精霊の日・9 |
少なくとも表面的には、どんな乱れもその闇に現れることはなかった。 枯れた雑木林と、その向こうにある今は反乱軍の本拠地となった城は、夜明けを数時間後に控え、静やかな眠りについている。………大シマロンの、おそらくは最後の兵団を指揮する男は、そう信じていた。 三百を超える兵は、乾燥した枝を踏む音すら怖れ、息すら堪えてひたすらに道なき道を進んだ。 もはや、自分達に勝機があるとは思っていない。生き延びる事ができるとも。 ただせめて、一矢報いる事ができればと。 人間の争いにしゃしゃり出てきた魔族に、目にもの見せてやれればと。 「………砲筒を構えよ」 雑木林の切れる辺り、憎い砦の城壁に対して、ギリギリ射程距離に入るという場所で、指揮官─アルバン・バトウィットは、携帯式の兵器を用意させた。 ユーリが目にしたら、おそらく嫌悪感に眉を潜める事だろうその兵器も、今は多くを「反乱軍」に奪われて、攻撃力としてはかなり情けない状態に陥っている。 だがしかし、敵を混乱させ、恐慌状態に陥らせるには充分のはずだ。砦に火を掛けるにも。 「……よく狙えよ……」 弾も数少ないのだから…。一列に並んだ砲手のすぐ後ろで、アルバンは片手をすっと上げた。 「…撃……っ!」 腕を振り降ろそうとしたその瞬間、目の前の空間が揺れ、同時に衝撃が彼の身体に襲いかかった。なす術もなく吹き飛ばされる身体。 何が、と開けた目に映ったのは、朱色に裂けた景色だった。 鋭い角度で空間を裂いた朱は、次の瞬間、劫火となって彼らの周囲を焼き始める。 ぶん、という妙な雑音だけが耳の中に谺し、何故か他の音が何も聞こえない。 暴発。 そんな言葉が、アルバンの脳裏に浮かび上がった。数少なくなった砲筒。大切に手入れしていたはずなのに……! 歯噛みしながら、枯れ木に縋り立ち上がる。だが。 次の、そしてまた次の衝撃が、彼らの身体を翻弄し始めた。 「………て、敵……?」 ようやく、アルバンの視線が砦に向く。 朱色の凶悪な帯は、間違いなく敵の本陣から、彼らを正確に狙って飛んできていた。 「奇襲が………」 見破られていたのだ。 呆然自失していたのは、ほんの数瞬。しかしそのわずかな間に、最前列にいた味方の砲手は、貴重な兵器と共に次々に吹き飛ばされていく。 奇襲は奇襲であればこそ、勝機を生むのだ。事前に察知されれば、もはやまともな攻撃にすらならない。 「……退却……! 退却だっ!!」 思いもかけない攻撃と、周囲を焼く炎に浮き足立っていた兵達は、その声を待っていたかの様に一斉に向きを変えると、身も世もない形相で走り出した。だがしかし。 まるで狙ったかの様に、彼らの向かう方向から、うおおっという雄叫びが響いた。 「……何っ!?」 木々の間を縫って、圧倒的に数の多い「反乱軍」が向かってくる。馬の、人の、走り寄るその地響きが、どんどんと近づいてくる。 ………………退路を断たれた。 アルバンは、剣を抜き、改めて敵の本陣に目を向けた。 いつの間にか、広々と空いていたはずの空間を、「反乱軍」の兵士達がぎっしりと埋めている。 先頭にいた誰かが何かを叫んだ。おう、と兵士達の剣が宙に突き上げられる。そして彼らは一気に、アルバン達のいる雑木林に向かって走り始めた。 「………もはや、これまで……」 背後で右往左往する味方の気配に唇を噛み締めた後、アルバンは剣を高々と上げ、声を限りに叫んだ。 「大シマロンの誇り高き兵士達よ! もはや我らに退却の道なし! いざ、今こそ我らの決意と、偉大なる大シマロンの武人としての矜持を、愚かなる謀反人共に知らしめてくれようぞ! 真なる勇者よ! 我に続けーっ!!」 おおっ、という叫びがそれに応える。だがその数は、アルバンが期待していたよりもずっと少なかった。 「目標は敵本陣! 雑魚に目を向けるな! 突き進めーっっ!」 どれだけの兵が自分に従って死地に向かってくれるのか。アルバンはそれを確かめるために振り返る事もせず、ただまっすぐに走り始めた。 「大シマロンの亡者共を蹴散らせっ!」 「新しき時代は、我らの手にあり!」 「守護天使よ、護らせたまえ!!」 最後の戦いが始まった。 「………大丈夫かな。大丈夫だよね。うん、絶対に大丈夫。でも…。ううん、何があったって、もちろん何もないけど…でもでも……大丈夫かな……大丈夫だよね……」 思考はループを繰り返す。 客間の窓にへばりついて、ユーリはひたすら外を見つめ続けていた。そして、ぶつぶつぶつぶつと、同じような言葉を呟き続けている。 ちなみに、窓の外はまだ真っ暗だ。夜明け前の、最も闇が濃くなる時間。戦場は彼らの部屋からは見えない。ただ何もない闇を、ユーリは瞳を凝らして見つめていた。 「……どうしよう……いいのかな、こんなトコで、俺……何もできなくて……」 「ユーリ」 ユーリの背後から、ヴォルフラムの厳しい声が飛んだ。ハッと振り返った視線の先には、腕を組み眉を顰めた元婚約者(ユーリの中では)が立っている。 「これは人間の国の、人間達の争いだ。たとえコンラートが関わっていようとも、我々魔族と眞魔国には関係ない。少なくとも、今はまだ、な。……いいか? 分かっているな? 何か手出ししよう等と考えるなよ?」 「わ…分かってるよ、そんなコト!」 ユーリがこの戦いに干渉すれば、それは即、眞魔国そのものの干渉となる。今それをしてしまえば、コンラッドの長い間の苦労が全くの無駄になってしまう。 「………分かってるよ……それくらい……ただ…」 ユーリが再び窓の外に目を向ける。 「誰も命を落としたりしなきゃいいなって……。大シマロンの兵士だって、立場が違うってだけなんだし……降参してくれればいいのに、そしたら……」 聞こえるか聞こえないかの小さな声で最後の言葉を呟くと、ユーリは唇を噛んだ。 「ねえ、ユーリちゃ…いえ、陛下」 「え? あ…はい、ツェリ様…?」 顔を上げて振り返ると、ツェツィーリエが真面目な顔で立っている。 「………?」 「最後の最後まで残った大シマロンの兵士達に、降伏という選択肢は残されておりませんのよ?」 「…え…っ?」 「母上? 何を……?」 きょとんとするユーリ、そしてヴォルフラム。控えるヨザックとクラリスも、ツェツィーリエのらしからぬ言葉に驚いたように目を瞠っている。 そんな彼らの態度を他所に、ツェツィーリエはゆっくりとユーリに近づき、その傍らに立った。 「既に戦いの帰趨は見えています。それでも大シマロンに忠誠を尽そうとする兵士達は、例え戦いに生き残ったとしても、捕らえられれば必ず処刑されます。いえ、処刑されなくてはなりません」 「……っ、ツェ、ツェリ様…っ!?」 「ははうえ…?」 「なぜなら」ツェツィーリエの言葉に淀みはない。「彼らを逃せば、いずれ不満分子を糾合し、新国家転覆を計る存在に成長する可能性があるからです。危険の芽は、決して残しておいてはなりません」 「……で、でも、ツェリ様。その人達だって、もう戦いたくないって、静かに暮らしたいと願っているかも知れません。だったら……」 「ええ、そうですわね。でもね、陛下。もしそう願う者がいたとしても、最後の最後まで大シマロンを護ろうとした者だという肩書きは、生涯彼らについてまわるのです。どんなに彼らがそれを隠そうとも、隠せるものではありません。そしていつか、不満分子が行動を始めた時、彼らは必ずその渦に巻き込まれることとなるでしょう。彼らの肩書きが、彼らを無事平穏に暮らさせることを許さないのです」 「…でも、でも、それは……」 「そうすれば、いずれは起こるかも知れない戦いで、流される必要のない血が、また大地を汚すことになりかねません。そうならないように、細心の用心をしなくてはならないのですよ」 「でも……」 「起こるかもしれない、起こらないかもしれない。可能性は限り無くゼロに近いかもしれない。それでも、その可能性がわずかなりともあるならば、最大の用心を払う。そのためには、どれほど臆病になっても構わないのです。例え、多くの人の命を奪う事になろうとも。それもまた……王の役目なのです」 その言葉に、ユーリはハッと顔を上げた。ツェツィーリエの厳しい視線が、窓の外の、どこでもない場所を見つめている。 「誰も傷つけたくない。全ての人を救いたい。皆が揃って幸せになる様に。その願いは素晴しいものです。しかしそのためにこそ、王は人の命を奪わなくてはならない時があります。特にこのような……戦争が起きた場合には。王は軍の最高司令官です。たとえ戦い方を知らずとも、一度も軍の指揮を取る事がなくとも、全ての責任を負うのが王です。味方を死地に追いやる事も、必要なら決断しなくてはなりません。負けた時にはその命をもって、国民を護らなくてはなりません。国家の未来の危機、国民の生命の危機を回避するため、あらゆる方法を、それがどれほど非情なものであろうと、選び、なし遂げなくてはなりません。どんなに辛くても、恐ろしくても、逃げる事は許されません。この地においては、エレノア殿がそれをなすでしょう。あの方は支配者の義務と孤独をよくご存じでいらっしゃる」 「……支配者の……義務と、孤独……」 「ええ、そうですわ。……もしも、大シマロンの兵士達を捕らえたならば、エレノア殿は迷わず処刑するでしょう。人の命を奪えと、それを自らの口で命じる事がどれほど恐ろしくとも、あの方はその感情を一切表には出さず、堂々と胸を張って、その宣告をするはずです。王たる者は、頭を誇らしく上げて、時には血を被らなくてはならないものなのですよ。………ですから、王とは限り無く業の深い、そして哀しいまでに孤独な存在なのです」 「……ツェリ様……」 「グウェンダルにしろ、コンラートにしろ、貴方の側に仕える者は、貴方にそんな思いをさせまいと必死です。その辛さ、苦しさを、彼らはあまりにもよく理解しているから……。ごめんなさいね、陛下。突然こんなことを言い出して、さぞ驚かれたでしょうね?」 「…あ、あの……」 どう答えていいのか分からないまま、ユーリはツェツィーリエを見つめた。その視線を受けて、かつての王が微笑む。 「………こんな戦場のまっただ中に来てしまって、さすがの私も色々と考えてしまいましたわ。……でもね、陛下、私は貴方に私の様になって欲しくない。私がしたような後悔を、貴方には絶対に味合わせたくないのです」 「……え?」 「だって……私は逃げましたもの。王の義務の全てから……」 ツェツィーリエの瞳が、切なく曇った。 「戦争が嫌なら、戦わないと宣言すべきだった。そうしてギリギリまで別の道を探すべきだった。兄の好き勝手にさせるべきではなかった。国土と国民を護るため、私でなくてはできない事がきっとあったはずだった。………でも、私は結局何も言わず、何もせず、ただ流されるままになりました。そして、戦争が始まってからは、目も耳も塞ぎ、楽しい事、美しいものばかりを追って、全ての責任から逃げました。………その結果、碌な策も展望もないまま、兄の面子と欲望を満たすためだけに始められた戦争で、無辜の民の命が無惨に散っていきました。兵士達も、どんな酷い命令にも、これが国を護るため、家族を護るためと信じて従い、死んでいきました。そして……ご存じですわね? 私がなすべき事から逃げた結果、私の愛する息子に、それはもう死ぬより辛い思いをさせてしまった事を……」 「……ツェリ様……」 「王が為さねばならない事には、国民を喜ばせるだけではない、決断の辛い事も、人から憎まれる事も、己の理想を裏切る事もあるのです。しかし、それを為さねば国が立ち行かぬなら、王はその決断と実行から逃げてはいけません。いつかきっと、貴方にも何かしら決断の時がくるでしょう。その時には決して、私の様に逃げて逃げて、その苦しみを誰かに押し付けることなく、ご自分の為すべき事を、過たず為し遂げて下さいませ」 静かに、この人が浮かべるとは思えない程静かに哀しい笑みをユーリに投げかけると、ツェツィーリエはそっと小さな王の頭を両腕の中に抱き込んだ。そして頬を合わせるようにすり寄せ、ユーリの耳に小さく言葉を送った。 「……そして、ね、陛下。きっときっと、コンラートを幸せにしてやって下さいませね?」 ああ、私、お喋りし過ぎて喉が乾いてしまったわ! 黄金の髪とドレスを艶やかに翻して、元女王はユーリから離れていった。その姿に、思わず詰めていた息をほうっと吐き出して、ヴォルフラム、ヨザック、クラリスの3人が動き出す。 「…ユーリ…?」 ユーリの傍らに歩み寄ったヴォルフラムが、心配げにその顔を覗き込んだ。 「ユーリ、あまり深く考え込むな。お前の頭で考え過ぎると、知恵熱が出るぞ」 「……悪かったなっ。つか、子供扱いすんな!」 がう、と噛み付くと、だがすぐにユーリは表情を改めた。なあ、ヴォルフ? と、どこか頼り無げな上目遣いで友人を見る。戸惑った様に、ヴォルフラムがぎくしゃくと視線を外した。 「…な、なんだ?」 「俺……辛い決断も、命令も、今まで全然したことないよ」 「する必要がないからだ。我が眞魔国は、戦争もなく、平和と繁栄を誇っているのだからな」 「でも……。な、ヴォルフ。俺……ずっとグウェンやコンラッドやギュンターやお前に、護られてきたんだな……?」 「今さら何を言ってる。王を護るのは、僕達の役目だ」 「うん、でも……ツェリ様が……」 「へなちょこ魔王が何を悩む? 今のお前に、国家の存亡に関わる重大な決断ができると思っているのか? 物事にはな、適切な時期というものがあるんだ。お前はまだまだ学ばなくてはならない事が山の様にあるし、精神的にももっと成長しなくてはならん。お前がそれだけの成長を遂げてみせれば、兄上や僕だって、王としてのお前の決断を求める気にもなる、かもしれん。……母上のお言葉は、帝王教育の一分野だと思え。王の覚悟のあり様というものだ。今すぐどうこうしろと言うものではない。大体、母上の言われた事の半分も、お前が飲み込めているとは思えんぞ。……今は母上のお言葉を忘れず、胸に大切に仕舞っておけ。そして、学びながらゆっくりと考えていけばいいんだ。……分かったか?」 うん、と頷いて、ユーリもようやくホッと肩の力を抜いた。焦らなくてもいいのだと言われて安心して、そこで初めて、自分がものすごく緊張していた事に気づいた。いや、緊張はずっと前からしていたのだが……。 「…ツェリ様は……」 「何だ?」 「………ううん、何でもない」 頭を振って、窓の外に目を遣る。……ほのかに東の空が白んで来たようだ。 あの人もまた、過去の傷にずっと苦しめられて来たのだ。 いつも天真爛漫に振る舞っているその胸の内で。ずっと。 「………俺、絶対幸せになるんだ。コンラッドと二人して。絶対……」 何も聞こえなかったような顔で、ヴォルフラムはユーリの傍らに並んで立った。 「早く終わればいいな。……何事もなく帰ってきてくれれば、もうそれだけで……」 誰が、とも言わないまま、祈る様なヴォルフラムの言葉に、ユーリも深く頷いた。 「手負いだからといって、油断するな! 捜索は必ず複数で行え!」 決戦は、予想以上の短時間で終結した。 奇襲の失敗に浮き足立ち、狼狽のあまり混乱の極に達した敵に、もはやまともな抵抗などできようはずもなく。嵐に翻弄される哀れな羽虫の様に、彼らはなす術もなく傷つき、倒れていった。 もう間もなく夜明けを迎えようとする今、新生共和軍は、詰めの掃討と隠れた敵のあぶり出しに掛かっている。 「味方の被害状況は?」 馬上で指揮を取るコンラートの元に、途中経過の報告のため、兵士が駆け寄ってきた。 「は。軽傷者がかなりおりますが、重傷者は1人もおりません! もちろん戦死者もです! このような戦闘で、これほど死傷者が出ないことは今までになく、皆、守護天使の御加護だと申しております…!」 貴方の大切な姫君の事だ、と、兵士の笑顔が語っている。それにかすかな苦笑を返して、コンラートは兵士を戻らせた。 「……姫君……じゃないんだけどな……。いや……丸っきり間違ってるという訳でも……ない、のか…?」 いや、やっぱり違うだろう。 「コンラート」 この誤解を解くべきなのかどうか、ちょっと悩んでしまったコンラートに、聞き慣れた女の声が掛かった。 「…カーラ。どうした? 状況に変化は?」 「………いや。別に……」 轡を並べる様に馬を進め、カーラはコンラートのすぐ側までやってきた。 カーラの顔が、固く、どこか暗い。訝しい思いで、コンラートはカーラの顔を伺い見た。 「カーラ? どうかしたのか?」 「コンラート、あの……」 そう言って開いた口を、カーラは慌てて閉じた。 ………私は、どうかしている。 まだ戦いは終わった訳ではないのだ。私にはやるべき事がある。それなのに……。 カーラの脳裏に、一つの光景が浮かび上がる。 敵が動いたと伝令が飛び込んできたその時。 砦の兵達は、かつてないほどの意気込みで、決められた配置場所に向かって走り始めた。踊り場の下に立つ、たった1人の少女が、兵達を士気をあれほどまでに湧き立たせたのだ。 そしてカーラもコンラートも、なすべき事をなすために、行動を開始した。 共に剣を携え、指揮所となった踊り場から階段を降り、少女の傍らを行き過ぎようとしたその時。 コンラートがふいに、少女の腰を引き寄せ、広い胸に抱き寄せた。そして素早く、額に、頬に、そして…唇に。口づけた。見つめあう、二人の視線が一つに繋がる。 ………あれは、親子の眼差しではなかった。 男と女。思いあう男女。紛れもない、恋人同士の……。 その光景が、じくじくと膿んだ傷の様に胸を疼かせ、全ての思考と感情を、あるべきではない方向へと誘うのだ。 ほとんど戦闘らしい戦闘に参加する事もなく、前線本部と決めた場所に佇んでいる間、ずっとその光景と胸の疼きに耐えていた。そんな場合では全くないというのに……。 ふと気配を感じて隣を見ると、コンラートが馬から下りるところだった。 「コンラート?」 「少し現場を見てくる」 雑木林は、馬より徒歩の方が動きやすい。それだけ言って歩き始めた男の後ろ姿に、カーラも慌てて馬を下りた。 「コンラート! わ、私も一緒に行く!」 枯れ、白茶けた木々が無造作に並ぶ林の中で、多くの兵達が敵兵の姿を求めて辺りを探っている。 その中を、カーラはコンラートと並んで歩いていた。 ふと木々が切れ、何故かぽかりと空間の開けた場所で、カーラは足を止めた。 「……お母上、が……」 ………ああ、私はこんな場所で何を言おうとしているのだろう……。 「母上? 俺の母のことか? 母が何か……?」 「……コンラートを、連れて帰ると……。その……コンラートは……結婚を控えていると仰って……」 「結婚!?」 素頓狂な、あまりにも似つかわしくないひっくり返った声で、コンラートがその単語を口にした。 「…け、けっこん…!? 俺、が……?」 「お母上が、確かにそう…。違うのか……?」 思わず声が弾む。だがコンラートは瞬く間に顔を赤く染めると、狼狽えた様に口に手をあてた。 「……結婚、なんて、そんな……」手の下で、声がくぐもって聞こえる。「そんなこと、まだ俺は……まだ…。いや、確かにそう……でも、そんな……」 「国で、婚礼衣装をしつらえるための仕立て屋が、手ぐすね引いて待っている、と」 バッと勢いよくカーラに向き合うと、コンラートはまじまじと、その言葉の発信元を見つめた。だがすぐに、ふうーっと疲れたような深い息を吐き、がくりと肩を落とした。 「……母上はまた……全くもう…………求婚どころか俺はまだ……」 やれやれと、それでも落ち着いたのか、苦笑を浮かべてコンラートが顔を上げた。 「…………私たちと共に、国造りをしてくれるのではなかったのか…?」 はっと、コンラートの表情が変わる。 「真のベラール王家の直系として、その民を護るために力を尽す。それがあなたの願いではなかったのか?」 「……カーラ」 「だからこそ、私は、いや私たちは、あなたが、コンラート・ウェラーこそが王だと。本物の、私たちの王なのだと信じて……。だから皆必死で戦ったのだ。あなたが王位に登ることを夢見て、そのためにこそ! あなたは王位を拒んだけれど、でも、あなたとて、民のために、民と共に生きるために戦ったのではなかったのか? それなのに……」 自分達を放り出して行くのか。あの時のように、また。そして、身の内の半分だけが属する、人間のものではない国に行き、その国の女と結婚するのか。それならば、なぜ。 「………何のために、あなたはここへ来たのだ…? なぜ、戻って来た……?」 「…カーラ」 何の感情も交えないコンラートの声が、ひどく冷たく、カーラの耳に響いた。 「それについては、これが全て終わったらきちんと話そう。最初から……そのつもりだった。……だが、何より今は、そんな事を云々するべき状況じゃない。それが分からない君ではないだろう。まだ何も終わってはいないんだぞ?」 ………分かっている、そんな事。カーラは唇を噛んだ。そして、もうそれで話は済んだとばかりに踵を返して歩き始める男の背を、きつく睨み付けた。 「コンラートッ!」 男が振り返る。 「…コンラート、私は……!」 ……何を言おうとしているのだろう。何が言いたいのだろう。私は。 側に居て下さい。一緒に居て下さい。あなたの隣を、私の居場所にさせて下さい。共に人生を歩ませてください。私を…見て下さい。 ……コンラートと見つめあう、少女の横顔が目に浮かぶ。 ああ。 バカだ、私は。本当に救いようのない大バカだ。 何を格好をつけていたのだろう。何を気負っていたのだろう。「女」を馬鹿にして。「女」を捨てたつもりになって。そして、私は……。 心の中が酷く乱れて、思いが何も言葉にならない。視界が霞んで揺れた。 「……私、は……」 ふいに。 離れて立つ男の雰囲気が変化した。歪む視界の中で、コンラートが腰の剣を抜くのが分かった。 「カーラッ、危な……っ!」 反射的に振り返る。何かが、いきなりカーラを突き飛ばした。……そんな、感触。 「……………え……?」 「カーラッ!!」 血飛沫が。 ………いったい、どこから……? そのまま、カーラの意識は消えた。 ゆうるりと、東の空に光のグラデーションが浮かび上がる。 それだけ見れば、いつも通りの平和な朝の訪れだ。 「……でも、みんな……戦ってるんだよね……」 この朝の光を、皆と一緒に、笑顔で眺める事はできるだろうか。 「ユーリ、少し仮眠を取れ。お前、一睡もしていないだろう…?」 「…全然眠くない……」 コンラッドが、そしてここで得た友人達が、今この時も剣を手に戦っているのだ。眠る事などできるはずもない。 「……お茶にしましょう。私たちにできる事は、祈って待つ事だけですもの」 徹夜明けとは到底思えない艶やかな顔と声で、ツェツィーリエがそう言った。既に用意していたのか、クラリスとヨザックが、テーブルを仕立てていく。 ……お茶を飲んで、顔を洗おう。それから……。 少しぼんやりと考えながら、ユーリは窓の側を離れた。テーブルまでほんの数歩……。 『……………………ッ……!!!』 頭を殴られたような衝撃を感じて、ユーリはびくん、と動きを止めた。 「…………叫んで……る……」 悲痛な、人の叫び。怒号と悲鳴。そしてそれにシンクロする様に。 大地の奥の、ずっと奥。 そこで何かが泣き叫んでいる。 「………ユーリ? ……ユーリッ!!」 いきなり部屋を飛び出したユーリの背に、ヴォルフラムの声が響いた。 行かなきゃ。行かなきゃ。行かなきゃ。 迷う事はない。行くべき場所は分かっている。 「……ユーリッ、待て! どこへ行く気だ!? 今どうなってるか分かってるのかっ!?」 「行かなきゃダメなんだ! 俺が行かなきゃっ!」 後を追いかけて来たらしいヴォルフラムにそう叫ぶと、ユーリはさらに足を早めた。が、すぐに誰かが前に回り込み、行く手を阻んだ。 「………っ!」 「はい、そんなにお急ぎになると、また転びますわよぉ」 勢いを止められず、胸に転がり込むような形になったユーリを支えると、ヨザックが笑いながらそう言った。だが、ユーリの肩を掴む力は強い。 「……ヨザ、離してくれ」 だがヨザックは大きく首を左右に振る。 「ここは戦場です。そんな場所を、何も分からない貴方が突っ走っていいはずはありません。どうしても行かなくてはならない理由がおありなら、今仰って下さい。その上で、お供させて頂きます」 筋の通ったヨザックの言葉に、ユーリは大きく息をついた。いつの間にか、ヴォルフラムだけではなく、クラリスも、そしてツェツィーリエも傍らに立っている。 「……あの空き地だと思う。誰かが叫んでるんだ。助けに行かなきゃならない、と思う。それと繋がって、たぶんあれは精霊だと思う。…この地の、最後に残った意識が、一緒になって叫んでるんだ。それが……聞こえる……。何ができるか分からないけど、聞こえてしまったんだ。だから……行かせてくれ」 ほとんど要領を得ない。しかしヨザックはため息を一つ零しただけで、ユーリから手を離した。真剣な眼差しで行く手を見つめるユーリを除き、4人が小さく頷きあう。 「…では、参りましょうか」 「……ユーリ!!」 その叫びに、集まっていた人々が一斉にこちらを向いた。 「ユーリ! ああ、ユーリ、そうよっ、あなたがいるわっ!!」 最初にユーリを見つけ、そして必死の形相で駆け寄って来たのはアリ−だった。 あの、雑木林の中にぽっかり空いたくぼ地。そこに暗い表情の兵士達が集まり、何かをじっと見つめていた。そしてふと見れば、彼らの後方、くぼ地の切れ目に、赤黒い液体に濡れた、遺体らしき身体が転がっている。思わずぎゅっと目を瞑り、ユーリはその光景から顔を背けた。 「ユーリ、あなた言ってたわよねっ? 病気の人を治す事ができるって。傷を癒す事ができるって!」 アリ−が、ユーリの袖に縋り付いた。 「お願い、ユーリ! お姉さまを助けてっ!!」 進む毎に、人が左右に避けて道を作ってくれる。その細い道を、ユーリ達は進んでいった。 「……コンラッド……? ………あ…カーラさん!」 「ユーリ、どうしてここに……」 くぼ地の真ん中に横たえられているのは、血に塗れたカーラだった。傍らにコンラートとレイルが跪き、やはり血だらけの手に布を持っている。すぐ近くにはクォードら、ユーリ達が親しくなった友人達が皆集まり、厳しく引き締まった顔で死相の浮かんだカーラを見下ろしていた。 「……潜んでいた敵に、いきなり……。今、コンラートが血止めを…。でもすごい出血なの! このままじゃ、砦に着く前にお姉さまが死んじゃう! ユーリ、助けてくれるでしょ!? お姉さまを助けてくれるわよねっ!?」 呆然とするユーリの腕を、アリ−がぐいぐいと引っ張っていく。 「待て、アリ−! それはできない!」 「どうしてですか!? コンラートッ」 アリーを止めようとするコンラートに、レイルが叫ぶ。 「僕も聞いてます! ユーリは癒しの魔力を持ってるって! だったらそれで……!」 「癒しの魔力だったら僕の方が上だ!」 ユーリの腕を掴むアリ−の手を無理矢理離し、怒鳴り付ける様にヴォルフラムが言った。アリ−とレイル、そして顔を見知った幾つかの顔が、期待を込めてヴォルフラムを見る。 「いいえ。私の方が上ですわね」婉然と息子を遮るのはツェツィーリエだ。「でも、できないんですのよ。どうかお許しになって」 「どっ、どうして!?」 アリ−の声は、もうほとんど悲鳴だった。 「魔族は、人間を救っちゃいけないとか、決まりでもあるんですかっ!?」 いいえ、とツェツィーリエが首を振る。 「違いますわ、アリーさん。……魔族は、魔族の土地でなくては力を奮う事ができないんです。魔王陛下の祝福を受けた土地、魔族と精霊が盟約を交わした土地でなくては、どんなにがんばっても、まともな魔力を使う事ができないんですのよ。使いたくないのではなくて、使いたくても使えないのです。……ですから、どうか……」 「まともな、ってことは、ちょっとだけなら良いんじゃないんですかっ?」 それでも、とレイルが食らいつく。 「ちょっとだけ、ほんのちょっと傷を塞ぐとか、血を止めるとか、それだけでも……!」 「人間の土地で無理に魔力を使えば、魔族は命を落としかねない。俺はそんな危険を、彼らに犯させるつもりはない」 容赦なく、コンラートが宣言する。愕然とした顔で、アリ−とレイルがコンラートを凝視した。 「……コンラ−、ト……。お姉さま、なのよ? カーラお姉さまが…死にかけてる、のよ……? なのに? 助けたいって……思ってくれない…の……?」 「助けられるものなら、俺も助けたいと思う。だが、この土地で魔力を使うのは自殺行為だ。そんな真似は絶対にさせられない。……済まない。とにかく……」 「カーラッ!」 切羽詰まった叫びが兵の背後から上がり、人の壁が一気に崩れた。そしてその間を縫う様に、エレノアとダード師が駆け込んで来た。 孫の姿を目にして、エレノアが一瞬、棒を飲んだ様に立ちすくみ、そしてへなへなと崩れ落ちた。 「……おお、何という事だ……」 ダード師がカーラの元で膝をつき、そっとカーラの血まみれの手を両手の中に包んだ。 「カーラ、聞こえるかね? 何か、残しておきたい言葉を……」 「老師、最期の言葉を聞くには、まだ早いですよ。一応の血止めはしました。今からカーラを砦に……」 「俺、やってみる」 ざわついていた場が、一瞬、しんと静まった。アリ−とレイルの目が期待に輝く。何を、とエレノアとダード師がユーリを見上げる。 「カーラさんの傷、俺の魔力で塞いでみる」 クォード始め取り囲む兵士達から、「おおっ」と、感に堪えた熱い声が一斉に漏れる。逆に、コンラートとツェツィーリエ、そしてヴォルフラム、ヨザック、クラリスが、びくりと身体を震わせ、凍りついた様に動きを止めた。 だが、ユーリがまっすぐにカーラに向かって歩を進めた瞬間、目が覚めた様に、コンラートがその前に飛び出した。 「ダメだ、ユーリ!」 その叫びに呼応するかの様に、ツェツィーリエ達もまたユーリの肩に取り縋った。 「だめよ、ユーリちゃん、絶対に駄目!」 「お前がこんな所で命を懸けてどうする!? 止めるんだ、ユーリ!」 「皆、手を離して。コンラッド、そこ退いて」 コンラートが激しく首を振る。そしてユーリの肩をしっかりと掴まえた。 「退かない。絶対に……退きません。人間の土地であるというだけで危険なのに、分かっておいでなのですか? ここは精霊すら死に絶えた場所なのですよ!」 「精霊なら……」 ここに存在している、はずだ。この場所の、ずっと奥に。 「…考えがあるんだ。コンラッド、お願いだから、手を離して。俺に試させてくれ」 「いいえ! 何を試すと仰るのですか!? 何かを試して、失敗したらどうなさるおつもりです! その時に、貴方のお命に何かあったら、俺達はどうすればいいのですか!」 「コンラートの言う通りですわ。お願いです。何とぞお留まり下さいませ!」 何か……様子が、変だ。 アリ−は、そしてレイルもエレノアもダードもクォードも、ユーリ達と親しくなった全ての兵達も、目の前で繰り広げられる光景に、何かとんでもない違和感を感じて、半ば呆然と目を瞠いていた。 「……なんだか、コンラート、変、だわ……?」 本当に。とっても。変、だ。 「…戦争なのです。つい先ほどまで、我々は戦っていたのです。カーラの事は……運命としか言えません。仕方のない事なのです。どうかお願いです。お下がり下さい!」 「コンラッド、俺は……」 「何とぞ! 陛下!!」 「………へ、いか……?」 訝しげな、小さな呟きが、沈黙の下りたその場に、不可思議なくらい大きく響いた。 ハッと、コンラートが表情を凍らせる。 そのコンラートの頬に、ふと優しい何かが触れた。 「………ユーリ……」 ユーリが、微笑みを浮かべながら、コンラートの頬に指を滑らせている。 「だから。いつも言ってるだろう? 陛下って呼ぶな、名付け親」 「なあ、コンラッド。俺が生まれる時、どんなことを願った…?」 突然のそんな問いかけに、コンラートはただ目を瞬いてユーリを見返した。 「どんな人に、どんな王になって欲しいって思った?」 「それは……」 「できるかも知れない事から、自分の命大事に逃げ出すような、そんなヤツになって欲しいと思った?」 「…! ユーリ、それは……っ!」 意味が違う。だがそう続く言葉を遮る様に、ユーリが言葉を紡いでいく。 「でもここで逃げたら。俺はずっとそんな思いを抱えて生きていく事になる。助けられたかも知れない命を見捨てて、俺は自分可愛さに逃げ出したって」 「陛下、それは違いますわ」ツェツィーリエが二人の間に割り込んだ。「陛下には、何よりご自分のお命を大切にして頂かなくてはなりません。危険を避け、御身の安全を図るのも、王がなさねばならない重要な事柄でしてよ? もし陛下が責められるとしたら、むしろ逆の場合、危険に身を晒す事の方ですわ」 「…………ツェリ様」 ユーリはツェツィーリエに視線を向けた。 「ツェリ様、夕べ俺に王の覚悟についてお話して下さいました。俺は……正直言って、教えて頂いた事が全部理解できる訳じゃないです。理屈では分かるんだけど、まだ染み込まないっていうか……。だから、こんなコト言うの、許して下さい。俺……」 ユーリはそこで改めて、自分を囲む近しい人達を見回した。 「国や民のために犠牲にしなくちゃいけない事も、きっとあるんだろうと思います。その時に、俺がちゃんと決断できるのか、その自信、俺まだ全然ないです。だけどツェリ様、仰いましたよね? 逃げるなって。すべきことから、決断して実行する事から逃げて、苦しみを人に押し付けるなって。俺、そこだけは分かります。分かるような気がします。……ツェリ様が考えてた事と違うかも知れないけど。でも俺、やれると思うんです。今ここで、やれる事があると思うんです。……根拠は、何もないんですけど。でも、俺がここにいる理由が、今目の前にあるような気がするんです! ……お願いします」 自分の部下達に、勢い良く、深々と頭を下げる。 「やらせて下さい。俺に、俺がやらなきゃならないと思う事から、逃げ出したりさせないで下さい。どうか、お願い!」 「……陛下……」 魔族達が、そして人間達が、頭を下げたままの少女─もしかしたら少年─を、言葉もなく見つめる。 そして。 すっと、ツェツィーリエがその場を下がった。そして数歩離れた場所で、優雅に膝を折る。 一拍遅れて、コンラートが、そしてヴォルフラムとヨザックとクラリスが、その場に膝をつき頭を垂れた。 「御意」 ユーリが頭を上げる。その顔に、晴れやかな笑みが浮かんだ。 「ありがとう」 プラウザよりお戻り下さい NEXT→
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