長らく何も知らされていなかった勝利が、偉そうに腕を組んで言う。 「ああ…」勝馬が重々しく頷く。「しょーちゃんの言う通りだ。ごめんな? ゆーちゃん」 苦笑を浮かべながらも、息子に向かって頭を下げる父親と、「私も…ごめんなさいね」と謝る母親の姿を、有利は目を大きく瞠って見つめていた。そして。 「怖かったのは…おれも同じだから」 有利もまた苦笑を浮かべて言う。 「あっちから帰ってきたら、ウチの中はいつも通りのウチで。それがものすごく安心できたんだ。おれはおれのまんまで帰ってくる場所がちゃんとある……って感じで……。向こうで何があっても、おれが何をして、あちらの世界がどうなっても、それで苦しんだり、悩んだりしても、戻ってきたらこっちは何にも変化なんかなくて、おれはやっぱりおれのまんまで……。それが悔しいって、こんなに色んな思いをしてきてるのに、それがこっちのおれの生活と何の関係もないことがどうしようもなく悔しくてしかたないことも多いけど、でも……心のどこかでホッとしてたんだと…思う」 甘えてたんだ。 変わらないこちらの生活に。家族に。 「だからオヤジたちが謝る必要なんかないよ。おれも……ホントなら、あっちのことが分った時点で、ちゃんと話をするべきだったと思う。オヤジたちが知ってたことも分ってたんだし、きちんと報告すべきだったんだと思う。それができなかったのは……やっぱりオヤジと同じ理由なんだろうな。……コンラッドとのことは……身体のことを言いにくかったこともあるけど……」 ちゃんと聞いてくれるか? あらためて尋ねてくる次男坊に、勝馬はもちろん、美子も勝利も頷いた。 「最初から、ちゃんと話をしたい。初めてあっちのことを知ったその日のことからちゃんと。そして……今のおれのことをちゃんと理解してほしいと思う」 「ああ……そうだな。うん、分ったよ、ゆーちゃん」 笑顔で頷く家族に、有利はホッと安堵の息をついた。 「そしたらコンラッドのことも……」 「あ、それは別だから」 は!? 澄ました顔で返されて、安堵の息は瞬く間に雲散霧消する。 「さっきも言っただろ? ゆーちゃんはまだ子供です。頭と身体を鍛えて、将来に向けて準備する大事な学生時代なんです。愛も恋も青春の大事な要素だけれど、結婚の二文字は必要なし! そんなことを考える前に、本来すべきことをちゃんとやりなさい。とりあえず、次の試験で1科目でも追試があったら、コンラッドとの接触は禁止!」 「なっ!?」 思わずソファから身を乗り出す有利。 「あ、俺もそれに賛成。っていうか、この前の試験、ほとんど全科目追試で村田に縋ってたよな? そんな体たらくでよくまあ結婚がどうのこうのと言えるな、お前。そもそもそれで一国の王が務まるのか? つーか、その前に何より大事な進学って問題があるだろうが。親父、次の試験なんて悠長なことは言ってられないぞ。ここしばらく本当に追試の嵐なんだからな。よし」 明日からあっちの連中との会話も禁止! 「できるわけねーだろっ、そんなコト!」 はいはいはーい、今夜はこれまでー。 パンパンと手を叩きながら宣言するのは美子だ。 「疲れた頭同士で何言い合ったって、建設的なお話にはなりません! 今夜はこれでおしまい! ゆーちゃんはしょーちゃんが最後に言ったことは無視して良いわ。でも明日から、学生として1番大事な事を優先するように心掛けること。いいわね!」 ちなみにそれはしょーちゃんも同じだから。 キッパリ母に言われて、勝利と有利は「は〜い」とちょっと情けなく声を揃えた。 □□□□□ 月曜日。 有利が作り、キャプテンを務める草野球チーム「ダンディライオン」の、社会人メンバーが自発的に始めた早朝練習に参加して、そのまま学校に向かった有利は。 校門から1歩、敷地の中に足を踏み入れた瞬間、地雷を踏んだことに気づいた哀れな犠牲者のごとく、ピタリと動きを止め、そのまま固まった。 『歓迎! ツェツィーリエ様! グウェンダル様! コンラート様! ヴォルフラム様!』 校舎の屋上から垂らされた幕が、秋の爽やかな風にはたはたと軽やかに揺れている。 「………帰ろ」 一切の思考をストップさせ、クルッと踵を返した有利の両肩に、その時、ドンッと力強く重みが掛かった。 キリキリキリと、首だけが背後に向く。 「おはよう! 渋谷君っ!」 委員長の一仕事終えた清々しい笑顔が視界いっぱいに飛び込んできた。さらにその背後には、クラスメートの女子達がずらりと並んでいるようだ。 「…………何なんだ、あれ……」 「あれって?」 「アレだよっ! 甲子園に出場するわけでもないのにっ、何で垂れ幕っ!? 一体いつっ、どこから持ってきた!?」 まあっ! 地球最後の日を知らされたノストラダムスの弟子の様に、委員長が激しく仰け反った。 「渋谷君、何を言うの!? コンラート様だけなら私たちファンクラブのお出迎えで済ませて頂くことも可能かもしれないけれど、今回はツェリ様もグウェンダル様もヴォルフラム様もおいでになるのよっ!? それを、全校挙げて歓迎しなくてどうするのっ!?」 「どうもしねぇよ! てか、ファンクラブって何だっ!? それに…」 一体いつから委員長がツェリ様をツェリ様って呼ぶようになったんだ? 「あら」委員長が鼻高々に笑う。「ツェリ様が仰せになったのよ? 『ツェリって呼んでくださって結構よ? ユーリちゃんのお友達ですもの、遠慮なさらないで?』って」 そこで委員長の口から、は〜〜〜っっとため息が溢れ出た。 「本物ってすごいわ、渋谷君。なんちゃってセレブしかいない日本とは、やっぱりセレブの質が違うわ! それにあの、揃いも揃って高貴なお名前、ツェツィーリエ様、グウェンダル様、コンラート様、ヴォルフラム様……ああ!」 我が青春に悔いなーしっ!! どこかドスの効いた声で委員長が叫べば、背後に集結したクラスメートの女子達が一斉に「おーっ!!」と手を上げる。 「……………」 「渋谷君?」 呆然と佇む有利の傍らから、またも誰かが声を掛けてきた。 何となくイヤな予感がしてそうっと横を向くと、そこには。 「………教頭せんせー……?」 教頭が立っていた。満面の笑みを浮かべ、ウキウキとした気分を全身から発散させている。 「センセ……そのかっこ……」 今にもふわふわと宙に浮きそうなほど浮かれた教頭は、これまたふわふわした、クリーム色のワンピースに身を包んでいた。大きな襟とふっくら膨らんだ袖の袖口は濃いピンク色の繊細なレースに飾られていて、フレアースカートが微風にやっぱりふわふわと揺れている。いつもは運動靴の足には珍しくもハイヒールを履き、これがまたピンクだ。何より、1年365日きっちきちにひっつめられている髪が今日は全部解かれ、「お○夫人」もどきのたてロール(村田に勧められて観たアニメで、高校のテニス部員として、何よりアスリートとして、レッドカードものの髪型だろうと印象深く覚えていたのだ)にセットされている。後頭部からわずかに見えるピンク色は、大きなリボン、だろう……。 かなり薹の立った、しかし紛れもない二昔から三昔前の少女マンガ風お嬢様スタイルの教頭に、有利はクラリとよろめいた(…別に浮気心をそそられた訳ではない)。 「どうかしら? 皆さんをお迎えするのに、相応しくできてると思う? 今朝4時に、知り合いの美容師にちょっと早起きしてもらって準備したの。アポなしだったのだけど、誠意をこめてお願いしたら快く手伝ってくれて。高貴なお客様だから、私もちょっと深窓の令嬢風にしてみたのだけれど……」 言った教頭が、照れくさそうに頬を染めた。夜も明けない4時に叩き起こされた美容師さんへの同情が、有利の胸にふつふつと湧き上がってくる。 「すげーな」 ふいに聞こえた声に振り返れば、今度はクラスメートの男子が集まっている。 「お、お前ら……! あ、あのな、これって……」 「ああ、良いよ、渋谷。みなまで言うな」 「………ってーと?」 「昨日さ、連絡網で話が回ってきたから全部分かってる。……お前も苦労するよな……」 「気にするなっつーても無理だろうけど、あんまり考えすぎんなよ?」 「どんな騒ぎになったって、全部女子の責任なんだからな」 「俺達、皆お前の味方だぞ」 「みんな……!」 笑顔で有利を気遣いながら、肩や二の腕をぽんぽんと叩くクラスメート達に、有利の瞳が輝いた。 「ありがと、皆! やっぱ持つべきものは友達だよな! あ、だったらさ、とりあえずあの垂れ幕外すの手伝ってくれないか?」 「それは無理」 「……何でっ!?」 「女子に言われてアレ下げたの、俺達だから」 お前らなーっ!! 朝の学校に、渋谷有利の怒りの叫びが轟いた。 □□□□□ 「………疲れた………」 しっかりしろ、渋谷! 気をしっかり持て! 傷は浅いぞ! 眠るな、眠ったらお終いだぞ! 教室の机に突っ伏した有利の頭の上から、クラスメート達の慰め(?)と励まし(??)の声が降ってくる。 ようやくの思いで迎えた放課後だ。 垂れ幕と、校長、教頭、全校職員、生徒、そしてハッと気づいたときにはすでに大量に終結していた他校の制服や私服のギャラリーまでもが集って迎えた「我が校史上最も偉いお客様(…?)」(校長脳内)は、校内に絶叫混じりの歓呼と拍手という嵐を巻き起こし、無数の熱いため息で気温を5度ばかり上げて去っていった。 「しっかしすげぇ一家だったよな! 女子があんだけ騒ぐのも無理ないって」 「どうすりゃあんな美男美女が家族で揃うんだよ?」 「つーかさ、お互いにあの顔見て暮らしてるんだろ? いい加減うんざりしねぇかな。そろそろこざっぱりした顔がみたいなーとか思わないもんかな?」 「むしろ家族以外は全部芋に見えるんじゃねぇの?」 「美人も3日見りゃ飽きるって言うらしいけど……」 「規格外だろ、アレは!」 「しぶやー、お前んち、ホントにとんでもない一家とお知り合いなんだな。顔見るたびドキドキしないか?」 顔なら、おれは結構慣れたけどさ。つか、ドキドキは約1名相手に、また別の意味でなんだけどさ。 机に突っ伏したまま、心の中で呟いてみる。頭に浮かぶのはやっぱりコンラートだ。 ……軍服も、あっちの私服もカッコ良いけど、カジュアルなスーツ姿ってのもまたすっげーカッコ良かったな。 イタリアンカジュアルとかフレンチカジュアルとかアメリカンとか、あ、そういやセレカジってのもあるんだっけ? セレブカジュアル? コンラッドのはどういうのだろ。グウェンもヴォルフはそっちかな。全然違いが分んないけど。……それにしても。 すごかったなー…。 きゃあぁぁぁぁぁぁあっ!! 昼休み、ツェツィーリエ・フォンシュピッツベーグ様とそのご子息達の学校訪問は、この絶叫と歓声から始まった。 美子から「授業参観」スタイルをレクチャーされたのか、ツェツィーリエは淡い紫色の、シルクらしい光沢のブラウスに純白のスーツ、胸にはブラウスと同色の大きなコサージュ、そして豪奢な黄金の髪を一見無造作に、だが細心の注意を払って結い上げた、といういでたち(でも脹脛までのタイトなスカートは、スリットが太股まで入っていたためセクシー度は数倍増だった)で、3兄弟はノーネクタイのカジュアルな、だがセンスも仕立ても最高級間違いなしのスーツに身を包んで有利の高校を訪れた。(もちろんお台場から高級車を飛ばしてきたのだろう) すげーっ! という男子の芸のない感嘆の声と、女子の絶叫とため息に後押しされるように前に進んだのは、花束を手にした教頭と有利のクラスの委員長だ。その背後で、何が起こっているのか絶対分っていないはずの校長と担任が悔しそうに地団駄踏んでいたが、2人は気にも留めずに一行に歩み寄っていった。 花束を差し出されたツェツィーリエは、照れくさげな様子もなくそれを受け取り、左右に居並ぶギャラリー達にゆったりと余裕綽々の笑みを振り撒いた。グウェンダルは泰然とした様子で高校の建物を興味深げに見つめ、コンラートは逸早く恋人を見つけたらしく、有利に向かってにこやかに手を振り、ヴォルフラムは大きな目を瞠ってきょろきょろと周囲を見回している。歓声がますます高まった。 ……よく考えたら、いやいや考えなくても、ツェリ様も皆も沿道からの喝采なんて慣れてんだよなー。つーか、ツェリ様的には普通かも。むしろないとがっくりかも。と、考えたら。 ……おれにはこんなお膳立てできないし、もしかしたら委員長に感謝すべき…? 「あれが親子!? 嘘だろ、どうして母親があんなに若いんだよっ!?」 「びっ、美形がっ、超絶美形がよりどりみどり! ああ、目移りするっ! 一体誰にしたらいいの!?」 誰にしたらって……選ぶのかよ。選んでどうすんだよ。 どこか理性の吹っ飛んだ女子の声が耳に飛び込んできて、心中思わず突っ込む有利の傍らから。 「なあ、渋谷」 ふいにクラスメートの声がした。 「ん?」 「あのさ」振り向いた有利に、男子の1人が不思議そうな目を向ける。「あの人たち、お前に会いにきたんだよな?」 「おれにっつーか……おれが通ってる学校を見に……?」 「だったら、どうしてお前がこんなトコにいるんだ? ホントだったら歓迎するのはお前の役目なんじゃねーの?」 おれが? 花束持って? 「そりゃそうだ」 「てかさ、そもそもどうしてこんな歓迎行事が必要なんだ?」 「委員長が決めたからだろ?」 「……それが全てか……」 「ウチの学校の最高権力者って、校長と違うんか?」 色んな目にあっているせいか、意外と冷静な男子だが、有利は気づかずひたすら首を捻っていた。 その後の授業参観では。 「ユーリ! お前は一体何をやっている!? そんな問題も分らないのか!? 僕は恥ずかしいぞ!」 「るせーっ! お前、方程式が何だか分ってんのかっ!?」 「分らんっ!」 「だったら口出しすんなっ。つーか、授業参観で声上げるな! おれの方が恥ずかしーだろーがっ!」 「渋谷君っ! ヴォルフラム様に何てことをっ!」 「すげーぞ、渋谷。あの顔に向かってよく怒鳴れるな」 「さすが渋谷、男前!」 「……あー、渋谷ー、後じゃなくて前向け、前。そうだなー、せっかく立ち上がったことだし、前出てきて問題解け。皆さんの期待に応えろよ」 「…………え」 「そうだ、ユーリ! 僕達がわざわざこのような所にまで赴いてきたのだからな! りっぱに勉学に励んでいるところを見せろ!」 「…うはー、すげー命令形」 「ツンデレ好きにはたまらんなー」 「いや、デレてねーだろ、あれは。ただのツンだろ」 「お育ちに相応しい高貴さだわ!」 「ああ、素敵。ヴォルフラム様こそ、私の憧れの王子様……!」 「違うわ! ヴォルフラム様は天使よ! 王子様はコンラート様!」 「グウェンダル様は? 委員長?」 「もちろん……帝王よ!!」 「見事です、委員長!」 「さすが私たちの司令官!」 「あー、女子も静かにしろー」 「ユーリちゃーん、頑張って〜!」 「くっそー、渋谷、あんな超美女に応援されやがって!」 「ここで頑張んなきゃ男じゃねーぞ!」 「るせーっつってんだろ!」 「おーい、お前らみんな、先生の方を向けー」 全く授業にならなかった。 □□□□□ 都内を走る電車の中。 扉のすぐ側、アルミのバーとつり革に掴まって立つ彼らは、どことなくぎこちない会話を繰り広げていた。 「………タクシーじゃなくても良かったのか?」 「私は庶民の生まれだ。雑多な雰囲気には慣れている。確かにこの乗り物はあちらではあり得ない物だが、私個人の意見としては、乗り物自体かなり興味深いし、こうして眺める異国の風景も面白いと思う」 「……そりゃ良かった」 無表情で無愛想。言葉遣いもどこか木で鼻をくくる様な物言いの女に、彼はそっとため息をついた。 名前だけは妙に可愛いその女は、これまで付き合ったことのない軍人という職業柄か、どうにも波長が合わないし、同じ車両に乗り合わせた男達から突き刺さる視線も痛い。 確かに。この女はそんじょそこらにいない美女だ。 ツェツィーリエやヴォルフラムといった人間離れ(魔族だが)した美形と一緒にいるとイマイチ目立たないが、こうして1人でいるところを見ると、やはり超1級の美人であることは間違いない。 肩まで伸びた、柔らかくウェーブする淡い金髪、深い藍色の瞳、硬質というか無機質というか……文字通りのクールビューティーだ。色気の欠片もない、濃紺のパンツスーツと肩から下げた無骨なバッグが、逆にキャリアに生きる女の雰囲気をうまく醸し出している。 電車に乗ってある場所に向かっているのは、勝利とクラリスだった。 かなり異色のカップリングだが、この2人が共に行動しているのはちゃんと理由がある。 凉宮透の下に向かっているのだ。 眞魔国一行は、有利の授業参観に行っている。だがその後、日曜の野球の試合までの具体的な予定が立てられていなかった。コンラートを除く一行のメンバーは、どうやらずっと有利と行動できると思いこんでいたらしいが、もちろん平日である限り学校がある。学校をサボることなど許されない。つまり、試合の日まで有利は彼らにつきあうことがほとんどできない。 有利は1日くらいサボったって……と考えたらしいが、美子に睨まれて即座に引き下がった。その代わり、眞魔国一行接待の白羽の矢が立ったのが勝利と透だ。 事前に連絡して行ってくれと弟から頼まれたので、携帯で連絡を取ったところ、祖父の大学へ行くと言う。そこもまたよく知った場所だったので、透の祖父、香坂教授の研究室で落ち合うことにした。 クラリスのことは特に伝えなかった。実際、どうして護衛の武官であるという彼女が一行から離れて行動するのか、勝利には分らなかったが、聞けば透と面識があるという。よく分らないなりに、まあ良いかと2人で出てきたのだ。 友人である凉宮透が、かつて眞魔国で生きていた魔族、コンラートの部下の兵であり、戦争で命を落とした人物の生まれ変わりであることを勝利は知っている。 その縁もあって、透がさる機関の臨時職員となり、異世界への出張を、言うなれば里帰りを果たしていることも聞き知っていた。 それについて、何となく勝利の心に引っ掛かるものがある。 自分は魔族で、透は少なくとも今は人間だ。 自分は有利の兄で、地球の、どうやら魔王候補で、透は本来何の関係もない存在だ。 それなのにどうして。 自分は有利の手助けができず、透にそれが許されるんだ? あちらの世界に行きたいと言った事も、魔王などという立場に祭り上げられた弟を助けたいと言った事もことさらあるわけじゃない。 だが、流れる雰囲気が、勝利にそれはダメだとプレッシャーを掛けてくる。 両親、特に母は、有利が王位につく時、戴冠式には出席できるのだと考えていたらしい。 自分達が知らない間に王位についてしまっていたと知ったとき、少なからずショックを受けていた。 今も、何かあればあちらに行けると考えているようだ。だが、勝利は疑っている。 自分達があちらに行くこと、まして有利の手助けをすることは、この後も決して許されないのではないのか……。 「ちょっと、聞いてもいいか?」 用心のために英語で話しかけてみた。一瞬だけ訝しげに眉を顰めた女性士官は、すぐに「何だ?」と英語で答えてくる。 「有利は…弟は、どうなんだ? その、実際のところ」 「どう、とは?」 「有利はそっちで、どれだけのことができてるんだ? あんた、近くにいるんだろう? 弟はあんたの目にどう見える?」 「……不思議な事を聞くのだな」 「不思議か?」 「ああ。……陛下は陛下だ。我が国の至高の主。我らが仕える唯一無二の王だ。どう映るもこう映るもない」 「いや、だから……」 どうもうまく通じないな。勝利はもどかしい思いで咳払いをした。 「あいつは見ての通り、まだまだ子供だ。一国を背負う力なんかない。あのコンラッドの兄貴だの何だのがいるから何とかなってるのかもしれないが、あんた達から見たら不安になったりしないのか? こっちに比べたら、国際情勢なんかも結構不穏なんだろう?」 「まるでこの世界に争いがないようなことを言うのだな。それとも……この世界の目から見ると我々は社会はかなり遅れて見えるというから、そのせいか?」 ちらりと睨まれて、さすがに勝利も慌てた。 「あ、いや、そういう訳じゃ……」 「人の情や、国と国の争いの種に、科学や文明の進捗度などあまり関係ないと思うがな。少なくともこの世界にやってきて、ニュースなどを観た限りはそう思う。それともお前は、我々より科学が発達した世界に生きているから、品性や人格も私たちより上だと言いたいのか?」 「そんな話をしてるんじゃ……!」 すまん。 一呼吸置いて、勝利は素直に謝った。 確かに日本は平和だが、この地球の、人類の歴史が始まってから今日まで、たとえ1年なりと世界から争いが完全に止んだという時はない。こちらに比べて云々というのは、驕った言い方だったかもしれない。 「陛下に不安など感じない」 ハッと、勝利はクラリスの顔を見た。 「お前の言う通り、陛下はまだお若い。だが、陛下の歩まれる道の先には希望に満ちた光がある。我々はそう信じている。陛下と共に歩めることを、何より幸運だと、皆そう思っている」 「………マジでか!?」 「まじ、とは?」 「…あー…本気でそう考えているのか?」 「当然だ。何を疑う?」 訝しげに見つめられて、勝利は困ったようにこめかみを掻いた。 文明だの科学だのじゃないところ、何か根本的なところでこいつらの認識はおかしくないか? ウチの弟だぞ? 野球バカの単純バカで、そりゃ正義漢は強いし、曲がったことが大嫌いの今時珍しい猪突猛進型だが、何といっても人生経験も何もない、まだ高2のガキんちょだぞ? 「それに」クラリスが続ける。「陛下の御世を支えておられる方々は揃いも揃って実力者だ。国内的にも対外的にも不安材料はほとんどない。あったとしても解決可能で、陛下の御世を揺るがすようなものではない」 「……確かめておきたいんだが」 「何だ?」 「その実力者の中に、村田は入っているのか?」 「当然だろう! あの方を抜かして陛下の御世は語れん!」 語気を高めるクラリスに、今度こそ勝利は眉を顰めた。 「村田だぞ!? そりゃあ……記憶がどうとかは知ってるし、成績が良いのも分かってるが……でもどれだけ知識が詰まってたって、だから政治ができるってモンじゃないだろ!? あいつはどう見たって、クソ生意気なただの高校生だろうが!?」 「お前は……」 「何だ?」 「……いや」 どうやらこちらの世界で魔王陛下や大賢者猊下の周りにいる人々は、陛下や猊下を正しく把握していないらしい。 クラリスはそう結論付けた。 自分に論評する資格も権利もないが、陛下の家族として暮らしているというのなら、もう少し正しい認識を持つべきではないのだろうか。それとも彼らに事実を正しく教えない、何か理由があるのだろうか。 もしあるとすれば……。 考えて、クラリスは小さく首を振った。自分が考えることではない。だが。 彼、なら知っているだろうか? クラリスの脳裏に、どこか困ったような顔で笑う青年の姿が浮かんだ。 それにしても。 猊下をただの生意気な子供だと? クラリスはちらりと勝利に目を遣った。魔王の兄として生まれた青年は、何か言いたげに眉を顰めて自分を見ている。その顔を見ていると、思わずため息が漏れてしまう。 つい先だって。 大賢者猊下は1つの国を鮮やかなまでに叩き割った。 かの新連邦だ。 その統治能力に比べて、あまりに広大な国土を持ってしまったあの国は、現在の眞魔国の民が想像できないほどの内憂外患に悩まされている。 統治者達の思惑は乱れ、特に魔族との友好に反発する勢力は根強く、その最高位に就くエレノア・パーシモンズは次第に議会を抑えることができなくなっていた。 若者を中心に新たな国を立ち上げる気概は漲っていても、それだけではどうにも立ち行かなくなってしまったのだ。 そしてついに……その「事件」が起こった。 新連邦は眞魔国に調停を頼み、眞魔国はそれを受けた。 その時、大賢者が徐に立ち上がって宣言したのだ。 『こうなることは分っていたし、そのための準備はもうしてある。僕が行こう。あそこの底抜けの甘ったれ達には、ちょっとばかりお仕置きが必要だよ』 お仕置きは、友好国である新連邦、すでに王の友人と言って良い人々が期待を籠めて見守る前で、一片の容赦もなくその国土に振るわれ、新連邦の人々を震え上がらせた。 可愛らしく、どこか甘やかな理想を語る王と、それを支える側近達。陰謀や策謀には縁遠い、正攻法な政を行う国だと思いこんでいたらしいかの国の人々は、大賢者猊下という存在を恐怖と共に脳裏に刻む込むこととなった。それはおそらく新連邦の去就に注目していた他国もそうだろうし、実はその展開を間近で観ていた眞魔国の同胞すら同じだった。他国の人々と違うところがあるとすれば、それは恐怖ではなく、全身の力が抜けるような安堵だったということだろう。 すなわち、『この人が敵じゃなくて良かった! 味方で良かった!!』である。 その大賢者猊下を、ただの生意気な子供と……? 知らないというのは、怖ろしいことでもあり、幸せなことでもあるな。 しみじみと胸に呟いて、クラリスは窓の外を流れる異世界の風景に目を凝らした。 □□□□□ 「渋谷君!」 研究室の扉を開けて室内に入れば、そこには見慣れた顔、友人の凉宮透、その祖父の香坂教授、従兄弟の繭里がいて、お茶の準備だの書類の整理だのをやっている。 「よお、久し振りだな、渋谷君。1人かい? 何だったら、これから皆で飲みに行くか?」 「お爺ちゃん、まだ昼間よ!?」 「昼酒ってのも良いモンだぜ?」 「ごめん、渋谷君、お爺さんから書類の整理を手伝えって言われて……。入ってよ。今お茶を淹れるし……って、誰かいるの?」 「ああ、凉宮、その、お前も知ってる顔のはず、なんだが……」 「え?」 「どうぞー、ご遠慮なく、入って入って!」 言われて勝利が室内に入る。続いてクラリスも入ってきた。 突然現れた外国人女性に、歩み寄ろうとしていた繭里が驚いたように動きを止める。 書類を揃えていた透が、そこで振り返った。 「今日はどうし……っ」 クラリス!? 目をこれ以上ないほど瞠り、透が驚きの声を上げた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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