日々は恙無く過ぎていく。少なくとも魔族の国、眞魔国では。 眞王陛下の恵みと「精霊の王」たる魔王陛下の祝福の下、天候は季節を裏切ることなく緩やかに変化を繰り返し、今年も豊作だと農民達は喜んでいる。 農産物だけではない。技術の発展と各種国家事業の展開、国の援助を背景にした様々な産業の発展、貿易量の増加、人の交流の拡大に拠る人口の増加、交通網の整備などによって、眞魔国の経済は活況を呈している。 人間の国の多くが自然の崩壊に喘ぎ苦しんでいることとは裏腹に、魔族の国の人々の顔は希望と笑顔に溢れていた。 そんなある日の血盟城。 「1つ山を越えたな」 グウェンダルが書類を揃えながら言った。口元に柔らかい微笑が浮かんでいる。 つい先日、眞魔国においては、新たな人間の国との友好条約締結が決定した。 国民性として反魔族的な風土の根強い国であったため、交渉には時間と労力が掛かったが、その国の王が魔族との融和の必要性─もしくはそれによって齎される利益─を冷静に判断できる人物であったため、難航するかと思われた交渉も、一旦軌道に乗ればその後の展開は早かった。 「うん。…ギュンター、お疲れ様だったな!」 「いいえ、とんでもございません」 交渉を一手に担ったギュンターの笑顔もまた充足感に満ちている。 「実に取り組み甲斐のある仕事でございました。相手方の担当者も、これがなかなかの人物でして。最後には良い友人と、お互い好意をもって認めることができたという自信がございます」 「そっか。だったら良かった。……ところで、村田からの連絡は?」 「先だって届いた、あれ以来はまだ……。だが猊下のことだ、着実に成果を上げておられることだろう。身辺のこともグリエがついているし、問題あるまい」 危機的な状況にある新連邦と、その地に生きる民のために何ができるか。 その策を村田に提示された時、ユーリは予想していた以上に衝撃を受け、迷った。村田を信じると断言していながら、その気持ちにはわずかの迷いもないながら、それでも即座に了承することができなかった。 ユーリだけではない、宰相や王佐ですら一瞬言葉に詰まった。 その内容に留まらず、大賢者の立てた策が実行されるまでの道程には、ほとんど綱渡りに似た危うさに満ちていると、グウェンダル達には見えたのだ。 だが……。 救いたいのは、友人達が作った国か、それとも民か。 護りたいのは、友情か、それとも平和か。 問うた村田の眼差しは厳しかった。 どちらもだ。 それがユーリの中にある、本物の思いだ。 苦しんでいる友達を救いたい。大陸の、あの地に生きる民を、少しでも救いたい。 だが、ユーリは眞魔国の王だ。国と魔族の民を背負う者として、何よりやらなければならないことがある。 そして、世界から戦争や飢えや流行病がなくなるように、自分と同じく人々の命を預かる人間達と、力を合わせて成し遂げていかなくてはならないことがある。 そのためにこそ。 渋谷。君が背負うものは、普通人一人が背負うものより遥かに大きくて重い。だからこそ、君は目先の現象や感情ではなく、10年、50年、そして100年先を見据えて決断し、行動しなくてはならない。君はそういう立場にいる。 それが、君自身が選んだ、君の使命だ。 だからユーリは決断した。 王の裁断を受け、村田は間髪入れずに行動を開始した。 自ら、ほとんど初めて単独で、眞魔国を出て必要な各国を訪問し始めたのだ。 『ヨザックを借りていくよ?』 お忍びだからと、気心の知れたお庭番1人をお供に、村田は身軽に国を飛び出していった。 『猊下のことは、どーぞこのグリ江にお任せを〜』 パチンとウィンクして、不敵に笑ったヨザック。おそらくユーリの心を少しでも軽くしようと気遣ってくれたのだろうと思う。 信じて任せると決めた。だからユーリはもう迷っていない。願うのはただ、村田の計画通りに全てが進んで、やがて、あの国に住む全ての人々が、もちろん友人達も含めて、皆が苦しみや哀しみを脱し、幸せになることだけだ。 「今日も良い天気だね」 「ええ、本当に。後ほど報告されると思いますが、今年も大地の実りが良く、各村の収穫祭は盛況だったらしいですよ?」 執務を終え、ユーリはコンラートとクラリスを従えて城の回廊を歩いていた。これから入浴して一休みしてから、魔王直轄各地の農業生産部門の管理担当官、いわゆる「お代官様」達を迎えての、報告会を兼ねた晩餐会に向かわなくてはならない。 「年貢に苦しむ農家の皆さんや、お代官様に黄金色の饅頭を贈る悪徳商人とか、帯をくるくるさせられるお嬢さんとかいないよね?」 「いないと思いますが」思わず吹き出しながらコンラートが答える。「いたら陛下が乗り込むんですね? あ、その時は印籠を出すことにしてくださいね。もろ肌脱ぐのは駄目ですよ?」 「でもおれ印籠持ってないし」 「刺青もしてないでしょ? 陛下の場合、双黒が印籠代わりになりますよ。それにお供もちょうど2人います」 「角さんはコンラッドで、助さんは……あ、クラリスがいるか」 そうそう。頷くコンラートの隣で、クラリスが「は?」という顔をしている。 その時、彼らの背後から軽やかな足取りで近づいてくる気配があった。コンラートがスッと振り返れば、ヴォルフラムが笑顔で颯爽とやってくる。 「ヴォルフ」 コンラートの呼びかけに、ユーリも気づいて振り返った。ヴォルフラムが「うん」と頷いて軽く手を上げる。 ヴォルフラムは、国際会議を準備段階から一切我が手で仕切って以来、一回り大きくなったと評されていた。 フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムは、これまで良い意味でも悪い意味でも、「上王陛下の末息子」であり、「宰相フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下の末弟」であり、「すぐ上の兄上が、かの英雄ウェラー卿コンラート閣下」、という存在であった。あまりに家族が高名であるため、どうしてもヴォルフラム自身が1人の魔族として武人として、魔王陛下の臣下として、評価されにくかったのである。 だが今回、国際会議の総責任者として抜擢され、立派にその役目を果たしたことで、人々の目は一気に彼を見る目を変えた。まさしく刮目して見よ、である。 ヴォルフラム自身も自信をつけたのか、歩く姿にも、ユーリと一緒になって駆け回っていた頃の子供っぽさは影を潜め、一人前の男を自覚する余裕すら感じられるようになった。 国際会議によほど感じるところがあったのか、兄宰相に対し「これからは外交に積極的に関りたい」と言っていたという話を思い出し、コンラートは頼もしく成長した弟に笑みを浮かべた。 「猊下から何か連絡はないのか?」 早速切り出すヴォルフラムに、コンラートは「いや」と答えた。 「まだだ。だがヨザックからは、順調に行っているという報告もあるし、問題はないだろう」 そうか。頷いて、ヴォルフラムはユーリに顔を向けた。 「大丈夫か? ユーリ」 「…? 大丈夫だよ? 何で?」 きょとんと聞き返す王に、ヴォルフラムはそっと視線を外し、「いや」とわずかに口篭ってから、改めてユーリの顔を見直した。 「猊下の立てた策を聞いた。おそらく……お前にとって辛い決断だったのではないかと思ったのでな」 「……ああ」 そうか、と頷いてから、ユーリは笑みを浮かべて真っ直ぐ親友と視線を合わせた。その笑みには、何かをきっぱり吹っ切った、さばさばとしたものがある。 「大丈夫だ、ヴォルフ。確かに……村田の作戦がうまくいったら、おれ、カーラさんやアリー達に嫌われる、いや、憎まれるかもしれない。でも、それが結局戦争から民を守ることになるなら……おれは、やる」 ぐっと顎を引き、口元を引き締めたユーリに、ヴォルフラムがフッと唇を綻ばせた。 「なんだよ」 「こら、そこで頬を膨らませるな。せっかくお前も王らしくなったと思ったのに。台無しじゃないか」 「……悪かったな、台無しで」 「拗ねるな。……じゃあ僕は行く。これから条約締結を求めてきた国との交渉準備会議があるんだ」 「ヴォルフ、本格的に外交やるんだな」 「ああ。ようやく僕も、本気で携わってみたい仕事を見つけたように思う」 「そっか。……なんかさ、ヴォルフ」 「何だ?」 「この頃急に、そのー……でっかくなったっていうか、男前になったな!」 「何を言う」きゅっと眉を顰めてヴォルフラムが言い返す。「僕はずっと前から男前だ! ……だが」 そこでヴォルフラムが、王と次兄をちらりと見遣り、ちょっと意地悪な笑みを浮かべて言った。 「お前がそれをようやく認められるようになって、僕と将来を共にすることを改めて考え始めたというなら、遠慮せず言っていいぞ?」 「うん、それはないな」 即答され、ヴォルフラムの意地悪な笑いがくしゃっと崩れる。ユーリの傍らでは、一瞬ドキリとしたらしい婚約者が、ホッと小さく息を吐いた。 「ユ〜リィ〜〜」 「だってしょうがないじゃないか。あり得ねーもん」 ったくもう。小さく毒づくと、ヴォルフラムはそれでもすぐに気を取り直したのか、「じゃあ、僕は行くぞ」と手を上げ、さっさと踵を返した。 「……ああ、ユーリ」 「なに? まだ何かあるのか? ヴォルフ」 「猊下の策のことだが」 「うん?」 「確かに……最初はカーラ達もお前を、いや、我々を恨むかもしれん。だが、猊下の策はこれから先、何年も何十年もの未来を見越して考えたものだと思う。だから彼らもいずれきっと理解してくれると思うぞ?」 だからあまり気に病むな。 そう言って、今度こそ背を向け去っていく友人の後姿をしみじみと見つめていたユーリは、そこでフッと、これもどこか大人びた笑みを浮かべた。 「……ありがとな、ヴォルフ」 ほんとにさ。 ユーリは傍らに立つコンラートを見上げて言った。 「ヴォルフってば男前になったよなー。おれ、すっかり置いてけぼりな気分だ」 「あなたも立派に成長されてますよ? ですがまあ俺としては……」 非常に危機感を覚えています。 言われて、ビックリした様子でユーリが目を瞠った。 「危機感!?」 「ええ」切実な様子でコンラートが頷く。「あなたが仰った通り、あいつはめきめき成長してますからね。あなたがいつか成長株に心を奪われるのでないかと、俺は不安で仕方がありません」 「………本気でそんなコト考えてるのか!?」 「そう、ですね。俺は自分があなたに相応しいと思ったことは1度もありませんし。だから……」 「コンラッド、ちょっと屈んで」 言葉を遮られて、一瞬だけきょとんとしてから、コンラートはすぐに微笑を取り戻し軽く頭を下げた。と。 ぱちん。張りのある小さな音がして、コンラートは目を瞠った。 両頬にユーリの掌。……叩かれた? 「いまだにそんなコト考えてるとしたら、本気でバカだぞ、コンラッド! つーか、おれをバカにしてるぞ!」 「……ユーリ……!?」 「おれは、そりゃヴォルフだってグウェンだって村田だって……とにかく皆大好きだけど! でもっ、おれがっ、一生いっしょにっ、つまりっ、ふっ、ふっ、ふーふっ、としてっ、いつもいつもいつもいっしょに死ぬまで一緒に並んで生きていきたいのはっ、コンラッドなんだっ!」 いーかげんそれで納得しろよっ!! ぎんっ、と睨みあげるユーリ。目を瞠ったまま圧倒された様子のコンラート。 ふっとコンラートの表情が緩んだ。 「……すみません……。つい……卑屈になってしまったみたいで……」 「ついって言うと村田が睨むぞ」 「……………」 急激に情けない顔になった婚約者に、「まったくもう」とユーリはため息をついた。 ユーリが「世界で一番カッコ良い!」と信じている男は、一体どういう根拠があるのか、自分に全然自信がないのだ。 幼馴染に言わせると、自分が幸せになれること自体を信じていないのだという。 ……そんなの、おれが打ち破ってやる! そもそも。この世のどこに、自分の王様の夢を叶えるために敵国にたった1人で潜入して、宮廷で成り上がって、その上反乱軍まで組織して、その国を内側と外側から一気に滅ぼすなんて真似ができる? もし失敗したら、忠誠を誓った王様から反逆者だって憎まれたまま死のうなんて覚悟を持てる? おまけに新しい国の王様になって欲しいって望まれて、それをあっさり蹴って戻ってきて、偉くなることも望まずに、前と同じ場所で前と同じ仕事をすることに満足できるなんて? 自分がどれだけすごい男か、こいつってば全然分かってないんだ。 ホントは。 おれの方がよっぽどコンラッドにふさわしくないって思ってるのに……。 でも! ユーリはふんっっと気合を入れると、コンラートの胸倉をぐいっと掴んで引き寄せた。 「おれはコンラッドと結婚するんだ! おれのダンナ様になるのはコンラッドだぞ! おれが生む赤ちゃんのおとーさんもコン……っ!」 そこでユーリの顔が一気に火を吹くように真っ赤になった。一呼吸遅れて、コンラートの頬も赤く染まる。 胸倉を掴んだユーリと引き寄せられて屈んだコンラートが、お互い何を想像しているのか、真っ赤な顔を間近で突き合わせ、そのまま固まったように動かなくなってしまった。 「………あ、あー」 コホンコホン。忘れ去られている護衛の1人が、口元に拳を当て、わざとらしく咳払いをする。 ハッと。ユーリとコンラートが目覚め(?)た。わたわたとお互いから離れると、二人は意味もなく顔を周囲に向け……さらに真っ赤になった。 回廊やそこに面した庭には、たまたま通り掛った兵士や女官、城勤めの者達が、揃いも揃って拳を胸や口元に当て、「きゃー♪」という顔で目を爛々と輝かせている。 「……参りましょう」 澄ました顔でクラリスが言うと、主と上司はコクコクと頷き、並んでそそくさと歩き始めた。 陛下はまだ良いとして。クラリスはうんざりと呟いた。 「…たく、いい年をして。いい加減にしろ、このヘタレ」 眞魔国は今日も平和だった。 □□□□□ 「は〜、やっぱりクニに戻るとホッとするね〜」 ソファに身体を投げ出すように腰を下ろして、村田が深々と息を吐き出した。 「お疲れ様でした、猊下」 お茶を差し出しながらコンラートが微笑む。 「ヨザックも! お疲れ様!」 ユーリに労われて、村田の座るソファの背後に立ったヨザックが、「いいえ〜」と破顔した。 「猊下との2人旅ですもの〜。グリ江ったら楽しかったですわぁ」 グリエ。グウェンダルに厳しい声を掛けられて、ヨザックがすまし顔で姿勢を正す。 「まあとにかく、ヨザックには助けてもらったよ。実際なかなか楽しい旅行だった。ああ、フォンヴォルテール卿、君の諜報員達にも助けてもらった。行く先々に来てくれて、最新の情報を伝えてくれたのは実にありがたかったよ」 大賢者のお褒めのお言葉を頂戴して、グウェンダルが恭しく頭を垂れた。 「で? 村田?」 「うん」お茶で喉を潤して、村田が頷く。「下準備は終わったよ。ほぼ僕が想定した通り。後はあちらの状況しだいだけど、間に合って良かったよ」 そこで村田の視線がグウェンダルとギュンターに向く。 「状況は。加速しておりますね」 傍らにあった書類を手にしてギュンターが報告を始める。 「新連邦の自然の復興は、決して滞っているわけではありません。ですが……どうも民心が荒れているようです。特に北部の民が、南部と比べて自分達は軽んじられている、もしくは虐げられている、と強く意識しているようです。自分達の領主、いえ、執政官に対して反抗的ということはないようですが、南部の民、もしくはその代表としてその地の執政官に対し強烈な反感を抱き始めているもようでございます。不穏な行為を煽動している者も北部のそこかしこに現れていると」 「不穏な行為?」 「南部に対し実力行使をしようということかと、陛下」 「実力行使って、なに、南部に攻め入ろうとか? 攻撃してどうするつもり? 食料を奪取するとかかな?」 「いえ、猊下、そこまでまだ具体的な報告は上がっておりません。ただ、このまま南部の好きにしてたまるかという気運が盛り上がっているようでございます」 「それと付け加えるなら」グウェンダルも書類を手に言葉を継いだ。「これはベイルオルドーンのウォルワースからの報告だが、近頃新連邦北部の州からベイルオルドーン南部へ流れてくる民が、急激に増えてきたようだ。ウォルワースの領地でも難民対策に忙しいらしい」 「えっと」ユーリが宙を見つめながら言った。「ベイルオルドーンは新連邦の北にある国だよね? そっか、新連邦の北部はベイルオルドーンにとっては南部なのか……」 「北部は自然の荒廃も激しく、砂漠化も飢餓もまだ完全には治まっていない。本来なら、その北にあるベイルオルドーンはさらに悲惨な状態にあるはずだ。だがそのベイルオルドーンに、新連邦の民が、いわば逃げ込んでいる」 「ベイルオルドーンは大分良い感じになってるって言ってたよな?」 「そうだ。特に南部はな。ウォルワースの話に拠ると、何年も花が咲かなかった果実の木が蘇り、今年ようやく収穫できるほどに実をつけたそうだ。ウォルワースが治める3つの村では、合同で収穫祭が賑やかにとり行われたとある。諜報部員の報告もあるが、自然の復活はベイルオルドーンの方が新連邦に比べて、遥かに進んでいるらしい」 「面積の問題だね」 そこで村田がさらりと口を挟んだ。「面積?」とユーリが問い返す。 「そう。新連邦は広すぎて、精霊の力が行き渡り難いんだよ。ほら、同じ濃さの絵の具を同じ量、盃いっぱいの水に落すのと、海に落すのとじゃ、薄まり方が全然違うだろ?」 「………比べる例えの差が激しすぎるけど、言いたいことは分かった。それで……その民はやっぱり新連邦じゃ食べていけなくなってベイルオルドーンに?」 「それもあるが」グウェンダルが眉を寄せる。「内乱が起こるのではないかと、それを怖れて避難してきたというのがもっとも大きな理由のようだ」 「あの地の民は戦の気配に敏感だからね。気の毒なことだけれど」 戦乱の時代が長すぎたよね。村田が言って、表情を厳しく引き締めた。 「民がその気配を察するまでに到ったのなら、そろそろだ」 「村田……」 「予想通りと言っては何だが、新連邦最高評議会は、事態を好転させることはできなかったようだね」 その場にしんと沈黙が落ちた。 「そう言えば」 思い出した様に、村田が言い出す。 「ガウタス・バタフ。彼のことはどうなった? それから彼の家族のことは……僕の方にはこなかったけれど、こちらには何か連絡はあったのかい?」 「ガウタス・バタフ本人に関しましては、誘拐未遂犯の1人として裁判に掛けられ、すでに刑に服しております。それから彼の家族についてですが、猊下がお出掛けの間に新連邦から連絡がありました。家族は中央の、すなわちレイル・パーシモンズ殿の意を受けた者がヴォーレン州に入った段階では特に身柄を押さえられてはいなかったのですが、彼らと接触した直後、州政庁より家族全員に対する呼び出しがあったそうです。そのため、中央の者達が即座に家族を保護、夜陰に紛れてヴォーレン州を脱出、現在首都にて家族を保護しているとのことでございます」 「ふ、ん。州政庁も対応が中途半端だな…。で? 家族は何か言ってるのかい?」 「は。ガウタス・バタフは重要な役目を頂いたと告げて家を出たそうです。役目の中身などは何も明かさなかったようですが、ただ……」 「ただ?」 「ガウタス・バタフには娘がおりまして、彼女には結婚を約束した恋人がいたようです。ところが、どうやら州執政がその娘に目をつけたらしく、側室奉公に出すよう命じたとか」 「時代劇の悪代官そのものだよな」 ユーリが言えば、村田も「ホント」と肩を竦める。 「ガウタス・バタフは相当悩んでいた模様で、娘はそのような父の姿に心を痛め、執政の側室になる覚悟を決めたそうです。ところが、ある日バタフが突然、もはやこの問題はなくなった、安心して好きな相手と結婚しろと娘に告げたそうです。ガウタス・バタフが執政より役目を頂いたと国を出たのは、その直後であるとのことでございました」 なるほどね。 村田が言えば、ユーリ始め、全員が深く頷いた。 「娘のために、誘拐犯に身を落としたか……。家族を保護したことは、もう彼に告げたのかい?」 「はい。家族の命は護られているのだから、もう真実を隠す必要はないと告げたのですが……」 「彼は何て?」 「肝心なことは何も。中央であろうがヴォーレン州政庁であろうが、ろくでもないことに変わりはないと笑っていたそうです。中央に指導力なく、ヴォーレンに大義なく、どちらが勝っても血を流すのは民だと。家族にしても、どちらに捕らえられても、利用価値がなくなるか、都合が悪くなれば容赦なく消されるであろう。こうなったら最早天に全てを任せるのみと嘯いて、それきり口を閉ざしてしまったようです」 「そうか。あながち間違っていないところがなんともね……」 「エレノア様は、利用価値がなくなったからって、その家族を始末したりなんかしないだろ!?」 「エレノア殿は……たぶんね。でも彼女は女王じゃない。彼女の同僚である最高評議会の議員の中には、必要ないから始末してしまえと考えて、さっさと実行させてしまうのがいないとは限らないだろ? ウェラー卿、その辺りはどう?」 「残念ですが、そのような輩はいないとは言い切れませんね。良くも悪くも、彼らはかつて為政者だったものばかりです。国を滅ぼされて苦労してきたはずなのですが、下々と呼ぶ階層の人々を人間と看做さない性状は、彼らの身に染み付いています」 「……そんな……」 「時代劇の悪代官と一緒さ、渋谷。あれはフィクションだけど、農民や町民を虫けら同様一太刀であっさり殺し、罪悪感の欠片も感じない。あの感覚だよ。文明度の進んだ地球でさえ、それがまかり通る国がまだ幾つもあるんだ。この世界で、そんな行為を明確に犯罪だと断じているのは、おそらく我が国くらいだろうね」 「そう……なのか…?」 世慣れた婚約者とお庭番を見上げれば、二人はどこか申しわけなさそうにユーリを見ている。 「それで?」村田が話を促す。「新連邦は彼のことをどうしたいって?」 「引き渡して欲しいと、公式文書にて申し入れいてまいりました。が、拒否しました。猊下にもご納得頂けると思いましたし、急ぎお報せする事柄ではないと判断しまして、特にご連絡はいたしませんでした」 うん。納得した様子で頷く村田に、ギュンターはホッと小さく息を吐いた。 「ガウタス・バタフは、結局のところ自供を何一つ翻しておりません。そして大人しく刑に服しております。申し入れを受けまして、一応判事と法務庁の長官を呼び寄せ判断を求めたのですが、どちらも引き渡すべきではないと申しました。家族のことは、彼がヴォーレン州執政の反逆的行為に加担した直接的な証拠とはいえず、引渡しの法的根拠にはなり得ない。また、引き渡せば政治的に利用されることは間違いなく、かの国の状況を鑑みるに、引渡しは彼と彼の家族の生命を、むしろ危険に陥れることになりかねない。友好国の申し入れであり、政治的判断の必要性があるのかもしれないが、命が脅かされる危険が明々白々である国に対し、我が国で更正の道を歩んでいる囚人の引き渡しを認めることはできない、とのことでございます。私共も同感でございまして、申し入れ拒否を決定いたしました。即座に叶えられると思い込んでいた使者は、相当驚いておりましたね。慌てて国に戻りました」 「だろうね。でも、現段階で彼を引き渡す理由はない。僕としてはむしろ、その家族をこちらに引き取りたいくらいだね。そのガウタス・バタフ、こんな無駄な使われ方をするような無能な男じゃないと思うよ」 「俺もそう思います」同意したのはコンラートだ。「あの面構えにしても、男達を指揮した手際や即座に自裁しようとした覚悟にしても、かなり使える人物だと思います。こんなことに彼を使うなど、いくら娘のことがあるとはいえ、ヴォーレンの執政は何を考えていたのか……」 「人の使い方を知らないのさ。ガウタス・バタフも、それが分かってうんざりしたんだろうね。……これが鬼平なら、死んだことにして密偵に取り込むところだけど」 とにかく。 ぱたんとソファの背もたれに身体を預けると、村田は声を改めた。 「僕は詰めの作業をするよ。後は新連邦次第だね」 そして。 その報せが入ったのは、村田が帰国して3ヵ月ばかり経ったある日の午後のことだった。 「新連邦、最高評議会の使者殿が登城され、謁見を求めておられます」 執務中の部屋にやってきた兵士の言葉に、あくびをし掛けていたユーリの表情が引き締まった。 「来たか」 グウェンダルが重々しく言う。 使者がやってくることは、使者に先んじて到着していた鳩で知っている。新連邦で何が起きたのかも。 今この瞬間から、村田が立てた作戦が開始されるのだ。 □□□□□ 「すでにお聞き及びとは存じますが」 おそらく貴族階級の出身だろう、美麗な衣装を身に纏った、40歳前後の押し出しの良さそうな男が玉座に向かって恭しく口上を述べ始めた。使者から1歩下がったところには、クロゥがいる。護衛兼相談役というところか。 「我が新連邦におきまして、まこと恥ずかしきことながら、国家に対し反逆の罪を犯したる者共が現れました」 使者はちらりと玉座の魔王陛下に視線を向け、その幼くも美しい顔にほとんど表情がないことを確認してからまた頭を下げた。 「我が国の南部に位置しております四州、ヴォーレン、タスマル・ルフト、ウェスタフ、トゥーフォーンが、それぞれその執政官の名において新連邦より離脱、独立すると宣言いたしましてございます…!」 ユーリが宰相に頷き掛け、宰相フォンヴォルテール卿が頷き返す。 「それで?」 宰相閣下に促され、使者が「はっ」と畏まった。 「もちろん、我ら新連邦中央議会及び最高評議会は全会一致にてこれを拒否。直ちに4名の執政官を罷免、臨時の執政官を任命し、四州州都に派遣いたしました」 「当然軍が同行したのであろうな?」 「は、もちろん。ですが……」 「素直に従うはずもないか」 「はい。四州とも州都の門全てを閉ざし、中央の命令の全面拒否を通告してまいりました。武力によって門を開こうとするならば、自分達もまた武力にて応じると。四州とも同じ態度でございまして、事前に意を揃えておりましたことは間違いないかと思われます」 「だろうな。だが、新連邦にて内戦が起きたという話は聞こえてこない」 「は。我々が派遣いたしました兵と、四州それぞれを任地としておりました兵が図らずも睨みあいとなり、恥ずかしきことながら事態は膠着状態となってしまいました。我々も持てる兵を四州に、しかも相手に勝る数の軍勢を派遣せねばならず、同時に他州が同調する動きをせぬよう隙や混乱を見せるわけにもいかず、思いきった手を打てずにおりましたのです。ところが先般、突如他国より、自分達が間に入る故、話し合いによる解決を目指しては如何かという申し入れがあり……」 「他国?」 「はい。このように申し上げては些か憚りがございますが、大陸にはまだ多く、貴国に対して反感を抱いている国がございます」 「それは我々も良く承知している」 「は。実は今回、仲裁を申し出て参りました4ヶ国は、そのようないわゆる反魔族を標榜する国にございます」 「ほう…?」 「我が国は国土が広いため多くの国と国境を接しております。その中でも特に注意を払わねばならないのが、申し上げるまでもなく小シマロンであります。仲裁を申し出てまいりましたのは、反魔族という点で小シマロンと意を1つにしております国々でございまして、おそらくは小シマロンを始めとして、こういった国々が四州の後ろ盾となっているのではないかと考えられます」 「口を出してきた4ヶ国の中に、小シマロンが入っているのか?」 「入っておりません。また、その4ヶ国はどれも我が国と国境を接しているわけでもありません。それらの国々と我が国の間には小シマロンがございます。我々は、その4ヶ国が仲裁を申し出たのも、小シマロンの差し金であろうと推察致しております。記憶に新しい過去、直接刃を交わした小シマロンが親切ごかしの介入をしても、我々が反発することは必至であると、小シマロン王はおそらくそのように判断したのでございましょう」 「なるほど。あり得ることだな」 宰相閣下の同意を受けて、使者も安堵したように頷いた。 「正直申しまして、このままでは埒が明きませぬ。とは申せ、四州の独立など持っての外。もちろん、独立を後押しする国によっての仲裁などとんでもないことと考えます。しかし、中央といたしましては内乱は何としても避けたく、ここはやはり話し合いをする以外解決の道はなかろうと存じます」 「なるほど。つまり、話し合いとなれば、四州の後ろ盾である4ヶ国が出て独立を応援することは間違いない。故に、新連邦政府の後ろ盾として我が国にその話し合いの場に出て欲しいということだな?」 「仰せの通りにございます。相手は4ヶ国とはいえ、どれも国の規模は弱小。とても貴国の力には及びもつきませぬ。眞魔国が我等の最大の友好国、後ろ盾としておいで頂けますならば、必ずや四州の反逆も平和的に解決できると信じております」 「なるほど、そちらの意向は了承した。我々としても、大陸の安定と平和は何より望むものだ。決して内乱など起こしてもらいたくはない。我々にできることがあれば、喜んで協力しよう。なるべく早く、良き人物を選んで新連邦に派遣することとしよう」 「さっそくのお言葉、ありがとうございまする!」 使者と、背後に佇むクロゥが、深々と頭を下げた。 「そこで、貴国のご好意に甘え、お願い致したき議がございます」 「何か?」 「は」言って使者は、魔王陛下の護衛として玉座の直下に佇むコンラートに視線を向けた。「派遣頂く貴国の使者殿でございますが……我々新連邦と致しましては、ぜひにもウェラー卿にお願いいたしたく存知まする」 宰相閣下がキュッと不快気に眉を顰め、ずっと沈黙を守る魔王陛下もまた、表情を強張らせる。 それを認めた使者が慌てて言葉を継いだ。 「中央にしても、かの四州にしても、ウェラー卿こそが対大シマロン勝利と新国家樹立の立役者であることを骨身に沁みて存じております。ウェラー卿が新連邦を去られる直前まで、いえ、去られて後も、上層部はもちろん、兵士達のほとんどがウェラー卿が新たな国家の頂点に立たれる事を夢見ていたのでございます! そのウェラー卿が四州独立など認められないという立場を明確にお示しなされれば、今四州の執政達に私兵のごとく扱われ、中央に刃を向けようとする者達も、必ずやその考えの愚かさに気づくでありましょう! 故になにとぞ……!」 「我が国の使者は、もっとも適任と思われる者を我等の判断にて決定する」 きっぱり言い渡され、「も、もちろんでございます」と慌しく頭を下げるものの、使者はだがすぐに、思いなおした様に頭を上げた。 「今ひとつ、お願いがございます…!」 「……何か?」 「ガウタス・バタフなる者の、引渡しをお願いする件にございます」 「それはもう終わったことだと思うが?」 いいえ! 使者は宰相閣下の言葉を激しく否定した。 「他国の代表も交えての話し合いにございますれば、諸外国もさぞ注目することと存じます。この会議の場において、いかに四州の主張が不当であるかを諸国に対して証明するには、かの者の証言が非常に重要であると我らは考えております。何とぞ、ガウタス・バタフの引渡しを、お願い申し上げまする…!」 クロゥ共々、さらに深く腰を折られて、宰相と魔王陛下は揃ってため息をついた。 「ガウタス・バタフは、己が犯した罪とヴォーレン州執政との関りを完全に否定している。その上で刑は確定したのだ。具体的な証拠があがらぬ以上、彼に対してこれ以上罪を問うことはできない」 「かの者の罪は我らが問います!」 「彼は新連邦で罪を犯したわけではない。その様は権利はそちらにはない」 「ガウタス・バタフは新連邦の国民でございます!」 「関係ない」 「………本当にかの者は何も申しておらぬのでございますか?」 「落ちぶれ、生活に困っての犯行だと申している。それだけだ」 「かの者の家族が、すでにヴォーレンにないことは……」 「知らせてある」 「では…! 家族の命を我らが握っていることは……!」 待て! 厳しい声を上げて使者の言葉を遮ったのは、それまでずっと無言でいた魔王陛下だった。 使者が「ははっ!」と畏まる。 「命を握っているというのは、どういう意味だ? 自分達に都合の良いことを言わないと、家族を殺すとでもいうつもりか!?」 「真実を述べて欲しいのでございます! 家族につきましては、それは…その……」 「大賢者は、家族を保護して話を聞けと言った。人質にしろと言ったわけじゃない! もしそんな脅迫をするのなら、あんた達もヴォーレンの執政も同じ卑怯者になるぞ!」 「陛下! そっ、そのような……」 「使者殿は!」 そこで宰相閣下が厳しく声を張り上げた。 呼ばれた使者と、そして腰を浮かせかけていた魔王陛下が、ハッと動きを止める。 「下がられよ。我らは友好国に対し、協力を惜しまない。ただし、道理や法、倫理に外れてまでそれを為すことはしない。眞魔国は、早急に使者を定め、大陸の平和と安定のため、新連邦にその使者を送るであろう。しかし、反逆者の一味であるという確かな証拠のない者を、求められるままに引き渡すことはしない。以上だ!」 「家族を助けたければ証言しろって……あんな脅迫じみたこと、エレノア様も了解したのかな……?」 お茶のカップを両の掌の中に包み、その温もりを確かめるように鼻先に持ってきて、ユーリは言った。 「内戦の瀬戸際だ。エレノア殿とて必死だろう。綺麗事は言っておれまい」 グウェンダルが言えば、コンラートもユーリの目を覗き込むようにして続けた。 「眞魔国はもちろんですが、もしもユーリの命が掛かっているとなれば、俺達だってどんな卑劣なことでもする覚悟はありますよ?」 ユーリがハッと目を瞠ってコンラートに目を向けた。 「………そか。そう、だよな。皆、必死なんだよな……」 そういうことだ、と頷いて、グウェンダルはユーリの真向かいでお茶のカップを傾ける村田に目を向けた。 「それで、猊下、こちらの代表ですが……」 「もちろん。僕がいくよ。ったく、ウチがバックについて、ウェラー卿が出て行きさえすれば何でも解決すると考えてるんだから……。あの甘ったれ達にはお仕置きが必要だね」 □□□□□ 新連邦。 最高評議会の会議室で、エレノアは1人、物思いに沈んでいた。 もう間もなく、かの四州との話し合いの日がやってくる。 ……話し合い、か……。 彼らにしても自分達にしても、毫も引く気のない不毛な話し合いだ。 このままならば、間違いなく内乱になるだろう。 もしそれを避けられるとするならば。 ……結局は眞魔国と、四州の後ろ盾となった4ヶ国、いや、小シマロンとの刃を持たぬ戦いとなるのか。そしてその、交渉という名の戦を制した方が勝利を得ることになる。 私達の意志ではなく。 私達は……まだまだ己の行く末を己で決めることもできないのだ……。 あの四州とて、本来ならとても独立などできる力はない。北部と比べるから大地の復活が進んでいるように錯覚しているけれど、独立した国として立つ基盤はまだほとんど整っていないはずだ。 四州の執政達が、もう少しだけ魔族を理解しようとしてくれれば。 国と国が争うだけではなく、助け合い、共に再生の道を歩んでいくことができるのだと信じてくれれば。 もし、あの仲裁などという美名を振りかざしてしゃしゃり出てきた国に、いや、その背後にいるはずの小シマロンに唆されたりしなければ。 「……小シマロンは、大陸の覇者となることをまだ諦めてはいないのね……」 分っていたはずだけれど……。 小シマロン、という呼び方はもうおかしいか。今や大も小もない。シマロンを名乗る王国はただ1つだけなのだから。 思考が取りとめもないものになってきた。エレノアはほうっとため息をついた。 「ここにおられたか、エレノア殿」 聞きなれた声に、ゆっくりと顔を上げる。開いた扉を潜って、クォードがやってくるところだった。 「……クォード殿。あちらからはまだ…?」 「眞魔国からの報せであれば、今ここに」 クォードが到着したばかりの手紙を、エレノアに向けて差し出した。ホッとした顔でエレノアはそれを受け取った。 交渉会議までもう間がないというのに、眞魔国からは正式な使者が誰になるのか、いつ到着するのか、待てど暮らせど何の報せも届かなかったのだ。 四州の執政の下には、すでに仲裁役の国の使者が密かに接触して、会議の進行について話を煮詰めているという。一刻も早く眞魔国と打ち合わせをしておきたいエレノア達とすれば、待ちに待った手紙だった。 「エレノア殿! 眞魔国から報せが届いたそうですな!」 報告を受けたのだろう、最高評議会の同僚達がわらわらと会議室に入ってきた。 「ええ、そうです」評議会議員が全員揃ったことを確認して、エレノアは頷いた。「お座り下さい、皆さん」 全員が注目する中、エレノアは手紙の封を切った。そして中から薄い紙をそっと取り出し、開き、ざっと目を走らせ、そして……。 ふっと眉を顰めたエレノアに、クォード達が怪訝な顔を見合わせた。 「エレノア殿?」 「……使者を派遣する、と……。会議には……少々遅れるかもしれないが、なるべく間に合うようにするので……開催時刻がきたら自分達のことは気にせず、先に始めていて構わない……と……」 「………な、なん、ですと…?」 「エレノア殿、その他には何と?」 「……何も……」 問われたエレノアが誰より戸惑った顔を上げ、集まった人々を見回した。 「これだけ、です……」 ……ばかな。 クォードが、呆然とした声を上げた。 「ただの会議ではない、これは……我が国の存亡に関る重大無比の会議なのだぞ!? そ、それを……何なのだ!? その、まるで宴会か何かに呼ばれでもしたような……!」 「使者は!? エレノア殿、使者には一体誰が!?」 「ここには…誰の名もありません……」 「どういうことだ!?」 ひとしきり声を上げてから、人々は呆然とした顔を、仲間の誰かの顔から答えを探そうとでもするかのように見回した。 「……姫は、何を考えておられるのだ……?」 「クォード殿……」 「眞魔国にとって、我が国は単なる友好国ではない、はずだ。全ての事の始まりから、我らは深く繋がっておったのだからな……」 「使者の名が明記されていないのは」議員の1人が声を上げた。「コンラート殿がおいでになるからではないですかな? 当然のことだから特に記さなかった、とか……」 おお、と賛同の声がそこかしこから上がった。 「それならば……良いのですが……」 「使者はコンラートなのですか?」 ソファに身を預け、香辛料を入れた温かいワインを啜る、だが少しもくつろいだ様子を見せない祖母を見つめながら、カーラは尋ねた。 「分らないわ……。そもそも、どうして遅れてくるかもしれないなどと……。それでは事前の話し合いもできない。それに……いくら私達のような貧しい国であろうと、他国からの使者に対してささやかな歓迎の宴を催すくらいの礼儀は心得ているのにね。それすらも拒絶するというのは……」 「拒絶などと…! おそらく何か理由があるのだと……」 「ええ、そう思う……思いたい、わね。魔王陛下が私達を切り捨てることなどあり得ない。私達はあの方の、夢と理想に真っ直ぐ向かっていく姿を知っているのだもの。コンラートにしても、宰相閣下にしても、それに変わりはないはず……」 信じて、待ちましょう。 そう言うと、ようやく結論が出たことに安堵したように微笑み、エレノアは冷めかけたワインを口にした。 だがカーラは。 ……確かに、ユーリは、そしてコンラートやグウェンダル閣下は、私達の友情を蔑ろになどしないだろう。 新連邦と眞魔国は、他の国とは全く違う運命的な絆で結ばれている国だ。 それを私達も、そして彼らも、確かに知っているはずだから。 だが。 カーラの中に、そのような、ある種甘やかな感情と無縁の男の顔が浮かんだ。 男、というには、幼い子供の顔。 だがその内側にあるものは……。 もしもあの男が、今回の眞魔国の不可解な対応に関っているとしたら。 ……お祖母様にあの男のことを……。 咄嗟に口を開きかけて、だがカーラはぐっと唇を噛んだ。 今ここで、お祖母様にさらに心痛をお掛けしてはならない……。 揺れる暖炉の火を見つめながらワインをゆっくりと飲み干す祖母を、カーラはじっと見守っていた。 □□□□□ そしてついにその日がやってきた。 新連邦の未来が1つ、決まる日だ。 エレノアは新連邦中央政庁の最上階にある、最高評議会議事室の露台から外を眺めていた。傍らには長年の親友、ダード老師が佇んでいる。 その視線の向こうから、眞魔国の使者の一行がやってくるはずなのだ。 だがまだ、それらしき姿は一向に見えない。 「エレノア。そんな顔をしていてはいかんよ? せっかくの運を悪い方へ転がしてしまう」 「……そんなにひどい顔?」 自嘲の笑みを浮かべて、エレノアはダードを軽く睨んでみせる。 「思いつめてもなるようにしかならん。今大切なことは、心に1つ、確固としたものを持ち続けることだ」 眞魔国は我々を見捨てたりせんよ。 呟くような友人の言葉に、エレノアは、だが、すぐには頷けなかった。 ユーリの顔を、コンラートの顔を、思い出すたび彼らへの信頼と愛情が蘇る。そしてそのたび彼らを信じると心に決める。だがふとした拍子に、なぜかそれが揺らぐのだ。 なぜ彼らはすぐにここに駆けつけてきてくれない? なぜ我々の窮状を知り尽くしているはずの彼らが、事を我々の有利に働くように動いてくれない? 自分達の力不足は分かっている。要求したことが法に悖り、道理に悖る可能性があることも分かっている。 だが国の政が、綺麗ごとで治まるはずがないではないか。 そのようなこと、あの若い魔王陛下には無理でも、100年以上も国政に携わっている宰相閣下や王佐閣下ならば、充分に理解できるはずではないか。 ……私は疲れているのだろうか。限界なのだろうか。かつては軽蔑すらしていた、無様な為政者の身勝手な主張に囚われるほどに。 あまりに自分が情けなく、泣きたい気分でエレノアは天を仰いだ。 ……雲の流れが速い。水の匂いがする。雨に、いいえ、もしかしたら嵐になるかもしれない……。 こんな日に。まるで……私達の未来を暗示しているかの様に……。 ほう、と、エレノアがため息を零しそうになったその時。 「魔族の使者とやらは、いかがしておるのでしょうな」 エレノアとダードが振り返った先に、中央と四州の交渉の場において立会い役を買って出た4ヶ国の内の1国、ナウダン王国の代表とその随員達が立っていた。 「間もなくご到着になられると思いますわ」 努めて平然とした顔で答えれば、ナウダン代表は当惑したように顔を歪めた。 「これは大陸全土にとって重要な会合です。最低でも前日には到着して、関係する全ての人々とそれなりの挨拶を交わすのが当然の礼儀ではございませんかな?」 「言い換えれば、事前の腹の探りあいくらい、お互いにしておくべきではないかということですわね?」 不愉快そうに眉を顰めるナウダン代表の姿を目に納め、エレノアはふうとため息をついた。 実際、前夜の歓迎の宴は、敵意と猜疑の眼差しが交差し、腹を探る会話がひたすら繰り返されるという、うそ寒い雰囲気の中で終始した代物だった。 そこでふと、エレノアは思った。 あの人々の中に眞魔国の代表が加わっていたとしても、空気がさらに険悪なものになっていただけだろうと思えば、眞魔国代表が白々しい儀礼に過ぎない宴や話し合いを避けたことは、案外と賢明だったのではないだろうか……? 「魔物の腹など探りたくはございませんがな……。エレノア殿、貴女様ほどの御方が、何ゆえそこまで魔族を信じられるのです?」 「私ほどの、との仰せの意味が分りませんが……。私からすれば、ここまできて貴方方が、何ゆえ魔族に対するいわれなき偏見を捨てることができないのか、そちらの方が不思議ですわ」 「エレノア殿……。人間は人間同士、結束して我等の世界の難局に当たらねばならぬとはお考えになりませぬか?」 「皆が国の名に囚われず、共に助け合い、崩壊しつつある世界から全ての民を救おうということでしたら大賛成ですわね。もちろん、その国々の中には眞魔国も含まれますが」 「その眞魔国こそが、我々の世界を崩壊に導こうとしていることは明白……」 「魔族に全ての罪を押し付けて、それで世界が救われると本気で信じておられるのでしたら、貴方方は言葉通り救いようがありませんよ?」 「エレノア殿! 我々は貴女方をお助けしたいと考えているのでございますぞ! 今ならまだ間に合い……」 カッと、天空が禍々しく輝いた。ハッと目を瞠る間もなく、ゴロゴロと低く雷が鳴る。そしてすぐに、冷たい雫がエレノアの頬を打った。 強張っていた肩から意識してゆっくりと力を抜き、エレノアはナウダン代表に微笑みかけた。 「中に入りましょう。会議まで、まだ少々時間がございますわ。お茶でもいかがです? ダード、貴方もご一緒に」 激しい雨音が窓を叩く。 その音を聴きながら、エレノアは椅子の縁に肘をつき、その手で額を覆った。 眞魔国の代表が来ない。 「エレノア殿」クォードの硬く尖った声が耳に飛び込んでくる。「そろそろ時間でござるぞ」 「……今しばらく…」 額に手を当てたまま、エレノアは答えた。 「エレノア殿。遅れるかも知れぬと、あちらからは報されておったのだ。ならば、今現在の状況はその報せの通り、問題はないということでござろう。時刻が来たら始めて構わぬともあり申した。ならば、我々は遅滞なく会議を開催すべきではなかろうか?」 筋の通った言葉に、エレノアは顔を上げた。 すぐ傍ら立つクォード、彼からほんのわずか離れて評議会の同僚達が、緊張した表情を隠しもせず立っている。 「……眞魔国の後ろ盾もなしに、交渉を進められますか?」 「できなければ、我々は独立国としての面目を失うであろうな」 だが、やらねばならぬ。 静かだが、強い決意の漲るクォードの言葉に、エレノアは唇を噛んだ。 そうだ。出来ないでは済まない。やらねばならぬのだ。 「……参りましょう」 覚悟を決めてエレノアが椅子から立ち上がったその時だった。 「申し上げます!!」 扉を押し破る様に飛び込んでくる者があった。 「眞魔国の御使者御一行、ただ今ご到着なされました!」 応えるより早く、エレノアはクォード達と共に部屋を飛び出していた。 わあっと。 中央政庁の玄関広間は場違いなほど明るい声とざわめきに満ちていた。 「エレノア様!」 「お祖母様!」 エレノアの姿を認めた近しい友人達、そしてカーラやアリー達が満面の笑みで駆け寄ってくる。 「お祖母様! ほら!」 近頃にない嬉しそうな顔でアリーがエレノアの袖を引いた。 引かれるままに視線を広間に向ければ。 「コンラート様!」 「コンラート様、コンラート様だ!」 「お帰りなさいませ、コンラート様!」 「お待ちしておりました! 帰ってきてくださると信じておりました!」 歓喜に顔を輝かせる人々の輪の中心に立っているのは、紛れもないコンラート・ウェラーだった。 雨にしとどに濡れたマントをうっとうしそうに脱ぎながら、何気なく流した視線がエレノアとぴたりと合う。 その瞬間、エレノアはドレスの裾をたくし上げ、コンラートに向かって足早に歩を進めた。 「コンラート!」 「エレノア。お久しぶりです。お変わりなく、何よりです」 変わっていないはずなどない。以前会った時に比べ、身体は痩せ、顔立ちも一気に老けた。だが、そんなことは最早どうでもよく、エレノアは笑みを浮かべてさらにコンラートの傍らに歩み寄った。 「待っていました。ああ、貴方が来てくれることをどれほど願っていたことか……! 良かった! 色々と話したいことがあるのです。ああでも時間が……」 興奮する自分を自覚しつつ、だがエレノアはそれを抑えようとは思わなかった。 自分の周りには、孫達や昔からの同志が久し振りの笑顔で集まってきている。その笑顔までが嬉しかった。 だが。 「誤解させてしまったようですが、エレノア」 「これで交渉も上手く………え?」 冷然と自分達を見下ろすコンラートに、エレノアの動きが止まった。 「俺は眞魔国の代表としてこちらに伺ったわけではありません」 え…? その場に集う全員が、訳が分からないという顔で彼を凝視している。 コンラート・ウェラー以外の誰に、新連邦の未来を決する交渉ができるというのか。 「俺は、今回我が国の代表として会議に立ち会われる方の護衛として来ました」 「……護衛…? あなた、が……?」 ええ。頷きながら、コンラートが背後を振り返る。 そこに集まっているのは、眞魔国代表団の一行─おそらくは警護の軍人と文官らしい者達─が、濡れたマントを脱いでは新連邦の世話係に渡している。その人々の中から。 まだマントを纏ったままの、小柄な人が前に進み出てきた。 ……小柄というより…これはまだ子供……。 そこまで考えた瞬間、エレノアの身体に衝撃が走った。 「ま、まさか」 唸るように言ったのはエレノアではない。同志の誰かだ。 「まさか、魔王陛下……?」 このような場所に出向く子供といえば、コンラート会いたさに国を飛び出すような無茶をする魔王陛下以外には考えられない。 「まさか、陛下が直々に……」 驚きに声を絞り出すエレノアの前で、その人がマントを脱いだ。コンラートがすかさずそれを手助けする。マントはコンラートの手から、これもかつて見覚えた、魔王陛下の側仕えの男─妙に明るい色の髪をした─に手渡された。 エレノア達の前に、紛れもない少年─濡れて輝く黒髪を持つ─の姿が現れる。 「…おお、陛……」 少年がスッと顔を上げた。 「…………え…?」 その少年は真っ直ぐエレノアを見上げ、それからちょっと斜めになったメガネをクイッと指で直すと、にっこりと笑った。 「エレノア様でいらっしゃいますね? 初めまして、こんにちは! 僕、ムラタ・ケンと申します! お会いできて光栄です!」 これ以上ないほど無邪気な笑顔で、ムラタ・ケンなる少年がぺこんと頭を下げた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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