報告書を卓上に置くと、彼女はため息を……つこうとして、ぐっと唇を引き結んだ。 これで、円卓を囲む同志達に自分が苦悩する表情を見せずに済むし、同時に、怒りを冷静に抑えている、という印象を─実は間違っているが─与えることができるだろう。 「このような馬鹿げた行い……どうして今まで隠し通すことができたのです?」 とても信じられません。 彼女の言葉に、円卓の仲間達はそれぞれ顔を合わせ、それから報告書をまとめた男に一斉に顔を向けた。 円卓の外に立っていた男は、国内の調査を行っていたという。その途上、絶対に看過できない重大な問題を見つけ、緊急の報告をすべくこの場所に戻ってきたのだ。 「国軍の兵士が、任地を移動せよという国家の命令に逆らうなど……。それも1人や2人がたまたま嫌がったというならまだしも……!」 「しかし、考えたものですな。兵士同士が身分証や移動命令書を交換して相手に成りすまし、それぞれ望みの土地に居付こうと画策するとは……。実に単純で、そして議長殿の仰せの通り、実に馬鹿げている」 「確かに。だが、何が馬鹿げているといって、これほどまでに杜撰な悪事が、今日まで全く表沙汰にならなかったというこの事態! 我が国の有り様だ…! 情けなくて涙が出るわ!」 「我が国の各州の執政官は」 興奮し始める人々の熱を冷ますように、男が冷静に説明を始めた。 「元領主など、その土地に縁のある人物が多く就任しております。しかし末端の兵士は一つ処に留まることを許されず、2年毎に各州を移動しなくてはなりません」 「その通りだ。一つの州にのみ属せば、それは国軍ではなくてその州の、下手をすれば執政官個人の私兵になりかねん。それは絶対に避けねばならん。己の属する土地ではなく、この世界一広大な国家に対しての忠誠心を育てるには、兵はあらゆる土地、あらゆる州に奉職することを当然とせねばならん」 「問題はそこです」男が頷いて続ける。「彼らが留まろうとしたのは、彼らの生まれ故郷を含む州です。ここまで隠し通すことができたのは、兵士達の、生まれ育った土地への愛着心が我等の想像以上に強かったということでございましょう。彼らは1度、故郷を失いました。かの国が滅んだことで、故郷は再び自分達のものになった。彼らは、現在は同じ国内とはいえ、かつては他国であった見知らぬ土地ではなく、自分達の故郷と本来の同胞、家族を我が手で護りたかったのです」 だから。兵士達は、自分の故郷に移動する兵士─自分の移動先が彼の故郷であればなお良い─と身分証明書、移動命令書を交換し、その兵士に成りすまして故郷に戻り、留まったのだ。そうすれば、少なくとも2年は移動せずに済む。そして2年後、移動を命じられた段階で、あらためて互いの望みが合致する相手を見つけ、書類を交換すればよいのだ。 最初報告を受けた円卓の人々が、そんな馬鹿なと耳を疑うほど単純な発想であり、露見しないまま長期間、大規模に行われることなど本来あり得ない方法であった。 「兵が国軍への忠誠心をなくせば、連邦という国家に対する忠誠心も薄れ、体制を維持することは難しくなると……彼が……」 「彼の言葉は正しい。正しいが……ようやくの思いで生まれ故郷に戻れた兵に、その大義を理解しろと言っても無理だったのだろう」 「だからといって……」 国軍の兵士が、大挙して国を欺こうとは……! 「この企ては」 男が円卓の人々を見回して、ゆっくりと言った。 「先ほども仰せになられましたが、本来おそろしく杜撰なものです。単なる書類の交換による成りすましなのですから。ある日突然別人が仲間の振りをして部隊に入ってくれば、騒ぎにならないと考えるほうがおかしい。それでも隠しおおせたということは、周囲の者も皆、分って黙っていたということになります。組織的に行われていたとすれば、これが最下級の兵卒達のみによって企てられ、実行されとは考えにくく存じます」 「それこそが、最大の問題です」 彼女は厳しい声できっぱりと言った。 「その行為自体も見逃しがたいものですが、軍の指令や……考えたくはありませんが、各州の執政官が示し合わせてその行為を黙認していたとなれば、これはまさしく……国家に対する反逆行為、です」 「さらにもう一点、付け加えさせて頂きたいのですが」 男がわずかに声を落として言った。 まだあるのかと、円卓に座する人々の眉が顰められる。 「これもまだ、絶対とは言い切れないのですが……」 「構いません。言って下さい」 「この成りすましができた州は、執政官を頂点に、いまだ魔族に対して反感を抱いている人々が支配層を多く占めています」 「反魔族の、我々の意向に反する州ということですね?」 「……消極的に、ではありますが……」 おのれ……! 円卓の中の一人の男性が、憎々しげに拳を振るわせる。 国家の最高議会、その中でも全ての始まりからこの組織の中枢を構成する『円卓』を占める人々の表情が厳しく引き締まった。 彼女は目を閉じ、大きく息を吸い込むと、ゆっくり目を開いて男を真っ直ぐ見つめて言った。 「徹底した調査を。すぐに手配して下さい」 □□□□□ 新連邦最高評議会代表の座にあるエレノア・パーシモンズは、自室のソファに腰を下ろし、そこでようやく、体内に溜まりに溜まった息を吐き出した。 目の前には、自分達の国、新連邦の国土を描いた地図が広げられている。完成して、さほど時間の経っていない地図だ。 大シマロン王は。 エレノアは軋む肩と目の奥の痛みに眉を寄せながら思った。 あれほどまでに貪欲に国土を欲して。屍をあれほどまでに積み重ねて。 そうして得た国を。 本気で。 自分の手ひとつで治められると信じていたのだろうか。 大シマロン王の絶対権力で、世界を思うままに操れると? 全ての民が1人残らず、自分に絶対服従すると? 逆心など些かも抱かないと? ねえ、ベラール殿。あなたはその力が自分にあると、本気で信じていたの? ぷかり、ぷかりと言葉が浮かぶ。 思わず。エレノアは吹き出してしまった。 何だか、かの大シマロン王が妙に微笑ましい存在に思えて。……もしくは、こっけいで、哀れで。 それとも。 1人なら。 絶対の力をもつ支配者が1人だけなら。 うまくいったのだろうか。 全ての民が支持する支配者。唯一の王。そんな存在がいるとしたら……。 エレノアの脳裏に、2人の人物の顔が浮かんだ。 1人は。今現在、人種や国の垣根を越え、おそらく最も多くの民の支持を受けているだろう王。 1人は。かつてエレノアや同志達が、玉座に座って欲しいと心から願った男。 今、国を預かる王には無理でも、もう1人の、彼が、再びこの地に……。 「……愚かなこと……」 浮かんだ思いに、エレノアは自分で自分を嗤った。 新連邦はもともと寄せ集めの国だ。 大シマロンの世界統一戦争によって滅ぼされた国々の、王族、宰相、大臣、将軍など、支配層にいた人々が、祖国奪還の旗の下に集結し、反シマロンの烽火を上げ、戦い、勝ち取った国土だ。 だがその国土は、大地は、自然は、人々がそれと気づく遥か以前から、崩壊を始めていたのだ。 戦争はその崩壊に強烈な拍車を掛けることとなった。 1年を通してほとんど雨が降らず、川も干上がり乾ききった土地があるかと思えば、真夏に1日として陽が射さず、雹が降り、そのまま冬になった途端大雨が何日も続いて川が決壊、細々と息を繋いでいたありとあらゆる生命が流され消えた土地もあった。 天は大地に作物が根付く余裕を与えてくれず、ただ次から次へと試練─乗り越えることなど永遠に不可能に思える─を与えるばかりだった。 疫病と飢えが争うように民に襲い掛かり、さらに兵士達の刃がそれに加わる。 生命が消えていく。悲鳴を上げる力すらなくして。 そのままであれば、勝ち得た大地は一面無惨な死に覆われていただろう。 救いは、思いも寄らない国から齎された。 もう何千年も、自分達人間が魔物と呼び、世の災いの全てを生み出す悪鬼と信じていた異種族、魔族、から。 魔族が悪鬼羅刹でも魔物でもなく、単に種族の違う「人」であると判明したことは、そしてそれを自分を含め仲間達が受け入れたことは、人間にとって何より幸いだったとエレノアは信じている。 彼らの善意、そして無償の施し(認めたがらぬ者も多いが、あれはまさしく施しだった)で、新しい国は国として起つことができたのだ。 今や魔族は新連邦にとって大恩人であり、永遠の友となった。 しかし。 ほとんどが弱小国だったとはいえ、風土が違い、習慣が違い、法も祭祀も価値観も全てが違う国が寄り集まって一つの国にしようというのだ、困難が生じるのは最初から分っていた。 だがそれでも最初は良かった。 魔族の力を得てしても、雪崩の様に崩壊していく大地は簡単には復活せず、皆が苦しかった。征服者を駆逐したからといって、それぞれの国が独立するなど、最初から叶わぬ願いだった。助け合わねば国どころか、誰一人として生き延びられない。それが分っていた。この時、自分達はこの上なく結束していたと、結束していられたと、思う。 だが、何とか一息つける地域が増えてくると、次第に人々の意識が変化してきた。 当然のことだが新連邦の国土は広い。だから、魔族の力による大地の復活も、地域によって差が出てくるのも仕方のないことだろう。 その差は、特に南北で多く見られた。すなわち、比較的温暖な南部に比べ、より荒廃が進んでいた北部ほど復活が遅れてしまったのだ。 さらに、大陸南部は海に面し、その国─今はそれぞれが新連邦の州のひとつだが─には港がある。 港があれば人が呼べる。自分達には物資や資金が不足していても、他国の船が2隻以上やって来てくれれば交易が始まる。寄港地として税をとることもできる。ただそれは本来新連邦の国庫を潤すもののはずなのだが、実際に税の徴収がなされると、なし崩しにその州の建て直しに費やされてしまった。結果として、港湾を持つ州の復活が加速した。 だが北部には荒れた大地以外に何もない。 眞魔国から無償で種苗を借り受けたが、作物が実りを結ぶにはただでさえ時間が掛かる。しかも北の寒冷な大地は、もともと作物が実りにくいのだ。北部の復活の歩みは遅々として進まなかった。 ……州の執政を、その土地の元の支配者に任せたのは失敗だった……。 それは危険だと彼に言われていたのに、己の国を取り戻すことこそが最初の目的であった自分達は、賢明な忠告をあえて無視してしまったのだ。 ……ツケは大きかったわね……。 エレノアの口から何度目かのため息が漏れる。 執政官にとって、管轄する州はもともと自分達の国である。 将軍や大臣であったというならまだしも、元王族が執政官になった州は特に変化が顕著だった。 ……いや。 あれは変化ではない。胸に秘めて溜めてきたものが、ついに表に表れただけだ。 南部の一つの州が独立を画策していると報告があったのは、エレノア達最高評議会の者達が危機感を抱いて間もなくのことだった。 その州の執政官は元国王だった。 ここは本来自分の王国だ。本来の王が王として、国を再興して何が悪い。 当然、予想できる主張だった。賛同する元王国もいくつかあった。違う国同士が一つの国になることに無理があるのだ。せっかく国土を取り戻したのだから、そろそろ独立しても良いではないか、と。 そしてもう1つ。 それらの独立を支持する州の執政官達に共通するのが、魔族への無理解だった。 我々は人間だ。いい加減、魔族の下風に立つべきではないのではないか。恩義は恩義として、そろそろ彼らとは一線を画すべきではないのか。 絶対に容認できない主張だった。 だが、エレノア達以上に、凄まじいまでの反応を示したのが北部の州の執政官たちだった。 魔族から受けた恩恵を独り占めして。良いところだけ受け取って。我等が一致協力したからこその復興であったのに、自力で再興できると踏んだ途端、とっとと逃げ出そうというのか。共に戦った同志を、これまで助け合ってきた仲間を、昔はどうあれ、今は同胞である我らを、見捨てて、見殺しにして、自分達だけ生き残ろうと計るのか。 議会に怒号が渦巻き、剣を抜く者すらいた。険悪というよりも、ほとんど憎悪に近い感情が一気に、燃え上がるように議会を支配した瞬間の戦慄を、エレノアは忘れられない。 鬱々とした不満は、もうずっと人々の胸の中に滾っていたのだ。 さすがに拙速を認めたのだろう、その元王である執政官は態度を翻し、これからも一州の執政として職務を全うすると議会議員に向けて誓いを述べた。 ……あれで一旦は事が収まってくれるかと期待したのだけれど……。 このことが国に及ぼした影響は大きかった。 復活の恩恵を南部の州だけに独占させて堪るかと、北部の執政官達が富の配分を、さらに強硬に要求してくるようになったのだ。 比較的豊かな州から上がる税金や作物を、優先的に北部に回せという、その気持ちも分らないではない。 我々は一つの国であると、地域に偏りなく、国が一つとなって、全体として復興しなくては意味はないのだと、その主張を元に、最高議会は北部への援助と富の再配分について、改めて調査と改正を行った。 だが……。それも結局は上手く進んでいない。 北部は南部への怒りを募らせ、南部はのらりくらりと要求を躱し、常に見えない鎧で身を覆っている。 そしてエレノア達最高評議会の議員は、両者の間を取り持とうと右往左往するばかりで日を送る有様だ。 ……私は人間関係をうまく扱うと、コンラート、貴方は褒めてくれたことがあったわねえ……。 だがその評判もそろそろ地に墜ちそうだ。 相談役が欲しい。エレノアは心底から思った。 国家の行く末や政策について、確かな知識や見識を持ち、心から信頼できて、何でも話し合える人物。 そしてできればその人物には、自分の後を継いで欲しい。 能力的にはラダ・オルド州の執政官であり、円卓の同志であるクォードが、その地位に最短の位置にいるだろう。だが相談役としてはどうだろうか。 彼に、エレノアの胸の内にあるものをすべて曝け出せるかといえば……無理だ。 孫娘のカーラは、自分に近すぎて、客観的な立場で政策を語ることはできない。それにカーラは武人としての指揮監督能力は育ったが、為政者としての能力は未発達だ。知識や教養はあるし、人間的な分別はしっかりしているが、良い人間だから良い為政者になれるわけではない。 ……昔々栄えていたという国に、立派な摂政がいたというけれど……。 その人物の名は、エレノアの国やその周辺諸国の為政者にとって「王を援ける名臣」の代名詞となっている。 決して驕らず、常に慎ましく、だが臆することなく王を諌め、政を正し、凡庸の王を名君たらしめたという。そして王がその位を下りると同時に自らも引き、新たな王にどれほど請われても政界には戻らず、身を慎んで質素な隠遁生活に入った。そして自分の王の御代に起きたことについては一言も漏らすことなく、静かに世を去ったという。伝説の名臣だ。 これほどの人物に比肩する存在といえば、エレノアにはコンラートしか思い浮かばない。 だが、もう2度と彼を求めることはできないのだ。 エレノアは、今この新連邦で働く者の中から人物を選ばなくてはならない。 ……いろんな意味で前途多難だわね……。 エレノアは、兵士達の成りすまし事件に意識を戻した。 ……もしかして……。 その時ふと思いついたことに、エレノアの背筋が一瞬凍りついた。 兵士達が故郷に留まろうとするための成りすまし。これがもしや、兵力を囲い込もうとする執政官達こそが企てたことだとしたら。彼らこそが黒幕ならば。 「……その時には」 エレノアは地図をじっと見つめて呟いた。 「今度こそ内戦になるわ……」 □□□□□ 「久し振り、皆! 良く来てくれたなっ!」 重々しい扉が開かれ、部屋に飛び込んできたのはこの国の主。 眞魔国第27代魔王ユーリだ。 客間にいた人々の顔がふわりと綻び、満面の笑みを浮かべてこの国の主を迎えた。 その日、眞魔国を訪れたのは、新連邦最高評議会の議長を務めるエレノア・パーシモンズの3人の孫、カーラとアリーの姉妹、そして2人の従兄弟のレイル、彼らを警護するクロゥ・エドモンド・クラウドとバスケスの2名、そしてその隣国、ベイルオルドーン王国の国王カインとその母、サリィデラノーラ・ラスタンフェル、彼らの護衛のローガン・ウォルワースとパーディル・ロットリン、計9名であった。 彼らは魔族と人間の友好親善及び、眞魔国を中心とした各友好国間の通商交易の更なる発展のための、元首級が集結する国際会議に出席するため眞魔国を来訪したのだ。 とはいえ、会議までにはまだしばらく間があり、他国の代表はまだ誰もやってきていない。おまけに、新連邦の代表はカーラ達ではない。カーラを除けば、代表団の一員ですらないただのおまけだ。本来の代表は最高評議会の議員の1人で、会議開催ぎりぎりに代表団を引き連れてやってくることになっている。ベイルオルドーンにしても、正式な代表はカインのみで、サリィはただ同行してきただけだ。 そして、魔王陛下へのご挨拶という名目で集まっていながら、そこは謁見のための大広間ではなく、魔王の私的な客間であり、当然ご挨拶に随従するべき人々も宿舎で留守番を仰せつかっている。 集まっているのは魔王陛下の個人的な友人達であり、つまるところ、彼らは会議にかこつけて、庶民的に平たく表現するならば……遊びにやってきたわけだ。 「ああもう! クーちゃんもバーちゃんも、んなトコで畏まってないで座ってよ! ほら、ウォルワースもロットリンさんも! せっかくテーブル用意したんだから!」 クーちゃんバーちゃんと相変わらずの愛称(?)で呼ばれて、クロゥは思わず苦笑を浮かべた。 「陛下、しかし我々は護衛官としての職分と立場がございますので……」 「クーちゃんって、いつも無駄に難しい言葉を使うよな」 そこで魔王陛下はちょっと意地悪な笑みを浮かべ、上目遣いでクロゥを見上げ、言った。 「今ちょっと用事でいないけど……グリエちゃん呼んできて、接待してもらう? もちろんドレス姿で」 途端、クロゥが「うっ!」と詰まって瞬く間に顔を真っ赤に染めた。冷静沈着な美貌の剣士が売りのはずのクロゥの様子に、カーラ達はもちろん、バスケスも一緒になってため息をつく。 「……やっぱり魔王へーかにまで知られちまってたか……」 相棒を思うバスケスのため息は一際深い。 「気持ちは分かるが」コンラートが小さく吹き出しながら取り成した。「陛下もこのように仰せだし、4人とも遠慮は無用だ。少なくともここで護衛は必要ない。だろう?」 いくら親しく過ごした経験があろうと、従者は従者としての立場を守ろうという彼らの意志は、同じ立場に置かれることの多いコンラートにはよく分る。だが彼の主はそんな立場や垣根を最も嫌うのだ。 結局、主客の席からほんのわずか離れた位置に設えた従者用の席(といっても、卓もソファもほとんど同じだ)にクロゥ達護衛役4名が座って事は収まった。 「恐れ入ります」 侍女が運んできたお茶とお菓子に律儀に頭を下げ、ローガン・ウォルワースが視線をコンラートに向けた。 それを敏感に察したコンラートが、さりげなく彼らの卓にやってくる。 「……後ほど、フォンヴォルテール卿にご報告いたしたいことが」 「分った。後で迎えをやろう」 ベイルオルドーン王国の騎士であり、一地域の領主であり、国王の股肱の臣であり、王弟の名付け親であり、そして眞魔国宰相の目と耳の一つでもあるウォルワースが、「は」と小さく頭を下げた。 「ごめんね、こんなに早く来ちゃって」 お菓子を頬張りながら、アリーがユーリに向かって言った。 「でも、会議が始まっちゃったらお姉さまも忙しくなるし、のんびり野球観戦もできないって思ったの」 「全然構わないよ。ってーか、皆が来てくれて、おれ、ホントに嬉しいんだ! アリーもレイルも、勉強大変なんだろ?」 大変なんてモンじゃないわよっ! いきなりアリーが声を張り上げた。 「もう毎日滅茶苦茶しごかれてるのよ! ホントにあの人たちって容赦ないんだから! 一日が終わるとヘトヘトで、頭の中がぐちゃぐちゃで、顔を洗う元気もなくなっちゃうの!」 「それもアリー、お前が自分で望んだことだろう?」 大きな声を上げるなとカーラに窘められ、アリーが唇を尖らせて黙った。 「レイルも? 行政の勉強って大変?」 「ええ。でも毎日が本当に充実してます」 レイルってば1人だけ優等生な顔して。隣でぶつぶつ文句を言うアリーに、ユーリは思わず吹き出した。 「カインさんも婚約式以来だよね」ユーリの顔がベイルオルドーンの親子に向く。「お二人とも元気そうで良かったです!」 「ありがとうございます、陛下」 サリィとカインがにこやかに優雅に頭を下げる。 「ミゲルはお役に立っておりますでしょうか?」 「もちろん!」ユーリは大きく頷いた。「すごく成長してるって、同僚の皆が口を揃えて言ってます。……ミゲルに聞いたんですけど、今回はウィンコットに行かれるんですね? サリィ様」 はい、とサリィが頷いた。 「ミゲルもお休みを頂けたということですので、一緒に……。長い時間が経ちましたし、そろそろじっくり思い出話をするのも良いのではと思いました。カインも同行してくれると申しておりますし」 「カインさんも?」 「はい」カインが頷いて答えた。「と申しましても、私の場合は目的が違います」 「目的?」 「はい」カインは頷いて、すっと背筋を伸ばした。「陛下もご存知と思いますが、ベイルオルドーンは寒冷の土地です。作物の生育には我々も大変気を遣っております。実は最近、ウィンコット領において寒冷地によく耐える作物の品種改良に成功されたと耳に致しました。宰相閣下とフォンウィンコット卿にお手紙を差し上げましたところ、研究施設と農地の見学をお許し頂きましたので、あちらの方にご挨拶いたしましたら、会議開催まで担当官共々そちらを回らせていただきたいと考えております」 「ああ、そうだったんだ…!」 では、カイン達は遊びに来たのではなく、ちゃんと目的があって早くやってきたわけだ。 「ベイルオルドーンといえば、近頃我が国への留学生が急激に増えたと聞いていますが……」 ユーリの隣に座るコンラートがお茶のカップを手に微笑みながら言った。 カインとサリィが、その通りですと頷く。 「陛下、実はそれには大きな切っ掛けがありますのよ」 「切っ掛け? 留学生が増える切っ掛けが…ベイルオルドーンに、ですか?」 「ベイルオルドーンと申しますより、眞魔国に起きた事件ですわ」 「事件?」 「はい。先だっての、陛下の暗殺未遂事件と、その裁判です」 裁判? ユーリとコンラートは思わず顔を見合わせた。 「あの……アシュラムの5人の裁判ですか?」 そうです、と親子が頷いた。2人の様子を、カーラ達も興味深げに見つめている。 「皆様ご存知の通り」カインが説明を始めた。「ベイルオルドーンは反魔族の気風が大変長く強く続いてきた国です。アシュラムという国のことはよく存じませんが、我が国ほど魔族を嫌い、法力を国の護りとしてきた国はないのではないかと思うほどです」 うん、とユーリ達が頷く。 その法力が大地の崩壊を止められないと認めたその時、かの摂政は魔力の取り込みを、友好的な親善ではなく、魔王誘拐で為そうとしたのだ。 「我々の反乱が成り、反魔族の気風を改めることはベイルオルドーン大教会と大神官の支持も得られましたが、だからといって全ての民が一気に考えを改めることなどできません。不安や怒りや恐怖を払拭することは、我々はもちろん、大神官たちにも難しい問題でした」 「だろうねー」 それは充分理解できるとユーリは頷いた。 「多くの神官や法術師達が民を煽動して、騒ぎを起こすこともしょっちゅうで……。そんな中あの事件が起こり、これを彼らは自分達の正当性を証明する最大の好機といたしました……」 『今こそ魔族の正体が現れるぞ!!』 魔族を悪魔と信じて決して翻らない神官達が、ベイルオルドーン中の辻々に立ち、民を集めて声を張り上げ訴えた。 『かの魔物の王が、自分の命を奪おうと剣を向けた人間をどうするか! 想像するは難くない。そうだろう、善良なるベイルオルドーンの民達よ!』 多くの国の王達を惑わせた仮面を、魔王は今度こそ脱ぎ捨てるであろう。 そして、英雄たる剣士達は、我ら善良なる人間の想像もつかないほどに惨たらしくその命を奪われるであろう。 『民よ! ベイルオルドーンの民よ! 英雄達がどれほど残酷な仕置きを受けるのか、目を凝らして眞魔国の動静を注目しようではないか! そして、同胞たる英雄達の無惨な末路を胸に焼付け、眞魔国との友好を決めた新王と偽善者たる大神官を糾弾するのだ!!』 「そうして彼らは使いを何人も眞魔国に送り込み、逐一状況を報告させたらしいのです。もちろん我々も、この顛末を注目していました。正直申しますと……」 あまり酷い刑が下されなければ良いがと、不安も感じておりました。 疑うようなことをいたしまして、申し訳ありませんと、カインが頭を垂れる。 「気にしないで下さい。皆が不安になるの、無理ないと思うし」 明るく手を振るユーリに、カインが安堵したように微笑む。 「事は未遂とはいえ国王の暗殺です。死罪は当然だが、問題はどのような方法で行われるかだと、宮廷でもかなり不安の声が上がっておりました。それが結局……あのようなことに」 魔王暗殺を企てたアシュラム公領の5名は、様々な状況を考慮の上、最高5年の懲役、内2名は懲役刑は下されず、2年の勤労奉仕となった。その後1人は王都の病院で介護業務を、1人は孤児の養護施設で子供達の世話をしながら暮らしている。今では職場での評判も良好らしい。 「大変な驚きでした。魔族が魔物ではないと理解している私達ですら驚愕したのです。よもや……暗殺者が死を賜らぬとは。それも……大逆の罪を罰する法がないという理由で。……これはまことのことですか?」 王国でありながら、大逆が罪として裁かれないなど、本来あり得ないこと、むしろあってはならない事だ。 ずっと疑問に思っていたのか、真剣に尋ねてくるカインに、コンラートが頷いて応えた。 「当時の政治状況が色々あったようですね。2代陛下の即位と同時に定められた大逆罪が多分に政治的なものというか、王権を脅かすものを排除しようとかなり苛烈であったため、あまりに危険であると一旦廃止されたのです。それ以降、改正された大逆罪が法制化されることはありませんでした。あなた方もお考えになったように、王の命を狙えば死罪になるというのは、ある意味常識です。ですから逆に、改めてわざわざ法制化する必要性が特に意識されないまま時間が経ってしまったのです。切っ掛けもありませんでしたし」 「それを指摘したのが代弁人でしたね」そこでレイルが会話に参加してきた。「法律家にそういう仕事があるんだって、新連邦の行政府でもすごく話題になっていました。いずれは新連邦でも取り入れたいって皆言ってます」 「しかし、非常に危険な仕事でもありますね」 レイルの言葉に、カインがかすかに眉を顰めて言った。 「その代弁人も、事もあろうに国王に対する刺客を罪から免れさせるため、法の不備を利用したということに……」 「それは違うよ!」 驚いて否定するユーリに、むしろカイン達の方が驚いた。 「先生達は法律をきちんと守ろうって主張しただけだよ! 殺されかけたのがおれだからって、法律を破っちゃ国が成り立たない! 法律がきちんとしてないのは、そもそも国の責任なんだから! ……って、村田が言ってたし」 おれも同感だ! 憤然と断言するユーリに、カインやレイル、新連邦からやってきたメンバーが顔を見合わせる。 「陛下は……その者達の刑が軽くなったことに、怒りを感じておられないのですか?」 「全然!」むしろどうしてそんなことを質問するのかと、ビックリ眼でユーリが答える。「それより、おれのためにって法律が破られることの方が絶対イヤだな」 ほう…っ、と息をつく人々の前で、コンラートが穏やかに微笑んでいる。 「自らの主張の整合性に疑問をもたれた反対派が」 カインが気を取り直したのか、話を続けた。 「次に目をつけたのは、その代弁人でした」 シュチョウノセイゴウセイって何? 簡単に言えば、言ってることの理屈が合ってるか、筋が通ってるかどうかってことですよ。こそこそと囁きあう主従(で婚約者)の2人は、一瞬何を言われたのか分からず、揃ってきょとんと目を瞠った。 「……どうして先生が……?」 「今度こそ、魔王は許さないだろうと彼らは主張したのです。他国の者に対しては、これからまだまだ、その、騙して味方につけておかなくてはならないので、あえて罪を減じてみせたが、自国の反逆者に対しては容赦しないだろう、と」 「反逆者?」 「王を弑しようとした者の罪を軽くするのは、反逆以外の何ものでもないと。実は我々の宮廷でもその声は上がりました。しかしそれも……驚くべき形で裏切られました。もちろん良い形で」 「私達も話を聞いて驚いた」今度はカーラがどこかしみじみと言った。「いくら貴方がたでも、まさかそのような法律家を法務の長に据えるとはな。どうしてそのようなことに?」 「どうしてって……」 困った顔で、ユーリとコンラートが顔を見合わせる。 「圧力に屈せず、正しいことを正しいと主張する、そして法律家としての能力もとても高い立派な人物だったから、としか言いようがないな」 苦笑して答えるコンラートに、カーラはどこか得心がいきかねるという顔で首を捻っている。 ユーリを暗殺しようとした者の罪を減じるよう力を尽くした人物であるという事実に、やはりどうしても納得がいかないのだ。 「僕は、その方はとても徳の高い方だと思います。これからのためにも、ぜひ1度お会いしてお話してみたいと思っているんですが…、あの、法務庁、でしたっけ? そちらにお邪魔してもよろしいでしょうか?」 率直なレイルに尋ねられて、ユーリとコンラートは一瞬、ほんの一瞬だけ答えに詰まってしまった。 「……えー、と…確か今、先生達は大変みたいだったよね、コンラッド…?」 「あ、ああ、そうですね。我が国の法律には瑕疵が多くあることが分かって…。大逆罪も含めて、根本的な精査を始めているところだから……忙しい、かな……」 「そうですか…。それは残念です」 嘘じゃない。 法務庁は、ただ今現在、庁としての体制を整えるため、使える人材を集めている真っ最中だ。だが、同時にすでに業務は始まっていて、今現在職員となっている法学者達は、とにかく法の不備を洗い出そうと悪戦苦闘している真っ最中なのだ。 一つの法律に一つの不備を見つけると、途端、矛盾混乱課題問題が群れを成し、仲良く手を取り合って襲い掛かってくる。 『乗せられてその気になった俺がバカだったっ! ちくしょーっ!!』 法務庁長官の執務室から、しょっちゅう絶叫が響いてくるというのは有名な話だ。 ちなみにその長官は、時折発作的に夜逃げに走ろうとするものの、その都度、長官夫人と令嬢に取り押さえられ、朝になると『このボンクラ亭主! とっとと仕事にお行き!』『陛下のご期待を裏切ったらただじゃおかないよっ!』と、一緒に逃げようとした弟子共々家を叩き出されているのだそうな。 「そ、それで? カイン、神官達はどうなったの?」 「はい。何と申しましても、この裁判の行く末を知るべきだと大宣伝したのが彼ら当人だったわけですから、民の関心も非常に高かったのです。ですからあの結果には神官だけでなく、民も本当に驚いたようです。そして、我々のやり方に反対する神官や法術師達の求心力はどんどん低下し、少しずつですが確実に民の目も変化してまいりました。特に学者や学生はこの間の経緯に関心を抱く者も多く、留学を希望する者が一気に増加したのです。我が国の民の意識の顕著な変化は、紛れもなくこの裁判が影響しております。この点につきましても、我々は眞魔国の皆様に心から感謝申し上げております」 ありがとうございます、と微笑むカインに、どういたしましてとユーリも笑顔になる。 「……では、ベイルオルドーンは全体としてかなり良い方向に動いているのですね?」 かすかに沈んだ声でそう言ったのはカーラだ。 「はい。巫女様方のご尽力もありまして、北部の地域からも、土と水が生き返ってきたという報告が相次いでいます。農民はとかく頑迷なものですが、自然の変化にはより敏感ですからね。一旦受け入れるとなると変化も都市部の民より早いようです。ようやく1歩進んだと、そんな実感を宮廷の者達も得ているようです」 良かった! ユーリが笑い、カインとサリィが嬉しそうに頷く。その姿に、カーラは無意識にため息をついた。 「カーラ?」 コンラートが見ていた。カーラは微笑もうとして…失敗した。 「カーラさん?」 ユーリにまで気づかれた。ごめんなさい、とカーラは呟くように言った。 「羨ましいと、思ってしまって。新連邦は……どうも…大変だ」 これ以上言うと愚痴になる。だからカーラは無理に微笑んで言葉を切った。 「そもそも我が国とは面積が違いますよ。あれだけ多くの国が一つになっているのですから。大地の復活も民の意識の変化も、早く進まなくても当然では?」 では。新連邦の苦境を、この隣人もよく知っているということか。カーラは苦笑を浮かべた。 「確かに。だが我々の場合は……」 「州の執政官だろう」 正解だ。カーラはコンラートの顔を見返した。 「よく分ったな」 「分らない訳があるか。州の執政を元の支配者に任せるなとエレノアに言ったのはこの俺だぞ。何が起こるかなど分かりきったことだ。……君達は聞こうとしなかったが」 「……祖国奪還がそもそもの目標だったんだ。それを捨てろというのは……」 「だったら、最初から各国が独立を目指すべきだった。逆に、個別に独立しても国家を運営する力がないから、纏まって一つの国になろうと決めたのなら、それを貫かなくてはならない。どちらもできないなら、破綻するしか未来はない」 コンラッド……。コンラートの腕にユーリの手が掛かる。 ああ、申し訳ありません、と、コンラートが主であり恋人に微笑みかけた。 「みっ、みんな、頑張ってるの!」 アリーがいきなり声を上げた。全員の視線が少女に向く。 自分の声に驚いたように一瞬だけ身を竦めてから、アリーはユーリとコンラートに向かって口を開いた。 「サンシアだってラースだって、本当にものすごく頑張っているの。有能な官僚がたくさん集まってて、行政府の熱気なんてスゴイのよ!? 政策もどんどん提案されて進められているわ。私は首都しか知らないけれど、民の顔が日々明るくなってるって! だから! だから……」 破綻なんてしないわ。アリーの声が弱々しく終わる。 「中央は本当に良くなってきている。それは私達も実感しているんだ。だが政策を地方に広げようとすると……」 州執政政庁が壁の様に聳えて、中央の熱気を遮断してしまうのだ。 ものの考え方がそちらとは違います、この土地のことは我々が誰より理解しておりますと、そんな言葉で新たな政策が中央の意志とは違うものに変えられてしまうこともあるようだし、ないことにされることもあるらしい。 「……らしい、って?」 「情報が伝わってこないんです」レイルが不思議そうなユーリに答えた。「姉さんが言うように、各州の政庁が立ちはだかって、何を聞いてもまともな報告があがってこないんです。問題ない、なすべきことは恙無く進んでいるのでご心配なくって感じの返事を、ただ長く難しく捏ね繰りまわした文書が送られてくるだけで。だから……密偵を送って調査するなどしているのですが……」 「密偵……鬼平みたいだな。それで?」 「それで……いえ、それが……」 「色々と調査と分析を重ね、何とか壁を打ち破ろうとしています。時間は掛かりますが、いつかは必ず一つに纏まって前進していけると私は信じています」 綺麗に、少々綺麗過ぎるほどに話を纏めてしまうと、カーラは笑顔をユーリに向けた。 「それよりも、明日からの計画についてお話しませんか?」 「え? …あ、ああ、うん……」 できる限りの援助はするからと、そんなセリフも言い難く感じて、ユーリは口を閉ざした。 このタイミングでそういうことを口にするのは、何だか上から目線な人になりそうな気がする。 「じゃあさっ、さっそく明日なんだけど……」 ユーリは軽く息を吸うと、ことさら明るい笑顔を作って友人達を見回した。 NEXT→ プラウザよりお戻り下さい。
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