精霊の日・7 |
「……おっさん?」 目の前の大人が、がっくんと顎を落とし、瞬きもせず呆然と虚ろな目で自分を見ている。これは……病気か? 何かの発作か? 人間年をとると、持病の一つや二つ、できるものだというし。 「おっさん? な、大丈夫? 顎、外れちゃってるけど……」 本当に顎が外れるとどうなるのか知らないので、実際の所は良く分からないのだが。………これは、ヘンだ。 えっと。と、ユーリはクォードににじり寄った。そして。 す、と両腕を彼に向かって無造作に伸ばす。 と。片方の掌をクォードの頭の上に置き、もう片方を顎の下に当て。 「よいしょ」 ばくんっがつっ。上下を一気に押されて、勢い良く閉じた口の奥で、ぶつかった歯が音を立てた。 しばしそのままで二人は目を合わせる。 「顎、ハマった? もう落ちなさそう?」 まだ当てたままの掌に、痙攣のような振動が伝わってくる。 ……大丈夫かな、この人……? 「手、離すよ?」 そっと手を離す。………がくんっ。 「……あちゃあー」 どうも本格的に様子がおかしい。 「コンラッド呼んでくる。ちょっと待ってて!」 ユーリが立ち上がろうとする。その瞬間。がしり、と両腕が掴まれた。 「………え?」 顎を落としたままで、何かを訴えようとするかのように、男がぶるぶると震えている。……もとが結構な美丈夫なだけに、かなり無気味だ。 「おっさん…?」 ユーリが、無防備に顔を近付け、覗きこ………。 「お下がり下さい、ユーリ様」 すい、と、突如現れた第三の人物が二人の間に割り込み、簡単にクォードの腕を外しながら、言った。 「あれ、クラリス」 答えないまま、クラリスはクォードの真正面に立った。地面にへたり込み、顎を無様に落としたままの亡国の王子を、冷たい瞳で見下ろす。そして。 「……はっ!」 鋭い気合い一声。 長く形のいい足が、あらん限りの力と共に、思い切り良く振り上げられた─。 それはほとんどスローモーションの様に、ユーリの目に映った。 その瞬間。男の顔が仰け反り、身体がぐうぅっと伸び上がり、伸び上がり……そのまま放物線を描く様に宙を飛ぶと、背後の枯れ木に激突する。 枯れて乾いて脆くなっていた木の残骸が折れ、ばらばらと男の身体の上に降り注く。男は……ぴくりともしない。 「……うわぁー……」 あまりの見事さに、思わず拍手しそうになって、はた、と我に返る。 「……あ、あの……クラリス…?」 「これで顎はきちんと嵌りますでしょう」 「顎は……いいかもしんないけど。……命は?」 「大丈夫です」 言いながら、クラリスは落ちていたメガネを拾い、それをユーリにかけると、ささっと髪を下ろして手櫛で整えた。 「さ、参りましょう。お着替えにならなければ」 「……あ、いや、でも、あの……」 「大丈夫です。全く問題ございません」 これで死んでも、ちーっとも。なんだかそんな一言が隠れているような気がする。気がするが……。 ─丈夫そうなおっさんだったし、大丈夫だよな? 女の人の蹴りだし……。 標準より遥かにガタイのいい、いっぱしの武人が宙を飛ぶ。そんな蹴りに、男も女もないだろうという点に、ユーリは気づいていない。 「なあ、クラリス?」 結局、男を見捨てて砦に帰る道すがら、ふと思いついてユーリは口を開いた。 「はい、何でしょう?」 「……いつか村田に誘われるかも知れないけど、誘いに乗っちゃダメだかんな?」 「猊下には、フォワードに入って欲しいとの要請を受けましたが、お断り致しました」 「そ、そうか……。ならいいんだ」 ……さすがダイケンジャー村田健。とっくにチェック済みだったのか…。………油断大敵! 今や眞魔国第2の国技であるサッカーに、密かにライバル心を燃やしているユーリだった。 自分は何を見たのだろう。 虚ろな瞳を天空に向けて、クォードは心の中で呟いた。 俺は………。 がばっ、と起き上がる。顎と後頭部が妙に痛むが、そんな事は問題ではない。問題は。 飛び上がる様に立ち上がると、大きく息を吸って、そして深く深く吐く。何度も何度も繰り返す。 足元から、何かが立ち上ってくる。熱い、滾るような何か。それが胸の中にどんどんと送り込まれ、巨大な火の固まりとなる。熱い。熱い。 その熱に、顔が火照る。 「うお……」 身の内を翻弄する熱に耐え切れず、声を上げながらクォードは走り出した。 「うおおおおおぉぉ……っ!!」 全速力で走り出す。早く、早く、砦に向かわねば! 取り残されていた馬が、クォードの後ろから不思議そうに目を瞬きながらついてくる。自分に乗った方が早いぞとアドバイスしたいのだろうが、残念ながら言葉にする事はできなかった。 クォードは、良くも悪くも王太子殿下だった。 やがては王となる存在。国土と国民の支配者にして、そこに生きる命が進む道、全ての指針となる者。 王となる者に、「私」などない。生活の、人生の、何もかもが「公」なのだ。 クォードはそう教えられて育ち、そのように自分を律してきた。 常に公人たる己を忘れるな。そして。 その意識の最たるものが、結婚だった。 王の妻、王妃となる女は、やはりそうなるべきして育った、人生が「公」であることを知っている者でなくてはならない。王と王妃は、協力して国家の礎となり、同時に生ける神ともならねばならないのだ。故に、王と王妃の間に「私」の「情」があってはならない。それが存在してしまえば、王と王妃は、生ける神から、二人のただの人間に堕してしまう。 人がましい情は、情人との間で持てばいいのだ。 どれほど「公人」として己を正してきても、やはり息抜きはしたい。「人」になりたい時がある。そんな時、情人の存在は重要だった。 疲れた心と身体を癒す、笑みと言葉、細やかな奉仕。目を楽しますドレス、化粧、そして宝石。酌み交わす酒。支配欲と庇護欲、そしてさらに根源的な欲望を、心地よく満たしてくれる夜。 そんな相手に不自由した事はなかった。国をなくした今となっては、多少程度は落ちたにしても、元王太子の寵を求める女は多い。いつでもどこでも、必要な女は望むままに手に入る。 望む通りの言葉を紡ぎ、望む通りの仕種で誘い、抱いた欲を思うままに満足させ。それで充分に満足してきた。もう長い間、ずっと。 だから、気づかなかった。 欲望を満たすためだけに存在する者との間に、本当の情など存在しないということ。 どれほど互いを大事に振る舞ってみせても、そこに愛などないということ。 自分が……ただの一度も、恋をしたことがないということ。 だから、気づかなかった。 今、自分が、生まれて初めての、恋に落ちたのだという事実を。 クォード・エドゥセル・ラダの、これが初恋、だった。 「……クォード殿下が遅れていますね」 円卓が組まれた大会議場で、エレノアが確認の声をあげる。ざわめいていた出席者達が、ふと周囲に視線を巡らせた。 「……殿下ってさ、パッと見、取り巻きをぞろぞろ従えてるって雰囲気なのに、意外と1人で行動する事が多いわよね?」 会議場の隅で、アリーがそっと従兄弟に囁いた。レイルが頷く。 「元々の臣下はちゃんといるしね。取り巻きになりたがってる人も多いらしいけど。……コンラートが言ってたけど、殿下は戦場の最前線で長く戦ってきた人だし、信念の強い人だから、おべっかしか遣えない取り巻きなんか邪魔なだけだろう、って」 「ふーん、そういうものなのかしら…?」 円卓の一つに座を占めて、カーラはじっとコンラートを見つめていた。 コンラートは、何かの書類に目を通している。 『…コンラートは、結婚を控えておりますの』 彼の母親の言葉が、頭から離れない。 コンラートが戻ってきてくれて。これで何もかもうまくいくのだと思っていた。 出奔して、国を裏切ったにも関わらず、どうして彼が無事だったのかは分からない。だが、そんな事もどうでもいいと思った。ただ、生きて、自分達の元に帰ってきてくれた。もうそれだけで。 生まれ育った国を捨て、何もかもなくして、それでも彼は自分達を選んでくれたのだと。 そう思っていた。思っていたかった。 彼の家族がこの地にやってくるまで。 半魔族の彼は、魔族の国で虐げられているのだと思っていた。 家族からも、見捨てられているのだと思っていた。 その国では、友も、頼る人も、信頼しあう人も得られてはいないのだと、そう思っていた。 だが。 コンラートとその家族は、実に、当たり前に、ちゃんと家族だった。確かな愛情で結ばれた家族。養い子までいた。その少女は、コンラートをこよなく慕っている。そしてコンラートも少女を……溺愛している。 そして今度は、結婚相手の存在まで知らされてしまった。 カーラは、今この時にも、コンラートに問い質したかった。 眞魔国であなたは不幸だったのではなかったのか? 捕らえられ、投獄されたり処刑されたりする恐怖に耐えていたのではなかったのか? もしそうでないなら。 どうしてあなたは、この地に戻ってきたのだ……? 『……コンラートの口から話を聞くまで、勝手な憶測で頭を悩ますのは止めましょう』 祖母はそう言って、カーラと自分自身を慰めた。 『……あの母親に押し付けられたんだよ! そうに決まってるさ。好きな相手がいるってんなら、それをほっぽって、こんな戦場に戻ってくるはずがないじゃないか。…ほらっ、そんな顔をするんじゃないよ! 諦めちゃダメだよっ!』 ここにやってくる道すがら、ツェツィーリエの話を打ち明けたエストレリータは、そう言って、カーラの背中をどやしつけた。 ああ、分かっている。そんなことは分かっている。だが……。 祖母が、カーラにだけ話したことがある。 『……心に引っ掛かっていることがあるのよ。……あの、コンラートと同じ混血の彼ら、彼らはシマロンで虐待されて眞魔国へ逃れたのよね? そしてかの国で、ようやく安息の日々を得た。……言っていたわね。ダンヒーリー・ウェラーは、命の恩人だと。……ねえ、カーラ。魔族の国が、人間の国よりはるかに混血に温情があったというならば、どうして、どうしてコンラートは眞魔国を出奔したのかしら?』 『それは……温情があると言っても、決して平等とは言えなかったのでは? コンラートもその様な事を言っておりましたよ。貴族の一員でありながら混血であるコンラートにとって、耐え難い問題があろうことは想像できるではありませんか』 『……そうね。そうよね。……でもね、カーラ。……私は、何か、とっても不安なのよ……』 不安。 そう、その言葉が一番しっくりくる。 不安に。心がぴしぴしと音を立てる。 コンラート。あなたは………。 「……もう時間は過ぎておりますが……」 クォードがいまだに姿を現さない。といって、いつまでも待つ訳にもいかない。今までこのような事がなかった事を思えば、何か問題が………。 突如。 ダンッ!!、という激しい音と共に、巨大な厚い扉が勢いよく開かれた。人々がその音に一斉に反応する。 そこには……クォードが立っていた。 「……で、殿下……?」 上ずった声は、彼の臣下だろうか。 会議場にいた人々の視線が、改めて今姿を現したばかりの男に集中した。 本来、クォードという男を形容するなら、美丈夫、歴戦の猛者、華麗にして剛胆な勇者、そして洒落者、といったところだ。だが今、彼らの目に映る男は。 長い金髪を振り乱し、目は血走り、衣服は乱れ、何故か真っ赤な顔はだらだらと流れる汗に濡れ、ぜえぜえと肩で息をしている。………そんなに会議に遅れるのが嫌だったのだろうか……? 人々は皆一斉に首を傾げた。何故か顎が割れて、血が滲んで見えるが、それも謎だ。 扉の付近で立ち止まり、ぜえっ、ぜえっ、と荒い息を繰り返しながら、会議場を見回していたクォードだったが、ある1点に目を止めると、ぐぐっと歯を食いしばり、背筋を伸ばした。 「………コンラートォ……ッ!!!」 会議場に集まっていた人々が、緊張に背筋を震わせる。それほどに、クォードの叫びは何か強烈な意志に満ちていた。 「コンラートッ!!」 怒りか、決意か、興奮の極にあるような声と表情とを露に、クォードが荒々しく足を鳴らし、会議場に踏み込んできた。 「……おっ、お待ち下さい、殿下っ!!」 「如何なされたのです!? クォード殿っ」 クロゥとバスケスが、さっとコンラートの前に立つ。 書類を置き、立ち上がったコンラートは、怪訝な表情で迫ってくる男を見つめている。 「お待ちなされませ、クォード殿!!」 エレノアが叫ぶが、それもクォードを止める事ができない。 「ええいっ、邪魔だ、邪魔だっ! そこを退けいっ!!」 剣をも抜きかねない勢いで次々と行く手を遮る者達を振り払うと、クォードがコンラートのすぐ前に立った。 「………コンラートッ……!!」 燃え立つような叫びに変化はない。クロゥとバスケスが、さっと剣に手を走らせる。だが。 「どうなさったのですか、殿下」 簡単な仕種で己の副官達を押し留めると、コンラートがゆっくりと前に進み出た。更に止めようとするクロゥを、視線で押さえる。 「……コッ…コンラート……」 「はい」 至近距離で二人が向き合った。 「コンラート…殿っ。……………………お願いしたき儀がある!!」 周囲が。一瞬、きょとんと固まった。 「……これはまたご丁寧な……。如何なさったのです? 殿下。 ……俺にできることなら……」 「おぬしにしか、いや、貴公にしか頼める問題ではないのだ! その………」 また一気に、クォードの顔が真っ赤に染まった。さらにだらだらと汗が溢れてくる。 「その……………………ひ、姫! とっ」 「………………ひめ……?」 うんうん、とクォードが首を振る。 「…………ユーリ、姫とっ………」 ぴくり。穏やかな表情に変化はないが、ただ、コンラートの片方の眉だけが、ぴくりと動いた。 「………………………ユーリ、ですか………?」 うんうんうん。だらだらだら。 「……そのっ。……つまりっ……!」 くわっ、と。クォードが目を瞠く。 「……ユーリ姫とっ! ……結婚を前提にっ、おつき合いさせて頂きたい……っ!!!」 しん。 会議場が静まった。人々が固まった。約2名、心と身体が凍りついた。 クロゥは人生初めてショックでよろめき、テーブルに身体をぶつけるという失態を犯した。 バスケスは「ひぇぇぇぇぇ〜」と、断末魔のような声を上げ、何も見たくないとばかりに顔を覆った。 ここにヨザックがいたら、とっとと逃げ出していただろう。その点、この二人はまだまだ甘い。 異様な緊張を孕んだ沈黙が会議場を覆う。数秒か、数十秒か、数分か、沈黙の後に口を開いたのはコンラートだった。 「………ご覧に、なったのですね、殿下……?」 見た。その単語一つで、クォードの脳裏に、神の技を越えたとしか思えない、あの顔容(かんばせ)、そして笑顔が浮かぶ。………顔に、熱が蘇った。 思わず、ぶんぶんと大きく頷く。 だから。気づかなかった。 コンラートのその口調が、ほとんど「見〜た〜な〜〜〜?」という、どこかの世界のどこかの国の、恐怖物語の中で聞かれるような、それはもう陰惨なまでに冷気溢れるものだということに。 もしこの場に某国国王の元ご学友がいたならば、それはもう楽しそうに、「おや? どこかでお寺の鐘が陰に籠ってゴ〜ンと……」とでも表現してみせたことだろう。 「無理矢理、ですか……?」 静か過ぎる程静かに、コンラートが問う。その姿に目を遣った人々は、一瞬、ハッとたじろいだ。 コンラートの手が剣に掛かり、すでに鯉口が切られている……。 それにすら気づかないクォードは、今度は素直に首を横に振った。 「そっ、そうではない! 俺の、目の前で、姫が転ばれたのだ!」 「………転んだ?」 「そ、そうだっ。精霊の話をしている時に、いきなり……」 蘇った興奮と共に、その時の状況を懸命に説明し始める。 「……俺は………俺は初めて知った。知ってしまった……。あのような存在がこの地上にあることに…! まさしく、地上の花、全てを集めたよりも、地上の宝石、その輝きを全て集めたよりも、ユーリ姫は………っ!」 クォードの言葉の奔流が止まった。 その視線が、己の頸動脈に当てられた刃に向く。 コンラートが、穏やかな表情をわずかも変えることなく、クォードを見ている。背後に、紛れもない殺気を漂わせながら。 「………コ、コン………」 「何でしょう、殿下?」 人の頸動脈に切っ先を当てておいて、何でしょうもないだろうが、誰もそれを諌めることはできなかった。それどころか、二人を囲んでいて人々の輪が、おののく様に広がっていく。 「…………コンラート……。お、俺は…確かに今は国を持たぬ元王太子にすぎん。この想い以外、何一つ姫に捧げるものを持たん。だが……いずれは必ず祖国を取り戻し、王となる! そうなれば、姫は王妃だ。……眞魔国の貴族であるおぬしの娘なら、王妃として、決して………」 「世迷い言はその辺でお止め頂きたい」 これほど冷ややかなコンラートの声を、砦の人々は耳にしたことがなかった。 「……………身の程を…」 その時。 会議場の扉が、再び開かれた。 「コンラッドー!」 一瞬で、コンラートの剣が鞘に納められる。 とっとことっとこと、軽やかな足取りでユーリが会議場に入ってきた。 「コンラッド! あのな……」 話しかけたところで、ハッとユーリが周囲を見回した。……何だか雰囲気がとっても妙だ。 「……ゴ、ゴメン。まだ会議中だった……?」 ちょっとおろおろとするユーリに、コンラートがにっこりと、この上なく優しい笑みを投げかけた。 「全然構わないよ、ユーリ。会議はもう終わったし」 いや、始まってもいないから。 なのに、誰も口を開くことができない。 「なんだ、そっかー。よかったぁ。………野球、できそう……?」 心配そうに見上げてくるユーリに、コンラートは更に深い笑みを浮かべて頷いた。 「もちろん。じゃあ、行こうか」 わざとらしく傍らの男の前を塞ぐ様に歩を進めると、コンラートはユーリの肩を抱いた。そしてさりげなく向きを……。 「…まっ、待ってくれっ! いやっ、お待ち下さい、姫っ!!」 ち、とかすかな舌打ちの音。ユーリがきょろきょろと辺りを見回す。どこかにお姫さまがいるのだろうか? クォードはコンラートとユーリの間に、まるで飛び込む様に割り込むと、その場に膝をついた。 その姿に、ユーリが「あっ」と声をあげる。 「よかったー。おっさん……」ハタッとコンラートを見上げて、わたわたと手を振る。「じゃなくてっ。えっと、おじさま……」 「ユーリ」 笑顔のまま、コンラートはユーリの言葉を遮った。 「いいんだよ、『おっさん』で」 「え……でも……いいの?」 「うん。ちっとも構わないから。どうもそちらの方がふさわしいみたいだからね」 「そっか。…助かった。どうも『おじさま』って言いにくくってさあ。やっぱ俺のガラじゃないっていうか?」 にこにこと和やかに会話を交わす二人の足元で、既に男が懸命の言葉を縷々たれ流し始めていた。 「……さ、先ほどは突然昏倒するなど、お見苦しい姿で姫の御瞳を汚せし事、何とぞお許し下され! 拙者、今は無きラダ・オルドの王太子、クォード・エドゥセル・ラダと申す弱輩でござれば、ユーリ姫には何とぞお見知りおき下さりたく、さすれば悦びこれに選るものは無きと……」 「…………コンラッド…。何だかおっさんがヘンなんだけど……」 「気にしなくていいよ、ユーリ。この人はいつもヘンなんだ。……あまり近寄らない方がいいね」 「でも……」 やっぱり打ち所が悪かったんじゃ……。 後ろに平然と控えているクラリスをちらりと見てから、ユーリは少々申し訳ない気分で男を見下ろした。 それにしても、どうしてこの男が自分の前に跪いているのだろうか。 男を見下ろしながら、ユーリはくんっと首を傾げた。 「……姫におかれては、さても無礼な男よとご不快に存ぜられたやも知れぬが、このクォード・エドゥセル・ラダ、本来であれば決してあのような無様な姿を、麗しき姫の御前に晒すような男ではござらぬ。それも全て、姫のあまりのお美しさに、まるで千の槍、万の雷が我が身を刺し貫いたかのような衝撃を受けたが故! 何とぞ哀れと思し召し、お許し下されたく……」 高貴な姫君に対する礼法に完璧に則り、頭を垂れ、その美しさを讃えるクォードの肩が、突如、つんつんと突つかれた。 「……あの……殿下……?」 後方からおずおずと声を掛けられて、ようやくクォードは顔を上げた。ら………目の前から、すでにユーリの姿が消えている。 「……ひ、姫……?」 「あのぉ……」 今程、後ろから声を掛けてきた誰かが、すっと前方を指差す。 大会議場はるか前方、ユーリを子供抱っこに抱き上げたコンラートが、すたすたと大股で扉に向かって歩いていた。その後ろをクラリスが従う。 コンラートの肩ごしに、ユーリの小さな顔がクォードを見ている。髪に隠されて、瞳は見えないが。 姫は俺に助けを求めておられる! ……いきなり脈絡も無く、クォードの脳裏にそんな考えがぽこりと浮かんだ。………希望的妄想、もしくは単なる錯覚である。 「……まっ、待て! 待て待てっ、コンラートッ! 姫と今暫しお話を! ぜひ、姫に俺という男を知って頂きたくっ!」 必死の形相で言い募り、後を追いかけていくが、コンラートは……無視。 「姫っ! 俺…私は、本年30歳になり申す。確かに年は少々離れ……いや、もしかするとものすごく離れて……どちらが上かも分からぬが、とにかくっ、それでも! 並んで見遣ればさほど見栄えも悪いとは思えませぬ! 意外と似合っておるのではなかろうかっ! このクォード・エドゥセル・ラダ、武芸には関しては腕に覚えあり、姫をお護りするに決してご養父に引けはとらぬかと! しゅ、趣味は早駆けと狩り、それから座右の銘は、行動に勝る説得なし! 後からするから後悔だ! 人生七転びもすれば先はない! そっ、それと…っ」 コンラートが歩調を緩めず扉を出る。その後に続くクラリスが、廊下に出てから片方の扉を閉め、もう片方に手をやったところへ、クォードが追い付いた。 開いた扉から廊下へ飛び出そうとするクォードの、そのタイミングを見計らったかの様に、いや、目一杯見計らって、クラリスは勢いよく扉を閉めた……。 「………ぐはぁ…っ!!」 廊下に出掛かった所を、ものすごいスピードで襲いかかる扉の直撃を顔に受け、クォードは、お約束なまでに見事に吹っ飛んだ。 どすん、と鈍い音を立てて、仰向けにひっくり返る。 「………ひ、ひべぇ………」 「………殿下が、まさかそういう趣味だったとはねえ……」 エストレリータが首を左右に振りながら、ため息と共に呟く。 その呟きに、色々と思い悩んでいたはずのエレノアやカーラまでもが、一幕芝居のように過ぎ去った光景を反芻し、深く深く頷いた。 「………なあ、コンラッド…?」 「何です? ユーリ」 「…あのおっさんって、そうは見えないんだけど……もしかして……お笑い系の人?」 「ああ、そうですね。……大シマロンに滅ぼされた王国の王子だったのですが……何でも国王よりもコメディアンになりたかったらしいですよ」 「そっかー……。でも、今一つノれるギャグがなかったような……」 「聴衆の反応を読み取れないタイプですね。コメディアンとしては最低です」 「…………………あの……コンラッド…?」 「はい?」 「その………あのおっさんとコンビを組んで、ギャグを飛ばそうとか思ったらダメだぞ……?」 「しませんよ、そんな事。……どうしてそう思うんです?」 「…え、あ……いや、別にー……」 きっとその時吹き荒れるブリザードは、二倍だとか二乗だとかじゃ済まないと思うのだ。コンラッドとおっさんが並んで漫才をやってる姿を想像して、ユーリはぷるっと背筋を震わせた。寒過ぎる。思わずコンラートの首元に顔を埋める。………あれ? 「………コンラッド」 「今度はどうしました?」 「……俺、どうしてコンラッドに抱っこされてるの?」 「今の俺の歩幅に、ユーリがついて来れないだろうからですよ」 「ぐ……どーせ俺は足が短いよっ……。っていうか……なんで?」 「気にしないで下さい」 「………えと。……俺、いつまで抱っこされてるの……?」 「俺の気の済むまでです」 「……………………そーですか……」 だがそれは突然の声で終りを告げた。 「お前達っ! 昼間っから何をしている!?」 廊下の先に、ヴォルフラムが仁王立ちに立っていた。 「あれ? ヴォルフ? ……そう言えば、今まで何してたんだ?」 さすがにその場に降ろされて、ユーリはヴォルフラムの側に駆け寄った。 「まさか、今まで僕の存在を忘れて…………うぷっ!」 いきなりヴォルフラムが口を押さえたかと思うと、廊下の壁に手をついて、ずるずるとしゃがみ込んだ。 「ヴォルフ?」 「……閣下は、二日酔いでいらっしゃいます」 クラリスの言葉に、ユーリとコンラートが顔を見合わせ、改めてヴォルフラムを見下ろす。 「……二日酔い……?」 「夕べ、ツェリ様と飲み比べをなされたそうです」 げ、とユーリが呻き、コンラートが呆れ果てた顔になった。 「…母上がざるだという事くらい、お前もさんざん知っているだろうが……」 「ヴォルフ、今まで寝てたのか?」 「…………寝てたん、じゃ、ない……。起き、あがれ、なかっただけ、だ…!」 「同じじゃん……」 「ヴォルフ、食事は……」 「僕に食事の話をするなっ! ……うぅっ…!」 やれやれと、魔族組が揃ってため息をついた。 そうして。 ユーリがアリー達に野球を教え始めてから、三日が経った。 練兵場は、時間の空いた兵士達が入れ代わり立ち代わりやってきてはバットを握り、キャッチボールをし、ゲームをする場所となっていた。ユーリは今真剣に、眞魔国から野球道具一式を取り寄せることを考えている。せっかく皆が興味を持ってくれているのだ。もっともっと野球を好きになって欲しい。 この三日、必死でユーリに近づこうとするクォードの怪しい行動は、コンラート、クラリス、ヴォルフラムの鉄壁のガードに常に阻まれて、ひたすら空回りを続けている。それを端で見物するのが、いつの間にか兵士達の娯楽の一つになろうとしていた。どうやら密かに賭も行われているらしい。 ツェリはダード師とお茶を共にしては、何やら親しく話を弾ませている。そしてエレノアとカーラは、コンラートにまだ何一つ問えぬまま、高まる不安に顔を曇らせている。 そしてヨザックは─。 その日の夕暮れ。朱金に輝く残照が、やがて紫色と藍色を濃くする頃。 砦を取り巻く雑木林から、さらに丘を越えて、わずかな緑が残った森に、少しづつ人─兵士達が集まろうとしていた。 辺りを窺う様に、わずかな松明だけを頼りに、息すら潜めて、枯れ枝1本、踏まぬ様に気をつけて。 森のはるか奥、わずかに空間の空いた場所に、簡単な敷物を組んだ即席の陣が作られていた。 木々を切り払ってできたその場所の所々に、申し訳程度の炎が小さく燃え、集まった兵士達の足元を照らしている。 一目で大将格と分かる、だが鎧はひび割れ、身体のあちこちに手当の跡を残した巨漢が、その陣の中心で腕を組み、何かを待つ様に瞑目していた。 やがて同じような武人が、ひとり、またひとりとやって来ては、敷物の上に座を占めていく。そして更に多くの兵士達が、その周囲に集まっていった。─誰一人として、無傷の者はいない。 「こやつらが」 短い一言と共に、3人の小柄な兵士が、大将の前に放り出された。 転がされた兵士は、それぞれ荒縄で身体を縛り上げられている。 「勝利を祈って、まずは最初の血祭りと参りましょう!」 敷物の上に座っていた武人の一人が、剣の柄に手を当てながら立ち上がる。捕らえられた兵士達が、震え上がるように身を寄せあった。 「……やめい」 ずっと瞑目したままの大将らしき男が、目を開かぬまま呟く様にそれを遮った。 小さく、静かだが、力のある声だった。 「見れば小童っぱではないか。……どうせどこぞの村から徴収された小僧達であろうよ。そのような小物を血祭りに上げたとて、勝利の神はお喜びになぞならんわ」 立ち上がっていた男が、頷いて座に戻った。 「では、こやつらは…?」 「無駄な事はせずともよい。縛ってその辺りに転がしておけ」 「はっ」 ふう、とため息をついて、男、元大シマロンの将官だった武人は、そっと目を見開き、周囲を見渡した。 「………小シマロンよりの援軍は、全て撤退となった」 ざわ、と周囲から声が上がった。 「一時の優勢から、今は連戦連敗。すでに我らの拠点となる地は、そのほとんどを謀反人どもに奪われた。もはやこのままでは我らの生きる場所はない」 「小シマロンへ、ベラール二世殿下が亡命なされておられるかの地へ……! そこで再起を……」 「勝つ見込みがあればな……。今朝方、知らせが来た。……殿下は小シマロンの王都から離れた地方の邸で、ご静養に入られることとなったそうだ」 「……それは……?」 「蟄居、もしくは軟禁か……。二世殿下をお助けする必要も価値も、もはや小シマロン王が認めなくなったとうことだ……。おそらくは、謀反人どもの情勢次第で交わされる取引の道具として、生かしておこうというところであろう。そのような場所へ、我らが近付けるはずもない。国境付近で追い返されればまだまし。下手をすれば、逆に捕らえられて取引材料の一つにされるか、もしくは皆殺しか、だ」 おお、と、悲痛な声が一体に満ちた。 「四世陛下は自らご退位を宣言、何処かの地で幽閉されておられるらしいが、お行方も知れず……。何たることだ……! 偉大なる大シマロンがこのように滅び去ってしまうとは………!」 「愚かなり、謀反人ども……!」 嘆きの声の中、大将のすぐ傍らに座していた男が、やおら立ち上がって天に向かって叫んだ。 「事もあろうに、魔族の力を借りようとは! あの汚らわしい魔族、ウェラーめが……!」 「………コンラートは汚らわしくなんかないっ!!」 突如割り込んだ声に、大シマロン軍の生き残り兵が集まるその場所に、しんと沈黙が下りた。 彼らの視線が、捕らえられ、縛られた若い兵士へと注がれる。 武人達の厳しい視線に晒されて、一瞬たじろいだ若い兵士─新生共和国軍の少年兵らは、それでも必死で声を上げた。 「コッ、コンラート・ウェラーは、尊敬できる、素晴しい人だ! お前達、大シマロンの兵士の方が、よっぽど人でなしの集まりじゃないかっ!!」 「そうだっ! お前ら、何もしてない俺達の村を焼き払いやがって! 父ちゃんや兄ちゃんを殺したのもお前らだっ! 汚らわしいのはお前らの方だ!! お前達に比べたら、魔族の方が……」 少年兵の脳裏に、すっかり仲良くなった魔族の少女、だか少年だかこのところよく分からなくなってきた─の姿が蘇る。 『……触れあって、理解しあって、魔族も、人間の色んな国も、仲良くなっていけたらいいなーって!……』 『………今俺達が必死で戦っているのは、一刻も早くこの土地を平和な国にしようと思っての事じゃないのか? その俺達が、戦のない世界、平和な世界を疑ってどうする? 俺は……人はそれが成し遂げられない程無力でも愚かでもないと信じているよ………』 「……魔族の方が……戦ばかりしている人間より、よっぽど、よっぽど立派だ……っ!!」 「……………恐るべきは魔族よ……」 生き残った兵達の大将である男が、ゆっくりとその大きな身体を起こした。 「こうも軽々と愚民どもを手懐けるとは。……分かっておるのだぞ。先日、新たな魔族の一団が、お前達謀反人の砦に入りおったな……。神をも恐れぬ愚かな者ども。いよいよ魔物とまで手を組むか…!」 男が剣を抜いた。 「こうとなれば、もはや帰る場所とてなくした我ら、かの砦の死角を襲い、最後の一戦に全てを賭けるしかあるまい。おぞましき魔族に、天に変わって罰を下すとなれば、神々も我らをお助け下されるであろう……!」 剣が天に向かって突き上げられる。 「誇り高き大シマロンの戦士達よ! 謀反人どもはもちろん、悪鬼魔物闇の眷属、ひとり残らず討ち果たし、その首、見事神にお捧げ申し、我らの正義と誇りを天下に知らしめようではないかっ!!」 おおっ!! 大シマロンの兵士達が一斉に剣を抜き、大将に倣ってそれを天に向かって突き上げた。 「……ちくしょお…っ」 捕らえられた少年兵、アドヌイが悔しそうに唇を噛んだ。 魔族は悪鬼でも、魔物でも、闇の眷属でもない。いつだってユーリは、太陽の下であんなに元気に走り回っているではないか。 「………どうしよう。このままじゃ……」 ゴトフリーも必死で縄を解こうと見悶えるが、どうにもそれは緩まない。 彼らの脳裏に、大シマロンの兵士に切り刻まれる、ユーリの小さな身体が浮かんだ。 「このままじゃ皆が、ユーリ達が殺されちゃうよ……」 もう一人の少年兵、タオもすでに目に涙を浮かべている。 「おいっ! お前らっ! こっちへ来い!」 兵士の一人がアドヌイの襟元を捻り上げた。 「魔族なんぞに誑かされおって! 神罰がどんなものか、お前達の身体に教えてくれるわ!」 「畜生っ! 離せぇっ!!」 大シマロンの数人の兵士達に、少年兵らはなす術もなく引きずられていった。 プラウザよりお戻り下さい NEXT→
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