「新連邦の商船が一隻、入国管理局に申告していた出航予定日を突如繰り上げ、すでに出航していたことが分りました」 その報告をしたのはフォンクライスト卿ギュンターだ。 見回すのは魔王陛下の私的な客間である。集まっているのは、眞魔国側が魔王陛下を筆頭に、宰相フォンヴォルテール卿グウェンダル、今は護衛として王の背後に立つウェラー卿コンラート、同じく護衛のグリエ・ヨザックとハインツホッファー・クラリスの6名だ。ちなみにヴォルフラムは、もうすぐ開催される国際会議進行の総責任者という大役を任され、仕事に没頭しているため不在だ。そして客となっているのが、新連邦からやってきた王の友人一同だった。 書類から目を上げると、ギュンターは視線を、長椅子に座る一行に向けた。 彼ら、特に最高議会議長の孫である3名─その内1名は事もあろうに眞魔国内で勾かされそうになった─は、この部屋に入ってきた時から表情が硬い。 「入国管理局に提出された書類には全く問題はありませんでした。新連邦ヴォーレン州の州執政官の署名もあり、捏造されたものではないとのことです。また、陛下のご友人の拉致未遂事件が起きた前日の夜のことですが、やはり新連邦ヴォーレン州の身分証明書を持ち、州政庁の職員を名乗る者が、ご友人への面会を求めてきておりました。夜のことでしたので、担当官がもうお休みであると告げましたところ、急ぎではないのでまた翌日改めて訪ねると答えたそうです。その時、すれ違いになりたくないので、翌日の予定が決まっているなら教えて欲しいと言われたそうです。急ぎでないのなら、なぜこのように夜遅く訪ねて来たのかと、担当官も少々妙だと感じたようですが、身分証明書に何ら問題なく、その者の様子も尋常で、特段疑いを抱く必然性もないと判断、翌日、すなわち陛下のご案内でぴくにっくに出掛けられる時間を教えたそうです。ちなみに陛下の私的なご予定に関しましては、特に公開されているわけではありませんが、相手の身分、状況等を考慮して、許されると担当官が判断した場合は開示されることになっております。先ほども申し上げました通り、担当官はその者に対し、格別不審感を覚えることはございませんでした。……アリー・パーシモンズ殿の拉致未遂事件前後の事実関係につきましては以上でございます」 ありがとう、ギュンター。ユーリの言葉に穏やかに微笑んで、フォンクライスト卿はソファに腰を下ろした。 「推察されることは色々とあるが」ずしりと響く声でグウェンダルが言った。「とにかくご無事で何よりだった。我々としても、警備その他、責任を痛感している」 それまでずっと表情を強張らせていたカーラが、弾かれたように顔を上げた。 「…いえ、いいえ、そのようなことは……! むしろ……私共のことで貴国にご迷惑をお掛けしたこと、大変申し訳なく思っています」 カーラと、そして並んで座るアリーとレイルが、真正面に座るユーリに向かってきちんと頭を下げた。 2人の様子に、グウェンダルがゆっくり深く頷く。 「アリー……もう大丈夫か?」 心配げに尋ねる魔王陛下に、アリーが小さく微笑んで頷いた。 「大丈夫、ゴメンね、あ、じゃない、ご心配をお掛けして申し訳ありません。もう大丈夫です」 「そんな気を遣わなくて良いよ」 いえ。小さく呟くように言うと、アリーは唇を噛んだ。 場所は魔王陛下の私的な客間で、表向きは非公式なものであろうと、これは外交問題に発展するかもしれない事件についての会合なのだ。それに、宰相閣下や王佐閣下までもが同席している。まだ見習いとはいえ、新連邦行政府に身を置く者として、恥ずかしい態度は取れない。 あの時。 口を塞いだ手のごわごわとした感触。鼻をつく臭い。死に物狂いでもがいてももがいても、難なく身体を担ぎ上げた何本もの手。 ……思い出すたび怖くて、本当に怖くて、涙が溢れそうになるけれど……。 ぐっと奥歯を噛み締めるようにして、アリーは目から零れそうになるものを必死で堪えた。 そんな少女を、ユーリはもちろん、客間に集まった人々が同情を込めて見つめている。 「捕らえられた者、あの男は、何か申しておりますでしょうか?」 カーラが努めて冷静な声を発して尋ねた。 「ええ、それなりに筋の通った話を」 言いながら、ギュンターは書類を捲った。 「かの男、ガウタス・バタフという名ですが、確かにかつてのヴォーレン王国、現在の新連邦ヴォーレン州の州執政官の側近くで武官としての任に当たっていたと申しております。ところが州執政庁内において許されざる失態を犯し、任を解かれ、州を放逐されたのだそうです。騎士として以外、その身にとりえなく、他州にて職を得ることもできず、流れ流れて我が国に辿り着いたと。ウェラー卿に武人であることを隠そうとしたのも、またその直後、自死しようとしたのも、金欲しさに年端も行かぬ子供を勾かそうとした己の落ちぶれた姿を恥じ入ってのことだと申しておりますね。捕らえられるまで、よもや勾かしの相手が新連邦最高議会の長であるエレノア様の孫娘殿とは全く知らなかったとのことです。ただただ恥じ入るばかりだと……」 嘘ですっ! カーラは思わず叫んでいた。 「そのような言い訳をよくも…っ! 絶対に出鱈目です。これは間違いなく、ヴォーレン州執政官が画策した陰謀です!」 断言してから、カーラは自分を見つめる人々の表情にハッと口を閉ざした。 魔王ユーリが困ったように視線を落とし、宰相閣下と王佐閣下は難しい顔を見合わせ、コンラートは不愉快気に眉を寄せ、気配を消して部屋の隅に佇むグリエ・ヨザックとクラリスは無表情に、それぞれ無言のまま、カーラの次の言葉を待っている。 ……落ち着かなくては。 呼吸を整え、姿勢を正し、カーラは改めて口を開いた。 「現在の我が国の現状について説明させて頂きたく……」 「貴国の現状であれば、おそらくあなたよりも我らの方が詳しく把握していることと思う」 宰相フォンヴォルテール卿の静かな声がカーラの耳を打った。 「……え…?」 「コンラートから調査報告書を渡されたはずだが? 新連邦ヴォーレン州の状況については、あなたの得ている情報より、私達の集めた情報の方が詳細、かつ正確であろう。我々の情報網を甘く見てもらっては困る」 確かに。唇を引き結び、カーラはユーリの背後に立つコンラートにチラッと視線を向けた。 まだ全部読みきってはいないが、彼に先日渡された書類には、カーラが初めて知る情報がぎっしりと詰まっていた。 ……この国はこうやって、友好国であろうが何であろうが内情を調べ尽くすのだろうか。一体どれほどの数の間者を、我が国に放っているのだろう。 いや。 かすかに湧き上がった不快感を、カーラは押し殺した。 魔族の国が人間と友好を結び始めたのは、この国の長い歴史を思えばほんの少し前だ。 それまで数千年、圧倒的多数の人間達に囲まれ、敵意や憎悪の的となり、滅びを望まれ続けた中で、それでも国家と、魔族という種を存続させるために、彼等は刃を振るう以外にもあらゆる方法で戦ってきたのだ。 正確な情報。それが国を支える上でどれほど重要なものか、今の私達には痛いほど分る……。 「では…」カーラは気を取り直してグウェンダルに顔を向けた。「その者が嘘をついているということはお分かりのはずです。その者の口からヴォーレン州執政の企みを白状させられれば、我々は執政官に対し反逆の罪を問うことができます。現在おばあさ…いえ、議会及び最高評議会を悩ませている重大な問題が解決に向かうこととなります。何とぞご協力をお願い致します」 「協力というと?」 「それは……」 問い返されるとは思っていなかった。カーラは表情のない宰相閣下の顔を、まじまじと見つめてしまった。 「そ、それは、もちろん……最終的には新連邦議会において、ヴォーレン州執政の陰謀を証言させなくてはなりません。ですから何より先ず、その者に執政官の企みを白状させる必要があります。取調べは進められていると存じますが、幸い、我が国の代表団も間もなくやって参ります。かの男の取調べを、我が国の者にも協力させて頂き、その後新連邦に連行するということに……」 姉さん、待って、それは……! 小さく、だがどこか強張った声で従兄弟が囁いてきた。だがそれに気づく前に、カーラの言葉が途切れた。 彼女達の前で、宰相フォンヴォルテール卿とフォンクライスト卿が顔を見合わせ、厳しい顔で首を左右に振っている。 「あの、閣下……?」 「ガウタス・バタフの自白は一貫している。前後の状況を確認させたが、彼の自白と行動には矛盾がない。酒場で自分の不遇をさんざん口説いていたという証言も出ている。彼がヴォーレン州執政官の命令であなたの妹を誘拐しようとした証拠は、現在のところ皆無だ」 「証拠など!」 飛び上がってカーラは叫んだ。 「そのようなもの関係ありませんっ! これはヴォーレンの陰謀以外の何ものでもありません! 私達より正確に情報を得ておられると自慢なされるのであれば、そのようなこと、もうとうに分っておられるでしょう!!」 「駄目だよっ、姉さん!」 隣でレイルが懸命にカーラの腕を引っ張っている。従兄弟に目もくれず、カーラはその手を振り払った。 「自慢などしていない。事実を述べただけだ。ガウタス・バタフの件についてもだが」 一旦言葉を切って、グウェンダルはカーラの呼吸が落ち着くのを待った。 「王都犯罪調査部の兵士達は、なすべき仕事を為している。ヴォーレン州の現状を考えれば、あなたが言われたようなことも推測されないではない。だがそれはあくまで推測にすぎん。ガウタス・バタフと今回の事件の裏に、ヴォーレン執政の存在を裏付ける確たる証拠はない」 「それに」フォンクライスト卿が後を続けた。「あなたは先ほど新連邦の方に取調べをさせたいと仰いましたね? それから彼を貴国に連行するとも仰いました。しかし、そのようなことはできません」 「何故です!?」 「我が国において犯罪を行った者の取調べに、他国の方を交えるなど、そもそも許されません。また彼は、アリー・パーシモンズ嬢拉致未遂事件の実行犯の1人として、おそらく訴えられるでしょう。そうなれば裁判を受けることになります。実刑となれば刑に服さなければなりません」 「裁判…?」 「彼の新連邦送致が我が国において協議されるとすれば、それは新連邦より正式な依頼があって後のことです。ですが、そのヴォーレン州執政が反逆行為の一環として今回の事件を企み、ガウタス・バタフがその意を受けて行動したという証拠、少なくとも自白がない限り、彼をそちらに引き渡すことは出来ません。なぜなら、彼は誘拐未遂犯であって、新連邦における国家反逆罪で捕らえられたわけではなく、それについては現在のところ、無実の可能性も充分あるからです。反逆者の汚名を着せられると分かっていて、無実かもしれない者を引き渡すことなどできません」 「それは……!」 頭がこんがらがってきた。 カーラはソファに落ちるように腰を下ろすと、髪の中に手を差し込み、行儀の悪さも忘れて掻きまわした。 「……あの男は、ヴォーレンの手先なのです。あいつはアリーの身柄を押さえることで、祖母に圧力を掛けようとしたのです。自分達の独立が有利に運ぶように……! 分りきったことではないですか!? これは新連邦の問題です。陰謀を明らかにするため、その男の身柄を我々に渡して欲しいと考えるのは当然のことでしょう!?」 「眞魔国国内で起こった事件は、眞魔国の法によって裁かれます。何度でも繰り返しますが、あなたの主張には何ら具体的な根拠がありません。証拠がないのです。とにかく、今は我が国に任せていただきます。申し上げておきますが、あの男の取調べには特に経験も豊かで優秀な兵士を当てております」 「それは、拷問や尋問に長けているということでしょうか!?」 「我が国では拷問は基本的に禁じられているのですよ? その兵士は取り調べの達人で、『落としのヤマサン』と呼ばれております。犯罪者とじっくり話をし、時には共に笑い、共に泣き、ある時は美味しい丼ご飯を食べさせ、信頼関係を築く中で新たな供述を引き出し、ついには全てを白状させるという、それはそれは……」 「そのような悠長なことをしている余裕はありません!」 「余裕のありなしではないのですよ。それが法に従うということです」 「それは! で、では……その裁判をすぐに行ってください! 私が証言します! ヴォーレンの陰謀を明らかにして、その男が我が国の執政官の手先であると伝え、新連邦に引き渡してもらえるよう正式に依頼します!」 訴えるカーラの目に、眞魔国の人々が困ったようにため息をつく姿が映った。 よろしいか? グウェンダルが殊更ゆっくりと言葉を継いだ。 「裁判をいつ行うか、決めるのは私達ではない。その陰謀の存在についてもだが、ガウタス・バタフが執政官の手先であるという主張についても、全てはあなたの推測に過ぎない。裁判であなたがどれだけそうに違いないと主張しても、代弁人はその点を確実に突いてくるだろう」 「代弁人!?」 カーラの目が大きく瞠られる。 「アリーを、私の妹を拉致しようとした男に! 代弁人などという怪しげな輩をつけると仰せなのですかっ!?」 「誤解があるようだが、代弁人は無力な民のためにこそある立派な職業であり、怪しげな輩などではない。法務庁が設立されて最初に整備されたのが、全ての被告に代弁人をつけるという制度だが、これは…」 「我が国は眞魔国の友好国ではありませんか! それなのにどうして罪を免れさせるような真似を……っ!」 「姉さん、止めて! 姉さんは間違ってる!!」 いきなり。ぐいっと腕を引かれて、カーラは興奮するまま自分の腕を掴む相手を睨みつけた。 「レイル!」 「申し訳ありませんっ!」 だが従兄弟の顔は真正面、一言も発しないまま難しい顔をしている魔王ユーリと、宰相、王佐閣下に向いている。 「姉は、カーラ・パーシモンズは、軍務を専門に致しておりましてっ、行政や、特に法務については全くの門外漢なのです! そのため代弁人の職務と意義などにつきまして、知識が決定的に不足しております! 無礼な言動、どうかお許し下さいっ!」 「レイルっ!!」 「落ち着けっ、カーラ!」 「おっ、お姉さま……!」 ハッと見れば、クロゥが反対側の腕を掴み、その向こうではアリーが今にも泣きそうに顔を歪めている。 ……そうだ。 落ち着かなくては。 冷静にならなくては。 こんなに興奮しては、解決する問題も解決しない。 冷静になれ、カーラ。しっかりするんだ! じゃないと……。 ただでさえ私は、あれほどまでにご苦労なされるお祖母様の、何の力にもなれていないというのに……! だが……。 どうして、こんなに話が進まないのだ!? 分りきったことなのに、どうして彼らは認めてくれないのだ!? 私の、一体何が間違っていると? 当然の主張をしているだけではないか…? 煩悶するカーラは、その目を真正面、一言も発しないまま自分を見つめるユーリに向けた。 ユーリと目が合う。困り果てた顔、申しわけなさそうに、だがどこかもどかし気に揺れる黒い瞳……。 「ユーリ!」 礼儀も忘れて、思わずその名を呼んでいた。 その瞬間、集まる人々に走った緊張感に気づく余裕もなく、カーラは必死の思いで声を上げた。 「私達は、私もアリーも、あなたの友だ! 新連邦は眞魔国の友だ! その友が、今危機の中にある! 助けて欲しい。あなたの協力が必要なのだ! あなたが、魔王であるあなたが命じてくだされば! 命じて下さい! あなたの友を救うために! 私達に協力するようにと!」 「姉さんっ!」 「カーラ! いい加減にしろ!」 冷静にならなければ。その言葉が頭の隅を過ぎる。だが迸るように溢れる言葉が、理性を押し流していく。 「証拠だの、裁判だの、まして代弁人だの! どうしてそんな建て前ばかり並べ立てるのです!? 友である私達に、あなた方はどうしてそのような仕打ちをなされるのですか!? 今あなた方の協力がなければ、新連邦は滅んでしまうかもしれないのに! ユーリ、彼らに命じて下さい! 新連邦を救うため……!」 「友情を盾にとって、我等の陛下に罪を唆すとは恐れ入ったね」 すうっと。カーラの頭が冷えた。まるで冷水を浴びせられた、いや、氷の湖に放り込まれたように。 ザッと、音を立てて宰相閣下と王佐閣下が立ち上がり、ずっと立っていたコンラート達共々姿勢を正した。カーラを除く新連邦の仲間達も、慌てふためきながらも直立し、頭を下げた。 「おまけに、法を守ることを建前と言い切るとは。できたばかりの国だが、支配者層からこんな言葉が出てくるようでは先が思いやられるなあ」 カーラの背後から声が近づいてくる。 これまで努力して忘れていた男の声だ。 気配が、カーラのすぐ後に近づき、それからスッと横を通り過ぎた。軽やかに流れる空気がカーラの身体を撫でていく。 「法を犯さねば国が滅びるというのなら、いっそ滅んだ方が世界のためになるかもね」 動こうとしない首を無理矢理動かして、カーラはその声の主に顔を向けた。 真正面、魔王陛下の隣にその男が立っている。 眞魔国、魔王陛下の側近中の側近、唯一、魔王陛下と並んで立つことのできる存在、猊下と呼ばれ、尊敬され、そして最も怖れられる男。 大賢者、ムラタ・ケン。 どこからどう見ても、ユーリと同じ10代そこそこの幼い少年だ。 体格もユーリとほとんど同じ、小柄で、華奢で、頼りなげな風情をしている。あくまで見た目は。 顔立ちも、ユーリほどの絶世の美貌ではないものの、それでも人間の基準からすれば際立って整っている。華やかさや甘さはなく、どちらかと言えば知的と表現するべき美しさだ。 しかし。一見して子供らしいその存在の全てを、何よりその瞳が裏切っている。 少年の幼さ、無垢な純粋さから、あまりにも隔たった瞳の輝き。 ……あらゆるものを見下し、平然と踏みつけにできる目だ……。 この世のありとあらゆる生命に慈しみの瞳を向ける魔王陛下とは、間違いなく対極にある冷たく凍えた闇の光。 こんな闇を抱えた者の忠誠をどうして疑いもなく信じられるのか、カーラには理解できない。だが、魔王ユーリは心から彼を信頼し、一番の親友と呼び、頼みにしているという。 「………罪を、唆すとは……どういう意味でございましょうか……?」 「そんな分りきったことを、いちいち君に説明する必要などない」 ばっさり斬って捨てて、村田はレイルに顔を向けた。 「どうやら君が一番物の道理を心得ているようだ。従姉妹殿には、君が後からきっちり教えてやると良い」 「……はっ。誠に申し訳ありません……!」 どうしてこの男に、そんなに卑屈になる必要がある!? 従兄弟に怒鳴りつけたい衝動に襲われるが、その前に、まるでカーラの感情を読み取ったかのように、レイルがカーラを睨みつけてきた。 ……この従兄弟から、こんな目で見られるなんて……。 可愛い弟のように思ってきた少年から、思いも寄らない激しい感情をぶつけられて、カーラの胸が不穏な音にざわめいた。 「代弁人に対しても、どうやら妙な思い込みがあるようだね」 大賢者の、レイルへの語りかけが続いている。 は、と、再びレイルが応えた。 「実は大陸には、法に精通していると称し、ある種いかがわしい仕事に手を染める者達がおります」 レイルが説明を始めた。 「へえ?」 「取調べや裁判でその者達が、高額の報酬と引き換えに、罪を犯した者の代理を務めるのです。法で認められた代弁ではなく、代理としてしゃしゃり出てくるのです。本来あってはならないことなのですが、特に大シマロンが勢力を伸ばし、大陸が混乱し、金を積めば大概のことはまかり通った時期に多く蔓延っておりました。依頼主から得た金をばらまき、弁舌を弄して、犯罪者、もしくは犯罪の関係者を無罪放免にし、悪質な者は、罪もない誰かにその罪を擦り付けるということまで行います」 「それはすごいな。なかなかの芸だ」 「富裕な者は」そこで補足説明を始めたのはコンラートだ。「そもそも事を起こした直後に金を積み、捕縛を逃れるのが常道なのですが、うっかり取調べを受けて不味い状況に陥ると、そういう輩を雇ったのです。報酬も色々とランクがありまして、今レイルが申しました、都合の良い『犯人』をどこからか調達してくるという仕事は最高ランクだったようですよ?」 「なるほどねえ。つまりそういう連中と我が国の代弁人が、イメージ的に重なっちゃってるわけか。迷惑な話だな」 「同じではないか…! 王の命を奪おうとした者の罪すら減じさせる恥知らずだぞ…!」 歯軋りするように声を絞り出すカーラに、レイルが血相を変えた顔を向ける。 「違う! 全然違うんだ! 姉さん、お願いだからもうこれ以上醜態を晒すのは止めてくれ!」 「醜態…!?」 カーラは愕然と従兄弟を見た。 ……これは、誰だ……? ふいに、カーラを惑乱が襲った。 私に、この私に、醜態を晒すなと叱りつけるこの男は一体……? これが……あの、妹の後をいつも必死で追いかけていた、小さくて頼りない、レイル、なのか……? その時になっていきなり、カーラは自分がレイルを見上げていることに気づいた。レイルは1人前の男として成長し、自分の背などとうに追い越していたのだ。 ……私は……一体……? 「………教えて、下さい……!」 呆然とした顔のまま、カーラは村田に向かって問い掛けた。 「私の、一体何が間違っているのですか…!?」 姉さん! レイルの焦った声が耳元で鳴り響く。 「教えて下さい! 私は……王女として生まれながら、何一つできないまま国をなくしました。そして今ようやく新たな国を得ることができたのです。ですがその国は……。新たな国においてもまた、祖母は国の頂点にあって苦しみ、私は何もできずにいます。私はもう間違えたくありません。もう大切な祖国をなくしたくはありません…! ですから教えて下さい。私は何を間違ったのですか!? どうすれば、あなた方のご協力を得られるのですか!? 唯一私達の国を救える、あなた方の力を貸して頂けるのですか!?」 部屋の中がしんと静まった。だがすぐに、「ふん」と軽く鼻を鳴らす音がした。 「じゃあ、答えよう」 全てだ。 きっぱりと言いきられて、カーラがぐっと顎を引き、喘ぐように息を吸った。 「まず最初に。君は友人なのだから協力してくれと、我らが陛下に対して口にした。友人という、極めて私的な関係で、だが君が望んだことは、陛下がそのお立場を離れ、個人として何かをすることではなく、国家に対する国の主としての行為であり、それもあろうことか法を破ってくれという願いだ。君は公私混同するだけではなく、我らが陛下に王自ら国法を破れと言ったのだ。これを過ちと呼ばずに何と呼ぶと?」 「………王、は、法を超越した存在であると……」 「法を超越しているのは陛下の御身、そしてご自身に関ることのみだ。お友達にまで波及するものではない。陛下が友人の願いに応え、その人物を、反逆者という確たる証拠もなしに新連邦に引き渡せば、陛下は法を破るだけではなく、無実かもしれない人物を罪に陥れたと民の非難を受けるだろう。清廉と公正を旨とする陛下の評判は地に墜ちる」 「そ……それは……」 「次に。君は先ほど、陰謀を巡らす州執政の手先と決め付けた男の引渡しを、自分が正式に依頼すると言ったよね?」 一体どこで、いつから話を聞いていたのだろうと不思議に思いつつ、カーラは頷いた。 「それ、どういう立場でやろうっていうわけ?」 「……立場……」 「そう。つい今しがた、フォンクライスト卿が言ったじゃないか。こういう場合の引渡しは、国家と国家の間で決定される問題であり、正式に依頼するのは新連邦という国なんだ。君は国軍の一将校だと記憶していたんだけど、一体いつから新連邦を代表する立場になったんだい?」 「…そ、れは……」 「新連邦政府の頂点に立っているのは君のお祖母さんだ。だけど彼女は別に女王でもなんでもない。彼女の持つ政府代表という立場は彼女のものであって、彼女がその立場で有する権限は、孫である君とは無関係だ。なのに君は、自分がお祖母さんと同じ権力を振るえると無意識に考えている。特権があると思い込んでいるんだ。要するに、君はいまだに王女様のままなんだよ。ああ、否定しても駄目だ。友情を盾に、陛下に法を曲げさせようとすることといい、引渡しを要求するその態度といい、露骨なまでに特権意識が溢れている。どう? 僭越って言葉の意味、君は知ってるのかな?」 目を瞠り、呆然と少年の顔を見つめ、それから……カーラの顔が一気に、燃え上がるように真っ赤に染まった。 「……あ……わたし……」 何ということ……! 故国を追われてから。 剣を振るうことしかしてこなくて。ただひたすら、戦って戦って、王女として生まれたことも、女であることも、忘れたつもりで戦って、ただもう戦い続けてきた。 それ故にこそ今、新たな国のために、祖母のために、何もできない自分があまりに情けなくて。 だから……。 いまだに王女の特権意識を持ち、その資格もないのに、僭越にも他国の王に対し法に悖る要求をした。 その事実が、自分が今犯してしまった過ちが、カーラの胸をグサリと抉った。心臓が痛い。顔が熱い。 「それに君が望むことは」 大賢者の言葉は容赦なく続く。 「最悪の場合、我らが必死に築き上げてきた人間との友好関係を、根底から破壊することになりかねない」 息を呑み、愕然と。カーラは目を瞠った。 「君の言葉を聞いていると、新連邦の一部であるヴォーレン州が、まるで敵国の様に聞こえる」 大賢者に指摘されて、カーラの喉がこくりと鳴った。 「私の国を滅ぼそうとしている。君はそう言った。我が国の問題と言いながら、君にとってヴォーレン州はすでに敵国なんだ。君の大事なお祖母様が治める王国を滅ぼそうとする悪の帝国。だろう?」 「…それは……そんな、ことは……」 ない、だろうか。 己に問い掛けて、違うと言い切れない自分にカーラは顔を歪めた。 「これはあくまで新連邦という国の国内問題だ。君は力を貸せと言う。君の言う力というものが、どの程度のことなのかは分からない。おそらく君自身も分かっていないと思うけどね。ただね、もし僕達が、新連邦という国家からの正式な依頼もなく、君の、新連邦の代表でも何でもない君個人の望むままうっかり力を貸して、それが新連邦に対して何らかの影響力を及ぼすものとなった場合。最悪、どうなると思う?」 「………そ、れは……」 「それは。内政干渉になるんだよ」 「ないせい…かん、しょう……」 そう。村田がゆっくりと頷いた。 「新連邦内部においては、おそらく眞魔国に対する反発が起こるだろう。我が国の問題に、どうして他国が嘴を突っ込んでくるのか、とね。だがさらに重大な問題は、新連邦の動向を注視する他国の人間達の反応だ。現在友好的な国々はもちろんだが、特に魔族に対して懐疑的な国は、魔族の動きをどう捉えるだろう。レイル君? 君の考えを述べてみたまえ」 いきなり話を振られて、レイルの肩が跳ね上がる。だがすぐに動揺を押さえ込むと、レイルは深呼吸をしてから口を開いた。 「おそらく……眞魔国はその国力にものを言わせ、友好国を都合の良いように操ろうとしている、と考えるでしょう。そして、これを始まりとして、これから魔族は、その……全ての人間を支配しようとするに違いないと……魔族に反感を抱く者なら考える可能性がある、と…思います」 「僕もそう思うよ」 村田が満足したように頷き、レイルはテストを無事乗り越えた学生の様にホッと肩の強張りを解いた。 「そして」村田が続ける。「例え魔族に対し友好的な国でも、魔族が人間の国の内政に干渉し始めたと感じたら、似たようなことを考えるだろう。魔物とまでは思わなくても、そうだね、これくらいは考えるだろうね」 眞魔国も、結局大シマロンと同じだ、と。 その一言に、思わずカーラは首を振り、声を上げた。 「そのようなこと…! 魔王陛下と大シマロン王では、その志の高さが全然違います!」 「志が天地よりも掛け離れていようと」村田が即座に続けた。「目にする事実が全てだ。この展開は、もちろん最悪の場合という注釈がつく。だが、事の始まりが道理を外した行為から発するとすれば、事態は必ず悪い方向へと転がり落ちるだろう」 私は……。 何かを言わなくてはと思いながら、何も言葉が出てこなくて、カーラは目を閉じ、ぎゅっと唇を噛み締めた。 「……私、は……正義を行いたいと……思ったのです……」 「……正義?」 思いも寄らない言葉を聞いた。そんな声で村田がその単語を繰り返した。 カーラがこくんと、子供の様に頷く。 「ヴォーレン州執政は……陰謀を張り巡らせ、眞魔国から得た恩恵を独り占めして独立を図ろうとしてきました。これは国家への反逆です。大シマロンを相手に立ち上がり、ついに新たな国を創り上げ、共に繁栄の道を進もうと誓い合った私達への裏切りです。私はこれを……何としても正したいと思っているのです……!」 声を震わせるカーラに、大賢者が「ふう」と、げんなりした息を吐いた。 「正したければ正せば良いじゃないか。僕がいつそれを非難した? というか、さっさとやれと、僕は前に君達に言ってなかったかなあ? 一体これまで何をやってきたんだか……。とにかく。僕が今言っているのは、国家の問題に個人的なお友達関係を持ち出すな、まして国主たるものに法を守ることを建前と言い放ち、法を破れなどと、文字通り無法なことを強要するな、ということだよ」 今、君達がすべきことは。 口調を改めて、村田が新連邦の一行を見渡した。 「ここで陛下や僕達に、ああしてくれこうしてくれと訴えることじゃない。一刻も早く国に戻り、この事態を報告し、善後策を練ることだ。幸い、国際友好会議の新連邦代表は別にいるし、君達は必要不可欠な存在じゃない。眞魔国を立ち去っても問題はない。もし君達が考えるように、今回の事件が新連邦の一州の暴走であれば、これは大変危険なことだ。ぐずぐずしている暇はないよ?」 はっ、はい! レイルが勢い良く応え、「姉さん、行こう」とカーラの腕を引いた。アリーもまた、どこか悄然としつつも姉に寄り添う。 村田の表情のない顔を苦しげに見つめていたカーラは、だがそこで1歩前に踏み出し、視線を改めてユーリに向けた。 「姉さ…」 「陛下…申し、わけ、ありませんでした…!」 深々と、カーラが頭を下げる。 そしてそれから何か言い継ごうと口を開けたが、言葉が何も出てこないらしい。ただ唇を震わせ、それから泣き出しそうに顔を歪めた。 「……カーラさん……」 ユーリの声が、申しわけなさそうに、気遣わしげに響く。その声に促されたかの様に、カーラがさらに深く頭を下げた。 「どうやら少しは頭が冷えたようだから、少し助言しておこう」 村田の声に、カーラがハッと顔を上げる。その場を離れようとしていたレイルやクロゥ達の足も止まる。 「個人的な関係で陛下を巻き込むなと言ったが、眞魔国はもちろん新連邦に対して一層の協力を約束する。今回の事件に関しても、兵には徹底的に捜査させるし、そこで得た情報は新連邦に全て伝えよう。それで良いね? フォンヴォルテール卿、ウェラー卿」 「友好国であるのだからな。当然のことだ」 重々しくグウェンダルが頷き、コンラートも「もちろんです」と請け負った。 「それからこちらで捕らえている男がヴォーレン州執政の意を受けて行動したことが判明し、新連邦が引渡しを願う場合、または、もしこの後この問題が進み、新連邦が国家として正式に、例えば調停とか、話し合いの立会いに第三国を必要とし、それを我が国に依頼するということであれば、協力することに何ら問題はないと思う。その時には友情なんて目に見えないものではなく、国家の代表の名が明記された公式文書で要請したまえ」 改めて顔を真っ赤に染めたカーラを始め、新連邦の一行が姿勢を改め畏まった。 「それからこれが最後の助言だ。ガウタス・バタフのことだけれど」 ハッと、全員の目が大賢者に向く。 「彼の供述も態度も首尾一貫、実に徹底している。どうしてここまで堂々と、新連邦とは無関係であると断言できるのか。その理由として、考えられることが大きく分けて2つある。1つは、もちろん彼の供述が真実であるということだ。この世の中、どんな偶然が起きても不思議じゃない。彼のあの態度は、真実であるからこその自信、と言えるだろう。そしてもう1つは、君達が考えている通り、彼の行動や今回の事件の裏にヴォーレン州執政が存在している場合、ここで3つの理由が考えられる」 「3つ? 村田、それは何だ?」 ユーリに尋ねられて、村田が胸に手を当て、「はい、陛下」と少々わざとらしくお辞儀をした。ユーリがじれったげに身動きする。 「ガウタス・バタフは、すでに己の命を捨てる覚悟を決めている。決して口は割らない。情報を漏らして未練がましく命乞いはしない。そう己に定めた、ある種清々しいほどの諦観が仄見える」 いつ観てきたんだろう。ユーリを始め、全員が思った。 「そこまできっぱりと覚悟を決められるのは何故か。1つ、ヴォーレン州執政が、命を懸けて仕えるに足る立派な人物であること。もしくは、そうであると彼が信じていること。……実はその執政官、中央があんまり無能だから、このままじゃ民が大変だって義憤に燃えて行動を起こしたのかもね」 そこでまたぞろカーラが、キッと眦を上げて口を開きかけたが、さすがに思いとどまったのか、盛大に顔を歪め、唇を噛んで引き下がった。その様子に村田がクスッと笑う。 「理由2つ目。ヴォーレンの執政の人柄の問題ではなく、ガウタス・バタフ個人の信念として、ヴォーレンの独立、王国復活を願い、そのための手段の一つとして、中央評議会議長エレノア殿の弱点ともいうべき孫を狙ったのかもしれない。彼の強さは、その信念の強さ故と言える」 なるほど、と今度は全員が頷く。 「そして最後3つ目だが……。もし、執政官がごく普通の野心を持つ普通の元王様でしかなく、彼自身も王国復活の念に凝り固まっているわけではない普通の男だった場合、自分の命を捨てる覚悟をああもきっぱり固めていられるのはおかしい。とすると、彼にはそうしなくてはならない理由が他にある、ということになる」 「猊下、それは……?」 「よく考えてみるんだね、レイル君。人が自分の命を捨てる覚悟をしてまで、やりたくもないことをするのはどういう時か。時間がないから先に答えるが、それはつまり、自分の命より大切なものを守るため、だよ」 「あ……」 レイルはもちろん、カーラ達も目を瞠り、思い至ったことを確かめ合うように互いの顔を見合わせた。 「ガウタス・バタフの家族を探せ」 託宣の様に発せられた言葉に、新連邦一行の表情が一気に引き締まった。 「彼の年代の男が護りたいと願うとすれば、まず何より家族、老いた両親や妻、そして子供達だろう。……もしかしたら、ガウタス・バタフは本当に失態を犯したのかもしれないね。そこで執政官は、彼や家族を罰する代わりに利用することを思いついた。ま、そういう推理というか想像もできないわけじゃない。とにかく、彼らを探せ。もし彼らの身柄が執政官に押さえられているとすれば、僕の想像は八割方当っているということになる。その場合、彼らが処分される前に中央が身柄を奪取しろ。もし彼らが自由なら、とにかく接触し、やはり身柄を確保しろ。家族なら、彼から何かを聞いている可能性が高いからね」 ありがとうございますっ! レイルが声を張り上げた。頬が紅潮している。行動目標を得られたことが嬉しいのだ。 「すぐに帰国の準備をし、国に戻りましたら即座に行動を開始いたします。貴重なご助言、ありがとうございました!」 新連邦一行の代表は、いつの間にかカーラからレイルに移行している。 ピシリと背筋を伸ばし、大賢者と相対する従兄弟─いつの間にか背も伸び、1人前の男性になりつつある─の姿を、カーラはどこか呆然と見つめていた。 ……寂しい。とても。 急に腕が頼りなくなってしまった気がする。一生懸命、何かを支えてきたはずの腕が。 でも……これはなんだろう……。不思議な……解放感…? どうしてこんな気持ちになるんだろう。まるで……身体中を縛り付けていたものから、いきなり放たれたような……。 ぽんと、それこそいきなり背を叩かれた。 ビックリして振り返れば、クロゥがじっと自分を見下ろしている。 「行こう。カーラ」 やるべきことをやるために。 カーラは深く息を吸い、それから改めて魔王陛下とその側近達に向かうと、深々と頭を下げた。 □□□□□ 友人達が去り、扉が閉ざされ、その余韻が消えた時。ユーリはほうっと息を吐き出した。 「……村田」 「ん?」 「……ありがと。助かった。おれ……カーラさんにどう言って良いのか分らなくて……」 「渋谷は気にしなくて良いよ。僕が情けないと思うのは…君達だ」 村田が側近達をぐるっと見回して言った。グウェンダル達が「来た!」とばかりに一斉に顔を顰める。 「彼女にあんなことを言わせっぱなしにしておくってどうなんだよ。きっちり言い聞かせないとダメだろ?」 「も、申しわけございません」 こういう時の謝罪担当ギュンターが、いそいそと腰を屈めた。 「カーラ殿のお気持ちも分かると申しますか、国を思うあまりの…と思いますと、つい…。それに大変興奮しておいででしたので、とにかく落ち着くのを待とうと思いまして……」 「つい、というのは君達がよく使う言い訳だが、僕はあまり好きじゃない」 ユーリの背後に立つ男が、思わず視線を外す。 「筋を通すのに遠慮する必要などない。渋谷を困らせるだけだ」 申しわけございません! ユーリを除く全員が頭を垂れた。ユーリは…何かにがっかりしたように項垂れている。 「渋谷?」 「……なんかさ。おれ、自分が情けないな……って。カーラさんが苦しんでるって分るのに、何も言ってあげられなくてさ…。村田は……厳しいけど、ちゃんと向かなきゃならない方向に皆を向けてあげられたのに……さ……」 おれってば、王様のくせに何にもできないんだ。 しょんぼりと眉を八の字に落す魔王陛下に、村田が苦笑を浮かべた。 「何言ってんだよ、渋谷」 すたすたとユーリの傍らに歩み寄ると、村田の手がぱこんと王の頭を叩く。 「む、村田…?」 「君がいるからじゃないか。君が僕の王様だから、僕は頑張れるんだよ? もし僕が正しい方向へ皆を導いていけるとしたら、それは君がしっかり僕の手綱を握っていてくれるからだ」 「…! そんな、こと……!」 おだてたって騙されないぞ。 ぷくっと頬を膨らませ、ユーリが上目遣いで村田を睨む。その仕草に、村田の背後にいたギュンターが鼻を押さえて仰け反った。 「そんな無駄なことはしないよ。僕が言っているのは本当のことだからね。君は僕の最高の騎手だよ」 妙に静かな口調に、ユーリが驚いて親友を見上げた。 「きしゅ?」 「そう。君が騎手。僕は君の望むゴールに向かって全力で走る馬さ。ちなみにここにいる彼らも全員そうだ。君という乗り手がいてこそ、僕達は揃って疾走していけるんだ」 「………どう考えても、おれに皆を乗りこなす力があるとは思えないけど……。頭悪いし、お前はもちろんだけど、政治のことはグウェンに任せてばっかりだし、ギュンターみたいな教養ないし、剣だってからきしだし、それに……」 「うん、僕達は馬の中でもかなり良い馬だよね。でもさ、ほら、某有名作家だって言ってるように、良い騎手に、馬と同じ速さで走る能力なんて必要ないんだよ? だろ?」 言われた意味を理解しようと、瞳をぱしぱし瞬かせてから、ユーリは小首を傾げた。 「……おれで、良いのか?」 「君が君のままでいてくれれば良いんだ。僕達が望むことは、まさしくそれだよ」 違うかい? 村田が再び側近達を見回し、今度はにこやかに尋ねた。 グウェンダルが、ギュンターが、そしてもちろんコンラート、ヨザック、クラリスが、掛け値なしの笑顔で大きく頷く。 「確かに猊下の仰せの通りだが……陛下があらゆる意味で成長なされることもまた我等の望みだ。とはいえ、ふむ、良い騎手だからといって、馬と同じ速さで走る必要などない、か。なかなか分りやすく、かつ説得力のある言葉だな」 いつか使わせてもらおう。澄ました顔でグウェンダルが言う。 その様子をまじまじ見ていたユーリが、思わず「ぷっ」と吹き出した。 ぷっくっくっくと笑う主に、側近達の表情がホッと緩んだ。村田も微笑んで頷く。 と。 「では陛下。臣より1つ、お伺い致したき儀がございます」 笑顔のまま、ユーリが凍りついた。同様に、側近達の全身もまたパキパキと音を立てて固まってしまった。 全員の顔がキリキリと音を立てるように動いた先には、胸に手を当て、主に向かって頭を下げる大賢者がいる。 「………いきなり…テスト、ですか……ダイケンジャー」 ユーリの口から絞り出された声に、村田が恭しく頭を、さらに深く下げた。 「何で、ございましょうかー…?」 ソファの上でもぞもぞと座りなおし、ユーリは村田をそーっと見上げた。 「陛下は友情を大切になされますが、友情と国家のどちらかを選ばなくてはならなくなった時は、いかが判断なされますでしょうか?」 え? ユーリが、そしてグウェンダル、コンラート、ギュンター、ヨザック、クラリスが、ハッと目を瞠って大賢者を見る。 「村田。それはどういう意味だ…?」 は。村田が軽く頷く。 「陛下は民を慈しまれる御方。例えそれが他国の民であろうと、その安寧を心から喜ばれる貴い御心の持ち主であられると思います。ですが、その他国の民の安寧、安らかな暮らしを守るための代償として、陛下が大切になされるご友人をなくさねばならなくなった場合、陛下は民の安寧を選ばれますでしょうか。それとも……」 「村田」 ユーリの声が、きっぱりと村田の言葉を遮った。 「いい加減に、その気持ち悪い喋り方やめろ。それから……」 村田。 ユーリが改めて親友を呼ぶ。 「おれは……そんな決断をしなくてはならないのか?」 村田が顔を上げ、ユーリの目を真っ直ぐに見た。 「近々」 すうっと、ユーリが息を吸い込んだ。 「他国の、人間の民のために、おれ達がしなくてはならないことがあるんだな?」 「そうだ」屈めていた腰をすっと伸ばし、いつもの表情に戻って村田が頷く。「どれだけ時間があるか計っていたんだけど、意外と早く進みそうだ。……まさか、この国で事を起こそうとするとはね……」 「じゃあ村田、お前もやっぱり今回のことが偶然じゃないって考えてるんだな?」 「今のヴォーレン州の実情からするとね。問題は、中央、つまりエレノア殿達がろくすっぽそれを把握していないことだ」 「じゃあおれにやれることって何だ!? エレノア様やカーラさん達を助けて上げられる……」 そこまで言って、ユーリの言葉が不自然に途切れた。 村田は無言のまま王を見つめている。 「……そうか……選ぶって、そういうこと……」 そう。村田がそこで頷く。 「新連邦の民の安寧のために、僕が考える最善の行為は、おそらく新連邦首脳部の反発を買うだろう。魔族など信じられないと思われるかもしれない。君の友人達も、君やこの国に失望してしまうかもね。でも……」 「でも」ユーリがスッと目を上げた。「お前はそれが、あの地に生きる民のために必要なことだと考えているんだな?」 「そうだ」 きっぱりと村田が大きく頷いた。 「そのための準備は?」 「今掛かり始めたところだよ。目処がついたら君の裁可を受けるつもりだった」 そうか。小さく頷いて、それからユーリは何かを思う様に目蓋を閉じた。だがすぐに目をしっかりと開けると、ユーリは立ち上がり、真正面から親友と視線を合わせた。全員の視線が主に向く。 「村田。その準備、構わないからどんどん進めてくれ」 「良いのかい? 何だったら今からざっと説明するけど」 「その必要はない」 きっぱりと言いきるユーリ。 「おれのために、この国のために、それから世界のために、お前が必要だと考えたことなら、おれはそれを支持する。お前がおれ達のためにならないことをするはずがない。おれは……」 村田を信じてる。 そう言って、そこでようやくユーリはにこっと笑みを浮かべた。 「頭悪いおれに説明する暇があったら、どんどん進めてってくれ。お前の言い方からすると、あんまり時間がないんじゃないのか?」 「実はそうなんだ。でも独断専行はしたくないから、とにかく目処が立ったら説明するよ。ただ、その段階でやっぱり駄目だと言われると非常に困る」 「お前に任せると決めた以上は、信じて任せる。良いな?」 「了解」 「グウェン、ギュンター」 呼びかけられて、宰相と王佐が畏まった。 「村田の準備が進むよう、2人も協力してくれ。頼むな?」 分った、とグウェンダルが頷き、畏まりましたとギュンターが頭を下げる。 それからほんの一呼吸の沈黙の後、ユーリが急にくすくすと笑い出した。 「ユーリ?」 「渋谷?」 コンラートと村田がほとんど同時に、心配そうにユーリを呼ぶ。 「あ、ゴメン」ひらひらと手を振ってユーリが笑顔になる。「今ちょっとさ。思ったんだけど、これが王様に成り立ての頃のおれだったら、きっと新連邦の民もカーラさん達も、両方救うんだ! とか言っちゃって、後先考えずに吹っ飛んでったかもしれないなーって」 「……実はそれもちょっと心配してたんだけどねー」 「あ、ひでー」 「前科がありすぎ」 そか。笑い、だがすぐに「でもさ」と言い返す。 「おれだってちょっとは成長したんだぜ? おれみたいなガキが1人でわいわいやったって、それじゃホントは駄目なんだってことも、今じゃ少しは分かってるつもりだし」 「少しか」 「うん。少し」 ユーリと村田が一緒になって、くすくすと笑いだす。コンラートやヨザックは頬を緩ませ、グウェンダルは呆れた様にため息をついた。 「これまで上手く行ってたのも、周りが助けてくれたからで、おれがすごかったわけでもなんでもない。ラッキーだったんだ。それも分かってる。……おれは王様だから、この国でちゃんとしなくちゃならない役目がある。それをしっかりやらずに、正義だの世界平和だの口にする資格はない。おれは……王様だから、例え……例え友達をなくしても、世界中の誰から嫌われても、憎まれても、それでも……」 王として、しなくてはならない決断から逃げない。 「そう決めた」 真摯な光を瞳に宿して、唇をまっすぐに結ぶ王に、大賢者がゆっくりと大きく頷いた。 ……そう。君こそ僕の最上の騎手。最高の王。君だからこそ、僕は記憶に狂うこともなく、僕のまま生きていける。 「村田。村田じゃなければできないことがある。それをやってくれ。時間切れにならない内に。そしてここにいる全員、大賢者の仕事がスムーズに…円滑に進むよう、全力で協力してくれ」 全ての民のために。 「御意…!」 唯一無二の王に。 その場に集う全員が、愛情と敬意と忠誠の全てを込めて頭を垂れた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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