風に向かって進路をとれ・9



 その日は結局、ずっと与えられた部屋にいた。
 夕食も、部屋に運んでもらった。彼らが部屋から出ない事について、魔王とその側近から何か言葉が齎される事はなかった。
 コンラートが、何か言ったのかもしれない。でも、それもどうでもいい。
 クロゥは、胃の腑の辺りを絶えまなく襲う痛みに耐えるように、ベッドの上で身体を縮めて転がっていた。
 『ユーリ以外の人間など、どうでもいい』
 『エレノアもカーラも、全員俺が皆殺しにしてやる』
 『ユーリのいない世界など、どうなろうと知ったことか!』

 ………コンラート。
「……つ、ぅ……」
 その名、その声、その言葉が脳裏に蘇る度、身の内を何かがずくりずくりと刺していく。

 カチャ、とひどく気を遣った小さな音がして、扉が開き、また閉じられた。
「……クロゥ」バスケスだ。「腹ぁ、減らねえか? 夕食もほとんど残しちまったしよお。……皿を下げに来たメイドの嬢ちゃんがな、具合が悪いんなら、腹にいい柔らかいものを作ってこようかって、親切に言ってくれてたぜ? ここのメイド達は揃いも揃ってべっぴんだし、気立てもいいよなあ。そう思わねえか?」
 しばらく様子を探るように沈黙してから、バスケスは小さく息をついた。
「時たま、ほんの時たまだけど、そんな風になっちまうのがお前の困ったとこだよなあ……。気が小せえって訳でもねえのによ。なあ、クロゥ」

 マズいことを言っちまったって、後悔してんだろ?

 バスケスの問いかけに、クロゥは無言のままだ。
「あの坊主をよ、殺されたくなけりゃ一緒に帰れなんて……絶対に口にしていいことじゃあなかった。あんな脅し、俺達をさんざん踏みつけにしてたシマロンの外道共がやってたことと同じだぜ……」
 ベッドの上で、かすかに身じろぐ音がする。
「俺ぁ、コンラートがよく剣を抜かなかったと思ってるぞ。あんな、舐め転がすみてえに可愛がってんだもんな……。ほんとによ……」
 くくっと、バスケスが吹き出す。
「あいつが、あんな情けねー顔するなんてよぉ、カーラ達が見たら何て言うかな? ほら、100年の恋もいっぺんに冷めちまうって、アレじゃねえか? あの坊主のやることなすことに、一々笑ったり落ち込んだりしやがって。……あんなに表情の分かりやすいヤツだったかなあ……」
 だから。
 ベッドの上で相棒に背を向けたまま、小さな声が上がった。
「……悔しかったんだと……思う……」
 コンラートがコンラートらしくのびのびと生きていけるのが、他のどこでもないこの国で、あの王の傍なのだと思ったら。
「………なあ、クロゥ」
 声を改めて、バスケスがクロゥの背に声を掛けた。
「あの坊主は、いい子だ。そう思わねえか?」
「…………気性は……確かにいい子供だ、な……。王としては分からんが……」
「確かに今はまだただのガキだなあ。でもよ、俺ぁ、あの子は結構いい王様に育つんじゃねえかって思うんだ。宰相殿も立派な御仁だしよ。まあ、コンラートが言うように、世界中の人間達から崇められるようになるかどうかは分からねえけどよ」
「……俺には、どうしてコンラートがあれほど入れ込むのかさっぱり分からん」
 確かにな。バスケスが頷く。
「でもよ、クロゥ。まだたった二日だ。……何だか色んなことがありすぎて、ちょっと驚きなんだが、でも俺達がこの国に来て、やっと丸二日が経っただけなんだぜ? 分からなくても当然じゃねえか? ………なあ、俺からも確かめておきてぇコトがあるんだけどよ……」
 何だ? と小さく声が返る。
「……本当に、魔族と人間が平等に、対等に、共存共栄していくことができると思うか? そのためにがんばろうって、お前本気で考えているのか?」
 その問いに、長い間をおいて、それからクロゥはゆっくりと身体を起こした。

「………分からない……」

 顔を伏せて、呟くように言うクロゥに、バスケスは沈黙のまま次の言葉を促す。
「……口にした言葉は……正しいものだと思う。……魔族に対する言い伝えや神殿の教えがでたらめだと分かった以上、魔族を魔物と見なすのは間違っている。魔族は人間との争いを望んではいない。ならば……共にこの世界で手を携えて生きる道を探るのは……正しい行為だと思う。だが………」

 俺自身がそれを望んでいるのか……それが分からないんだ……。

「……魔族と争いたいワケじゃねーんだろ?」
「そうじゃない! ……そうじゃ……ないんだ……。魔王達の前で言った言葉も、コンラートに向かって言った言葉も嘘じゃない! ただ……」
「……おめーはよ、クロゥ」
 この男にしては妙にそぐわない、静かな笑いを含んだ口調でバスケスが言った。
「思いもかけねえことばかり起こって、おまけにコンラートにあんなことまで言われちまって、どうしたらいいか分からなくなっちまったんだな。今お前ぇは……頭の中がとっ散らかっちまって、どう片付けることもできねーでいるんだ」
「……散らかって……?」
 そうさ。バスケスが頷く。
「何からどう手を付けていいのかさっぱり分からなくて、ごちゃごちゃになった部屋の真ん中で、ぼーっと突っ立ってるのが今のお前だ。……そういう時にはよ!」
 どん、と音を立てて、テーブルに酒瓶が出現した。見ると、細々したつまみを盛った皿が、すでにテーブルの真ん中に据えてある。
「厨房からこいつを貰ってきたんだぜ。あっちじゃあ、とてもじゃねえが手の出ねえ高級な酒だ。つまみもいいモンを使ってこしらえてくれたぜ? これを食って、がんがん飲んで、頭の中の片づけは後回しにして寝ちまうんだな。そうすりゃ明日には、片づけの方法も思いつくってもんだぜ」
「二日酔いで、ますます訳が分からなくなってるかもしれんぞ?」
 それでもいいじゃねえか。相棒がげらげらと笑う。
「俺ぁよ、クロゥ、この国にしばらく居られることになって、よかったと思ってる。コンラートのことは、まあ……イロイロあるけどよ! でも、俺はその前に、この国のコトがもっと知りてぇや。それに、あの小っさい魔王陛下のこともよ! 元気になったってんなら、あいつともとことん話してみてぇしな。……いい経験じゃねえか。開き直ることにしたんだったろ? だからよ、せっかくの眞魔国滞在だ、開き直って楽しもうじゃねえか!」
 な? と笑う相棒に、クロゥは思わず苦笑した。
「………俺は、時々お前の大雑把な性格が羨ましくなる」
「どこが大雑把だよ。……おめーはよ、下手に頭がいいからダメなんだぜ? すぐに考え過ぎるからよお」
「そうなのかな……?」
「そうさ! なあ、さっそくだけど、明日は街に出てみないか? 魔族の国の民がどんな風に暮らしてるのか、じっくり見て回ろうぜ!」
 そうだな。呟いて、それからクロゥはようやく柔らかな笑みを顔に浮かべて頷いた。
「ああ、そうしよう。せっかくの機会だ。無駄にする事はないな。明日は……」


「皆で街に繰り出そうっ!!」

 初夏の陽の光が心地よく部屋に射し込み始めた朝。
 握りこぶしを作った片手を高々と突き上げ、片手は腰に当て、今日も気合い充分な魔王が立っていた。

 ……………朝から元気一杯の魔王、というのもなあ……。

 それにしても、どうして毎朝魔王の襲撃を受けないとならないんだろう。
 というか、どうして今朝の魔王はいつもの黒い服装じゃないんだろう。おまけに、どうして髪が赤茶色で、瞳も茶色なんだろう。………何だか、イヤな予感がする……。

 酒が高級だったせいか、幸い二日酔いは免れた。胃の痛みも、なぜかすっきり治っている。
 寝過ごす事もなく、明け切らぬ内から目覚めてしまったものの、別に急いでいる訳でもなし、ベッドの中でごろごろとニ度寝を楽しもうか、それとも朝から熱い湯を浴びるという贅沢を堪能しようかと相棒と言葉を交わしている時だった。
 いきなり扉が開いたかと思うと、軽やかに魔王ユーリが飛び込んできたのだ。

「……なんだ、クーちゃんもバーちゃんも今起きたとこ? 案外お寝坊さんなんだなっ」
 起き抜けの顔がよほど間抜けに見えたのか、呆れたようにユーリが言う。
「早起きは三文の得! こんないい天気なのに寝てるなんてもったいないぞ! おれなんて、もうとっくに朝のトレーニングを済ませてきたし、この通り、準備万端なんだから! ほらっ、2人とも早く顔を洗ってきて。今日は一日おれが王都を案内してやるからさ!」
 ……さんもん、って何だ? というか、どうしてまたこんな朝から、それも魔王が……?

「陛下はお前達のために、今日一日休みをお取りになられたんだ」

 だから陛下って言うな、名付け親ー。
 ユーリが振り返って言い返した先に、コンラートが立っていた。今日は軍服ではなく、全くの私服だ。砦にいた頃とも違う、武人としての気合いも気取りもない平凡な服装をしている。
「………あー…その……執務に支障は……」
「だって、昨日協力するって言ったじゃん! クーちゃんにもバーちゃんにも、魔族のホントの姿を知ってもらいたいもんな。知ってもらって、おれ達のコトを誤解したまんまの人間達に、ちゃんと伝えてもらいたいし! グウェンだってそう言ってただろ? そこんトコをちゃんと言ったら、グウェンも気持良くお休みくれたぞ!」
「自分で言った以上は仕方ありませんしね。まあ、だからどうしてユーリがと、グウェンの眉間の皺が語っていたような気もしますが……」
 いいからいいから! と気楽にユーリが笑う。
「ほらっ、ぐずぐずしてないで! 今日は城の中はいつも通りだけど、城下は休日なんだ。だからイベントも多くてさ。いろいろ計画してるんだ。わくわくするよなっ」
 いや、わくわくしてるのは貴方だけで。と、言い返すのは止めておいた。ユーリの後ろに立つ男の目が、「陛下のお心づかいに、何か文句でもあるのか」と剣呑な光を湛えていたからだ。
「……………色々とお考え頂き……ありがとうございます……」
 諦めの境地で礼を述べると、ユーリが「どういたしましてー」とにっこり笑った。
 ………「素直」で「可愛く」て「明るく」て「笑顔が眩しい」……「魔王」。ほんの少し、わずか数日前の自分だったら、そんな組み合わせ、鼻で笑っただろう。
 それでも確かに存在する、この人。


 朝食も外で、と告げられて、急いで身だしなみを整え、城本丸の馬溜りまで急げば、そこではなぜか一気に人数が増えていた。
 コンラートと魔王、大きな欠伸をしているフォンビーレフェルト卿、それからグリエと確かクラリスといった女性士官(今はやっぱり地味な私服、それも男物の、だったが)、そして……もう1人。一瞬誰か分からなかったのだが、よく見ればそれは髪を金色に、瞳を青に変えたムラタだった。
 どうにも心臓に悪い顔が揃っている…気がする。

「それでは!」ユーリが大きな声で元気良く声をあげる。「今日は皆で遊びに……じゃなくて、ク−ちゃんとバーちゃんに魔族をもっと理解してもらおう企画! 本日ただ今より開催いたします! 魔族と人間の未来のために、がんばろう!」
 おーっ、と魔王とムラタが、一拍遅れてフォンビーレフェルト卿が片腕を高々と突き上げる。
 隣で、コンラートとグリエ、それからやっぱりちょっとだけ遅れてクラリスが、ぱちぱちと拍手を始めた。

 なあ、クロゥ……。
 彼らの様子を見て、バスケスがそっと囁いた。
 たぶん気のせいでも何でもなく。
「仕事を休んで遊びに行くダシにされちまったワケだな、俺達……」



 澄んだ空気には、まだ朝靄の濡れたような感触が残っていた。
 登って間もない太陽の光が、大地を舐めるように射し込み、その光が大気の中の水の粒子に反射して、今だ朝露に濡れた初夏の緑を眩いほどに輝かせている。
 馬が踏む道の感触も、身体に柔らかく伝わってくる。

 王城を出てすぐ、山に近い城門から外へ出て、彼らを乗せた馬はすぐに豊かな緑の中に入った。
 見渡す限りの田園風景。
 王城のある山から、緑が風の流れに乗って裾野に広がり、自分達を包んでまた先へと広がっていく。そんな、心が深呼吸するような開放的な感覚。
 斜めに射し込む黄金の光。立ち上る澄みきった水の香。緑と、可憐な野の花の彩り。
「……たまらねえなあ」バスケスが深々と深呼吸している。「滋養がたっぷりあるんだろうな。土のいい匂いがしやがる。いい畑になる土だ。こんな土があっちにもありゃあなあ……」
 農民出身らしい相棒の言葉に、クロゥも頷いた。が。
 確か、街に繰り出す、んじゃなかったか……?
 どうしてこんな田園地帯をのんびり馬で?
 クロゥが何となく首を傾げていた時。
「クロゥ」
 呼ばれてふと顔を上げると、つい今し方まで先頭を行くユーリの傍にいたコンラートが、すぐ側まで下がってきていた。
 クロゥと目を合わせてから、開きかけた口を閉じて、どこかバツが悪そうに視線を外す。
「……昨日は……悪かったな。……少々言い過ぎた、かもしれない」
 「少々」で「かも」か、とは思ったが、それは言わず、クロゥは「いいや」と返した。
「俺の方こそ、バカな事を口にした。……バスケスからも、あんなセリフは大シマロンの外道共と同じだと言われてしまった。……すまん」
 馬上で頭を下げると、コンラートもどこか安堵したように「ああ」と頷いた。それから彼ら、かつての朋友3人は馬を並べ、ゆっくりと緑の中を進んでいった。
「………皆の事が、気にならない訳じゃない……」
 唐突なコンラートの言葉に、クロゥとバスケスはじっと視線を向けて次の言葉を待った。
「だが……聞いてもどうすることもできない。眞魔国のウェラー卿として、できることがあれば協力する、という程度だ。昨日も言ったが、俺にとって何より大事なのはユーリなんだ。ユーリが全てで、ユーリさえ元気に笑ってくれるなら、世界がどうなろうと全く気にならない、というのも、俺の真実だ。……ユーリは、俺が側にいることを望んでくれている。お前達が俺に何をどう訴えようと、俺にとってこの事実が全てだ」
 すまんな。そう言って、コンラートが苦笑のような笑みを浮かべる。
 とうに出てしまっている結論に、それでも、と願う自分自身の存在がひどく切ない。だが、今こうしている間も、エレノアやカーラ達がコンラートを思い、自分達の無事を祈り、崩れかけた組織の中で必死になっているのだと思えば、簡単に「分かった」と身を引く事もできない。
「たーいちょ」
 沈黙の降りた中に、ふいに新たな、ちょっとふざけた声が割り込んできた。もちろんグリエだ。
 ほら、と促され、視線を前方に向けると、先頭にいたはずのユーリが馬の足を緩め、自分達が追い付くのをじっと待っている。その顔が、ひどく不安に揺れている事に、クロゥは気づいた。もちろん、コンラートが気づかないはずはない。すぐに馬の足を早め、コンラートはユーリの馬の隣に自分の馬を寄せた。
「……何を話してたの……?」
 不安そうなユーリの声が聞こえる。
「世界で一番大事なのはユーリだと、そんな話をしてました」
 コンラートにそう答えられて、ユーリが目をぱちぱちと瞬き、それから、ちら、と振り返る。
「ええ、その通りです」
 確認するような視線に、クロゥはそう言って頷いた。どうあれ、この少年王を傷つける事はしたくないし、悲しむ顔も見たくない。そんな自分の気持は、もう認めるしかない。複雑な心境ではあるけれど。
「大事な魔王陛下のためとありゃあ、山を粉々に砕いたり、海を二つに割ったりもできるらしいぜ」
「ホント? コンラッド、そんなこと言ったの?」
「からかうのはよせ、バスケス。……でも……そうですね、ユーリのためなら山を砕くくらいの気合いと根性、俺はいつでもここに備えているつもりですよ?」
 己の胸をポンと叩き、クロゥの目から見ても蕩けそうな笑みを浮かべて、コンラートが主の顔を覗き込む。ユーリの頬が、一瞬で赤く染まった。
「え、ええ、えーと………あっ、そっ、そうだ!」
 ぽっぽと頬を染めたまま、仰け反るようにコンラートから顔を離し、ユーリは慌ててクロゥ達に顔を向けた。
「どこ行くか、まだ言ってなかったよなっ? すぐそこなんだ。ほら、そこの丘を越えたトコ」
 ユーリの指が、前方の、ほんのわずか盛り上がった丘を指差す。本当にすぐそこだ。
「あそこに、ボールパークがあるんだ!」

 今日は早朝練習試合があるんだ!
 嬉しそうに言うと、早く行こう、と一声残し、ユーリは馬を走らせ始めた。

 ぼおるぱあく、って何だ?
 尋ねるバスケスに、「行けば分かる。…たぶん」と妙な答えがコンラートから返ってきた。

 丘の麓をぐるりと回ると、大きく開けた場所に突如馬の群れが現れた。と思ったら、そこはこの「ぼおるぱあく」とやらを訪れた人々が乗ってきた馬や馬車を預ける場所だと教えられた。広場の隅には管理人がいるらしい建物と、広大な厩舎や水飲み場、大量の飼い葉を積んだ場所もある。馬達は整然と繋がれ、飼い葉を食んだり、水を飲んだりしている。荷馬車のようなものもきちんと列になって並んでいた。彼らが乗ってきた馬も、管理人らしい人物に指定された場所に繋いだ。手綱を結んだ杭には、番号が振ってある。ふと見ると、グリエが渡された書類に何か書き込んでいた。
 こっちこっち! とユーリに呼ばれて、クロゥとバスケスは幅の広い階段を登っていった。
 丘の頂上に立って、クロゥは思わず目を瞠った。豊かな自然と緑に慣れた視界に、突如、見事に整地された広場が現れたからだ。
 とにかく広い。かなりの人数の人々が広場の中で動き回っているのだが、その姿がどれもひどく小さく見える。
 広場にいる人々は、皆がよく似た妙な格好をして、何か小さなものを投げあったり、棒を振り回したり、並んで走ったりしている。………兵が軍事訓練をしている……というには妙な雰囲気だ。
 ぐるりと見渡すと、広場を囲む丘の斜面は自然の傾斜を利用した、どうやら観覧席になっているようだった。時間もかなり早いというのに、芝が植えられた緩やかな斜面には、結構な数の人々が腰を下ろして広場の様子を見つめている。広場に近くなると、ちゃんと観覧用の座席も造られているらしい。そこにも多くの人が座っている。
「あの辺、あそこがよく見えるよ!」
 ユーリがそう言って、芝を降りて行く。後を追おうとしてクロゥがふと気づくと、グリエとそれからクラリスと呼ばれていた女性が、手に荷物を抱えていた。士官だろうが何だろうが、女性に荷物を持たせて自分は空手というのは、どうにも気分が落ち着かない。クロゥはクラリスの側に行き、「それを持とうか?」と声を掛けてみた。
 突然声を掛けられて、しかし驚いた顔もせず、クラリスがクロゥを見上げる。美しいが、今一つ柔らかさというか愛想に欠けている女だ。
 そんな印象を裏付けるように、クラリスは一言「結構」と言い放つと、荷物を持ったまますたすたと歩きだした。
「俺のを持ってくれてもいいぜ〜」
 背後から聞こえてきた声は無視する事にした。

 ここ、ここ! そう声を上げてユーリが手を振っている。
 斜面ではあるものの、かなり人の手が入っているらしく、傾斜は緩やかで所々平らになって段を作っている。芝の中ほど、段の1つに彼らは立ち止まった。
 よく見える、とユーリが言うように、その辺りは他の場所に比べると、集まる人の密度がいささか高いようだ。その多くは家族連れで、敷物を敷いたり、芝に直に坐り込んだりして、おしゃべりに興じる者もいれば、持参したらしい弁当を皆で摘んでいる者達もいる。芝を駆け回って遊ぶ子供の数も格段に多い。
 なるほど、朝食は外で、というのはこういうことかとクロゥは納得した。
 行軍の途上で携行食を掻き込むなどしょっちゅうだ。だが、戦の緊張もなく、先の憂いもなく、こんな場所でのんびりと弁当を使ったことはない。
「あ、ごめん!」
 いきなりユーリの焦った声がした。
 敷物を敷き、朝食が詰まっているのだろう幾つか重ねた容器を取り出そうとしていたクラリスに、ユーリが慌てて手を差し伸べている。
「おれったら、うっかりしてて! お弁当、クラリスに持たせちゃってたんだ。ごめん、重いのに……」
「へい……いえ、坊っちゃん、別に重くも何ともございません。半分はグリエ殿が持って下さいましたし、私が運ぶのは当然の事です。どうぞお気になさらないで下さい」
「でも……」
「まあ、坊っちゃんたらやさしー!」グリエだ。「でもクラリスは、これより何十倍も思い荷物を背負って山道を行軍する訓練だってやってるんですから、全然平気なんですよぉ。見かけよりずーっと強いんです」
「あ、いや、そういうことじゃなくて……」
「女の人にこういう形で仕えられるってのが、どうにもしっくりこないんだよね、渋谷は」
 ムラタの言葉に、ユーリが「うー」と唸る。
「坊っちゃん」クラリスが冷静な声でユーリに呼び掛ける。「私は、坊っちゃんにお仕えするためにおります。お気持ちは十分理解できますが、どうか私の存在に慣れて頂けると嬉しいです。……隊長のように、とは申せませんが、へい…坊っちゃんのご信頼を頂けるよう、命懸けでお仕えする覚悟でおりますので」
「ごっ、ごめんね、クラリス! でも、クラリスを信頼してないワケじゃ全然ないよ! ただ、やっぱりその…女の人に護ってもらうってのが、どうもそのまだ……」
 分かっております。クラリスはそういうと、再び朝食の準備を始めた。ユーリが困ったように頭を掻いている。クロゥは傍のグリエに、「どういうことだ?」とそっと尋ねた。
 クラリスは、つい先日隊長が抜擢した坊ちゃんの親衛隊長だ。それがグリエの答えだった。
「でも坊っちゃんたら男前だから、女の人は護るべき対象で、逆に自分が護ってもらうなんてこれまで考えもしたなかったんだな。だから戸惑ってるのさ」
「女の親衛隊長か。強ぇのか?」
「強いぜ」バスケスの問いに、即答が返ってくる。「『寄らば斬るぞのハインツホッファー』って二つ名まで持ってるし。怒らせたら問答無用でやられるぞ」
 ほお、と、バスケスの目が興味深気にクラリスに向けられる。
「どうでもいいけど、早く食べようよー。僕、お腹ぺこぺこだよ! ほら、そこのでっかい人達もさっさと座って。周りの迷惑になるよ〜」
 ムラタに叱られ、彼らは慌てて敷物の端に腰を下ろした。
「おーっ、うまそーっ!」
 バターとシロップに漬けたようなパンケーキを口いっぱいに頬張って、ユーリが幸せそうに笑った。

「………じゃあ、このやきゅう、とかいうのが眞魔国の国技だと?」
 そうだ、とコンラートが頷く。
 すでに試合は始まっていて、ユーリとムラタとフォンビーレフェルト卿はクラリスを従え、観覧席と広場を仕切る柵の側で歓声を上げている。クロゥとバスケスの傍には、コンラートとグリエがいた。グリエがいるのは、ユーリのためだ。「俺がちゃーんと見張ってます」という言葉を貰って、ユーリはようやくコンラートの側を離れることができたのだ。
 ざっと『やきゅう』とかいうこの行為のルールを教えられ、それで結局これは何なのだと尋ねたところで、『国技』という答えが返ってきた。
「国の……技……? 魔族ならではの戦術とか……戦法とかのことか…?」
「いや」コンラートの顔に苦笑が浮かぶ。「軍や戦争とは関係ないんだ」
 は? とクロゥ、それからバスケスがぽかんと口を開ける。
「これは、二つの組に分かれて試合をしているのだと言っていなかったか? 試合といえば、戦うことだろう? それに組の片方は軍の……」
「眞魔国陸軍王都警備大隊消防救助部所属くーるふぁいたーずだ。ちなみに対戦相手は眞魔国王都商盛会花屋連合青年部会所属びくとりーふらわーず。どちらも陛下が命名されただけあって、実にいい名だ…!」
「…………意味はさっぱり分からんが、とにかくその、何とかズ同士が戦っているのだろう? それなら軍事訓練の一端としか……」
「たまたま軍にいる者達が作ったチームというだけだ。これは『競う』とか『戦う』といっても、戦争とは何の関係もない。ただこの、ボールを投げて、打って、走って、点を入れるというスポーツ、遊び、を楽しんでいるだけだ」
 楽しむ……? 分からない、とクロゥもバスケスも首を捻った。
「見たところ、体力もいるし、駆け引きも、瞬間的な判断力も必要としているようだ。そうやって戦う競技に、軍や戦争が関わりないなどと、そもそもあり得ないだろう? というか、軍の訓練に関わりないというなら、どういう必要があってこんなことをしているんだ? それに、この広場は『やきゅう』をするために作られたと言ってたじゃないか。まさか楽しむためだけにわざわざ丘を削ったなどと、バカげた事を言うのではあるまいな?」
 うーん、とコンラートが頭を掻く。その隣で、グリエがくすくすと笑い出した。
「こういうチームが今国内にそりゃもうたくさんできててなー。眞魔国だけじゃねえ、カヴァルゲートやカロリアやヒルドヤードや、眞魔国と友好的な人間の国にもどんどん広がってるんだぜ。で、そういったチームが1年に1回、我が国に一堂に集まって戦う大会も開かれてるんだぜ」
「人間の国にもかよ!? 人間もこれをやってるってのか?」
 バスケスが驚きの声をあげる。
「全てが集まるなど、眞魔国と友好的な国同士が合同軍事訓練をやっている、としか思えんが……」
 認識がすれ違っちまってるなあ。グリエが声を上げて笑い出した。コンラートは「どう説明したものか」と困り果てている。
「軍事訓練なんかじゃないよ!」
 4人がハッと顔をあげると、いつの間にかユーリが戻ってきていた。
「軍にもチームがあるけど、たくさんの村を代表するチームもあるし、職場で作られたチームもあるんだ。……大会、眞魔国リーグっていうんだけどさ、皆自分の国や街や村の名誉を担って参加してくるんだぞ。優勝したチームは国の英雄なんだ!」
 英雄ぅっ!?
 バスケスが素頓狂な声を上げて仰け反った。
「戦には関係ないって話じゃなかったのかい? ますます妙ちくりんじゃねえか。なあ、クロゥ? 戦でもねえのに英雄だとよ。恐れ入った話だな、おい!」
「おかしいと思う?」
 そりゃあ、と笑いかけて、意外なほど真摯な眼差しで自分を見つめるユーリに気づいたバスケスが口を閉ざした。

「英雄って、戦場にしか生まれないものなの?」

 ユーリの問いかけに、クロゥとバスケスは絶句した。
 そんなことは、考えた事もない。

「戦争を知らないおれがこんな風に言うの、おこがましいって分かってるんだけど」
 ユーリが試合の続く広場に視線を向けて話し始める。
「コンラッドも英雄って呼ばれてる。あんた達もそう思ってるんだろ? でも、おれ、コンラッドは自分がそう呼ばれるのを喜んでるって思えない。だって……」
 顔を巡らせ、どこか辛そうな表情で、ユーリは芝に座るコンラートを見下ろした。
「だって、コンラッドは英雄って呼ばれるまでに、たくさんの、本当にたくさんの大切な人達を戦争でなくしてるんだ。たくさんの……部下や友達の血を流して、コンラッドもいっぱい傷ついて、何度も死にそうになって……。そんなたくさんの犠牲の上に立って英雄って呼ばれるの、絶対コンラッドは喜んだりしないと思う」
 だよね? 小さく問うユーリを見上げ、コンラートはただ静かに微笑みを返した。
 見つめあうユーリとコンラートの間に、ほんの数呼吸分の沈黙が生まれ、それから何かが聞こえたように、ユーリがふと唇に笑みを浮かべた。
 おれは。
 ユーリの視線が、再び広場に戻る。
「戦争をしなきゃ、たくさんの血を流さなきゃ生まれない『英雄』なんていらない。国の威信だとか名誉だとかを、流れた血の量や涙の量で計りたくなんかない。それよりもおれは、こんな風に、プレイしてる方も、見物してる方も、誰も傷つかないで、苦しまないで、皆で笑って、楽しみながら勝負を競って、そこで生まれる英雄の方がいい。ずっと……いい」
 ね、ほら、見て。
 ユーリに促され、クロゥとバスケスは立ち上がり、少年の指差す方向に目を向けた。
「ほら、2塁にランナーがいるだろ? あの人、すっごく足が早いんだ。盗塁を狙ってる。盗塁っていうのは、バッテリーの隙を狙って、次の塁に進もうとすることなんだ。タイミングを間違うとさされてアウトになるし、危険も多いんだけど………ほらっ、走った!」
 塁上に出ていた選手が、一気に次の塁に向かって全速力で走り出す。投手が投げたボールを受けた捕手が、急いでその塁を護る選手に向けてボールを投げる。走者が塁に向かって全身で飛び込む。
「セーフ!」
 ユーリが叫んだ。塁の側にいた審判が、両手を水平に広げる。一斉に上がる歓声。衣服を真っ黒にした走者が、真っ白な歯を覗かせ、味方や観客に大きく手を振った。
「ナイス、ラン!」
 この競技の基本的な決まり事はコンラートから聞かされたが、ユーリの解説のほとんどは理解できなかった。だが、走った選手は嬉しそうだから、その『とうるい』とやらは成功したのだろう。観客も手を叩いて喜び、ユーリが叫んだ言葉と同じような言葉をその選手に掛けている。
「他にもね、護りがものすごく上手い選手とか、ボールを遠くまで飛ばせる選手とか、強くて早い球を投げられる選手とか、色々いるんだ。だからそんなそれぞれの技についても、秀でた選手には英雄っていってもいいくらいの賞賛が与えられるんだ」
「……ただ走るのが速いってだけでもかよ?」
 呆れたようにバスケスが問い質す。ユーリは、「もちろん」と頷いた。
「足が速いってのも、すごい才能だもん。その年、一番盗塁数の多かった選手は『盗塁王』って呼ばれるんだぜ?」
「そんな気安く『王』を名乗らせていいのか!?」
「全然構わないよ、そんなこと。一番だから王様。分かりやすいだろ?」
 そんなモンかあ…? バスケスの声はどこまでも疑わしそうだ。
「皆、自分を鍛えて、強くなって、それから得意な技を生かして、チームの勝利に貢献しようとがんばってるんだ。選手も応援してる人達も、自分のチームが勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい。だから笑ったり泣いたり、いいプレイには拍手喝采したり、失敗すると怒ったり、大声で怒鳴ったり、悔しくて地団駄踏んだり、試合の度にいっぱいしてるよ。でも皆、楽しんでくれてる。そんなたくさんの気持を全部ひっくるめて、野球を楽しんでくれてる。おれはそれがすごく嬉しいんだ。……おれはさ、クーちゃん、バーちゃん」
 ほんの少し照れくさそうに笑って、それでもユーリはまっすぐな視線を2人に向けた。

「国や自分の名誉のために戦う方法が、参加する誰もが皆で楽しみながら競い合う、こんな野球みたいな競技でもかまわないって、ううん、違う、こういうものであるべきじゃないかって思うんだ。戦争や殺しあいみたいに、相手を傷つけるものなんかじゃなくてさ。こういう競技、スポーツをするために身体を鍛えて、試合で力を出し切って、うんと楽しんで、そして与えられる栄誉があってもいいんじゃないかな。他のどんなスポーツでもいいんだ。そしてできれば、対戦した者同士が、勝っても負けてもお互いの健闘を讃えあい、単なる敵同士とは違う、競い合う者同士の友情を深めることができたらいいなって思う。そういう友情が国を越えて広がれば、戦争だってなくなると思わない? ……そして『英雄』って呼ばれる存在も、おれはそんな中から生まれてきて欲しいって思ってる。戦争に全然関係ない英雄が英雄として、当たり前に讃えられるようになったらいいなって思うんだ。おれはこの国をそんな国にしたい。英雄が生まれるのに、戦争なんか必要としない国に。それで……世界中がそうなればいいなって……思って、マス」

 えへ、と頬をほんのり染めてユーリが言う。
 いつしかユーリの傍に寄り添っていたコンラートが、「きっとそうなります。ユーリなら、必ず」と主の髪を撫で、ますますユーリを真っ赤にさせた。
「まだ野球だけだもんね、それらしくなってきたのは。でも、渋谷、もうちょっと待っててよ。サッカーも遠からず世界進出狙うからね!」
「ユーリのその理屈でいけば、別にすぽおつでなくても国の名誉を担って競う事はできるぞ。僕が思うに、芸術こそがもっともそれにふさわしいのではないか? ここはやはり、僕が企画した世界美術展を開催し、各国の芸術家達がその美を競うというのが一番だな!」
 ムラタとフォンビーレフェルト卿がそれぞれユーリを囲むように言葉を並べる。ユーリもそれに嬉しそうに頷いている。
 そしてクロゥとバスケスは。
 何一つ返す言葉を持たず、ただ目の前の少年王を見つめていた。

 ……俺達は。俺達の国は。
 名誉を担ってなどいない。名誉のために戦っている訳では全くない。
 生きるか死ぬか、勝った方は生き残り、負けた方は滅ぶ。その瀬戸際で戦っているのだ。彼の仲間達は今この瞬間も、生き延びるためだけに血と涙と泥沼の中にいるのだ。
 生きるというそのことだけですら、本当は辛くて仕方がないのに、それでも生にしがみつかずにはおれないシマロンの人々。

 ……心臓が痛い。
 今、俺達は確かにここにいるのに。この王はこんなに近くにいるのに。
 遠い。あまりにも遠い。
 この王と。そして今はもうコンラートとも。
 心の手も、心の叫びも、もう決して届くことはないかのように。

 高い理想を持つ王。
 戦争を全く知らない王。
 そんな王を愛して支える有能な臣下達。
 幸せな民。
 幸せな。
 幸せな。王。

 ……ここで何をしているのだろう、俺達は。
 ……一体どうすればいいのだろう、俺達は。
 一体どこを向いて。どこへ向かって。
 進めばいいのだろう。

 カーン、という鋭く、そして不思議なほど透明な音が、青空を駆け登るように響いた。
 わあっという歓声が一斉に湧き怒る。
「ホームラン!」
 天真爛漫な子供の声がする。

 クロゥは、泣きながら、笑った。  


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時間が掛かりました〜。
最初別の展開で書き進めておりましたが、あまりにも冗漫になりすぎて、これじゃイカンっ! と。
まあ、書き直したからどう……と言えないトコが切ないような気もしますがー。
「精霊」「青空」同様、またも野球ネタで引っ張ってしまいました。最初は税金ネタだったのですが(一体、どんなだ…?)。
もうしばらくたらたら進みそうです。

クロゥって神経性胃炎になりやすい質だったみたいですね(笑)。
ラスト、根本的に思いきりすれ違ってしまった状態に(そんなはずじゃなかったのになー)、またもクロゥの胃が痛みだすかもしれません。
てなトコで、今回はこれにて。
ご感想、お待ち申しております。