陛下が苦しまなかったなどと思わないで下さい。 静かにそう語る大賢者に、新連邦の人々は胸を突かれた様に目を瞠った。 「我等の陛下が、友情を軽々しく弄ぶ方ではないことは、あなた方ももうよくご存知のはずです」 ですよね? 確認されて、全員が慌てて頷いた。ユーリの純粋さを疑ったことはない。 ……今回のことが起きて、それがわずかに揺らいだことは認めるが……。 「今回の新連邦分断を献策したのは僕です。陛下は王として、大陸の平安のためにそれを是とされました。だがその決断までに、陛下は本当に苦しまれました。この策が成れば、大切な友人をなくしてしまう。なくすどころか、恨まれ、憎まれるかもしれない。個人的な感情と王としての責務の板ばさみになって、陛下は本当に悩み、苦しまれました。ですからエレノア殿、僕に感謝すると仰るなら、陛下の友情を、あなた方を思う気持ちを決して疑わないで下さい。憎む相手が欲しいということでしたら、それはどうぞ僕に。お願いします」 「それは……。責任は私共にあると申し上げました。確かに陛下のお気持ちを疑う瞬間がなかったとは申しませんが……」 エレノアがちらっとクォードに目を向ける。その視線を感じたのか、偉丈夫はバツ悪げにコホンと咳払いをした。 「ですが今は、もうそのようなことは全く考えておりません。先ほども申し上げましたように、恨むなどとんでもない、猊下には感謝申し上げております」 「それはエレノア殿」大賢者が苦笑を浮かべる。「あなたはそうだとしても、皆が皆、あなたと同じ様に理解して下さっているとは限りません。事実、今ここにおられる方々の中にも、いまだ納得できずにいる方もいらっしゃいますよ?」 「そのようなこと……」 言い返そうと周りを見回せば、同席する数人がエレノアの視線を避けるように顔を背けた。その中に孫娘のカーラとアリーがいることに、エレノアは眉を顰めた。 2人は以前から大賢者に対して反感というか、苦手意識を抱いている。それが理解の壁になっているのだろうか。 エレノアは思わず頭を下げた。 「申しわけございません、猊下」 「エレノア殿」空気を軽く手で払うようにして、大賢者が苦笑を深めた。「この段階で、あなたの様に潔く非を認めることができる人は多くありませんよ。むしろ反感を抱くほうが普通です。ですから、そういう方々は僕を恨めば良い。くれぐれも、よろしいですか? くれぐれも陛下を恨んで、傷つけるような真似はしないで下さい」 猊下……。 呟くように彼を呼んで、エレノアはしみじみと正面に座る少年─少なくとも見た目は─を見つめた。 「あなたは……本当に魔王陛下を大切に思っておられるのですね」 「僕の、掛け替えのない主ですから」 互いから目を逸らさずに語りあう二人の傍らから、それまで沈黙を護ってきた人物が声を上げた。 「だからで、ございますな」 ダード? エレノアが顔を向けた先で、ダード老師が自分自身に向けるように頷いている。 「猊下の我々に対するお言葉は、大変厳しいものでございました。それは我らの不甲斐なさに対するものなのだろうと思っておったのですが……その根本には魔王陛下のことがあったのですな?」 「ええ、その通りですよ」 大賢者が、ようやく分ったかという顔で頷いた。 「あなた方がちゃんとやるべきことをやってくれれば、我等の陛下はあのように苦しむことはなかったのです。陛下を苦しませた。それは僕からすれば、万死に値する罪です。だから僕は、あなた方を許せないと思うのですよ」 「ですが、猊下は私達を救ってくださいました」 エレノアが言い返すと、大賢者は肩を竦めて首を左右に振った。 「あなた方のためじゃありません。陛下のためです。世界の平和、魔族と人間の共存共栄、全ての民の安寧、それを心から願っておられる陛下のお心に沿うために僕はこの策を立てたのです。正直に申し上げれば」 新連邦が滅んでも、僕の心は痛くも痒くもありません。 淡々と告げられたその言葉に、誰かがゴクリと喉を鳴らした。 「まして、陛下の個人的な友情に思い上がり、友人なのだから無条件に助けてくれるだろうと甘えきり、自分達がすべき事を何一つしないでいることに言い訳ばかりで反省もしないあなた方などね。いっそのこと、全州に新たな王を立てて独立させ、新連邦などという国は大陸から消し去り、新連邦の頂点に居座る無能の甘ったれ共はとっとと始末してしまった方がよほど陛下の希望に沿うのではないかという思いが、実は今でも僕の中にあります。ですが……それはしません」 エレノアの、いつの間にか強張っていた身体から、わずかに力が抜ける。 「それは……」 「それは手っ取り早い方法ではありますが、陛下を喜ばせるものにはなり得ないからです。国土を割るだけでもあのように悩ませてしまったのです。それ以上の、有効ではあるが過激な策は今はまだ取れない。そう判断しました」 かすかに息が漏れる。だが、まだ緊張は解れない。 「…今は、と……?」 「そう」大賢者が深く頷く。「今は、です。よく覚えておいて下さい。よろしいですか? この先、また陛下を御心を苦しませるようなことをしたら、その時はもう容赦しませんよ? 僕は同じ過ちを繰り返す馬鹿は嫌いなんです。それが多くの民の命を背負う国家の指導者であれば尚のこと。次はありません。もし万一、またあなた方が同じ様なことを繰り返したら、その時は残りの国土を割ってあなた方を救うような真似はしません。新連邦は潰します。僕がやると言ったら、必ずやります。このこと、くれぐれも覚えておいて下さいね?」 「我々は!」 そこで大きな声を上げたのはクォードだった。声と同時に、身体もソファから浮いている。 さらに身を乗り出して、クォードは大賢者に噛み付くように言った。 「我々は、それでも必死でやっておるのだ! 国を、民を、何とか救おうと、死に物狂いで頑張っているのだ! それを、お主などにっ。お主に我らをどうこうするどんな権利が……!」 権利が……ある、と……。 激高したクォードの声はどんどん小さく、最後は尻すぼみに消えてしまった。 怒りに真っ赤に染まった顔色が、急激にどす黒く変わる。クォードの目がどこか空ろに揺れて落ちた。 その様を無表情に見つめていた大賢者は、ゆっくりとお茶のカップを傾け、それからやはりゆっくりとカップを卓に戻した。 「どれだけ馬鹿げたことを口にしたのか、一応分かってはいるようだね」 ぐ、と息を詰まらせ、クォードが視線を逸らす。 「己の失政のために100万の民を死なせたとしても、自分は頑張ったんだから納得しろと言えるかい? 政は結果が全てだ。それに……君達の国は全て、大シマロンに滅ぼされた。権利のあるなしを問うなんて、何の説得力もないことは身をもって知っているんじゃないのかな?」 悔しげに唇を噛み、だが誰も反論できない。 それでも、と、エレノアは顔を上げた。生来の負けん気も一緒に頭をもたげる。 自分達の無為無策も、大賢者の主張の筋も既に充分理解しているが、潰すと言われて素直にごもっともと頷くわけにはいかない。 「猊下の仰せ、よく分りました。私共も魔王陛下を苦しめたいなどど、欠片も考えてはおりません。あの方は地上の希望そのものですもの……。猊下、猊下のお覚悟を伺いまして、私からも申し上げさせて頂きます。この先、私共は決して、最悪の決断を猊下にさせるような真似は致しません。今回のことを胸に深く刻み、必ずや新連邦を、眞魔国と肩を並べる程の国に盛り上げてご覧にいれますわ」 「それで良いんですよ、エレノア殿。実現できるかどうかは別にして、夢はでっかくぶち上げるものです。大陸の平和のためにも、魔族と人間の共存のためにも、新連邦が平和的に発展することを僕も祈ってますよ。僕だって、知り合いを地上から抹殺したいなんて望んでいないんですから。でも本当にやるときはやりますからね。その時になって、みっともなく言い訳したり、陛下に甘えたりは止めて下さいね」 「……見苦しい真似は致したくございませんが……。ですが猊下、我々とておめおめと国を潰されるわけにはいきません。その時には抵抗させて頂きます。この旨も、はっきり申し上げておきますわ」 「抵抗? しても無駄だし、すればするほど民を苦しめるだけだよ?」 「私達全員が心を強くして力を合わせれば……」 「君達が束になったくらいで、僕には勝てない」 何なのだ、その自信は!? 怒りや憮然とした表情のそれぞれを眺め渡すと、大賢者は可笑しそうにくすくすと笑い始めた。 「例えばね」笑顔のままそう言って、指を1本立てる。「もし新連邦に対して我々が武力を行使するとなった場合」 僕は攻撃軍の総司令にウェラー卿を立てる。 その一言は雷鳴の様にエレノアやクォード、カーラやアリー達全員の鼓膜に突き刺さった。 自分達でも驚くほどの強さで心臓が跳ね、熱いものがカッと頭に上ると同時に、背筋を冷たいものが走り抜けた。 中途半端に吸い込んだ息が喉を詰まらせ、その苦しさに喘ぐように長年の友人を見れば……。 コンラートは平然とお茶を啜っている。 「………コンラー……」 「ウェラー卿」大賢者が傍らのコンラートを軽く見上げて言う。「その時は君、もちろん眞魔国国軍の総司令として、ここにいる彼らと戦うよね?」 「魔王陛下のご下命とあらば。もちろんです、猊下」 コンラート! カーラの小さな、だが鋭い声が上がる。 「大体の目算だけど、この新連邦の国軍を撃破するまでどれくらい掛かる?」 「三日頂ければ全滅させます」 息を吸い込む鋭い音や、唸り声がそこかしこから漏れてくる。エレノア自身、瞬間心臓が止まったような気がした。 「そんなもん?」 「司令官はもちろん、兵士の力量も欠点も、それから地形や天候などについても、データは全て頭に入っています。さらに、今回のことで軍の力は格段に低下しますので、特に問題はないでしょう」 「なるほど、よく分った。…でもほら、クォード殿は不満そうだよ? クォード殿、あなたはウェラー卿と一戦構える覚悟はある?」 「……もし、もしそのような事態になれば、俺とて武人の端くれ、相手がコンラートであろうが誰であろうが受けて立つわ!」 「へー。じゃあ、クロゥ、君やバスケスはどうだい? ウェラー卿が指揮する軍隊と戦って勝てそう?」 もしも勝てれば、歴史に名を残せるよ? 挑発するように笑う大賢者に、クロゥがあっさり頭を横に振った。 「無理です、猊下」 クロゥ! クォードの怒声が上がるが、クロゥは自嘲するように軽く笑ってそれを振り払った。 「俺は自分の限界が見えない間抜けではありませんので。それに……俺がどれだけその気になろうと、後に続く者いなくては戦になりません」 賢明だね、クロゥ・エドモンド。大賢者が笑って頷く。 クォードがまさしく苦虫を噛み潰した顔でそっぽを向いた。 「指揮官がどんなに頑張ったって、実際戦うのは兵士だ。だけどこの国の兵士達がウェラー卿を敵にまわして戦えるなんて、とてもじゃないけど思えないな。怖気づいて逃げ出すか、じゃなきゃ……」 「反乱を起こすであろうな」 むっつりとした声で続けたのはクォードだ。カーラ達が驚きの表情で、ぶすくれた顔のクォードに注目する。 「何だ、分かってるんじゃないか、クォード殿」大賢者が楽しそうに笑う。「そうだよね。ウェラー卿がいたからこそ君達は大シマロンに勝つことができた。もしあの時、ウェラー卿が戻ってきてくれなければ、兵士達は今頃この大地の泥に屍を埋もれさせていただろう。その事実を、この国の兵士達は絶対に忘れない。だからもし、ウェラー卿が指揮する軍と戦う羽目になったら、兵士達の取る道はただ1つだ。眞魔国を正面きって敵に回すような大失敗をした連中を引き摺り下ろし、眞魔国に引渡し、何とか魔族に溜飲を下げて頂こう。こう考えるのが当然じゃないか」 その情景が、なぜかくっきりと人々の脳裏に映し出される。まるで今現実に起きているかのように。 さらにエレノアは、今日、あの議場で、コンラートの指示に争うように従っていた若い兵士達の姿を思い出した。 どれだけ自分達が抵抗しようとしても。 兵士は、民は、決して自分達についてきてはくれないだろう……。 パン! ビクンっ、と、人間達の身体が跳ねた。 ハッと目を瞠れば、真正面の大賢者が胸元で手を合わせている。と思った途端、パンパンと繰り返し手が叩かれた。 「何て顔してるんだろうね、君達。ほら、目を覚ましたまえよ」 大賢者が可笑しくて堪らないという顔で、人間達に声を掛けた。 「エレノア殿?」 どこか呆然とした顔のエレノアの瞳を覗きこむようにして、大賢者が笑う。 「お顔が真っ青ですよ? ねえ、エレノア殿、今のあなた方がどんなに心を強く持ったって、それはこれっぽっちの会話で粉々に砕けてしまう程度のものなんです。ちょっと擽っただけで真っ青になる今のあなた方に、僕に勝つことはできません。でしょう?」 無邪気にすら見える笑顔で問い掛けられて、エレノアは思わず瞑目した。 ……思い知らされた。 コンラートが「敵」になる。それを想像しただけで、目の前が真っ暗になってしまったような気がした。視線を投げれば、部屋の隅に立つカーラは、まるで吐き気を堪えているかのように口元を手で押えている。 自分達はいまだ、これほどまでにコンラートという男に縋っていたのか。彼の存在を、己の柱にしているのか。 コンラートが敵として自分達の前に立つ。そう言われただけで、大地が割れるような絶望を覚えるほど。 確かに。 今の自分達がどう足掻いても、大賢者の策謀に抵抗も対抗もできないだろう。 「エレノア殿」 ハッと。思いに沈み込んでいたエレノアは、夢から叩き起こされたように目を見開いた。 「精進されることです。今はまだ駄目だが、全てはこれからですよ。今回の失敗から学び、先へ進むのです。そうすれば、少しは距離が縮まる……かもしれません」 「縮まると、仰ってはくれませんのね」 情けない思いのまま微笑めば、大賢者もにっこりと笑う。 「何せ、僕もまだまだ成長途上ですからね。差が縮むどころか、開く可能性だってあるわけですし」 「………さようでございますか……」 何だかげっそりしてきた。エレノアは内心でため息をついた。 「とは言え」 何なのだ。 「ハウシャンの摂政言行録なんぞを有り難がって読んでいるようでは先は暗いかなあ」 「…はあ!?」 「その程度のものを読んで勉強した気になっているのではね」 思わず、正面に座る少年の顔をまじまじと見つめてしまった。 「猊下は……」 「何です?」 「かの言行録をお読みになったことは……」 「ありませんよ、そんなもの。そんなものがあることを知ったのも、今日が初めてですし。そもそもそれ、誰が書いたんですか?」 「あの……アユル・マウファという人物で、摂政イズイール・タファスの……」 「秘書官だった」 知っているではないか。そう呟いたのは、エレノアの隣に座るクォードだ。 声にこそ出さなかったが、同じ思いのエレノアは思わず眉を顰めた。だがその時、ふと大賢者から漏れた「…あいつか」という声にきょとんと首を傾けた。 大賢者は舌打ちしそうな表情で、どこかあらぬところを睨みつけている。 「……あの…」 「その男はね、エレノア殿」ふいに大賢者が口を開いた。「イズイール・タファスを熱烈に崇拝していたんですよ。もう、恥ずかしいから止めろって1日何度も怒鳴りつけてしまうくらい、やることなすこと賛美しまくってね。こっちが『今夜の酒のつまみにたこ焼き食べたいかも〜』なんてボーっと考えている時でも、深遠な哲学的思索か、王国を更なる繁栄に導く政策をお考えになっておられるに違いないって思いこむようなおバカだったんです。そんなのの書いた言行録なんて、ろくなモンじゃありませんよ。持ってるならさっさと捨ててしまいなさい」 これ、今回最高の忠告ですよ。 キッパリ決め付けられて、エレノアはもちろん、新連邦の人間全員がどう反応したら良いのか分らずにポカンとしていると、大賢者の隣に座るコンラートが小さく咳払いをしてきた。 全員の視線が救いを求めるようにコンラートに向く。 「猊下」 「…ん? 何?」 「3000年も前の王国に、たこ焼きがあったんですか?」 「あったんだよ、ウェラー卿。タレこそ違うけど、あれは今思えばまさしくたこ焼きだった」 「そうなんですか。美味しいですよね、たこ焼き。俺は明石焼きも好きですけど。あの、熱い出汁につけて食べるというのがなかなか好みです」 「明石焼きを知ってるんだ!? へー、どこで食べたのさ? 埼玉? 東京?」 「アメリカです。日本と決まったあの後、ご存知の小児科医が日本の文化を知るべきだと、色々連れ回してくれまして」 「ああ、彼か! アメリカにもあったんだ。へ〜」 ……今聞くべきなのは、聞いたことも見たこともない食べ物のことか!? 違うだろう! エレノアが思わず怒鳴りつけそうになった時、今度は大賢者の反対隣に座るグリエ・ヨザックが、かなりわざとらしく大きな咳払いをして2人の気を引いてくれた。 「…申し訳ないですけど、猊下、隊長、こちらの皆さんが話が見えなくて困ってらっしゃいます」 どこかうんざりした顔で告げるグリエに、「ああ、失礼」と、少しも悪いと思っていないらしい少年がおざなりに謝罪した。 「で、と。何の話をしてたんだっけ」 「たこ焼きの…」 じゃなくっ! 「言行録を捨てろと、猊下が仰せになりましてー」 「ああ、そうだった。ありがとう、ヨザック。まあつまり……そういうことですよ」 「あ、あの、猊下」 それで終わられては堪らない、というか、訳が分からない。 「3000年前、の、食べ物はどうでもよろしいのですが、その…人物についてどうして猊下がご存知なのでしょうか?」 そうそう、それが聞きたいのだと、眞魔国の3名を除く全員が一斉に頷く。 「そりゃあ……知ってますよ?」 「だからどうして!?」 「うーん……こう言うと、妙な誤解をされそうだから嫌なんだけどー……」 イズイール・タファスは、僕です。 自分の顔を指差して、大賢者がニコッと笑う。 「……………」 「……………」 「……………」 「……………」 はあっ!!? たっぷりの沈黙の後に、間の抜けた大声が溢れるように響いた。 「……あ、あの、猊下……?」 「はい?」 「ハウシャン王国は3000年前に滅んだ古代の王国で、イズイール・タファスはその時代の人物、あの、魔族ではなく人間で……」 「分かってますよ?」 「それがどうして……」 言いながら、同意が欲しくて周囲を見回せば、同志友人身内達は皆、大賢者をひたすら怪訝な表情で見つめている。 少年が、「うーん」とちょっと困ったように眉を寄せて唸った。 「意外と知られてなかったんだなー、僕のこと」 「我々魔族にとっては、あまりにも当たり前と申しますか、知っていて当然のことですので、取り立てて話題にすることもなかったということでしょうか」 「ですよねー。俺もいちいち人間に説明しなきゃなんて考えたことありませんしー」 大賢者、コンラート、グリエ・ヨザックの3人がどこか暢気に会話を交わしている。 「議場で僕が言ったこと、覚えておられますか?」 議場で大賢者が口にしたこと。 そりゃあもう、あまりに色々ありすぎて。それは一体。 「どの、ことで、ございましょう……」 「あの時、猊下は仰せになりましたな」 全員の思いを代表したはずのエレノアの質問に、だがその時、ふいに別の声が被さってきた。 ダード老師が隅の席から身を乗り出している。 「人の世を長く見てこられたと。この場に集う者の年齢を足したよりもまだ長くと、確かそのように仰せであったと記憶しておりますが……」 「そうですよ、ダード老師。その通りです」 「…っ、でも……」 一瞬頭を過ぎった考えを、まさかそんなと内心必死で打ち消しながら、エレノアが言葉を挟む。 「それではまるで、猊下が3000年も生きてきたかのような……!」 「3000年じゃありませんよ」 「え、ええ、もちろん左様で……」 「僕はかれこれ4000年、『人の世』を見てきました」 部屋に、何とも言えない沈黙が広がった。 それは、驚いたとか、呆れたとか、そんな感情も追いつかない、脳が思考を放棄した結果の沈黙、だったかもしれない。 「……4000年…生き続けてこられたと、そういう、ことでございましょうか?」 ある程度予測していたからか、頬をわずかに強張らせながらも、表情は一同の中で最も冷静なダード老師が確認するように発言する。 ダード老師以外は、まだ誰も反応することができない。引き攣った顔で、ただ呆然としているだけだ。 「魔族の肉体とは、そのように……」 「ああ、違いますよ、老師。そういう訳じゃありません」 笑いながら手を振る大賢者に、ダードが怪訝な様子で眉を寄せる。 「と、申されますと…?」 「僕はまだ10代ですよ。初めに言った通り、僕は陛下と同い年です。別にこの身体で4000年生きてきたという訳じゃあないんです。でも…魔族の肉体という点については議論の余地はありますね。実際ウチの言賜巫女は800年以上、人間なら10歳程度の姿で生きてますし、その前任の巫女もまだ生きていると聞いています。魔族の寿命はほぼ400年から500年ですが、理論上1000年以上保つのかもしれませんねえ」 急に。意識することを忘れていた「魔族」という存在と自分達との距離が、一気に遠くなったような気がした。 目の前の、何一つ自分達と変わらない姿の彼らが、何かとてつもなく不気味な生き物の様に……。 エレノアは、ハッとしたように首を小刻みに左右に振った。種族の違い、その特性の違いは、決して良し悪しで語るものではない。 「それでは」ダードが会話を続けている。「どういうことなのかお伺いしてもよろしいでしょうか? もしも、我らが伺っても良い事柄であるのならば、ですが……」 「ちっとも構いませんよ。先ほどウェラー卿が言っていたように、魔族であれば子供でも知っていることです。僕はね、老師、4000年前、初代の王、つまり眞王と共に眞魔国を建国し、『大賢者』と呼ばれた人物の魂と記憶を受け継いでいるんですよ。この4000年、ずっとね」 「ずっと、と申されますと、つまりそれは……」 「つまり、生まれ変わりを繰り返して、今日、こうしてあなた方の前に座るムラタ・ケンに到るまでの人々の人生の歴史を4000年分、全て記憶している、ということです」 「…! な、何と! それは……それは魂が不滅であるということでございますか!? 死しても、魂は滅することなく、また新たな肉体を得て、新たな生を送ると!? そして猊下は、その生命の変遷を、全て記憶なされておられると!?」 「僕の場合は、まあそういうことですね」 「それは………お伺いいたしますが、その、魂が滅することなく生を繰り返すのは、猊下に限っての奇跡なのでしょうか。それとも、魔族だけなのか、もしくは魔族であろうと人間であろうと変わりなく、この世に生きとし生けるもの全ての魂がそのようなものなのでありましょうか?」 「他の人のことは僕にも分りませんよ、老師。魂の生まれ変わりの歴史を全て覚えているという存在は、僕も僕以外、寡聞にして存じません。ああ、でも、知り合いに1人だけ、前世を覚えている人物がいます。彼の前世は魔族と人間との混血で、現在は人間ですから、少なくとも魔族だけということはないと思いますね。おそらくは、誰でもそうなのでしょう。ただ単に、覚えていないだけなんでしょうね」 「左様で、ございますか……。これは……この年になって、とてつもない宇宙の真理を知らされた思いでございます」 ほー……っ、とダード老師が体内の全ての空気を吐き出す様なため息をついた。 「まっ、待て! 待て待て待てっ!」 いきなり割り込んできたのはクォードだった。 まるで怒っているかのように顔を上気させ、眦を吊り上げている。隣に座るエレノアが、その怒声にビクリと身体を震わせた。 「そっ、それはつまりこういうことか!? お主はっ、身体を取り替えながら4000年もの間、生き続けてきたということなのかっ!?」 「うーん、だからそれが……」 「年老いて、身体が使えなくなればそれを捨て、新たな若い身体に乗り換え……それを繰り返してきたと!?」 古びた身体を捨て、新たな身体に宿る。身体を取り替えながら、生き直す。 そしてそれを…繰り返し続けてきた。……4000年もの途方もない年月を、そうやって生き続けてきた……! それがようやく認識できた瞬間、そして瞠った瞳が真正面に座る少年を捉えた瞬間、エレノアの背筋をゾクリとした震えが駆け上った。 その震えは……恐怖だ。 魔族と人間の違いなど、実際は感じたことなどなかった。あったのは、言い伝えと俗説と迷信と……。 コンラートを知ってから、そしてあの魔王陛下を知ってから、魔族と人間との違いなど、ないに等しいのだともう信じきっていた。 だが…。 違うのだ。 どれほど見た目が変わらなくとも、魔族と自分達人間とは、これほどまでに違う、全く違う、別の生き物、なのだ……。 エレノアの感じた恐怖は、エレノア1人のものではなかったのか、部屋に先ほどとは違う、ずしりと重い沈黙が広がった。 化け物……。 誰かが呟いた。誰かの声だが、それはその場に集う人間達の大半の、恐怖に慄く心が呟いた声でもあった。 ダン! 突如鈍い音が部屋に響いた。瞬間、人間達の凍りつくように固まっていた身体が、踊るように跳ね上がった。 「……っ、な、なに……?」 うろたえる人間達がやがて目にしたのは、大賢者の隣、傍らに置いた剣の先─鞘に納めたままの─を床に激しく叩き付けたコンラートの厳しい眼差しだった。 「…コ、コンラ……」 「我が眞魔国、貴き大賢者猊下に対し奉りての貴公らの無礼な言動は、そのまま新連邦に対する宣戦布告の事由となり得ると心得られよ!」 「! コッ…!?」 「猊下に対しての無礼は許さん!」 それまで感じていたものとは全く別種の恐怖が、人間達を襲った。 かつて大シマロンの軍勢に向けられていた殺気。エレノア達が何より頼もしいと、希望と期待と信頼を捧げていたコンラートの、峻烈な戦士の眼差し。 それが今、誰でもない自分達に向けられている。 「………あ……」 唇が、糊で塗り固められたように動かない。それを無理矢理こじ開けて、エレノアは何か、この場を取り成せる言葉を発しようとした。が、何も出てこない。 「あんまり皆さんを怖がらせちゃ駄目だよ、ウェラー卿」 くすくすと笑いながら大賢者が言った。 その声の軽さに救われたとは思えないが、エレノアの口から吐息が塊となって飛び出し、忘れていた呼吸が再開された。 「……しかし猊下……」 「昔はよくあったことだよ。この感覚には、今となってはむしろ懐かしさを感じるな。これまで、記憶の重さに耐え切れなくなって、この人ならと期待した人物に打ち明けたことが何度かあったけれど、結果は……大体こんなものだった」 ハッと目を瞠ったエレノアは、大賢者は意外なほど穏やかな眼差しで自分達を見つめていることに気づいた。 まるで自分がとてつもなく非道な仕打ちをしてしまったような、罪悪感のような、不可思議な、尖った爪に引っ掻かれるような痛みを胸に感じる。 「彼らが驚くのも、嫌悪するのも無理はない。人は己の常識や、もしくは常識と考える価値観から逸脱するものに対して、常に嫌悪を感じるものさ」 「猊下、そのような……」コンラートがきゅっと眉を顰める。「陛下が今のお言葉を耳にされましたら、何と仰せになるか……」 「うーん、怒るだろうなー。あのでっかい目を見開いて、そんなコトゆーな! って。だからウェラー卿、ここんトコは内緒にしといてよね? ヨザックもだよ?」 「猊下……」 大賢者を挟んで、コンラートとグリエ・ヨザックが顔を見合わせる。 そこへ。 「あの……申し訳ありません、お伺いしたいことがあるのですが」 若い声が、怯えるでも怖れるでもない、学生が教師に質問するかのような自然な声がその場に上がった。 その場にいる誰にとっても聞き慣れた声。 レイルだ。 全員の視線が一斉にレイルに向けられる。 「レイル君?」 まさしく教師そのものの態度で、大賢者が軽く手を挙げ、レイルを指し示す。 「はい、あの……すみません、上手く言えないのですが……僕、今お話された内容について、老師とクォード殿のそれぞれの、認識、というか解釈というか……その間に微妙に食い違いがあるような気がするのですが……」 何だと? クォードが怪訝な声を上げる。他の人間達、もちろんエレノアも、孫が何を言い出したのか分らずに眉を顰め、首を傾げた。 だが当の大賢者は、どこか嬉しそうに笑みを深めると、顔だけではなく身体ごとレイルに向き直った。 「レイル君、君はそれがどんな違いだと思うんだい?」 「はい。あの…」 言葉を捜すように、わずかに視線を迷わせてから、レイルは改めて大賢者に顔を、真っ直ぐに向けた。 「ふと感じたことですので、的外れでしたらお許し下さい。僕は……やっぱり老師とクォード殿の捉え方には根本的な違いがあると思います」 「だからそれは何だと申しているのだ!」 クォードが苛立った様に声を上げた。 それにレイルが落ち着いた様子で頷く。 「はい。猊下は先ほど、4000年前に眞魔国初代の魔王陛下と共に国を興された、『大賢者猊下』がおいでになられると仰せでした」 「うん。それが大賢者の初代だよ」 「はい」レイルが頷く。「その方から始まって4000年、猊下は転生の記憶を有しておられるのですね?」 「そういうことだね」 「クォード殿は、その初代の猊下が肉体を取り替えながら、延々4000年の間、生き続けてこられたとお考えなのではないかと思います。つまり、肉体が代わり、見た目が変わろうとも、4000年生きてこられたのは唯お1人ということになり、初代の猊下が、すなわち今ここにおいでになられる猊下ご本人である、ということになります」 「そうだね」 「その通りではないか」 大賢者とクォードの声がほとんど重なった。 「ですが、おそらく老師の捉え方は少し違うのではないかと思います」 そう言って、レイルはダード老師に視線を向けた。それを受け止めて、老師がにっこり笑って深く頷く。 続けなさい、そんな無音の声が聞こえたかの様に頷き返して、レイルは姿勢を戻した。 「老師は猊下のお言葉を伺って、こう考えられたのではと僕は感じました。つまり、記憶は代々受け継がれても、生きている人は、その時々で全くの別人なのではないかと……」 「意味が分らん。どうしてそうなるのだ!?」 どうしてそのような結論が導かれるのかと、クォードが声を荒げた。 「老師の疑問に対して、先ほど猊下はお答えになられました。魔族であろうと人間であろうと、肉体は滅しても魂は残り、また新たな肉体を得て生まれ変わるのだと。ただ、誰もそれを覚えていないだけなのだと。だとすれば、初代の大賢者猊下の魂を受け継いで生まれ変わった人物が、その魂のお力故か、前世を覚えていたことになり、それが4000年に渡って順々に受け継がれていった、ということになります。すなわち、猊下の4000年とは、1人の人物、初代の大賢者猊下が4000年間身体を取り替えながら生き続けてきた、ということではなく、魂は1つであろうとも、その時その時に生まれ変わった人々、今ここにおいでになられる猊下とも全く別人である人々の歴史であると、そのように老師は受け取られたのだろうと僕は思います」 「それは……」 言い掛けて、クォードは手を額に当て、何かを探るようにぎゅっと眉を顰めた。 ダード老師は笑顔のまま、「その通りだよ」と頷き、エレノア達はレイルの発言を反芻するように考えこんでいる。 「猊下のお言葉を伺って、僕も老師と同じ様に感じました。それで、思いました。僕も、お祖母様や皆も、実は何度も生まれ変わっていて、ただそれを覚えていないだけだとしたら。猊下がたまたまそれを覚えておられるからといって、その…申し訳ありません猊下、このような言い方をして……あの、猊下のことを怖がったり、気味悪がったりするのは全く間違っている、見当違いも甚だしいと思います」 パチパチパチ。 レイルに向かっていた視線が、今度は一斉に音の出処に向く。 大賢者がにこにこ笑いながら手を叩いている。 「ありがとう、レイル君。素晴らしい弁護だった。君は法律をやっても大成するんじゃないかな。一流の代弁人になれると思うよ?」 「ありがとうございます、猊下」 レイルの引き締まった表情が、ふっと緩む。その様を見ていたダード老師が、笑顔でうんうんと頷いている。 「……その2つの違いは……意味があるのか…?」 記憶とは、人生そのものであろう。それを受け継いでいるということなら、同じ人物だと思ってどうしていけないのだ? クォードの疑問に何人かが首を捻った。 「………違う、でしょう」 きっとものすごく違う。まだ理解できているとは思わないが、感じたままにエレノアはそう呟いた。 「私も…そう思います。……あの人に畏れを感じなくなったとは…言えませんが……」 いつの間にかエレノアの後に立っていたカーラが、祖母の声を聞きつけたのだろう、そう言った。 エレノアの同僚達は、ある者は頷き、考え込み、それぞれが複雑な表情を浮かべている。 「別に君達に気味悪がられるのが嫌だからと言う訳じゃないが」 人間達のかすかな声に頓着した様子もみせず、大賢者が全員を見回して言った。 「僕はムラタ・ケンだ。陛下と同い年、まだ10代の子供だ。それがこうやって偉そうにしていられるのは、4000年分の記憶があり、それが僕の智慧や知識の源となっているからだ。だが、僕は初代ではない。イズイール・タファスでもない。彼らの記憶はある。物心ついた頃から死のその瞬間、全てが暗黒の中に消えるまで、全て己のものとして覚えている。僕は、僕達は、初代から自分自身に到るまでの記憶を全て受け継いできた。僕に到って4000年だ。だがそれでも、僕は僕、ムラタ・ケン以外の何者でもない。老師とレイル君が理解してくれた通り、僕は、初代や他の、同じ魂を受け継いで生きてきた人々の誰の人生をなぞるつもりもないし、受け継ぐ気もない。僕は僕の、このたった一つの人生を生きる」 「ですがそれは……」 間髪入れずに続いた声に、大賢者がスッと視線を向けた。 ダード老師が、思わず零れてしまった言葉を抑える様に掌で口元を押えている。 「老師?」 「……申し訳ありません、猊下。お言葉を伺っている内に、ふいに思いついたことが口から飛び出してしまい……」 「構いませんよ? それは、何です?」 「それは……」 老師が珍しく逡巡を露にする。だが、やがて意を決した様に顔を上げ、大賢者の瞳を覗きこむように見つめて言った。 「お伺いいたしますが、生まれ変わりを果たしても、以前の人生の記憶をなくさずに延々受け継ぐというのは、それは初代のお方のお力なのでしょうか、それとも、初代のお方がそうありたいと望むことによって実現されたものなのでしょうか」 「初代は」笑みをどこか皮肉なものに変え、大賢者が答える。「そんな力は持っていなかったし、望みもしなかった。望んだ者がいたとすれば、それは…眞王だ。だからこれは、何かの恩寵でもなければ奇跡でもない。むしろ……呪いだよ」 眞王が掛けた、ね。 猊下…!? 大賢者の述懐に、コンラートが驚いたように声を上げた。グリエ・ヨザックも驚きに目を見張っている。大賢者のこんな言葉を耳にしたのは、コンラートもグリエも初めてだったのかもしれない。 「これは……お許し下さい、猊下」老師が恭しく頭を下げた。「猊下のお言葉を伺いまして、ふと思ったのでございます。もしも、もしもクォード殿の解釈が正しく、初代のお方がすなわち猊下ご本人であられるのであれば、この4000年は、生まれては滅びる人の儚い生命をひたすら見つめているだけの、ただただ孤独な年月であられただろうと」 「へえ…? それで?」 「ですが、そうでないのならば。生まれ変わる度、否応なしに多くの、自分とは関りのない赤の他人の人生の記憶を背負わされ、それを忘れ去ることもできぬまま、ほとんど永遠に近い年月繰り返し、積み重ねていかねばならないとするならば。あなたのように……」 大賢者を見つめる老師の眼差しが、その時初めて、崇敬すべき「賢者」から、年相応の「少年」を見る老人のそれに変わった。 「まだ10代という若さでありながら、4000年の間に生まれ、生きた人々全ての、膨大な量の人生の労苦を、哀しみや後悔や涙を、己のものでも、責任もないのに背負わねばならないとしたら……。それは孤独などと一言で済むものではございますまい。まさしくそれは……」 地獄だ。 ダードが言い切れずに呑み込んだ一言が、エレノアの脳裏に閃くように浮かんだ。 多くの他人の人生の記憶を背負わされて、その人物は己の人生を愉しめただろうか。そんな人物にとって、充実した幸福など存在しえたのだろうか。 幾つもの幾つもの、それぞれ全く別人の人生の始まりから終わりまで、幸も不幸も、光も闇も、全てを己の記憶として植え付けられて、少年が無垢な時代を過ごせるはずがない。親の愛も友情も愛情も、純粋に信じていられるはずがない。物心つく頃には、人の心の裏表の様々を、否応なしに思い知らされているのだから。 初代から後になればなるほど、その人物の人生はどんどん幸福から掛け離れていったはずだ。 そして……心は冷たく凍えていったはずだ……。 「初代が眞魔国を離れてから4000年、誰一人として眞魔国に戻ることはなかった」 唐突に始まった物語に、エレノアは物思いから覚めたように少年に目を向けた。 「僕が、4000年に渡る魂の彷徨の果てに、初めて魔族の国に、魔族として戻ることができたんだ」 シブヤ・ユーリ、陛下と出会えたから。 ああ。 何かが胸にすとんと落ちる。そんな心地で、人間達は大賢者を見つめている。 「僕は、僕達は、ずっとずっと、何もかも話せる人が現れるのを待っていた。秘密の重みに折れそうになって、実際……折れてしまった者もいた。自ら命を断った者もいる。それで解放される訳じゃないことは分っていたはずなのにね。そして、この人ならと思い定めて打ち明けて、悪魔の使徒と呼ばれて火あぶりにされそうになった者もいる。その果てに僕は生まれ、そして……彼に出会った」 まだ幼児だったんだけどね。笑って少年が言う。 「騒々しい変なヤツって思ったよ。その後も、印象は大して変わらなかった。僕とは全く共通点がないし、親しくなることなんてないだろう、というか、親しくなりたいとも思わなかった。なのに……僕は自分でも信じられないくらい、どんどん彼に惹かれていった」 大賢者の両隣に座るコンラートとグリエ・ヨザックが、どこか張り詰めた、真剣な眼差しを少年に向けている。 「そうしてある時、僕は知った。彼が、僕の王であることを。でも、その時にはもうとうに、彼は僕の心の大切な部分にしっかり居座ってしまってたんだけどね。でも、彼が魔王となるべき存在だと知ったときは……嬉しかったな。大賢者の魂を受け継いできた者は皆、それぞれ性格が違っていたけれど、自分という特殊な存在ならではの力を捧げる相手を、唯一の存在と出会えることを、心の底でずっと待ち望んでいたから。それにシブヤ・ユーリ、彼なら、僕の秘密を受け止めて、でも僕を見る目を少しも変えずにいてくれるんじゃないかって、淡い期待をしていた時だったから。そして……事実、彼は救ってくれた。僕1人じゃない、死してもなお解放されない4000年分の人々の、僕達全員の、果てしない……孤独から救い上げてくれた。だから彼は、陛下は、掛け替えのないなんて言葉では到底言い表せないほど僕にとって、僕達にとって大切な人なんだ」 だから話が最初に戻りますけど。 大賢者がエレノア達をぐるりと見回して言った。 「今後、陛下を傷つけたり、苦しめたりすることがあったら、僕は絶対容赦しませんよ? 恨む相手が欲しければ、僕にして下さい。良いですね?」 言葉もなく。エレノア達は、4000年培ってきた智慧の持ち主であり、同時に紛れもない10代の未成熟な少年という、切ないまでに矛盾した「大賢者」を見つめていた。 友情とか恋愛とか、そんな言葉で表現することのできない、いや、表現する必要のない、深くて深くて強い愛。 世界の何を敵としても、世界を滅ぼし、その血と怨みと憎悪を一身に浴びたとしても、微かも揺らがぬ想い。 ……魔王陛下を自らの傀儡とし、事実上の最高権力を得ようとしているのではなどと、知らなかったとはいえ、何と浅薄な、底の浅い発想に捉われていたことか。 非情であるとか、冷血であるとか、そんな低い次元の話ですらなかった。 この少年の、4000年に渡ってその魂を雁字搦めに縛り付けてきたに違いない、絶望的なまでの孤独、そしておそらくは恐怖。そこから彼を救ったのが、あの魔王陛下であるのならば。 ……今、自分達は彼にどういう言葉を掛けるべきなのだろう。 ふと思い、それからエレノアは胸の内でそっと首を左右に振った。 彼の魂の彷徨は途方もない時間の中にあり、自分達ごときに到底理解できるものではない。まして同情や哀れみなど。 それはほとんど、神を哀れむのも同じではないか。 ああ、そうか。 ふいに納得してしまった。 「……ですから猊下は猊下でいらっしゃるのですね? 聖職者であるというのは、そういうことでしたか」 あまりに唐突だったからだろう、一斉に怪訝な瞳が向けられたのが分った。 大賢者自身も一瞬きょとんと目を瞠る。だが何か思うところがあったのか、それとも単にエレノアの発言が可笑しかったのか、急にくすくすと笑い出した。 「初代も決して宗教家ではなかったのですけどね。どちらかというと、彼は学者だったのですが……なぜか次第に、大賢者すなわち聖職者となってしまったんですよ」 魔族にとって、彼は「生ける神」なのだ。 魔王陛下と同等に並ぶということは、即ち世俗の権威ではなく、魔王陛下と同じ程強い、だが全く種類の違う、畏敬や崇敬の念を抱かれているということだ。 「陛下とお会いして、4000年ぶりに眞魔国にお戻りなされたとのことでしたが……」 常に好奇心が旺盛で、それを満たすことに躊躇いのないダードが、ふいに大賢者に質問を始めた。 「ええ、そうですよ」 「では、それまで猊下は人間の国に、人間としてお生まれになっておられたのでしょうか?」 「ほとんどそうでしたね。ただ、魔族と無縁の人間だったことはあまりありません。大抵はどこかで魔族の血が混じっていたと思います」 「お戻りになられた時は、感慨無量であられたでしょうな?」 「そうだなあ……」ちょっと考え込むように小首を傾げてから、軽く肩を竦める。「少しは、ね。でもそれよりも、シブヤ…陛下と一緒に、王である彼の力になれるということの喜びの方が大きかったから。それと、ここではもう自分を誤魔化さなくても良いということも嬉しかったな。それまで僕は、大賢者としての能力を1度も表に出したことはなかったし、自分自身も年相応に見えるように、常に仮面を被って生活しているようなものだったからね。それにすっかり慣れたつもりだったけれど、もうそんな必要なないんだって、ありのままの自分でいて良いんだって自覚した時の解放感は大きかったな。陛下はもちろんだけど、眞魔国では大賢者が大賢者として力を振るうことは当然のことだったしね。ここにいる彼らも」 そう言って、大賢者は軽く手を挙げ、両隣のコンラートとグリエ・ヨザックを指し示した。 「大賢者である僕がとことん偉そうにふんぞり返っても、何を命令しても、それはもう大歓迎してくれましたしねー。遠慮は無用、何でも命じて下さい、命を懸けて従いますという思いをいつも全身から溢れさせてくれて、僕は大満足してるんですよ」 コンラートとグリエ・ヨザックが揃って、「えええっ!?」とばかりに顔を引き攣らせ、それからパッと顔を背けた。 2人が2人とも口を押さえているのは、「そんなモン、溢れさせた覚えはありません!」とか「ちょっとは遠慮してください!」とか、今にも迸りそうな言葉を必死に抑えているからだろう。 心の悲鳴を聞いてしまった人間達は、今できる精一杯のこと、すなわち全員揃ってそうっと視線を外したのだった。 「……あの」 そこで、ふいに遠慮がちな声が上がった。レイルだ。 「申し訳ありません、猊下。よろしいでしょうか」 「良いよ、レイル君。たぶんもうこんな機会はないだろうし、この際だから聞きたいことがあるなら全部言っちゃって」 「はい、ありがとうございます」レイルが嬉しそうに頭を下げた。「あの、猊下は先ほど、自分の力を捧げることのできる存在を求めておられたと仰せでした」 「うん。やっぱり培ってきたものが並みじゃないからね。せっかく生まれてきたんだから、それを役立たせたいじゃないか。でもつまらない相手のために努力するなんてゴメンだし。そういう点で僕はこの4000年の中で、一番幸福な『大賢者』だと思うよ」 「イズイール・タファスもそうだったのですか?」 「え?」 「イズイール・タファスは摂政として王を輔けました。それはハウシャンの王が、大賢者の力を捧げるに足る人物だったからでしょうか? 僕も子供の頃からハウシャン王国の物語や言行録を読んできましたが、当時の王は凡庸な人だったという話でしたので……」 「ああ…」 応えてから、大賢者は難しそうに眉を顰めると、深々とため息をついた。 「あの国王はねー…。まあ、イズイールが摂政位に就く事を承知したのは、彼の能力云々じゃないんだよね」 「え?」 「まー……押しの強さと粘り勝ち? みたいな……?」 え? コンラート達を含め、全員がきょとんと目を瞠る。 「あの時はねえ……」 遥か遠い過去に紡がれた幻影をゆっくり追うように、大賢者の眼差しが遠くなった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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