心の歌を聴いて・5


「不祥事が起きた」

 そう告げたのは、怒りで顔を引きつらせたフォンビーレフェルト卿だった。

「アクシデント発生かい!?」
 何故か声を弾ませる大賢者に、ヴォルフラムの眦が釣り上がる。
 二人の傍らでコンラートがため息をついた。

 魔王陛下は各国代表団との会談の合間に、コンラートが半ば無理矢理もぎ取った休憩時間を使って仮眠の真っ最中だ。
 仕事があるのだからと休もうとしない主を、コンラートと大賢者が説得し、懇願し、ついには二人協力して引っ立てて、部屋へと連れ込んだ。
 目が冴えて眠れないと主張したユーリだったが、「せめて身体を横たえるだけでも」と必死の顔で迫るコンラートに、しぶしぶ枕の上に頭を乗せ……次の瞬間にはもう寝息を立てていた。

「……2時間くらい取れるのかい?」
「ちょっと……ぎりぎりでしょうか……」
「そうか……。じゃあとにかく、君も少しだけでも休んでおいでよ。外交の方も、いざとなれば魔王陛下並みに偉くて立派なこの僕が出て行くから」
「ありがとうございます、猊下。しかし…俺なら大丈夫ですよ。鍛えてますし。警備の方も……」
「宴の主役は、渋谷だけじゃないんだよ? 君がげっそりした顔で宴に出たらどうなると思う? またまたあらぬ噂を世界に垂れ流すつもりかい?」
「………………分かりました。では、ちょっとだけ………」

 ユーリがすっかり寝入ったことを確認し、衛士に警護を任せた二人が、魔王の執務室に戻りがてら、そんな話をしている時だった。
 キレのいい足音が近づいてきたかと思うと、すぐに「隊長」と呼ばれ、コンラートが振り返る。

「クラリス? どうした?」

 ユーリが二つの性を合わせ持つと判明した時以来、護衛がコンラートだけでは不埒な憶測を呼びかねないとして、宰相によって創設された女性だけの魔王親衛隊。
 その隊長がハインツホッファー・クラリスだ。
 抜擢したのはコンラート自身で、彼女はもともとコンラート麾下の王都警備官だった。
 その時代の習慣からか、いまだにクラリスはコンラートのことを「隊長」と呼ぶ。
 本来、ユーリの側に常に侍っていなくてはならないのだが、致命的な人手不足と、ユーリが常にひとりではあり得ないという現在の状況から、彼女のチームは臨時で要人(特に女性)の警護に狩り出されていた。

「陛下は……」
「今、お部屋でお休みになっておられる」
 そうですか、とクラリスが困ったように眉を潜めた。
「実は……フォンビーレフェルト卿が、執務室で陛下をお待ちになっておられます。『芸術の日』の関係で、どうも問題が発生した模様です」


「それで? 何が起きたんだ、ヴォルフ」

 王の執務室に戻ったコンラートと大賢者を前にして、ヴォルフラムが口にしたのが「不祥事」の一言だった。

「『芸術の日』の出演者が使う楽器が消えたんだ。おそらく…盗まれたのだと思う」
「何とま……。盗まれたのは何人? 楽器といっても色々あると思うけど……」
「調べたが、楽器をなくしたのは1人だけだ。他にはいない。盗まれたと思しき楽器は、竪琴だ」
「竪琴ねえ…。うっかりどこかへ置き忘れた、なんてことは……?」
「それはあり得ない! ……と思う。彼女は……」
「彼女? そう言えば、どういうメンバーが出演するのか全然聞いてないような……。君は聞いてる? ウェラー卿」
 大賢者の問いに、いいえ全く、とコンラートが首を振る。
 音楽家のことなど聞いても分からないだろうが、と、ぶつぶつ言いながら、ヴォルフラムはそれでも脇に抱えた書類を兄達に差し出した。
「出演者は十名だ。楽器がなくなった、もしくは盗まれたのは、この者、芸術学院の学生でカローフェン・アリサという……」

「アリサ!?」

 瞬間、コンラートが声を上げた。

「コ、コンラート…?」
「アリサ………」コンラートの目が、何かを思い出すように宙を彷徨う。「……ヴォルフ! 楽器は竪琴だと言ったな? もしかして、その娘は……口がきけないんじゃないか!?」
「そ、そうだ」
 ヴォルフラムが驚いたように頷いた。
「どっ、どうしてお前がそんな娘を知っているんだ!? おい、コンラート! この竪琴を盗まれた娘と、カローフェン・アリサと、お前、一体どういう関係なんだっ!? まっまさか! ユーリに対して顔向けできない行いを………!」

「アリサ? 口がきけないって………あのアリサ? 竪琴を盗まれたってどういうことだ!?」

「………ユーリっ!?」

 突如、背後から掛かった声にコンラート達が振り変えると、そこには眠っているはずのユーリが立っていた。

「ユーリ! どうしたんですか!? まだ30分も経っていないのに……」
 コンラートの焦ったような言葉に、ユーリはわずかに乱れた髪を弄りながら苦笑を浮かべた。寝不足がその充血した目にくっきりと現れている。
「あ、そんだけ眠ってたんだ……。いや、何かさ、耳元で怒鳴りあってる声がして、うるさくて寝てられなくなっちゃって。静にしろって撥ね除けたら目が覚めちゃった。結局夢だったんだけどさ……」
 どうやら熟睡できなかったらしい。

「そんなコトよか、何があったんだよ? ちゃんと教えろって」

「ユーリ、待って下さい。これはヴォルフにちゃんと処理させます。そもそもこれは、あなたの耳に入れるレベルの問題じゃない。だからあなたは……」
 そう言って、ユーリを再び部屋に戻すため、主に歩み寄ろうとしたコンラートの動きは、ふいに大賢者によって遮られた。
「……猊下……?」
 コンラートの手首が、村田にしっかりと捕まえられている。

「そうだ、渋谷!」

 村田が、ユーリににっこりと笑みを投げかけた。
「僕達でフォンビーレフェルト卿を手助けしてあげようよ。……そのアリサっていう女の子、知り合いなんだろ?」
 ああ、とユーリが答える。
「大分前のことだけど。おれとコンラッドとヨザックとで、乗り合い馬車に乗って旅行したことがあるんだ。その時一緒に乗り合わせたのがアリサ達で……。あれは、芸術学院の入学式に向かう途中だったんだよな。コンラッド?」
「ええ、そうです」コンラートが仕方なく頷く。「人間のご一家を送り届けるために、少々寄り道をしましたが……。まっすぐ学院に向かうアリサとは、途中で別れたんでしたね。次に会ったのは、入学式当日でした。話はできませんでしたが、陛下の事は気づいた様子でしたね……」
 うん、そう。だんだんと鮮明に蘇る思い出に、ユーリが懐かしそうな笑みを浮かべる。
「旅の途中で、アリサの竪琴を聞かせてもらったんだ。……ものすごく綺麗な音色だったのを覚えてるよ」
 確かに、と、ヴォルフラムも頷く。
「あの竪琴の演奏は、実に見事なものだ」
「のんびりしてんなよ、ヴォルフ! 早く探してあげなきゃ……」
「のんびりなどしていない! 僕が責任者であるこの大切な行事に、このような不祥事……! 僕だって、一刻も早く解決せねばと焦っているんだ!」
 怒鳴るヴォルフラムに、ユーリがきゅっと唇を噛んだ。
「アリサにとってはさ、あの竪琴はただの楽器じゃないんだよ! アリサは生まれつき喋ることができないんだ。あの竪琴が、アリサの気持を……えっと、そう、代弁する大事なものなんだ!」
 だから、早く……!
 そう口にして、もどかしげに身体を揺するユーリの手を取ったのは、コンラートではなく村田の方だった。
「うん、そうだね、渋谷。じゃあ、とにかくそのアリサさんのいる所へ行って、元気づけて上げようよ。その子だって君のことを忘れてるはずはないし、君に直々に慰めてもらえば元気もでるんじゃないかな?」
「…む、むらた……? だって、今は……」
「いいから! そして、その間に、フォンビーレフェルト卿にできることを全部やってもらおう」
「………できること……?」
 急に不安そうになったヴォルフラムに、村田がもちろん、と頷く。

「出演者達はどこにいるのかな?」
「城の敷地の外れにある館だ。そこで一週間程前から全員揃って、本番のための準備に入っている」
「近頃外部から集めた手伝いが増えてるよね?」
「今、出入りしていた全員を調査中だ。警備もかなり厳しくなっているし、そうそう簡単に逃亡することはできないと思うのだが……。とにかく今、兵達が不審者の出入りがないか捜査を行っている」
「……その館の周辺には何かあったかな?」
「館は林の中にあって、そのまま背後の山に繋がっている。山中に逃亡されると問題だが、警備兵も配備されていることだし……。他には、館とわずかに離れた所に離宮があるな。現在、新連邦とベイルオルドーンの代表団宿舎となっている」
「ああ、なるほど。だったら、その離宮に人をやって、何か目撃した人がいないか調べた方がいいね」
 村田がまわりをぐるりと見回した。

「この状況だ。犯人については二つの可能性が考えられる」

「ふたつ…?」
 ヴォルフラムが怪訝な声を出す。
「そう。一つは内部犯行だ。アリサさんの実力に怖れをなした出演者の1人が、彼女の演奏を妨害するために竪琴を隠した場合。フォンビーレフェルト卿が見事な演奏と評価する程なら、かなりのものだろうしね」
 なるほど、と全員が頷く。
「もう一つは、もちろん外部から入り込んだ者の犯行だね。この場合、もっとも可能性が高いのは、今回のイベントのために大量に集められた臨時の手伝い達だ。怪しまれずに館に入って、盗んだものを抱えて出てきても咎められないとしたら、そいつは運搬の手伝いなどを頻繁に行って、すでに警備の者にも顔を覚えられた、馴染みの者の可能性が高い」
「盗賊が手伝いの中に紛れ込んでいたということでしょうか?」
 コンラートの質問に、村田が即座に首を左右に振る。
「違うね。そいつは素人だよ。もしプロの盗賊だったら、この段階で盗まれたものが竪琴一つのはずがない。あちこちでもっと盛大に被害が起こってなきゃおかしいよ。だからこそ、内部犯行の可能性も捨て切れないのさ。……という訳で、フォンビーレフェルト卿、竪琴がなくなった前後の館の様子と出演者の状況、それから館に出入りしていたスタッフ……臨時雇いの手伝いはもちろん、メイドから下働きまで全員の確認をとって。それと、さっき言った、離宮にも人をやって何か目撃した人がいないかの確認も」
 分かった! と頷くと、ヴォルフラムが挨拶もそこそこに駆け出して行った。

「さて、僕らもその館へ行ってみようか」
「…あ、あの、でもさ、村田。仕事放ったらかして行ってもいいのかな…? おれ、王様なのに……」
「大丈夫! ウェラー卿が、君のために時間をもぎ取ってくれたからね。……知り合いが大変な時に手助けするのは、王様だって誰だって当たり前の事だろう? ねえ? ウェラー卿?」
 ユーリが心配そうにコンラートを見上げる。
 そのユーリの頭越しに、コンラートは大賢者が意味ありげに頷いたのを確認すると、すぐに笑顔を主に向けた。
「ええ、2時間くらいなら大丈夫ですよ。ダメでもギュンターとグウェンがしっかりフォローしてくれます。猊下もお手伝い下さると仰っておいででしたし。……でもユーリ、このままの格好だと、皆を驚かせてしまいますね。変装していきましょう。そうすれば移動もしやすいですし。猊下もそれでよろしいですか?」
「ああ、もちろん。じゃ、用意したらすぐ、その館へ出発しよう!」



 さんざん泣いて泣いて。もうどれだけ泣いたのか分からないくらい泣いて。
 身体中から全ての力が絞り出されたような気持になって、疲れ果てて、ぐったりと震える息を吐き出して、ようやくアリサは、自分が誰かの胸に縋り付いていることに気づいた。

「……少し落ち着いたかしら? 大丈夫よ? そんな顔をしないで」

 すぐ目の前で、ガジェット夫人が慈しみ深い笑みを浮かべて、自分を見下ろしていた。
 慌てて身体を引くアリサの目に、夫人のドレスの胸の辺りにできた大きな染みが飛び込んできた。
 赤面する思いで見上げるアリサに、ガジェット夫人は笑みを変えることなく、アリサの髪に手を伸ばし、そっと撫で始めた。
 再び涙が零れそうになってしまったアリサの前に、いきなりずいっとグラスが差し出された。中には果汁らしきものが入っている。

「さ、飲みなさい。あれだけ泣いたんですもの、喉が乾いてるはずよ」

 ハッと見ると、そこにはエリン女史がいる。さらに反対側に顔を向けると、ミーナが心配そうな顔でアリサの肩に手を置いている。

「大丈夫よ」ガジェット夫人が柔らかな声でそう言った。「フォンビーレフェルト卿にはもうお知らせしたわ。卿も大変驚いておられたし、怒っておいでだったから、きっとすぐに竪琴を見つけて下さるわ」

 その言葉に答えようと板を探すアリサに気づき、ミーナが傍らに置いてあった板とペンを差し出した。

『申し訳ありません。取り乱してしまって』

「そんなの、当たり前じゃないの!」
 懸命にそう書き綴るアリサに、エリン女史が語気を強くする。
「私達にとって、慣れ親しんだ楽器は命の次に大切なものよ。それをこんな……。本当に許せないわ! ……でも大丈夫よ! 絶対に見つかるわ。だから、ね?」
 力付けるように明るく笑って、グラスを差し出すエリン女史。その気持に応えるように、アリサも頷いてグラスを受け取った。
 グラスの果汁を一気に飲み干すと、水分と甘味が身体中に広がって、胸をざわめかせていた恐怖や不安がすうっと静まっていく。
 ホッと息をつき、もう大丈夫と笑みを浮かべると、見守っていた3人もまた揃って安堵の息をついた。

「さ、椅子に座って落ち着きましょう。フォンビーレフェルト卿が今調べて下さっているはずだから、私達としては、待つことしかできないわ」
 ガジェット夫人のその言葉に、アリサは自分が床にへたり込んでいたことにようやく気づいた。
 竪琴がなくなってから今まで、何をどうしていたのか記憶がほとんどない。
 促されるように立ち上がり、アリサはソファに移動した。

「じゃあ、とにかくお茶とお菓子を頼みましょう。お腹は空いてないと思うけれど、甘いものを身体に入れると落ち着くものだし」

 ガジェット夫人がそう言って、メイドを呼ぶための鈴を鳴らそうとした時だった。

 部屋の扉が、コンコンとノックされ、開かれた。

「……アリサ! ……って、あれーっ、ミーナさんもいるじゃんっ!」

 いきなりの声に、きょとんと顔を上げたアリサとミーナは、次の瞬間、ソファセットを蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。

 入って来たのは二人の少年。
 1人は赤毛に茶色の瞳、もう1人は金髪に青い瞳の、どちらも70歳から80歳くらいの少年達だ。

「……あ、ああ、………あ、あ……」
 二人の少女は、特に赤毛の少年の方を、それこそ絶叫でもしかねない引きつった顔で見つめている。
「……知り合い? えっと……誰……?」
 エリン女史が二人の様子に驚いたようにそう呟き、ガジェット夫人も怪訝な顔で少年達とアリサ達を見比べている。
 その間も、赤毛の少年はすたすたと部屋の中に入って来ると、アリサとミーナを前にして、全開の笑顔を見せた。
「そっか、ミーナさんも出演者だったんだ! 二人とも久し振り! でもって、アリサ」
 そう言うと、少年は顔を真摯なものに改めて、異常なまでに畏れおののくアリサの手を取った。
 途端、アリサの身体がびくんっと緊張する。
「さっき、ヴォルフから聞いたんだ。竪琴の事。でも、絶対に大丈夫だよ! きっと見つけだしてみせるから! だから安心して、気をしっかり持って待っててね」

 少年─ユーリがアリサの両手首を自分の手でそっと包むと、力を送り込むように優しく上下に振った。

 呆然と見つめるアリサに、ユーリが「何も心配いらないよ」と笑みを浮かべて大きく頷く。

 しばらく唇を戦慄かせていたアリサは、やがて両手をユーリに預けたまま、くたくたと床に坐り込んだ。

「ア、アリサ、大丈夫? ……あれ?」
「何の前触れもなく、おまけにろくな挨拶もせず、いきなり君に手を握られたらそりゃびっくりするよー。あーあ、二人ともしっかりパニックしちゃって、可哀想に」
 ユーリの背後で金髪の少年─もちろん村田、が、ため息と共にそう言った。
「…パニック……? ……あ」
 ユーリがふと傍らを見ると、ミーナも顔を盛大に引きつらせたまま、がちがちに固まっている。

「ユーリ!」

 あちゃー、とアリサの手を離したユーリ達の背後から声がした。
 振り返った先、部屋の開け放った扉のところに青年が立っている。コンラートだ。
 私服に着替えたその姿に、ガジェット夫人がハッと目を瞠く。
 コンラートは廊下にいるらしい何人かに手早く指示を出し終えると、部屋に入って来た。
「……二人だけで行ってしまわないで下さい」
 ちょっとだけ眉を顰めている。その時。

 さっと姿勢を正したガジェット夫人が、数歩後ろに下がると、ドレスを摘み優雅に深々と、最上級の礼をとった。

「……ルナ…!?」
「…バーダ、魔王陛下とウェラー卿であらせられるわ」

 思わず顔を覗き込む友人にそう囁くと、ガジェット夫人はさらに顔を深く伏せた。
 一瞬唖然としたエリン女史も、改めてユーリとコンラートの顔を確認すると、すぐに夫人と並んで膝を床につけ、頭を垂れた。
 その様子を半ば魂が飛んだような顔で見ていたミーナとアリサも、数瞬遅れてじたばたと立ち上がり、顔を真っ赤にして腰を深く折った。

「……………えーとぉ」

 それこそ土下座せんばかりの女性達をきょろきょろと見回したユーリは、頭を掻きながら照れくさげな苦笑を浮かべた。

「…やっぱ、ちょっと、いきなり過ぎた、かな……?」




「えーと……びっくりさせてゴメンなさい」

 えへ。頭を掻いて笑う魔王に、ガジェット夫人とエリン女史はちょっと困ったような笑みで応えた。

「……とんでもございません、陛下。その……こちらこそご無礼を……」
 それ以上どう答えればいいのか。
 女性音楽家達の笑顔は、困惑と緊張でかなり複雑なものになっている。おまけに、ひどく居心地が悪そうだ。
 それもそのはずで、女性達4名はほとんどなし崩しに魔王陛下と一緒のテーブルについているのだ。状況のあまりに唐突な変化に、すでに頭がついていけなくなっている。
 目の前にメイドが運んできたお茶とケーキが並んでいるが、緊張して誰も手をつけられない。

「まーまー、そんなに固くならないで。お茶でも飲んで、僕らとちょっとお話しましょうよ」

 ………何なんだろう、この妙に嘘くさい金髪と青い目は。
 ガジェット夫人とエリン女史は、同じような感想を頭に浮かべながらそっと視線を合わせた。
 おまけに、陛下の隣で異常なまでにマイペースだし。

「……あ、あの」ガジェット夫人が口火を切る。「その……失礼ながら……こちらの方は……」

 困ったような顔で問いかけられて、村田が「ああ、うっかりしてた」とにこやかに笑った。

「僕、ムラタ・ケンっていいます。よろしくねー」

 ムラタケン。………どこかで聞いたような聞かなかったような。
 女性4名が、揃って顔を顰めたその時だった。

「あ、こいつのことなら気にしなくていいから。大丈夫。こいつ、ただの大賢者!」

 ぶふぉっ!

 何も口にしていないはずなのに、思いきり咽せて咳き込む女性達に、ユーリが「あれ?」と首を傾げる。その隣で、コンラートがそっと額を押えているのには気づかない。

「…ごっ、ごごご、ご無礼を……っ!」
 さすがのガジェット夫人も、言葉がまともな声にならない。
 唯一、眞王陛下と対等に並ぶことのできる存在。
 四千年、生まれ変わり死に変わり、その記憶を保ち続けてきた奇跡の存在。
 ある意味、魔王陛下よりも神秘の人。
 その突然の出現に、パニックに陥り更なる無礼を晒しそうな寸前で踏み止まっている自分自身を、褒めてやりたい女性達だった。


 ユーリが、ミーナやアリサとの関わりについて、改めてその場の全員に説明すると、二人の少女は互いに、魔王陛下との奇跡的な出会いという共通の思い出を持っていることに、ただひたすら驚いていた。そんな二人が、この場所で出会い、友人となったのだ。
 その偶然を少女達が手を取り合い、しみじみと噛み締める頃になってようやく、ガジェット夫人とエリン女史が落ち着きを取り戻してきた。
 そうなると、年長組は強い。
 ガジェット夫人とエリン女史には、もともと舞台度胸が備わっている。
 こうなったら、滅多に体験できないこのシーンを楽しもうとする余裕さえ垣間見せながら、2人はお茶を喫し始めていた。
 だが、少女2人はさすがにまだ開き直るには修行が足らず。特にアリサは。
 彼女に降り掛かった災難を耳にして、魔王陛下がわざわざ飛んできてくれたという事実を知らされて、あらためて愕然とし、そして沸き上がる感動に唇を戦慄かせていた。
 やがてそれは涙となって、アリサの頬を濡らしていった。

「……アリサ」
 ガジェット夫人が、そっと窘める様にアリサの肩に手を置く。
 それに頷きながら、がしがしと袖で目を拭い、それからアリサは徐に板を取りだすと、一気に何事かを書き付け始めた。そして、唇を噛み締めたまま、皆の注目も気づかぬように板に思いをぶつけたアリサは、書き終えると、何かに必死に耐えるように肩を震わせながら顔を伏せた。
 アリサが手にしたままの板を、ガジェット夫人がそっと抜き取り、目を走らせる。
 そして、どうすべきか困ったように苦笑する夫人に、ユーリがすっと手を伸ばした。
 一瞬躊躇って、それから夫人はユーリの手にその板を渡した。

『ちょっとだけだったのに もうとっくに忘れられてると思ってたのに 来てもらえるなんて とってもお忙しいのに まわりにえらい人がいっぱいなのに 私なんかを 申し訳なくて 嬉しくて ごめんなさい ごめんなさい でも嬉しくて 嬉しい ごめんなさい ああ 今 竪琴があれば』

 脈絡も敬語も滅茶苦茶で、しかしアリサの胸に溢れる、もどかしい程の思いが書き綴られたその言葉に、ユーリは柔らかな笑みを顔に浮かべた。

「……いきなりびっくりさせて、ホントにごめんな? アリサ」

 顔を上げることもならないまま、アリサがぶんぶんと顔を左右に振りたくる。

「陛下にとっちゃ、アリサさんもミーナさんも、もうとっくに『友達』なんだよね。友達が災難に会ったら、駆け付けるのが当然のことだしさ。……ちなみに、もうこの時点でガジェット夫人もエリン女史も、陛下にとっては『お友達』になっちゃってるから、その辺り今後ともどうかよろしくね。ご迷惑かも知れませんけどー」
「そっ、そのような……っ」
 さすがに慌てる夫人と女史。

「という訳でっ」満面笑顔の大賢者が続ける。「今日の僕達は友達を助けに来たケンちゃんとユーリちゃんなので、遠慮もご無礼もなしでお願いします!」
 では、本題に入ろうか。
 いきなり宣言すると、村田の表情が少年の笑顔から一転、年を経た賢者の顔になる。
 その瞬間、ガジェット夫人もエリン女史も、手を握りあい感動を噛み締めあっていたミーナとアリサも、そしてなぜか魔王陛下も。一斉に緊張した面持ちで背筋を伸ばした。その様子にコンラートだけが苦笑を浮かべて肩を竦めている。



「……お言葉ではありますが、猊下」
「どうぞエリン女史」
 促されて、エリン女史がわずかな怒りを滲ませながら賢者を見た。

「恐れながら、今この館に集う音楽家達の中に、人の楽器を隠して我が身の栄達を計ろうなどと、恥ずべき行いに走るような不届き者はおりません! それは猊下、芸術に命をかける者への侮辱でございます。今回選ばれました者は皆、己の芸術世界を極めようと、必死の修行を重ね、技を磨いて今日まで来たものばかりでございます。その誇り、培った自信を、そのような汚らわしい不正によって自ら貶めるなど、あり得ません!」

「まして」ガジェット夫人もその後を続ける。「アリサはまだ学生です。いかに実力があろうと、一介の学生を怖れてそのような真似をするような未熟者、元より国の代表に選ばれているはずがございません。私の知る限り、全員が己の技量こそ最高のものであると信じて、その道に邁進致しております。確かにもう1人、学院生がおりますが、その者は器楽部門で、アリサと争う者ではありません。そして他の者の実力をみましても、アリサ1人の邪魔をするなど全く無意味かと存じます。それともう一つ」
 夫人の言葉に、村田が頷く。
「ここでは皆ばらばらに過しておりますが、唯一食事の時だけは、全員がホールに集まることになっております。竪琴は、昼食の直前までちゃんと部屋にありました。ホールでは、1人も欠けることなく、時間通りに全員が集まって食事を致しております。盗みを働く時間はありません。誰かを使って、ということならば可能でしょうが、これまでの短い期間に、そのような危険な行為を任せられる者、また犯罪を平気で犯せる者を見付けることができましょうか。そのようなこと、到底できるはずがございません。よって、猊下の内部犯行説は成り立たぬと愚考致します。……如何でございましょうか」
 まっすぐに村田を見据える2人の女性音楽家に、村田がゆっくりと頷く。
「確かに、これは僕が間違っていたね。可能性の問題で、貴女達を侮辱するつもりはなかったけれど、でも確かに失礼だった。申し訳ない。許して下さい」
 その場で潔く頭を下げる大賢者に、ガジェット夫人とエリン女史も「こちらこそ、失礼を申しました」と頭を垂れる。
 それまで無意識に息を詰めていたユーリとミーナとアリサが、一斉にほうーっと長い息をついた。
 コンラートが、緊張していたらしいユーリの背中をぽんぽんと叩く。

「でもおかげで、当時の状況が分かったね。全員が一堂に揃っている間に犯行が行われた。とすると、やっぱり外部の……」

「目撃者がいたぞ!」

 突如扉が音を立てて開かれて、喜色を浮かべたヴォルフラムが飛び込んできた。

「ホントか!? ヴォルフっ!」
「ああ! ベイルオルドーンの随員の中にな。ここに連れてきた。ユーリ、見て驚け!」

 入れ! ヴォルフラムのその声に答えるように、扉の向こうから2人の人物が姿を現した。

「……あ、あれ、あれーっ!?」

「お久し振りでございます、陛下」
 1人がそう言って腰を折ると、もう1人の方は言葉もなく、ただ顔を真っ赤にさせ、がばっと勢い良く頭を下げた。

「…ア、アレクディールさん………そ、それに……マルゴさん…っ!?」

 一声、驚愕の叫びを上げると、ユーリは急いで2人の側に駆け寄った。

「来てたの!? 2人とも……あ、ベイルオルドーンの代表団に……?」
 魔王の問いかけに、アレクディールが「はい」と頷く。
「ローエン師の代行として代表団の一員に加えさせて頂きました。マルゴも、随員の世話係として同行を許されましてございます」
「声を掛けてくれればよかったのにー……って、そっかー、なかなか難しいか……」
 ごめんな。そう言うと、ユーリはアレクディールの手をとった。
「…へ、陛……」
「でも、会えて嬉しい。すっごく嬉しいよ! 元気そうでよかった! それから……」
 アレクディールの手を一度ぎゅっと握ってから離すと、ユーリはその傍らで頭を下げたまま、ぴくりとも動かない女性─マルゴに視線を移した。
「……顔、上げてよ、マルゴさん」
 そう言って手を伸ばすと、マルゴの膝の辺りに重ねられた両手をがしっと掴む。
 瞬間、マルゴが吃驚したように顔を上げた。頬を真っ赤に染めて、すでに瞳がうるうると潤んでいる。

「……お父さんや皆……チェスカ村の人達は元気?」
「……………あ、は、は、はいっ! あの……皆、それはもう元気にしております! あっ、あのっ、聖地も緑やお花が増えて……とてもきれいになっております。あの……村に吹く風が柔らかくなったって長老たちが……」
 他に伝えたいことが山のようにあるはずなのに、出てこない。
 そんなもどかしさからか、マルゴの口が開いたり閉じたりを繰り返して、ついに諦めたようにぴたりと閉じると、目にみるみる涙が盛り上がってきた。
「どうしたんだよー、マルゴさんたら元気ないし。アタックNo1な……いやいや、おれのコト、思いきり振り回してたマルゴさんらしくないよ?」
「…ま、魔王さま……」
「マルゴさんとチェスカ村の人達は、おれの恩人だもんな! 皆が元気でホントに良かったよ。……二人に会えて、おれ、本当に嬉しいよ!」
 マルゴの視界に、ユーリの全開の笑顔が飛び込んでくる。

 こんなに大きな国の王様なのに。
 たくさんの国から、たくさんの人々から、偉大な方だと敬われているのに。
 ……私に向けられる笑顔は、これっぽっちも変わってない。

 溢れてくる幸福感に、マルゴの目からはらはらと涙が零れ落ちた。

「なに? その人達も渋谷のお友だち?」
「とっ、ともだ……っ」
 横から飛び込んできた言葉に、慌てて否定しようと振り掛けたアレクディールの手の動きは、魔王陛下の「うん、そうなんだ!」という答えにぴたりと止まった。

「あのベイルオルドーンでさ、おれを助けて匿ってくれた村の神官さんと、村長さんの娘さんなんだ。この人達がいたから、おれも無事に帰ってこれたようなものだし。な? コンラッド!」
「ええ、そうですね。あなた方がお出でだったとは……。気づかなくて申し訳ありませんでした」
「とんでもございません! そっ、そのような……」
 コンラートの言葉に答えようとするアレクディールも、感極まったのか言葉に詰まる。

「話の腰を折って悪いけど」
 さほど悪そうでもなく、間に割って入ってのは当然ながら大賢者だ。
「しみじみと語り合うのは後にしてもらって、今は目撃したことを話してもらえないかな?」
 村田の言葉に、「そうだった」とユーリ達の表情が改まった。

「目撃したのはこの娘、マルゴ、だったな?」
 ヴォルフラムの言葉に、マルゴが「はい」と頷く。

「二人組の……子供だったそうだ」

「子供っ!?」
「はい、あの……10歳位の子供達でした」
 吃驚して声を上げるユーリに、マルゴが答える。
「10歳……つまり、4、50歳、ということか……」
 呟くコンラートに、ヴォルフラムも頷いた。
「そうだ。今、ここに出入りしていた同年齢の者の調査をさせている。……実は、僕もここに荷物を運んでいる、それくらいの年齢の子供を目にしたことがある」
「荷物を運んで、ね…。で? マルゴさん、その時の状況は?」
 村田の言葉に、マルゴがゆっくりと慎重に言葉を選んで話し始めた。

 林の中を歩いている時、二人の子供とぶつかってしまったこと。
 その子供達が、布の塊を持っていて、それが落ちてしまったこと。
 それを拾い上げようとして、妙なことに気づいたこと。

「…それは? どういうことかな?」
「はい、あの…。布が汚れると思って、私が拾い上げようとしたんですが、それ……ただの布じゃなくて、ドレスだったんです」
「ドレス?」
 はい、とマルゴが再び頷く。
「間違いありません。あまり飾り気はなかったですけど、真っ青なドレスで……」
 と。マルゴが説明をし始めたその時。
 がたん、と大きな音をたてて、アリサが立ち上がった。
「……アリサ……?」
 誰かが掛ける声に気づかないのか、目を大きく瞠いたアリサは、次の瞬間、バッと身を翻すとクロゼットに向かって駆け出した。
 そして、クロゼットの取っ手に手を掛けると、勢い良く扉を開いた。
「…………アリサ?」
 開かれたクロゼットに向かったまま、アリサは微動だにしない。
 だが、ユーリがそっと掛けた声にようやく我に返ったのか、口元に手を当てた姿で彼らの方に向き直った。
「………………」
 声を発することのできない口を開き、閉じ、それを数回繰り替えしたアリサの瞳から、またもはらはらと涙が零れ落ちた。
 クロゼットの中を震える手で指差し、それから大きく首を振ったかと思うと、じっとユーリを見つめて、ただ涙を流し続ける。
「…………えっと……アリサ……?」
 アリサにじっと見つめ続けられて、ユーリが困ったように身じろいだ。と。
「アリサ」
 アリサに向かって歩み寄りながら、コンラートが声を掛けた。
「青いドレス。ないんだね?」
 コンラートの質問に、アリサがこっくりと頷く。
「そのドレス、もしかして……」
 アリサの傍らに寄ったコンラートが、そっとその顔を覗き込むように腰を屈めた。

「『芸術の日』に……陛下の御前で着るつもりだったドレスかい?」

 コンラートの言葉に、ユーリがハッと目を瞠いた。
 アリサの瞳から、新たな涙がぽろぽろぽろぽろと溢れては零れ落ちる。
 ぶんぶんと、大きく上下に振られる首に、その場に居合わせた全員が深く息をついた。

「………何てこと……」
 ガジェット夫人が、眉を潜めて呟く。
 盗まれたのは竪琴だけではなく、晴れの日のために用意された衣装もだったのだ。

「それで、マルゴさん」村田が話を続ける。「竪琴はあったのかな?」
「それは……」
 言って、マルゴが首を左右に振る。
「竪琴だとは思いませんでした。布の中に何かが包まれているのは分かりましたけど。ちらっと見たのは銀色のもので、私はてっきり、その、置き物か何かだと……。だから私、その子らがどこからか金目の物を盗んできたんじゃないかと気になって仕方がなかったんです。それで、どうしようかと悩んでたら、こちらの話を聞いて……」
「銀色だったんなら、アリサの竪琴に間違いないよ。……村田、これで決まりだよな?」
 ユーリの言葉に、村田も頷く。
「だね。その子達は、竪琴を隠すものが欲しくて、クロゼットから適当にドレスを引っぱり出したんだろうな。それが本番用の舞台衣装だったのは、たぶん全くの偶然だろうね。……大丈夫だよ、アリサさん。それくらいの年齢の子供なら、簡単に逃亡することもできないし、見つかるのはすぐだ」
 ただ……。村田がユーリに声を落として囁いた。
 竪琴が無事ならいいんだけどね。
 ユーリが、きゅっと唇を噛み締める。
 マルゴの言う通り、金目の物だと盗まれたのなら、売り飛ばされているかもしれない。
 それに、女性達は否定したが、もしもアリサの演奏を妨害するためなら、最悪壊されているかも……。
 ユーリ達の前で、アリサがコンラートやミーナらに囲まれて、もう大丈夫だからと慰められている。

 どうか無事に。何事もなく。
 竪琴もドレスも、アリサの元に戻ってくれますように。

 思わず、存在するかどうかも分からない何者かに、祈ってしまうユーリだった。


「……閣下!」
 唐突に扉が開かれて、ヴォルフラムの部下らしい人物が飛び込んできた。
 そして、その側に駆け寄ると、耳元で何かを囁いた。
 ヴォルフラムが目を瞠き、「よし」と頷く。
「………ヴォルフ?」
 ユーリの呼び掛けに、ヴォルフラムは振り返ると晴れやかな笑顔を見せた。

「盗賊を捕えたぞ!」


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詰め込み過ぎで読み難いなら、行間の幅の設定を変えればいいんだと、今頃になって気づいたりして。
ちょっと広げてみました。いかがでしょう。
行を空けるのはどうも違和感が拭えなくて、結局貫くことができなかったのです。

……やっとここまできました〜。
後、もうちょい!

ご感想、お待ちしております。