議場の中央に村田は立っていた。 全ての人々の中央に。 全ての人々の視線を浴びて。 凝然と、瞬きもせず見つめる人々の視線をこれだけの数、全身に受けていれば、熱さや痛みを感じても良さそうなものだが、大賢者はただ悠然と、笑みを湛えてそこに立っていた。 「……場を……完全に制しておられる」 「ああ……」 大賢者猊下の全身から静かに溢れる、人々を圧倒する気。それを我が身にも感じて思わず呟いたのはフォングランツ卿オスカー。そして、角突き合わしてばかりの仲をうっかり忘れて頷いたのは、レフタント卿イヴァンだった。 間近に並んで立つお互いに気づいてハッと身を引いたものの、2人はすぐに、そんな児戯にも似た態度を恥じるように正面を向いた。 「すごい、御方だ」 イヴァンの低い呟きに、随員として同行した全員が一斉に頷いた。 殊更言を荒げたわけでもない。理不尽なことを言ったわけでもない。 遠慮の欠片もなく(そもそもそんな必要がない)、率直というよりも容赦なく厳しく、そして言い回しにかなりキツい香辛料が塗されているが、だがそれも……常識の範疇を越えているものではない、だろう。おそらく。 だがそれでも、大賢者猊下が一言発する毎に場の支配力は音を立て、削り取られるように猊下のものになっていくのだ。そして人間達は今、大賢者猊下に完全に圧倒されている。 もちろん、今猊下が宣言されたことが人間達を驚愕の淵に陥れていることは間違いない。 それは、オスカーやイヴァン達、臙脂色の軍服を身に纏うことを許された若手武人達をも愕然とさせた策だった。 「我々の発想など、遥かに超えておられる……」 「そう思うのなら学べ」 スッと、滑り込むように割り込んできた声に、眞魔国随員一同の顔がハッと動いた。 ウェラー卿コンラートがゆっくりと彼らの元に戻ってくる。 「眞魔国が建国されてから4000年、大賢者猊下の叡智を直接学ぶことを許されたのは、4000年前の人々を除けば君達だけだ。それがどれほどの僥倖か、どれほどの奇跡か、君達はそれを本当に理解しているか?」 「閣下……!」 青年達が粛然と姿勢を正す。 その表情を確認しつつ、コンラートは本来の立ち位置で歩みを止めた。 「君達を選んだのは猊下だ。4000年という途方もない時間を生きてこられたあの御方が、眞魔国の明日を担う力を持つと、君達を評価されたのだ。自信を持て。自信を持って学べ。ただし、謙虚にだ。己ごときにと卑屈になっても、選ばれたことに思いあがって身の程を見失っても、そうと見極められたら即座にその制服を脱ぐことになるぞ? 猊下は誰より、眼鏡に叶わぬと判断した者への見切りが早い。……敬礼するな…!」 コンラートの言葉に背筋を伸ばし、「はっ」と応じて敬礼しようとした若き武人達の動きがビクリと止まった。 「このような場で、いきなり敬礼などすれば無用に人目を引く。それくらいのこと、場に応じて判断しろ。柔軟に、臨機応変にだ」 はいっ。 声を潜め、だが決意は熱く、青少年達が頷いた。 よし、と頷き返し、それからコンラートは真正面、愕然と大賢者猊下を凝視する人々に顔を向けた。 「それができなければ、容赦なく猊下に切り捨てられる」 彼らの様に。 オスカーやイヴァン達、参謀室に迎え入れられた若き武人達の視線もまた、議場の人々へと向けられた。 □□□□□ 「……今、何と仰せられました……」 「9つの州の独立を支持する。そう言った」 エレノア達は愕然としたまま、半ば無意識に大賢者の顔、それから四州の元執政達、反逆の同盟書に署名した2名の評議会議員の顔に、視線を移動させた。 平然としている大賢者とは違い、独立を望んだ彼らは皆一様に呆然自失の態で、蒼白の顔を引き攣らせ、目を瞠って大賢者を見つめている。 「……支持する、とは……」 「言葉通りだ。我々は新連邦より独立を願う9つの州が国家として自立できるよう、最大限の援助を行うつもりだ」 「それが……まことに魔王陛下の最終的なご決定、だと……?」 「当然じゃないか」何を言い出すと呆れた顔で、大賢者が言い返す。「この僕が、陛下のご意志に逆らうことを口にするとでも?」 「それ、は……」 「違うと仰せか!?」 怒声と同時に、クォードが前に進み出てきた。 顔は怒りに紅潮し、握った両の拳はぶるぶると震えている。 そのクォードの背後では、カーラやアリー達、そして魔王陛下の人となりをその目で確かめ、その思いを耳で確かめた若い兵士達などが、議場と傍聴席を隔てる柵に身体を押し付けるように集まっていた。その怒りに強張った表情、瞠られた瞳からは、言葉にならない思いが迸っている。 ふーん。大賢者が軽く鼻を鳴らす。 「君達もかい?」 僕が嘘を言っているとでも? 尋ねれば、魔族との友好を率先して進めてきた新連邦の若者達が、今にも何か訴えようと口を開いた。だが。 「陛下は僕にこう仰せになった」 大賢者に機先を制され、人間達がピクリと動きを止める。 「自分は王である、と」 そうきっぱりと言って、大賢者は秩序を失いかけた議場をぐるりと見回した。 「国を護り、民を護り、平和を護る。そのために友を失わなくてはならないというなら、自分は躊躇わない。躊躇わずに友情を切り捨てる。友であった人に恨まれても憎まれても、王の使命を果たす。陛下はそう仰せだった。僕はこのような王を主とできたことを、心から誇りに思う。君も、君達もそうだろう?」 大賢者の目が眞魔国代表の席、コンラートやヨザック、随身の一行に向く。 「もちろんです。猊下」 コンラートとヨザック、そして随身の官僚たちが胸に手を当て深く頷き、兵士一同が一斉に敬礼する。 「コンラート!」 カーラ達の、叫ぶような声がエレノアの耳に飛び込んできた。同時に、議場のざわめき、いいや、騒ぎが一気に高まる。 その瞬間、エレノアはギュッと眉を顰めた。 このままでは、会議は混乱して収拾がつかなくなる。 「この有様は何ですか!!」 いきなり上がった厳しいエレノアの叱責に、混乱しかけていた議場が一気に静まった。 エレノアは周囲を睨みつけ、それから緊張も無く立っている大賢者─腹立たしいことに、人間風情の騒ぎなどいかほどの意味もないと言いたげに、子供っぽい笑みを浮かべたままだ─の顔を真正面から睨みつけた。 「今私達は、我らが祖国である新連邦の未来について話し合っているのです! 他国の御使者には、その立会いとしてお出で頂きました。その方々の御前で悪戯に騒ぎ立てるは、いかに我が国が国家として弱体であるかを自ら露呈することになるのです。恥ずかしいとは思いませぬか!!」 老女に叱り飛ばされて、席を立ち、秩序も無く騒ぎたてようとしていた人々は、ハッとしたように互いの顔を見合わせた。 「お座りなさい! そして粛々とすべき話し合いを続けるのです。我が国の将来のために、民の未来のために!」 さあ!! その声に弾かれたように人々が席に戻り始めた。 中央の議場に座る人々も、ともかく落ち着こうと頷き合い、次々に席に腰を下ろしていく。ただその中で、独立を支持すると言われた四州や他の五州の人々は立ち尽くしたまま、気もそぞろな様子で眞魔国の使者達を窺っている。 目を瞑り、大きく息を吸って、それからそれを深く深く吐き出して、エレノアはゆっくりと目を開いた。 いつの間にか、大賢者は自分の席につき、誰に用意させたのかのんびりと、少なくとも見た目は暢気にお茶を啜っている。 「会議を、進めます」 誰にとも無く言えば、その厳然とした声に感じるものがあったのか、全員が粛然と頷く。 「眞魔国の使者殿に、お伺いいたします」 「どうぞ」 「九州の、独立を支持すると、それが貴国の決定であるとのお言葉ですが」 「そうだよ?」 しゃあしゃあと頷く少年(だがその幼気な態度になど、2度と騙されるものかとエレノアは唇を噛んだ)に、エレノアは「左様でございますか」と応えた。 「我が国の最高の友人たる貴国のお言葉ではございますが、九州は我ら新連邦の一部でございます」 「もちろん分かっている」 「他国の一部を削り取るような決定をする権利が、貴国のどこにおありなのでしょうか」 「我が国は、大陸が平和であること、民が安寧に暮らしていけることを望んでいるのだよ、エレノア殿。ところがこの桁外れに広大な国土を抱えて、君達はすっかり立ち往生している。君達にこの国をこのまま治める力はない。二十州の内の九州が独立すれば、州の数としては少ないが、面積的に新連邦はほぼ半分になる。……僕は、半分でも君達には広すぎると考えているのだけれどね」 「……私達に、この半分の国土を治める能力もない、と……?」 「ないね」 ぐうっと、空気が息詰まるような緊張感に重くなる。 「そもそも、連邦制という統治形態を採れるほど、君達は成熟していない。君達がこの方法を選んだのは、それぞれの国が独立する力がなかったこともあるが、曲がりなりにも同志として対等の位置にいた君達が、いざ大シマロンを倒した後、自分以外の者が王となり、自分より高い地位に登ることを許せなかったからだ。自分達の中の一人だけが支配者になることを許容できない。だから全員が執政という同等の立場でいられるこの形を選んだ。もともとの発想が姑息なのだから、上手くいくはずがない。この方法があることを君達に教えたウェラー卿とて」 大賢者がすぐ傍らのコンラートを見上げる。 「もうずっと以前から、遅かれ早かれ君達の間で争いが起こると予告していた」 一斉に、驚きと疑問と懇願の複雑に入り混じった視線を向けられて、だがコンラートの表情は全く変わらない。冷静な無表情のままだ。 長年、信頼し続けた男のその表情を確認して、エレノアは震える息を吐き出した。 「……我々が成熟していないと仰せですが、では、このような統治形態を採れるほど成熟した国など、この世に存在しているのですか? それともこの連邦制は、単なる理念だけのもの、机上の空論に過ぎないのでしょうか。ああ……あなた方がおいででしたね。つまりあなたは、自分達魔族以上に文明度の高い種族は存在しないと仰せになりたいのでしょうか?」 「皮肉を言っているつもりかもしれないが、エレノア殿、僕の耳には卑屈な繰言にしか聞こえない。止めたまえ。君が長年に渡って培ってきた名君の誉れが傷つくだけだから」 ぐらりと揺れるように、エレノアの纏う空気が怒りを孕む。 「………お忘れかもしれませんが、私はコンラート、ウェラー卿に王になってもらいたいと願ってきました。大シマロンに故国を奪われて以来、ただの1度として国の頂に上りたいと願ったことはありません……! 私がこの連邦制という形を採ることに賛成したのは、ウェラー卿を王として迎えられないならば、せめて共に戦った同志達と手を携えて平和な国家を作っていきたいと思ったからです」 「ああ、確かにあなたはそうだったね。でも、自分がそうだから他の人も皆同じ考えだなんて思わないほうが良い。皆が皆、あなたの様な人格者にはなれないのだからね」 そんなことはどうでも良いから先へ進もう。 さっさと話を切り上げると、大賢者は悔しげに唇を噛むエレノアを無視して口調を改めた。 「僕としては、君達がどうして九州の独立を拒絶するのか、そちらの方が不可解だな。そもそも君達は別々の国だったのだし、身動きできない状態から身軽になれるのだし、九州はどこか敵国に削り取られるわけでもなく、君達の同志であるもともとの国に戻るだけじゃないか。我々が後ろ盾になるのだから、友好だって維持できる。なぜ嫌がる?」 「なぜと言うて……!」 当然ではござらぬか! エレノアとほとんど同時に身を乗り出し、一呼吸早く発言したのはクォードだった。 もとラダ・オルドの王太子は溜めに溜めた怒りに顔を赤く燃え上がらせ、身を乗り出すだけでは我慢できないように荒々しく立ち上がった。 「今や我らは1つの国家なのだ! その国土が広いから削れば良いではないかなどと、あまりに乱暴に過ぎる! 大賢者殿は、つい先ほど仰せになられたではないか……!」 「僕が、何を?」 国家が護らねばならぬのは国益であると! クォードが腹の底から溢れる声で、力強く言い放った。 「国土、国民を護ることこそ、我等の第一にすべきことであると! 大賢者殿のお言葉に従えば、我らが国土を護ろうとするは、当然のことであろう!」 へえ。大賢者が楽しそうに笑う。 「思っていたほど馬鹿じゃないな、君」 大賢者に褒め(?)られて、クォードの顔がこれまでとは違う赤味に染まった。歪む唇の端がビクビク震えている。 「でも良く思いだして欲しいな。僕はこうも言ったんだよ? 国益とは、国土国民に利する全てのものだと。さあ、よく考えて答えてくれ。君達にとって、第一に護らなくてはならないものは、国土か? それとも民か?」 「……そっ、それは同じこと……」 やっぱり馬鹿だ。 断言され、クォードの身体が仰け反る様に引き攣った。。 「国家は、民があってこその国家だ。考えても見ろ。空っぽの国土だけがあって、民の1人もいない国を国と呼べるか? そんな『国』の王になりたいか?」 「………う……」 「対して、例え国を失い流浪の民となろうとも、王と共に生きる人々がいてくれれば、日の下、星の下、例え荒野であろうとも、そこは彼らの王国となる。新連邦に限らず、為政者とはすなわち民の上に立つ者。民を導く者。民を護る者。民なくして王などない。そして今この国は、あまりに広大な国土故に、為政者の意志は全く行き渡らず、同時に民の悲鳴もまた為政者の耳に届かない。この国土は民の害にこそなれ、わずかの利も民に齎さない。そのような国土を死守してどうするつもりだ? 君達は…」 大シマロンになりたいのか? 議場に集う全ての人々の目が、飛び込んできた一言に大きく瞠られた。そして愕然とした顔が、改めて大賢者に向けられる。 「ただただ、国土を広げ、昨日よりも今日、今日よりも明日、支配する土地を、民の数を、ひたすら増やすことだけに喜びを感じていたあの王、あの国の様になりたいのか? それが君達の目的だったのか?」 「違いますっ!!」 魂切る叫びがエレノアの口から迸った。議場が打たれた様に静まる。 「そのようなこと……望むなど決して……っ!」 「ならば、単なる我が侭だ。せっかく手に入れたものだから手放したくない。自分のものを誰にも渡したくない。……子供と同じだな」 「それは……!」 違うと言いたいのに、だんだんと本当に違うのかどうか分らなくなってきた。 額を押えて顔を伏せてしまったエレノアに、人々の苦しげな視線が集まる。 「国家として立って、その国土を失いたくないと願うことが……子供の我がままと……?」 エレノアが声を絞り出す。 「私共の力が至らぬことは重々承知のこと……。ですが……諦めたくないのです。信じていたいのです。いつか、いつか、きっと…皆で力を合わせて必ずこの国を建て直し……!」 議場を満たし始めた沈痛な雰囲気に、大賢者がどこかうんざりした様子で、ふうと息を吐き出した。その様に、エレノアの言葉がぷつりと途切れる。 「皆で力を合わすというその言葉が、とうに空しくなっていることはあなたにも分りきっていると思うのだけどね。……仕方がない」 あまりこの話はしたくなかったんだがな。 いきなり変化した大賢者の口調に、エレノアの頭が上がり、人々の顔も一斉に動いた。 「スヴェルノーヴェン州の執政はいるか?」 え? いきなり飛び出した名前に、人々がきょとんと目を瞠る。 だがすぐに、彼らのその視線は、最高評議会議員達の席のすぐ後、各地の執政達が集まる席に移り、その中の一人の男性に集中した。 50歳そこそこの痩せぎすの男性が、オロオロと周囲を見回しながら立ち上がる。 「……わたくし、で、ございますが……」 「マルヴェット村。そう言えば、僕が何を言いたいのか分るか?」 マルヴェ……。小さく呟いたスヴェルノーヴェン州の執政が、戸惑ったように目を瞬く。だがやがて、ハッと身を引くと、何か見たくないものを目にしてしまったかのように顔を逸らした。 その様子を確認したのだろう、大賢者が小さく頷いて視線を戻す。 「エレノア殿。そしてここに集う全員に、良く聞いてもらおう。今からする話は事実であり、そしてもしかしたら君達の身近ですでに起きていることかもしれないし、このままでいれば確実に起こるだろう事態だ」 「……その村で、何か起こったということでござるか?」 殊更硬い声で確認するクォードに、「その通り」と大賢者が頷く。 「スヴェルノーヴェンは、皆知っているだろうが、この新連邦の最北端の州だ。言うまでも無く、もっとも復活が立ち遅れた地域で、水はほとんど枯れ、大地はいまだ滅びの途上にある。そしてマルヴェット村は、そのスヴェルノーヴェンでもさらに北の外れ、ベイルオルドーンとの国境地帯にある小さな村だ。……ここまで言えば、この村がどういう状態か想像がつくだろう」 「その村の民は……悲惨な状態にあるのですね…?」 「エレノア殿」大賢者の声が冷たく硬い。「君は今簡単に悲惨な状態と言ったけれど、本当に悲惨な状態がどういうものなのか、それを知っているのか?」 「それは……!」 「亡国の女王として、君は君なりに辛酸を舐めてきたと言いたいのだろう。だが、君はこれまでただの一度でも、何日も何日も、何1つ口にできない飢えや、一滴の水も喉を通すことのできない渇き、灼熱の太陽に炙られる痛みや骨の髄から凍るような寒さを体験したことがあるのか?」 「……そう仰せの」エレノアの唇が震える。「あなた様はどうなのです?」 「あるよ」 あっさりと返されて、新連邦の人々はもちろん、眞魔国の人々すら驚きに目を瞠った。反応しなかったのはコンラートとヨザックの2人くらいだ。 「僕は、まあこう言うとイロイロ誤解を生むので嫌なんだが、これで結構人生ってものを長く経験していてね。おまけにそのほとんどを、眞魔国から遠く離れて生きてきた。だからそれなりに経験していることも多いんだよ」 「……それほどに、長く生きてこられたと……?」 「そう。少なくとも、ここに集まっている全ての人々が生きてきた年月を合わせたよりも、ずっと長く」 「……っ!?」 僕のことはどうでもいい。 声もなく自分を見つめる人々の視線を、うっとうしげに眉を顰めて払い除けると、大賢者が続けて言った。 「今話すべきはマルヴェット村のことだ」 新連邦が興り、散り散りになっていた村人達は希望を胸に故郷に戻ったものの、新たな国はなかなか民を楽にしてはくれなかった。マルヴェットの村人達は、言うまでも無く飢えていた。 大地は病んだまま、状況はますます悪くなる。無情の冬が過ぎ、遅すぎる春がやってきた頃には、村人は半数近くが死に絶えていた。 「無惨だったのはそれからだ。春とは名ばかりの寒く乾いた村に、芽吹くものは何もなかった。冬の間に、村人達が木々の根を掘り、皮を剥ぎ、わずかばかりの虫や動物や、口にできるものは全て食べてしまっていたからだ。そしてあまりの飢えに彼らは……ついに人としての禁忌を超えることとなった」 「……禁忌、と…?」 「そう」 食人、だよ。 「しょく…?」 「死んだ同胞の肉を喰らったのさ。先に逝った友の、親の、我が子兄弟姉妹の、ね」 何を言われたのかさっぱり分らない。そんな顔で、ぽかん、と口を開けたエレノア始め議場の人々。 だがすぐに、大賢者の言葉の意味が頭に染み通ったのだろう、力の抜けた顔が驚愕に引き攣った。 「…ばっ、バカ、な……!」 「そっ、そんな、おぞましい……っ!!」 おぞましい? 大賢者が、その態度こそおぞましいと口元を歪ませる。 「君達にそんなセリフを吐く資格があるのか? 民をそこまで追い詰めて、民は大変だ、悲惨だと言いながら、実態をろくに調べようともせず、暖炉のある暖かな部屋で炙った美味い肉を喰い、酒を呑む君達に?」 「………っ!」 「嘘だと思うなら、スヴェルノーヴェンの執政殿の聞いてごらん?」 話を聞くというよりは、大賢者の突き刺すような眼差しから逃れたくて、人々の目が一斉に執政席の男に向いた。 「……あな、たは、それを……ご存知だったのですか……?」 まるで喉が詰まっているかの様に苦しげに、エレノアが尋ねる。 「北部が…飢えに苦しんでおりますことはもちろん……。ですが……死人の……肉を喰ろうたとは……」 存じ、ませぬ……。 スヴェルノーヴェンの執政がおどおどと視線を外しながら、ぼそぼそと言った。 その様子だけで全てが分ったと、エレノアは絶望的な思いで水の膜に覆われた目を瞬いた。 議場の空気もまた、急激に質量を増したかのように重く沈む。 「そうやって凌がずにはいられないほどの飢えを、ここにいる内の誰か1人でも経験したことがあるか?」 議場はしわぶき1つなく静まっている。 「そして、君達の内、誰か1人でも北部の実態を自分の目で確かめた者がいるのか?」 誰一人として声も手も、上げるものはない。 「代表として聞こうか。カーラ・パーシモンズ」 名指しされて、思考の沼に嵌り込んでいたカーラは文字通り飛び上がった。 全員の目が彼女に向き、それに気づいたカーラは慌てたように周囲を見回してから、ゴクリと唾を呑みこんだ。それからかなり努力して姿勢を正すと、拳を握って大賢者に顔を向けた。 「君も、君の妹や従兄弟殿も、陛下や僕に力強く訴えていたね。新連邦の民は苦しんでいる。何としてもこれを救いたい。国のために苦労しているお祖母様の力になりたいと。違った?」 「……いいえ…仰せの通り、です」 「今新連邦で最も苦しんでいるのは北部の民だ。で? 君達は具体的に彼らがどういう苦労をしているか、自分の足で北部に出向き、自分の目で確かめることはしたかい?」 「………それは………」 「したのか? していないのか?」 「して……おりません……」 「民の声を直に聞いたことは?」 「……ありません……」 「国の力になりたい、民の苦しみを救いたいと心から願うなら、まずこの国の実情を、今最も苦しんでいる人々の姿を、その目で確認するのが第一だろう。だが君はそれをしていない。何故か?」 「それ、は……ですがっ、信頼できる者を派遣して……!」 「それはつまり。君が『人の上に立つ者』、王女様だからさ。これ、前にも言ったよね?」 目を瞠り、カーラは咄嗟に首を左右に、力を籠めて振った。 「しかし……!」 「君だけじゃない。議員や執政、そして官僚を含めて、体制の頂点、その象徴であるこの中央議会に席を占めることができる君達は、ほとんど全員が何らかの意味で『上に立つ者』だ。かつて、国を失う以前もそうだったのだろう。王族として武人として役人として、国の支配層で経験を積んでいたからこそ、今もまたこの場に迎え入れられているはずだ。そんな君達だから無意識にこう考えている。己の足で現場に出向いて実地調査するなど、自分のような高貴な生まれ、もしくは、高い地位にいる者がする仕事ではない、とね」 「……そ、そのような……っ!」 「信頼できる者を派遣した? どれほど民を思いやっていたとしても、君達が思いつくのは、せいぜいその程度なんだよね」 「ですがっ」カーラは必死で声を張り上げた。「私には私の役目があります! 私はそれを日々懸命にこなしております! 決して怠慢を責められるような……」 「怠慢だなどと一言も言っていない。責めてもいない。君達は揃いも揃ってそういう人達だと言ってるだけだ。だからこそ、現状を生んだのだという、分析をしているだけだよ」 「……………」 「調査を人に命じて、その報告をただ待って、報告されたことだけを鵜呑みにして、どうして真実を知ることができる? 真実など容易に隠すことができるのに。人の目に触れる真実の方が、よほど少ないのに」 「……………」 「これが、君達と我らの王の大きな違いの1つだ」 身動きとれずにいたカーラ達が、ハッと顔を上げた。 「我らが魔王陛下なら。自分の国に苦しんでいる民がいると聞けば、誰が何を言おうと、執務があろうとどうであろうと、全てを振り払ってその現場に向かって飛び出していかれるだろう。そして自らの足で現場を歩き、何が民に起きているのかをその眼で確認し、苦しむ民の手を取ってその声を聞き、どうすれば良いのかを必死に考えられるだろう。民の痛みを己の痛みとし、民と共に涙し、だからこそ民と共に笑うことができる。……我が国の繁栄は、奇跡や幸運や、まして陛下の魔力によって齎されたものなどでは決してない。国家とは、何を護り、何に支えられているものなのか。王とは何をなすべき存在なのか。国が国としてあるべきために、王は誰と共に歩むのか。我等の王は、誰に教わらずともそれをご存知であられる。陛下が真に良き王であろうと努力なさっておられることが分るから、民もまた王を信じ、王と共に生きようとしてくれる。そうして、王と共に国を支え護ってくれている。そうやって我が国は現在を迎えているのだよ」 顔を真っ赤に火照らせ、カーラは目を伏せた。隣に座るアリーも、それからレイルや仲間達も、膝の上に拳を固く握り締め、肩を張り詰めさせている。 かつて大シマロンに国を追われ、ただひたすら戦火の地を逃れていた間、カーラ達は多くの苦しむ民をその目で見てきた。故国の民と、共に苦しんできた。と。 そう思いこんでいただけだったのだろうか。 それで分った気になっていただけなのだろうか。 カーラは服の裾をぎゅっと握り締めた。上着にできた無様な皺。見つめるカーラの顔が歪む。 逃避行の間でさえ、確かに自分と妹、それから従兄弟は常に誰かに護られていた。そして常に誰かにかしずかれ、誰かを必ず従えてきた。それが己の立場というものだと、無意識に思い込んできたかもしれない。 ……お祖母様のお役に立ちたい。この国のために力を尽くしたい。そう心の底から願っていたはずなのに。 私は、国で起きていることを知っても、自ら動くことなど全く考えていなかった。 そうだ、大賢者の言う通りだ。私は、それは自分の仕事ではない、自分の仕事は実際に動く者達の上に立ち、全体を広く見渡して国策に関与することだと、そう決め付けていた。 己の無力を嘆く前に、できることはいくらでもあったのだ。お祖母様の力になりたいなら、その目の代わりとなって自ら情報を集めてくることだってできたのだ。しかし自分がしたことは、ただ派遣する者を選んだだけだった。 自分の、自分達のその意識こそが、この国のこの現在を生み出してしまったのか……。 「人には職分があり、立場があり、それぞれ果たすべき役目がある。上に立つ者は、個々瑣末な事象に関与せず、高い視点から大局を見極め、方向性を示すのが仕事だ。そう、その通り、それが正論だ。我等の陛下に対しても、そう訴えて、軽々しく動かぬようにと進言する者も多くいる。だが僕は、それが己の国の実情を肌で知ろうともしない理由には決してならないと考える。人の上に立つ立場の者だからこそ、その掌で民の涙を受け止め、その熱さを知るべきだ。表面をなぞっただけの報告書で、民の塗炭の苦しみを理解した気になっているなら……君達全員」 恥を知りたまえ。 静かな糾弾に、人々が押し黙った。 エレノアやカーラ達はもちろん、執政達、議員達、州の政庁で働く者達、中央の官吏達、そのほとんどが恥じ入るように項垂れ、少なからぬ数が身の置き所がなさそうに身体を縮めている。 「………まこ、とに……我が身が情けなく……」 「絶望するのはまだ早い」 冷たい言葉に、エレノア達の肩がビクリと揺れる。 「スヴェルノーヴェンの執政殿。生き残ったマルヴェットの村人の代表が、窮状を訴えに政庁にやってきたね?」 大賢者に尋ねられて、執政席の男はただ身を固くしている。 構わず、大賢者は話を続けた。 「君は、まあ元国主である執政としては当然の発想かもしれないが、村人達には会わなかった。だが報告は受けた。その時までに君は、どこかでもううんざりしてしまったのだろうね。大シマロンを倒し、新たな国が興り、自分は王ではないものの、かつて治めていた地域の支配者として復帰できた。元通りになれるかと期待したが、だが実情はさっぱりだ。スヴェルノーヴェンはちっとも良くならない。良くならないどころか、むしろ悪くなっていく。南は北部に与えられるべき恵みを奪うばかりで、中央は何もしてくれない。君の中に、不満が溜まりに溜まっていたんだろう。スヴェルノーヴェンが苦しいのは、決して自分の責任ではない。自分はこんなに頑張っている。それなのに、国土は荒れる一方、民心も離れていく。大シマロンに支配されていた時の方がましだった。元の王など何の役にも立たないと、そんな怨嗟の声すら聞こえてくる。もううんざりだ。そこへもってきて、数十人にも満たない小さな村の村人が、悲惨な現状を訴えにやってきた。追い詰められていた君の耳に、マルヴェットの村の現状は、村人の恨みの声に聞こえたのかもしれないね。こんなに辛いのは、お前が無能だからだと……。そして君は、ついにキレた」 スヴェルノーヴェンの執政は、脂汗を浮かべながら、ただ椅子の上で身を固くしている。 「君は命じた。山奥の、たった数十人の村の苦境など知ったことか。そんな村、あると思うだけで目障りだ。焼いてしまえ。地上から消してしまえ。そうすれば、我がスヴェルノーヴェンの苦労の種が1つ減る。そして州軍の兵士が派遣された」 重い沈黙が垂れる議場に、誰かの喉の鳴らす音と、呻くような声、かすかなため息の音が漏れて消える。 カタリと、椅子の足が石の床に擦れる音が、妙に大きく議場に響いた。何人かの眼が向いた先でエレノアが立ち上がり、スヴェルノーヴェンの執政に向かってゆっくりと近づいていく。 「………あなたは……まさか……」 「安心して下さい、エレノア殿」 夢遊病者のような顔で、エレノアが大賢者に顔だけを向ける。 「情報を得て、我が国の者が即座にマルヴェットの村人達を避難させました。村人達は今、国境を越え、ベイルオルドーンで庇護されていますよ。執政殿は知らないだろうけど」 「………兵は……」 スヴェルノーヴェンの執政が驚きに目を瞠っている。 「兵は命令を果たしたと報告したんだろう? 兵士達は、自分達が到着する前に村人達が逃亡していたと知れたら、罰を受けると思ったのさ。だから彼らは空っぽの村を焼いて、ちゃんと命を果たしたということにした。君の命令は、マルヴェットの村を焼いてしまえ、だったんだからね。兵士達が、村人を殺さずに済んで安堵したかどうかは分らない。分ることは、州と州の民を護るべき兵士が、執政の命令のまま村を焼いたという事実さ」 ほう、と、エレノアの口から深い息が漏れた。 「………村人達を、助けて下さった、こと……感謝、申し上げます……」 疲れ果てたようなエレノアの声に、大賢者が軽く肩を竦めた。 「どういたしまして。我が国の者は優秀でね。何か事が起きたときは、いちいち上の者に図らなくても、自分の頭で自分のやるべきことを判断し、行動することができるんだ。どこかの兵士と違って」 その者というのは、新連邦に潜入している間者に違いないが、それを責めることは今の新連邦の誰にもできない。 「何だったら、そうだね、マルヴェットの村人達をここに連れてこようか? 彼らに向かって、エレノア殿、先ほど僕に言った言葉をもう一度伝えてみたらどうだろう? 我が親、我が子、友の死肉を漁らずにはいられないほどの飢えと困窮に地獄を味わい、そのために焼き殺されかけた人々に向かって、いつのことになるかさっぱり分らないけれど、そのうち良い国にするから待っていてくれと、そう言ってみたら? 彼らは何と答えるだろうね?」 もう誰も、ほとんど反応することもできず、押し黙ったままだ。 「という訳で、エレノア殿、評議会諸兄、そして議員、執政ご一同、僕が言わんとしていることは理解してもらえたかな? 新連邦はね、できたばかりでありながら、すでに国家として末期症状を呈しているんだよ。もはやこの国は国じゃない。中央は地方の実情を何一つ把握しようとしないままで、当然のことながら国を纏めることができず、地方はしたい放題だ。1つの国であるという自覚がないから地方同士は助け合うことすらしない。兵は民を護らず、民は国を信じず、ただ息をするだけに汲々としている。せめて国土を半分にしたまえ。少しでも中央の意志と力を届けることができるように。これは友人としての我々の、精一杯の忠告だよ? このままでは新連邦はさらに混乱するだろうし、それこそが新たな火種となって、争いを大陸中に広げていくことにもなるだろう」 呆然と立ち尽くしていたエレノアの両手が上がり、そのまま顔を覆った。 「………なんと……いうこと……!」 絶望的な呻きが掌の隙間から零れ落ちる。同時に、クォード達評議会議員、そして議場に集まった人々から重いため息が溢れた。 □□□□□ 「ご老人をいたぶるのは、僕の趣味じゃ全くないんだけどねえ」 確かに趣味ではないだろうが、大賢者が新連邦の首脳部を嫌っていることは、魔王陛下の側近なら皆知っている。猊下は為政者が無能であることを、もしくは無能な者が為政者として立つことを許せない性質なのだ。 あーあ、と愚痴る大賢者に、だがコンラートは苦笑を浮かべていた。 確かに、大賢者猊下の「良い為政者」の基準に、新連邦の首脳部は達しないかもしれない。だがそれは、猊下のハードルが、特に新連邦の人々に限って意識的に高く設定されているからだとも思うのだ。 ……猊下がエレノア達首脳部に対して好意的になれないのは…俺のせいだ。 コンラートが大シマロンを滅亡に追い遣るために、共に戦った彼ら。 彼らはコンラートを、いずれは自分達の王にと願った。ユーリから永遠に引き離そうとしたのだ。 この際、彼らがユーリを魔物の王だと誤解していたことや、コンラートにとってどれほど大切な主であるか知らなかった、ということは関係ない。 コンラートの出奔はユーリを深く深く傷つけた。長い間、苦しめた。村田が、今はほとんど口にはしないが、決して許すことのないコンラートの罪だ。 村田にとって、エレノア達は、新連邦という国は、コンラートのその罪が具体的な形になってこの世にあるものなのだ。 それどころか彼らは、ようやくユーリの下に帰還し、罪を償いつつあったコンラートを、自分達の無能と愚かさ故に再び自分達の下へと引き戻した。 そのために、ユーリがどれほど苦しんだか。 彼らの姿を見ると、村田がただそれだけでムカムカするらしいことに、コンラートは気づいていた。ユーリが彼らに対して何の遺恨も残していないので、村田だけがその感情を表に出すことができず、よけい腹立たしく感じているらしい。それはつまり……。 八つ当たり、だよねえ。酒を酌み交わしながら、笑って言ったのは幼馴染だ。 知られざる猊下の子供らしさというか、可愛らしさだよな。 幼馴染は妙に嬉しそうだったが、その「可愛らしい」感情のぶつけ先にされたエレノア達はちょっとばかり……気の毒かもしれない。 とは言え、長年の「同志」のために、大賢者猊下に逆らう気はさらさらないコンラートだ。 「ですが、今この場で一気呵成に話を進めるためには、これも致し方ないでしょう。同情して手加減している余裕はありません。我が国がやろうとしていることを小シマロンが知れば、何か妨害を仕掛けてくることもあり得るのですから」 「そうなんだよねえ。先延ばしはしたくないし、さっさと決断してくれないかな。そうすればもう彼らには用がないんだから」 魔族と結ぶにあたり、小シマロンはこれまでの同盟国を吸収し、将来的な勢力拡大の手を打とうとしている。これに対し、眞魔国もまた打つべき時に手を打っておかなくてはならない。友好条約を結ぶからと、悠長に構えてなどいられないのだ。外交は甘くない。油断は禁物だ。九州独立支援は、そのための布石である。ぐずぐずすれば、すぐ側に国を構える小シマロンが割り込んでくる可能性も高い。 「ところで猊下。お伺いしたいことがあるのですが」 「何だい? ウェラー卿」 「マルヴェット村のことなのですが。飢餓に襲われ大変な思いをしたという話や、執政がヒステリーを起こして村人達を始末しようとした話は聞いております。ですが、村人達が同胞の肉を食して飢えを凌いだという話は、今ここで初めて耳にしたのですが……」 「うん。僕もだよ」 猊下と閣下の会話に耳を澄ましていた、閣下と同じく初耳の悲惨な物語に胸を痛めていた「参謀室」メンバーを始め、随身一行(ちなみにヨザックは「ずっと猊下の側にいたけど、んな話、ひとっことも聞いたこたねーぞ」と、胸を痛めるよりも、胡散臭そうな顔で2人を眺めていた)が、一斉に「うっそー! ウソなの!?」と顔を引き攣らせた。 「…………猊下」 「ほら、まあ、何ていうかなー、彼らの覚悟を促すための演出っていうかー、その場の勢いっていうかー」 「…………猊下」 「君もあるだろ? ウェラー卿。ついつい勢いに乗せられて、うっかり国を出奔しちゃったりとか、陛下にひどい言葉を投げつけて傷つけたりとか、船から陛下を突き落としたりとか、キレイなお姉さん達と浮気しちゃったりとか」 「してません」 「うわ、白々しい! したじゃないか!」 「してしまったことと、していないことをごっちゃにするのはお止め下さい。ラストの浮気はしてません」 「摘み食いくらいはしただろ?」 「してません」 「ホントに?」 「本当です」 「甲斐性なし」 「…………何と仰って下さっても結構です。ですが、俺は陛下と心を通わせてから、ただの一度も浮気などしておりません」 いいかい、君達。 猊下と閣下の緊迫感溢れる(?)会話に、ドキドキと耳を傾けていた随身一同が、猊下のいきなりの呼びかけにあたふたと姿勢を正した。 「嘘も方便という。正しいことをするためには、嘘も必要だという意味だ。この場合、はったりとも呼ぶが、僕が新連邦の人々に対して言ったことも、今のウェラー卿の言葉にしても、こういう時の嘘やはったりは常に堂々としていなくてはならない」 「俺は嘘もはったりも言ってません。俺は陛下を裏切るような真似は、一切いたしておりません」 「ウェラー卿のこの表情とこの口調を忘れないように。これだけ堂々としていれば、まさかと思っていても段々本当のことかもしれないという気になってくるものだ。人の上に立つ資質を持つ者は、正しいことをするために、しゃあしゃあと嘘を突き通す才能も必要なんだよ。そのために、ウェラー卿は君達の素晴らしい手本となってくれるだろう」 おお! 青少年達が一斉に感動の声をあげ、目を瞠った。 「勉強になります、閣下! ……あ痛っ!」 うしろ頭に手を当てて、まだ80歳そこそこの少年が首を捻った。 彼の背後では、拳を握ったヨザックが眉をぴくぴくさせて立っている。 「感動する前に、お前ら、殺気くらい感じ取れるようにしとけ」 じゃねーと、猊下に見切りをつけられる前に、閣下に首を撥ね飛ばされるぞ。 そこでようやく身の危険を察した一同が、うひゃあとばかりに目を逸らす。 「やっぱり、未熟な若者の御守はヨザックに任せるに限るな。これからも頼むね」 「俺、そんなお役目を拝命した覚えはありませんから、猊下」うんざりとヨザックが声を上げた。「本当に勘弁して貰いたいんですけど、とにかく話を会議に戻して頂けませんか?」 「やだなあ、ヨザック。こんなの、暇つぶしの軽い冗談じゃないか。ねえ? ウェラー卿」 「…………………そう。ですか」 「そうさ。こういうちょっとアブない会話ができるのも、僕達が親密だって証拠だよ。ね? だろう?」 「…………………シンミツという単語に、これほど距離感を覚えたのは初めてです」 「神経質な男は嫌われるよ? ……ああ、ほら、彼らの結論が出たみたいだ。それじゃあ話を戻すとしようか」 スッと姿勢を戻した猊下に、全員の肩がガクーッと落ちた。 つまり新連邦の答えがでるまでの、本当に暇つぶしの会話だったわけだ。 慣れているはずのコンラートもヨザックも、そしてもちろん「参謀室」の若者達も随身一同も、襲ってきた疲労感に一斉にため息をついた。 彼らは彼らで、本当に苦労が多いのである。 □□□□□ 「………あらためて議会の承認を得なくてはなりませんが……」 エレノアの苦しげな眼差しが、独立を望んだ執政達が集まる場所に向く。元々四州の執政とその側近達が集まっていた卓には、今、さらに五州の執政達が加わり、期待と不安と高まる興奮を無理矢理抑えた顔が並んでいる。 「私共、最高評議会、は、九州の独立を…承認する、ことといたしました……」 ここまでくればその答え以外にないと分かってはいたものの、やはり衝撃を受けたのか、議場を埋める議員、他州執政、中央官僚、各州政庁関係者が一斉にざわめき始めた。 「納得頂けたようで、安堵しました」 神妙に答え、頷く大賢者。だがそこへ。 「お待ちあれ! お伺いしたき議があり申す!」 議員席に座る一人が、声を上げて立ち上がった。全員の注目が集まる。 「眞魔国大賢者猊下にお伺い致す!」 「待たれい! 今そのような……」 「構いませんよ、どうぞ」 気負いこむ男に、大賢者が軽く応じる。 「九州の独立を支援されることに、私は少なくとも、その必然性が感じられぬ!」 「必然性?」 「さよう! 九州のみの独立を支持する必然性でござる!」 「……ああ、なるほど。つまり、九州以外にも実は独立したいと考えている州があるかもしれない。それに対して我々はどうするのか、ということかな?」 「さよう! その……九州は南部の州ばかりだが、例えば北部でも、独立したいという州があるとすれば……」 「でも、北部の州は独立しても国としてやっていけないだろう? だからこそ連邦に入ったわけだし」 「なれど、貴殿も申された通り、州同士の協力は全く出来ており申さぬ。これでは連邦にいる意味がない。もしも、眞魔国の全面的な支援のもとで独立できるということであれば……」 「自分達も独立したい?」 直截な問い掛けに、男、おそらくは北部のどこかの州の執政に近い者が、わずかに口篭る。だがすぐに表情を厳しく引き締めると、大きく頷いた。 議場のざわめきが一気に高まる。 「お待ちなさい! そのような……許されませんっ!」 これを許したら、新連邦は文字通り瓦解する。思わず椅子を蹴り、立ち上がってエレノアは叫んだ。 「だが! 新連邦がこのまま立ち行かねば、混乱は広がり、さすれば眞魔国の危惧する通りの……」 「九州独立は、そうならないための措置です!」 「それを九州に限るということがおかしいと言っているのだ! 中央の無策ぶりは……」 「やらないよ」 新たに起こった新連邦崩壊の可能性に、人々の興奮が急激に高まった瞬間、その一言が議場に響いた。 「九州以外の州の独立支援などしない」 高まった興奮が、急激に萎んでいく。どこか残念そうな声が、そこかしこから聞こえてくる。 声を上げた北部の州の男は落胆の表情を浮かべたものの、それでも果敢に身を乗り出した。 「何ゆえでござるか!?」 「独立も眞魔国の全面支援、その後の生活も眞魔国掛り。それって独立じゃないだろ? それに、どうして僕達が大事なお金をそんなところに注ぎ込まないとならないのさ?」 「し、しかし、九州は……」 「九州は赤ん坊の這い這い並みではあるけれど、自力で前に進む力が内在している。僕達はこれを引き出すだけだ。でも、九州以外にそれができる州はない。僕達、必要なお金の出し惜しみはしないけど、無駄金は1銭も使う気はない。というか、そもそも君達を助けて僕達にどういうメリットがあるわけ?」 「…め、めり…?」 「どうしても自分の州を独立させたいなら、九州についての話が全部終わってからにしてくれるかな? その時になってもまだ独立したいなら、相談に乗ることも吝かじゃない」 意味不明な言葉に、男の動きが不自然に止まる。その相手に煩げに手を振ると、大賢者は九州の執政達が座る席に顔を向けた。 「さて、と。ようやく君達と話ができるね」 「だっ、大賢者猊下に申し上げまするっ!」 ヴォーレンの元執政が、咳き込むように声を上げた。 「我等の独立に対して、貴国のご支援の表明に心から感謝申し上げる! この上は、我ら九州、力を合わせて眞魔国との友好を深めていく所存にございまする!!」 ヴォーレンの宣言に、残り八州の人々は熱心に頷き、新連邦の他の人々は憎々しげに眉を顰めた。 そして大賢者はといえば、胡散臭そうに目を眇め、何か酷く醜いものか汚いものを目にしたかのように口元を歪めている。 「………あ、あの……」 新連邦はまだしも、眞魔国の代表から期待した反応を得られないことに、九州の人々は戸惑いを隠せない。 「大賢者、どの…。わ、我らは……」 「バカか、君達は」 「…え……は?」 呆れ果てたと言わんばかりの少年の声に、九州の人々ばかりではない、議場の他の人々もきょとんと目を瞠った。 「国をやると言われてほいほいと同志を裏切り、自立できるまでに援助してくれた友好国までも簡単に裏切るような君達に、僕達が玉座を進呈すると本気で思っているのか?」 言われたことが咄嗟に理解できないのか、人間達は呆けた様に大賢者を見つめるままだ。 「そんないい加減な人間の友好の誓いを、僕達が信じるとでも? 君達は、一体どこまで僕達をバカにすれば気が済むんだ? 君達の様な理想も信念も信条もない輩、どこからか良い条件を提示されれば、誓いなどあっさり忘れてまたぞろ裏切るに違いないさ。君達だって、分かっているのだろう?」 「そっ、そのような……!」 「我らは決して貴国の御恩を忘れたりはいたしませぬ!」 「さようでござる! それに、貴国は小シマロンとすら条約を結ばれるのではないか! ならば我々とも……」 「揃いも揃って、バカと無能と恥知らずばかりか」 ゾッと背筋が凍るほどの冷たい声音に、人間達ばかりではない、魔族の随員一行すら顔を強張らせた。 「国家や政に対し、何ら定見もないくせに、小シマロンと自分達を同列に並べるか。サラレギーが聞いたら、激怒では済まないぞ。……ったく」 舌打ちするような顔でそう言うと、大賢者は顔を上げ、コンラートに視線を向けた。 「どう? あちらは一服して、そろそろ旅の疲れも取れたかな?」 「もう充分でしょう。皆様、お心がそれはもう高揚されているご様子で、疲れなど微塵も感じていないと仰る方がほとんどでした。疲れを癒すよりは、一刻も早く対決したいものだと……」 「そう、それは良かった。じゃあ、ウェラー卿、お客人方をご案内してくれるかい?」 「畏まりました」 軽く一礼すると、コンラートは踵を返し、人々の注目を浴びたまま、ゆっくりと議場の隅、隣の控えの間に通じる扉に向かって歩いていった。 「……猊下、あの、一体……?」 評議会議員席から、戸惑う声が上がる。 彼らもまた、眞魔国の意図が読めずに混乱しているのだ。 「実はお客人を何人か、お招きしていてね」 「……きゃ、客……?」 「そう。先ほどご到着されたので、ウェラー卿に手配してもらって、控えの間でお休み頂いていたんだよ。食事もお茶もお着替えもして頂けたかな? ウェラー卿がいてくれると、こういう時助かるよね。彼が一言命じれば、ここの人たちは王様からお言葉を頂いたみたいに興奮しちゃって、それこそ争うような勢いで働いてくれるからねえ。ま、だからこそ陛下からウェラー卿を借りてきたわけなんだけど」 つまり、ご接待の円滑な手配係として必要だったわけだ。 控えの間に通じる扉の取っ手に手を伸ばしたコンラートの動きが、ほんの一呼吸、凍ったように固まったのをヨザックは見逃さなかった。……見逃さなかったからどうなるものでも全然ないが。 人々が注目する中、コンラートが扉の取っ手に手を掛け、徐に扉を開き、中に向かって声を掛けた。 「お待たせ致しました。どうぞこちらにお入り下さい」 丁寧に呼びかけたかと思うと、兵士達に命じて扉を大きく開かせる。 一体何事が起こるのかと、人々が見つめる中。 間もなく控えの間から人影─それも1人や2人じゃない─が現れた。 「………これ、は……?」 ゆっくりと、列を組んで議場に入ってくる人々。 年齢はまちまちだが、男性は皆女性の手を取り、服装は概ね上品で、着替えを済ませたのか、女性は皆ドレスを纏っている。一家なのか、子供を従えている男女もいる。 身に纏う、決して華美ではないものの品の良い服装といい、堂々と、悠然と胸を張り、誇り高く顎を上げている様子(よく見れば、かなり緊張しつつ頑張っている者もいないではないが)からして、それなりに高い身分の人々であることが分る。 彼らの入場に合わせ、大賢者ムラタがゆっくりと立ち上がった。 「皆々様、遠いところをお出まし願い、まことに申し訳ありませんでした。こうして皆様においで頂けました事、主に成り代わり御礼申し上げます。さぞお疲れでございましょう。ろくにお休み頂けず、申し訳なく思っております」 打って変わって丁寧極まりない大賢者の対応に、新連邦の人々が戸惑いを深め、眉を顰めている。 だがその中で数名、何かに気づいたかのように目を見開き、驚いたように立ち上がる者がいた。 「とんでもございません、猊下」 新たに登場した人々の中で、最も先頭を歩いていた夫婦らしきカップルの内の男性、悠揚迫らぬ物腰の40歳程の、が、にっこりと笑って頭を下げた。その最も麗々しい服装からしても、その自然な態度からしても、また、彼の動きに合わせて全員が腰を屈めた様子からしても、この人物が一行の代表格となっているらしいことが分る。 「充分休ませて頂きました。妻には眞魔国の優秀な御医師を国許から付けて頂きましたし、ただ今はウェラー卿のお手配もありまして、湯も頂くことができました。細部に到るまでのお心遣い、感謝申し上げております」 「奥方様には」 大賢者の目が傍らのまだ若い女性に向く。女性の下腹は明らかに膨らんでいた。 「大切なお身体でありながら、ご無理をお願い致しました。お辛いことはありませんか?」 「何ともございませんわ、猊下!」まだ20歳になるかならぬかの若い奥方が、頬を紅潮させて断言する。「それに私、ただ今大変気持ちが高揚しておりますの。身体の底から元気が漲っているような気がしております。きっとお腹の赤ちゃんが、私に力を送ってくれているのですわ!」 そう言って己の腹に手を当て、まだ見ぬ子に笑顔を向けた奥方が、すぐにキッと顔を上げ、前方に目を向けた。 その視線は大賢者を通り越し、議場の中心、評議会議員や執政達が集まる場所に向いている。 そしてわずかの間、誰かを探すように目を眇めて人々の顔を見ていたが、やがて目当ての人物を見つけたのだろう、その眼差しは一気に鋭くなり、同時に、唇の両端がスッと上がってかすかな笑みを作った。 奥方が夫から離れ、議場の中心に向かって歩き始めた。 その時、まるで彼女の動きに釣られた様に、議場にいた人物、ヴォーレン州の元王にして執政が、愕然とした表情で前に進み出た。 「………そ、そなた……まさか、まさか……!」 「まあ!」奥方が驚きの声を、かなりわざとらしいまでに大きく上げる。「私が誰か、お分かりでございますか!? これは驚きました。お久しぶりでございますな、伯父上様」 伯父!? 人々が驚きの声を上げる。 「はい」人々に応える様に奥方が頷いた。「私の母は、ここにおいでのお方、ヴォーレンの元国王殿の妹でございます。私にとって、この方は伯父。ですが伯父上様、あなたは私の母に、自分の妹に相応しい待遇は一切なさいませんでしたわね。自分と違って身分卑しい女の腹から生まれたと、それはそれは蔑まれておられた。特に、前王がお亡くなりになり、あなたが国王の位に就かれてからは、母と私、王族として扱って頂いた記憶が全くございません。あなたに王族の一員として思い出して頂いたのは、わずかの借金の肩代わり、貢ぎ物として都合の良い女が必要になった時だけでした」 ですが、その点につきましては感謝申し上げておりますのよ? 奥方が婉然と笑う。 「私は身を売られたも同然でしたが、あちらの国王陛下は大層お優しい方でいらっしゃいました。陛下のご差配で、私、素晴らしい夫と巡りあうことができましたの。今はとっても幸せですわ。でも……今回のあなた様の為さりよう、私、ヴォーレンの歴とした王族の一員として、絶対に許すことができませんわ! 一時の欲に判断を眩ませ、同盟者を裏切り、それどころか、あれほどまでに慈悲の手を差し伸べ、独り立ちできるまでに援助して下さった眞魔国を裏切り、魔族を魔物だなどと頑迷に信ずる人々と手を握るとは、何という愚かさ! このような暗愚な男が王であったのだと思うと、私、民が哀れで哀れで涙が止まりませんでした。ましてこのような恥ずべき画策していたとは! 私、事実を知りました時、あまりの情けなさに全身が怒りで震えましたわ! 伯父上!」 よくも誇り高きヴォーレンの名を汚されましたな!! 奥方の糾弾に、ヴォーレンの元執政の顔が真っ赤に染まると、引き攣れるように強張った。 「そなた、よくも……っ!」 「奥方様」 スッと割って入った大賢者の冷静な声に、ヴォーレン元執政の動きが打たれたように止まる。 「興奮なさっては御子に良くありませんよ? あなた様のお怒りは至極ごもっともですが、どうぞ落ち着いて下さい」 「まあ、私…!」奥方が途端に少女の様に恥らう。「とんでもない醜態を…! 申しわけございません、猊下。ですが、伯父の姿を目にしたら、もうとても我慢がならなくなり……」 「分りますとも、奥方様」 そう言って優しく微笑み掛けると、大賢者は奥方を夫の手に預け、それから後方に控える人々に声を掛けた。 「どうぞ皆様もご遠慮なく前に。どうやらあなた方がどういう方々か、彼らも気づいたようですし」 彼ら、と呼ばれたのは、独立を目指す九州の執政達だった。 全員が席を立ち、驚愕の表情を隠しもせずに闖入者達を見つめている。そして新たに登場した一行の人々もまた、こちらは並々ならぬ決意を全身から燃え立たせて相手を睨みつけている。 状況がさっぱり理解できないのは、エレノア達、そのほかの人々だった。 「…あ、あの、猊下……これは一体……? この方達は……」 「ああ、そうだね、ご紹介しよう」 エレノアの問い掛けに、にっこり笑みを浮かべると、大賢者ムラタは一行の前に進み出て、議場の人々をゆっくりと眺め渡してこう言った。 「この方々こそ、新たに建国される9つの国の、新たな王となられる方々だ……!」 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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