精霊の日・11 |
エレノアは、ゆっくりと歩を進めた。 足の下からは、弾力のある柔らかな感触が伝わってくる。 立ち止まり、しばし首を傾げて考えて、それからそっと腰を屈めた。顔には、何かいたずらを思いついた子供の様な楽しげな笑みが浮かんでいる。 靴を脱ぐ。裸足になる。そしてそっと、足を地面に置く。 肌に直接、どこかしっとりした、くすぐったい感触が伝わってくる。─笑みが深くなった。 エレノアの足元には、そしてその辺り一帯には、瑞々しいうす緑の若葉が敷き詰めらるように生えていた。 「…子供の頃を思い出したかね? エレノア?」 あら、と振り返ると、長年の友人ダードが立って笑っていた。 「見られてしまったわね」 「構わんじゃないか。草の、それもこんな若葉の感触というのは、気持ちの良いものだよ。私も寝転んでみたんだ。良い気分だった」 二人は目を見合わせて、くすくすと笑った。 「……世界は、これほど美しかったのねえ……」 歩きながら、エレノアはうっとりと空を見つめた。 「ちゃんと記憶していたはずなのに……。いつの間にか、思い出さんようになってしまっておったなあ……」 カーラを救い、そして精霊の存在を教えた後、急に苦しみだした少女。 何が起きたのか分からない内に、視界が黄金に染まった。 何分、何十分経っただろうか。いや、もしかすると、数秒にも満たない時間だったかもしれない。 顔を覆っていた手を外したのは、その時耳に流れ込んできた奇妙な音のせいだった。 周囲を見回せば、すでにユーリは意識をなくし、コンラートの腕の中に納まっていた。そして彼女が手をついていた辺りの地面には、キラキラした光の粒が舞い躍っている。皆が思わず見とれるその場所から。 かすかだった音が急激に大きくなったと思う間もなく、いきなりコポコポと、水が湧き上がってきたのだ。 それは見る間に量を増やし、その場にいて、呆然と見つめる人々の身体を濡らしていった。 「………ここは池か湖だったと……! 元に戻ろうとしてるんだ! 早く、このくぼ地から出ろっ。溺れるぞ!!」 気を失ったユーリを抱き上げて、コンラートが叫ぶ。 その言葉に、ぽかんと彼を見上げた人々は、次の瞬間、一斉に走り始めた。水が一気に、それこそ天高く吹き上がり始めたからだ。飛沫を浴びながら走る人々の背後に、大きく美しい虹が立つ。 瞬く間に、広い林の中に広大な池が現れた。澄んだ冷たい水が、満々と湛えられたその池は、見事なまでに透明で、覗けばくっきりと底が見えた。……ただそこに、生き物の姿はない。 変化はそこから一気に始まり、わずかの間に、世界が一変した。 枯れて、白茶けた雑木林の残骸は、吹き上がる水の雫を浴びて間もなく、枝が伸び、伸びた枝は色を変え、次々と葉が姿を現し、やがて一帯は緑滴る林となった。呆然と見つめる人々の耳に、葉擦れの音が、風に乗ってさらさらと心地よく流れてくる。 朝の陽射しがその音に合わせて、網の目にように揺れながら、人々の身体に降り注ぐ。 木漏れ日は、昨日までと同じ太陽の光でありながら、どこか清らかに優しかった。 そして、人々が立つ地面を、一斉に淡い緑が覆い始めた。と、同時に、一気に花が咲き始める。緑豊かな林の中、池の畔は様々な色が風にそよぐ花畑になった。 「………まさしく聖地だ……!」 ダード師が呻く様に呟いた。 だが、変化はそれだけではなかった。間もなく、彼らはとんでもないものを目にする様になる。 それから一週間。 ユーリはひたすら眠り続けている。 当初、恐慌状態に陥った魔族達だった(コンラートに至っては、ほとんど半狂乱だった)が、少女が使い切った魔力と体力を元に戻すため、深い眠りについているのだと分かって、今はかなり落ち着いている。 その間も、変化は留まらなかった。 木々は葉を生み、花が咲き、いきなり実をつけた。あちこちで、林檎だの葡萄だの様々な種類の柑橘類だの、地面には苺だの、これまた大量の茸だのが、季節を無視してたわわに実っている。草が生えない、と思っていた地面からは突如麦が成長し始めた。朝には緑だった麦の葉が、午後には色を変え、翌日にはまさしく収穫を待つ姿に変化していた。 今砦の兵士達は、義勇兵として参加してきた元農民を中心に、協力しての刈り入れに大忙しだ。 最初、目にした奇跡に怖じ気づき、何も手をつけられずにいた彼らだったが、ここの大地が瀕死の状態から一気に蘇っただけなのだから、実りはありがたく頂かないと無駄になる、というツェツィーリエの言葉でようやく収穫を考える様になれた。 飢えと乾きと、そして戦に苦しみ、喘ぐ様に日々を送っていた近隣の民達も、新生共和軍の本陣に起こった奇跡の噂にいつしか集まってきていた。こうなると無気力だった民も動きが早く、すでに集落らしきものも形成されつつある。 一帯の変化は、砦を中心に、半径10タウレス(2キロ)の円を描く様に広がって起きた。そこから次第に草や緑が失われ、元の通りの荒れ地に戻っている。 一週間掛けて、エレノア達は新たな秩序を作り上げた。 収穫は、新生共和軍が集め、分配すること。集落は、なるべく早く責任者を決め、人数及び年代構成を砦に報告し、収穫と分配に協力をする事、等々だ。それは今の所成功している。もっとも、この程度の規模で秩序を維持できなくては、国をおさめる等夢のまた夢だろう。 ここで、意外と指導力を発揮したのがクォードだった。 根っから王太子である彼に、農作業の指揮などできるはずがなかろうと皆が思っていたのだが、強い指導力の向かう所、農民も軍隊も関係なかったらしい。新たな民を含めた兵達を組織し、効率良く収穫や分配を取り仕切っている。さらには、果実等を長期保存するため、女達を動員して、砂糖漬けにしたり干したりする作業も停滞なく行っているらしい。その際には、農民達から昔ながらの習慣等を事細かく聞いて取り入れているというから、王子様もそれなりに成長していたということなのだろう。 そしてまた。国土の各方面に散っていた共和軍の部隊からは、ぞくぞくと朗報がエレノア達の元に入ってきていた。大シマロン残党の逆襲の怖れが皆無とは言えないものの、これで旧勢力の抵抗はほぼ全て抑えたと、エレノア達は判断した。 新政権樹立に向けて、新生共和軍は確実な一歩を踏み出した。思いもよらないおまけをつけて。 「……今日もいいお天気ですわね」 エレノアとダード師が振り返った先に、ツェツィーリエがいた。相も変わらず、艶やかなドレス姿だ。 「空気の匂いまで変わってきた気がいたしましてよ。お二人はどう思われます?」 確かに、とエレノアは頷いた。豊かな自然の色合いの中で、大気もまた清々しく感じられる。 「…世界は美しかったのだと、今話していたところですよ、ツェツィーリエ殿」 嬉しそうにそういうダード師に、ツェツィーリエが「本当に」と微笑んだ。 「あの」エレノアがどこかおずおずとツェツィーリエを見上げた。「あの……あの、方、は……」 「ああ」とツェツィーリエが微笑む。 「まだ眠っておいでですわ。……お辛かったでしょうね。これほどの力の暴走を、あのお小さい身体で懸命に耐えておいでになって。………覚えておいでですか? あの時、あなたにあの方が謝られたのを…」 『ごめん、なさい……』 あの時、苦悶に小さな顔を歪めながら、懸命にエレノアに訴えた少女。 「……実りが滅茶苦茶でしょう? 本当なら、こんな事はしてはならないのです。その地に生きる人間と契約することから始めて、精霊を探し、盟約を交わし、復活の中心となる苗木を植えることから少しづつ大地を蘇らせていかなくてはならないのです。それこそ何年もかけて……。それを……わずか数瞬で成し遂げてしまった。……だから、自然の秩序がめちゃくちゃ。植物だけがこうも蘇って、というか、季節も何もかも無視して、一気に成長してしまって。なのに、生き物の姿はまだほとんど見当たりませんでしょ? 鳥や虫がやっとどこからか飛んできてくれましたけれどね。お魚なんて、影も見えない。これではまだまだ自然が復活したとは言えませんわ。形が、とっても…歪なんです。……そうなる事が、分かっておいでだったのでしょう。だから…」 「………次第にあるべき形に戻っていくのでしょう?」 「ええ、もちろん。自然を壊すためではなく、蘇らせるための力なのですから」 それに、と。ツェツィーリエは、楽しそうな笑みを、エレノアの方に向けて投げかけた。 「その子達も、ね」 ツェツィーリエの視線を追いかけて、エレノアは自分の肩に目を向けた。 「……あらまあ」 エレノアも、思わず吹き出した。 エレノアの肩には、手の平程の身長の、羽を生やした少女がちょこんと座っていた。 視線を感じたのか、小さな少女はひょいとエレノアに目を向け、そしてにこっと笑うと、軽やかに羽ばたいて飛んでいってしまった。羽は真っ白な蝶の羽そっくりだった。 これが、自然に起こった事と並ぶ二つ目の奇跡だった。 今、この半径10タウレスの『奇跡の聖地』には、人間でも動物でもない、不思議な生き物達が宙を飛び跳ねていた。─精霊だ。 本来、精霊に姿などない。それは自然の中に息づく意識であり、世界が生きようとする意志であるからだ。しかし。 急激に、ユーリの強大な魔力を浴びたくぼ地の精霊は、その瞬間一気に息を吹き返し、解放され、祝福された大地に飛び出してしまった。その意志のあまりの激しさに、本来姿を持たない精霊が、人間の目にすら映る「形」を纏ってしまったのだ。ツェツィーリエに言わせると、精霊が「感激のあまり、勢い余った」らしい。ちなみにその姿は、おそらくユーリが想像するところの、精霊のイメージなのだと魔族達は主張していた。この地にはユーリの力が溢れている。それをイメージごと精霊達が吸い取っているのだ、と。 透き通った、トンボや、蝶や、鳥に似た羽を持つ、子供や少女。それがほとんどの精霊達の姿だった。それが宙を飛び、花や果実と遊び、人間達も恐れずに、気がつけば頭だの肩だのにちょこんと腰を下ろしたり、ぶら下がったりしている。最初は腰が引けていた人間達も、そのあまりにも無垢な姿や、仕種の愛らしさに、今ではすっかり夢中になっていた。アリーやレイルなど若者達は、そんな精霊に勝手に名前をつけて、すっかり「お友だち」になっているらしい。 「……自然が少しづつ本来の秩序を取り戻していけば、この子達も消えて……いえ、消えるのではなく、この自然の流れの中の一部となっていくでしょう」 「…孫達が残念がりますわね」 「でもそれが、自然と人との、あるべき距離ですわ。人間が、それを『観る』必要はないのです」 「仰る通りでしょうな。………それにしても、何という力………さすがは………」 ダード師はそれ以上言葉を発しなかった。 ユーリが何者であるのか。 もう答えは全員が知っているはずだった。あの時、切羽詰まったコンラートが、思わず洩らしてしまった、あの一言、で。 だがこの1週間、砦の人々の誰1人として、その事を口に上せた者はなかった。 口にしてしまえば、もう後戻りができない。認めてしまわなくてはならない。 人間は、もう何千年もの間、ずっと間違い続けてきたのだと。 世界を滅ぼすのは魔族ではない、自分達人間なのだと。 自分達にとって今の今まで「真実」であり「真理」であったことは、全て誤りだったのだと。 それを認めるのは、人間達の歴史、営々と築いてきた暮らし、脈々と受け継がれてきた、全ての祈りや願いや想いを、自ら否定する事にも繋がる。……それはあまりにも辛かった。 そしてさらには。 ユーリは自分達と同じ高さの場所に立ち、自分達と同じに笑い、走り、食べ、遊ぶ、普通の少女(少年?)だった。アリー達若者にとっては、種族こそ違え、普通の友人だった。 友達であるユーリと、伝え聞き、頭に思い描いていた「それ」の姿とは、あまりにも違い過ぎる。 アリー達は、ユーリを怖れたくなかった。恐怖の目を、大好きなはずの友達に向けたくはなかった……。 そしてもう1人。 ユーリが眠る部屋の窓の真下に立って、クォードが苦悩する姿が連日皆に目撃されていた。 仕事の合間合間にその場所にやってきては、頭を掻きむしり、壁に額を打ちつけ、うめき声を上げて窓を見つめて─睨み付けている。 この元王太子の胸の内にどういう嵐が吹き荒れているのか、砦の誰も読み取る事はできなかった。 「コンラート」 部屋から出たところを呼び掛けられて、コンラートは振り返った。カーラとアリー、レイル、そして数人の少年兵が近づいてくる。 「やあ。………カーラ、もうすっかり良さそうだな」 「ああ」と、カーラが笑う。「お陰でな。……様子は?」 視線を、今出てきたばかりの扉に向けられて、コンラートは小さく微笑んだ。 「呼吸もすっかり落ち着いたし、長過ぎる事を除けば、全くの熟睡状態、だな。後は目覚めるのを待つばかりだろう。……見舞っていくか?」 コンラートの視線が、アリー達に向く。ぴくん、と身体を強ばらせた彼らは、しばらくもじもじとしていたが、やがて小さく首を横に振った。 「………ごめんなさい……」 消え入るような声で、アリーが謝る。少女と少年達は皆俯いて、今にも消え入りそうな雰囲気だ。 「一つだけ、いいか?」 コンラートが静かに口を開いた。 「……皆と野球をして走り回ったり、お喋りをしていたユーリを、ちゃんと思い出してくれ。あの時、ユーリが皆と何を話したか、ユーリが何を願っていたのか、この世界と人間と魔族とに、どんな夢を持っていたか。それをもう一度、思い出してくれ。……ユーリはお前達に対して、ただの一言も嘘を言っていないし、芝居をしていた訳でもない。お前達と一緒になって笑っていた、あれこそが……俺達のユーリなんだ」 彼らを残し歩み去っていったコンラートを、カーラだけが追いかけた。声を掛けて、横に並ぶ。 「……アリー達は、ユーリに会うのを嫌がっている訳ではないんだ…。ただ……怖いんだ……」 「怖がる必要など何もない。彼らは素のままのユーリと何日も一緒だったじゃないか。……ユーリはユーリのままだ。何も変わらない」 コンラートの憮然とした声に、カーラは苦笑した。 「そうじゃない、コンラート。ユーリを……怖がっているんじゃないんだ。あの子達は、ユーリと顔を合わせた時に、自分がどう感じるか、どう反応してしまうか分からなくて………自分が怖いんだ……」 「…どちらにしても、あれではユーリが目を覚ました時に、辛い思いをさせてしまう……!」 コンラートの機嫌は下降したままだ。むっとした様子の男の顔をちらと見て、カーラは笑みを浮かべながら小さく息を吐いた。 「本当に……ユーリが大切なんだな……」 「ああ」 間髪入れずに答えが返ってくる。 カーラの笑みが深まった。 あの後。丸一昼夜、カーラは眠り続けた。不思議な夢を、窓から射し込んだ光に蹴飛ばされ、開けた目蓋の向こうに祖母と妹と従兄弟をみつけた。何が起きたのか分からずに、きょとんと3人の顔を、順繰りに見つめるカーラに、祖母達がぽろぽろと涙を流して抱きついてきた。 そうして、酷い疲労感からその日一日をベッドで過ごし、翌日になってようやく起き上がると、初めて何が起きたのかを知らされた。どうしてそんなお伽話をと、苦笑いするカーラの目の前を、親指大の少女がひらひらと通り過ぎていった。……カーラは祖母達の話を信じるより先に、真剣に自分の頭、もしくは精神を疑った。……結局、信じるしかなかった。アリーが開いたカーテンの向こう、窓の外に、楽園の様な美しい光景を見てしまったからには。 そしてその日の午後。祖母達と過ごすカーラの部屋に、コンラートがやってきた。ダード師とクロゥ、そしてバスケスも一緒だった。ずっと、最も親しい仲間として、常に共に居たメンバーだ。 そこで初めてカーラ達は、コンラートの眞魔国出奔の真相を知らされた。 「……大シマロンを内部から崩壊させ、倒すという目的が同じとはいえ。騙したと、そう思われても仕方がないと思います。実際に、俺はあなた方の信頼を得るために、俺の都合のいい情報だけを伝えて、思い込みを誘導してきました。俺が、眞魔国で冷遇されて、悲惨な生活を余儀なくされているというようにね」 「………ホントは……違うの……?」 哀しげに、アリーが尋ねた。コンラートが首を横に振る。 「いや。俺は確かにあなた方の思い込みを利用した。しかし、嘘は言っていない。少なくとも、口にした事に嘘はない」 「…だったら…!」 「しかし、事実の全てを告げた訳じゃない」 全員が黙り込んだ。 「……俺は混血で、だから話した通り、かなりきつい差別を受けて育ってきました……。ただし、それはもう20年前、あの戦争が終わると同時にほとんどなくなった。今では……混血をあげつらう事はありません。不敬罪になるしね。……何といっても、当代魔王陛下が混血であらせられるのだから」 あ、と、ダード師、クロゥ、バスケスを除いた4人が、今気づいた様に声を上げて目を瞬く。 「俺の兄は、眞魔国の最上級の支配階級である十貴族のひとつ、フォンヴォルテール家の当主です。そして、当代魔王陛下の宰相を勤めている」 「…っ! あなたは、宰相閣下の弟なのですか!? コンラート!」 エレノアが大きな声を上げた。カーラやアリー、そしてレイルも、ぽかんと口を開けてコンラートを見つめている。……ならば、コンラートの兄は、眞魔国のいわば実質的な支配者だ。 「ええ」 コンラートが苦笑した。「宰相の弟」でこれほど驚かれてしまうと、少々表情に困る。 「この兄が、『反乱軍』を組織している間の俺を、密かに、だが徹底的に援助してくれていました。……兄には、どれだけ感謝してもし足りませんね……」 「……大シマロンを倒すために、あなたの血筋を利用して……?」 「そりゃ、違いますわ」 いきなり口を挟んだのは、バスケスだった。皆の視線を受けて、ぼりぼりと頭を掻く。 「…あちらで、コンラートの兄貴殿とも話をさせてもらったがね。コンラートを辛い目に合わせたって、そりゃもう悔やんでおいでだったぜ。……元々、コンラートから言い出した作戦だって話だしな。俺達が、コンラートに戻ってきて欲しいって話をした時も、どれだけそれが眞魔国にとって必要だろうとも、もう二度とコンラートを大シマロンに遣って、たった1人で危険な目に合わせる事はしないって宣言されたぜ」 「フォンヴォルテール卿の、コンラートへの愛情や信頼は、大変強いものだと俺も感じたな。言葉になさったりはしなかったし、表情にも……。自分にも他人にも厳しい方だが、実際はお心根の優しい方だと思う。……この宰相殿となら、世界の行く末についてじっくりと、夜を徹して話し合ってみたいと思ったのを覚えている」 クロゥも後を続ける。 「……あなた達がそれほど言うとは……どうやら大したお方のようですね」 「俺の自慢の兄ですよ。……ああ、弟も、ですが」 コンラートがくすくすと笑う。アリーとレイルが、難しい表情で顔を見合わせた。 「コンラート」カーラが初めて言葉を発した。「……以前の出奔の時には、ユーリに何も告げなかったと言っていたが……本当に……?」 「ああ。眞魔国が俺の背後にあるという形になってはいけないからな。ユーリが何も知らなければ、事はベラール王家の血を引く男の暴挙で済む」 「失敗したら……反逆者の汚名を着たままになるのではないのか? その時には、兄上が何とかすると…?」 「いや」コンラートが首を振る。「いざという時には、俺を切り捨てる約束になっていた。じゃないと、眞魔国と大シマロンの全面戦争になってしまうじゃないか?」 場が、しんと静まった。 「……ユーリは訳が分からずに、辛い思いをしただろうな…?」 「ああ。俺もそれが何より辛かった。だが……俺を憎んでくれれば、失敗した時俺が死んでも、あまり悲しまずに済むんじゃないかと思ってね。それはそれでいいと……」 「コンラート」 カーラの声に、悲痛な色が混じる。 「コンラート……あなたは……。あなたは、それほどまでに、ユーリを……?」 コンラートが、にっこりと笑った。 「ユーリは俺の命で、俺の世界そのものだ。と、このセリフは俺の幼馴染みが教えてくれたんだけどね。……ユーリより大切なものは俺にはない。だから、ユーリがいなければどうでもいいが、ユーリがいて、ユーリが望む限り、俺はこの世界を護っていきたいと思ってるよ」 本当は、ぶん殴ってやりたかった。 何のかんのと言いながら、結局コンラートは自分達を騙したのだ。信頼させて、夢を持たせて。 だが、話を聞けば聞く程、この男の情の深さと激しさ、そして不器用さに、涙が出そうになった。 『かっこ良過ぎるコンラッドが悪い!』 あの夢は、おそらく夢ではなかったのだと、今では思う。あれは自分を助けるために、死の縁に居た自分を、ユーリが追いかけてきてくれたのだ、と。 しかし、あの時の、自分を力付けようと一生懸命に言葉を探してくれた少女は。 コンラートのその想いの強さを、深さを、激しさを、どれだけ分かっているのだろう。 それを思うと、コンラートに恨みを抱き続ける事はできなかった。 しかし。 人の心とは不思議なものだ。一度はそれで納得したはずなのに、時間が経つに連れて、ふつふつと湧いてくるものがある。 話す事を全部話して、すっきりした顔でいつも通りに過ごしている男を見ていると、ついつい「この野郎……っ」と、下品な言葉が浮かんできたりこなかったり。 今さら、殴る事も蹴る事も、剣を抜いて勝負を挑む事もできはしない。というか、そのどれをとっても、この男にわずかの痛痒も与える事はできないだろう。自分のこの腕では。 だが。 「なあ、コンラート」 「ああ……」 「お母上が仰っておられたあなたの結婚相手とは……やはりユーリ、なのか…?」 う、とコンラートが固まった。 「……お父上はどうあれ、身分的には釣り合うそうだな……。それも意外だったが。……それにしても、コンラート」 「……あ、ああ……」 「思うんだが」 「…………………」 「年齢が離れ過ぎじゃないのか?」 びくんっ、とコンラートの身体が一瞬跳ね、そして今度こそ本当に固まってしまった。 それを確認して、わざとらしく声を潜める。 「……私との話があった時も、そういって断っていたはずだし……。だがまあ、そういう趣味であれば………趣味というのは人それぞれのものだし……しかし、いくら……幼女趣味……とは言っても……」 「…………………」 「犯罪、じゃないのか…? いや………」 「…………………」 「……………変態……?」 完全に凍り付いた男をその場に捨てて、カーラはすたすたと歩き始めた。しばらく進んでから、そっと後ろを覗いてみる。 コンラートは側にあった柱にぐったりと懐いて、なにやら彫刻と会話している。 結構、楽しい。 最初はくすくすと、そしてついには大きく明るく声を上げて笑いながら、カーラは歩き続けた。 こんなに声を上げて笑うのは、もしかすると人生初めてかもしれない。そう思いながら。 そうして。更に三日。世界に変化が起きてから十日が経った。 任務を果たしてきた部隊が、ぞくぞくと砦に帰ってきた。そして、目の前の光景に驚き、呆気に取られ、そして一様に魂を抜かれた様になる戦友達を、すでに状況に慣れた者達が優越感も交えて迎えている。 その頃、砦にやってくる民に、「新生共和軍に神が恩寵を授け、その証として奇跡を齎された」という噂を聞きつけた、遠方各地の有力者達が増えてきた。ほぼ元大シマロン全土に、その噂が広まっているという証でもある。 話半分、眉に唾つけてやってきた有力者達、その使い、そしてまた、態度は鮮明にしていたものの、実質的な行動は控えていたかつての国家指導者達は、そこに足を踏み入れた瞬間、否応無しに思い知らされた。 新生共和軍は正義である。反する者は悪である。 かの地は楽園であり、聖地である。 恐ろしい程に単純な認識が、その地を訪れる者に瞬く間に浸透していった。 この船に乗り遅れれば大変な事になる。有力者達は、己の地元に向かって、必死の形相で馬を走らせて行った。 彼らにより、より過熱した噂が、一気に各地に向かって広がっていくことになる。 「………いいのでしょうか? そもそも、これを齎してくれたのは、神などではありませんのに……」 人が増えると同時に上昇していく熱気と興奮に、エレノアが戸惑った様に首を傾げる。 「よろしいではありませんか? せっかくですもの、利用なされませ。罰は当りませんわ」 「母の言う通りです、エレノア。状況を最大限に利用する事の重要性はお分かりでしょう?」 「それは……分かっておりますが……その、あの……方は、お怒りには……」 「お陰で助かりました、ありがとう。その一言で、きっとお喜びになりますわ。そういう方ですもの」 「はあ……」 次々と新たな実りが現れ、飢えから解放された人々が笑いさざめき、精霊達が飛び回るのも当たり前の風景となった。 そうしてまた、新たな一日が始めろうという朝。 ユーリが目を覚ました。 その知らせはヨザックによって、夜明け前から農作業に励んでいた人々と、その作業を見守る人々、エレノアやダード師、カーラ、そしてアリーやレイル達、砦の主だった人々に齎された。 今、ユーリは、コンラート達に助けられて、軽い食事を取り、身だしなみを整えているという。 本当なら。彼らはすぐに、ユーリの元に走るべきだった。 命の恩人。おそらくは、この世界の恩人。そして何より、大切な友達。 だが、彼らは動けなかった。 かの人と顔を合わせて、自分はどうするのだろうと。何を言うのだろうと。 ユーリが望む事は分かり切っているはずなのに、それでも彼らは逡巡することを止められなかった。 それでも。 今は大きく開けた唯一の場所、練兵場に、ぞくぞくと人が集まってきていた。 何が話し合われた訳でもない。誰かが呼び掛けた訳でもない。 「あの人」が目を覚ましたのだと聞いた人々が、躊躇いながら、不安にどこかぎこちない表情を浮かべながら、それでも、胸を内側から叩く衝動に従い、その場に足を運んだ。 いつしか、精霊達も集まり始めていた。空を飛び、人に寄り添い、人と一緒になって砦の、その窓を見つめていた。………そこに、「あの人」がいる。 次第に数を増やす兵士達、そして民の前に、砦の指導者達が全員集まっていた。 エレノア、ダード師、クォードら指揮官クラスの武人達、かつての王侯貴族、クロゥ、バスケス、カーラ、アリー、レイル、そのすぐ後方に、野球仲間の若い兵士達。 その時が間もなくやってくる事を確信して、同時に祈りながら、彼らはただじっと待っていた。自分達には、あなたに会いに行く、後ひと欠片分の勇気がない。だから、できるなら、どうか、と。 東の空がほのぼのと光に包まれ、天空にゆうるりと青が広がり、そしてふわりとした白い雲が姿を現し始めた。光が、大地に穏やかに降り注ぐ。 そして。 その光の帯を纏って。 彼らがやってきた。 最初に姿を見せたのは、コンラートだった。 「あ」と、いくつかの声がする。 見慣れぬ、紛れもない軍服を身につけて、彼は皆の前に姿を現した。そして途中で足をとめると、ゆっくりと広場に集まった人々を見渡し、それから何も言わずに、半身を捻る様に横にずれた。 その向こうから、見なれた人々が、見慣れない姿で─ツェツィーリエだけがいつも通りのドレス姿で、ヨザックとヴォルフラム、そしてクラリスまでもが軍服を纏い─歩いてくる。そんな彼らに囲まれて。 「その人」が、いた。 ほっそりと、小柄な身体を、黒一色に包んで。 そう。 ─「黒」 丈の短い上着。その下に、襟の高い、裾は膝下まである細身の服とズボンの組み合わせ。そして踵の低い靴。全てが黒だ。 装飾品といえば、上着の襟元をとめる紅い小さな宝石が二つと、それを繋ぐ華奢な金鎖だけだ。 だが何よりも。 小さな顔を囲む髪。 零れそうに大きな、澄んだ瞳。 双方共が漆黒、そう、それはまさしく、双黒、だった。 噂は確かに聞いていた。まるで子供が寝物語に聞く、お伽話の様に。 そして。もう一つ、自分達は知っていたはずだった。 この人が。人の魂を蕩かす程に、美しいのだということを。だが。 知らなかった。 自分達が美しいと思っていたその姿は、この人の、本来の姿、真の美しさに、ベールを被せて見ていたに過ぎないという事を。 ほんの少し小首を傾げて。どこかはにかんだ表情で。 ゆっくりと、その人は自分達に向かって進んでくる。 美しいとは。そういうことだったのだ。 エレノアは思った。 この世界には、人間なぞがどうあがこうと適わない「美」がある。 例えば。 春ならば、雪解けのせせらぎの音。淡い陽射しに少しづつ溶けていく雪と氷、その雫一滴一滴の煌めき。 咲き誇る一面の花。薄く流れるような青空。萌え立つ若緑。 夏には、怒りを燃やすかの様に、大地に光を突き刺す太陽。水遊びに興じる子供の歓声。玉と飛び散る水飛沫。その輝きと心地よさ。強烈な色を主張する、夏の花。 秋は色。彩なす色。朱に、黄に、緑に。大地を彩る色の帯。ゆるやかに声を潜める陽の光。世界の全てが穏やかに、静やかに、風に流れる朱金の中に納まっていく。 冬は白。世界を覆う白。全ての汚れ、傷、苦痛、呻き、涙を内側に隠して、神々しいまでに輝く、冷たい光。それは人の心をまっさらに洗う。全て洗い流して、春を待つ。 どれほど美しい衣装で身を包もうと、豪華な宝飾品で飾ろうと、化粧を凝らそうと。 人間風情には太刀打ちできない世界の営み。その絶対の、完成した美しさ。 「黒」は、その全ての色を溶かした色。究極の美の色。 人として、それなりに長く生きていながら、ただの一度も浮かんだ事のないその言葉、認識に、だが、エレノアは自らに頷いていた。 この、人の形をした「人」は、世界の美しさの全てを、世界そのものを、その内に抱えているのだ。 クォードは己を恥じていた。とりどりの色に満ちた衣装と、身を飾る宝石の全てが、恥ずかしかった。これを優雅と表現したことも、ただただ消え入りたい程に恥ずかしかった。 黒一色の質素な装いで、それなのに、これほどまでに優雅で、華やかに艶やかに美しい存在を、クォードは目にしたことがなかった。 ずっとその美を愛でていたかった。同時に、自分を消し去りたかった。 そして。心の片隅で。この存在と出会った意味を、クォードは必死に考えていた。 エレノアも、クォードも、そしてダードもカーラもアリーもレイルも少年兵達も、全ての兵も民達も、瞬きも忘れて、近づいてくる「その人」を見つめていた。 小さな精霊達が、次々に「その人」に纏わりつき、甘える様に懐いている。その一つ一つに優しい笑みを投げかけ、話しかけ、手の平にそっと乗せて慈しんでいる。 世界の意志、生きたいと願う生命の尽きせぬ祈り。小さな、小さな、その想いの形を一つも取りこぼさずに、優しい眼差しを向けている「その人」の姿。 神だ。 これこそが、神の姿なのだ。神と世界の姿なのだ。 一体自分達の何が良かったのか、どういう恩寵なのか、自分達は神を目の当たりにする幸運に、今日この時、恵まれたのだ。 「その人」が自分達に視線を向ける。 漆黒の瞳。どんな宝石よりも、高貴な煌めき。唇が柔らかく笑みの形を取り、自分達を見つめている。 「……眞魔国、第27代魔王、ユーリ陛下にあらせられます」 コンラートの声が、人々の耳を打った。 にこ、と「その人」が笑う。 高貴なる存在に。偉大にして、心優しきその存在に。あらん限りの敬意を込めて。 人々はその場に膝を折り、一斉に、頭を垂れた。 「……あっ、あのっ、止めて下さい。顔、上げて下さい! あの、皆、立って。……お願いだからーっ」 はっと、夢から覚めた様に、エレノア達は顔を上げた。 神聖な存在と向き合う、純粋に敬虔な想いはまだ彼らの胸を支配している。だが。 見上げた先にいるのは、「ユーリ」だった。 偽りの姿を脱ぎ捨て、「神」が今、真の姿を露にした。自然に、当然のように、皆が皆そう思っていたのに。 そこにいるのは、ただ髪の色と瞳の色を違えただけの、彼らがよく知る存在。 同じ場所で笑い、走り、野球を語り、夢を語った、……彼らの友人、だった。 困り果てた様に眉を八の字にして、 頬を真っ赤に染めて、組んだ両手を胸元で揉みしだくようにおろおろしている。 「あのっ、エレノア、さまっ、カーラさんも、アリーも、レイルもっ、皆何で? とにかく立ってよ! 俺、そんな風にされると、まじ困るしっ!」 慌てて走り寄ってきたかと思うと、地面に膝をつくエレノアの手を取り、引っ張り上げようとする。 「それに、俺っ。謝んないと、いけないしっ」 「……あや、まる……?」 一体何を? 腕を引っ張られながら、エレノアはきょとんとユーリを見上げた。 「ここ! こんなコトになっちゃって……。ホントにゴメンなさいっ! まさかこんなとんでもないコトになっちゃうなんてっ。……ホントに、勝手にこの場所作り替えちゃって、ホントに……」 ようやく腰を上げたエレノアに向かい、深々と、膝に額を打ちつける勢いで、ユーリが頭を下げた。 「俺、未熟モノでっ。ホントにっ。ゴメンなさい……っ!!」 しん、と。何とも表現しようのない沈黙が、その場に下りた。 エレノアが、そしてその場に集う全ての人間達が、ぽかんとその姿を見つめている。 ユーリは腰を折った姿のままだ。 「………えと。……あのー…」 その姿のまま、顔だけをちら、と上げて、どこか情けなさそうにユーリが皆を見た。 「やっぱり怒ってる? 叱られちゃう?」という声が聞こえてきそうな顔。まるでいたずらの現場を見つけられた幼子の様な。 ぷぷっ、と最初に吹き出したのはエレノアだった。そして、すぐにそれがダード師に、カーラに、アリーにレイルに少年兵達に、広がっていく。 くすくすと、小さな笑いが、人々に広がるに従って、それは大きく、だが清々しい程軽やかな笑いに変わっていった。 「…………あのー………」 ユーリが首を傾げて悩んでいる。 「ったく! お前には魔王としての威厳とか威風というものはないのかっ! せっかく人間達が勘違い……ゴホゴホ…畏敬の念を払ってくれたというのに、台無しにして……っ!」 このへなちょこ魔王!! ヴォルフラムの決まり文句が広場に響く。 あなたを恐れずに済んでよかった。嫌わずに済んでよかった。何よりも。あなたを傷つけずに済んでよかった。 あなたが……あなたのままで、本当によかった。 プラウザよりお戻り下さい →NEXT
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