精霊の日・3

 その部隊は、砦への帰途にあった。
 掃討作戦の、後始末ともいうべき仕事で、さほどの危険はない。そう判断されたが故に、部隊を構成するのは経験の少ない若手の兵士ばかりだった。ただ指揮官が並みではない。─コンラート・ウェラーだ。
 馬に乗り、隊の先頭を行くコンラートの傍らには、副官を自認するアリ−とレイルがいた。これだけで任務の質が分かる。
 無事に任務を終えて帰投する若者達の視線は、熱っぽく自分達の指揮官に向けられていた。
「……ここから、クタス湖が近かったな……?」
 ふと思いついた様に、コンラートが呟いた。
「クタス湖?」アリ−が問い返す。「…ええ、そう言えば。……あの湖も大分水量が減ってしまったわ。砦の貴重な水源だから、何とか守りたいってお姉さまも仰ってたんだけど……」
「報告ばかりで、実際の所を見ていなかったな。……ちょっと寄ってくるから、アリ−達は先に戻っていてくれ」
「コンラート、1人では危険です。僕も一緒に連れていって下さい」
「私も!」
 レイルとアリ−が揃って言うのに苦笑を返して、コンラートは首を横に振った。
「お前達は、今日は俺の副官なんだろう? だったら俺の命令に従って、隊を無事に返す事を第一に考えろ。それがこれからの二人の任務だ。砦に戻るまで、兵士達の命はお前達が全責任を持つんだぞ」
 コンラートの言葉に馬上で背筋を伸ばす二人。
「すぐに戻る」
 そう言いおいて、コンラートは馬首を返した。
 隊の全員が、その後ろ姿を見送った。

「……すごい方ですよね、コンラート様は」
 アリーの後方から、おずおずと掛けられた声があった。振り返ると、自分達とそう年の変わらない少年兵が、頬を赤らめてこちらを見ている。
「直に指揮を取って頂けるなんて、思ってもいませんでした。……あんなに強くて、立派な方なのに、全然偉ぶったりなさらなくて。僕なんかにも、とってもお優しい言葉を掛けて下さったんです」
「……君、名前は何て言うの?」
「アドヌイです! アドヌイ・ロボといいます。あの…ヴァイターヌ村から来ました!」
 レイルの問いかけに、少年兵は嬉しそうに答えた。
「ヴァイターヌ? 遠いわねー。確か小シマロンとの国境線にある村じゃない?」
「はい。……村が、大シマロンの残党と小シマロンの援軍とに占拠されてしまって…。無理矢理兵にされそうだったので、皆で逃げてきたんです。この隊にも、同郷の者が何人もいます」
「ああ、聞いてるよ。村ごと移住して来たっていうのは、君たちの事だったんだね?」
「はい! ……あのぉ、少しお伺いしてもよろしいですか…?」
「何?」
「アリ−様とレイル様は、コンラート様とお親しくなさっているんですよね?」
「まあね」アリ−が胸を張る。「コンラートがお祖母様を幽閉先から救出して、私たちと合流してからだから……かなり長い付き合いになるわね」
 妙に大人びた物言いをして、アリーは自慢げに微笑んだ。
「あのっ、あのっ、カーラ様ともその時から……?」
 いきなり横合いから、我慢できないというように、別の声が割り込んだ。
「…何だよ、ゴトフリー。僕がお話ししているのに!」
「だって、こんな機会めったにないじゃんか! 俺だって、コンラート様の事、色々お聞きしたいんだよ!」
「そうだよ、俺だって!」
 また別の声が混ざる。
「何よ、あなた達、そんなにコンラートの事が知りたい訳?」
 アリーの言葉に、いつの間にか隊列を崩し、周囲に集まってきていた若い兵達が一斉に頷いた。その素直な様子に、レイルも苦笑する。
「遠くで見ていても、凄い方なんだってことは分かります! 古参の皆も、誰1人としてコンラート様の事を悪くいうものはいません。それどころか、誰もがコンラート様のお側に近づきたくて必死です。……僕達がこうして連戦連勝でいられるのは、全部コンラート様のおかげだって。コンラート様がいるから、自分達はここにいるんだって。皆がそう言っているんです。……あの、コンラート様は、ベラール王家の本当の、唯一の直系でいらっしゃるんですよね?」
「そうよ。コンラートこそが、シマロンの真の後継者なの」
 アドヌイの言葉に、アリ−が堅い声で頷いた。
「……あの、だったら、どうしてコンラート様が王になられないのですか? コンラート様は、ご自分の国を取り戻されたのでしょう? どうして上の方々は、それを認めようとなさらないのですか? 皆、コンラート様が王位に就かれたら、喜んでお仕えしたいって言ってるんです。僕だって……」
「認めてる人もたくさんいるよ」レイルが答えた。「コンラートが王位に就いて、彼を中心にした政権を築いて、それから国土を復興させるべきだって考えてる人は……僕達のお祖母様もその1人だけど、ちゃんといるんだ」
「…クォード様ですか? あの方は、誰より自分が王になるべきだって公言なさっているそうですけど」
「クォード殿下もそうだけど、他にもね。能力も人格も、コンラートの足元にも及ばないような、野心だけのバカが、コンラートの足を引っ張ろうとしてるのよ!」
 アリ−が、らしくなく吐き捨てる様に言う。苦笑を浮かべたレイルが、困ったな、と小さく眉を顰めた。
「……コンラート様が、魔族の血を引いておいでだから……?」
「それと、王族として何の後ろ楯もない事とかね。眞魔国の貴族といっても、名前ばかりみたいだし」
「カーラ様とご結婚なされればよろしいのではないですか!?」
 ゴトフリーと呼ばれた若者が、大きな声でそう言った。アリ−とレイルが思わずその顔を凝視する。二人にじっと見つめられて、ゴトフリーは赤面して顔を伏せた。
「……す、すみません……」
「あ、違うわ、そうじゃないの、怒ったんじゃないのよ。……私たちもそう考えてるの」
「…やっぱり……?」
 真正面を向き、視界に入ってきた砦を見つめながら、アリーとレイルは大きく頷いた。
「………コンラートとお姉さまが並んで戦いに赴く時の姿は……今でも忘れられないわ。心配で、それはもう泣きたくなるくらい心配で堪らなくて。なのにね、心の別の場所では、なんて素敵なんだろう。なんてお似合いの二人なんだろう。まるでお伽話に出てくる王子様とお姫さまみたいだって、わくわくしてるの。おかしいでしょ?」
「あの頃から僕達の英雄だったんだよね、二人とも」
 アリ−とレイルは、互いの言葉に頷きながら、遠い思い出に瞳を凝らした。
「魔族の血なんて、関係ないわ。コンラートは人間よ。私たちの仲間よ。……お姉さまと結婚して、地位を確立させて、そして堂々と王位に就けばいいんだわ。コンラート以外の、誰が王にふさわしいって言うのよ!」
「あのっ、俺達もそう思います! コンラート様以外、誰も俺達の王になれる人はいないって!」
 そうです! と、兵士達が口々に叫ぶ。
「コンラート様とカーラ様がご結婚されたら、コンラート様はアリ−様の兄上になられますね?」
 誰かの声がそう言った。
「私とレイルのね。レイルと私は従兄妹というより、兄妹だもの。ね? レイル?」
「ああ、もちろん」


「えーと。あなたがアドヌイで、あなたがゴトフリー。それからあなたがレイモンドで、あなたが、えっと…」
「タオです。アリ−様!」
「君はボッシュだよね?」
「はい! レイル様!」
 年の近い彼らは、その後もわいわいと話を弾ませ、砦に到着する頃には部隊の指揮官と部下ではなく、すっかり仲のいい若者同志の顔に変わっていた。

しかし。

「何ですってぇっっ……!!」
「女性? ……魔族の? ……コンラートに会いに……っ!?」
「たった今なんです! コンラート殿に会わせろと…! 今中に…。エレノア様達が大会議場に集まって……」
 兵の言葉を最後まで聞かないまま、アリ−とレイルは砦の中に駆け込んだ。
 砦に到着した途端、駆け寄ってきた兵に思いもかけない客の到来を聞かされ、若者達はほとんどパニックに陥った。コンラートに……魔族の国から女性が訪ねてきたのだ…!
 ほとんど勢いで、アドヌイやゴトフリー、つい先程アリー達と親しくなった若い兵士達もまた、二人の後に従って走り出した。



 大会議場にぞくぞくと人が集まってきていた。
 エレノアもダードもカーラも、そしてクォードも。彼らから外れた場所には、クロゥもバスケスもいる。
 今日は円卓ではない。卓は崩され、椅子を並べ直して客に相対する形が取られている。
 並べられた中で中心に位置する椅子に腰を下ろし、エレノアはため息をついた。
 やってきたという、魔族の女性を威圧するつもりはない。だが……。
 単に客を迎える、という事もできない。
 相手は魔族だ。
 そして相手の目的はコンラートだ。
 一体何が目的なのか、知らなくてはならない。堂々とやってくるからには、悪意があるとは思えないが……。
「お祖母様!」
 アリーとレイルが、広間に駆け込んでくる。後ろから見覚えのない若者達も付いてくる。
「……アリー。コンラートはどうしました?」
「あの…クタス湖を見てくると言って……。すぐ戻るって言ってたけど……」
 そうですか、とエレノアは瞳を閉じた。
「お祖母様」
 次の声はカーラだった。
「このように大勢の人がいては……その、女性は、不愉快な思いをされるのでは……」
「…ええ、そうね。でも………できることなら、その女性が怖れをなして、このまま、コンラートが戻ってくる前に出て行って貰いたいと思ってしまうのは………恥ずかしい考えね……」
「目的がまだ分かりませんし……。もしかすると、とても大事な用があってのことかも知れません」
「魔族なんて、コンラートにはもう何の関係もないわ! ねえ、帰ってもらいましょうよ! 私たちが会う必要もないわ、そうでしょ!?」
「アリー。コンラートはそういうの、喜ばないと思うよ?」
「だって、レイル……っ!」

 大会議場の扉が開いた。

 瞬間、ざわめきがすっと静まった。
 扉の向こうから、長身の影が滑る様に会議場に入ってくる。
 まだ全身をマントで包んでいる。美しい刺繍の縁取りがついた、仕立てのいいマントだ。
 大勢の人間達の注目を浴びながら、その人の歩みは堂々としていた。
 大会議場に、カッカッという、歯切れのいい靴音が響く。その音だけで、相手が全く気後れしていない事が見て取れた。
 エレノアは己の姑息な考えを恥じた。
 身体の動きからも、相手は確かに女性だ。
 彼女は、居並ぶ人間達の前、大会議場のまん中で、ぴたりとその足を止めた。

 白く、形のいい繊手が現れ、マントの留め金を外す。
 そして。ふわりと軽やかにマントが舞った。

 黄金の輝きが、息を飲む人々を圧倒した。

 おお、と、ため息の様な、呻き声のような、空気を震わす声が響く。

 軽やかに頭が振られ、黄金の髪が炎の様に舞い、流れ落ちる。

 パチリと開いた大きな瞳は碧に輝き。
 朱唇は濡れて艶やかに曲線を描く。

 例えようのない、人間とは全く次元を異にする、美貌の女が立っていた。

「ごきげんよう、皆さん。ツェツィーリエと申しましてよ。ツェリと呼んで下さってもよろしいわ」

 黄金の雫が蕩け落ちるような、声。


 クォードは、呆然とその女を見つめていた。
 彼も貴顕の男の、いわばたしなみとしてそれなりの経験を積んできた。
 彼のような立場の男にとって、結婚は恋愛で成り立つものではない。恋愛など、むしろ邪魔な感情だ。立場が釣り合い、双方に利益があり、かつ相手に不快な感情が生まれなければ充分だ。結婚以外の付き合いは、それなりの相手と、それなりに楽しめ、そして後腐れなく別れる事ができれば、これまたそれで充分だ。
 だがこの女は。
 まるで今から夜会に出かけるような、深紅の華やかなドレス。あらゆる場所を飾る、とりどりの、紛れもない本物の宝石。
 一つ間違えれば、下品に落ちる装いなのに。
 下卑た雰囲気は微塵もない。むしろ、気品に溢れている。その理由は……。
 勝っているからだ。
 どんな宝石や、アクセサリーを身に溢れさせても、その輝きの全てに勝る美貌。
 全身をどれほど華やかな宝石で飾り立てようとも、この女なら、その全ての輝きを従えて、更に己の引き立て役にしてしまうだろう。決して何ものにも飲み込まれない女。
 ─軽率に手を出していい女ではない。
 クォードはそう結論を出した。
 蠱惑の眼差しで媚び、男を喜ばせながら、その実、男を支配する女だ。……それにしても。

 コンラートは、こんな女が好み、なのか……?

 カーラもまた、呆然とその女を見ていた。
 自分とは全く違う。
 女を捨てて剣を取り、彼と並んで戦ってきた。共に戦う同志。それが自分の選んだ場所だった。
 コンラートにふさわしいのは、共に人生を歩んでいけるのは、そういう存在なのだと考えていた。
 勝手な思い込みだったのか?
 滴る程に溢れる色香。己のどんな姿が、声が、仕種が、美しく見えるのか知り尽くした女。
 自分が最も軽蔑してきた、「女」。
 コンラート。あなたが求めるのは。

 この女性、なのか……?

 エレノアも、アリーも、レイルも。思う所はほとんど変わらなかった。
 大会議場にいる、全ての人々が、ただひたすら目を瞠いて目の前の女を、夢の様に美しい女を見つめていた。
 ツェツィーリエと名乗った女性は、名乗った後は婉然と微笑んだまま、彼らの反応を楽しんでいるかのようだ。
 エレノアは、やっとの思いで息を吐き出した。
「……ツェツィーリエ殿。……私はこの新生共和軍の盟主を勤めております、エレノア・パーシモンズといいます。その……コンラートとは、どのようなご関係でいらっしゃるのでしょうか?」
「あらまあ」
 ツェツィーリエが口元に手を当て、軽やかに笑った。
「女が危険な土地に、こうしてわざわざ出向いて参りましたのよ? それを思えば、どんな関係だなんて、お聞きにならなくてもお分かりになりますでしょう?」
 いたずらな子猫のような目で、ツェツィーリエはエレノアを見返した。
「もちろん私とコンラートは、それはもう誰も入り込めない程長くて深い、お互いに掛け替えのない関係を築いておりましてよ?」
 カーラがこくりと喉を鳴らした。
 その時、会議場の扉が開いた。見覚えのない者達が、何やら荷物を中に運び込んでくる。
「…あ、あの……」
「ああ、どうぞお気になさらないで。私の共の者達ですの。しばらく御厄介になりますので、その荷物ですわ」
「……ご厄介!?」
「ええそう。もちろんタダで、とは申しませんわよ? それなりのお土産は用意致しましたわ。よろしくお願い致しますわね。……さ、あなた達も、こちらの方々にご挨拶して?」
「あのっ、あの……お待ちになって、ツェツィーリエ殿。…その、コンラートには、一体どのような用件で……」
「それは二人きりの時に。あなた方に申し上げる必要はありませんわね。……大人の、男と女の話、ですもの……?」
 くす、と黄金の女が微笑んだ。
「……帰って下さい……!」
  その首の傾き、口元に当てた指1本1本の形、きゅっと上がった唇の両端の角度。己の美しさが何を齎すか、何もかも知っている女……。カーラの中に生まれた激情が、一気に言葉となって現れた。
「コンラートには、あなたとお話する事は何もないと思います。彼はもう……あなた方とは何の関係もありません。どうぞ……お帰り下さい!!」
「…カーラ……!」
「お姉さま……。よく仰ったわ、お姉さま! そうよ、あなた……!」


 バン! と、その時、いきなり大会議場の扉が、大きく弾ける様に開いた。

「……コンラート!」
 コンラートが、息せき切って飛び込んでくる。
「いっ、今……」コンラートの視線が女を捉える。「……! は」
「コンラートッ!」
 ツェツィーリエが、一声叫んでコンラートに駆け寄って行く。そして勢いよく、その胸に飛び込んだ。
 腕の中の相手を、呆然と見下ろすコンラート。
「は」
「会いたかったわ、私のあなた! ああもう、ヒドい人ねえ、私に何も言わずに行ってしまうなんて」
「あの! はは」
「いいのよ! 分かっているわ。仕方がなかったのよね? あなたの気持ちはちゃんと分かっているのよ?」
「だから、は」
「本当にもう。イケナイ、ひ・と」
 ツェツィーリエの指が伸びて、ちょん、とコンラートの頬を突く。語尾にはハートマークもついていそうだ。
 しばし彼女の顔を見つめて。コンラートは深く深くため息をついた。
 くすくすと笑う女が、すっと身体を離す。そして右手を、すいと彼の前に差し出した。
「……で? 私に何か言う事はなくて?」
 コンラートもちょっと困った様な、そして少し楽しげな笑みを頬に浮かべると、差し出された右手を取り、優雅な仕種で口づけた。
 広間の者は、もう言葉もなく、一対の美しい男女を見つめている。
「御無沙汰しております。確かに、ご旅行中とは言え、黙って国を出てしまった事、申し訳ありませんでした。……お元気そうで何よりです。それに、相変わらずお美しいですね」
 コンラートが、柔らかに微笑みを深める。

「母上」

 しん、と大会議場が静まった。いや、固まった。というより、凍った。
「……………」
「……………」
「……………」
「…………はは、う、え……?」

「あ、すみません」
 コンラートが、正面に向き直り、ツェツィーリエと並んで人々を見た。
「ちょっと見、似てないので分かりにくいと思いますが……」
 いや、そういうコトじゃなく、と、全員が頭をぶんぶん左右に振る。

「正真正銘、実の、本当の、俺の母親、です」
「どうもーっ。コンラートの母でぇす。よ・ろ・し・く」

 親子。
 ……会議場の全員が、唖然呆然と、自分達の目の前で、並んで、にこにこしている男女を見つめた。
「……コ、コンラート、の、おはは、うえ……?」
 拳を上げた形のカーラとアリーは、床に崩れ落ちたい衝動に耐えていた。
 エレノアは、「魔族って、こういうの……?」と、ちょっと見当外れな事を考えていた。
 クォードは、「だったらこの女、一体幾つだっ!?」と内心絶叫していた。

 瞬きも忘れていたエレノアが、ハッと現実に戻り、あたふたと立ち上がった時。

「……それで母上? この荷物はどこへ置けばよろしいのですか?」

 もうひとり、ツェツィーリエを母と呼ぶ声に遮られた。
「…ヴォルフ…!?」
 コンラートが驚きの声を上げる。
「お前も……?」
 大会議場の隅から、前に進み出てきたもうひとり。これはまさしくツェツィーリエとの血縁を確信させる、全く同じ金髪、そして同じ碧眼の、やはり夢幻の様に美しい少年、だった。
「コンラートの弟で、ヴォルフラムと申しますの。さ、ヴォルフ、ご挨拶なさいな?」
 おとうと…? と、アリーが小さく呟く。
 ヴォルフと呼ばれた少年は、コンラートに一つ頷きかけ、エレノア達の前に進み出た。
 そして軽く、目礼だけしてみせると、腰に手を当て傲然と言い放った。

「ヴォルフラムという。うちのちっちゃな兄上が、お世話している。よろしく」

「……………」
「……………」
「…ヴォ、ヴォルフ、今、なんて……」
 珍しくコンラートが狼狽えている。

 今、何を言われたのだろう?
 エレノア達は、激しく悩んで頭を抱えた。放たれた単語の一つ一つは、とっても分かりやすい言葉のはずなのに。なぜだか脳に全然染み込まない。

「……ヴォルフ、今、あにうえ…って。えっと、それに、何なんだ、その『ちっちゃな』っていうのは…!それは昔の、子供の時の呼び方だろう!? どうして…。いや、あの、あにうえ、と呼んでもらえるのは嬉しいが……」
「喜ばれたら、嫌がらせにならんだろうが!?」
 声を顰めて、ヴォルフラムが下から兄を睨み付けた。瞳が怒りに燃えている。……ぐ、とコンラートが詰まった。
「…………嫌がらせ、だったのか……?」
「まさか、僕に嫌がらせをされる覚えがないとでも……?」
 目に怒りを滾らせたまま、口元だけが笑みを作る。
 コンラートは一瞬視線を宙に向け、それからコクリと息を飲んで、弟に向き直った。
 ………まさか。

「息子は3人おりますのよ。コンラートの上が、これがまあ大きく育ちましてね。コンラートより大きいんですの。で、コンラートは長男より小さくて、そして次男でしょ? ですからヴォルフラムはコンラートのコトを『ちっちゃな兄上』と呼んでますの」
 説明するツェツィーリエが、おほほ、と笑った。数十年に及ぶ間の事はすっとばしている。

 そ、そうですか、と、他にも何だか聞かなければいけないことがあるような、と考えながら立ち上がったエレノアの視界に、奥で荷物を動かしている人の姿が入った。
「あ、あの、荷物はどうぞそのままで。後で運ばせますので」
「あ、そうですかー? そうして頂けますと助かりますわあ」
 奥から返事が返ってきた。
 その、やはり聞き覚えがあり過ぎる声に、コンラートはハッと奥を振り返った。
「私ぃ、銀のお盆より重たい物は持った事がございませんの。おほほー」
「……………ヨザ」
 幼馴染みは、今回設定がいつもと違うらしい。
 糊の効いたシャツとベスト、そして折り目正しいきっちりとした上下を身に付けて、これはどこからどう見ても、大家の執事だ。言葉遣いとワイルドな髪形が、ちょっとミスマッチだが。
 そしてもうひとり。
「………どうして、お前が……」
 ヨザックと並んで、女が1人、共に前に進み出てきた。
 金髪というよりは、クリーム色の髪、そして切れ長の、藍色の瞳。女中頭か、お堅い女家庭教師といった地味なドレスに身を包んでいる。

 ハインツホッファー・クラリス。

 その兄カールは、かつてコンラートの部下であり、ルッテンベルク師団の一員として、共にアルノルドで戦いに臨んだ。だが、武運拙く、かの地で命を落としている。
 激戦で散った兄の遺志を継ごうと、病弱で、読書と刺繍が趣味だった妹のクラリスは、一大決心をした。刺繍針を捨て、剣を取ったのだ。
 必死で身体を治し、鍛え、軍に入り。やがてコンラート指揮下の王都警備官となって。
 いつしか彼女は「寄らば斬るぞのハインツホッファー」と二つ名で呼ばれる様になっていた。
 ……ちょっと強くなり過ぎたらしい。
 魔王陛下の身体に関する真実が露になった時、コンラートは彼女をある任務に抜擢した。
 その任務を、彼女は立派に果たしていたはず、だが……?

 ごくり、とコンラートは喉を鳴らした。
 母がいる。それはまあいい。元々神出鬼没な人だ。だがそれ以外のこの面子が……。
 これだけ揃えば、もうひとり。居てもおかしくないような。いや、居なくてはおかしいような……?
   まさか。…いや。もしか、すると。


 カンのいい事では人後に落ちないコンラートの幼馴染みが、にかっと笑った。そして、ヨザックとクラリスがそれぞれ、すっと、身体を左右にずらした。

「……………っ!」
 コンラートがひゅっと鋭く息を吸う。

 二人の後方。空いたスペースの奥。会議場の隅っこに。

 少女が1人、立っていた。

「………コンラッド……」

「………………ユーリ……!?」
 ため息の様に、コンラートの口からその名が漏れる。
 呼び掛けられた声に、少女はふるりと身体を震わせ。そして。
「コンラッドッ!!」

 全速力で駆けてくる少女を、信じられない思いのまま、コンラートは大きく腕を広げて迎えた。
 大会議場の真ん中で。飛ぶ様に走り寄る少女が、その勢いのままにコンラートに抱きつく。抱きついて、全身でしがみつく。
「…コンラッド、コンラッド! 会いたかった…っ!!」
「ユーリ、ああ、ユーリ、本当に……? あなたは…何て」
 何て無茶な事を。そう言いたかった言葉はもう声にすらならず、コンラートは抱き締めた最愛の人の首元に顔を埋めた。ユーリもまた、彼の胸に全身を擦り付ける様に押し付けている。
「……コンラッド、全然俺に気づいてくんないしっ。ツェリ様は話し出したら口挟む余地ないしっ。ヴォルフに先越されるしっ。グリエちゃんだって、クラリスだって…! どうして俺のコト、一番に気がついてくれないのっ!? …ああもう、そんなコト言いたいんじゃないのにっ!」
「すみません、ユーリ、ああ、どうしよう、本当に……ごめん、ユーリ…………ユーリ?」
 妙な感触にハタと見ると、ユーリが両手両足を使い、コンラートの身体を……よじ登っていた。
「……ユーリ、その、ちょっと待って」
「顔……もっと、近くで……んしょっ」
 ちょっと脱力したような顔で息をつくと、コンラートは腰を屈め、ユーリのお尻の下辺りに腕を回した。そしてそのまま抱き上げる。……これはほとんど子供抱っこ、だ。
 コンラートより少し高い位置まで持ち上げられたユーリが、照れくさそうに笑い、コンラートの頬を両手の平で挟んだ。そして、おずおずと、彼の額に口付ける。
「……会いたかった、コンラッド。会いたくて会いたくて、我慢できなかった……。ゴメン、ね? ちょっとだけ、側にいさせて…?」
「………本当に……来てしまったんですね……」
 怒ってみせるには、もうタイミングを見事に外してしまった。笑うしかない。この、会えて嬉しいという思いのままに、素直に喜ぶ以外何ができる?
 ユーリがコンラートの首に両手をまわし、ぎゅっと抱き締めた。
「……コンラッドの匂いがする……」
 囁く言葉にコンラートも微笑んで、ユーリの頬のそっと口付けた。
「ユーリも……。でも、今回は少し装いが違いますね…?」
 耳元で感じる息に、ユーリがきゅっと首を竦める。コンラートは微笑んで、改めてその姿を確認した。
 ユーリの姿は、いつもの変装とは、全く趣が違っている。そもそもこれは間違いなく少女の姿だ。
 薄茶色の、肩で切り揃えられたおかっぱ頭。前髪が顔の半分を隠すのはいつもの通りだ。その奥には、やはりいつもの丸メガネが見える。きっと瞳にはコンタクトレンズが入っているのだろう。
 そして、襟まで詰まった堅苦しく、地味な茶色で、どこか野暮ったいデザインのドレス。足にはブーツを履き、肌が見えるのは顔の下半分と手首から先だけだ。それから………。
 あれ? とコンラートはユーリの肩ごしにある物に目を凝らした。
 ユーリは何故か。真っ赤な、大きいリュックを担いでいたのだ。
 そういえば、何だか抱き締めにくい気がしたような……。
「ほーら、あなた達、皆さんびっくりなさっているわよ?」
 ツェリの言葉に、ハッと意識が現実に戻る。振り返った先には、エレノア達が呆気に取られて自分達を見つめている。
 ええと、と、何と言うべきかコンラートは思考を巡らせたが、答えは出ない。胸も頭も、今この瞬間、コンラートの中はユーリでいっぱいだったのだ。その様子にツェリがくすっと笑った。
「この子はユーリちゃんと申しますの。コンラートの名付け子ですわ」
「……名付け子……」
「ええそう」エレノアの呟きに、ツェリが頷く。「でも事情があって、ユーリちゃんは実のご両親と一緒に暮らせなくなってしまいましたの。それでコンラートが引き取りまして、私たち、家族として暮らしてますのよ」
「……そう、ですか……」
 どこか複雑な思いで、エレノアは今だコンラートの首にしがみつく、いや、コンラートが抱き締める少女を見た。見た目はアリーやレイルと同年代に見える。そう、あのコンラートの弟、も。
 エレノアはそっと、カーラ、そしてアリーとレイルの表情を窺った。
「ほら、ユーリちゃん? ご挨拶を先にしないと、ね?」
 ツェリに促され、離れ難そうに一度ぎゅっと抱き締めてから、コンラートはユーリを下ろした。
 ユーリもいかにも残念そうにコンラートを見上げ、それからツェリの元に歩み寄った。
 エレノア達と向かい合うと、勢いよく頭を下げる。
「初めまして、こんにちはっ! 俺、ユー……どわぁっ!」
「ユッ、ユーリっ!?」
 ………ユーリが背負っていたリュックは、ちょっとかなり重かったらしい。
 ユーリがぶん、と頭を下げた途端、リュックがずるんっと滑り落ち、ユーリの後頭部を直撃したのだ。
「…ふぎゃっ、ひえ、うぎ…っ」
 重くて頭が上がらないのか、後頭部にリュックを乗せたまま、じたばたとユーリが腕を振り回している。
 ツェリを除く全員が、慌てて駆け寄って真っ赤なリュックからユーリを救出し始めた。
 ツェツィーリエはというと、「ユーリちゃんったら、お茶目さんっ」と、おほほと笑って立っている。

「………なによ、あれ。鈍くさい子……!」
 アリーが、ぼそりと呟いた。レイルが、どこか寂しそうに苦笑して従兄妹を見ている。
「えらくまた、ちんくしゃなお嬢ちゃんが現れたもんだねえ」
 くすくすと笑いながら囁くエストレリータの言葉に、カーラは唇を噛んで俯いた。

 そしてまた。別の場所で会話を交わす男達がいた。
「……お、おい、クロゥ…? あれ……まさか……」
「ああ。……どうやらそのようだな」
「じゃ、あれ……まお……っ!!」
 クロゥの肘鉄が、バスケスの鳩尾にキマった。ぐふぉ、とバスケスが呻く。

「……ユーリ、そのリュック、何ですか?」
 可愛いアップリケのついた、どう見ても子供用のリュック、だ。
 ユーリがどこかもじもじと口ごもる。
「………えと……村田が、その、持って行けって………お出かけセットとお泊りセット……」
「……………何が入っているんです?」
「歯ブラシとか…ハンカチ、とか……おやつとか……その……目覚まし時計…とか…」
 声がどんどん小さくなる。
「これこそ小学生の遠足の正しい姿だと、それはもう猊下はご満悦でいらっしゃいましたわん」
「……………………ヨザ」
「お預かりいたしますー」
 ヨザックがリュックをユーリの肩から外して、手に取った。
「はい、じゃあユーリちゃん、ご挨拶のやり直しね?」
 ツェリの言葉に、ユーリは慌てて辛抱強く自分を待つ、その実、どう反応していいか分からないまま、呆然と動けない人間達の前に立った。
「あっ、あのっ、……ユーリといいます! よろしくお願いします! えと、ウチのコンラッドがお世話になってます! それと……」
「ちょっと待て、ユーリ」
 ほえ? と振り返るユーリを、ヴォルフラムが腕を組んで睨み付ける。
「今の言い方は違うぞ。コンラー……いや」ヴォルフラムがコホン、と咳払いする。「ちっちゃな兄上は」
 わざわざ言い直すな、と、コンラートが呟く。
「こいつらにお世話になってなぞいない! コン…ちっちゃな兄上は、どうしてもと頼まれて仕方なく、いいか? 仕方なく! ここの者達の手助けに来たんだ! 世話をしているのはこちらの方だ。お世話になっているなどと、間違っても口にするな!」
 説得力がありそうで、何だかものすごく違っている気のする言葉に、ユーリは首を傾げた。
「じゃあ、どう言うんだよ…?」
「僕がさっき言っただろう!? 『世話をしてやっているから、よろしく』と言えば、それでいいんだ!」 「……ヴォルフ、それって、文法的にも、人としても、間違ってると思うぞ……?」
「何を言ってる! 僕の言う事に間違いなぞない!! それに大体僕達は『人』じゃない。魔族だ!」
「そういう意味じゃなくってー」
「お待ち下さい、お二人とも」
 割って入ったのはクラリスだ。
「そのような漫才は、近々開催される『めざせ一発屋、魔王杯争奪眞魔国芸能全国大会』までお待ち下さい」
「待ってクラリス」ユーリが声を上げた。「それ違ってるって。『一発屋』じゃないよ。『めざせ一番星』だって! 一発屋じゃダメじゃん、一発屋じゃ! てか、そもそも『一』しか合ってないじゃんっ!?」
「そうでしたか? それは大変失礼致しました。しかし……フォンカーベルニコフ卿が作らせた看板には、確かそう書いてあったようですが」
「それ、アニシナさんが間違ってるからっ!」


「………なあ、クロゥ?」
「…なんだ…?」
「全然変わってないっていうか……。誰もこのノリについていけてないな……?」
「ついていける奴がいたら、是非お目にかかってみたいものだな」
 俺達だって。
 クロゥはしみじみと思った。
 眞魔国での、血盟城での、あの日々を通して免疫ができていなかったら。
 今こうしてまともに会話なんてできていないだろう。
 ざっと周囲を見回して。その全員が─エレノアやいつも冷静なダード師やクォードまでが─ぽかんと口を開け、呆気にとられたまま、きゃんきゃん騒いでいる一行を見つめているのを確認して、深くため息をついた。

 ……何だって、また、こんなとんでもないコトをやらかすんだ、この……。

 頼みのコンラートは、「俺がいない間に、そんな楽しいイベントやるんですか?」と、何だか無気味に拗ねた声を上げている。
 ……そう言えば。うっかり忘れていたが。
 コンラートは、この人が関わると、いきなりとんでもなく情けない男に成り下がるのだった……。

 ………本当に、この……。

 魔王、は。

 新生共和軍は。この日、2名を除いては誰も気づかないまま。
 眞魔国第27代魔王を、その本陣に、迎え入れた。
 


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………やっと合流
話は全然進みませんでしたが。
ツェリ様書いてるのが、とっても楽しくって、やたらそっちが長くなってしまいました。
あ、マニメからちょいとネタを引っ張ってきました。気に入ってるんです、あの呼び方。

超絶美形陛下じゃなくて、ちんくしゃ野暮った少女の登場でした。
陛下の女装(…違うか?)はこれでお終い。1回やってみたかっただけので。おほほ。

またのご感想、お待ちしております。