精霊の日 |
「怯むなっ!! 右翼はどうした!? カレイニーの部隊は、なぜ動かん!?」 彼は指揮杖を傍らの大木に叩き付けた。 大樹はすでに枯れ果て、折れて残った中途半端な幹だけが白茶けた姿を晒して立っている。しなやかな杖が、かつての枝の一部から、細かい欠片を飛び散らせた。 残骸の色は皆同じだ。 彼─クォード・エドゥセル・ラダは、頭の片隅でふと思った。 残るものは、すべて骨色に乾く。木も草もどんな生き物も。もちろん人間も。埋葬もされず、荒野に打ち捨てられた遺骸は、どれほど豊かな生を生きたとしても、腐り、崩れ、そして乾き。残るのは、ただそれだけの物体でしかない。……それが自然の決まり事だ。 下らん思考に逃げるなど、情けない。 大木の名残りから目を離し、眼下を眺める。 彼は今、側近の者達に囲まれて、本陣と決めた丘の上に立っていた。はるか下の盆地では、シマロン反乱軍、いや、すでに反乱が成功した今、新生共和軍と自らを呼ぶ彼らの軍隊と、元シマロン王党軍との戦闘が行われていた。 ほんの少し前までなら、負けるはずのない戦いだった。 大シマロンの抑圧に耐えてきた民達の怒りは根強く、反シマロンの戦いがぼっ発し、それが次々と正規軍を破るに従って、反乱軍に身を投じる者の数は爆発的に増えた。彼らの志気は高く、各地の反乱勢力の有機的な連合が成って以降は、まさに電光石火の勢いで正規軍を撃破し続けた。 そうして、反乱はついに成功した。ベラールの名を長きに渡って僭称していた一族は逐われ、大シマロンは潰えた。彼らは勝利したのだ。 その後に起こる戦いは、戦争といえるものではなく、単に掃討戦でしかないはずだった。それなのに。 反乱軍指導部は、そのほとんどが、かつて大シマロンに滅ぼされた王国や公国の支配階級の生き残り、または軍指導者で占められていた。最初は「反シマロン」の旗の下、一致団結していたはずなのだが。 反乱にほぼ成功し、残った広大な国土をどう切り盛りするかという具体的な話に事が移ったその時から、軍指導部に亀裂が生じ始めた。 かつての王、大公、領主、将軍達、そして腕に覚えのある戦士達の脳裏に、「切り取り勝手」という文言が浮かんだのも、ある意味仕方のない事かも知れない。 大陸一の目も眩むほど広大な土地だ。戦功を上げ、指導部内の高い地位とそれを保持する実力を持ち得れば、好きなだけ土地を自分のモノにできるのではないか、と。以前より大きな国、以前より実りのある土地を支配することができるのではないか。一介の剣士が、王にもなれるのではないか。と。 反乱軍から新生共和軍と、便宜上呼称を変えたその頃から、指導部は崩壊し始めた。 共和軍にも、当然最高指導者、盟主がいる。 かつて一国の女王であり、その賢明さと仁政をもって、その名を知られたエレノア・パーシモンズだ。 確かに彼女はその人徳で、多くの者の尊敬を勝ち得ていた。しかし既に老齢に入り、指導者というよりも円満な仲裁者としてその力量を認められる彼女には、すでに崩壊に入った指導部を、再び纏め上げる力はもうなかった。 利害の対立と共に、派閥が作られ─クォード自身、一派を担っている─、多くの者が己の損得勘定で与する相手を決めていった。民を護りたいと願う者、理想国家の建設を夢見る者、新国家に希望を託そうと集まった者は、少しづつ、少しづつ、共和軍に背を向け、去って行った。 そして彼らの組織の弱体化のタイミングを狙ったかの様に、潜んでいたシマロン王党軍が各地で策動を開始し始めた。その背後には小シマロン王サラレギーがいる。彼が、今だ「反乱軍」と呼ぶ新生共和軍を殲滅し、かつての大シマロンをその手中に納めようとしているのは分かり切った事だった。 しかし、それに対抗する力が、今の共和軍にはなかった。 いや、兵の数だけならある。充分過ぎるほどに。だが、崩壊間近の指導部に対し、兵士の志気は著しく低く、また、有能な指揮官がほとんどいなくなってしまった現在、戦略的にも戦術的にも、すでに彼らは烏合の衆としか呼べないものに成り果てていたのだ。 ─1人だけいる。 今、この状況を好転させ、再度指導部を立て直し、ただのゴロつきの集まりを、屈強な戦闘集団に変える事のできる人間が。 クォードは、そこまで考えて、唇を噛んだ。 彼とて、かつてはシマロンに匹敵する強国の王太子だった男だ。 その矜持は今もクォードを支えている。 かつて祖国が大シマロンと戦った折には、彼は不敗の王太子として戦場に名を轟かせていた。クォードが来たと聞けば、シマロン兵は取るものも取らず逃げ出す。それは単に贔屓で出来上がったヨタ話ではない。華やかな、他を圧する存在感と、勇猛果敢な戦い振り、その戦略も緻密を極め、王宮においても、民の間においても、彼の人気は絶大だった。……ただ。彼がどれほど偉大な戦士であろうとも、たった1人で大シマロンの侵攻を止めることなどできようはずもなく。 彼の祖国は滅んだ。 俺には自信があった。 新たな国家の王となり、かつて大シマロンであった土地と民を護り、復興と繁栄に導く自信が。 それなのに。結局は。 わずかな軍すら纏め得ず、今こうして滅んだはずの国の亡霊とも言える軍勢を前に、敗北を喫しようとしている。 ─クォードの、指揮杖を掴む手が、己の腑甲斐なさに対する怒りでわなわなと震えた。 「伝令!!」 兵士を乗せた馬が一騎、全力で駆けてくる。兵士の腕には伝令の印旗が巻き付けられていた。 馬から落ちる様に降りると、兵士はクォードの前に身体を投げ出した。 「カッ、カレイニー殿、戦死! 突如現れた敵兵に背後より襲いかかられ、右翼部隊は前進かなわず! 副官殿は、作戦情報が漏れていたものと推察しております! 殿下! ご、ご指示を!!」 ぐう、とクォードは漏れそうになる唸り声を、必死で噛み殺した。側近達は情報が漏れているという、突然齎された事態に、おろおろと顔を見合わせている。 ついに間者が堂々と入り込むまでになったか……! ……情けない! 腑甲斐ない! 何という体たらく!! 「…すでに援軍の要請は出してある! 右翼部隊は後退し、護りを固め、戦闘を回避して時間を稼げ! 我々本隊は……」 どうすべきか。 クォードは瞑目したまま天を仰いだ。 自ら剣を奮い、あの戦闘の中に身を躍らせるか? 自嘲の笑みに唇が歪む。 そんなに無駄死にがしたいのか。 ……撤退すべきだ。 援軍を待っていては、全滅する。このまま撤退し、右翼部隊の援護に回り、彼らと共に砦に帰る。それ以外に、兵士達の命を護る手立てはない。 ……1人だけ。いる。 今、無意味に消えて行こうとする兵達の命を救える人物が。ただ、1人だけ。 「………神よ……」 全軍に撤退の合図を、そう続けようとした。 その時。 「…! 殿下!! あれを……!」 側近の声に、視線を転じたその先。彼らのいる丘からかなり離れた、方向としては右翼部隊の進路であるはずの方向から、突如膨大な数の兵が姿を現した。 「……右翼部隊を襲ったやつらか……!?」 では遅かったのか? あの部隊は全滅したのか? これだけの数の兵が、一斉に戦闘に参入したら……! 「もはやこれまでか……」 クォードは指揮杖を捨て、剣を抜いた。すでに機は逸した。撤退はかなわない。ならばせめて敵の一兵でも多くこの手で……。 「…………み……味方、です。あれは……あれは、共和軍、我らの援軍ですっ!!」 あの旗印をご覧下さい! 言われた言葉を理解する前にそう叫ばれて、クォードは剣を握りしめたまま、彼方に目を凝らした。 「…おおっ、確かに…!」 「あれに棚引くは……確かに我ら新生共和軍の旗! 間違いない、援軍でございますぞ、殿下!」 「だが…あれほどの数……それに……」 どこか呆然と、クォードは呟いた。兵達の雰囲気が違う。 丘の稜線に沿って居並ぶ兵や騎士達の整然とした様子といい、今だ動かないにも関わらず、全体から立ち上る圧倒的な闘志といい。まるでそこだけ過去に戻ったかのような、それは紛れもない強大な「軍」だった。 「…あ、あれは……?」 歩兵や騎馬達の中から、馬に乗った男が1人前に進み出てきた。剣を抜くのが見える。 「あれは……まさか……」 見えるのはシルエットだけ。だがその形に見覚えがある。あれは……。 クォードは、傲と燃える火の固まりのような力が、腹の底から次第に湧き上がってくるのを感じていた。 指揮官と思しき男が、剣を振り下ろした。 敵の数を遥かに圧倒する軍団が、歓声を上げて一斉に、だが整然とコントロールされて、丘陵を駆け降りて行く。彼らの前にはあの男。 「………コンラート、だ………」 「……殿下…?」 「今、何と……?」 クォードは、抜き身の剣を引っさげたまま、自分の馬に駆け寄り、力強くその背に身を乗せた。 「コンラート・ウェラーだ! 何をしているっ! 続け! 手柄をコンラートに独り占めされても良いのか!?」 「コンラート殿が!?」「まさか、本当に!?」「お戻りになられたのか!!」 騒ぐ部下達を後目に、クォードは馬を走らせた。 「はっはあ!!」 敗北感を感じるのだと思っていた。 あの男が目の前に現れれば、きっと。 敗北感と屈辱感、そこから生まれる身体を燃やされるような苦痛に、延々と苛まれるのだと。 なのに、どうだ。 自分は今、笑っている。 身の内から湧き上がる高揚感と、何とも表現しようのない歓びに、今自分は叫びたい衝動を抑えることすらできずにいる。 「コンラートめ! コンラートめ! コンラートめ!」 わっはっはぁ! 全身で笑いながら、クォードは戦闘の渦の中に己の身を躍り込ませた。 「殿下、お久し振りです」 戦闘のさなかとも思えぬ穏やかな声だった。 目の前にはコンラート。 以前の通り、濃紺の長衣を纏い、額に赤いバンダナを巻いている。記憶のままのその姿。 血刀を手に、まるで街中で偶然出会った知り合いに挨拶するかの様に、彼は微笑む。 だからクォードも、向かってきた敵の兵卒を屠ったその剣を、手の代わりに軽く上げて「おお」と答えた。 「なんだ、コンラート。おぬし、俺の手柄をわざわざ横取りに戻ったか?」 「ええまあ、そんなところでしょうか?」 「なるほど」クォードは凶暴な笑いを顔に浮かべた。「帰参祝いに、今日の所は手柄を譲ってくれるわ」 「コンラートッ!!」 砦に戻った彼らを、留守組が一斉に飛び出してきて、歓声と共に迎えた。齎された大勝利の報と、戦友たちの復帰に、陽も高いというのに砦はすでに宴会気分に盛り上がっている。その中からアリー─まだ10代の、それでもいっぱしの戦士を気取る少女─が、泣きながら、大騒ぎの人波をかき分け、駆け寄ってきた。そのすぐ後ろから、同年代の少年も満面の笑みを浮かべて駆けてくる。 「コンラートッ、コンラート!!」 アリーとレイル、従兄弟同士で、共和軍の盟主エレノアの孫にあたる二人が、そろってコンラートに抱きついてきた。 「お帰りなさい! お帰りなさい、コンラート!」 「信じてたわっ。絶対帰ってきてくれるって! 信じてた、コンラート!」 抱きついて、わんわんと泣き出す二人の子供を、何かを思い出すような目で見つめてから、コンラートはその背をぽんぽんと叩いた。そしてスッと二人から身体を離す。 「……コンラート……?」 だがもうコンラートは彼らを見ていなかった。その視線は、砦から出てくる新たな人物に向けられている。 「………エレノア」 新生共和軍の盟主、エレノア・パーシモンズと、その盟友、法術師にして神官のダードが歩み寄ってくる。 「……コンラート…生きていてくれたのですね……?」 ようやくコンラートの前にたった老婦人が、涙を浮かべて彼を見上げていた。 「申し訳ありません、エレノア。勝手に兵を動かしました。時間が切迫しておりましたので」 「構いません、コンラート。あなたがそう判断したのなら、どのようにしてくれてもいいのです。……それに、今回私たちを救ってくれたのは、ほとんどがとうにこの地を離れたはずの人達ではないですか。……あちらにいるのはエストレリータではなくて? 彼女もとっくに私たちを見限ったはずですよ? …あなたが…戻る様に説得してくれたのね?」 「彼らの居場所が、通り道にあたりましたので。ちょっと話をしただけですよ、エレノア。……お痩せになりましたね? 大丈夫ですか?」 「大丈夫なものですか。どれほど貴方の心配をしたと思うの? それに……。いいえ、もういいのです。貴方が……戻ってきてくれたのなら……」 「…エレノア、俺は……」 「コンラート」 ダード師が、柔らかな声でコンラートを遮った。 「……お久し振りです、老師」 「元気そうでよかった。……君がそうやって生きているという事は、魔王は魔族と人間の共存を望んでいると考えてもいいのだろうね?」 「魔王なんてどうでもいいじゃない!」 アリ−が叫ぶ様に割り込んだ。 「そんなのどうだっていいじゃないっ。コンラートは帰ってきてくれたんだから。私たちの所に帰ってきてくれただから! もう魔王なんて関係ないわっ。そうでしょっ!? コンラート!」 縋る様にそう言い募るアリーに、それでもコンラートは何も答えようとしなかった。そしてダードに視線を戻すと、「その件につきまして、後ほど少々…。よろしいですか?」と尋ねた。老師は穏やかな表情のまま、頷く。 「さあ、もういいでしょう? 中に入りましょう」 不安そうにコンラートを見つめるアリーを見かねた様に、エレノアが口を挟んだ。 「積もる話は中でゆっくりと。今日はお祝いになるわよ。久し振りの大勝利だし、こんなにたくさんの懐かしい人達が、誰よりコンラートが帰ってきてくれたのですもの」 エレノアの言葉に従って、彼らは砦の中に向かって歩き始めた。 大玄関の近くまで来て、ふとコンラートは足を止めた。 「……カーラ……」 エレノアの孫、アリーの姉、そして男達と共に剣を奮い、シマロンをまさしくその手で切り伏せてきた女剣士が、ぴんと背を伸ばし、じっとコンラートを見つめて立っていた。 小さく微笑んで、コンラートが歩み寄る。 「……久し振り、カーラ。……髪を切ったんだな」 かつてまっすぐに伸びていた亜麻色の髪は、項で無惨なほどばっさりと切り落とされていた。男の様に短く刈られた髪は、美しい女をひょろりと背の高い、どこか危うさを秘めた少年の様に見せている。 「………髪など梳いている暇がなかったのでな。切ってよかった。頭がすっかり軽くなった」 「なかなか似合う」 その言葉に、カーラがくすりと笑った。 「あなたが言うと、本当の様に聞こえるから困る」 お帰りなさい、コンラート。 小さく付け加えられた言葉に、コンラートが微笑みを返した。以前はほとんど見る事のできなかった笑みを向けられて、カーラは頬に熱を感じた。恥ずかしさに、すぐに顔を背け、「中へ」と皆を促す。 祝いの喧噪を背に、彼らはぞろぞろと砦の中に入って行った。 だから。誰も気がつかなかった。 コンラートが、彼らの前に現れてからただの一度も、「ただいま」と言っていないのを。 コンラートが帰ってくるかも知れない、という話は少し前から皆の口の端に上っていた。 クォードは、窓の外の騒ぎを遠くに聞きながら、ただ1人、酒のグラスを口に運んでいた。 コンラートの副官だったクロゥとバスケスの二人が、彼の安否の確認と、生きているなら─もしも捕らえられているなら救出し、無事に連れ戻すため、眞魔国へ向かったという話を聞かされたのは、そう遠い昔ではない。 そして戻ってきた二人が、コンラートの帰参を匂わせる報告をエレノアにしたという話も聞いた。 だが、どうやって魔王の怒りを逃れたのか、何の罰も受けていないのか、自由の身なのか、何をしているのか、なぜここへ戻ってこないのか、畳み掛ける様に尋ねるエレノア達に、彼らはほとんど言葉をぼかし、具体的な事な何一つ答えなかったという。 だから相当あやふやな話であり、クォードはもちろん、エレノア達コンラートの親派でさえ、コンラートの帰還を信じてはいなかった。だが、自分達を取り巻く状況が悪くなるに従い、「コンラートが帰ってくる」という声が、いつしか最前線に送られる兵達を中心に囁かれる様になっていった。それは、もはや逃げ出す場所も、帰る場所もなく、消耗品扱いされ、希望もなくしかけた下っ端の兵士達の、ほとんど祈りに近い声だったと、クォードは今になって思う。 そうして祈りは神に聞き届けられたのだ。 彼らが、今宵、羽目を外して大騒ぎするのも無理はなかった。 今になって、彼はあの戦場での、異様なまでに興奮した己に呆れていた。 いくら死をも覚悟するような状況だったとは言え、ああまで喜んでしまった自分の腑甲斐なさ。 悔しいとか、腹立たしいとか、情けないとか、憎らしいとか。 千々に乱れる思いは、酒と一緒に腹の中に渦巻いてはいるけれど。 それでも。………どうやら、俺は、本当にコンラートが戻ってきて、嬉しいらしい。 くすり、と一つ笑いを浮かべて。クォードはグラスに新たな酒を注いだ。 それでも。再び、クォードは思った。 だからコンラートをシマロンの王に、とは思わない。 元シマロンの、広大な国土を統治する王にふさわしいのは、自分以外にいないと思う。血筋だとか、家柄だとか、個々それぞれ「いいもの」を持ち合わせた人物はいる。それらがなくとも、戦士として、政治家として、実力を兼ね備えた者もいる。だが、その全てを同時に兼ね備えた者は自分以外にいない。 思い上がりでも、傲慢な考えでもないと思う。 冷静に、客観的に見ても、いまこの新生共和軍指導部において、指導者の器を持つのは自分だけだ。 もちろん、自分にも足りないものがある。 少し頭を捻るだけでも浮かんでくるのは、例えば民草の感情の機微だとか、最下層の、だが最も数の多い一般兵士の束ね方だとか、王族として生まれ育った身には、理解し難い下々に関わる事柄だ。王太子として生きていれば考える必要もない事だが、今のような境遇にあるとなると、無視する事もできない。 「……だから俺にはコンラートのような男が必要なのだ……」 王としての自分。そして、彼を補う腹心の部下。すなわちコンラート。 この図式は、コンラートの実力を思い知らされた頃から、ずっとクォードの中にあった。だからこそ、コンラートがこの地を離れた時は、心底落胆したのであったが。 「…まあ、とにかくあいつは戻ってきた。今はこれでよしとするか……」 だが。 脳裏の片隅で、何かが引っ掛かる。……コンラートは。 コンラートは、何故眞魔国に戻ったのだろう……? 砦を取り巻く広大な広場のあちこちに、今日は思い切り良く篝火が焚かれていた。 本当に奇跡的な大勝利だった。カーラはしみじみとそれを実感しながら、広場で酒を酌み交わす戦士達を労い、共に肩を叩きあい、再び生まれてきた希望を共に噛み締め喜びあった。 今回の戦は、敵にとっても味方にとっても、まさしく雌雄を決する戦いだったのだ。 「新生共和軍」の弱体化に伴い、小シマロンの援助─武器も物資も、そして兵力も─を得て、元大シマロン王党軍は、いわば最後の決戦を挑んできたのだ。絶対に負ける訳にはいかない戦いだった。 だが実際は、間者の侵入により作戦の一部が漏れ、各部隊は奇襲を受けて戦況は硬直、クォード指揮する本隊は、待機させていた左翼部隊を投入しても拠点を制圧する事が叶わず、それどころか彼らを支援するはずの右翼部隊もまた壊滅の危機に瀕してしまった。 もしも。もしも、コンラートが離脱していた戦士達を集めて戻る事がなかったら。すぐに状況を察した彼らが、戻るや否や、馬から降りて休むことすら己に許さず、砦に残っていた兵を加え、戦場に向かってくれる事がなかったら。 彼らは今頃、この砦に哀れな骸を晒していたかもしれないのだ。 「カーラ!」 酔いを冷まそうと、砦に戻ったカーラの背後から、声が掛かった。 「エスト」 懐かしい姿に、カーラの顔が綻ぶ。 エストレリータは、その雅びやかな名前と裏腹に、屈強な女戦士だった。 鍛え上げられた大柄な肉体と、良く言えば「大胆に彫り上げられた」、悪口を言う者は「大雑把な」と表現する目鼻立ちは、だが陽気で、包容力に溢れているとカーラは思う。 目先の欲に理想をなくした指導部に見切りをつけ、一族郎党を率いて早い時期に共和軍を離脱していた。もともとある街の顔役として多くの人間達を率いていた女で、指導力もあり、彼女の離脱はカーラとしてもかなりの痛手だったのだ。 「帰参の挨拶が遅れちまってたね。許しとくれ」 「何を言っている。……よく戻ってきてくれた。嬉しいよ、エスト」 その言葉に、エストレリータが苦笑を浮かべた。 「……コンラートだよ。分かってるだろ?」 「ああ。…彼が説得してくれたのだな」 「まあね。説得というか……叱られたよ。指導部が頼りにならないというなら、そんな奴らをなぜ叩き出さずに、自分達が出てきたんだってね。民を護る力になりたいなら、なぜ自分達の力で指導部を変えようとは思わなかったんだって。……あたしらを捨てて行っちまったくせに、何を偉そうにって思ったんだけどさ。何ていうか……やっぱりイイ男には逆らえないよねぇ」 からからと笑うエストレリータに、カーラもくすくすと笑った。 「お姉さま!」 二人の背後から、別の声が掛かった。アリーだ。レイルもいる。 「やあ、アリー嬢ちゃん、レイル坊っちゃん。元気そうで何よりだ」 「エスト姐さん! お帰りなさい!」 「お帰りなさい、エストさん」 ただいま、と答えて、エストレリータは二人の頭にぽんぽんと手を弾ませた。アリ−がくすぐったそうに笑う。 「……お姉さま、コンラートは?」 「そう言えば、見ていないわ。……もしかすると、お祖母様や老師とお話ではないかしら?」 「……なあ、カーラ?」 カーラの言葉に頷くアリーを見遣ってから、エストレリータは口調を変えてカーラに話しかけた。 「お前さん、もう二度とコンラートを離すんじゃないよ?」 「…エ、エスト……? 何を言って……」 「分かってるはずだよ。コンラートは絶対離しちゃダメだ。あの男と釣り合うには、あたしじゃちょっと役者が不足してるからね。あんた以外に誰がいるのさ。……惚れてるんだろう? 遠慮してちゃ、ああいう男はモノにできないよ? ……いっそのコト、寝込みを襲うってのはどうだい? 協力するよ?」 「なっ、何を…! いい加減にしろ、エスト。バカな事を………」 「バカな事じゃないわ、お姉さま!」 「アリー…?」 「そうよ! 襲っちゃえばいいのよ。コンラートのことだもの、きっと責任をとって結婚しようって言ってくれるわ。うん、絶対そう! ね、お姉さま、今夜あたりお酒も入ってることだし、思いきって……」 「アリー!」 従姉妹のあまりな言葉に、レイルが頭を抱えて叫ぶ。 「……はしたないぞ、アリー。もうちょっと慎みというものを持ちなさい」 カーラも眉を顰めて妹を嗜めた。 「……だってー……」 「エストも! 二度とそういう下らない話を口にするな。私はコンラートを陥れるような真似はしない」 「つまり正々堂々と恋人志願するということかい?」 「エスト!」 頬を赤らめて声をあげるカーラに、エストレリータが再び声を上げて笑った。 そんな会話を交わしながら砦の中を歩く彼らの目の前で、ふいに一つの扉が開いた。 ハッと足を止める彼らの前に、コンラートが姿を現す。そして、クロゥとバスケス、最後にダード師が部屋の外に出てきた。 「では、そういうことで……」 「ああ、今はまだ表立ってそれを表明する必要はあるまい」 「ええ、そうですね。ただそれが………」 ふいにコンラートがカーラ達に顔を向けた。 「………やあ」 カーラの胸に、ふと不可思議な違和感が湧き上がった。 どうしてだろう? 部屋から出てきた彼らは、とても穏やかな、和やかな雰囲気だった。ちらりと見ただけだったが、ダード師は近頃見ない程明るく笑ってはいなかったか? それなのに、なぜ今、彼らは私たちを見て、戸惑った様に視線を外しているのだろう。 まっすぐにこちらを向いているのは、コンラートだけだ。クロゥやバスケスに至っては、一瞬、ほんの一瞬だが、私たちを認めたと同時に、眉を顰めてはいなかったか? そして。 コンラートは、なぜ彼らとだけ話をするのだ? 本当なら、私や、アリーや、レイルだって、いや、そんな誰よりも、お祖母様が加わっていないのはどうしてだ? 「何やってるの!? お話するなら、どうして私たちも呼んでくれなかったの!?」 アリ−が、頬を膨らませて抗議している。 「ああ、老師にちょっとお伝えする事があったんだよ」 「でも……!」 「ごめん、アリー。……また明日にでもね」コンラートは改めてカーラに顔を向けた。「さすがに疲れたので、今夜はこれで休ませてもらう。では」 おやすみ。 そう言って、軽く手を振ると、コンラートはダード師に一礼し、踵を返して去って行った。その後を、クロゥとバスケスが続く。 カーラの中に、ふいに生まれた疑念と不安。それは、必死で打ち消そうとする心の襞の奥底に、そっと、根付いた。 プラウザよりお戻り下さい NEXT→
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