心の歌を聴いて・6 |
「…………ご……ごめん、なさい……」 連れてこられた二人の少年─子供は、最初からもう顔を涙でぐしょぐしょにしていた。 「……この子、達が……犯人……?」 思わずユーリが声を上げる。 出会った頃のグレタと同じ年頃だろうか、兄弟というにはあまり似ていないが、二人とも何となく質素な、はっきりいって粗末な服を身につけているところは共通している。 「間違いないです」 マルゴがはっきりと頷く。 「私がぶつかったのは、確かにこの子達です」 彼らが特定されるのは早かった。 各国代表団の宿泊に当てられた建物には、もちろん警備の者が配置されているし、出入りは厳しくチェックされる。その日、誰がいつどのような用件でそこに出入りしたかも、全て記録されているのだ。 この、『芸術の日』出演者が宿泊する館においてもそれは同じだ。 マルゴが目撃した容疑者が子供ということもあり、すぐにその身元は明らかになった。 ヴォルフラムの命を受けた者達がすぐに彼らの住む場所に向かい、少年達を問い質した所、竪琴を盗んだことを告白した。 竪琴は、子供達の寝台の下に、青いドレスに包まれて隠されていた。 そしてそれはつい今し方、ヴォルフラムの部下の手によって、恭しくアリサの手に戻された。 受け取った直後、竪琴を抱き締めて涙を浮かべていたアリサだったが、今は真剣な眼差しで、弦や本体に異常がないかを調べている。 「……孤児院の…子?」 「そうだ」 少年達が王都にある孤児院に暮らす子供達だと知らされて、ユーリが目を瞬かせ、ヴォルフラムが重々しく頷いた。 「おま……魔王陛下の祝いの宴に役立ちたいと、下働きを買って出た者達だ。この二人だけではなく、多くのそういった施設の子供達が今血盟城で働いている。……陛下への日頃の感謝を、せめてそのような形で現したいと。それがこんな真似を……!」 「おっ、お許し下さいませ!!」 眦をきつくして、子供達に詰め寄ろうとしたヴォルフラムを遮るように、その時、1人の男性が飛び出してきた。 それまで子供達の傍らで項垂れていた、初老の男性だ。 その人物はヴォルフラムと子供達の間に身体を投げ入れるように、その場にひれ伏した。 その姿に、子供達はますます顔をぐしゃぐしゃに歪めると、揃って男性に駆け寄り、その背中に取りすがった。 「先生っ!」 「せんせ〜、ごめんなさい〜」 後は言葉にならず、ただひれ伏す男性の背中に顔を埋めておいおいと泣き出す。 「……施設の院長です」 ヴォルフラムの部下が、そっと囁いてくる。 男性、孤児院の院長が、子供を背中にへばりつかせたまま顔を上げた。 「……偉大なる魔王陛下の宴のお手伝いをさせて頂いていながら、このような真似を子供達にさせてしまいましたこと、もはや言い訳の仕様もございません。まことに……まことに、申し訳なく……!」 そう言うと、院長は額を床に叩き付けるように頭を下げた。 「子供達の罪は私の罪! どうかお咎めはこの私に……! どうか……っ」 「その前に」 ユーリの声がその場に響いた。ハッと院長が顔を上げる。 「おれは、どうしてその子達がこんなことをしたのか、それをちゃんと知りたいな。……どうして?」 「そんなもの、どうせ売り払って金にしようとしたのに決まって……」 「違うっ! そんなんじゃないっ」 「ちがうもんっ。絶対ちがうもん!」 ヴォルフラムの言葉が終わらない内に、院長の背から勢い良く顔を上げた子供達が同時に叫んだ。 顔は二人とも涙と鼻水でぐちゃぐちゃだが、瞳だけが強い光を放っている。 「…こ、これ、お前達……」 ユーリはゆっくりと彼らに近寄ると、床に膝をついた。そして、慌てる院長の肩にそっと手を置き、子供達に目線を合わせて優しく声を掛けた。 「だったら、教えてくれよ。どうしてアリサの竪琴を盗んだんだ?」 「盗んだんじゃないんだ!」 年長の少年が、咄嗟に声を上げる。だがすぐに、苦しそうに顔を歪めると視線を落とした。 「盗んだんじゃ……ないんだ……。ちょっとだけ隠しておこうと思って……。でっ、でもっ、後でちゃんと返すつもりで……!」 「隠す……?」 ユーリが振り返ると、すぐ側にヴォルフラムが、そしてコンラートと村田、それから4人の女性音楽家が怪訝な眼差しでこちらを見ている。 竪琴を抱き締めたまま、アリサもまた、不安そうにじっとユーリを見つめていた。 「……えっと……それはどういう……」 「おじちゃんに……」 視線を戻し、さらに問いかけるユーリの言葉に被さるように、年下らしい男の子が小さな、だが切実な声を発した。 「おじちゃんに、1等賞をとって欲しかったんだ……」 おじちゃん? 1等賞? 首を傾げるユーリに、「あの」とか細い声が掛かる。転じた視線の先に、哀しげな眼差しの院長が顔を上げてユーリを見ていた。 「……実は……この度の芸術発表会に出演なさる中に、この子達が『おじちゃん』と呼んで懐いております方がいらっしゃるのです」 院長が告げた名は、確かに器楽部門で選ばれた男性音楽家の名前だった。 「大変立派な、子供好きのお優しい方で、何度も私どもの施設を訪れて下さっては子供達にお菓子を振る舞ったり、音楽を聞かせてくださったり……。子供達も皆、すっかり懐いておりまして。それで、その方がこの度魔王陛下のおめでたい宴で演奏するという栄誉を賜ったと聞きまして、皆大層喜んでいたのでございます。何でも、そこで1等を取れば、眞魔国一の芸術家と認められるらしいと……。ですから、何ができるという訳ではありませんが、皆でその方が1等に選ばれるように眞王様にお祈りしようなどと話しておりました……」 「だからって……それでどうしてアリサの竪琴を……?」 世話になっている人物を応援しようという気持は分かる。だがそれがどうして竪琴を盗むという行動に繋がるのかが分からない。 ますます首を傾げるユーリに、年長の少年がキッと顔を上げた。 「その人が! その人が言ってたんだ!」 少年の指差す先には、ヴォルフラムがいた。 「…なっ、何だと…!? 僕が、一体……」 「竪琴がすごいって! それからドゥーリーとか、バノンを弾く何とかって人とか! 僕ら、荷物を運んでる途中で、ちゃんと聞いてたんだ! ……でも……おじちゃんの名前が出てこなかった………」 おじちゃんの横笛だって、ものすごくきれいで、上手なんだ……。 少年達がしょんぼりと項垂れる。 その様子に、思わず全員の視線がヴォルフラムに集中した。 「……え、あ…あの時のことかっ!? だったら……ぼっ、僕はただ……粒よりの人材が集まったという話をしていただけ……あ、いや、その………っ」 慌てふためくヴォルフラムに向けられる視線が、何となく白っぽくなる。 「……お昼ご飯の時間に、二人であちこちの部屋を覗いて見てたんだ。そしたら……テーブルの上に竪琴があって。ドゥーリーやバノンはおっきくてどうにもならないけど、これなら僕らでも隠して持っていけると思って……だから……」 「競争相手が1人でも減れば、お前達のおじちゃんが1等を取りやすくなると思ったのか……?」 ユーリの言葉に、少年達が顔を見合わせ、それから小さく、だがはっきりと頷いた。 部屋に、幾つもの深いため息が溢れた。 「なあ、お前達……えーと、名前は?」 床に坐り込む子供二人の肩に手を置き、目線を同じ高さに合わせたままでユーリが問いかける。 「ヴィクター」 「ぼく、ヒューイ。皆、ヒューって呼ぶよ」 「そっか。じゃあ、ヴィクター、それからヒュー」 子供達がじっとユーリを見つめ返してくる。 「お前達のおじちゃんは、お前達が竪琴を隠したことを知ってるのか?」 即座に、子供二人の頭がぶんぶんと勢い良く左右に振られる。 「おじちゃんには、ここに来た時に挨拶しただけだ! 練習の邪魔になるから、その後は会ってない。ほんとだよっ。おじちゃんには何にも言ってない!」 年長の子供、ヴィクターの言葉に、ヒューイも「そうだよ、そうだよ」と頷く。 そっか。ユーリは頷いて、二人の肩に置いた手に、あらためて力を込めた。 「あのな、ヴィクター、ヒュー。……お前達のおじちゃんは、とっても立派な音楽家なんだ。眞魔国の誇りって言ってもいいくらい立派な人なんだ。だから今度の宴に選ばれたんだぞ? そんな人が、自分のために、可愛がってるお前達がこんな事をしたと知ったら、どう思うかな? もしおじちゃんが1等賞を取ったとしても、お前達がしたことのために賞を貰ったんだって知ったら、どう思うかな? 喜ぶと思うか?」 「……………黙ってれば……」 「悪い事を、いつまでも隠しておく事はできないんだ!」 ヴィクターの呟きに、ユーリが思わず声を上げる。二人の子供が揃ってビクンッと身体を震わせた。 「その時は隠しておけても、いつか必ず知られる日が来るんだ。その時……その人は、おじちゃんは、お前達のした事を喜んでくれると思うか? よくやったって、褒めてくれると思うか?」 「………おじちゃんは」一つしゃくり上げてから、ヴィクターが小さく言葉を発した。「お、おじちゃんは……喜ばない、と…思う」 うん、とユーリが頷く。 「お前達のおじちゃんは、ズルをして1等を取ろうとするような人じゃないんだよな?」 うん、うん、と子供達が大きく頷く。 「………………おじちゃんは……」 ヒューイが、またも目に涙を溢れさせてユーリを見上げた。 「おじちゃん……怒る? ぼくらのこと、キライになる……?」 言いながら、うっうっとべそをかきはじめる。ヴィクターもまた、目に涙をいっぱいに溜めている。 「怒るよりも……きっとものすごく悲しむと思うよ」 「かなしむ……?」 「ああ。……よく見るんだ。先生、お前達のためにこんなに泣いてるじゃないか。お前達は、大好きな先生をこんなに悲しませたんだぞ? おじちゃんだって同じだ。だっておじちゃんも、二人の事がすっごく大事なんだもんな。だから、自分に賞を取って欲しくて悪い事をしてしまったお前達のために、おじちゃんはものすごく悲しんで、きっと泣いちゃうぞ? ……大好きな人を悲しませるのも泣かせるのも……いやだよな?」 ヴィクターとヒューイが、二人揃ってこっくりと頷き、そのまま肩を震わせ始めた。 伏せた目から涙が零れ落ち、床にほろほろと落ちる。 思わず、ユーリは二人の子供の肩に腕を回して抱き寄せた。 「……大好きな人には、いつも笑っててほしいよな……?」 ユーリの胸に顔を埋めたまま、二人が揃ってうんうんと頷く。 ふと気配を感じて、ユーリが顔を上げた。いつのまにか、すぐ側に竪琴ではなく、板を抱いたアリサが立っている。 「……あのな、ヴィクター、ヒュー」 胸の中で、二人の子供が顔を上げる。 「このアリサもな……お前達と同じ様に、施設で育ったんだぞ?」 ユーリの言葉に、二人が「え?」と目を瞠く。 そして、アリサがすぐ側にいる事に気づいて、ユーリから身体を離し、そろそろとその場に座り直した。 「それでな。アリサは、生まれつき言葉を話す事ができないんだ。声が出ないんだよ」 目を瞠いた二人が、ぽかんと口を開いてアリサを見上げる。 「だからアリサにとって、竪琴はただの楽器じゃないんだ。嬉しいとか、哀しいとか、色んな気持を言葉の代わりに表現するための、楽器以上に大切なものなんだ。………それを、お前達はアリサから奪ったんだぞ?」 しばらく呆然とアリサを見上げていた二人だったが、やがてヴィクターがアリサの前に身体を投げ出すように手をついた。 「ごっ、ごめんなさい! ごめんなさい! 本当に……ごめんなさいっ!!」 ヴィクターのその様子をびっくり眼で見ていたヒューイも、慌ててそれに倣い、床に手をつくと「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けた。 「ぼっ、僕たち、本当に悪いことしました! 本当にごめんなさい! あの、でも、ヒューは僕の言う通りにしただけなんです! だからヒューを怒らないで下さい! お、お願いします! 悪いのは僕です!」 泣きながらそう叫ぶヴィクターを抱き締めて、院長もそこに並んだ。 「いいえ、責任は私にあります。まことに申し訳ない事を致しました。ですがどうかこの子供達にはお慈悲を賜りたく……!」 頭を下げ続ける3人を前に、ユーリがゆっくりと立ち上がる。その傍らで、「どうしたものかな」とヴォルフラムが呟いた。 その時、板に何事か書き付けたアリサが、それをユーリ達の前にさっと差し出した。 『この人達を、許してあげて下さい』 「………アリサは、それでいいの?」 ユーリの問いかけに、アリサが板を布で拭い、また新たな言葉を書き連ねる。 『竪琴は無事でした。私も施設の育ちです。優しくしてくれる人を慕う思いは、誰よりも理解できます。この子達の気持が、痛いほど分かります。こんなに反省してます。ですからどうか、許してあげてください』 「……しかし、それでは示しがつかん! 僕は責任者として……」 「示しって、フォンビーレフェルト卿」 ヴォルフラムの言葉に、それまで沈黙していた村田が口を挟む。 「これ、表沙汰になってるのかな?」 大賢者の質問に、ヴォルフラムがうっと詰まる。 「そ、それは……。ここにいる女性達には口止めしたし、調査も内密に行ったし、不穏な気配を感じている者はいるだろうが、具体的には……たぶん、誰も……」 「この子達のおじちゃんはどうだろう?」 「彼は昼食後、すぐに自分の練習場に向かったらしいから、今も何も知らないまま練習に励んでいる、だろうな」 「だったら、不問に付しても特に問題はないんじゃないかなあ」 「……う……」 いかにも不服だと言いたげに、ヴォルフラムが盛大に顔を顰めた。 「という訳で、渋谷」 うーうー唸るヴォルフラムを放って、村田がユーリに呼び掛けた。 「被害者の意志もはっきりしたし、後は君が決めればいいよ。魔王陛下が決定すれば、誰も文句はつけられないんだし」 え? と、院長と二人の子供がきょとんと顔を上げる。 あっさりとユーリの身分をばらされ、慌てるコンラート他をきれいさっぱり無視する確信犯村田は、にっこりと無邪気全開の(コンラート達からすれば真っ黒な)笑顔をその場にふりまいた。 「……まおう……へいか……?」 呆然と見上げる3名。 「……あ、でも……陛下は双黒だって………」 ヴィクターの言葉に苦笑すると、ユーリは再び彼らの前に腰を下ろした。 「ちょっと変装してんだ。黒は目立つからな−。……髪は染めてるからダメだけど、目は、ほら」 そう言ってその場でコンタクトを外す。 眞魔国でただ二人きりの、漆黒の瞳が彼らの目の前に現れる。 途端。 院長がものすごい勢いで後方に飛び退ると、床に文字通り額を打ちつけた。 「ごっ、ご無礼を! お、おお、お許しを…っ!」 だが二人の子供は、魂が抜けたようたような顔でぴくりとも動かず、見入られたようにユーリの瞳を見つめ続けていた。 「……どんなに大切な人のためって思っても、その人が喜んでくれない事をしたってダメなんだぞ? そんなの、大事な人を泣かせるだけで、ちっともいいことなんかじゃないんだからな?」 そう言うと、ユーリは立ち上がり、二人の肩に手を置いた。 「ヴィクター、ヒュー。お前達はやってはいけない悪いことをした。お前達がしたことは、お前達の大事な先生やアリサを傷つけて悲しませただけじゃない、もっともっとたくさんの人に辛い思いをさせることになるんだ。……そのことは、もうちゃんと分かってるな?」 「はっ、はい!」 「……はい……ごめんなさい……」 ユーリの言葉に、二人の子供があらためて顔を歪めると、今にも泣き出しそうな顔で大きく頷く。 「本当なら、この城の中でこんなことをしてしまえば、お前達はもちろん、先生も罰を受ける。院長先生はお前達の保護者で後見人だから、とっても重い責任があるんだ」 ううっ、と、子供達が耐え切れずに嗚咽を洩らす。 「でもな。アリサが、お前達を許して欲しいって言ってる」 子供達と院長がハッと顔を上げ、大きく瞠いた目をユーリの後ろに立つアリサに向けた。 「アリサもやっぱり施設で育ったから、お前達の気持が分かるって、そう言ってる。……という訳で、結論!」 ユーリは腕を組んで、わざとらしくふんぞり返った。子供達がビシッと背筋を伸ばす。 「竪琴を盗まれたアリサが被害を訴えないって言ってるわけだから……えーと」 ちろりと視線を飛ばすと、即座にヘルプが入った。 「結果として事件は起きなかったってことになるね。つまり、公式には誰も罪を犯さなかったし、当然誰も罰を与えられることはない」 「そういうこと!」 にこやかに隣に立つ村田に感謝の笑みを送ると、ユーリは子供達に向き直った。 「だから、二人がうんと反省するなら、この話はこれでお終い! ………二人ともアリサにもう一度ちゃんと謝って、それからお礼を言うんだ。それが終わったら……先生と一緒に帰っていいよ」 いいか? 子供達の前に膝を折り、二人の顔を覗き込むようにして、ユーリは言葉を続けた。 「どんなことでも、大事な人に隠し事をしたり、嘘をつかなきゃならないことを絶対にするんじゃないぞ。たとえ誰かのためだとしても、そのためにきっと一番大事な人を泣かせてしまうんだからな。………本番の前にさ、おじちゃんに『がんばって』って言ってやれよ。お前達の大好きなおじちゃんは、きっとその言葉を一番喜ぶと思うぞ。応援してくれる人がいるって、本当に嬉しい事だもんな。……分かったか?」 恐縮し切った院長と子供達は、何度も何度もアリサに向かって頭を下げ、謝り、許してくれたことへの礼を拙い言葉で、だが一生懸命述べるとまた頭を下げた。そして最後にユーリに向かって、「ありがとうございました!」と、二人声を揃えて叫ぶように言うと、院長と共に更に深々と頭を下げた。 衛士に連れられて彼らが去った後の閉じた扉を、ユーリはぼんやりと見つめていた。 何だかどっと気が抜けてしまった。 短い時間に嵐が吹き荒れて、通り過ぎて行ったような気がする。 ほう、と息をついた時、ふいに背後から腕が回ってきた。 「今のお言葉、肝に命じておきます」 唐突に耳に囁かれた、と思ったら、その腕が、優しく、だがちょっと強引に、ユーリの身体を引き寄せた。背中が慣れた感触に安堵する。 「………ホントなんだからな……」 「……はい」 その腕の中で、声の主と向き合いたいと身体を反転しかけた時、真っ赤に顔を染めて自分達を凝視しているアリサとミーナの顔が目に飛び込んできた。 ハタッと我に返り、思わずじたばたと暴れると、自分を抱き締めていた腕は思いの他簡単に外れてしまった。 「………コンラッド〜……」 恨みがましく睨み付けても、名付け親にしてダンナ様のその男は、人畜無害の笑みを浮かべるだけで。 「すみません。つい、うっかり」 笑顔のコンラートを上目遣いでちろっと睨んでから、ユーリは何とか話題を変えねばと友人達に向き直った。 そこには、アリサとミーナの他、呆れ果てた顔のヴォルフラムと、いかにも人が悪そうにニヤニヤ笑う村田と、意味ありげにほくそ笑む(?)ガジェット夫人とエリン女史、そしてさりげなく視線を外す親切なアレクディールと、うっとり頬を染めた夢見心地のマルゴがいる。 えー。と、その一声以外何も言葉が出てこない魔王陛下に、その時天の助けが舞い降りた。 「……あ、あのー、し、失礼致します……」 ハッと振り返ると、ヴォルフラムの部下らしい士官が、手に青い布を抱えて立っている。 「大変申し訳ありません。これをお渡しするのを忘れておりまして……」 「…そっ、それは」 「アリサの……」 「ドレスだ!」 きれいさっぱり忘れてたーっ。 思わず叫ぶユーリに、他全員が頷く。やはり同じように忘れていたらしいアリサが、慌てて士官に駆け寄った。だが。 「……あの、実はこのドレスなのですが……」 士官が気の毒そうにアリサを見ると、その前で手にしていたドレスを広げた。 「……ああっ!?」 「何てこと……」 「……竪琴を運んでいる最中、何かに引っかけでもしたのか……」 アリサの晴れの日の衣装は、そのスカート部分が見事なまでに破れて、ぼろぼろになっていた。 ドレスを手に取るアリサの目に、みるみる涙が盛り上がってくる。 施設で育ったアリサは、どれほど勉学に費用が掛からないとしても、経済的な余裕はほとんどない。 そのドレスは、アリサにとって文字通りの一張羅だったのだ。 声を出せないまま肩を震わせるアリサに、ユーリが慌てて歩み寄る。 「……アリサ、えっと、その……大丈夫だよ! ドレスはおれが今から手配して、えっと……」 晴れの舞台で着るドレス。そもそもどこで買うんだろう。 とにかく誰かに頼んで。 誰かに。 ドレスを。 ………………………。 「あ」 「まあ、何てお気の毒なことでしょう! ええ、もちろんですわ、陛下。陛下のお言葉ですもの。私、喜んで協力させて頂きますわ!」 緊急に呼び出されたサリィが、にっこーと満面の笑みをアリサに向けた。 ベイルオルドーン王国の国王の母親と聞いて、汗を浮かべ、ひたすら恐縮しているアリサの前に、あの、サリィ作のドレスがばさばさと音を立てて開帳された。 レインボーカラーとカーニバルドレス。 瞬間、アリサとミーナとガジェット夫人とエリン女史とついでにヴォルフラムが、「うっ!」と後ずさる。 よかったー、おれの美的感覚が狂ってるワケじゃなかったんだー。 思わずホッとしながらも、「サリィ様、サリィ様、それじゃなくて」と割って入る。 「こっちの白いのをお願いします!」 一見シンプルなギリシャ神話風のドレスを持ち上げて、アリサ達に広げてみせる。とたんに溢れる4つの安堵のため息。 「…………これは……見事な仕立てですわね」 ガジェット夫人が、豊か過ぎる程豊かに寄せられたひだを手にとって、ほうっと感嘆の息をつく。 『こんな上等なドレス、お借りすることはできません』 ユーリの前に、アリサが引きつった顔で板を差し出す。 「いいから、気にしないで……って言うか、むしろ着て下さい」 このままだと、タンスの…じゃなくて、衣装部屋のお局様まっしぐらだから。 声を潜めるユーリに、アリサが困ったようにもじもじと身じろいだ。 「……でも陛下。陛下のお言葉ですが、こちらのお嬢さんは銀色の髪をなさっていらっしゃいますし、このドレスは白。地味じゃありませんかしら。……ここはやっぱりこの彩り鮮やかな……」 「何がなんでもこっちでお願いします!」 「……確かに色合いは一見地味に見える気もしますが」 勢い込むユーリの傍らから、コンラートが言葉を挟んだ。 「むしろ彼女の、清楚で愛らしい感じを強調してくれるのではないでしょうか。さすがにサリィ様がお作りになっただけあって、神秘的な雰囲気溢れる素晴しいドレスですし、竪琴を弾くアリサにはぴったりだと思いますが……?」 にっこり。 うまいぞ、コンラッド。さすが! ……うますぎて、ちょっとムカつくけどー。 「まあ、ウェラー卿、お上手でいらっしゃいますわね。………でも確かに、そのように考えれば、これが一番よろしい気がしてまいりましたわ」 程よいところをくすぐられて、サリィが嬉しそうに声を弾ませながら立ち上がった。 「それではさっそく仕事に入りましょう。アリサさんでしたわね? まずはこのドレスを着てみて下さいな。それから仕立て直す準備を致しましょう。……という訳ですので、皆さま、特に殿方はご退出なさって下さいませ。それほどお待たせは致しませんわ。ほんの…そうですわね、30分くらいお待ちになっていて下さいませね。それから……そうそう、持ってきて頂きたいものが……」 サリィがそう言った時、ノックと同時に扉が開き、マルゴが飛び込んできた。いつの間にか席を外していたらしく、手には大きな木彫りの箱を抱えている。 「お針箱を借りてまいりました! 入り用になると思いまして……」 「まあ、気のきく娘さんだこと………あら? あなた、ローガンの所の……」 「はい! マルゴでございます! あの、私にもお手伝いさせて下さいませ。お針は得意ですし!」 できることを見付けて、マルゴは嬉しそうだ。そこへミーナも1歩踏み出し、「わ、わたしも…」と手伝いを志願した。二人に向かってサリィが楽しそうに頷く。 「そうね。時間もないことですし、お願いしましょう」 仕事に掛かるとサリィは行動が早かった。 とっとと男性一同を追い出しにかかり(ユーリに対しては、「陛下はどうぞ、私の仕事ぶりをご覧になって下さいませ」と言い出して、ユーリとその他一同を慌てさせた)、躊躇うアリサにずいずいと迫っていく。 アリサがついにドレスを受け取る所までを確認して、ユーリは部屋の外へ出た。 とにかくひと休みしようと、全員が向かったのは中庭のテラスだった。 ちょうど通り掛かったメイドにお茶を頼み、木漏れ陽が軽やかに揺れるテーブルに向かう。 「……閣下。……ウェラー卿」 ふいに、背後から声を掛けられて、コンラートと隣を歩いていたユーリ、そして村田とヴォルフラムも何となく一緒になって振り返った。 彼らの視線の先に立っているのは、ガジェット夫人だ。 夫人はユーリ達の注目を集めていることに臆する様子も見せず、まっすぐにコンラートに向かって歩み寄ってきた。 そして、怪訝な顔で見つめるコンラートの前に立つと、ドレスをつまみ、優雅にお辞儀をした。 「………ガジェット夫人……?」 「今頃、申し訳ございません。ですが、どうやら事も無事に終わる様子でございますので、あらためてご挨拶させて頂きたく存じます。………ウェラー卿、お久し振りでございます」 夫人のその言葉に、コンラートが驚いたように目を瞬かせた。隣のユーリもまた、目を瞠き、それから何を考えたのか、きゅっと唇を引き締めた。そのすぐ側では、村田とヴォルフラムとアレクディールとエリン女史が、興味津々の顔でコンラートと夫人、それからユーリを交互に見遣っている。 そんな一同の様子を横目で確認したコンラートは、「失礼」と夫人に向き直った。 「申し訳ないのですが、ガジェット夫人。俺は、あなたと以前……」 「閣下は私のことなど覚えておいでになりませんわ。私はあの時いた大勢の中の1人に過ぎませんもの。ただ私は、閣下と閣下のお父上の事を、あの日の事を忘れることはできません」 夫人のその言葉に、コンラートは不思議そうに眉を顰め、逆にヴォルフラムはハッと表情を変えた。 「……コンラート!」 兄の名を呼ぶと、ヴォルフラムはすぐに彼らの側に駆け寄った。 「コンラート。彼女は、ガジェット夫人は、ルッテンベルクの出身だ。……夫人も、混血なんだ」 え? コンラートの、そしてユーリの目が、揃って驚きに瞠かれる。 「…あ…では、ガジェット夫人、あの日と言うのは、まさか……」 コンラートの問いに、夫人が笑みを浮かべて頷く。 「私も……閣下とお父上に助けて頂きました1人です。あの、大シマロンの収容所から」 「早くに歌の技能を認めて頂き、ある音楽家の養女となりましたので、ルッテンベルクで暮らしたのはそう長くはございません」 そう言うと、ガジェット夫人はお茶のカップをソーサーに戻した。 「ですが、私にとっての故郷と申せば、やはりルッテンベルク以外にないと思っております。私が……初めて魔族として、人として、認めてもらった土地ですから……。実は、この宴に選ばれましてから、私、ルッテンベルクに里帰り致しましたのです」 ガジェット夫人の言葉に、へえ、とユーリが、そしてコンラートも皆も興味深げに夫人を見つめる。 サリィの仕事が終わるまでと向かった中庭のテラスで、それぞれテーブルにつき、全員がお茶を飲みながら夫人の語る言葉に耳を傾けていた。 「私が暮らしていた頃は、まだまだ貧しげな雰囲気でございましたが、今回久し振りにかの地を訪れまして驚きました。人がそれはもう増えて、活気に溢れておりました。あの当時はまだ中心部でさえ村でしたのに、今はすっかり街らしく大きく賑やかになって。郊外の農地も、豊かな実りに恵まれているようでした」 「俺も長らく帰ってませんが……そうですか、それは嬉しい話ですね」 思いも掛けない故郷の便りに、コンラートの表情が柔らかく解れる。 「……えっと……」 ユーリが、ふと何かに気づいたように首を傾げた。 「ルッテンベルクって、コンラッドのお父さんが領主だったんだよね? あれ? 今はどうなってるんだっけ? やっぱりコンラッドが……」 「いいえ」コンラートが首を振る。「父が亡くなってすぐ、ルッテンベルクは魔王陛下にお返しいたしました。元々あの土地は魔王陛下の直轄地でしたし。……母上は俺が後を継ぐことを望んで下さいましたが、あの頃の俺は………とても領主として土地を治める余裕が……特に精神的な余裕が皆無でした。現実的にも色々と難しかったですしね」 今のユーリには伺いしれない過去の一端、らしい。 すぐ側で、ヴォルフラムがきゅっと眉を顰めているのが分かる。 何となく、もう一歩踏み込みたいような、踏み込んじゃいけないような、複雑な気分になりながらも、取りあえずユーリはガジェット夫人に視線を戻した。 「ルッテンベルクの街に活気が溢れているのは、ただ平和で暮らしに恵まれてきたからだけではありません。ここしばらく、あの地はお祭り騒ぎといって良い程の状態なのです。……理由はただ一つ。陛下とウェラー卿の御婚約です」 「……おれたちの……?」 ユーリの呟きに、ガジェット夫人が頷く。 「たとえルッテンベルクの地は魔王陛下の直轄地となろうとも、かの地の民は今も自分達の主をウェラーであると断言しております。ダンヒーリー様とコンラート様。混血の自分達に生きる土地を術と希望を与えて下さった方。……ただ……ルッテンベルクに住う人々は、それでも皆、これまでずっと混血であることの引け目から逃れることはできませんでした。どれほど街が発展しようとも、それだけが澱のように心の底に溜まっていたのでございます。それが、陛下と閣下のご婚約で、一気に振り払われてしまいました」 小首を傾げて自分を見つめる魔王の愛らしい仕種に微笑みを深めながら、ガジェット夫人は言葉を継いだ。 「……できることなら、お二人にお見せしたいと思いました。寄るとさわるとお二人の御婚約を祝って、グラスをぶつけあう酒場の男達を。ダンヒーリー様やコンラート様の思い出の、自分こそが語り部だと争うほら吹き達の顔を。魔王陛下がお選びになった方が、自分達の大切な方だったと涙を流して喜びあう女達を。星空を眺めて、過ぎし日の思い出に浸りながら、静かに涙する老人の姿を。……陛下、閣下。……おそらくはお二人とも、生涯その存在を知ることなどないでありましょう市井の民達が、今この時も、お二人の御婚約を祝って笑い、涙し、天に向かって感謝の祈りを捧げているのでございます」 ふいに。ガジェット夫人が立ち上がったかと思うと、ユーリとコンラートの前であらためてその腰を折り、深く頭を下げた。 「……ガジェ……」 「人間達の採点など、興味はございません」 ガジェット夫人が、潔い笑みを浮かべてきっぱりと言う。 「私はただ、そのような名もなき民の思いのありったけを歌に乗せ、陛下と閣下にお伝えしたいと願っております。……きっとバーダも、そしてアリサもミーナも同じ気持だろうと思いますが……」 「もちろんですわ」 エリン女史がガジェット夫人の隣にやってきて、やはり同じように腰を折った。 「陛下、閣下」 エリン女史の言葉が続く。 「お二人の末長い幸を心よりお祈り致し、精一杯の思いをこの指に託して演奏させて頂きます。この度は誠に」 「「おめでとうございます」」 ガジェット夫人とエリン女史の声が、綺麗なハーモニーとなってユーリとコンラートに届けられた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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