精霊の日・4

 ワインの入ったグラスを、カーラはことりとテーブルに置いた。
 正面には、同じ様なグラスがもう一つ。そしてその向こうに、エレノアが座っている。
「あなたと二人きりでお酒を飲むのも、何だか久し振りね」
 エレノアの言葉に、カーラも小さく頷いた。
「それにしても、コンラートのお母上が、あのような女性とは思いもしませんでしたよ」
 その身を豪華に飾り立て、朗らかに笑う黄金の美女。
 いつものエレノアの私室、わずかな蝋燭の灯火の中で、祖母と孫は小さく微笑みあった。


 その日の正餐は、なんとも言えない雰囲気の中で進められた。
 指導部の面々が居並ぶテーブルには、新たな客が加わっている。こともあろうに……魔族だ。
 魔物、化け物、悪魔、世界を破滅させようと企てるモノ、人間の敵。
 延々そう伝え続けて、そして、今、その恐るべき種族と新たな関係を結ぶべきかどうか、議論すらできずにいるこの時に、当の魔族の一家がこの砦に遊びに、そう、家族の1人に会うため、遊びに訪れたのだ。
 他の誰でもない、共和軍の誰もが頼りにするコンラートの家族だ。
 実の母親と弟、そして引き取って育てたというからには娘と呼ぶべきなのだろう少女とが、供を引き連れてやってきたのだ。これを歓迎しない訳にはいかなかった。たとえ魔族であろうとも。
「美味しい? ユーリ」
 優しい声でコンラートが傍らの少女に囁く。
 エレノア達を何より愕然とさせたのが、このコンラートの態度だった。
 己の傍らに椅子を引き寄せ、ぴたりと寄り添う様に少女と並び、食事の世話を細々としてやっている。
 肉を切り分け、パンを千切り、手が利かぬ訳でもあるまいに、スプーンに乗せた食物を、自ら口に運んでやりもしていた。コンラートが少女の口元についた何かの欠片を指で摘み、迷わず己の口に入れたのを目撃した瞬間、エレノアは口に含んだワインを、思わず吹き出しそうになっていた。
 見た目がアリーやレイルと同年代なら、もうずいぶんな年齢だろうに、まるで幼い子供の相手をするかの様なその態度。そして何より、その表情。

「……コンラートにあんな優しい顔ができるなんて……想像もしていませんでした」
 祖母の言葉に、カーラも頷く。

 優しく、蕩ける様に優しく、それはもう愛しげに微笑む顔。
 砂糖菓子かガラス細工に触れる様に、そっと伸ばされ、大切そうに少女の頬を滑る指。
 内に何かを秘めた様な、厳しい顔ばかり見てきたエレノア達には、あまりにも見慣れない彼の姿だった。

 魔族の一家は、実に賑やかだった。まるでそこだけに光があたっているかの様に。
 同じテーブルを囲む人間達の、不安、疑念、そして恐怖を湛えた瞳など意にも介さず、旅の思い出話などを、時には歓声を上げながら語り合っている。娘の世話をしながら、コンラートもまた楽しげに、時折相槌を打って話に加わっていた。和気藹々とした、仲の良い家族の図。

「……どうしてかしらね? 私は、コンラートはてっきり家族からも見放された存在なのだと思い込んでいましたよ……」
 祖母の言葉に、私も、とカーラは頷いた。
「コンラートには、だから、私たちしかいないのだと……そう思っていました」

『…ちっちゃな兄上は、どうしてもと頼まれて仕方なく、いいか? 仕方なく! ここの者達の手助けに来たんだ! 世話をしているのはこちらの方だ…』

 彼の…弟の声が耳の奥に蘇る。
 そう叫ぶ様に言って、瞬間、こちらを睨んだ瞳には、危険な戦場から兄を取りかえそうとする、弟の決意が漲っていた。
「……ちっちゃな、兄上……か……」
 確かコンラートは言っていたはずだ。自分の兄と弟は、自分と違って大貴族の父を持っている、と。そして公式の場では、コンラートの方から母親や兄弟に、声をかける事は許されなかった、と。
 ああ、だから私たちは勘違いしてしまっていた。コンラートの母や、兄弟達もまた、コンラートを疎んじているのだと。だがそうではなかったのだ。例え公式の場でどうあろうとも、母の、兄弟の情愛は、ちゃんと彼らの中に存在していたのだ。
「………アリーとレイルが……ひどく衝撃を受けています……」
 ほう、とエレノアが息を吐き出した。
「……それも無理はないわね。母親は、仕方がないとしても……実際の年齢はどうあれ、見た目は同年代のあの二人が現れたのですから……。コンラートを実の兄とも慕っていたのに。……本物の弟と、娘、ですものね…」
 二人の間に、しばしの沈黙が降りた。
「………お祖母様」やがてカーラが口を開いた。「それでも。コンラートに私たちを選んで欲しいと願うのは、許されない事でしょうか?」
「…カーラ」
「コンラートは一度眞魔国を捨てています! おそらく……許されたのは、あの家族が尽力したのだろうと思いますが……。でも、彼は今もここにいます。ならば、コンラートの心が私たちにあると、そう思って良いのではないでしょうか? だって、そうでしょう? 頼まれて仕方なく、などという言い訳で、魔族の王が2度もコンラートを許すとは、到底考えられません!」
「……カーラ……」
「私は…諦めたくありません………いいえ」
 カーラは膝の上で、両手を固く握りしめた。
「諦めません。絶対……」


 松明の灯りが遠くに瞬く。ほとんど頼りは月明かりだけの訓練場に、数人の少年達と少女がいた。
「俺、ばあちゃんから魔族ってのは化け物だって聞かされてたけど、ホントはすげー綺麗なんだな」
「…ある意味、化け物と同じじゃねーの? 綺麗すぎるって」
「あの弟ってのもさあ。ものすごい美形だったよな。俺、うっかり見とれちゃったよ」
「性格最悪じゃないの」
 少年達がしんと静まった。口を挟んだ少女の声音が、あまりにも刺々しかったからだ。
「……あんなのがコンラートの弟だなんて。………私、イヤだわ。認めたくない……!」
「僕達が認めるとか認めないとかの問題じゃないよ、アリー」
 傍らに腰掛けて、レイルがアリーの手に自分の手を重ねた。
「…あ、あのっ、あれですよねっ、魔族だから綺麗とか、それも違いますよねっ。だってほら、コンラート様が育てたとかいう、あの子」
 ああ、あれ! と、少々わざとらしく座が湧いた。
「何だかすげー野暮ったい感じの」
「エストレリータさんが、子猿娘だって言ってたよ! ほら、コンラート様に一生懸命しがみついて、子猿そっくりだって!」
 わっと笑いが起こる。
「トロくさいっていうかさあ。……あんなのでもご自分で育てたとなると、やっぱり可愛いものなのかね」
「そっかなあ…」少年の1人が遠慮がちに言葉を挟んだ。「何か、ちまちましてて、俺は可愛いって思ったけどなあ……」
 闇の中、突如ばしばしと、小突く音やら蹴り飛ばす音やらが響く。
「私は」低く、アリーが呟く様に言った。「…ただの一度だって、コンラートにあんな風に抱き上げてもらった事も、キスしてもらったことも、ないわ」
「アリー……」
「………あんな顔で、笑いかけてもらった事も」
 静まり返る少年兵とレイルを残し、アリーはその場を後にした。





 月の光が射し込む、その部屋、ベッドの上で。
 コンラートは膝の上ですっぽりと、抱え込むようにユーリを抱き締めていた。
 大きな手が、ユーリの熱い頬を挟み、ゆっくりと持ち上げる。二人の視線が合わされた。
「…コンラッド………やっと会えた……」
「ユーリ……本当に、信じられない……。ここで、この場所で、あなたをこうして抱いているなんて……」
「………怒ってない…?」
 上目遣いでお伺いをたてる主に、コンラートは小さく笑った。
「びっくりし過ぎて、怒るタイミングを逃してしまいました」
 よかった、とホッと息をつきながら呟くユーリが、改めてにっこりと笑う。しょうがないなあ、と返したコンラートも、さらに深い笑みを浮かべた。
 そしてそのまま。自然と流れる様に。
 二人の唇が、そっと合わされた。
 唇が触れあうだけの幼いキスを繰り返し、伸ばした手で髪に触れ、身体の線をなぞり、温もりを確かめて、互いがそこにいる事を、ゆっくりと実感しあう。熱が、ぴたりと寄り添った二人の身体を巡る様に立ち上ってくる。
「……遠かったぁ……」
「ええ。…眞魔国からは、とても離れてるんです……」
 蒼い月の光の中に、ユーリの濡れた黒髪が溶けていくような気がする。存在の全てが、夢のように─。
 コンラートは、確かにある熱い身体を、力を込めて抱き締めた。
「……お風呂」
「…え?」
「すみません、小さくて……。長旅の後なのに、たっぷり湯を張る事もできなくて……」
「平気、そんなの」
「疲れてるのに……」
「…だからっ、コンラッド…!」
 まるで飛びつく様に、ユーリがコンラートの首にすがりついた。弾みでコンラートの身体がベッドに倒れ込む。身体の上にユーリを乗せた形で、コンラートは小さく息をついた。そして、そっと身体を浮かせ、下敷きになったシーツを捲りあげる。
「……さ、もう休みましょう。今夜はここでご一緒してもいいですよね?」
「……え、あの……コンラッド……?」
 コンラートの胸に埋められていたユーリの顔が上がる。それは夜目にも真っ赤に染まっていた。
「えと……あの、俺……」
「だから疲れてるんですよ、あなたは。もう休まないと。明日はゆっくり眠っていていいですからね」
 頭を撫でられ、いかにも保護者然とした言葉を、微笑みながら告げられて、しばしユーリはコンラートを凝視した。ユーリの、その表情が急激に強ばってくる。「見つめる」が「睨み付ける」に変化するのを見届けたコンラートが、思わず苦笑を洩らした。
「……俺、部屋に帰る!」
 言うやいなや、ユーリはバッと身体を起こし、荒々しい動作でベッドを降りた。
「ユーリ? ……ユーリ…」
 背を向けたユーリが立ち上がる前に、コンラートは腕を回し、その細い身体を後ろから抱き締めた。
「怒らないで下さい、ユーリ。……これでも結構我慢してるんですから……」
「………………我慢……? 違うんじゃねー? ホントは……後悔してんじゃねーの?」
「ユーリ……」
「……あの時……うっかり流されて、俺みたいなガキとあんなコトになっちゃって……それで……ホントは…なかったコトにしちゃいたいんじゃねーのっ!? だっ、だから……っ」
 言葉の最後は涙まじりだ。この豊かな感情の波。言い放たれた言葉の内容よりも、その愛すべき素直さに感動して、コンラートは苦笑ではない笑みを口元に浮かべ、ユーリの薄い肩に額を押し当てた。
「……そうですね。………後悔していないと言ったら…嘘になるでしょう」
 ユーリの肩がびくんと震えた。
「……俺は、決してあなたにふさわしい男なんかじゃない。それは誰より俺が一番よく知っている。いや、知っていたはずなのに……俺は、あなたが欲しいという思いを、抑える事ができなかった。そして……あなたを、奪ってしまった………」
「………何だよ……何だよっ、それ…っ!?」
 コンラートをはね除ける勢いで、ユーリが振り向く。
「ふさわしくないって、何なんだよっ!? 何がふさわしくないんだよっ。誰がんなコト決めんだよっ! それにっ。何だよ、奪うってっ!!」
 俺は何にも奪われてなんかいねーぞ!!
 弾ける様に立ち上がり、ユーリはベッドに座ったままのコンラートに向き直った。
「言っとくけどなっ!」
「……はい」
 コンラートが背筋を伸ばす。
「俺はっ、あんたが好きなんだよっ! 他の誰よか、何よか、世界で1番、あっちもこっちも含めてだぞ、いいか!? 俺は! ウェラー卿コンラートがっ、好きなんだよ! えっと、あー、だからっ、そのっ、アイしてんだ、ばーろー、分かってんのか、こらっ!」
 文句があるなら掛かって来いっ!
「だから! ………あんたはどうなんだよ?」
 拳を握りしめて、両足を広げて踏ん張って、真っ赤っかな顔を、精一杯怖くして。
 可愛くて、可愛くて、愛しくて。
 コンラートは座ったまま、ユーリを抱き寄せ、抱き締めた。
「わきゃっ」
「…ユーリ」
 ちょうど頭がユーリの胸に当たる。薄い胸に頬をすり寄せて、コンラートは泣きたい気持ちを懸命に抑えた。
「………愛しています、ユーリ。誰よりも、何よりも、世界で1番、いえ、世界よりも、あなたを、あなただけを、愛していますよ……」
「……………コンラッド……」
 ユーリは、コンラートの頭を抱える様に抱き締めた。
「だったら……だったら、俺に1番ふさわしいのは、あんたじゃん? んでもって、その、あんたに1番ふさわしいのも……俺、だよな…? だって、俺達、お互いに1番なんだから…。な? そうだろ?」
「……そうですね」
 頭を上げて微笑みを送ると、ユーリもまた、笑みを、世界の何よりも美しい笑みを浮かべた。
「…………俺のコト、思い出してくれてた? …俺に、会いたかった…?」
「ええ、もちろん。いつもいつでも、何をしていても、あなたの事ばかり考えていましたよ。いつも、会いたくてたまらなかった……」
「俺だって、俺だって、そうだよ? ……いつもコンラッドのコトばっか考えてて、それで……我慢できなくなって……」
 コンラートが抱き寄せるのに逆らう事なく、ユーリは再びその膝の上に身体を委ねた。
「……どうして……我慢すんの……? こんな久し振りに会えたのに、どうして我慢なんかしなくちゃならないの? 俺は……コンラッドに会えたらこうしたいって……ずっと、考えてた……」
 どんどん声は小さく、消え入りそうになっていく。恥ずかしさと緊張のせいか、コンラートの膝の上で、ユーリの身体が硬く強ばっていた。コンラートは、自分の身体に一気に熱が溜るのを感じた。
「……嬉しいですよ、ユーリ……」
 声が微妙に上ずっている。これではまさしく「若造」だ。
 自分自身に苦笑しながら、コンラートはユーリをそっとベッドに横たわらせた。いつの間にか、ユーリの身体からは強ばりが解けている。
 コンラートはユーリが重みを感じないよう気を配りながら、そっとその身体に覆い被さった。
「…愛しています。ユーリ。愛していますよ……」
 唇を重ね、そっと舌でその形をなぞる。そしてユーリが唇を開く様に誘って………。
「………あれ…?」
 妙な違和感を感じて、コンラートはユーリから身体を離した。そして、その顔を覗き込む。

 すくー。くー。すー。

「……………………………」
 一気に脱力感がコンラートを襲う。
「………ユ…ユーリ………それは、ちょっと、ないんじゃない、かなー…?」
 ここまで盛り上げて、これはあんまりじゃないだろうか…?
 この、ものすごく間抜けな状態を、一体どうすればいいというのだろう。
 呆然と。彼に恋する女性達が見たら、1万年の恋も一気に冷めるほど情けない顔で、コンラートはユーリの無邪気な寝顔を見つめていた。その時。

 コンコン、と。部屋のドアがノックされた。そして。
「僕だ。入るぞ」
 弟の声がした。

「……ちょっ、ヴォル……」
 止める間もあらばこそ。無骨な重い扉はあっさりと開いて、ヴォルフラムがすたすたと部屋に入ってきた。そしてベッドに眠るユーリを、軽く眉を顰めて見遣った。
「…え、あ……」
「何を間抜けな顔をしている」
 兄に視線を戻したヴォルフラムは、ふふん、と鼻を鳴らして、ベッドにへたり込む兄を見下ろした。
 そして、上着のポケットから、すい、と小さな何かを取り出した。
「嫌がらせ、その2」
 ヴォルフラムの指に挟まれた物は、小さな紙の包み。
「ユーリは朝まで目を覚まさない」

 にやりと笑う弟に、ようやくコンラートの脳が動き出す。
「ヴォールーフー……!」
「何だ、その恨みがましい態度は。大体、お前に文句を言う資格があるのか? 僕と話をつけようともせず、不埒な行いに走るなど、許されるとでも思っているのか!? え? ちっちゃな兄上?」
 ぐっ、とコンラートが詰まる。
 確かに。自分はまさしく、弟から婚約者を奪ったのだ。けじめはつけなくてはならないだろう。だが、それにしても……。
「……ユーリに一服盛るなんて……」
 ぐったりした兄の言葉を、ヴォルフラムは軽く肩を竦めただけで流した。
「話したい。付き合え」
 弟のその誘いに、「わかった」と一言答えると、コンラートは立ち上がった。


 部屋の外に出て、コンラートは一瞬目を瞠った。扉のすぐ外に、人のシルエット。目を凝らせば、それはかつての部下の姿だった。
「…クラリスか」
 はい、と、女中頭か家庭教師かという装いの女が頷いた。
 クリーム色の髪。切れ長の藍色の瞳。ユーリがかつて「クールビューティーって、クラリスみたいな人のコト言うんだよね」と評していた、陶器のように冷たく整った面だちの女性士官だ。
「私がお側に」
 それだけ言って一礼する。ああ、とコンラートが道を開けると、足音もなく部屋の中に向かった。が、中に入る一歩手前で、クラリスの足が止まる。
「隊長」
 昔ながらの呼び方。
「……何だ?」
 クラリスが、くるりと踵を返し、コンラートと向き合う。
「心中お察し申します。女の私には理解不可能ではありますが、大変お気の毒な状況かと思います。全くもって、抱腹絶倒と申しますか……」
 無礼千万な台詞を堂々と連ねながら、ほとんど表情を見せない女に、コンラートは深々とため息をついた。
「そんなものは察しなくてもいい。笑いたい時には、笑いたい顔をしろ。……ユーリの事は頼んだぞ」
 畏まりました。と、再び一礼。
「……あ、隊長」
「…………今度は何だ?」
「へ…ユーリ様のお着替えは、私がしてもよろしいでしょうか?」
「……どうしてそんな事を聞く?」
「これ以上、隊長の楽しみを奪うのも如何なものかと」
 コンラートの眉間に、長兄そっくりの縦皺が寄った。
「……お前がやってくれ」
「畏まりました」
 扉が閉まった。

「……以前から思っていたのだが…」
 ヴォルフラムが、らしくなく困った様な声で言う。
「お前の部下には、その、性格がどこかねじ曲ったのが多くないか……?」
 これも人徳というヤツか……? ヴォルフラムの呟きが続く。無言のまま、コンラートは深くため息をついた。


「……今さらだが……知っているんだな」
 中庭─といっても碌な緑も残っていないが─を見渡すテラスで、兄弟は久し振りに二人きりで相対した。
「……全くもって、今さら、だな」
 沈黙が、二人の間に降りる。
 何を、どう話すべきなのか。コンラートは迷っていた。だが、深い沈黙を最初に破ったのは、ヴォルフラムの方だった。
「……お前が出立したその日、だった…。執務室で……」

 いつも通り、という訳にはいかないが、それでも目の前の仕事をこなそうと、魔王とその側近、そしてコンラートの代わりに護衛についたヨザックがいる執務室で。
 突如、魔王陛下が爆弾宣言をかました。

「俺! コンラッドに、お嫁さんにしてもらったからっ!!」

 意外な事に、数瞬の沈黙を経て、絶叫したのは王佐だけだった。
 宰相は小さく息をつくと瞳を閉じ、婚約者は唇を噛んだだけで沈黙を守り、臨時の護衛は不謹慎にも、ひゅう、と口笛を鳴らしてにやっと笑った。
「ヴォルフ!」
 一声叫んで走り寄る魔王陛下。
「俺っ、何かそのっ、順番間違えた気もするんだけどっ、そのっ………婚約、解消して下さいっ!」
 言って、勢い良く頭を下げる。
「……………イヤだと言ったら……?」
 低く、異様なまでに静かな婚約者の声に、ユーリの背筋を冷たいものが流れ落ちる。
「………そしたら。そしたら…俺、コンラッドを追いかけてって、二人で……駆け落ちする!」
 今度こそ深々と、グウェンダルがため息をついた。ギュンターはすでに放心状態だ。
「……えっと、あの、ヴォルフ。その………殴ってもいいからっ!!」
 そう叫ぶと、もうそのつもりになっているのか、足を踏ん張って、目をぎゅっと瞑って、歯を食いしばって立つ人の姿に、ヴォルフラムはげっそりと息を吐き出した。
「……僕に、お前を殴れると、本気で思っているのか…?」
「…え、あ……でも……」
「気持ちは変わらないのか?」
 何度も力を込めて、深く深く、ユーリが頷く。
「………コンラートでなくてはダメなのか……?」
「コンラッドじゃなきゃ、絶対に、ダメなんだ……っ!」
 ごめんなさい。そう呟くと、再び頭を下げる。早くも涙を目に浮かべた王から、ヴォルフラムは視線を外した。
「………コンラートとは、いずれ決着をつける。それまで……婚約解消は、しない」
「…ヴォ……」
 全身からにじみ出る、取りつく島もない態度、きっぱりとした拒絶に、ユーリは八の字眉のまま、しおしおと肩を落とした………。


「………ユーリの気持ちが誰にあるかぐらい、とっくに分かっていた」
「…ヴォルフ……」
「分かっていても……認めたくなくて、ずっと見ない振りをしてきた。……ユーリは鈍いから、もしかすると自分で自分の気持ちに気づかないまま、いつか……僕の想いを受け入れてくれるのではないかと……」
「……………」
「だけど、皮肉なものだ。どんどん打ち解けて、親しくなって、何でも話し合えるようになればなるほど……ユーリの中で僕は、『親友』以外の何者でもなくなっていくんだ……。どんなにあがいても、努力しても……必死になればなるほど……」
 ヴォルフラムが、闇に沈む何かを見据える様に、くっと唇を噛んだ。
「……………ヴォルフ……すまない……」
「っ、なぜ謝る! なぜ、ここでお前が謝るんだっ!?」
「……………………すまない」
 キッと兄を睨み付け、それからまたぷいと横を向く。
「眞魔国に戻れ。戻って……僕と決闘しろ」
「ヴォルフ、それは……」
「いいかっ!」
 碧の瞳を爛と燃え立たせ、ヴォルフはコンラートの胸に指を突き立てた。
「手加減なぞ、絶対に許さんぞ! 本気で立ち会え! ユーリを愛しているというなら、それを剣で僕に思い知らせてみせろ! お前の本気を、剣ではっきり僕に示せっ! 愛する者を手に入れるための戦いで、手を抜くような卑怯者に、ユーリは絶対に渡さん!! いいなっ、分かったなっ!?」
 ヴォルフ。口の中で、弟の名を噛み締める様に呟くと、コンラートは一つ、頷いた。
「分かった。その時が来たら、本気でお前と剣を交わそう」
「……誓うか?」
「ああ。誓う。絶対に手は抜かない。……殺す気でやらせてもらう」
 え? 一瞬、ヴォルフラムの顔から怒りの表情がこぼれ落ちる。ぽかんと、自分を見下ろす兄をまじまじと眺め、それから視線を逸らして、何か困った様に虚空を見つめる。その様に、コンラートが思わず苦笑を洩らした。
「本気と言うのは、つまりそういうことじゃないのか?」
「……ももも、もちろんっ! そうだ、そうだともっ! ぼっ、僕ももちろんそのつもりだともっ!」
 コホッ、コホッとわざとらしい咳をして、ヴォルフラムは態勢を立て直した。
「……お前がそのつもりでいるなら、それでいい。とにかく。お前との決着がつかない限り、僕はユーリとの婚約を解消する気はない」
 お前が戻ってくるまで。
 小さく言いながら、ヴォルフラムが踵を返した。
「……その時まで……ユーリは、僕が護る」
 ああ、頼む、と、コンラートは弟の背を見つめて呟いた。が、ふと思いついて、去ろうとする姿に改めて声を掛けた。
「ヴォルフ。確かめたい事があるんだが」
「何だ?」
 振り返りもせず、ヴォルフラムが答える。
「その……お前の嫌がらせ、なんだが……まだ何か用意してあるのか……?」
「それをばらしたら、嫌がらせにならんだろうが。……少なくとも、そうだな。お前との決着がついて、そして、もし万が一、ユーリとの婚約を解消しなくてはならん羽目に陥った場合は。その時は……」
 潔く身を引く、と、次に続く言葉をコンラートが思い浮かべたその瞬間。
「……後はじっくり嫌がらせを重ねていく他、報復の方法がなくなってしまうな」
「………………………それは、フォンビーレフェルト卿の誇りと美学に反するのではないのか……?」
「人の心というものは、複雑に入り組んで奥の深いものなのだと、あの大賢者も言っていただろう。ああ、それに、これも大賢者が教えてくれたのだが」
 瞬間、イヤな予感にコンラートは眉を顰めた。
「もし万一お前とユーリが婚姻を結んだ場合、僕は、地球流の考えに寄ると、ユーリにとって『コジュート』と呼ばれる存在になるそうだ。そしてこの『コジュート』というものは、気に入らない嫁や婿を、思いきり苛める事が許されるのだそうだ。だからユーリの婿になるお前を僕がいたぶるのは、地球的に正しい行いなのだ! 大賢者がそう言ったんだからなっ。覚悟しておけ!」
 ………一体何度騙されたら、弟はあの偉大なる腹黒の言葉を疑う様になってくれるのだろう……。コンラートはまたも深々とため息をついた。


 扉の向こうには、蒼白い月の光が溢れていた。
 その中に、わずかな調度品と、シーツが小さく膨らむベッドと、傍らの椅子に腰掛ける女の姿が浮かび上がる。
「……お話は終わりましたか、隊長」
抑揚のない、女性にしては低い声で、クラリスが囁く様に問いかけてきた。
「ああ。……御苦労だった。お前も休んでくれ」
「はい」と立ち上がり。「あの、隊長」
「…なんだ?」
「私は……いえ、かつてのあなたの部下は皆、隊長と陛下との事を、心から喜んでおります」
「………………………それほど知れ渡っている、のか……?」
「国内で知らぬ者はおりません。隊長が国を発たれたその日の内に、シンニチがスクープしましたし」
 何せ、堂々カミングアウトしたのは魔王陛下本人だ。それがバレないはずはない。……思わず天を仰ぐ、コンラート。
「陛下トトは狂乱の渦の中で配当が配られました。新聞各紙は、お二人の『愛の軌跡』特集を連日組んでおりますし、ウェラー卿がシマロンで恋人を作ったという筋立ての『大冒険』が廃刊になるという噂とか、新たな筋で新連載が始まるらしいといった話題も王都を駆け巡っております。ああ、それから、隊長ががお戻りの暁には、港に国民有志一同が集結して、お二人の愛を讃える歌を大合唱してお迎えしようという企画も進んでおります。確か血盟城広報局が、曲と歌詞をただ今募集中のはずですが……」
 ……自分は今、どういう顔をしていればいいんだろう……。コンラートはしみじみと思った。
 殺伐としたこの地にあると、余計祖国の脳天気さが身に沁みる……。
 できることなら、合唱曲が完成する前に帰国したい。真剣にそう思ったその時。
「…ん〜……っ」
 小さな声が、ベッドの中から上がった。
 ハッと、クラリスが口を閉じる。
 ふぁさ、という軽い音と同時に、シーツが舞い上がり、ベッドの下に落ちた。そして現れたのは、のびのびと手足を伸ばし、ベッドに斜めに大の字になった彼らの主の寝姿だった。
 パジャマの上着が捲れ上がり、お腹が丸見えになっている。
 肌は露でも、色気は欠片もないその姿に、コンラートは思わず吹き出した。
 そして側に寄ると、パジャマの裾を、ズボンの中にたくし込んでやる。
「……………お休みなさい、隊長」
「ああ、お休み、クラリス」
 コンラートの背後で、静かに扉の閉まる音がした。


 ベッド脇に肘をついて、コンラートはユーリの寝顔を見下ろした。
 くーかくーかと気持ちのいい寝息をたてて、彼の最愛の人は熟睡している。頬に当てた手の平には、少し高めの体温が伝わってきた。
「……本当に、来ちゃったんですねえ……」
 何度確認しても、目の前の姿が夢のように思えてならない。
「…ヴォルフはホントにいい男ですよ? 兄のひいき目なしでそう思います。あんな憎まれ口をききながら、ちゃんと認めてくれてます。……いいんですか、ユーリ? あなたはとってももったいない事をしてるんですよ? ねえ、ユーリ……」
 コンラートは両手で顔を覆った。
「……怖がってるのは俺の方なんです。なかったことにしようと、いつあなたが言い出すかと、びくびくしてるのは俺の方なんですよ……。もし……もしそうなったら、俺は……」
 俺は。
 苦しげに呟いて。しばらくじっと動かずにいたコンラートは、やがて顔を覆っていた手を外し、深く息をついた。そしてシーツの上に投げ出されたユーリの手を取って、その指に口付けた。
 月明かりの中、奇跡のように美しい顔を、ただじっと見つめ続ける。
「……俺は、ただ単に、自分が幸せになるなんてことを、信じていないだけなんでしょうね……」
 自嘲の笑みを口元に浮かべると、コンラートはユーリの身体をそっと動かし、空いたスペースに自分の身体を潜り込ませた。そして腕枕をしようと、腕を伸ばした、その瞬間。
「…うわ」
 いきなり。ユーリががばりと勢いよく、コンラートの身体に覆い被さってきた。両腕が首に回り、ついでに両足も、コンラートの腰から膝の辺りに回ってがっちりとホールドしている。抱き締める、などというものではない。これは完璧に決まった寝技、押さえ込みだ。
 あまりの締め付けに、コンラートはちょっとだけ、窒息死の可能性について想像を巡らしてしまった。
「…ユ、ユーリ、目を覚まして……」
 いなかった。
 コンラートの耳元、髪の生え際あたりに触れるユーリの鼻と唇。そこから、「すくーぴ、すくーぴ」と いう、何とも可愛い、そして規則正しい寝息が耳に流れ込んできた。
 ふう、と、今夜もう何度目か分からないため息をつく。それからコンラートは、それまでとは全く違う笑みを頬に浮かべ、そのままくすくすと楽しげに笑い続けた。
「……そうですね。俺はもう、こんなにあなたに捕まってしまってますね」
 そして苦労してユーリの後頭部と背に手を回し、そっと抱き締めた。
「もう……あなたから逃げたりしません。……あなたにも、逃げ道なんか作ってあげませんからね? 覚悟して下さいね? いいですか、ユーリ……?」
 愛していますよ。
 何度もそう囁いて、コンラートはユーリの頭や背を、ゆっくりと撫で続けた。
 次第に、ユーリの身体からも力が抜けていく。
 昨日まで、ただ思い出の中にだけあった温もりと、重みと、感触と、匂いを全身で堪能しながら。コンラートもまた、意識を静かに、優しい闇の中に沈めていった。


「……ヴォルフ」
 コンラートと別れ、眠る気にもなれずに外へ出て、水の枯れた噴水に腰掛けていたヴォルフラムは、掛けられた声に振り返った。そこには思った通り、母が立っていた。両手にはグラス。中味は、おそらく持参してきた酒が入っているのだろう。
「母上。まだお休みではなかったのですか?」
「夜会漬けの毎日を思えば、まだ宵の口よ」
 はい、とグラスの一つをヴォルフラムに渡す。
「ねえ、ヴォルフ?」
 チン、とグラスを触れあわせ、一口呷ったところでツェリが微笑みを浮かべながら言った。
「男はね、破れた恋の数だけ、いい男に成長していくものなのよ」
「母上、まだ破れるとは決まっていません」
「おや、ま」
 頬を膨らませる末っ子に、ツェリがふふっと笑みを零した。
「それから」ヴォルフラムの膨れっ面は直らない。「そのような、使い古された慰めの言葉など、僕には全く必要ではありません!」
「あらあら」
 ツェリの笑みが深くなる。
 ヴォルフラムは一息でグラスを干すと、「ごちそうさまでした」と立ち上がった。
「…それでは母う…」
「待ちなさいな、ヴォルフ」ツェリもまた、優雅に立ち上がる。「……パーティーもないんですもの、退屈で仕方がないわ。こんな時間じゃとても眠れないし。ね、つき合って頂戴? せっかくいいお酒を運んできたんですもの。1人で飲んでも美味しくないわ。ね? いいでしょ?」
 言いながら、息子の腕に両腕を絡めて、ツェリは歩き始めた。
「……はは、うえ……」
「1人で居たくないの。それとも母の頼みは聞けないのかしら?」
「いえ……そんな……」
「じゃあ、決まり」
 土の上を歩く二人の足音が、やがて闇の中に消えていった。


 砦の中で。
 それぞれの夜が更けていく。

 

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ユーリ一行が砦に到着してから………まだ一晩も経ってませんっ!
あーもー……。よーし、笑っちゃえーっ。わっはっはっはっは…………ふう。

誰かさんは、陛下幼児退行期に意識が戻っちゃってるみたいだし。陛下は陛下で、文句も言わずに甘えてるし。
かと思えば、いまだにうじうじ悩んでるし。
やれやれ、さてさて…。