「どこの宮廷でも幅を利かせる名家ってのがあるもので、ハウシャンにも八公家と称される家があったんだ。呼び名の通り八つの大貴族で、王が代替わりすると、この家の主が摂政、もしくは宰相になるのが慣例だった」 3000年もの昔の、教養のある大陸人なら誰でも知っている著名な人物の、だが伝説でもなければお伽噺でもない「実話」のお披露目とあって、集まった人々には改めてお茶とお菓子が配られた。 ほんのわずか前とは全く違った雰囲気の中、全員が大賢者の語りに真剣に耳を傾けている。 「ハウシャンってのは、今もないわけじゃないけど、王が祭祀の長という国でね。政治は摂政や宰相が中心となって執られることがほとんどだった。これが八家持ち回りというならさほどの問題は起きなかったんだが、実際のところ泥沼の暗闘の果てに決定するのが常だった。宮廷の貴族達はほとんどが八家のどれかの派閥に所属していて、自分の家の未来を八家の当主に託し、暗闘に積極的に参加していた。派閥が勝利し、働きを認められれば家の未来は明るい。もちろんイズイールの家もそうだった。だから、王が亡くなったという報せが入った時、イズイールが奮起したかといえばそうじゃない。彼がしたのは、うんざりとため息をつくことだった。これからしばらくの間、宮廷は騒がしくなるし、もしかすると何人か闇に葬られるだろうし、その間、民はほったらかしにされる、そう考えてね。イズイールは『大賢者』の意識が強くて、ハウシャンへの帰属意識が薄かったんだ。正直、忠誠心も愛国心もさほど持ち合わせていなかったね」 「では、イズイール・タファスが最初から摂政候補になっていたわけではないのですね?」 質問したのはコンラートだったが、大賢者はそこで「もちろんだよ」と笑った。 「王を除けば、国政の頂点に立つのはあくまで八家の主なんだ。これはもう絶対でね。彼の家は中の上か上の下、という程度の家柄だったし、イズイールが優秀な人物であることは知れ渡っていたけれど、彼はまだ20代の後半という若さで父親も健在だったしね。支持する八家の主が勝利すれば、イズイールもそれなりの地位を約束されただろうが、彼自身は今も言ったような理由でハウシャンでの権力に何の魅力も感じていなかった」 「イズイール・タファスの、『大賢者』としての自覚がそれほど強かったということですね?」 俺、ほとんどインタビュアーになっているなと思いつつ質問を続けるコンラートに、大賢者が今度は「そういうこと」と頷いた。 「何せ3000年前だろ? あの頃の僕、じゃない、彼、は、まだ色々夢を持っていたからねえ。眞魔国に帰りたい、眞王陛下と再会し、眞魔国のためにこそ働きたいなんて考えてたんだから。……あの頃はまだまだ純情だったんだなー」 4000−3000=1000。そうか、「大賢者」の純情って、消費期限1000年もあるんだ。……で、今は? ふと思ったが、思ったことは心に秘め、コンラートは「なるほど」と頷いた。 「で、こんなしょーもないゴタゴタに巻き込まれるのはゴメンだってことで、イズイールは国を出奔することを決意した」 おお!? と人間達から声が上がった。かの名宰相が、当初地位を嫌って国を出奔しようとしていたなど、当然ながら伝記には書かれていない。 「幸いイズイールの家には弟がいて、これはまあイズイールほどではないけれど、宮廷の謀略の海を泳ぎ切って家を保つくらいの才覚はあるだろうと踏んでね、イズイールは荷物を纏めて眞魔国に向かうことにしたんだ。あの頃、魔族と人間の国の間では小競り合いはしょっちゅうで、人間が単身眞魔国に向かうことは危険だったんだけど、とにかく眞王廟に入りさえすれば、いや、眞魔国に上陸しさえすれば、大賢者が戻ったことを巫女達は察知してくれる。何も問題はないと考えていたんだな。ところが、だ」 ふんふんと、お茶を飲むのも忘れて、人間達が大賢者の物語に聞き入っている。 「出奔の準備はすっかり整った。後は密かに出国するだけ、というある夜、イズイールを訪ねてきた人物がいた。召使に呼ばれてイズイールが玄関に出てみると、そこには……王太子がいたんだ。マントで身体を覆って、供も連れずにたった一人で」 『間もなく王になろうというお方がこのような真似をなされるのは、少々感心致しかねますが……』 『すまぬ。だが……そなたが家にいてくれて良かった。どうしても話したいことがある。良いか?』 良いも何もない。王太子を玄関先で立たせておくわけにもいかない。イズイールは王太子を家に招きいれた。 『それで、如何なされましたか?』 『うん。実はそなたに頼みがあって参ったのだ。イズイール、そなた、私の摂政になってくれぬか?』 一瞬ぽかんと口を開けてから、イズイールはため息をつき、髪に手を突っ込んで掻きまわした。 考えてみればかなり無礼な態度だったのだが、イズイール・タファスは元来身分や地位に頓着していない。周囲からは「優秀なのは認めるが、かなりの変人」と評判だ。なので己の無礼は棚に上げて、王太子に向かって身を乗り出し、言った。 『あなた、おかしいんじゃないですか? 一体、何をお考えなのです? 私の家は八公家ではありませんし、私は当主でもありません。私が摂政になれるはずが……』 『そなたは一番大切なことを失念している。摂政を任命するのは、この私だけの権限だ』 『それは……』 その通りだ。 だが、摂政もしくは宰相は八家の話し合いの結果─暗闘の結果ともいう─選び出され、その人物を王が任命することは、慣習として百年以上続いている。。 八家の決定を飛び越えて、王が自ら摂政を選ぶことはできないのだ。八家の力はそれだけ強い。 『それでも、それは私の権限なのだ。私がそうすると決めれば、誰であろうと逆らうことは許されぬ』 『それはー……そうですが』 あなた、下手したら殺されますよ? 言い放った言葉は、『そこが問題なのだ』と、生真面目な顔で受け止められた。 『だからそうならぬよう、そなた智慧を出してくれ』 『……それも私にやらせるんですか?』 『摂政だからな』 『決まってませんけど』 『ハウシャンの王である、いや、王となる私がそう決めたのだ。私の即位と同時にそなたは摂政になる。……私が暗殺されるとなれば、そなたも同様であろう。我らはすでに一蓮托生。お互い生き延びるために力を合せようではないか』 『……お断りしたいかなって…』 『そなたに決めたと、先ほど城で口にした。色々居たから、誰かが誰かに既に注進しているであろう。嫌だと言っても、もう遅い』 『……あなたねえ……』 『イズイール』 次の瞬間、立ち上がったと思った王太子は、いきなり床に手をつき、床に擦り付ける様に頭を下げた。 『でっ、殿…っ!?』 『どうすればそなたに受け入れてもらえるか、ここしばらくずっと考えてきた』 床に手をついたまま、王太子が顔を上げ、イズイールを見上げた。 『金も領地も、それこそ傾国級の美姫を差し出そうと、そなたは嫌となれば絶対に拒絶するであろう。ではどうするかと考えて考えて、行き着いた答えは結局、誠心誠意頼む以外にないのだと思い至った。イズイール、頼む。そなたも知っての通り、私に国を治める力はほとんどないに等しい。いや、ない!』 『自信満々に断言してどーすんですかっ!?』 民が哀れだ。 いきなり。泣きそうな声で王太子が言った。実際、泣いていたのかもしれない。 『こんな王を戴かねばならぬ民が哀れでならぬ。だがそれでも、私以外に王になる者はいないのだ。だからせめて、少しでもまともな政がなされるようにしたいと思う。そのためには、イズイール、そなたの力が必要なのだ。八家とその周辺の、脂ぎった欲望に塗れた連中ではなく、権力に見向きもしない変人で、なおかつ逸材と国師達が絶賛するそなたの力が。イズイール、頼む。私のためではなく、民のために、どうか摂政の位に就く事を了承してくれ!』 頼む! 再び頭を、床に打ち付けるかのように下げる王太子の姿をまじまじと見つめて、それからイズイールは深々と、ほとんど絶望的なため息をついた。 『あなた、本当に王の素質はないみたいですねえ』 だってそうだろうが。 いくら頼みを聞いて欲しいからって。 『王が自分の摂政に、傾国の美女を贈っちゃ駄目でしょうが』 「それで、彼は摂政位に就く事を承諾したのですね?」 コンラートの言葉に、大賢者が頷く。 「そうなんだよ。まあ……初代からまだ1000年だからね。若いっていうか、甘いっていうか、人間が丸いというか、結局王太子の必死の願いに絆されて、摂政になることを承諾したんだ。……それからが大変でね」 「やっぱり暗殺されかかったとか?」 純情の消費期限は1000年で、人間性の賞味期限も1000年で……。だから今は? 質問したコンラートに、大賢者が「そうなんだよ!」と声を高めた。 「ったく、芸がないっていうかさ。殺されるのは癪だから、僕も、いやいや、イズイールも徹底抗戦することにした」 「というと」 「八家とそれに寄生する取り巻きの家を、全部潰すことにした」 ひゅう。ヨザックが小さく口笛を吹いた。大賢者越しにコンラートがチラッと睨むと、ニヤリと笑い返してくる。 とにかく当時の宮廷は酷いもんでね。 しみじみと大賢者が言う。 「八公家ってのは、ウェラー卿やヨザックは気がついているだろうけど、我が国の十貴族と同じ様なものでね。でも、王に対する敬意って点では、十貴族の方が遥かに篤い。八家にとって王は国の看板程度の存在でしかなかった。古くなれば付け替える。いらなくなれば捨ててしまう、ってね。人材という点でも、八家からまともな為政者が出た例はない。言ってみれば、シュトッフェルが8人いて、ひたすら権力闘争の歴史を繰り返すだけ、って感じかな」 「……想像するだけで絶望的な気分になりますね……」 「それでどうやって国を治めてたんですかぁ?」 コンラートが天を仰ぎ、ヨザックが不思議そうに質問をする。 「上がろくでなしな分、下がしっかりしてたんだね。実際、八公家とその側近クラスの取り巻きはどれもこれも話にならない連中ばかりで、派閥同士の争いもすごかったんだけど、その下になるとね。政の現場にいれば、そんな権力争いがどれだけ不毛か良く分かる。違う派閥同士でもちゃんと人脈を作って、協力しあうことが当然になっていたんだな。時代時代にはそこそこ有能な人物もいて、何とかかんとか国をもたせていたんだよ。イズイールの生きていた時代で、すでに300年ほどの歴史があったから、まあ、皆がんばったよね。……そういや、ハウシャンっていつ頃滅びたんですか?」 尋ねられたのはエレノアだ。 話に聞き入っていたエレノアが慌てて周囲に顔を向けると、レイルが軽く手を上げて応えた。 「レイル?」 「はい。ハウシャンは猊下が、あ、いえ、イズイール・タファスが亡くなってから150年ほどして隣国に攻め滅ぼされました」 「へー。結構もったんだなー」 「イズイール・タファス以降の宮廷は、大陸で最も安定した治世を敷いたと言われています。『摂政言行録』はかの国で『王たる者の書』と呼ばれており、以後この本が政に携わる者にとって必読の書と言われるのも、それがあったからだと……」 「それは単なる偶然だね」 「……………」 「話を戻そう。で、イズイールは八家全部をぶっ潰し、無能な大臣や官僚を叩き出し、周辺の国とも折り合いをつけ、摂政の仕事を全うしました。とさ」 以上。 宣言すると、途端に「ええ〜〜っ!?」と不満の声が部屋に溢れた。 「猊下、それはあんまりでございますわ!」 エレノアも思わず声を上げる。 「そのような王と宮廷をどう整えられたのか、ぜひご教授下さいませ!」 そうだそうだと、人間達から一斉に声が上がった。 「猊下はこの際だから何でも聞けと仰せでした。ぜひお聞かせ下さい!」 レイルも一緒になって訴える。 今度は大賢者が「ええ〜」と面倒くさそうに唸った。 「何だか僕がここにいる理由が、本来のテーマからどんどんズレてるような気がするのは……」 「気のせいじゃありませんが、仕方ないんじゃないですか?」 始められたのは猊下ですし。 コンラートに軽く窘められて、「僕が始めたわけじゃないよ」と一応反論してみる、が、すぐに諦めたように大賢者は肩を竦めた。 「別に大層なことはしてないよ。その頃宮廷を牛耳っていた八家とその親派ってのは、どれもこれも僕とは、ああまた間違った、イズイールとは頭の出来が天地よりも掛け離れていたんだからね。つまり、イズイールは彼らの主だった者1人1人の特性を調べて、それを利用したのさ。猜疑心が強い者、嫉妬心が強い者、嗜虐心の強い者、陰謀を巡らすのが好きな者、色々いるわけだ。まあ、こういう派閥の中心には、無欲な者とか懐の深い者なんてのは絶対いないんだけどね。イズイールはただ、その1人1人が最も自分らしい道を選ぶように誘導していっただけなんだ」 「誘導…ですか?」 「そう。例えば猜疑心の強い者には、信頼する部下や周囲の仲間が裏切ろうとしているという情報を、さりげなく耳に入れる。しかもそれを配下の者だけでなく、宮廷の使用人や女官や兵士、町の情報屋、そいつが出入りする遊女屋といった、中枢ではないが、どこよりも確実な情報を逸早く収集する人々の口を通して多方面から耳にいれるんだ。そうすると、情報通を自認する者であればあるほど、そして猜疑心が強い者であれば尚のこと、それを信じる。そしてそれを1つの派閥の少なくとも三者同時に仕掛ければ、先ず間違いなく殺し合いになる」 「どうして三者なのですか?」 「同じ派閥に属する者同士でも、欲深な連中は勢力争いを忘れないからね。誰かと誰かは必ず反目し合っているものだ。だが反目し合う2人が争いを始めると、誰かが必ず仲裁に入る。自分達は味方じゃないか、共に一族の繁栄を目指そう、仲良くしようって綺麗ごとを口にしてね。本来敵同士でない以上、そこで終わってしまうことがほとんどなんだが、3人以上が争うことになると、面白いことがおこる」 「面白いこと、と仰せになりますと……?」 「君ねえ」大賢者がコンラートを見上げた。「君だって大シマロン相手にイロイロ謀略を仕掛けてきたんだろう? 質問するばっかりじゃウェラー卿の名が廃るよ?」 「……申し訳ありません。つい…」 「ついうっかりを言い訳にするのはいい加減止めろと言ったはずだよ。ヨザックは? 何か思いつくかい?」 言葉に詰まってしまったコンラートを放って、大賢者が反対隣のグリエ・ヨザックに顔を向けた。 話を聞く一方だったグリエは一瞬驚いたように目を瞠ってから、「あらやだ、猊下〜」と道化て見せた。 「グリ江ったら陛下のお庭番ですもん。陰謀なんて全然縁がありませんから分りません〜」 「才能はあると思うよ?」 「……そ、そうですか〜……?」 八家の主くらいになると、実体とは関係なく、自意識がかなり肥大しているんだよね。 複雑な表情のヨザックをスルーして、大賢者が解説を始めた。 「自己を過信しているんだ。自分1人でも国を背負っていけると、勘違いしている。だがその下にいる者はね。自分1人では何もできないことを自覚しているから、常に自分より力のある者に頼ろうとするし、とにかく仲間と寄り集まろうとする。だから反目する相手と争うにしても、1対1で戦うことができない」 ああ、と納得したようにコンラートが頷く。 「パワーバランスですね?」 エレノア達には理解できない言葉を発したコンラートに、大賢者がニッと笑う。 「頭が働いてきたかい? そういうことさ。3人に限ったことじゃないが、下っ端の悪党ってのはこういう時、無意識に力のバランスを取ろうとするものだ」 「では、3人以上とは言っても、偶数では駄目ですね」 「そういうこと。1人が嫌われ者でない限り、4人では2対2になり、6人では3対3になろうとする。となると、力が均衡してしまい、動くに動けなくなり、そうこうしている内にまた仲裁者が現れてしまう。奇数、つまり3人、5人、7人を相手に仕掛けると、どうバランスを取ろうとしても1対2、2対3、3対4となる。すなわちパワーバランスが崩れるわけだ。というか、そういう形で分かれようとする面子を選ぶんだけどね。とにかくそうやってバランスの崩れた形が出来上がると、一気に事が動く。与えられる果実の数が決まっているとすれば、それを享受する人数が少ないに越したことはないってことくらい、頭の悪い連中だって分かってるからね。一旦対立が表面化した以上、もう元には戻れないと彼らは考える。そして、この際目障りな相手は潰してしまおうとなるわけだよ」 「ですが少数派になったグループは、戦いを避けようとするのでは?」 「そう思うだろう? ところが少数派はよほど理性的なメンバーがいない限り、仲裁を求めようとしないんだ。なぜなら、もし力の均衡が崩れた状態で仲裁が入ると、不利な立場のグループは譲歩を余儀なくされてしまうからだ。欲が邪魔して、理性的な判断ができなくなるんだな。もっとも、まともな理性を備えた人物にこんな策を仕掛けたりしないからね。大抵はろくでなしだ。彼らはむしろ、相手の準備が整う前に一気呵成に事を為そうと動き出す。だからこういう場合、得てして少数派が暴走することの方が多いのさ。となれば、こちらはそっと油を注いで派閥内の争いをさらにけしかければ良い」 「それぞれの性格に合わせた策を、多方面から仕掛けるわけですね?」 「そうそう。あの時代だから、争いは陰湿に毒の盛り合いになるか、じゃなきゃ家の子郎党引き連れてぶつかり合う、ってことになるんだ。で、こっちとしては、責任者を残す程度に殺しあってもらって、残った者を殺人と騒乱とついでに反逆の罪をおっ被せて捕らえて、家ごと潰しちゃうわけだね。まあこれは一例だけど、簡単に言うとそんな感じ」 「なるほど、大変よく分りました」 ……頭が痛い。 エレノアは目を瞑って額に手を当てた。 良く分からない用語がいくつもあったが、これは……いわゆる離間策だろう。 人格者だという高い歴史的評価が定着しているから、宮廷が治まったのも高潔な人柄ゆえだと当然のように信じてきたが……。実はこうやって策謀を繰り出し、イズイール・タファスは宮廷に巣食う勢力を一掃したわけだ。 ……人間が甘いとか、丸いとか、誰が言ったんだろう。………あ、本人か。 「あ、あの…」 おずおずとレイルが手を、学び舎の子供の様に上げる。 「僕、イズイール・タファスの人柄が宮廷の人々を心服させたのだと……学んだのですが……」 「なわけないだろ?」 まだ若い分、口に出して確認せずにはおれないのだろう。エレノアは孫の心情を思いやって、しみじみとため息をついた。 そして予想通り、大賢者が人々の夢と憧れを地に叩き落す。 「君だって宮廷で育ってきたんだろう? だったら権謀術数渦巻く宮廷、貴族の生態というものがどんなものか、大体分かっていてもおかしくないんじゃないかな? どれほど高潔な人格者だろうと、いや、高潔な人物であるからこそ、そんなモノが自分達を脅かすことを『宮廷』は許さないよ。どれだけイズイールが高潔にして有能であろうとも、何もしないで治められるほど貴族社会、そして政は甘いものじゃない」 それでもイズイールが人格者であることは否定しないのか……。エレノアは内心で何度目かのため息をついた。 「ウチの陛下を思い浮かべてご覧よ。もし人柄だけで世を治めることができるなら、今頃全世界が眞魔国の配下に下っているさ。どれだけ我等の陛下が天然…コホン、王者として天性の資質をお持ちであろうと、魔族への偏見をなくし、人間との共存共栄という理想を実現するのはなかなか難しい状態だからね。夢を砕いて申し訳ないが、そんな非現実的な偉人の伝説をありがたがって座右の書にしても、実際何の役にも立たない。政の中心にいる君達は、誰よりもそれを認識していなければね。だから最初に言っただろう? そんな本、さっさと捨ててしまうことだ」 「……は、はい……。あの、猊下」 「何だい?」 「イズイール・タファスが、宮廷を治めるまで、何を考え、何を求め、どう動いたのか、詳しく教えていただくことはできませんでしょうか。僕、それほど混沌とした宮廷を抑えて、ついには歴史に名宰相として名を残したイズイール・タファスについて、いいえ、善き政を為し得た人物全てについて学びたいと思います。猊下、どうかお願いします。イズイール・タファスの人生について、僕に教えて下さい!」 勢い良く頭を下げられて、大賢者はちょっと困ったように眉を寄せ、軽く首を傾けた。 「その気持ちは分かるというか、僕としては結構嬉しいんだけど……時間が掛かりすぎるなあ。1日や2日じゃ終わらない気がするし……。うーん」 「申しわけございません、猊下」思わずエレノアが口を挟んだ。「レイル、猊下はお忙しいのですよ? あなたの勝手な希望で、猊下のお仕事を邪魔してなりません」 「…あ……申し訳ありません……」 頬を赤らめて、レイルが頭を下げる。 肩を落すその姿を目にして何を思いついたのか、大賢者が「もしかすると…」と呟いた。 「猊下?」 「うん……確か、遺跡があるって誰か言ってましたよね? イズイールの邸跡も残っているとか…」 「ございますわ」エレノアが頷いた。「王や為政者にとって聖地のような場所ですので、大切にされております」 「邸の中庭に柱が4本、あったんだけどな…。人の背丈ほどの高さで、上にそれぞれ動物や鳥の頭を象った彫刻が飾られている……」 「ありますわ。イズイール・タファスの邸跡のいわば象徴のようなものです。これだけは補修もされてきちんと残っていたと記憶にございます」 「3000年前の、元のものが残っているんですか?」 「…さて、それは……。私が訪れたのは、まだ王位に就く前のことですし……。どなたかご存知でしょうか…?」 顔を見合わせる人間達は、いずれも自信なさ気に首を傾げている。 「その地方に、3000年前の都と有名な人物の邸跡がある、ということしか知らんな。俺はそんな昔の歴史などに、あまり興味はないし、訪れたこともない。それで?」 それが何だと言うのだ。クォードが苛立った声で言った。 「うん、実はね。その4つの柱の下に、空洞があるんだ」 「くう、どう?」 「正確に言うと、石造りの部屋だね。あの頃は、国家間はもちろん、内乱も良く起こる時代だったからね。貴族の邸には秘密の隠れ場所や通路、大切なものを隠しておく場所なんてのがあちこちにあったんだよ。その石室も同じなんだ。4本の内の1本、鷲頭の柱の下にある石畳を幾つか剥がすと、そこに地下に通じる隠し扉がある。それを開いて、続く階段を下り、向かった先にその隠し部屋、石室がある。そこにイズイールは覚書を隠したんだよ」 「覚書?」 「イズイールが摂政になる下り、当時の国情や貴族達の実態、誰がどんな手を使って王と自分を暗殺しようとしたか、それに対して、イズイールが如何にして宮廷を粛清したか。そしてその後、どんな施策を立て、どんな外交政策を取り、次々に現れる政敵をどんな風に叩き潰し、どうやって国を安定させたか。まあ言ってみれば自分史ってヤツかな? 隠居して、家督も息子に譲った後に書き上げたんだけれど、イズイールはそれを石室に入れたんだ」 「何故ですか?」コンラートが不思議そうに尋ねる。「どうして隠す必要があるのです? 息子にでも伝えれば、役に立てたでしょうに」 「スキャンダル、つまり、醜聞が満載だったからだよ。それが万一世に出れば、それこそ人命に関る。何せほとんどが宮廷に渦巻く謀略の記録だったわけだしね。イズイールは、これが発見されたとしても、それは相当後のことだろうし、その頃には関係者もいなくなっているだろう、後のことは後の世の者の判断に任せよう、そう考えたのさ」 「あ、あの…っ」 思わず身を乗り出し、エレノアが割って入った。 「私、イズイール・タファスは己の王の御世に起きたことについて、一切口を噤んで語ることをしなかったと聞いておりますが……」 「だから書いたんじゃないですか」 「…………」 宮廷は醜聞に溢れている。だがそれについて、イズイール・タファスは生涯一切語らなかった。これこそ彼が人格者と呼ばれる所以だと、エレノアは信じてきた。 が……。 いつの間にか両のこめかみをくりくりと揉んでいる自分に気づいて、エレノアはハッと手を下ろした。 イズイールは切なかったんだよね。 どこか遠くを眺めるように、大賢者が言った。 「結局、一生をハウシャンに縛られてしまった。気軽に長旅のできる時代じゃない。年も取って、眞魔国も眞王も、想うだけの遠い存在のまま終わってしまう。悔しくて、切なくて、でも誰も恨めない」 「……国王に対してはどうだったんですか?」 「ああ、彼はね…。もし彼が、自分がイズイールを登用したからこそ善政が敷けた、自分が王だったからこそだと思い上がったとしたら……イズイールも適当なところで見切りをつけただろうね。でも……」 『……イズイール、そなたのおかげだ。そなたがいてくれたから、私は政の本道を外さずに済んだ。飢饉にも飢え死にする民はなかったし、戦も避けられた……。まことに…そなたには感謝している……!』 『陛下……』 身体を壊して床に就き、ついに王位を退いた主の手を握り、イズイールは忠誠心というよりは友情を込めてその名を呼んだ。 『そなたには苦労を掛けたな……。そなたが全てを引き受けてくれたから、私は民から善き王と呼んでもらえた。そなたが何もかも引き受けてくれたから……。嫌な仕事をさんざんさせてしまった。許してくれ……』 『何せあなたが何もできない人ですからねえ。引き受けた以上、私がやるしかないじゃないですか』 『全くだ。まこと、人には向き不向きというものがある』 『……だから、王ともあろうお方が自信満々にそんなこと断言しないで下さいよ』 『イズイール、私はもう王ではない。思うことを思うままに口にしても構わぬではないか?』 『……あなた、王様やってた時だって、思うままに大ボケ発言かましてたじゃないですか! 私がその尻拭いにどれだけ苦労したと思ってるんです?』 『そうであったかな?』 『そうですよ!』 お互いもう先はさほど長くないという年になった。互いの目を覗き込み、共に歩んできた日々を思えば、今はただ笑みだけが浮かんでくる。 『……イズイール、そなた……本当は他に何かやりたいことがあったのではないか……?』 『…陛下』 『時折、な。そのように感じることがあった……』 『もう良いんですよ、それは。もう……』 『………済まぬ。そして…ありがとう……』 「王の素質は大してなかったけれど、国民にとって幸いなことに、彼はとにかく善人だったね。それから何より人を見る目があった。彼は、王になった以上、民に幸せになってもらいたい、ハウシャンの民であって良かったと思ってもらいたいって、それはもう愚直なまでに願っていた人だったから、だから……望みは叶わなかったけれど、イズイールは彼の摂政としてあった人生を悔いることはなかったよ。とは言っても、やっぱり願いが叶わなかったという思いは残ったんだよねえ。そこが人の心の複雑なところでさ。てなわけで、そのわずかに胸にくすぶる不満を解消するために、彼は自分が摂政として生きてきた時代の宮廷と外交の闇の部分を、余すところなく文章にしたわけさ。というわけで」 そこまで言って、大賢者は顔をレイルに向けた。 「あれは、発見されるまで時間が掛かることを想定していたから、紙じゃなくイーヌリ皮をなめしたものに、オドリ山の泥と金を混ぜた墨で文字を書き、玉と鋼の箱に入れたんだ。とは言っても3000年だからね、誰にも見つからないままその場所にあったとしても、どこまで無事かは分らない。でも、もしイズイールが隠した場所に残っていたら、レイル君、君に読ませてあげるよ」 「ぼっ、僕が読んでも構わないのですか!? 猊下!」 「うん。読み終わったら僕宛に返してくれれば良いから。……確か、遺跡があるのは新連邦の西の端って言ってたよね? だったら今あなた方の許可を得れば、盗掘にもならないだろうし。よろしいでしょう? エレノア殿。発掘と言っても柱の下だけですし、構いませんよね?」 「……え、あ、あの、それは……」 「しかし猊下」エレノアの背後からカーラが、どこか上ずった声を上げた。「イズイール・タファスの自著となりますと、内容の如何を問わず、世界的な財産であると存じます。またご存知の通り、それがあるのは我が新連邦の領土内。レイルに読ませると猊下が許可されるのも、また何より、眞魔国の御方であられる猊下の下に返却を望まれるのも、筋が違っていると私は思いますが」 「書いたのは僕だから、ってのは駄目かなー」 「そういう時だけ『本人』を主張されるのは、少々卑怯ではないかと」 カーラ! 誰かの焦った声がする。だがカーラはきゅっと唇を引き結び、瞬きもせずに大賢者を睨みつけている。 そこで唐突に、大賢者がニコッと笑った。途端にカーラの頬が引き攣る。 「君もおばあさんに似て、なかなかへこたれないね。良いことだよ、カーラ。……うん、これに関しては君の主張が正しい。でもね、あえて僕はそれを僕の手元に置いておきたいと思うんだ」 「何故でございますか?」 きょとんと目を瞠ってから、カーラが問い返した。 「うん、あれはねー、陰謀の教科書としては、いまだに世界に冠たるものだと自負できるシロモノでね。でもあれを読んで、自分でもやれる、これで敵を滅ぼせる、国を我が物にできると思い込んでしまった迂闊な人間が真似しようとすると、身を滅ぼすどころか国が滅ぶ。一歩足の踏み出しを間違えるだけで、世界中を戦争の渦に巻き込んでしまう。何せ、イズイールが国内外に仕掛けた謀略の悪辣なことといったら、そりゃあもう今回僕が君達にやったことの比じゃないからね。時代が時代だったとはいえ、いやー、いっそ爽快なほどやりまくったもんだよ」 アレはすごいよー。 大賢者がにやりと笑う。 「何せ、50年近く国内と周辺の国々を操って、敵─個人と国家を問わず─をいくつも混乱に落としいれ、地上から消し去りながら、ハウシャンの国政をわずかも破綻させなかった男が書いた記録だからね。もし記録があるなら、イズイールが摂政だった時代と、周辺国家の国情をつき合わせてみたまえ。ハウシャンの周辺のかなりの数の国が滅び、または征服したりされたりしながら、最終的に残った国は、ほぼ全てハウシャンと友好を築いている」 「……まさか、それもみな……げい、いえ、イズイール・タファスが……?」 「もちろん」 エレノアのおずおずとした質問は、明快すぎるほど明快に肯定されてしまった。 「敵は潰す。味方は残す。あの当時は今以上に弱肉強食でね。この基本戦略は不動だった。もっとも滅んだ者達も、自分達がハウシャンの摂政が仕組んだ謀略に嵌ったとは考えてもいなかっただろうね。戦に負けた、もしくは宮廷の権力闘争に敗れたからだと信じて滅んでいったはずだ」 「では」エレノアが続けて問う。「イズイール・タファスは己の策謀を、敵にも感づかせなかったということでございますか? 彼が誰を滅ぼすべき敵と看做し、どうしようとしているのか、誰も、例えば周囲の近しい者も知らなかった、と?」 「それを知られたんじゃ、策士としては三流以下だろ? それに彼が希代の策謀家だと分っていたら、誰も彼を人格者だの高潔だのとは呼ばないよ」 「…そ、それはそうで、ございましょうが……」 「つまりまあ、イズイールが敵の心理を如何に掌握し、それを操り、本人が自ら動いていると思わせて、その実、如何にして掌の上で躍らせるかについて、その覚書にはこれでもかってくらい実例付きで語られているわけだよ。どれも実話だし、できるだけ客観的にそれぞれの事例を評価したつもりだから、それはもう勉強になると思うよ。ま、強かに頂上を目指すための奥義書ってトコロかな。でも読みこなして身につけるには、それ相応の才能というか、人間的な器が必要だ。例えば、今回の四州の執政や4ヶ国の王達のような自分の器も限界も見えない、でも野心と自信は溢れんばかりってな連中にとっては毒にしかならないよ」 「ではレイルは…」 「レイル君はなかなか見所があると僕は思ってる」 大賢者の視線の先で、レイルが顔を輝かせている。 「後は、せいぜいここにいる君達が読むことにして、イズイールの書が出たことは秘密にしておくんだね」 「それは……我々のことも高く評価して下さっているという……」 「じゃなくて。君達は僕を知っただろ? 僕はイズイールよりも3000年分、経験も智慧も積んでいるんだよ。つまり、イズイールの能力を、僕はさらに3000年分高めてきたんだ。さっきも言っただろ? 僕の目から見ると、イズイールはまだまだ青くて甘い。……君達、イズイールの覚書を学んで、3000年先に進んだこの僕と智慧を争ってみようと思うかい?」 全員が一斉に、ほとんど反射的に、クォードですらも、全力で首を左右に振った。 大賢者の両隣に座るコンラートとヨザックもまた、背筋が寒そうに肩を竦めている。 「ね? だから君達が読んでも問題ないさ。それにねえ…。もしあの覚書の内容が世に流れたら、人間達のイズイールに対するイメージ…印象というか心象というか、が崩れて地に落ちると思うんだよね。どうも君達、イズイールを過大評価してるみたいだし」 目の前にいる「この大賢者」の前世─何代前なのかさっぱり分らないとはいえ─となれば、その評価が過大なのか過小なのか、正当なのか勘違いも甚だしいのか、正直さっぱり判断がつかない。 「イズイール・タファスに対する大陸の人々の想いを壊したくないなら、なかったことにするんだね。でも、ここに置いておくと、いつどうなるか分らない。大陸の平和のためにも、僕の手元に置いておくのが一番良い選択だよ。だろ? 納得してくれたかな」 「……ほぼ、理解できたと思います……」 疲れたようなカーラに頷き返すと、大賢者は視線をレイルに向けた。 「覚書が残っていても本当に読める状態かどうかは分らないし、文章は古代のものだから、読み解くにはかなり苦労すると思う。もし分らないところがあったら鳩を飛ばすなりして、遠慮なく質問してくれたまえ。できる限り教えてあげるよ」 はいっ! 常に冷静沈着なレイルには珍しいほど興奮を露にして、レイルが元気に返事をしている。 その姿だけを見れば、まさしく夢と希望に満ち溢れた若者の姿だ。 そのきらきらと輝く瞳の求めるものが、陰謀と策謀の記録とはとても思えないような……。 エレノアがふと背後を仰ぎ見れば、どこか頬を引き攣らせたカーラと目が合った。 ……それを、レイルに読ませて良いものなのだろうか……? □□□□□ そうしてついに、眞魔国の使者一行が帰国の途につく日が来た。 新連邦の主だった人々、そして新たな9ヶ国の王となる人々と向かい合い、大賢者ムラタ・ケンは人間達の挨拶を受けていた。大賢者の後には、ウェラー卿コンラートとグリエ・ヨザックの両名が並んで控えている。 「猊下。大変お世話になりました。ありがとうございます」 と、申し上げたいところですが。 続いたエレノアの言葉に、予想がついていたのか、大賢者が苦笑を浮かべた。 「猊下のご尽力によって、新連邦は危ういところで踏みとどまることができました。これに関しましては、どれだけ感謝してもし足りません。そのように理性は私に告げております。ですが……時間が経つほど、やはり私は、猊下にしてやられたという思いを拭うことができないのです」 お許し下さいませ。 神妙にそう告げるエレノアに、コンラートとヨザックは微かに眉を顰めたが、大賢者は微苦笑を浮かべたままで頷いた。 「それは当然でしょう、エレノア殿。王が、あなたは国王ではありませんが、とにかく、一国の支配者が、自分の国を他国に半分に削られて、ありがとうございますと感謝できるはずがありません。たとえそうされることが国を保つ唯一の方法だったと頭で分かっていてもね。もし本心からそれができたら、僕はむしろその人の精神を疑いますね。エレノア殿、あなたのその悔しい思いも、僕に対する怒りも、全て正当なものですよ。気になさる必要はありません。理性の声をちゃんと聞いておられるだけ、立派だと思いますよ? 理性と感情とは、元々一致することが難しいものなのですからね」 ふう、と、エレノアの口からため息が漏れた。 最後の最後まで未練がましく恨みつらみを口にする自分なのに、その恨む相手から慰められてしまった。 情けない。だが同時に、不思議な温もりも胸に広がっていく。 「失礼致しました、猊下。………頑張りますわ」 それしか言えない。そして今はそれ以上の言葉を、目の前の人物も期待してはいないだろう。 大賢者が「そうですね」と頷く。 「頑張ってください。僕達はあなた方をずっと見守っていますよ」 「見張っている、のお間違いでは?」 それには答えず、ただクスッとだけ笑って、大賢者は見送る人々を見回した。 「それでは皆さん、どうぞお元気で。眞魔国はこれからもあなた方と共に歩んでいきたいと願っています。共に平和と共存共栄の道を進んでまいりましょう。あなた方が我々と手を携えて同じ道を歩んで下さる事を、心から祈っています。では皆さん、また笑ってお会いいたしましょう」 深々とお辞儀をする人々に手を振り、大賢者は再びエレノアと相対した。 「眞魔国に遊びに来て下さいね。あなた方と以前の様にお会いできることを、陛下は心の底から望んでおられます。これからもどうか、我等の陛下の良き友であって下さい」 僕の愛する人のために。 そんな声が聞こえたような気がした。 この人物に対して、自分の中に複雑な感情があることは認める。だが、この人物の果てることのない絶望的な孤独と、4000年の長い長い彷徨の中で出会ったたった一人への、大海の様に深く、そこに寄せる波の様に尽きせぬ愛を、自分達は忘れまいと思う。 「御機嫌よう、猊下。どうぞお元気で」 「ありがとう、エレノア殿。あなたも長生きして下さいね。まだまだ退場には早いですよ」 「ええ、私もそう思います。……猊下」 「はい」 「正直申しまして、この先何が起こるか分かりません。ですが、例えあなたにどれほど笑われようとも、私はとことん足掻いてみせますわよ?」 「結構です。それでこそエレノア・パーシモンズ、大陸にその名を轟かせた女王陛下ですよ。あなたのご健闘、じっくり見守らせて頂きます。あ、これは言葉通りですからね?」 苦笑を浮かべて、だが「ありがとうございます」と頭を下げるエレノア。では、と最後の言葉を掛けて踵を返す大賢者。コンラートとヨザックが後に続く。 離れていく3人の背を見送りながら、エレノアは思った。 最初にコンラート。そして魔王陛下。今、大賢者猊下。 育んだ絆、築いてきた関係は、新たな出会いの度に変化する。 コンラートは、自分達が知っていた『コンラート・ウェラー』ではとうにない。認めることを心の底で拒んできたが、今回彼はそれを明確に突きつけてきた。もう、自分をかつての同志と思うな。かつての友を呼ぶように自分を呼ぶな。友情に忠実であることを求めるな。自分の愛も忠誠も、全ては魔王陛下お1人だけのものなのだから、と。 そして、魔王陛下もまた……。 それでも。 新たな出会いを悔いる気はない。 大賢者ムラタ・ケン猊下。 私は今、心から思います。 あなたとの出会いは、いつの日か必ず私に、私達に、大いなる何か─それが何かは分らないが─を齎してくれるでしょう。 あなたに会えて、良かった。 稀有なる双黒の存在に感謝を。 素直さに遠く、とてつもなく頭が良くて、何でもできて、それなのにきっと不器用極まりない猊下と。 おそらくは自覚のないままにその魂を救った、素直で無邪気で偉大なる魔王陛下に。 心からの感謝を捧げます。 □□□□□ 《エピローグ》 眞魔国の人々が帰国の途についたその日から。 九州の元執政とその一味の者達の逮捕、取調べ、裁判、同時並行で、新生新連邦の新たな体制作り、そして9ヶ国の新たな王の国入りと即位の準備、打ち合わせ、折衝、その他もろもろ、やらねばならないことが怒涛の様にエレノア達に襲い掛かってきた。 その全てに何とか一応の道筋をつけ、後は現場を担当する者達が中心になって仕事を進めてもらおうという段階を迎え、ようやく一息つけるようになった頃、エレノアはダードやクォード、カーラと図って、心利いた者達を密かに連邦の西端に派遣した。 もちろん、かつてイズイール・タファスが書き残した覚書を手に入れるためだ。 大賢者に読み手として指名されたレイルは、行政官僚の新人として官庁を走り回っている。彼が仕事に忙殺されている今の内に、貴重、もしくは危険極まりない書物を手に入れたいと、エレノアは実はかなり焦っていた。 「もっと孫を信じたらどうだね? 猊下ほどのお方が見込んでいるのだし……」 「ええ、ダード、私もそう思うわ。でも、とにかく先に内容を確認したいのです。その上で、レイルに読ませて良いものかどうかを判断したい」 「過保護ではないかねえ。レイルはちゃんと物事の見極めがつく子だよ? そう思わんかね、カーラ?」 「老師のお言葉は正しいと思いますし、私もレイルを見くびるつもりはありません。ですが、何と申しましても覚書はあの猊下が、あ、いえ、猊下と同じ魂を持っていた人物が記した、いわば政の闇の記録です。私は従姉妹として、レイルには、その……あまり陰謀だの謀略だのという言葉に慣れ親しんで欲しくないと思っているのです。レイルには行政に真っ直ぐ向き合ってもらいたいと……。これも過保護でしょうか…?」 「別に、レイルに読ませるかどうかを今から議論する必要はなかろう」 「クォード殿」 「俺はとにかく一刻も早く読んでみたい。以前は大昔の人間だからと興味もなかったが、今はあの人物を深く知るためにも、ぜひ真っ先に読ませてもらいたい」 先ずはとにかく手に入れよう。 かなりの覚悟をもって派遣した発掘団だったのだが、結果は意外と拍子抜けするものだった。 大賢者が言った通りの場所に、言った通りに隠し扉があり、その中には言った通りの部屋があった。そして古文書や工芸品、宝飾品など、世界に堂々と発表できる貴重な古代の遺物を多く発見発掘したものの、肝心の「イズイール・タファスの覚書」を見つけることができなかったのである。 発見された古文書の全てを専門家が調べたが、どれもこれも遺物としては一級品だったものの、求めるものではなかった。 盗掘されたとすれば宝石類が残っているのはおかしいのだが、とにかくないものはない。 ホッとしたというか、肩透かしというか、がっかりというか……。 気が抜けたせいもあるし、仕事が忙しかったせいもあるが、エレノア達の中でイズイール・タファスの名も重みも次第に希薄になっていった。実際、3000年前の人物の覚書よりも緊急にして重要な書類が、彼らの前には日々山積みにされているのだ。 ひたすら目の前の仕事に没頭する毎日。 だがある日、エレノアの下にアリーがやってきて、妙なことを告げていった。 すなわち、レイルが皮で作られたらしい、ひどく古い古文書のようなものを読み、それを紙に写し取ることに没頭している姿を見かけた、というのだ。 まさかと思いつつ呼び出した孫は。 「あ、バレちゃいましたか?」 悪びれた様子もなく、肩を竦めて笑った。 「レイル、あなたが読んでいるというのは……」 「もちろん、イズイール・タファスの覚書ですよ?」 「でっ、でもそれは……!」 お祖母様、僕より先にあれを手に入れようとなさいましたね? さりげなく言われて、決して悪いことをしたわけではないはずなのに、エレノア達はビクリと肩を震わせてしまった。 「鷲頭の柱の下に、なかったでしょう?」 「そ、それは、レイル……」 「猊下が仰せになったんです」 「猊下、が…?」 「はい。お帰りになる前の夜にそっと。お祖母様達は、きっと僕より先に覚書を手に入れて、内容を確認しようとするだろう。場合によっては、なかったことにして僕の手に渡らないようにするだろうと。だから、覚書の隠し場所をあえて変えて伝えた、と。僕にだけ、本当の隠し場所を教えて下さいました。イズイールの隠し扉は4本の柱全ての下にあって、覚書が隠されていたのは本当は鷲頭の柱ではなく、獅子頭の柱の下だったんです。先日、お祖母様のお使いでアルティカ王国へ参りましたでしょう? その時に僕だけ皆から離れて、ハウシャンの遺跡に向かい、猊下が仰せになった通りの場所で覚書を見つけてきました。……黙っていてごめんなさい。読む前に話したら、取り上げられてしまうんじゃないかと思って……。でもお祖母様、姉さん、皆、あの本は素晴らしいものです! 猊下は、言ってみれば謙遜なさったのだと思いますが、あの覚書は単なる陰謀を列挙した記録なんかじゃないんです! 国家を預かる者がもっとも大切にしなくてはならないものを、あの本は教えてくれます。人の上に立つとは、国を預かるとはどういうことか、さまざまな例を通して教えてくれるのです。言行録なんかとは比べ物になりません! 古文字なので難しいのですが、一文字一文字紙に写していると、猊下の、あ、じゃなくて、イズイール・タファスの思いが僕の全身に沁み込んでくるような喜びを感じるんです。イズイールの覚書こそ、為政者の聖典です!」 僕はこの覚書を教本とし、何より猊下を師として修行して、きっと立派な行政官になります! 感動に震える声でレイルが宣言した。 その紅潮した顔を呆然と見つめていたエレノア達は、とにかく何か言わねばと口を開いた。 「…あ、あの、レイル……」 「もうすぐ写本ができますので、お祖母様達はそちらを読んで下さいね? あ、写本を作ることは、僕がきちんと管理するという約束で猊下の許可を得てますのでご安心下さい。それで、写し終えたら、原本は眞魔国に送ろうと思います。あ、でも、万一ということがありますから、持参した方が良いかな。どう思われますか? お祖母様。僕がご挨拶もかねて、眞魔国へ覚書を持って行ってもよろしいですか?」 「それは、まあ、その……あの、レイル、私達がそれを手に入れようとしたのは……」 「ああ、そのことでしたら気にしないで下さい。猊下も仰せになっておられました」 「猊下が……何と……?」 「お祖母様達は、僕のことをきっと心配されるだろうって。自分があんな風に言ったから、どんな怖ろしいことが書いてあるのか、それを可愛い孫に読ませて良いものかと不安になって、まずは自分達で確認しようと考えるだろう。そう仰せでした。無意味な行いだけれど、子供はいつまで経っても子供だと思いたがるのが大人の哀しい性だから、許してやりなさいとも仰せでした。ウチにも似たようなのがいるからねって、笑っておられましたよ」 「………………」 双黒並び立つ眞魔国。 その一方である、ムラタ・ケン大賢者猊下。 このお方と、何があろうと決して智慧を争ってはならない。 この言葉は、この後クォードが書き記して自室の壁に貼ったという標語、『ちょっと待て、その一言が命取り。光る眼鏡に身の用心』と共に、新連邦首脳部が孫子の代に到るまで絶対に守るべき教えとして、長く残されることとなったのだった。 おしまい。(2011年4月24日) プラウザよりお戻り下さい。
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