精霊の日・8 |
陣の灯が届くか届かぬかの距離で、3人の少年兵達は地面に放り出された。 反乱軍との戦いで、さんざん傷を負わされていた兵士達が、剣を抜いて彼らを囲む。 「……こんな下っ端では大した威嚇にもならんがな。お前達の首、先陣の槍に突き刺して、謀反人どもにその末路を示す証としてくれるわ。……光栄に思うがいい!」 そう言うと、剣を構えて少年達に迫る。その時。 くすくすと、場にそぐわぬ明るい笑いが彼らの背後に響いた。 「…な、なんだ……?」 振り返った視線の先に、同じ大シマロンの兵服を纏った男が笑いながら立っている。 「………お前は……?」 「いや別に。ただね、こんな子供の首を掻き切ろうなんてヤツらのどこに、正義だの誇りだのがあるんだろうって思っちまってさ」 何を、と問う間もなかった。笑みを浮かべたまま、男は兵士達の虚を突く様に一気に間を詰め、彼らがそうと気づく前に、全員を地に沈めてしまったのだ。 何が起きたのかさっぱり理解できない顔で、少年達は目の前の光景を見つめた。 一体いつの間に抜いたのか、男の手には剣がある。そしてその足元に……ひい、ふう……5人の兵士達。 ではこの男がたった一人で、瞬く間に5人もの屈強の兵士を倒したと……? 「ほら、ぐずぐずすんじゃねーよ。こっちへ来な」 さっさと少年達の縄を切り解くと、男は陽気な声で彼らを促した。 「……あ、あのっ、あなたは……」 慌ててついて行った先には、馬が三頭繋がれている。 「さ、これに乗って砦に走れ。コンラッドに全部伝えろ、いいな? ここのヤツらが、いつどんな方法で砦に向かうか分かったら、俺もすぐに後を追う」 「…コンラートに? あっ、じゃあ、味方なんですねっ!? あのっ、お名前は……」 「んな事言ってるヒマはねーの。コンラッドがちゃんと分かってる。ほらっ、さっさと行け! 砦の命運はお前達に掛かってるんだぞ!」 「あ、は…はいっ!!」 さっと敬礼すると、少年達は馬に飛び乗った。そして男に一礼すると、一気に走り出す。 「…………やれやれ」 大シマロンの兵服を身に纏った男は、ふう、と息をついて兜を脱いだ。 もうほとんど闇に沈んだ森の中で、男─ヨザックは、転がる兵士達に目を向けた。 「んじゃまあ、こいつらを始末して、と。………たくもう、時間外勤務もいいトコだぜぇ。俺の今回の任務は坊っちゃん達の護衛だってのによお。……後で手当はしっかり請求させてもらうからな?」 ヨザックは、砦の方向に顔を向けて、にやりと笑った。 「覚悟しとけよ。た・い・ちょ・お・」 「……だからグリップはこうだってば。打ち上げるよか、地面に叩き付ける気持ちでさ……」 「僕はちゃんとやっている! 球が当たらないのが悪いんだっ!」 「ただバットを振り回せばいいというものじゃないんだぞ?」 「だからっ、どうして三回振っただけで交代させられるんだ!?」 「それをサンキューサンシンっていうのよ。つまり下手くそってコト!」 「ヴォルフさんのは、ぼーるは全然飛ばないけど、ばっとは遠くまで飛ぶよね」 「やっぱり下手くそ」 「何だとーっ!」 「悔しかったら、一度くらい私のぼーるにばっとを掠めてみなさいよ!」 ゾロゾロと賑やかに、その一団が食堂に入ってくるのを、カーラは複雑な心境で見つめていた。 妹アリーと従兄弟のレイル、そしてコンラートとユーリ、ヴォルフと呼ばれるコンラートの弟、彼らの従者であるクラリスと名乗る女、それから彼らに付き従う様に、数人の中堅幹部級の兵士達。 カーラがそれと気づかぬ間に、妹と従兄弟はユーリ─コンラートの養い子と驚く程親しくなっていた。そして今では、何とか言う眞魔国の遊びを教えてもらい、すっかりそれに夢中なのだと言う。妹達ばかりではない。砦の若手兵士を中心に、かなりの人数がその遊びに参加して、練兵もままならないと指揮官級の幹部達がぼやいている。 「…このようにあっさりと魔族と親しくなるというのは、些か問題なのでは……?」 年輩の、ある国の将軍だった人物が、眉を潜めてそうエレノアに訴え出ていた。 コンラートの家族が、自分達に含むものがあるのは分かっている。だがそれは公平に見て、決して悪意とまでは言えないだろう。彼らは家族の一人を、戦場から取り戻したいだけなのだ。 とは言え、魔族との関係をどうすべきか、新生共和軍としての結論はまだ出ていない。魔族が信頼に値する種族かどうか、疑う者も数多い。一部の者だけが、なし崩しに関係を深めていってよい訳がないのだ。下手をすれば、味方が割れる。 ……アリーもレイルも、それが分からないはずがないだろうに……。 まるで長年の友人であるかのような、少女と話を弾ませている妹と従兄弟、そして若い将兵達の姿に、カーラは胸をひどく苛つかせ、その美しい眉を顰めた。 本来なら、アリー達を糾弾する声はもっと大きくなるはずだった。しかし、その急先鋒となるべき人、クォードがいきなりとんでもない変化を起こしてしまったのだ。 ……あの日のクォードの狂態ぶりに、カーラの眉は更に曇った。 やたらと押し出しが強く、行動の全てが派手な男ではあるが、一国を預かるに足る知性と胆力、そして判断力、政治力、その他あらゆる点において抜きん出た実力を持つと認められていた男が。 魔族の少女、ひどく幼げで、これといって見栄えもしないコンラートの養い子に、いきなり求婚するという突拍子もない行動をとったのだ。 コンラートを己の懐刀とするための布石だと見る者も確かにいるが、それにしては………。 カーラは小さくため息をついた。 ……以来クォードは、魔族を忌み嫌って見せるどころか、呆然と見守る一同を後目に、魔族の少女ユーリを掻き口説くことに必死になっている。もっともその口説き文句は、本人に届く前に、コンラート達によってことごとく跳ね返されているのだが。 「おお、我が麗しの姫!」 今も何やらきらきらしいものを手に、クォードがユーリに近づいていく。 その途端、ひょいとユーリを抱き上げたコンラートが、クォードを無視してすたすたと夕食のテーブルに向かい、クォードはというと、コンラートの弟に行く手を阻まれ、なにやら言い合いを始めている。 幹部の中には、少女が魔力を用いてクォードを狂わせたのではないかと疑う者も実はいた。 しかしどう見てもあの少女に、魔力で男達を狂わせ、手玉にとって楽しむような雰囲気は微塵もない。むしろアリー達と賑やかにお喋りをしたり、少年の格好で、泥だらけになって外を走り回っている方が楽しそうだし、いかにも似合っている。 なぜあの娘なのかと、近しい者が何度も尋ねたらしいが、クォードはその度口を濁しているという。だが、少女が魔力を使ったという説はきっぱりと否定したらしい。それだけでなく、「我が姫を侮辱する者は、このクォードが許さん!」と、剣まで抜いて宣言したという話もカーラは耳にしていた。 魔族達が、砦の者に対して悪意を持って魔力を使ったという説に、最初に首を横に振ったのは祖母エレノアだった。 「もし彼らが、何か策略があって殿下に魔力を使ったとすれば、そもそも殿下があれほどすげなく扱われている理由がないでしょう」 そうだ。カーラはそれを内心、首を傾げる思いで考えていたのだ。 魔力は一切関係ないとして。他の魔族が人間を厭うのは分かる。だが。 ……だが、どうして。コンラートまでもが、こうもクォードの接近を嫌うのだろう。 クォードは、新生共和軍が元シマロンの地の政権を握った後、間違いなく高い地位に就くだろう。それはおそらく、限り無く王位に近いものになると、カーラは考えている。 自分の娘が、そのクォードの妻となるなら、決して悪い縁ではないはずだ。クォードの人となりについては、コンラートも認めていたはずなのだし……。 クォードと繋がるのは、コンラートにとっても有益なはず。コンラートが……ずっとこの地で、指導者として生きていくつもりでいるのなら。そこまで考えて、カーラは胸に湧き上がる苦いものに、きゅっと唇を噛んだ。 もしも。もしもコンラートに、そのつもりがなかったら……。 「……申しあげますっ!!」 食堂に兵士が駆け込んで来た。 皆が一斉に注目する。 「…あら? アドヌイ達だわ」 兵士の後ろには、三人の少年兵が、強ばった顔で肩を荒々しく上下させながら立っていた。 砦は一気に戦闘態勢に入った。 「……コンラッド……」 ユーリは不安そうに顔を曇らせ、着々と準備を整えるコンラートを見つめていた。 「……コンラッド……」 「ユーリ」 コンラートはユーリの肩を抱き寄せ、その小さな頭を両腕の中に抱え込んだ。そして両手でユーリの頬を包み込み、そっと顔を上向かせた。 ユーリの瞳、今はコンタクトで茶色に輝く瞳が、不安と当惑に揺れている。 「…コンラッド………戦いに、なる、の…?」 「シマロンの残党が砦を襲うとなれば……迎え討たなくてはなりません」 「コンラッドも……戦うんだ、よね……?」 「はい」 きっぱりと頷くコンラートに、ユーリの身体が小さく震えた。 「……もちろんこれが初めてなんかじゃなくって……。ずっと……ここで、コンラッド、ずっと、戦ってきたんだよね……?」 「…ええ。そうです」 「…………………………殺す…の…?」 「……ユーリ……」 ごめんっ!! 一瞬、答えに窮したコンラートの胸の中に、ユーリが飛び込んで来た。 「ゴメンっ、なさい! ここで、この場で、そんなコト……俺……」 「ユーリ」 コンラートの大きな手が、ゆっくりとユーリの背中に回る。 「………戦争がいいことのはずはないんです。人を……殺すことが、正しいはずはないんです。だから、あなたがそれを嫌うのは、誰一人傷つけずにと願うのは、当然のことなんです……。ですが……」 「分かってる……。分かってる、つもり……。ごめんなさい……」 もうとうの昔から戦いは始まっており、その勝負がつかない限り、殺し合いと流血は治まらない。 「俺は、この争いを一刻も早く集結させるためにここに来ました」 うん、とコンラートの胸の中でユーリが頷く。 「延々と血が流され続けるのを止め、一日でも早く、この地に平和が訪れるようにするために」 うんうん。ユーリが頷く。 それでも。コンラートの声に痛みが加わった。 「……そんなことは、俺の手が血に汚れていることのどんな言い訳にもなりません。………ユーリ」 思わず顔を上げる。その視界に入ったコンラートの顔は、ひどく苦しげで、悩ましく、そして頼り無げにすら見えた。 「……ユーリ……俺は、俺の手は……俺は……」 やはり、俺はあなたには……。 突然恐ろしいことに気づいたかの様に、どこかうろたえて、コンラートがユーリから離れようとする。 瞬間。ユーリはコンラートの両の手首をしっかりと捕まえた。 そして、剣を握り、命を屠り、そして同時に大切なものを護ってきたその両の掌に、交互に何度も、切なくなる程恭しく、口づけを繰り返した。それからその掌を、ゆっくりと、強く、自分の頬に押し当てる。 「………ユーリ……」 「帰って来て。無事に、怪我したりしないで。俺のところへ戻って来て」 俺が言いたいことは、ただそれだけ。 そう告げると、じっとコンラートの瞳を見つめ続ける。 ユーリの頬の温もりが、ゆっくりとコンラートの手に伝わってきた。今、ようやく。 「……はい。ユーリ、必ず」 二人の視線が絡まる。そしてお互いの瞳の中に、穏やかに微笑む己の姿を確認して、二人は一緒に、その距離をうんと縮めることにした。 砦の中に、ぞくぞくと兵が集まり、配置がなされていく。 大会議場では、中堅以上の幹部将兵達が集合して、最後の軍議に入っていた。その隅っこに、アリー、レイルと並んで、ユーリ達も入れてもらっていた。 「……なあ、場所が分かってるんだったら、先にこっちが攻撃するってのはないの?」 「この真っ暗闇の中で? 兵が入り乱れてしまったら、誰が敵か味方か分からないじゃないの。松明を持って戦う訳にいかないのよ?」 戦いを知らないのね、とアリーに言われ、なるほど、とユーリは頷いた。 この世界には元々街灯もない。夜は月明かり以外何もない。暗闇は、本当にまっ暗闇なのだ。闇という言葉の意味を、ユーリはこちらの世界に来てから初めて実感していた。 ………レーダーも、サーチライトも、照明弾もないもんなあ……。 「敵が襲ってくるとしたら、夜が明けるまで、見張り以外が皆寝静まっている時間を狙うのが定石だ」 ヴォルフラムが真面目な声で付け加える。 「砦の中なら松明もある。砦に火を放ち、混乱に乗じるというのがもっとも効率のいい攻め方だな」 「ヴォルフさんの言う通りだね。奇襲を成功させるのなら、敵が混乱すればするほどいい訳だし」 「つまり今回はそれを逆手に取るということだな。奇襲に成功すると思い込ませて、一気に敵を混乱に陥れる」 「その通り」 「…………………あーのー。俺にも分かる様に教えて?」 ふう、とヴォルフラムがため息をついた。「このへなちょこ」と付け加えるのも忘れない。 「兵で砦の周りを囲み、護りを固めれば、敵は奇襲がばれたと知って兵を引く。それではせっかく訪れた好機が無駄になるだろうが。だから、敵の目には隙だらけである様に見せ掛け、そしてこちらの懐に誘い込んだ後、一気に叩くんだ。味方が息を合わせて、一切の退路を断ち、囲い込めれば大成功だな。……そのためには敵の進行方向と攻撃拠点をはっきりさせねばならんが……」 ここでヴォルフラムは、ふっと声を潜めた。 「まあそれはたぶん、ヨザックがうまく調べてくるだろう」 「え? そうなの?」つられてユーリの声も小さくなる。「……だからこのところ顔見なかったんだ」 そうだ、とヴォルフラムが頷く。 「アドヌイ達の話によると、小シマロンの援軍は大シマロンの勝利を諦めて撤退するというし、つまりこれが最後の戦いになると考えてもいいのよね」 「ああ。これで決まる。やっと戦いを終えることができるかもしれないんだ。…この機会は絶対に逃しちゃならない」 アリーの声は弾み、そしてレイルも、普段になく声に強い決意が現れている。 ユーリは指揮官達があつまる広間中央に視線を移した。、そこには、敵の状況確認のために呼ばれたアドヌイとゴトフリーとタオの三人の少年兵が、しゃちこ張って立っている。そして中央には、コンラッド。 エレノアの隣で、まさしく最高指揮官として、次々と指示を飛ばしている姿が見えた。 コンラッドの言葉一つ一つに頷き答える兵士達もまた、全身から強い決意を立ち上らせているように見える。 ……皆、戦いを終わらせたいと思っているんだ。 今度こそ、次こそ、最後の戦いにしたい。一日でも、一分でも早く、平和を取り戻したい。今度こそ。今度こそ。今度こそ。 そんな願いが、祈りが、見える。だから。 殺すな、なんて言葉、言えない。 どれほどそれが当たり前に正しい言葉であろうとも。平和を願い求めながら、それでも、いや、だからこそ、戦って戦って戦い続けてきた人達に、その苦しみを知らない俺が、簡単に口にしていい言葉じゃない。………ああ、だけど。 ユーリはそっと頭を巡らせ、会議場にある窓の一つ、今は闇に沈んで見えない雑木林のある方向に意識を飛ばした。 ……やっぱり。とても微弱な。でも確かにいくつも寄り集まった、何かの意識、もしくは意志が存在している。それが………もう耐えられないと泣いている。助けてくれ、と。染み込む人の血に、息が詰まると、その身が腐ると、息絶え絶えにのたうっている。 「………俺は、一体どうすれば………」 ここに親友がいてくれれば、自分の取るべき道を指し示してくれるのだろうか……? ああそうだ、そう言えばなぜ、彼はなぜ、ああも強くこの地に俺を向かわせようとしたのだろう……。 「ユーリ? どうした?」 後ろを向いて動かないユーリに、ヴォルフラムが不審気に声を掛けた。 「…え? あ、うん、何でもない……」 人間の土地で、まして精霊がほとんど死に絶え空っぽになった土地で、俺に何ができるのだろう……? 「はーい、お邪魔いたしますわよぉ」 いきなり会議場の扉を開けて、入って来たのは執事姿のヨザックだった。 「…おいっ! 貴様、誰の許しを得て……」 「敵の攻撃時間と進行経路が分かりましたわ、コンラート様ぁ」 ヨザックの登場に、一瞬ざわついた場が一気に静まった。 「彼には、残党達の状況を調べてもらっていました」 実にあっさりと、コンラートはエレノア始め上級幹部にそう告げると、顔をヨザックに向けた。 「ご苦労だったな、ヨザ。報告してくれ。………その言葉遣いはもういいから」 「あら、ひどいわぁ。……ま、いいけどね。ええと、敵の数は300。総大将はアルバン・バドウィット」 「鉄人バドウィットだ」「300とは意外に残っていたな」等々、あちらこちらから声が上がる。 「攻撃時間は、深更2時から3時。あの」ヨザックの視線が先程ユーリが見ていた方向に動いた。「雑木林の奥から襲ってくる予定だ」 「あの人だよ。僕達を大シマロンのヤツらから助けてくれたの」 ユーリ達の側にやってきたアドヌイ達が、興奮した様にそう言った。彼らの視線の先には、コンラートと話し込むヨザックがいる。 「すごかったんだよ! あっと言う間に、5人の兵士をやっつけちゃったんだから!」 「……あの人がぁ…? ホントにぃ…?」 しなしなと気色の悪い姿しか知らないアリーとレイルが、疑わしげに首を傾げた。 「うん、グリエちゃんに間違いないよ? だってグリエちゃん、コンラッドと並んで、眞魔国で3本の指に入る剣の使い手って言われてるんだもん」 「「ホントっ!?」」 「その通りだ」 ヴォルフラムも頷く。アリーとレイルは目を瞠くと、口元に手を当てて「いやだわぁ、コンラート様ったらぁ〜」と笑っているヨザックを、まじまじと見つめた。 緊張が、砦の中に漲っていた。 これが最後。その思いが、余計に兵士達の身体を固くしている様にも見える。 「ちょっと緊張し過ぎじゃねえか? 勝機は間違いなくこちらにあるんだからよ。もっと余裕ってモンが欲しいよなあ」 ヨザックがうーん、と首を傾げる。 「といって、緊張の糸を切ってもらっても困る。仮眠と食事は交代で取らせているんだが…」 ヨザックと共に大階段の広い踊り場に立ち、コンラートもまた、兵達の喧噪を眺めて眉を顰めている。 「気持ちの盛り上がりが大事なのよね」 「……母上…!」 突然掛けられた声に、二人がパッと振り返ると、こちらは全く余裕の笑みのツェツィーリエが立っていた。鎧や剣、その他様々な金属がぶつかり合い、殺伐とした雰囲気が籠る中で、相も変わらず、今から夜会に出席するような華やかなドレスと宝石を身に纏っている。おそらくどこかに細々とした武器や、お得意の鞭が仕込まれているのだろうが、外から見ただけでは全く分からない。 「緊張の中にも陽気さがなくちゃね。せっかくヨザックが情報を持ってきてくれて、こちらが断然優勢になったはずなのに、何だか悲愴感が漂ってるわよ?」 「………彼らはずっと戦い続けてきました。もう何年もずっと…。ですから、今この一戦で全ての終止符が打たれるとなれば、思う所も様々にあるのでしょう」 「それにしてもねえ……」 朱唇に形のいい指を当て、何か考えているらしい母の姿に、コンラートは何となくイヤな予感を胸に覚えた…。 偵察の目を考え、砦の内外はいつも通りの松明と、わずかな見張りだけを歩かせている。一見するとすっかり寝静まっている様に見えるはずだ。 正面から敵に向かう本隊に当たる兵、コンラートを最高司令官とし、クォード、カーラ、彼らの意を受けて兵をまとめる各隊の指揮官達、そして数多くの兵士達が、砦の奥、指令部となる邸の中に息を潜めてその時を待っていた。入念な打合せを済ませた右翼、左翼の兵達─敵を側面から襲い、またその退路も断つという役目を負う─も、今は敵の進行方向から外れた雑木林の中で、じっと身を潜ませているだろう。 大階段の踊り場、といっても小ホールほどの広さのある場所にテーブルと椅子を運ばせ、コンラートはそこを臨時の指令室とした。階段の下の大ホールには、準備を終えた兵達が詰めている。 深夜。すでに打ち合わせは全て終え、後は伝令を待つだけ、というその時。 「………コンラッド……?」 小さな、おずおずとした声が、コンラートの背後から掛かった。 「ユーリ?」 振り返った先、上階から踊り場に下る途中に、ユーリと……母がいる。 コンラートが立ち上がり、歩み寄ると、ユーリがそっと胸に縋ってきた。 「敵は絶対にこの邸には近付けさせません。だから安心して……」 「客人らは、奥に控えていて頂きたい」 振り返ると、カーラが固い表情で彼らを睨み付けていた。彼女の後ろにはエレノアとダード師が、椅子に座ってこちらを見ている。 「ここには家族と別れてきた者も、戦いの中で天涯孤独となった者も多い。その者達の心情もお察し頂き、場所を弁えられたい。そもそもあなた方魔族はこの戦いに無関係だ。気軽に本陣にお出でになってもらっては困る。……コンラート、そのようなこと、あなたが一番分かっているのではないのか?」 「カーラ、それは……」 「ごっ、ごめんなさい!」 ユーリが慌ててコンラートから離れた。 「ごめんなさい、あの……俺……」 とんでもない失敗をしてしまったのかと、おろおろするユーリの後ろから、ツェツィーリエがそっと腕を回した。そしてユーリの肩に優しく両手を置く。 「ユーリちゃんはね、コンラートはもちろんだけど、お友だちになった皆さんに、がんばって下さいって、無事に帰ってきて下さいって申しあげたくて、こちらに参りましたのよ? それも許しては頂けないかしら?」 「…そ、それは……」 一瞬、鼻白んだ顔でカーラが視線を外す。 「もうあまり時間もないとは思いますが」 エレノアが立ち上がり、穏やかな声を掛けてきた。 「階段の下……あの辺りにアリ−達がおります。声を掛けてやって下さいませ。でも、なるべく早くお戻りを。……よろしいですね?」 「あ、はい!」 大きく頷いて、コンラートに笑みを投げかけると、階段を降りるためにユーリは足を踏み出した。 「ああ、ユーリちゃん、ちょっと待って」 「はい? ツェリ様…?」 ツェツィーリエの手には、どこから出したのか、幅広の可愛らしいリボンがある。 「ちょーっと待っててね」 「……! 母上っ、何を……っ!」 焦る息子の声を無視して、ツェツィーリエは手のリボンをすばやくユーリの髪に巻き付けた。 「はい、これでよし! さ、ユーリちゃん、あちらを向いて。……アリ−さーん、レイルさーん、皆さん、こちらをお向きになってーっ!」 「母上っ!!」 緊張する場にそぐわない明るい声に、大ホールにいた兵士達の視線が、一斉に踊り場に向いた。 無言のどよめきがホールを満たす。 その驚愕があまりにも激しいが故に、誰一人として、うめき声すら上げられず。 全身とその魂を襲う衝撃のあまりの強さに、戦いの緊張も、不安も、恐怖も、その一切がはるか彼方に押しやられ。 砦の人々は、ただ呆然と、呼吸することすら忘れて、踊り場に立つ幼い人を見つめていた。 「………?」 ホールに詰めていた兵士達が一斉に立ち上がり、自分を見ていることに、ユーリはきょとんと首を傾げてツェリ達を振り向いた。 何事が起きたのか分からずにいたエレノアとダード師が、思わずといった様子で、音を立てて立ち上がる。カーラも同様だ。視線を少女に奪われて、身動きもならない。 「……ツェリ様? ……コンラッド?」 「構わず、行ってらっしゃいな? あまり時間がないわよ、ね? コンラート?」 隣で頭を抱えるコンラートの背中を、ユーリに分からない様にどやしつけて、ツェツィーリエがにっこりと笑った。 「……おお、姫っ!!」 突如、素頓狂に裏返った叫び声がホールに谺した。 クォードが階段下で、狂おしげに身悶えしている。 「ひっ、姫ぇ、何ゆえ、何ゆえその麗しきお顔を、有象無象に晒しておいでになりまするのかーっ!!?」 その声で、魂を抜かれた様に立ち尽くしていた砦の人々は、ようやく我に返り、同時に自分達が息すらしていなかったことに気づいた。方々で、咳き込んだり咽せたりする音が響く。 「………そ、そういうことであったか……!」 「なるほど……しかし、それにしても………」 気を取り戻した人々は、階段を降りてくる少女に、あらためてその視線を注いだ。 「……それにしても……何と………」 「何という、何と……」 「……美しい………っ!!」 ため息とも、呻きともつかないものが、期せずして一斉にホール放たれた。 まろみを帯びた幼げな頬の線、滑らかな額、こぼれる程に大きな瞳、小さく形のいい鼻、ほんのりと色付く唇。 その全てが、神が御自ら、愛情と情熱の全てを傾けて創り上げ、完成させたとしか思えぬ程に整っている。だがそこには、完璧な造形ならではの冷たさも、他者に対する拒絶も蔑みもない。心を映す瞳から感じ取れるのは、ただ純粋無垢な無邪気さと、温もりと、慈しみだけだった。 「……まるで……」 文才で名を馳せ、檄文など共和軍の様々な文書を作成することを担当しているかつての貴公子が、熱い息を深々と吐いて呟いた。 「……この世の光という光、全てを集めて、人の形に仕立てたようでござるのう……」 その人の美しさは、何よりも瞳の輝きに現れている。 「まさしく、まさしく」 「かつて天才といわれた彫刻家トーリオによって造られた女神の像こそ、地上最高の美女と唱われていたものでござったが……」 「いやいや、かの天才もこの姫君を一目見たら、己の才能のなさにたちまち絶望して、世を儚んだことでござろうよ」 「よもやこの年になって、これほどの美姫を目にしようとは。……いや、眼福眼福」 老将達は、その人生経験の分だけ、落ち着くのが早かった。しかし。 「……有象無象とは、我々の事か…?」 「いくらクォード殿とはいえ、あの仰せよう、許せませんぞ」 「言うなれば、あれは抜け駆けありましょう」 若者、そして壮年の将兵、またかつての王侯貴族に列する者は、少女の美貌について口を濁していたクォードに、激しい怒りを燃やしていた。 「私とて、家柄においてはクォード殿に引けはとらん!」 「いや、それなら拙者とて!」 「コンラート殿は、クォード殿に何ら約束はしておられん。まだ我らにも望みはある!」 おおっ、と、若手将校の集まる一角で、いきなり閧の声が上がる。 そしてさらに年少の者達は。 「………天使さまだよ……天使さまがおいでになるよ……」 少年兵の一人が、うわ言の様に呟いている。 ユーリ、らしき美しい人が、一生懸命の顔で自分達に近づいてくるのを、アリ−もレイルも、そして少年兵たちも、ただ呆然と見つめていた。 「……アリ−、レイル、皆もっ!」 ユーリがアリ−達の前に立った。 「……ゴメン、皆これから大変なのに……。俺、何にもできなくて……ホントにごめんな? あの……皆、無事に帰ってきてくれよな。怪我なんかしないで帰ってきて。それで………全部終わったら、また皆で野球しようよ、な……?」 泣きそうな顔で、小首を傾げ、上目遣いで見つめてくる。……少年達が数人、目眩を起こした様によろめいた。 「……ユー、リ……?」 「うん。アリ−、絶対無事に帰ってきて、な? 俺、祈ってるから」 そう言うと、ユーリはアリーの両手を強く握りしめた。ふるり、とアリ−の身体に震えが走る。 「レイルも。必ず無事で」 「…ユ、ユーリ……」 やはり手を握られて、レイルは一気に頬を真っ赤に染めた。 たじろぐ少年兵の様子に気がついているのかいないのか、ユーリは次々と友人達の手を握っては、「無事で」「祈ってる」と声を掛けていく。そうされた兵達は、皆一様に、まるで神の託宣を受けた人の様に恍惚と空を見つめている。 「………冗談じゃあないよ……」 踊り場で、眼下の光景を唖然と見ていたカーラの隣に、いつやってきたのか、エストレリータがため息をつきながら立っていた。 「全く、あんなキレイな子だったなんてねえ…。『子猿』は撤回するよ。あれじゃあ、殿下がおかしくなっちまうのも分かるさ。女のあたしだって、身体の芯に震えが来ちまったんだからね」 「………あ、ああ………そう、だな……」 絞り出すような声でそう答えると、カーラは傍らのコンラートにそっと視線を移した。 くすくすと楽しそうに笑う母親の隣で、苦りきった顔で養い子を見つめている。その視線が……。 カーラの胸に、新たな痛みが走った。 「姫っ!」 友人達に言葉を送り、急いで戻ろうと階段を駆け上がるユーリに、階下から声が掛かった。 「あ、おっさん」 クォードがユーリを見上げている。男のその狂おしい眼差しに、しかしユーリは気づかない。 「おっさんも、出陣なんだよな? ごめん、うっかりしてて。おっさんも、手柄なんてどうでもいいから、無事に帰ってきて下さい。俺、おっさんの無事も…………」 「姫!」 「ユーリ姫っ!」 突如、階段の下に青年、そして壮年の男達が、大挙して押し寄せてきた。 「……………ほえ…?」 「姫っ、何とぞ我らにも、姫の言祝ぎのお言葉を!」 「さすれば我ら、美しき姫の御身を御守する騎士として、必ずや大功を奏してご覧に入れましょうぞ!」 「大シマロンの下司共に、姫の御髪一本触れさせは致しませぬっ」 「…おっ、おぬしら! 俺のセリフを……っ!」 「姫!」「ユーリ姫!」 ………………何だか、ギュンターがいっぱいいるような気がする……。 ちょっと頭痛がしそうだが、とにかく自分が何か、言葉を求められている事は理解できた。 「…あ、あのっ」 はっ! 声と共に、ホールが一気に静まった。一瞬たじろぐユーリ。見れば、目の前の将兵だけではない、ホールに詰める兵士全員が、真剣な眼差しでユーリを見つめている。 ユーリの、ずっと「ただのユーリ」でいた心に、ふと王の意識が戻った。 自分はこの地の王ではない。だが、それでもなぜか、今この人達は自分の言葉を待っている。 事ここに至って、「戦争はいけない」だの「殺してはならない」だのと言う事はできない。敵にとっても味方にとっても、ここで決着をつけられなければ、流血は延々と続くのだ。…ならば。ならば、せめて。 すう、と大きく息を吸う。 「……もうまもなく、最後の戦いが始まろうとしています。これで……長い間の民の苦しみ、哀しみが終わるのだというのならば……ただ、祈ります。失われる命が、流される血が一人でも、一滴でも少なく終わるように。ひとり残らず、皆が揃って、朝の光を、新しい時代と、新しい人生の始まりの、最初の光を目にすることができるように。……願うことはただ一つ。皆、無事に、無事に帰ってきて下さい。待っています……!」 クォードが、将校達が、そして邸の中の全ての兵士達が、一斉に剣を鞘から抜き出した。 「勝って帰るぞ!」 「大シマロンを蹴散らせ!」 「皆で朝日を見よう!」 「我らには、守護天使がついておられる! 完全勝利に間違いなしだっ!!」 おおーっ!! 剣が宙に突き上げられる。 「盛り上がったわねえ。思った通り!」 うふ。ツェツィーリエが嫣然と笑う。 「……………ははうえぇ……」 コンラートの口から、恨みがましい声が漏れた。 「……これでユーリの正体がバレたら、一体どうなるんだ……?」 「眞魔国の領土が一気に十倍、とか…?」 「それはそれでよろしいと存じますが。……そんな事より先に、私たちは明日からとんでもなく忙しいことになりますよ。煩い羽虫が、1匹から数百匹に増えたのですから。………一気に全員始末する訳にはいきませんでしょうか?」 「…………………」 「…………………」 砦の兵士達の命は、戦いから帰ってきてからの方が危ないかもしれない。 クラリスの言葉に、共に並んで様子を見ていたヴォルフラムとヨザックは、げっそりと肩を落とした。 三十分後、敵が動いたとの伝令が飛び込んできた。 プラウザよりお戻り下さい NEXT→
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