心の歌を聴いて・2


 忘れられない瞬間がある。これまで生きてきた中で。たくさん。

 誰もが当たり前に声を出し、お喋りしたり、笑ったり、怒ったりしながら、何の苦労もなく「自分」を主張できるのに。
 自分には、それができないことを知った時。
 自分が、他の誰とも違うのだと思い知らされた時。
 生まれつき声を持たず、意志を通じさせるためには、幼い頃は身ぶり手ぶり、文字を覚えてからは筆談しかできなくて、でも、相手をするのが面倒なのか、誰からも中々「会話」をしてもらえなくて。

 友達ができなくて。

 唯一の「家」だった戦災孤児の施設の主が、独りぼっちの私を見かねたのか、ある時、己を表現する方法として「音楽」を示してくれた。
 やがて見つけた。私の「声」。
 腕の中にすっぽり収まる大きさの、竪琴。

 育ての親が贈ってくれた、その竪琴を抱き締めたあの日、あの時。

 一生懸命勉強して、思うままに掻き鳴らして、思いの丈を弦に込めて。

 そうして爪弾く弦の音が、人を楽しませることができると知った時。

 与えられた拍手と、歓声と、賞賛の言葉に、生まれて初めて染み渡るような幸福感を覚えたその時。

 そして。

『アリサ! 魔王陛下が、芸術の専門学校を創設なさるそうなのですよ!』

 母代わりに自分達孤児を育ててくれたウィロビー夫人が、息せき切って走ってきて、その情報を伝えてくれた。
 声の出ない自分にできる仕事はあるのだろうかと、施設の手伝いをしながらも、将来に不安を覚えていた時だった。

『あなたの竪琴は素晴しいわ! きっと入学を許可されるに違いないわよ。学校はお金も掛からないし、卒業すれば王立芸術団にだって入ることができるかもしれない。そうでなくても、音楽家として一人立ちできる可能性だってあるわ! ね、挑戦してみたらどうかしら?』

 すっかりその気になって、ウィロビー夫人に付き添ってもらって出かけた試験会場で、私は自分がどれほど思い上がっていたかを知った。
 音楽を学ぼうとする人というのは、富裕な階層に生れ育った者が多い。食べることに必死な貧しい者は、そもそも楽器に目を向ける余裕などない。私のように、音楽にしがみつかないと自身を表現できない者など、本当に稀なのだ。
 試験会場に集まっていた受験者達は、ほとんどが一目見て分かる程、裕福な家のお嬢さんやお坊っちゃん達ばかりだった。
 あまりにも場違いだ。
 洗い晒しの、何度も仕立て直したよれよれの一張羅を着込んだ私は、哀しく切ない程浮いた存在だった。ウィロビー夫人もそれを痛感したのか、試験の時間がくるまで、二人して会場の隅でそっと身を寄せあって立っていた。
 それでも、おそらくは最初で最後の挑戦だからと、試験は必死の思いで臨んだ。
 面接は、質問の答えを板に書いて懸命に答えた。何を質問されて、何と答えたか、今となっては全く覚えていないけれど。
 そして最も重要な実技では、思いを込めて弦を鳴らした。独学で覚えた曲を自分なりに編曲して(少なくともその時点では、『編曲』したつもりだった)、夢と希望のありったけを込めて弾いた。
 演奏が終わっても、審査する教授達は無言のままだった。
 もう終わりだ。そう思った。

 ウィロビー夫人も、その時にはすっかり仲良しになっていた友人達も、試験のことには触れないように、それこそ腫れ物に触るようにそっと優しく接してくれた。
 自分の落ち込み様をみて、ウィロビー夫人が私に受験を勧めたことを後悔しているらしいことも分かっていた。

 だから。心底びっくりした。

 合格通知が届いたその日。手にしたあの瞬間。
 『貴殿の入学をお待ち申している』という一文が、頭に染み込む前に抜けてしまった腰。

 ウィロビー夫人が涙で顔をくしゃくしゃにしながら抱き締めてくれた。友人達も飛び上がって喜んでくれた。村の人々までが総出でお祝してくれた。

 私の合格を、心から喜んで、お祝してくれてる人達がいる。

 途端に心に浮かんだ思いがあった。

 『私は、生まれてきてよかったんだ』

 自分の中に、そんな不安が巣くっていたことを初めて知ったあの時。

 そして同時に、生まれてきて、今まで生きてきて良かったと、胸を熱くして、頬をたっぷりと濡らしながらしみじみ思ったあの時。

 でも、たぶん人生最大の忘れられない瞬間は、その後に起こった。

 どうしても都合がつかなかったウィロビー夫人に代わって、二人の親友達が入学式に付き添ってくれることになった。
 村役場の人から、入学式にはなんと魔王陛下が御臨席なされると聞いて、自分がどれほど大変な学校に入学を許されたのか、その時しみじみと納得した。身の程知らずではないかと、身体が震える気がした。
 しかし友人達は、魔王陛下のお姿を直に拝見できる幸運を、素直に喜んでいる。
 その素直さに私も倣おうと思った。
 そして、村の人々に見送られて出発した、友人同士での初めての旅行。
 途中、楽しい出会いがあった。
 乗り合い馬車で出会った、人間のご一家。とても立派なお医者さんのご一家だった。
 そしてもう一組。

 どうして乗り合い馬車なんかに乗っているのか分からない、二人ものお供を従えたお坊っちゃん。

 絶対貴族の若様だと、友人達は興奮して言い合っていた。
 きっと気紛れのお忍びの旅行なのだと。
 私もそう思った。
 だって。
 あんなに綺麗な子、平民のはずがない。
 まるで、朝露の光が人の形になったような、月の雫が男の子に変じたような、それからそれから……とにかく、この世の人とは思えない程、本当に美しい少年だったのだ。ついでに言うなら、お供の男の人達も、ものすごく素敵な人達だった。
 不思議だったのは、その子にもお供の人達にも、ちっとも偉ぶったところがないことだった。
 丸っきり庶民の私たちを見下す様子もなく、同行していた人間のご一家を蔑むこともなく、本当の友達のように接してくれた。
 同じテーブルで食事をして、お喋りをして、私が弾いた竪琴に、心からの拍手を贈ってくれた。

『いつか魔王陛下の御前で竪琴を弾くのが夢なんです』と気負って板に書いた私に、なぜか不思議なくらいきっぱりと、『絶対に大丈夫!!』と請け負ってくれた。
 その満面の笑顔を見ていたら、大それた願いも叶うような不思議な気持になれた。

 貴族にもこんな人がいるのだと、それを知ることができただけでも嬉しくて、幸せな気持でお別れした。

 だから、世界が爆発したような気がした。

『我が眞魔国の、偉大なる魔王陛下からのお言葉を頂戴致します!』

 開校式と入学式の同時開催。
 誇らしげに宣言する司会者の言葉と同時に、そのお方が壇上にお姿を現した。
 地上で唯一、その方しか身に纏うことを許されない、漆黒のお衣装で身を包まれた魔王陛下。
 自分達と同じように食事をしたり、ご無礼ながら、お手洗いにいったりすることなど想像もつかない、そもそも、この空の下に、私たちと同じように肉体を持って、息をして生きているということすら考えられない程の偉大な存在。
 そんな方からお祝のお言葉を頂戴できるのだと、ただもうそれだけで天にも上る心地がした。

 お衣装はもちろん、御髪も瞳も漆黒の陛下がお姿を現した瞬間、ため息ともうめき声ともつかない響きが会場を満たした。誰もが、自分の幸運に酔いしれていた。
 だけど。
 陛下が私たちにお顔をお向けになった瞬間。

 きゃあっ! うっそぉ! と、あり得ない絶叫と椅子の倒れる音が後方で起こった。
 確認するまでもなく、親友二人の声だと分かった。分かっていた。
 私もまたその瞬間、同じように声にならない絶叫を上げていたからだ。

 戸惑いにざわめく会場で、全く何も聞こえていないかの様に微笑む魔王陛下。
 髪と瞳の色こそ違え、それは紛れもなく、同じ馬車に乗り合わせ、わずかな時を共に旅したあの美貌の少年だった。

 お忍びの旅行をしていたのは、貴族の若様どころではなく、正真正銘魔王陛下だったのだ。

 はたと見れば、壇上の陛下のすぐお側に、すでに見慣れた気のするあのお供の二人が、軍服に身を包んで立っている。

 私はもうとうに、魔王陛下の御前で拙い竪琴をお聞かせしてしまっていたのだ。

 瞬間的に理解したその事実に、私は身の内側から溢れ出る震えを止めることができなかった。

『アリサっ、アリサ! どうしようっ、ねえっ、すごいよ、私たち、どうしよう!』
『見たよねっ、間違いないよねっ、あの人ねっ、そうだよねっ』
 周囲の迷惑げな顔もなんのその、付き添い席にいた友人達が飛び掛かる様に抱きついてくる。
 私も興奮が冷めないまま、ぶんぶんと頭を上下に振っていた。
 出席者全員が外へ出て、お帰りになる魔王陛下をお見送りする。
 そう伝えられて、私たちは身の程も弁えず、というか、ただもう必死の思いに突き動かされるまま、居並ぶ人々をそれこそ押し退け蹴散らす勢いで、その場所に向かって突進して行った。そして警護の兵隊さん達やお嬢さん、お坊っちゃん、いかにも上流階級らしい来賓の人達に邪険に押し戻されながら、それでも三人腕を組み、必死でがんばって人垣の一番前に飛び出した。
『アリサっ、ほらっ』
 ぎっしりと詰め掛けた人々の頭が一斉に動く。歓声が上がる。
 建物の中から、魔王陛下とあのお供のお二人が、学校の教授達だろうか、それともお取り巻きだろうか、たくさんの方々に囲まれてゆっくりとこちらに向かっておいでになった。
 陽の光の下、陛下の黒髪が艶やかに輝いたのを覚えている。
『魔王陛下万歳!』『眞魔国万歳!』
 陛下が歩を進められるにつれ、言葉にならない絶叫のような歓声が巻き起こり、その興奮は一気にその場に集った人々を巻き込んだ。
 勇気のある者、もしくは少々礼儀知らずの何人かが、『陛下! こちらです! こちらを向いて下さい!』と大きな声を上げたり、どこから用意したのか、大きな旗の様なものをばさばさと振って陛下の注意を引こうとしたりした。そこまでできなくても、誰もが陛下の視線を一瞬でも自分に向けて欲しいと、祈るような思いでいたのだと思う。
 魔王陛下は、穏やかな笑みをお美しいお顔に浮かべながら、ゆっくりと門に向かう道をお歩きになり、時折左右に顔を向け、優しく手をお振りになっていた。幸運にも顔を向けて頂けた人々からは、歓喜に満ちた悲鳴の様な叫びが溢れ、他の人々の羨望の眼差しを集めていた。

 陛下のお姿がどんどん近くに近づいてくる。ああ、紛れもないあの人だ。

 陛下達御一行まで、ほんの数歩の距離。
 一緒に旅していたあの時だったら、何の気なしにすぐに埋めることのできた距離。
 今は、天と地ほどに離れた距離。
 図々しく声を上げることもできず、私たち3人は、ただお互いの手を握りしめあったまま、目の前を今にも過ぎようとなされるお方を瞬きも忘れて見つめ続けていた。
 その時。
 あのお供のお一人、確か陛下が『コンラッド』とお呼びになっていた男性が、私たちに気づいた、らしかった。
 彼はふいに顔を陛下に近付け、そして何かを囁いた。
 その次の瞬間、陛下がぱっと私たちに顔をお向けになった。
 はっきりと、その漆黒の瞳に、私たちを映された。

 その瞬間を、私は生涯忘れない。

 それまで優雅に微笑んでおられた陛下の表情が、ふいに変化した。
 まるっきり年相応の、元気で、いかにもいたずら好きな少年の顔に。

 にこ、というより、にかっと笑って、照れくさそうに首を傾けると、それまでゆったりと振っておられた両手の指を胸元で広げて、小刻みに、挨拶というより仲間への合図のように、私たちに向かってお振りになったのだ。
 そしてお口が、私に向けて開かれた。

『が・ん・ばっ・て』

 陛下と私たち。
 ほんの数歩の、決して埋めることのできない、永遠にも思える距離。
 でも、これで充分。私は本当に幸せ者だ。だって、たった今。

 世界最高のお言葉を頂いた。

 3人で抱き合って、感動のあまり人目も憚らずおいおいと泣きながら、本当に生まれてきて良かったと、心の底から世界の全部に感謝した。


 そうして今、私は血盟城にいる。




「来たわよ、ユーリっ!」
「やっほー、アリ−!」

 その日ついに、新連邦の代表団が血盟城にやってきた。
 彼らは魔王の婚約を祝いに来ただけではない。代表団の人数は各国の中でも突出して多く、政治、通商、文化、その他様々な分野に従事する政治家や官僚、そして多くの学者達で構成されており、それはまさしく外交交渉のための使節団であったのだ。
 彼らの到着によって、今回の外交の宴はまさしく本番を迎えるのだ。眞魔国側にとっても、それは望むところだ。
 が。

「きゃーっ、おめでとー、ユーリ−っ」
「ありがとーっ」

 城の大門を潜ってやってきた新連邦代表団と、それを迎える魔王陛下一行が、互いの姿を確認し合った途端、代表団員の一人である年若い娘と、事もあろうに魔王陛下本人が、わーきゃー声を上げながら、式次第も無視して飛び出してしまったのだ。

「アリ−!!」
「陛下!!」

 厳しい女性の声と、威厳に満ちた男性の声が、揃って空気をビンと震わせる。
 瞬間、満面の笑顔で相手に抱きつきかけていた二人が、笑顔もそのままに、凍ったように動きを止めた。
 そしてハッと表情を改めると、そそくさとそれぞれが属する集団の中に戻った。
 コホン、という二人分の咳払いがシンと静まった歓迎の場に響く。その瞬間、外交上の儀礼に外れた一幕は、居合わせた人々の記憶から消去されることが決定した。

「……この度は、魔王陛下御婚約の宴にお招き預かりまして、まことに光栄に存じております。エレノア・パーシモンズと申します。新連邦を代表し参上仕りました。何とぞよしなにお願い申し上げます」
「えっと、あの…」鋭く厳しい眼光を頭上に感じて、ユーリはぴしっと背筋を伸ばした。「ようこそお出で下さいました! 眞魔国第27代魔王、ユーリと申します! 新連邦の皆様を心から歓迎致します!」

 ユーリがちら、と上を見上げると、宰相がしっかりと目線を合わせて、むっつりとしながらも小さく頷いてくれた。
 まあ、いいだろう、というところだろうか。
 新連邦発足の直後、両国の代表は第三国の仲介の元、その地において大急ぎで友好条約締結を果たした。ちなみに、眞魔国代表はフォンクライスト卿ギュンターが、新連邦からは元ラダ・オルド王国の王太子、クォード・エドゥセル・ラダがやってきて代表を務めた。
 その後、大地復活の儀式を始めとして、様々な形の交流が開始されたものの、いまだ両国の代表が顔を合わせたことはなく、もちろん互いの国を訪れたこともない。公式には。
 この、エレノア・パーシモンズの眞魔国訪問こそが、両国における最高指導者同士の初顔合わせとなるのである。あくまでも公式には。

「この度の宴に、新連邦の元首であられるエレノア殿が直々にお出でまし下さったこと、我らが陛下はもちろんのこと、眞魔国臣民一同心より喜んでおります」

 姿も声も1級品。魔王の隣で、王者の威厳すら湛えて立つ美丈夫に、エレノアは思わず見愡れるように目を瞠いた。

「魔王陛下の宰相を務めさせて頂いている、フォンヴォルテール卿グウェンダルと申します」
「まあ、あなた様が……!」

 エレノアはにっこりと微笑んで、一気に胸に溢れてきた思いを抱き締めるように、ゆったりと親愛の礼を取った。フォンヴォルテール卿もまた、老いた身ながら、しばしの月日を弟と共に戦ってきた女性を見つめて、高貴な女性への敬愛の礼を示した。
 そうして顔を上げたエレノアは、魔王の半歩後ろで佇んでいるコンラートに視線を向け、静かな微笑みと共に頷き掛けた。コンラートもまたそれを受け、穏やかな笑みを浮かべて頷き返す。
 三人の間で交わされた想いをわずかながら感じ取って、ユーリは思わず、ほうと息をついた。
 大シマロン打倒のために眞魔国を出奔したコンラッド。ただ一人真実を知って、弟を死地に向かわせたグウェンダル。囚われの身から一転、コンラッドと共に大シマロンに反旗を翻す反乱勢力の盟主となったエレノア。ユーリが知る以上に、理解できる以上に深く、重い感情を、おそらくこの三人は共有しているのだろう。
 それをまだ共に得ることのできない自分の幼さ、未熟さに、ユーリは一抹の悔しさと切なさを感じていた。

「新連邦の皆様とは」

 ユーリが明るい声を上げる。おや? とグウェンダルが意外そうな視線を向けた。

「これから更に理解を深めあい、共に手を携えていきたいと考えています。これからの数日、皆様とは未来に向けてたくさんのお話をしたいと思っています。どうかよろしくお願い致します!」
 エレノアも目を瞠り、ユーリを見つめていたが、すぐに晴れやかな笑顔を浮かべると、大きく頷いた。
「こちらこそ、ぜひともお願いしとうございます。魔族の皆様と更に友情を深めることが、私たちの大きな願いでございます」

 にこっと笑うユーリに、エレノアもまたにっこりと優しい慈愛の笑みを向けた。隣ではグウェンダルが満足そうに頷き、コンラートも愛しげな視線を惜し気もなく主に注いでいる。

「では、ご滞在の間ご使用頂く離宮に案内させましょう。しばしおくつろぎ頂きたい。後程午後のお茶をご一緒に。詳しい話はその時にまた。それでは……」

 グウェンダルの言葉に、エレノアが頷いて代表団の一同を促し、その場から身体を引いた。
 今回、新連邦代表団が、隣国の代表団と共に眞魔国を訪れることが事前に知らされていた。
 場所を空けたエレノア達の後ろから、別の一団が進み出てくる。

「サリィ様! カイン!」

 新連邦の隣国、ベイルオルドーンの代表団だ。
 それほど昔ではない以前、荒廃していく国土を救うため、魔王を誘拐し、幽閉し、その強大な力を独占しようとした国でもある。もちろんそれを企んだ一派はとうに一掃されているのだが。

「この度は、まことにおめでとうございます。栄えある宴にお招き頂きましたこと、我ら心より光栄に存じております」
 即位して間もない王、カイン・ラスタンフェルが深々と頭を下げる。後ろで、その母であるサリィデラノーラも深く腰を折った。
「とんでもないよ! じゃなくて、とんでもないデス! えと……ようこそお出で下さいました。先だっては、色々と助けて頂いて、本当にありがとうございました! それからサリィ様、前にお出で下さっていたのに、お会いできなくてごめ……申し訳ありませんでした」
「滅相もございません、陛下」サリィがにっこりと笑う。「またお会いできまして、本当に嬉しゅうございます。お元気そうで何よりですわ。……この度は、本当におめでとうございます」
 ありがとうございます、と、ユーリも満面の笑みでぺこりとお辞儀をする。

 宴に出席する各国の代表団が増えれば増える程、ユーリも大忙しになる。しかし、見知った懐かしい人々との再会はユーリにとって、嬉しい予感だけに満ちた、純粋な歓びであることもまた確かなことであった。




 与えられた部屋で荷物を解き、ざっと片付けて、ヴィクトール・ミーナはうんっと背伸びした。
 そして部屋の大きなガラス窓を開き、そのままベランダに足を踏み出した。
 血盟城の敷地内といっても、彼女が今いる館はかなり外れの緑も瑞々しい林の中にあり、城の喧噪は全く聞こえてこない。
 木漏れ日が気持良く身体に降り注ぐ。
 深呼吸すれば、身体の中に溜まっていた緊張も、不安も、ゆっくりと溶けて流れていくような気がした。

 ミーナは、フォンビーレフェルト卿が企画した栄光あるイベント、すなわち『眞魔国の芸術に浸る一日・投票券付き』の出演者、十名の内の一人である。
 眞魔国王立芸術団の団員であり、将来を嘱望される若き歌姫である彼女は、芸術団の推薦と、フォンビーレフェルト卿ら審査員による厳正な審査の結果、見事出演者として選ばれたのだ。
 『ガラスでできた鈴の音を思わせる』とか『光と光が弾き合うような』と冠される、美声の持ち主である。

 芸術家は繊細な精神の持ち主であり、いきなり血盟城にやってきたのでは緊張して実力を発揮できない。したがって、暫く前から場の雰囲気に身体を馴らし、意気を高めて決戦の場に臨むべきである、と宣ったのは、自身が芸術家であることを常日頃から主張して止まないフォンビーレフェルト卿その人だった。
 結果、宴本番まで1週間を切ったその日、選ばれた十名は血盟城に集結することになったのだ。
 城の敷地内の林の中にある、離宮と呼ぶには少々小振りの館が彼らの宿舎となった。もちろん部屋付きのメイドも料理人もいる。

 しばしぼうっと緑を見つめていたミーナは、突然部屋の扉をノックする音で我に返った。
「待ってたわよ! ミーナ!」
 慌てて開けた扉の向こうからやってきたのは、見知った顔の面々だった。
 グラディア、サディン、キャス、そして…もう一人。
 彼らをみとめた瞬間、ミーナの顔がぱあっと輝いた。

 ミーナの父親は、学者を育成する学舎の教師であり、本人も一流の学者として名高い人物だ。
 父の教え子である学生達は多く世に輩出されており、この血盟城においても、何人もの卒業生が官僚として働いている。
 ミーナを訪れて歓迎の言葉を浴びせてくれたのは、そんな父の教え子の中の4名だった。

「お、父さま、が、み、みなさんの、こと、を、ほ、誇りに、思って、いるって」
「先生にそう仰って頂けるのは、本当に嬉しいことだわ」
 中庭のテラスに設えられたテーブルにお茶を運んでもらい、5人席についた所でミーナがまずそれを告げた。父から、もしも皆に会えたら伝えて欲しいと言われていたのだ。
 彼ら4名は魔王陛下直属の諮問機関『行政諮問委員会』の正式メンバー(内一人は新米)である。それはすなわち彼らが、眞魔国の官僚のなかでも選び抜かれたエリートであることを表している。
 師としては、教え子の出世は何より喜ばしいことであった。

「それにしても、今回の出演者の中に君の名前を見つけた時は驚いたよ」
 サディンがにこにこと温和な笑みを絶やさずに言う。
「あら、私はミーナが選ばれるのは当然の事だと思っていたわ」
 キャスが言えば、グラディアも「そうよ」と頷く。
「あれから」と、グラディアの視線が、先ほどから無言のままの連れにちらりと向く。「すぐに声楽の先生について勉強し始めて、芸術団の入団試験を受けたと思ったら、あっさり合格してしまうんですもの」
 才能があるからこそよ。頷くグラディア達は、同じ学舎で暮らしてきたミーナの成功を心から喜んでいる。
「……あ、あの……そ、そ、そ、の……」
 内心の緊張のためか、近頃かなり改善されてきた吃音が、また強くなってきた。
「なあに?」
 グラディアが問い返す。
「…あ、あ、あの……わ、私が…え、選ば、れたの…って、そ、その……」
「え?」
「あ、あ、あの……だか、ら、そ、そ、その……み、みなさ、んが……その…も、もしか…したら……」
 分からない、と首をかしげるグラディア達。その時。

「ミーナは、何か思い違いをしているのではないのか?」

 それまでずっと無言のまま、何となくミーナから視線を外していた一人─ミゲル・ラスタンフェルが口を開いた。

「ミゲ?」
「ミーナは、自分が今回選ばれたのが、実力ではなく、我々が何か裏で操作したと疑っているのではないのか?」

 ミゲルの言葉に、三名は驚いて目を瞠き、ミーナは暗い顔を伏せた。
「……だ、だって……ど、ど、どうし、て、わ、私、なんか……」

「ミーナ」
 静かだが、厳しくきっぱりと声が上がり、ミーナは思わずびくんと顔を上げた。
 グラディアが、そしてサディンとキャスが、眉を顰め、難しい顔でミーナを見つめている。

「ミーナ。今回の宴に、私たち委員会は何も関与していないわ。私たちは行政の専門集団であって、この様な企画は最初から関係していないのよ。実際、宴の進行のどこにも、私たちが口を挟む余地などないわ。まして、こんな大事な企画の出演者を私たちがどうこうできるはずがないじゃないの。フォンビーレフェルト卿は誇り高い方よ。ご自分の企画したこの催しに不正を介入させるなど、絶対にお許しにならないわ。……ミーナ、あなたは間違いなく、実力で選ばれたのよ」

 語るグラディアをまじまじと見つめていたミーナは、突如顔を真っ赤に染めると慌てて頭を下げた。

「…ごっ、ごっ、ごめんっ、なさい……っ!!」

「芸術団に入って、何か自信を喪失することでもあったのか? えらく気が弱くなったものだな。本当はものすごいお転婆娘のくせして、いつの間にそんな下らないことを考えるようになったのだ」

 追い討ちをかけるようなミゲルの言葉に、頬が更に熱く赤みを増したのを感じ、ミーナは顔を上げることもできないまま、身体を固く強ばらせ自己嫌悪で溢れそうになる涙を堪えていた。

「もしまだ不安があると言うのなら、宴の発表会で最優秀を獲得してみろ。今度の審査員は来賓である人間達で、魔王陛下はもちろん、我が国の者には誰も投票権がない。……ミーナ、おまえには」
 声の調子を変えて呼び掛けるミゲルの言葉に、ふとつられてミーナは顔を上げた。視界が潤んでいる。
「……本物の才能があるんだ。今まで培ったものを全部、ありったけの思いを込めてぶつけてみろ。きっと人間達にもそれは通じるはずだ」
「…………ミ、ミゲル……」
 ぱちぱちと目を瞬かせて、ミーナはまじまじとミゲルを見つめた。初めて会った時の事を考えたら、何だか、すっかり人が変わってしまったような気がする。

 あらあら、とか、おやまあ、とか、何やら楽しげな、だが悪意のない含み笑いが傍らから起こったことにハッと気づいたミゲルの顔が、一気に真っ赤に染まった。
 慌てて周囲を見渡すと、目に涙を浮かべて感動しているミーナは別として、三人の先輩達はそれはもう人の悪さを全開にしたような顔で、にやにやとミゲルを見つめている。
「あああ、あー、えーと……」
 顔を赤らめたまま唸っていたミゲルが、突如音を立てて立ち上がった。
「ミゲ?」
「そっ、そろそろっ、は、母と兄が到着すると思うので、僕はもう行く!」
 ああ、そういえば、とグラディア達が納得する前に、ミゲルはバッと踵を返してその場を立ち去りかけた。
 と、その時。
 ふいに彼らのいる中庭に、別の人物が姿を現した。

 その人物も、そこに人がいるとは思っていなかったらしい。
 何気なく散策していたらしい身体をびくっと竦ませて、凍り付いたように彼らを見つめている。

 銀色の少女だった。

 ミーナよりも年下だろう。さらさらとした銀色の髪を伸ばした、瞠いた瞳の色も淡い、まるでお伽話の妖精の様な、だがその印象に対して、ひどく不似合いな粗末なドレスに身を包んだ少女だった。

「えーと…」
 一瞬空いた空白の後で、グラディアが我に返ったように声を上げた。
「あなたも『芸術の一日』の出演者かしら?」

 問いかけられた少女が、ハッと目を瞠いてから、ぶんぶんと顔を上下に振った。

「あら、だったら、あなたもこちらにこない? 一緒にお茶をしましょうよ。しばらくご一緒するのだから、仲良くした方がいいでしょ? といっても、私は出演者じゃないんだけれど」
 そう言って、彼女を迎えるように立ち上がったグラディアに、少女は慌てたように両手を振った。
 そして、ミーナ達が見つめる前でおろおろと自分の身の回りを、何かを探しているかのように見回し、その何かがないことに焦ったように顔を歪め、それから彼らに何度も頭を下げると、脱兎という勢いでその場を駆け出して去って行った。

「………どうしたのかしら?」
「私、何か悪いことを言った?」
 グラディアとキャスが、顔を見合わせて首を捻っている。
 ミゲルも、何だかよく分からない、という風に眉を顰めていたが、すぐにどうでもいいと同僚達に顔を向けた。
「とにかく、僕はもう行くから」
「あ、ミゲル」
 歩き始めたミゲルの後ろから、グラディアの声が掛かった。
 面倒くさそうに振り返るミゲルに、グラディアがこれまでとは色合いの違う笑みを浮かべる。
「お母様がお出でなのよね? だったら……ウィンコット領には、出かけるの?」
「………まだ、分からない。母上次第だ。だが……」
 ミゲルが、何かを決意するように、真直ぐにグラディアを見た。
「母上があちらを訪ねたいと仰せになったら、今度は僕も同行させて頂こうと思っている」
 それがいいわね。
 グラディアが、ミゲルの後ろ姿に穏やかな笑みを投げかけた。


「………あのね、ミーナ」
 ミゲルが去り、何故かふいに訪れた沈黙の後、グラディアが静かにミーナに語りかけた。
「今日ね、あなたを訪ねていこうって言い出したの、ミゲなのよ?」
「………え?」
「こんな催しに選ばれて、血盟城に一人でやってきて、きっと緊張して心細い思いをしているに違いないって。すぐ近くにあなたのことを気に掛けている友達がいて、いつでも会えると分かれば、あなたも安心するだろうからって。………あいつ、昔の事、まだ結構気にしてるのね。あなたに償いをしたいと思ってるのかもしれないわ」
「……ほ、ほん、とに……?」
 ミーナの言葉に、三人が揃って頷いた。
「あいつ、変わったと思わない?」
 その言葉に、確かに、とミーナも頷く。
「人って、本当に変わることができるのよね」
 今度は確信を込めて、ミーナは力強く頷いた。

「今度の宴で、私達、あなたに何もしてあげられないわ。応援するだけ。がんばってって。それ以外何もできない。でも、あなただって、それ以上の事を私達にして欲しいとは思っていないでしょ?」
 三たび、ミーナが頷く。

「だから言うわね。がんばって。あなたなら、きっと素晴しい歌を皆に聞かせることができるわ。私達、あなたの力を信じて、祈ってるわ。だからあなたも、自分の実力を信じて精一杯がんばってね」

 ありがとう。

 心からの思いを込めて、ミーナは大きく頷き、そして頭を下げた。



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今までで最高に時間が掛かったような気がします……。
で、できたのがこれ、でしてー。
すっ、すみませんっ、話が進んでいるとか進んでいないとか、もうそんな次元じゃないというか、その、えーと。

「ヴォルフラムの企画したイベントに選ばれ、ミーナとアリサはお互いをまだ見知らぬまま、血盟城敷地内の館にいた」……で、終わらせても一向に構わないような話だったような。

お待たせしておきながら、何を書きたいのか全然不明の2話でしたが、ご感想、お待ちしております。