心の歌を聴いて・4


「……では、隣の者、彼女の代わりに読み上げてやってくれ」

 フォンビーレフェルト卿の言葉に、銀色の少女の隣に座っていた少々年輩の女性が「はい」と立ち上がった。

 順番に自己紹介が始まり、1人終わる毎に拍手が起き、やがてミーナと彼女だけが残った。
 ミーナの前で、緊張にガチガチに固まった少女が椅子を鳴らして立ち上がる。その両手の中に小振りの板が抱き締められているのを、ミーナはあれ? と思って見た。
 先ほどから、何か懸命に書き綴っているのは知っていた。てっきり他の出演者の名前を書きつけているのだと思っていたのだが。
 ミーナのそのちょっとした疑問は、すぐに解けた。

「おまえは………ああ、そうだったな」
 側にいた部下らしい人物がすかさず耳打ちするのに頷いて、フォンビーレフェルト卿は少女に視線を向けた。
「そうだった、声を出せないのだったな。うっかりしていた。済まなかったな。……自己紹介はそこに書いたのか? ……そうか、ならば」
 そう言って、隣の女性に代わりに読み上げるように頼んだのだ。
 女性は少女から板を受け取り、隣に並ぶと、ゆっくりとそれを読み上げた。

「カローフェン・アリサと申します。芸術学院生です。この度、私の拙い竪琴を、陛下を始め諸国諸候の皆様の御前で演奏できますこと、心から光栄に存じております。生まれつき声を出すことができませんが、この板を使って会話はできますので、どうかよろしくお願い致します。……以上でございます」

 少女、アリサがぺこんとお辞儀をした。その場に、フォンビーレフェルト卿を始めとする心のこもった拍手が広がる。
 代読した女性に向かって再び頭を下げて板を受け取り、アリサはようやくホッとしたように席についた。
 女性が何か優しげに囁きかけている。それに答えて頷くアリサの顔には、緊張が解れたのか、小さな笑みが浮かんでいた。

「では、次の者……で、最後か」

 確認するようなフォンビーレフェルト卿の呼び掛けに答えて、ミーナは「は、はい」と声を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

 姿勢を正しく、背筋を伸ばし、そして大きく深呼吸して、ミーナは口を開いた。

「……ヴィ、ヴィク、トール、ミ、ミーナ、と、も、申し、ます」

 少女、アリサが向いの席で、ハッと顔を上げる。それににこりと笑みを返す。

「お、お、王立、げ、芸術団、に…ざ、ざい、せきいたして、お、おりま、す。わ、私、も、会話に、じ、じ、時間がかか、り、ますが、ど、どうか、よろしく、おね、お願い、も、も、申し、ます」

 ふう、と息を吐いて、それから全員に向けてゆっくりと頭を下げる。
 意外と思われたのか、1拍間が空いたものの、すぐにアリサの時と同じような大きな拍手が湧いた。



 部屋の中に入ろうとして、アリサがふと隣を見ると、やはりもう1人が同じように扉の取っ手を持ってこちらを見ていた。
 ほとんど衝動的に駆け寄り、その人の前に立ってから、アリサは慌てて板を取り出した。
 焦りで顔が火照る。
 その人を待たせていることに申し訳なさと、さらなる焦りで手を震わせながら、アリサはペンを走らせた。

『一度だけ舞台を拝見しました。感動しました。御一緒できて幸せです』

 目を伏せたまま、慌てて板をずいっと差し出すと、すぐに手に優しい感触が齎された。
 ハッと目を上げると、ヴィクトール・ミーナが板を持つ手に自分の手を添えて、にっこりと笑っている。

「…あ、ありが、とう。……あ、あの…よろしけれ、ば…お、お茶をご、ご一緒、しません、か…? あ、あなた、と、お、お、おはな、し、し、したい、です」


 ちょっとだけ、早まったかな? ミーナの胸に不安に過った。
 カローフェン・アリサという、何となく印象に残っていた少女が、自分と似たような障害を持っているのだと分かった時、話をしてみたいと思ったのだ。できれば…友達になりたいと。
 自分が言葉を発するのと同様、彼女も板に書くのは時間が掛かるし、本当に言いたいことの全てをそこに綴ることはきっと難しいだろう。
 その苦労と辛さ、切なさ、もどかしさはミーナがきっと誰より理解できる。
 ただ、この世には「同病相憐れむ」のを嫌う人がいることもまた、ミーナは知っていた。
 だがそれは杞憂だったらしい。
 ミーナの誘いの言葉を聞いた途端、少女は真っ赤になった顔を上げ、それからぱあっと明るく笑った。
 そして急いで板を布で拭うと、さっと文字を書いた。今度は早かった。
『ぜひ!』
 板にはそう書いてあった。
 ミーナとアリサは顔を見合わせて、にっこりと笑みを交わしあった。



「……では、最優秀は器楽部門と声楽部門、それぞれで1人づつ選出ということに変更なされるのですか?」
 宿舎である館を出る道すがら、なされた部下の確認に、ヴォルフラムは厳かな顔で「そうだ」と答えた。

「ちょうど5人づつになったことでもあるしな。そもそも、楽器を使う者と、声楽の者とをいっしょくたにして優劣をつけるというところに、少々無理があるというべきだろう。ここはやはり、器楽部門と声楽部門それぞれの最優秀を選定することとしたい」
「全くもって仰せの通りです、閣下!」部下が感じ入ったという声を出す。「ではさっそく、投票券を2部門に分けて用意させます!」

 そうしてくれ、と頷くヴォルフラムは、「それにしても」と声を改めた。

「短い準備期間であったにも関わらず、なかなかの人選ができた。そうは思わんか?」
 はっ、と部下が短く同意を表す。
「閣下が、王立芸術団と芸術学院に限らず、地方の楽団や各領地から推薦された演奏家まで、範囲を広げて選出なされたのがよろしかったかと存じます!」
「確かにな。審査は大変だったが、そのかいはあった。結局、芸術団から4名、学院から2名、後は地方の楽団員が2名に、個人演奏家が2名、だったな?」
 仰せの通りです、と部下が答える。
 歩を進めるヴォルフラムは、何かを思い出すように、視線を空に向けた。
「器楽部門は……あのカローフェン・アリサ嬢の竪琴を初めて聞いた時には驚いた。あれがほとんど独学だというのだからな」
「何でも芸術学院の試験では、あまりの素晴しい音色に、教授達も声がなかったと聞いております」
「魔力は持たないという本人の話だが……。しかし、あの指から紡ぎだされる音色の神秘さは、まさしく魔力といってもいいくらいだ。初めて聞いた時、僕は……」
 もうとうに忘れていたはずの、幼い頃の思い出が様々に蘇って、思わず涙が零れてしまったことを思い出し、ヴォルフラムは慌てて話を変えた。
「……声を持たないことが、逆に人にはない力を生み出しているのかもしれんな……。彼女の他にはどうだ?」
「やはり王立芸術団のドットフェル氏でしょうか……。彼の場合は同じ弦楽器ですが、弓を使うドゥーリーです。その音色は『大地の震え、大海の波のどよめき』と呼ばれる重厚なもので、大家として名を馳せております。後は鍵盤楽器のバノンを弾くエリン女史とか……。彼女はクライスト領を足場に活動する個人演奏家ですが」
 なるほど、とヴォルフラムが頷く。
「声楽部門では、これはかなり評価が別れるだろうな。………イーラン氏の艶のあるテノールは、女性の心を蕩かすと評判だし、ヴィクトール・ミーナ嬢の透明感溢れる高音も、他の追随を許さぬ魅力がある」
「『光が弾きあう』という表現がされておりますな」
「まさしくその通りだ。だが、まだ新人ならではの固さがあるな。柔らかみと深みに今一つ欠けると感じる者もいるのではないかな。そのような者にとっては、ガジェット夫人の円熟した情感に満ちた歌声が、さぞ心を打つことだろう」
「ガジェット夫人もエリン女史と同じく、どの楽団にも依らず、ただ1人にて各地で演奏会を開いておりますが、中々の名声を博しております。王立芸術団も、何度も入団を打診しているとか」
「……確かガジェット夫人は、ルッテンベルクの出身者だったな……?」
「は。やはり混血でありまして、その長年の辛苦が歌にこの上ない深みを齎していると評されております」
 そうか。
 何か考え込むようにヴォルフラムが瞳を伏せた時、道ばたの草むらが不自然に音を立てて揺れた。

「何者だ!?」

 ヴォルフラムが声を出すより早く、部下が前に飛び出して誰何の声を上げる。
 数瞬反応がなく、部下が剣に手を掛けた時、かさかさと音を立て草が揺れた。そしてその奥から、おずおずと姿を現した小さな二つの姿があった。

「……子供……? お前達は……」

 紛れもない子供、そまつな衣服に身を包んだ4、50歳程の二人の子供が、荷物を積んだ台車を引きずりながら引きつった顔でヴォルフラム達の前に歩み寄ってきた。

「………もしかすると、宴の準備の手伝いをしている者か?」
 ヴォルフラムの言葉に、子供が顔を引きつらせたままコクコクと頭を上下に振る。
「そうか。……僕達の姿が見えたから、遠慮して身を隠したのだな。気にしなくてもいい。仕事を続けてくれ」
 その言葉に子供達は深々と一礼すると、台車を引きずって館の方角に歩いて行った。

「…………今回は、かなり外部から手伝いの者を集めたようだな」
 子供達の後ろ姿を見るとはなしに見つめながら、ヴォルフラムがそう言った。
「は。この度の宴は、出席者も例をみない人数でありますし、宿泊所もバラバラになっております。料理人や下働きにしましても、とても血盟城の者だけでは間に合いません。イベント局が応募致しまして、王都だけではなく、様々な地方から人を集めた模様であります」
「身辺についての調査はちゃんとしてあるのだろうな」
「それにつきましては、間違いなかろうかと」
 ならいいのだが。

 『芸術の日』の進行について打合せをしながら歩くヴォルフラムは、すぐに今の小さな出来事を忘れてしまった。




「私達もご一緒してよろしいかしら?」

 中庭のテラスで、設えられたテーブルにアリサとミーナが腰を下ろした時、突然声を掛けられた。
 振り返った先に立っていたのは、自己紹介の時、アリサに代わって挨拶文を代読してくれた女性ともう1人の別の女性だった。
 二人は、アリサ達にお茶とお菓子を運んできたメイドに「私達にもね」と声を掛け、ゆっくりと近づいてきた。
 代読してくれた女性は、年の頃150歳から200歳くらいだろうか、薄茶の髪をゆったりと巻き上げて、柔らかく微笑んでいる。どことなく全体の物腰が、優しさと懐の深さを感じさせる女性だ。対して、もう少々若いらしいもう1人の女性は、もったいない程ばっさり短く切り揃えた金髪と、ちょっとだけ釣り上がった目、そして真っ赤に塗った口紅が、かなり活動的な性格であることを如実に示す女性だった。

 確か……誰だっけ?

 自己紹介をしていた時は、緊張しきってほとんど他の出演者の名前を聞いていなかったアリサは、えっと、と頭を傾げた。だがその時、隣にいたミーナが飛び上がるように立ち上がった。

「改めて自己紹介させて頂きますね。私はガジェット・ルナ、こちらは私の長年の友人で……」
「バノン奏者のエリン・パーダよ。よろしくね」

 その名前を告げられた瞬間、アリサもあたふたと立ち上がり、ミーナと並んで勢い良く頭を下げた。
 ガジェット夫人もエリン女史も、活動の中心が地方であるため顔こそ知られていないが、その名は芸術に関心のある者なら知らぬ人のない高名な人物達である。
 王立芸術団の新人歌手であるミーナですら、アリサにとっては憧れの人なのだ。ましてこの二人となれば……。

 ごっ、ご挨拶しなくちゃ! そうだ、先ほどのお礼も!
 慌てて板とペンをを取り出し、大急ぎで挨拶の言葉を連ねようとしたアリサの手から、ペンが転がり落ちた。
 わたわたと慌てふためいて、アリサは腰を屈めた。だが、彼女の手がペンに触れるより早く、それは別の手によって拾われてしまった。
 顔を上げると、そこにはガジェット夫人の穏やかな笑顔がある。
 焦るアリサにペンを返すと、その手でガジェット夫人はアリサの二の腕をぽんぽんと優しく叩いた。
「時間はたっぷりあるわ。ゆっくり、のんびりお話しましょうよ。ね?」
 ガジェット夫人が言えば、エリン女史もミーナの肩にとん、と軽く手を置いて口を開いた。
「そういうこと。フォンビーレフェルト卿には感謝しなくちゃ。こんなに緑の豊かな素敵なお屋敷で、1週間近くも暮らせるんですもの。それも上げ膳据え膳ときたわ! 堪能しなくちゃバチが当たるってものよ。それに私達、騒がしいお喋りは趣味じゃないの。お茶とお菓子で、のーんびりお話して、気持良く暮らしましょ。仲良くしてね?」
 赤い唇から溢れる声が思いのほか朗らかで、アリサは嬉しくなってしまった。

 魔王陛下の御婚約披露の宴で竪琴を披露することが決まって以来、ただひたすら緊張と不安に凝り固まっていた心が、ゆるゆると溶けていくのが分かる。
 ミーナも同じ気持だったのかもしれない。

 ほとんど同時に顔を見合わせて、アリサとミーナはこの日2度目の笑みを交わし合った。
 二人とも声はなかったが、最初の二人だけの笑みよりも、ずっと朗らかで軽やかな笑みだった。




 新連邦の代表団が到着する以前、各国代表団が到着し始めた頃から、ユーリの一日は仕事一色になっていた。
 だが新連邦代表団が到着して以降、ユーリの1日はユーリの感覚的に、24時間から40時間程に引き延ばされた。
 終わってしまえばあっという間のような気もするのに、あまりに濃くて、深くて、一日がものすごく長く感じてしまうのだ。いや。
 実際に長くなっていた。

「……睡眠時間は何時間?」
 村田がグラスの果汁を啜りながら、傍らのコンラートに囁く。
「……………昨夜は、いえ、昨夜とは到底言えませんが……3時間でした」
 ため息のつもりなのか、ストローに息が吹き込まれて、村田のグラスの中でこぽこぽと果汁が泡立った。

 今、村田とコンラートの目の前では、魔王陛下が執務に没頭している。
 王佐と宰相の姿はない。
 二人はそれぞれ、彼らの立場で会談できるランクの国の代表団と、会談の真っ最中だ。

 朝、まだ空け切らぬ頃に起き、すぐに執務に入る。
 例え魔王陛下のめでたい宴が控えていようとも、外交団が大挙して押し寄せてこようとも、王の日常の仕事がなくなることはない。いつも通りに執務は控えているのだ。エレノアの言葉ではないが、1分1秒無駄にできない。
 起きて、一気に目を覚ますため風呂に飛び込み、執務兼朝食兼一日の打合せ、つまり左手に持ったサンドイッチを口に押し込みながら、右手のペンでサインをし、食べ物を飲み込んでは同様の状態の宰相と王佐との打ち合わせをする。
 それが一段落する頃、ようやく外が明るくなる。
 寝坊のヴォルフラムも、この頃ではさすがに1人だけ安穏と眠りを貪る訳にはいかないことに思い至ったのか、懸命に早起きする毎日だ。もちろんコンラートは、常に王の側にぴったりと寄り添って離れない。
 最後にロードワークに出たのはいつだったか。キャッチボールに至っては……。もうそんな楽しみに時間を費やす余裕はない。
 朝の打合せ終了と同時に、魔王と宰相と王佐は、通常の執務と外交を分担し、分刻み秒刻みのスケジュールをこなすのだ。
 1人が執務に入れば、後の二人がそれぞれ別に、相手によっては一緒に、官僚や行政諮問委員会の委員、時には学者を引き連れて会談の場に向かう。それが夜遅くまで交代でずっと続けられる。
 会談も、1国1度きりという訳にもいかず、必死で窮状を訴えられればそれを聞かない訳にもいかず、代表団の数はさらに増え。
 ユーリの睡眠時間は日を追って削り取られていった。

「まじめな話、休ませないとどうにかなってしまうよ」
 はい、とコンラートが頷く。
「先ほども、仮眠を取って頂きたいと申し上げたのですが……」
「皆ががんばっているのに、自分1人が休む訳にはいかない、とでも?」
「そんなところです。後は……各国の人々が自分と話をしたいとわざわざ出向いてくれたのに、蔑ろにはできないと」
「……宴まで後二日……。とはいえ、これじゃ二日を待たずにぶっ倒れるよ。そもそも、宴が始まったからといって、仕事が楽になる訳じゃないんだから」
 はい、と頷くコンラートの顔もまた、疲労の色を濃くしていた。
「……君も寝てないね、ウェラー卿」
「陛下がお休みにならないのに、俺が休む訳にはまいりません」
 視線を主から動かさないまま、断言するコンラートに、村田がやれやれとため息をついた。魔王の睡眠時間が3時間なら、この婚約者、というより、今は護衛一筋のこの男は、1時間寝ているかどうか、だろう。
「ほとんど悪循環ともいえるリズムが続いちゃってるのがまずいんだよなー。全員視野が狭くなってしまって、事態を改善する気持の余裕がすっかりなくなってるよ。……いっそのコト、何かアクシデントでも起きれば気分が変わっていいんじゃないかと……」
「そんな偶然に頼るのではなく、猊下権限で陛下を休ませては頂けませんか?」
「僕は、実務に口を挟むべきではないと思っているからね。それより、君ももう少し行政や外交に関わっていみたらどうなんだい? 魔王の夫となるんだから、それも必要なんじゃないかなー。それに、その辺りをがんばらないと、凄惨な権力闘争に勝ち抜くことができないよ?」
 最後に笑いと共にそう言われて、コンラートは苦笑を浮かべた。
「お聞き及びでしたか?」
「ま、ね。ヨザックにちょっと探ってもらったんだけど、どうも前魔王の長男と次男を中心とする壮絶な権力争いに関して、真剣に対策、もしくは謀略を練っているお茶目な国が二、三あるみたいだよ?」
「お茶目、ですか? おマヌケというのでは?」
「笑いを提供してくれるなら何でもいいんだけどね。………まあ、それよりも今は渋谷だね」
「はい」
 頷いて視線をまっすぐに向けた先には、この世で最も大切な人がいる。
 顔色が悪い。目の下にくっきりとクマが見える。漆黒の髪にも、艶がなくなってきたような気がする。
 それなのに、目だけが異様に輝いている。

「……よっしゃ! 午前の分、終了!」

 声のトーンが、妙に高い。

「陛下」
 コンラートの呼び掛けに、満面の笑顔を向けてくる。その笑みもまた、どこか熱っぽく浮ついて見える。
「陛下、予定より早く仕事が仕上がったことですし、どうか次の会談まで少しでも仮眠なさって下さい」
「大丈夫だってば、コンラッド! 今、全然眠くないんだよ〜。むしろわくわくドキドキしてる感じ! どうしよっかなー? 書類、午後の分までやっつけちゃおうか!?」

「………疲労と睡眠不足が突き抜けた挙げ句のナチュラルハイ、か……。まずいなあ……」

 村田のつぶやきに、コンラートの眉間の皺が長兄並みに深くなった。




「ではミゲル様は、宴に御出席はなさらないのですか?」
「当然だ。僕はベイルオルドーン代表団の一員としてこの国にいるわけではない。僕はこの眞魔国の、行政諮問委員会の一員なのだからな。単なる行政官が、そのような宴に出席するはずがないではないか。……陛下は構わぬとの仰せだったが、公私混同はするべきではないと思う。だから初日にお会いして以来、母上や兄上とは行動を共にはしていない。……母上達は、今日は確かどこかの国と通商交渉の予定だったな」

 ベイルオルドーン王国代表団の随員の部屋で、ラスタンフェル・ミゲルと、代表団随員のアレクディール・ウォルマンとが向かい合ってお茶を飲んでいた。

「そういうお前はどうなのだ? 神官として眞魔国へやってきて、何か学ぶ所はあったか?」
 ミゲルの言葉に、アレクディールは照れくさそうに笑った。
「本来ならば、ローエン師がおいでになるのが当然だと思ったのですが……。これからは若い者が新しい世を作っていくのだからと、師が私にこのお役目を譲って下さいました。ダード様のお引き回しもございまして、色々と勉強させて頂いております。こちらの学者の方々と、人間と魔族の歴史について討論させて頂きましたが、歴史とは一方の視点からでは到底真実を得ることができないものだと、しみじみ痛感致しました。それに、大地の復活の儀式について、眞王廟の巫女殿達とも打合せができました。ウォルワース様が聖地の探索を順調に進めて下さっているので、そろそろ本格的に動きだしそうです」
「そうか! それはよかった……」
 嬉しそうに破顔するミゲルに、アレクディールも大きく頷く。
 そこへ。

「あ、あの、お話し中申し訳ありません」

 おずおずとした女性の声が上がった。

「マルゴ、どうした?」

 アレクディールが振り返った先、部屋の隅で、随員の小間使いとして同行を許されたマルゴ─ベイルオルドーン、チェスカ村の村長の娘─が遠慮深げに立っていた。

「あの…御用がなければ、お茶の葉を切らしてしまいましたので、厨房を訪ねて頂いてこようと思います。よろしいでしょうか?」

「メイドに言い付ければよいのではないか? 扉を開ければ、誰かしらいるだろう」
 ミゲルの気安い言葉に、「とんでもないです!」とマルゴが慌てて手を振った。
「せっかく連れてきて頂いたってのに、それくらいしないと申し訳ないです! それに、どうも人の手が足りないらしくて、こちらの皆さん、大忙しみたいなんです。使い立てなんかしちゃ、何だか悪くて……」
「そうか」ミゲルが頷く。「ならば構わんぞ。行って、ついでに城の見物でもしてきたらどうだ? ろくに見て回っていないんだろう? せっかくなのだから、村の者たちへの土産話にじっくり見ていけ」
「け、見物だなんてそんな…! あ、でも、ありがとうございます。行ってきます!」
 ミゲルの言葉に嬉しそうに頬を染めると、一つお辞儀をしてマルゴは部屋を飛び出していった。

「……お心づかい、ありがとうございます」
「いいや。……お前もあの娘も、陛下とは縁があるのだしな。……そういえば、陛下にはご挨拶できたのか?」
 その言葉に、アレクディールは苦笑を浮かべた。
「滅相もありません、殿下。私のような一随員が魔王陛下にご挨拶などと……。私もマルゴも、あの陛下のお国をこの目で見ることができただけで幸運に思っております。………正直申しまして、これほどの国を治めておいでになる陛下と、あのように近しく触れあうことができたこと、今思えば夢のように思えて……」
「その気持は……分からないでもない。陛下はあのようにお可愛らしくて、身分を気にせぬ気さくなお方だが、この国の威勢は目を瞠るものがある。それも全て、ユーリ陛下あればこそなのだからな」
 はい。アレクディールは大きく頷いた。
 それから二人は陽の射す大きな窓に歩み寄り、離宮の中庭に面した二階のその窓から外に視線を向けた。
 花々が咲き誇る中庭を、多くの人々が足早に目的地に向かって歩いている。多くがメイドや衛兵達で、遠目で見てもその足取りは軽やかだ。

「殿下」
 窓を大きく開け放ちながら、アレクディールが言葉を発した。

「……私は、法術師となると決めた時、まだ子供でしたが、何度も夢を頭に思い描いておりました」
「ゆめ?」
「はい。……偉大な法術師となって、正義を貫き、悪を滅ぼし、世界に真の平和を齎す英雄となる夢です。法術師を目指す者なら、誰もが一度は描く夢。いつか……世界を滅ぼそうと画策する悪の権化、世に邪悪をまき散らす……」
「魔族を倒そう、と?」
 笑いを含んだミゲルの言葉に、アレクディールも苦笑する。
「ええ、そうです。いつかきっと、暗黒の魔物が跳梁する『恐るべき闇の神殿、血盟城』に乗り込んで、暗黒の炎を纏った魔王と勝負するのだと……」

 くすくすとアレクが笑い出し、ミゲルの笑みもゆったりと深くなる。

「……数年前の私だったら、こんなこととても想像できなかったでしょうね。血盟城でのんびりお茶を飲んでる自分の姿なんて……」

 眞魔国は、おぞましい闇の国どころか、明るく自然の気に満ちた、人々の活気溢れる大国だった。
 そして血盟城はといえば、やはり花々と緑に囲まれた、美しくも荘厳な城で、魑魅魍魎の跋扈する様子など微塵もない。

「……悪鬼羅刹どころか、元気に城を駆け回っているのはメイドのお嬢さん達ばかりですしね。皆、朗らかで美人揃いだ」
「確かに……。だがまあ……ああいうのもいることはいるがな」

 ミゲルが指差した先、空の上には、お使い途中なのか、骨飛族がはたはたと羽を羽ばたかせて飛んでいた。

 それを目にした瞬間、アレクディールが盛大に吹き出す。

「あれには……。最初見た時には目を疑いました! もうびっくり仰天で。……しかし、あれもまた魔族、いえ、精霊なのでしょう?」
「そうだ。古の時、人間に住み着いた地を逐われた、大地の精霊、水の精霊、そして大気の精霊達……。それが形を得て、あのような姿で生きている。だからこそ、眞魔国は自然の祝福を受けた国としてあり続け、精霊を逐い、失った人間の国は、以来、滅びに向けてひた走ることとなったのだ」

 話し合う彼らの視界から、骨飛族の姿が消える。

「………まだ間に合いますね……?」
「大丈夫だ。ユーリ陛下が必ずや、世界を救って下さる!」

 視線を交わしあう二人は、同時に力強く頷き合った。




 せっかくミゲル殿下があのように仰って下さったんだし。
 マルゴは厨房へ向いがてら、ちょっとだけ足を別の方向に向けてみた。

 それにしても。マルゴは思う。

 眞魔国がこんなに大きくて、こんなに豊かな国だとは、思ってもいなかった。

 自然が、ベイルオルドーンとは比べようもない程たっぷりとあって、綺麗で、緑も瑞々しくて、大地が光で満ちあふれているかのようだ。
 人も皆元気で、子供達もころころとよく肥えていて、将来を悲観している様子も、生活に倦み疲れている様子も全くない。
 王都に向かう道のりで立ち寄った街や村は、どこも賑やかで、食べ物も飲み物も土産物も、どこでもどっさりだった。

「……見ると聞くとじゃ大違いだよ……。何が魔族は闇に生きる魔物よ……」

 この国に来てみてしみじみと分かる。
 ベイルオルドーンの大地は、本当に病んでいるのだと。そして。

 こんなにすごい国の王様なんだ。あのお方は……。

 そのすごい王様を。

 抱き上げたり、無理矢理服を脱がせたり、ドレスを着せてお化粧したり……。

「……あたしも、よくあんなコトができたなあ……」

 ものを知らないってのは、案外スゴイことかもしれないけれど、後から思うと恥ずかしくてたまらなくなる。

 思わず立ち止まり、頭をかしかしと掻いてしまった。

 と。

「………あれ?」

 はたと周りを見回せば、そこは木立の中で他には何も見えない。

「………うそ………ここ……どこ………?」

 迷った……?
 自分達がいたのは、血盟城の敷地外れにある離宮のはず。
 そこから回廊を渡って、お庭を抜けて………それで………。
 えーと。と、マルゴが立ち止まってきょろきょろと見回した時だった。

「あたっ」
「きゃっ」
「うわっ」

 突然腰の辺りに衝撃を感じてよろめいたマルゴの背後で、何かが地面に転がる音がした。

「……何よ、一体……って、あんた達、大丈夫?」

 マルゴのすぐ側で、十歳前後と思しき子供が二人、1人は尻餅をつき、1人は前のめりに倒れたのか、地面に四つん這いになっている。その傍らには、彼らの物らしい布の塊。

「走ってきたの? ちゃんと前を見ないとだめじゃない。これ、あんた達のだろ? ちょっと汚れ………あら? これただの布じゃ……」

 マルゴが、ひょいとその布を手を掛けた瞬間。

「触るなっ!」

 年嵩らしい方の子供が、叫ぶと同時にマルゴに飛び掛かり、布に伸ばされた腕を払い除けた。

「これはオレ達のだ! 大事なものなんだ! 勝手に触んなっ!!」

 言うや否や、布の塊を抱き締めて、脱兎のごとく駆け出して行った。その後を、もう1人の子供が必死になって追いかけて行く。

「………何なの、一体……」
 それにしても……。
 マルゴの眉が、きゅっと寄せられ、その瞳が少年達の去った方向をじっと見つめている。

「何だってあんなものを……。それに、あの布、あれは………」




「じゃ、じゃあ、あ、後で、ね」
 ミーナは笑って、隣の部屋に入ろうとするアリサに声を掛けた。
 アリサは隣だというのに手まで振りながら、にっこりと笑い返してくる。

 アリサ、すっかり笑顔が明るくなったなあ。

 自分のことのようにうきうきとしながら、ミーナは部屋に入った。

 宴初日、「芸術の日」まで後二日。
 栄えある発表会の出演者達は、この1週間足らずの間に、自分達それぞれの生活のリズムを整えていった。
 全員が揃うのは、三度の食事の時だけ。
 後の時間をどう使うかは、それぞれの裁量次第だ。練習時間も練習場所も、休憩をいつどう使うかも、何も強制されている訳ではない。
 本気で最優秀を獲得するつもりらしい数人は、練習場所も秘密にして励んでいる。
 ミーナはといえば、大それたことを期待するつもりは端からなく、ただ魔王陛下の御前で恥ずかしくない歌を披露することだけを考えていた。この際、人間達の反応もどうでもよかった。
 練習場所は館の1室を借り、特に隠してもいない。
 アリサもそれは同じで、彼女の場合は林の中で見つけた池の畔だ。
 自然の中に自分自身を溶け込ませて、自然の音を竪琴に乗せる、とイメージするのがアリサの練習方法らしい。
 今、彼女達は昼の食事を終え、午後の練習を始めようとするところだった。

 ミーナはわくわくと楽譜の準備を始めた。今日の午後は、エリン女史がバノンで伴奏をつけてくれることになっているのだ。

 練習とはいえ、エリン女史の伴奏付きなんて、ものすごい幸運だわ!

 そしてそれが終わったら、ガジェット夫人とアリサを加えて、お茶の時間を一緒に過す約束になっている。

 今日のケーキは何だろう? 果物が食べたい気分だから、フルーツケーキだと嬉しいかも……。

 ミーナがのんびりと午後のお茶に思いを馳せた時だった。

 ドンドンドンっ!! と、この場にふさわしからぬ乱暴な音を立てて、扉が叩かれた。
「な、何……?」
 慌てて駆け寄り、扉を開くと、そこにはアリサが、真っ青に顔を引きつらせ、身体をがくがくと震わせながら立っていた。

「ア、アリ、サ? ど、ど、どうし……」
 みなまで言うのを待切れないと言いたげに、アリサはミーナの腕を引っ掴むと、ぐいぐいと引っ張り出した。
「……っ、あ、アリ……」
 ほとんど無理矢理アリサの部屋に引きずりこまれ、窓際の小さな飾り机に向かわされる。
「…………?」
 分からないと首を傾げるミーナに、アリサがもどかしげに口を開け、手を振り、頭を振り、そしてまたその机を指差した。そしてその手が、何かをかき鳴らすような仕種をする。

「………あ………ま、まさか………」

 ようやく気づいてくれたかと、アリサが目に涙をいっぱい溜めて、ぶんぶんと頭を上下に振った。

「……ま、まさ、か……そ、そ、そんな………」

 竪琴が。

 ない。



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ちょっとは進んだ……かな?

お話の視点が、ミーナとアリサの間でころころ代わって、読み難いと思います。ごめんなさい。

ドゥーリーはチェロを、バノンはピアノをイメージしております。イロイロと捏造しまくっております。

またまた人が増えてしまいました……。

ご感想、お待ち申しておりますデス。