精霊の日・5

「………………おや………?」
 朝である。
「………………あれ………?」
 ユーリは誰もいないベッドの上に上半身を起こして、腕組みをして悩んでいた。

 ………昨夜の記憶がヘンだ。

「……ここ、コンラッドの部屋、だよな……?」
 夕食後、風呂をもらって、コンラッドの部屋に直行。そして。
「…えーと。その、まあ、なんだ……」
 イロイロあって。それで。
「………………およ………?」
 頭を捻る。と。
 扉が開いた。
「……ユーリ!」
 入ってきたのは、爽やか笑顔のウェラー卿コンラート。この人間の土地ではコンラート・ウェラー。ユーリの名付け親で、保護者で、今はちょっと離れてるけど護衛で、野球仲間で、そして…ダンナさまだ。─恋人とか、婚約者(まだ求婚してもされてもいないが)とか、そういう名称はユーリの頭にすでにない。なぜなら、「俺はもうコンラッドのお嫁さん」なのだから。
「…コンラッド……」
「早いですね。まだ眠っていていいんですよ?」
 コンラートがにこやかに近づいてくる。
「コンラッド……」
「はい?」
 ベッドに手をついて、コンラートがユーリの顔を覗き込む。そして素早く唇に、キス。
「おはようございます、ユーリ」
「お…おはよ……あの……コンラッド?」
 頬をほんのり朱に染めて、ユーリは目の前のダンナさまをまじまじと見つめた。
 軍服とも、眞魔国で街に出る時の私服とも違う。私服は私服だが、いかにも武人のものという、どこかミリタリーな匂いがする服だ。ざっくりと、無骨な、でもその深い濃紺の上着は、すっきりと整った顔立ちのコンラートにとてつもなく似合っている。おまけに額には赤いバンダナ……。
 ………むちゃくちゃかっこいー、さすがコンラッド……………………じゃなくてーっ!
「あっ、あの、コンラッド! 俺、まさか…………」
 考えたくないが、もうそれしかあり得ない。

「……俺。……寝ちゃった……?」

 コンラートが、にこりと優しく微笑む。
「ええ、まあ。でも、ユー……」
 うわぁぁぁあっっ!!
 絶叫と言うべきなのか、悲鳴なのか、それとも雄叫びなのか。
 思わずコンラートが仰け反る程の叫び声を上げると、ユーリはシーツの波の中に突っ伏した。
 うわぁ、うわぁ、うわぁぁ〜…と、シーツに埋もれたまま頭を抱えてのたうっている。
「えーと、あのね、ユーリ、夕べの事はヴォ……」
「ごめんっ! コンラッドッ!! ごめんなさいっ!」
 叫びと共にがばりと跳ね起き、ユーリはコンラートの首にしがみついた。
「…おっ、おれ、俺ってば! あんなっ、エラそーにっ、あんな、色々、言っといてっ! なのに…!」
 寝こけてしまうなんてっ!! それも! あんなタイミングでっ!!
「お、俺っ、男として、自分が許せない……っ!」
 ……女の子でもあるんだけど。とは、突っ込みにならないので口にしない。
 首元に顔を埋めて、うーうー唸っている愛する人の背をぽんぽんと叩きながら、コンラートは天を仰いだ。
 しばし考えて。そしてにっこりとなんとも優しい笑みを浮かべると、そっとユーリの身体を自分から離した。目の前に、顔を真っ赤にして、漆黒の瞳をこよなく美しく潤ませた愛する人。
「朝から泣いたりしちゃ、いけませんよ?」
 頬を暖める様に両手で包み、長い指でそっと目もとを拭う。
 ……柔らかに輝く銀の虹彩を間近で目にして、ユーリは新たな熱で頬を赤らめた。
「………ごめんなさい………」
「もういいから」
「……許して、くれる……?」
「最初から怒ってなんかいませんよ」
 だから笑って? そう囁かれて、ユーリはたまらずコンラートの胸に飛び込んだ。
「コンラッド…!」
 ユーリを抱き締めて、黒髪にキスする。
 背に回ったユーリの腕に、さらに力が加わる。
  「さ、ユーリ。顔洗って、食事に行きましょう。ね?」
 微笑みかけて、ユーリの後頭を軽く叩く。うん、と顔を上げたユーリは、まだほんの少し瞳を潤ませて、それでもにっこりと笑みを浮かべた。
 ─月の光よりも透明で、太陽の煌めきよりも明るく暖かく、そして生命の輝きに満ちている。
 この笑顔を壊したくない。いつも側で見ていたい。自分だけで独占していたい。
 だから。
 余計な事を告げるのは止めよう。そうとも。
 ユーリが可愛い弟に、腹を立てるようなことはしたくないし。
 せっかく自分の、大人の余裕と懐の深さに感動してくれているのだし。
 コンラートは、よし、と頷いた。…………………ズルい。



 砦の食堂は、中堅以上の幹部が使用する事になっている。一般兵士の食事は屋外だ。その食堂に、コンラートはユーリを連れて入っていった。後ろにはヨザックとクラリスが続いている。
 まだ時間が早い事もあってさほど混み合ってはいなかったが、来訪は知っていても実物を見ていない者の方が多い中堅どころの者達は、いきなり現れた魔族の姿に、一瞬全ての動きを止めた。
 コンラートが魔族の血を引く事は周知の事実だ。だが、ベラールの直系である事の意味があまりにも強く、また眞魔国を出奔しているという事もあって、単に「血を引いている」というその認識だけで、話は彼らの中で終わっていたのだ。だが、ここにきて、その魔族方の親だの兄弟だのが、いきなり訪ねてきてしまった。
 魔族といえば、魔物である。邪悪なものである。悪魔である。人間の敵である。その意識はまだまだ根強く彼らの中にはびこっている。いくらダード師が言葉を尽くそうとも、物心ついた頃から教え込まれた「真実」は、そうそう覆るものではない。実際、砦の人々は、突如現れた魔族の一家にどう対すればいいのか、全く分からずに頭を悩ませていたのだ。

「お早うございます、エレノア、老師、カーラ。……アリーとレイルも、今日は早いんだな」
「お早う、コンラート。お早う、お嬢さん。ええと、ユーリさんだったかな?」
「はい! おはようございますっ!」
 ただ1人、にこやかに言葉を返すダード師に、元気いっぱい、笑顔満面で答えると、ユーリがぺこんとお辞儀をした。後ろでヨザックとクラリスも頭を下げる。
 それを見て、エレノア達がようやく、ハッと気がついた様にそれぞれ挨拶を口に上せた。
「……お早う、コンラート、…ユーリ、さん。その……よく眠れましたか……?」
 エレノアにそう尋ねられて、ユーリは照れくさそうに笑うと、「はい、とっても」と笑顔で返した。


 今日の少女は、まるきり男の子、だった。
 薄い空色の丈の短い上着、その下には首のつまった柔らかそうな白い大きめのシャツを纏って、腰の辺りをベルトで絞っている。そして紺のズボンとブーツ。確かに、この砦にいるなら、ドレスよりこういう姿の方が過ごしやすいだろう。エレノアは、何気なくそう思った。
 前髪が妙に長くて、その下に大きなメガネを掛けているのは分かるが、今一つ表情が見えない。ただ、そう、性格の明るい子だというのは分かる。全身から、いかにも健康的な、朗らかさ、素直さ、といったものが匂い立つ様に感じられるからだ。
 魔族という言葉から感じられる陰湿な雰囲気とか、禍々しさは全くない。
 だとすれば。
 エレノアは思った。
 だとすれば。この少女が、当たり前の魔族の娘だというのなら、私たちが言い習わしてきた「魔族」とは、一体何だったのだろうか……?

 コンラートはエレノア達の近くに空いたテーブルに少女を座らせ、恐る恐る近づいてきた厨房の者から、今朝の食事の盆を受け取っていた。執事らしい男と、堅苦しいドレスを纏った、だが冷たいまでに整った顔立ちの女がそれを手助けする。
「…あの、コンラート?」カーラが口を開いた。「お母上と弟、君、は?」
「ああ。母と弟は朝がまったくダメでね。こんな時間には絶対目を覚まさないんだよ」
「ヴォルフなんて、ベッドからケリ落としても起きないもんな!」
 そうそう、とコンラートが笑う。今日もまた、甲斐甲斐しく少女の世話をするコンラートに、カーラの口から思わずため息が漏れ出た。ふと見ると、アリーが睨み付ける様に二人を見つめている。
 その視線に気づいた訳でもないだろうが、ふとコンラートが視線をアリーとレイルに向けた。アリーが慌てて目を逸らす。
「……アリー、レイル、ちょっと頼みがあるんだけどな」
「…何ですか、コンラート」
 返事をしたのはレイルだ。コンラートは、んぐんぐと食べ物を咀嚼している少女をちらりと見てから、二人に笑顔を向けた。
「今日は俺もいくつか予定があるし、この子の側にずっといてやることができないんだ。二人ともよかったら、ユーリの相手をしてやってくれないかな? 年頃も変わらないし、話も合うと思うんだが」
「…………………え……?」
 頼まれた内容もそうだが、聞かされた一言に、そのテーブルにいた人々は皆一様に目を見開いた。
「……年頃が…って……?」
 皆の驚いた様子に、一瞬きょとんとしたコンラートだったが、すぐに、ああ、と破顔した。
「そうか、まだ言ってなかったな。……実はユーリもね、俺と同じ混血なんだ。混血は成長の仕方が普通の魔族と違うからね。ユーリはまだ十代、確かアリー達と大して変わらない年頃だったと思うけどな」
「…そ、そうなの…!?」
 思わずアリーが聞き返す。ジュースで、口いっぱいに頬張っていたものを飲み下し、ユーリはにこっと笑って頷いた。
「そーですっ。……俺だけじゃないよ。グリエちゃんもクラリスもそう!」
 ユーリの言葉を受けて、コンラートが「彼らですよ」と側に控える二人を示す。
「ま、あ、じゃあ……あなた方、皆……?」
 思わず呟くエレノアに、反応したのはヨザックだった。
「そうなんですぅー、奥方様ぁ」
 筋肉質の男の言葉遣いと、しなっとした素振りに、テーブルの人々、と彼らをそっと注目していた者達が一斉に引く。
「私たちぃ、皆混血なんですのー。でもってー、私とこのクラリスちゃんはー、片親がどっちもシマロンの人間だったんですよねー。私たち、大シマロンで生まれて育ちましたのよぉ」
 ほお、と人間達から声が上がった。
「ではあの、どうして眞魔国へ……?」
 カーラが思わず問いかけると、ヨザックが大げさに肩を竦めてみせた。
「やっぱり成長の問題ですわ、お嬢さま。最初は分からなかったんですけど、ほらやっぱり、いずれは他の子供と成長の仕方に差が出ちゃうものですから。で、魔族の血を引くって分かって、収容所に放り込まれましたんですぅ」
「……収容所……?」
 カーラ、そしてアリーもレイルも首を傾げる。ダード師が苦笑を洩らした。
「大シマロンが、国内で魔族と関係を持った人や、混血の子供を強制的に集めて閉じ込めた施設だよ。草1本生えない荒れ地でな、碌に食べ物も与えず、のたれ死にさせるために作ったようなものだった……。そうか、あそこにいた人たちだったのか……」
 その存在を知らなかったカーラ達が、驚いた様に顔を見合わせ、改めてヨザックとクラリスを見つめ直した。
「あの……そこから、どうやって……?」
「コンラート、様のお父上が、助けて下さいましたの」
「……ダンヒーリ−・ウェラー殿が……!?」
「はい。コンラート様もご一緒でいらっしゃいましてね。それで、のたれ死に寸前の私たちを連れて、眞魔国へ連れていって下さいまして。………ダンヒーリー様は、私たちの命の恩人ですわぁ」
「……そう、だったのですか。それで……」
 彼らはコンラートの一家に仕えている訳か。エレノア達は心に頷いた。
 しかし、ならば。同時に思う事がある。
 混血の者達に対して、人間よりも魔族の方が、よほど温情溢れる態度を取ったことになるではないか……。少なくとも彼らは、衣食に不自由している様には全く見えない。そして誰より、ユーリ、この少女が。元気に明るく笑う少女からは、差別される者の傷がまったく伺えない。コンラートや、その家族が護ってきたのだとしても……。
 ふと、エレノアは眉を顰めた。
 ─何だろう、何かが引っ掛かる………。
「……それで……いいかな、アリー、レイル? ユーリと一緒にいてくれるか?」
 え? と一瞬惚けた様に目を見開き、それから二人はどこかあたふたと頷いた。
「えと、い、いいわよ? 今日は別に予定もないし。ね? レイル?」
「う、うん。そうだよねっ。ええ、もちろん構いません、コンラート。えっと……よろしくね、ユーリ、さん?」
「ユーリでいいです! こっちこそ、よろしくっ!」
 何故か片手にフォーク、片手にスプーンを握りしめて、ユーリがにぱっと笑う。
 コンラートと同じ混血だというだけで、自分達の理解できる土地の生まれだと分かっただけで、今まで正体不明の無気味な存在だった彼らが、一気に近しく思えてしまうというのは、あまりにも現金な考えだろう。それでも、心のどこかでホッとしている自分がいる。
 エレノアも、カーラも、そしてアリーもレイルも、彼らに対して密かに抱いていた嫌悪感を、ほんの少し和らげる事ができた事実を、どこか胸を撫で下ろすような気持ちで認めていた。




「……それ、ホント!? 15になるまで、自分が魔族だって知らなかったってっ」
 アリーは思わず叫んでしまった。隣でユーリがけろっと頷いた。
「そう。父親が魔族だってのも知らなくってさー。丸っきり庶民だったし、オヤジも普通に暮らしてたし…。だからいきなり知らされて、うっそー! 何じゃ、そりゃーっ! って感じだった」
 貴族の娘ではありえない言葉で表現されたその心情は、何だかものすごく実感が籠っている。
「びっくりしただろうねー。……うん、すごくよく分かるよ……」
 レイルもしみじみと頷いた。

 今3人は、何となく連れ立って砦の外へ食後の散歩に出ていた。彼らから少し離れて、家庭教師のような女、クラリスがついてくる。ちなみにとってもおかしな執事は、コンラートが話があるといって連れていってしまった。
 相手をすると約束してしまったはいいが、正直話が合うとは思わず、また何となく心に引っ掛かりも覚えていて、アリーもレイルも、実はかなり緊張していたのだ。だがそこへ、そんな複雑な思いを吹き飛ばすような事実を、ユーリから齎されてしまった。
「だったらあなた、人間の国で暮らしていた方がずっと長いじゃない!?」
「うんまあそう。…眞魔国に来たはいいけど、何にも分からないし、生活違い過ぎるし、上級魔族語なんてこれっぽっちも読めないし。……すっげー大変だった……」
「ご両親とは一緒にいられなかったの?」
「……うん……。ちょっと…ワケあって…。俺だけ……」
「……そうなんだ…それは………。それにしても! 何だか、人生が一気に変わったって感じよねっ?」
「変わったなんて生易しいモンじゃなくて。何つーの……それまでの人生がバーンって爆発して、どーんと吹っ飛んでって、もううっひゃーっ! て感じ」
「………す、すごいね……」
 うんそう。とユーリが頷く。
「まじすごかった。……でも、コンラッドがいてくれたから!」
「名付け親、だったっけ?」
「そうそう。それも眞魔国に来てから分かったんだけど。…んで、俺の保護者ってコトで、ずっと側にいてくれて、いっぱい助けてくれて。俺、頭悪いから、すっげー面倒ばっかり掛けちゃったんだけど。まあその……だんだんうまくいくようになって。で、まあ、今に至る、と」
 ちょっとイロイロスッ飛ばしだけどー…。ごにょごにょ、ユーリが口ごもる。
「……大変だったんだね。…そうか、それでコンラートが…」
 レイルは自分の言葉に頷いた。
 いきなり魔族達の中に放り込まれたら、この子はどれだけ心細かっただろう。コンラートは優しい人だし、親代わりなんだから、きっとこの子が馴染める様に一生懸命だったに違いない。あれほどまで、過保護なくらいに大事にするのが、すっかり習い性になってしまうくらいに。
「……ね、レイル…?」アリーがそっと従兄弟に囁いた。「…てっきり我がままで甘ったれのヤな子なんだって思ってたんだけど……」
 ちょっとだけ、考え変えてみることにするわ。
 軽く肩を竦めてアリーが笑う。
「あの子と、仲良くできるかもしれないね」
 レイルが囁き返す。そして二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。
 そんな彼らの前で、ユーリはきょろきょろと何かを探す様に辺りを見回していた。
「どうしたの? ユーリ」
 とても自然に「ユーリ」と呼べる自分のちょっとした変化が、アリーはひどく嬉しかった。
「………うん……。何か、こう……どうも空っぽっぽい感じがして、ヘンだなーって……」
「空っぽ……って?」
「…うん、そのー……俺、あんまり意識して魔力って使えないんだけど……」
「あるの!? 魔力っ」
 思わずアリーが突っ込む。ユーリがびっくりした様に二人を振り返った。
「…えっと、うんまあ、ちょっと……」
「どんなのっ!? ねえ、魔力ってどんなコトができるの? やっぱり口から火を吹いたり、大風を起こしたり、洪水を起こしたり…っ!?」
 えっとぉ、とユーリが頭を抱えた。口から火を吹くヴォルフラムを想像して、思わず吹き出しそうになる。が、それはいいとして。記憶に定かではないが、自分もそれはもう凶悪なのをいくつか披露した事がある、らしい。しかし。
「……俺が、やろうと思ってできるのは、傷を治したりとか、熱を冷ましたりとかくらいだよ…?」
「それ、癒しの力っていうあれかい?」
 興味深げにレイルが尋ねた。ユーリも頷く。
「ホントの癒しの術者は、もっと凄いんだけど、俺ができるのはせいぜいそんなもん。ちょっとした風邪を治すくらい」
「それだけでもすごいわ! お医者様も薬もいらないんだもの。そんな人がいてくれたら、どんなに皆助かるか!」
 いや、そういうのとちょっと違うんだけど、とユーリは困った様に頭を捻った。捻りながら歩を進めるユーリの耳に、その時、かすかな剣戟の響きが聞こえてきた。
「………剣…?」
「ああ、すぐそこに大きな広場があるんだよ。練兵場なんだけどね…。何と言っても寄せ集めの軍だし、経験の浅い兵士も多いからね。常に訓練は欠かせないんだ」
 ユーリの呟きに、レイルがていねいに答える。
 やがて彼らの前に、広々としたグラウンドのような広場と、そこで剣や様々な武器を闘わせている兵士達が現れた。
「…あ、クロゥとバスケスがいるー。……やっほー! おーいっ、くーちゃん、ばーちゃん!」
「……く、くうちゃん……!?」
「ばっ、ばーちゃん、って…!」
 いきなり走り出したユーリに、クラリスを含めて、アリー達は一瞬出遅れた。
 兵士の1人が気づいて動きを止め、やがれそれが次々に連鎖し、広場の全員が凍り付いた様になって、突然自分達の中に駆け込んできた魔族を凝視している。
 そして妙な呼び名で声を掛けられた二人はというと。
「……げえっ!」
 少年兵に稽古をつけていたバスケスは、踏み潰された様な声を上げて仰け反り、同じくクロゥも、しまった、と言う様に頭を抱えた。
「久し振りー。昨日はろくに挨拶もできなくてゴメンなっ。元気だったー!?」
 おそらく見つめられる事に慣れ過ぎているのだろう、周囲の視線等気にも止めず、元気に走りよってくるユーリに、クロゥは脱力感を押しとどめる事ができなかった。だが表情に上せる事だけは必死で抑え、背筋を伸ばして少年(少女?)と相対した。
「……お久し振りです。あなたもお元……き、って……え?」
 ばしばしばし。突如、ユーリが両手でクロゥの肩や胸を叩き始めた。
「ダメだって、ダメだって、そんな言葉遣い、マズいってばあ。ほら、前にゆったじゃん? 戻して、ね、くーちゃんも、それにばーちゃんもっ」
「……………」
 クロゥが深々とため息をつき、バスケスは、「うう」と唸って顔を顰める。
「そうか、お二人はユーリと会った事があるんですね」
 やっと追い付いたレイルが、そう口を挟んだ。すかさずユーリの傍らに寄ったクラリスが、視線でクロゥ達を牽制する。
「うん、そう。くーちゃんとばーちゃんが眞魔国についた時、俺とヴォルフが迎えに港まで行ったんだ。でもって、王都まで案内したんだよ」
 へえ、とアリーとレイルが頷いている。
 船から降りた途端に、「とっとと出て行け」と、あの弟が剣を片手に怒鳴り付けてきたり、「コンラッドは渡さない」とユーリが宣言したことは、もしかしたら当の本人達に忘れられているのかも知れない。
 クロゥとバスケスは、けろりと笑うユーリを見て、何となく遠い視線を宙に向けた。

「……あの、アリー様、レイル様……」
 後ろからそっと呼ぶ声に振り返ると、そこには先日親しくなったばかりの少年兵、アドヌイやゴトフリー達が、どこか不安そうな面持ちで立っていた。
「…あの……大丈夫、ですか…あれ……」
 あれ、とはユーリのことだろう。レイルは苦笑すると、軽く手を振った。
「大丈夫だよ。ユーリはとってもいい子だよ。話してみてごらんよ、丸っきり僕らと変わらないから」
「そうよ。それにね、あの子もコンラートと同じ混血なの。それに、人間の国で育って、15になるまで自分が魔族だってことも知らなかったんだって。貴族のお姫さまでもないのよ。ホントに普通の子。うん、レイルの言う通り、感じのいい子よ」
 へえ、と、少年兵達が声を上げた。何より、アリーの雰囲気が昨晩とは全く違っている。
 待ってね、と言うと、アリーは振り返り、クロゥ達と何やら話しているユーリに近づいて声を掛けた。そしてすぐに二人して彼らの元に戻ってくる。
「皆、ユーリよ。コンラートの名付け子で、魔族だけど年は私たちと変わらないの。仲良くしてあげてね」



「じゃあ、ホントに全然知らなかった訳!?」
「ホントだってば。父親は銀行……えーと、まあ商店で働いてて、丸っきり普通の人間だったから、まさか魔族だなんて、想像もしなかったし」
「……怖くなかった?」
「怖くはなかったよ。びっくりしただけ。それに、コンラッドとか、助けてくれる人がいたから大丈夫だった!」
「……でも、ご家族と別れ別れなんだろう? 寂しくなかった?」
 えと、それは……。口ごもってうなだれるユーリに、質問した少年が「ごめん!」と慌てる。

 いつの間にか、ユーリを中心に、アリーやレイル、そして少年兵など広場にいた兵士達が、集まって大きな輪を作っていた。
 ユーリが人間の血を引くだけではなく、人間として生まれて育った事を知って、彼らの心を覆っていた不安や恐怖心といったものが、かなり薄れてしまったらしい。逆に、知られざる魔族と彼らの国についての好奇心が、むくむくと兵士達の中に湧き上がってきた様だった。それでも人間達を警戒してか、クラリスだけが固い表情のまま、気配を殺してユーリの側に侍っている。
「眞魔国ってさ、どんなの? いつも暗闇で、恐ろしい獣や化け物がいっぱいだって、ウチのばあちゃんが言ってたけど」
「ぜ−んぜん! すっごく綺麗な国だよっ。緑がいっぱいで、花もいっぱいで、水もきれいで。朝はちゃんと太陽が上って、暗くなるのは夜だけ。そんなん、人間の国と変わらないって。……まあ、ちょっと人間の国では見ない生き物がいたりなんかしたりするけど……」
 骨飛族に骨地族、それから魚人族といった魔族に関して話すのは、ちょっとまだ早いかも知れない。
「怖くなんてないし、化け物なんていません! 国民も一緒だよ。朝起きて、仕事したり学校行ったり、夜には眠る。あのさ、魔族だって人間だって、そりゃ違う種族かもしれないけど、生活は同じなんだよ? 笑ったり、泣いたり、怒ったり、悩んだりも全部同じ! ……そういうの、ちゃんと分かって欲しいんだよねー」
「……大地が枯れたり、旱魃が起きたり、山火事が続いたりするのは、全部魔族の仕業だって言われたんだけど……」
「ちーがーうー! あのさっ、魔族の力は自然の要素、えーと精霊達との盟約で出来てるの。自然があってこそ、魔族は生きていられるし、魔力を使える訳。だから魔族は自然をとっても大事にして、護ってるんだよ? 街造りだって、道路の普請工事だって、必ず精霊達の許しを得てやることになってるんだから。なのに、大地を枯らしたり、旱魃起こして水をなくしたり、作物をダメにしたり、山火事で緑を燃やしたり、そんな、精霊達を殺すようなこと、できるワケないじゃん? むしろそういうのをなくそうって、魔族はがんばってるんだから! あーもー」
 誤解されてんなー。はあ、と息をついてユーリがかくんと肩を落とした。
 一気に喋ってがくっと項垂れてしまったユーリの姿に、周りを囲む若い兵士達は思わず顔を見合わせた。あまりにも……教えられた姿と違い過ぎる。
 コホン、と咳払いが一つ。
「…ユーリ、の言う事は間違ってない」
 クロゥだ。全員の視線が、少し外れた所に立っていた彼に集まる。
「俺とバスケスは眞魔国を実際に訪れてみて、今まで正しいと信じていた話が、全く間違っている事を思い知らされた」
「………くーちゃん……!」
 イヤそうに、しかしなぜか頬を赤らめて、クロゥがぷいとそっぽを向く。
「そもそも邪悪な種族なら、いくら混血とは言え、コンラートのような男が生まれるはずもないだろう」
 あ、と声を上げて、兵士達が瞠目した。しかしまだ、当然の事として信じていたものを、疑う事ができない。皆の瞳が、どこか不安に揺れている。疑ってしまったら、一つの「真実」を疑ってしまったら、際限なく全ての事が信じられなくなる、それを怖れているかの様に。
「………よいしょっと!」
 いきなり。妙なかけ声と一緒に、ユーリが立ち上がった。顔が笑っている。
「ま、こういう誤解がすぐに解けるとは思ってないし! でも、時間が掛かっても、いつかきっと分かってもらえると思う。魔族もその努力をしてる最中だし」
 まだまだ希望は胸いっぱい!
 にこーっと笑って、うん、とユーリが背伸びする。青空と太陽に向かって。
 その姿に、その場にいた全員が不思議な程に見とれてしまった。
「………何だが……ドキドキする……」
 アリーが呟く。そしてレイルもまた、胸の奥にざわめきを覚えていた。でもそれは不快なものではない。新しい何かが始まろうとしているような、すぐ側にある大切な何かに、中々辿り着けずにいるような、わくわくする、そしてひどくもどかしい、奇妙な感覚。自分の中にあるこの感じが、おそらくアリーのいうものと同じなのだろうと、レイルは思った。

「しっかし、ここ、すっげー広いなーっ」
 ユーリが広場、練兵場を見渡して言った。
「これなら野球も出来そう」
「……やきゅー…? 何、それ?」
 問われて、ユーリは腕を組み、うーんと唸った。
「スポーツ、って言っても分かんないだろうし。…えーと。遊びっていうか、ゲームっていうか、まあ、チームに分かれて、対戦形式で行う遊び、だな」
「遊び、って、子供の?」
「じゃなくてー。老若男女関係なく! 体力とか運動能力とかはもちろん、駆け引きとか敵の作戦を読むとか、こうと決めたら即決行する決断力とかも要求される、すっごく高度な遊びなんだ!」
 ユーリはその遊びがかなり好きらしい、とアリー達は思った。
「……広い場所が必要なの?」
「うん、まあね。でも、この広場くらいあれば充分だよ。眞魔国では結構盛んなんだぜ? まあ近頃は誰かさんの策謀で、サッカーもかなり勢いを増してきたけど……」
「……さっかあ……? それも眞魔国の遊び?」
「え、あ、まあそうだけど、そっちはいいんだ、別に。……あ、野球はさ、コンラッドも一番気に入ってるんだよ。ちゃんとチームにも所属してるんだ!」
「コンラートが? やきゅーって、コンラートが好きな遊びなの!?」
「好きも好き、コンラッドが一番大好きな遊びです!」
 突如、アリー始め皆の目の色が変わった。
「ご興味がおありの方には、このユーリがお教え……って、うー、せめてボールとバットがいるんだよなー」
「何なのっ、ぼおるとばっとって!」
 アリーが詰め寄る。
「…えとっ、このくらいのボール……球、で、弾むものがいいだけど……。それと、これっくらいの」両手を伸ばす。「棒が、あれば……」
「投擲爆弾の訓練用の球がありますよねっ。初心者向けのは、かなり柔らかくしてあったはずです。それと、練習用の木剣が!」
 少年兵の1人が、明るく声を上げた。そうだそうだという声に、「持って来い」という誰かの声が続く。少年兵の1人が、ばたばたとどこかへ向けて走り去った。
 やがて運ばれた訓練用模擬爆弾の球と木剣を手にして、ユーリは思わず「わお」と声を上げた。
 球は、少し大きめだし、ちょっと柔らかめだし、弾み方に少々難ありだが、それでもポイントを教えるくらいなら充分だ。それにミットもグラブもない状態だから、柔らかい方が助かる。そして剣は、既に出来上がったものは細すぎたが、念のため、と一緒に持ってこられた作りかけの無骨な棒は、グリップが今イチな点を除けばほぼオッケーである。
「大丈夫! これならできるよ!」
 わあ、と明るい声が上がった。
「……嬉しーなあ。そんなに野球に興味もってくれるなんて!」
 ユーリが心底嬉しそうに言った。ので、アリーやレイルや、その他大勢は、ちょっとだけ目を虚空に逸らした。野球に興味があるのではない。何でもいいし、少しでもいいから、コンラートに近づきたいだけなのだ。
 そんなコトに全然気づかないユーリは、バット(出来かけの木剣)をびしっと構えて宣言した。

「ではこれより、シブヤ・ユーリの野球教室を開催致します!!」




 

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………ここで終わるはずじゃなかったのです。
実は夢中で書いていたら、いきなり「これ以上テキストは書き込めません」というエラーメッセージが。
仕方がないので、キリのいいトコまで戻って、一旦終わらせました。なので、続きは今回より早くアップできるかと。かなり先まで書いてあるので。
それにしても何と言うか。
反目とか、妬みとか、嫉みとか。そういう人間関係を書き続けられない自分を新発見。
幸せいっぱい、みんな仲良しが大好きな胡城でした。

それにしても長い!
もう開き直りですね。どれだけ長くなってもよし! 書きたい事を書きたいだけ書く!

どうぞ呆れず、おつき合い下さいまし〜。
ご感想、お待ちしておりますー。