「腹が立つかい?」 クロゥとバスケスがハッと振り返ると、そこにはムラタがいた、 「彼は今」ムラタの視線が、コンラートと並んで広場の選手に喝采を送るユーリの背に向く。「君たちが生きるか死ぬかの戦争の真っただ中にいることを、うっかり失念してしまっているしね。おまけに言葉も足りない。ウェラー卿は分かっているだろうけど、彼は君たちの心境より、陛下の志の高さに喜びを感じている状態だ。……陛下の理想を甘っちょろいと思うかい?」 いいえ。と、クロゥは首を振った。 その心情を探るように、ムラタはじっと2人を見つめている。 「ただ……我々とあなた方との距離がこれほど離れているのかと……実感してしまっただけ、です…」 「当然だね」ムラタの言葉は容赦がない。「国情が違い過ぎるよ。君たちは滅びに瀕している。たとえ戦争に勝利したとしても、大地の滅びが止まる訳じゃない。君たちの国の乾きは、ひたすら進行する一方だ。対してこの国は、魔王陛下の理想の下、平和と繁栄を享受している。今や、飢えも乾きも流行病も、この国の民を滅ぼすことはない。……まあ、君たちの場合、戦争や大地の滅び云々よりも、自分達の組織の瓦解の方が問題だろうけどね」 「だからこそ……!」 「だからこそ、ウェラー卿を迎えに来た。彼が帰ってきてくれさえすれば、何とかなると思って。……残念だったね。というか、すでに離脱した者を頼ろうという時点でダメなんだよ、君たちは。そもそも、ウェラー卿は事の始めから君たちのものではなかった。彼の頭にあったのは、最初から最後まで魔王陛下のことだけだったんだから。今ウェラー卿を無理矢理連れ帰ったとしても、彼は君たちのために力を尽くす事はしないよ。………それが陛下とこの国に益を齎すことが確実か、もしくは……」 魔王陛下自らの命令でもない限り。 「ああ、そうそう、大事な事を言い忘れてた」 その場を去ろうとしていたムラタが、数歩歩いて立ち止まり、振り返った。 「今度彼らが振り返るまでに、その辛気くさい顔、直しておいてよね。彼は君たちにこの国のことを知ってもらいたくて、そして楽しんでもらおうと思って一生懸命になってるんだから。……まったく、ほんの二日前まで君たちを追っ払おうと頑張ってたことはコロッと忘れてるんだもんね。何て言うか、一度懐に入るとどうにも邪険にできないんだよねえ、シブヤは。それが自分でも分かってたから、少しでも早く突き放そうとしてたはずなんだけど……。ま、ウェラー卿がしっかりべったり引っ付いてるから構わないけどさ」 それだけ言い置くと、彼らの返事も待たず、ムラタはさっさとユーリの下へと歩み去った。 「……あの魔王が、コンラートを俺達に返してくれるはずもねえしな……」 ああ、返すってのも、間違ってる訳か。そう呟いて、バスケスがばりばりと頭を掻く。 コンラートは自分達の同胞ではない。「赴く」ことはあっても「帰る」ことはない。 「やきゅう」の試合は盛り上がっているらしく、時折ユーリ達の歓声が他の観客達の歓声に混じって聞こえてきた。広場の「せんしゅ」達は投げて打って走って、泥だらけになっている。 ……それにしても。 ただこの「すぽおつ」とかいう競技、もしくは遊び、のためだけに身体を鍛え、技を磨いているとしたら、何ともったいないことだろう。どう考えても、時間と労力を無駄に消費しているとしか思えない。 これも豊かな国ならではの余裕なのだろうか。 クロゥはしみじみと思った。 それで戦士としての技術が磨かれる訳ではなし、軍人としての経歴を飾る訳でもなし、生活を支える訳でもない。一体これを「楽しむ」どういう意味や意義があるというのか。 ………俺にはさっぱり理解できん。 ふと気づくと、バスケスが芝生にごろりと寝転んで、気持良さそうに眠っていた。 確かに、こんな気持のいい青空と風と、そして芝があれば、寝転んでいる方がよほど気分がいいだろう。 俺もそうするか、と足を踏み出したところへ、「クロゥ」と声を掛けられた。 「そろそろ……なんだ、バスケスは眠っているのか?」 コンラートが2人に向かって近づいてくる。 「試合ももう終わる。下が混雑する前に出る事にする。バスケスを起こしてくれ」 見れば、柵の側にいたユーリが未練がましく広場を振り返りながらこちらに戻ってこようとしている。 眞魔国王都見物の一ケ所目が終了したようだ。 街に戻る道すがら。グリエとクラリスを先頭に、ユーリを中央に護るように進む一行の最後尾にいたクロゥとバスケスだったが、ふいにバスケスがユーリに向かって馬の足を早めた。 「バスケス!?」 クロゥが驚いて声を掛けるが、バスケスは気にせずユーリのすぐ後ろに馬をつける。 「よお」 バスケスの呼び掛けに、ユーリ、それからその両脇を固めていたコンラートとフォンビーレフェルト卿、そして心持ち前方にいたムラタが一斉に振り返る。 「なに? バーちゃん」 ユーリが屈託のない笑みをバスケスに向けた。 「ああ、ちょいとな。おめぇと……ってのは無礼か。えーと、陛下とお話させてもらえねーかなー、と思ってよ。膝詰めで顔を突き合わせて話をするってなあどうも苦手だし、こういう場所の方が気楽でいいかなって思ったんだが……ダメかい?」 「いいよ!」 両隣りのコンラートとフォンビーレフェルト卿が眉を顰めたことにはお構いなしに、ユーリが楽しそうに笑って頷いた。 「それから、陛下とか畏まって呼ぶコトないよ。バーちゃんはおれの臣下じゃないんだし。お前でもあんたでも全然平気!」 ぜんぜんへいきじゃないっ。フォンビーレフェルト卿が忌々しそうに呟くが、それはユーリからもバスケスからもあっさりと聞き流されてしまった。 「そうかい、そいつぁ助かるぜ。何せ育ちが悪いもんだからよぉ。……まあそんなこたぁどうでもいいや。なあ、魔王さんよ、一度きっちり聞いておきたいと思ってたんだが……あんた、本当に人間と魔族が対等に共存共栄できると信じてるのかい?」 「信じてるよ!」 当たり前じゃん! 今さらなにを、という声で、ユーリが即答する。 「魔族だって人間だって、ホントは何にも変わりはないんだよ! 人間だって国が違えば、色んなことが変わるだろ? まあ、寿命の違いは大きいかも知れないけど……。でもそれ以外は単に誤解とか迷信とか思い込みとか、とにかくちょっとしたことで意識がすれ違ってるだけだと思うんだ。信じてきた年月が長過ぎて、誤解が真実みたいに思われてるけど、ちょっとだけ意識を変えれば、お互いに違った姿が見えてくるはずなんだ。新しい道が開けてくるはずだと思うんだ! 実際さ、たくさんの国が今おれ達と国交を結んでくれるようになってきた。ちゃんと新しい形が生まれてきてるんだよ。これが広がれば、いつかきっと、世界中の人間達と魔族が共に手を携えて、世界を支えていく事ができるはずだ!」 まるで太陽のようにきらきらと、少年の姿が輝いて見える。眩過ぎて、目を背けたくなるほどに。 「なるほどなあ…。まあ、こんなに平和で豊かな国を治めてりゃ、そんな気にもなるだろうなあ……」 「そんなコトないよ!」ちょっとムッとしたようにユーリが言い返す。「この国だって、まだまだ問題はいっぱいあるんだから!」 「そうかい?」 「そうだよ!」 「それも大した事はねえだろう? これだけ民の生活が潤ってりゃよ」 「違うって! 民の生活が安定してきたのは、ほんのちょっと前からやっとなんだよ! まだ……例えば、前の戦争の傷跡だって、まだまだいっぱい残ってるんだから。戦争孤児とか戦争未亡人の生活の問題とか……!」 「戦争孤児……? って、いつのだよ。魔族が戦争したっていったら……」 「前の、我が国とシマロンとの大戦のことだ」 口を挟んだのはコンラートだ。 「けどそりゃもう……」 「魔族の成長について話しただろう? それを思い出してくれ。あの戦争から経過した年月を考えると、その頃幼かった人間は、とうの昔に立派な大人になっているだろう。だが魔族はそうはいかない。……その辺りが、成長の遅い魔族の辛いところだな」 それは、つまり。 後ろで話を聞いていたクロゥが、思わず割り込んだ。 「その頃幼かった魔族は……結局まだ子供だということか。人の支えが必要な……」 「そういうことだ。今も戦災孤児を集めた施設には、子供達が大勢暮らしているんだ」 なるほど、とクロゥとバスケスの2人が同時に頷く。 「そんな施設の補助は、これまでずっと後回しにされてきた。施設の運営そのものが、国ではなく、一部の篤志家達の善意に任されて、というか、国が押し付けてきたからな。一家の働き手をなくした戦争未亡人や遺族の生活も同じだ。さらに言えば、戦争で刻まれた心の傷という問題もある。おそらくは心身共に成長の早い人間に比べると、戦争の傷跡は魔族にこそより深く残っているといえるだろう。陛下はその点について仰せになっているんだ」 陛下ってゆーなってば、名付け親! ユーリが聞き慣れてきたセリフを口にする。 「でもそれもさ、大分改善されてきたけどね。国も少しづつ援助できるようになってきたし。それに……」 あーっ!! いきなりの大声に、全員の馬の足が止まった。 ユーリが大きく口を開けたまま、瞬きもせず天を見つめている。 「ど、どうした、ユーリ!?」 フォンビーレフェルト卿が、咳き込むように声を上げる。 「おれってば、すっかり忘れてた! ねっ、クーちゃん、バーちゃん。2人とも後どれくらい居られる? 1週間くらい大丈夫かな?」 「……1週間、ですか……」 クロゥの言葉に、「うんっ!」とユーリが力強く頷く。 「…ああ、あれですか……」 コンラートがようやく納得の表情を見せる。「それそれ!」とユーリが笑う。 「そうなんだよ。うっかり言い忘れてたけど、ちょうど1週間後にお祭りがあるんだ! 2人にも見てって欲しいって思ってさ!」 「……祭、ですか? 魔族の、何か伝統的な……?」 儀式的なものを想像したクロゥに、「違う違う」とユーリが笑う。 「軍の兵隊さん達が企画した夏祭り、っていうか、チャリティーフェスティバルなんだけど」 「ちゃ、りて、ふぇす……?」 「軍の兵士達が祭……? 何のこった?」 「ちゃりていへすてばるというのはだな!」 理解できないと首を捻るクロゥとバスケスに、フォンビーレフェルト卿がふんぞり返って宣った。 「慈善活動の一種だ! 兵士達が屋台を出して軽食や酒を売ったり、芝居を上演して見物料を取ったりして得た利益を、一銭残らず戦災孤児の施設に寄付するという、我が国軍の重要行事の1つだ!」 その言葉に、クロゥとバスケスはきょとんとフォンビーレフェルト卿の顔を見返した。 「軍が屋台だの芝居だのだと……!? それで金を稼いで、そんな施設に贈ってるっていうのかよ?」 半ば呆れたようにバスケスが声を上げた。 そういうことだな、とコンラートが頷く。 「必要な経費は国が全て出して、集まった金は残らずそういった施設に分配される。祭に集まった人々も事情を分かっているから、子供達のためになると喜んで財布の紐を緩めてくれるし、魔王陛下のお声掛かりだから、貴族達もこの機会に乗じて競って寄付をしてくれる。おかげでかなり纏まった金になるんだ。年に1回、決まって行われる行事で、今となっては、兵士達もかなり気合いを入れて準備しているようだな。毎晩芝居の練習に余念がないようだし……ヤキソバも今年はかなり良い味になってましたよね?」 微笑むコンラートに、ユーリも「うん!」と楽しそうに頷いた。 「おれが頼んだら喜んで出張して来てくれて、皆を特訓してくれたロンジお爺ちゃんのおかげだよね」 「張り切って若い兵士達をしごいてましたね。大昔の戦争の思い出と自慢話をたっぷりおまけして。……あのご老人は、まだまだ長生きするでしょうね」 あははっ、とユーリが軽やかに笑う。 「やっぱりさあ、お祭りの屋台っていったら、ヤキソバだろ、タコ焼きだろ、お好み焼きに、りんご飴!」 「綿菓子にかき氷。それから猊下のリクエストでソース煎餅も。……綿菓子の製造機はアニシナが奇跡的に成功させましたし、りんご飴とソース煎餅はシェイナが独創的なお菓子として素晴しいものを作ってくれました。……猊下の希望とは掛け離れていたようですが。他もイロイロと変化しちゃいましたね」 「だよねー。タコ焼き用の鉄板もないし。かつお節も青海苔も出汁の味も理解できなくて、結局お好み焼きは野菜たっぷりクレープになって、タコ焼きは海の幸入りドーナツになっちゃった。マヨネーズは材料が分かりやすくてすぐできたけど」 「そう言えば、マヨネーズはあれから一気に庶民の新たな味になりましたね。あれは栄養も豊かですから、広まってよかったです。サンドイッチの味も深まりましたし。これも陛下のおかげですね」 「だから陛下って言うなってばー」 ユーリが嬉しそうに文句を言う。 全く理解できない会話に、クロゥとバスケスはふと顔を見合わせ、苦い笑みを互いに浮かべた。 話に置いてけぼりにされた切なさよりも、自分達の知らないコンラートの生活が確かにあるのだと、何度も何度も実感させられるやるせなさが辛い。 「あ、ごめんごめん!」 いきなりのユーリの言葉に、クロゥは思わずドキリとした。 「クーちゃん達がいるのに、分かんない話をしちゃったね。……とにかく、えーと、何だっけ……。あ、そうだ、つまりそういうお祭りっていうか、行事が一週間後にあるから、2人とも絶対見てってよね。今度は、今までになかったすっごい企画もあるし!」 「…すっごい、企画、ですか?」 「そう! 楽しみにしてて!」 ユーリが、魔王が笑う。今はもう天高く上った陽の光を全身に浴びて、軽やかに。 「……コンラート」 隣を行くコンラートが、何だ? と顔を向ける。 「その祭も、魔王、陛下のお声掛かりだと言っていたな?」 「ああ、そうだ。……眞魔国のために命を落とした人々の遺児達を、国が助けずにどうすると陛下が仰せになったんだ。彼らを援助し、子供達の心身共に健康な成長を手助けすることは、むしろ国家の義務だと仰せになられた。軍のチャリティーフェスティバルは、そんな陛下のお心に打たれた兵士達が、誰に命じられた訳でもなく、自分達でやれる事をやろうと始めて根付いた行事だ」 そうか、とクロゥは頷いた。 心の弱い、未熟な子供。 その思いが消えた訳ではない。だがこの子供は。 クロゥは、バスケスとまた会話を始めた少年を見て思った。 それでも民のために、懸命に考えている。 王とは民の何であるべきかを、理屈でなく知っている。 民を思う王。民に尽くす兵。 考えてみれば当たり前のことなのに、自分達はあまりにも長い間、そんな存在を知らずにいた。 そんなものだと思っていた。 王とは支配するもの。軍隊とは殺すもの。 大地を。実りを。命あるもの全てを。 「……ちょいとビックリしちまったな」 「何がだよー」 「可愛いだけのおチビさんかと思ってたのに、結構色々考えてるじゃねえか」 チビは余計だ、可愛いも! ユーリが言い返す。 「だっておれ、王様だもん。王様が一生懸命民や国のコトを考えるのは当たり前のことじゃん!」 「その当たり前がなかなかできねえモンなんだよ」 「そっかな」 「そうさ。だからお前さんは、まあ、大したもんだと思うぜ?」 褒められちゃった。ユーリが照れた様に頬を染めて「えへへ」と笑う。「へなちょこを甘やかすな」と聞こえよがしの呟きが耳に入ってきたが、それは隣の耳へと流れて消えた。 「……俺達もな」 「え?」 「俺達の国もな。親をなくした子供や連れ合いをなくした女房達が、それこそ毎日毎日山の様に生み出されてる。今この瞬間にもだ。そいつらは皆、地べたに這い蹲って、やっとの思いで息をしてる状態だ。どうにかしてやりたくても……シマロンとの戦争を終わらせなけりゃ、どうにもできねぇんだよなあ……」 きょとんとバスケスの顔を見ていたユーリが、やがて何かに気づいたように顔を強ばらせた。 「………ごめん」 「…あ?」 「ごめん。おれってば……」ユーリが目を伏せて謝罪の言葉を重ねる。「おれ……バーちゃん達が、戦争してる真っ最中だってこと……すっかり忘れてた……」 無神経だったよな。……ごめんなさい。 ぺこん、と頭を下げるユーリに、「おいおい」とバスケスが呆れた声を上げる。 「んなこたぁ、仕方のねえことだろうがよ。この国は平和なんだし、そもそもお前さんは戦争なんてもんを知らねえんだから。ぴんとこねぇのも無理はねえよ。ただ、まあ……そうだなあ……」 ふむ、と鼻を鳴らして、バスケスは言葉を探すように宙を見上げた。 「お前さんの理想は、皮肉じゃなく、本当に立派なもんだと思うぜ。それだけ高い理想を持って、ちゃんと実現させていけるんなら、国が良くならないワケがねえ。実際、この国はいい国だ。お前さんみたいな王様を戴いて、この国の民は本当に幸せだと俺は思う。羨ましいくらいだ。……けどよ、世の中にゃ、俺達の国みたいに、理想どころじゃねえ、息をしてるだけでも精一杯って国もある。そんな国に生きる民は、誰を押し退けてでも、踏みつけてでも、自分だけは生延びたいと死に物狂いになってる。そういう民にとっちゃあなあ……お前さんは、お前さんの理想は、眩し過ぎる。なんつーか、自分らのみっともなさをあぶり出されてるみてぇで堪らなくなっちまうかもしれねえな……。まあ、よ、理想を語る前に、世の中にゃ、そんな国もまだあるってことを、思い出してもらえると良いかもしれねえなあ……」 ユーリの顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。 「王が高い理想を語って何が悪い!」 フォンビーレフェルト卿が気色ばんだ様子でバスケスに詰め寄ってきた。 「だいたいお前達の国が滅びに瀕しているのは、全てお前達自身の責任だ! 己の力で己の民も救えぬ者が何を偉そうに……! 我が王の志の高さにいじける暇があったら、とっとと戦争を終わらせろ!」 「そうしてぇよ! 俺達だって、一刻も早くそうしてぇと思ってるよ。だから……」 魔物の国に渡る恐怖を押さえ付けて、コンラートを取り戻すため、ここまでやってきたのだから。 だが、結局は堂々巡りになるその言葉を、バスケスは寸前で押えた。ムラタが厳しい顔でこちらを睨み付けている。 「悪かったな」 哀し気に自分を見つめるユーリに、バスケスは少し歪んだ笑みを顔に上せた。 「俺としたことが、らしくねえセリフを口走っちまったみてえだ。許してくれな。……お前さんに文句を言うつもりは毛頭なかったんだぜ? 小っせえのに、なかなかどうしていい王様だと思ってんだからよ。ただな、ただ、よ……理想も語れねえあの国の民や、仲間達のことを思うとな……俺みてぇながさつな男でも、ちょいとばかり切なくなったりしちまった…んだな……たぶん。ほんとに悪かった。許してくれ」 「ううん」馬上でがばっと頭を下げるバスケスに、ユーリが首を左右に振った。「謝らなくていいよ。バーちゃんは何にも悪いこと言ってないし。おれが、その、考えなしだったし」 「確かにシブヤはしょっちゅう考えが足りない」ムラタだ。「でも、シブヤが今の件で自分を責める必要は欠片もない」 ばりばりと困った顔で頭を掻くバスケスを押し退けるように、わずかに離れていたコンラートの馬がユーリの乗る馬のすぐ側に身を寄せていった。 こちらに移りませんか? タンデムしましょう? そう声を掛けられて、ユーリの身体が瞬間コンラートに向かって動いた。が、すぐ何か思い直したように態勢を戻してしまった。 「ありがと、コンラッド。でも大丈夫……だけど、側にいてね」 強さと弱さが微妙に入り交じった返事に、コンラートが「ユーリの側にいますよ」と答えている。 同時に、素早く鋭い視線を投げかけられて、バスケスは思わず肩を竦めた。 「……陛下」 バスケスの後方からクロゥは馬を進め、ユーリに近づいて声を掛けた。 ユーリがちょっとだけ眉尻を下げて、上目遣いにクロゥを見上げる。寄る辺ない幼子のようなユーリの表情に、クロゥの胸がどきりと鳴った。 「バスケスの言葉は」己の中の変化をあえて無視して、クロゥは続けた。「結局は俺達の問題です。つい口に出したり、態度に出したりしてしまうのは……俺達の心の弱さです。あなたが気に病まれる必要は全くありません。ムラタ…大賢者、殿の仰せの通りです。戦いを治められないのも、民を救えないのも、全ては我々の問題なのですから……。それよりも」 意識して笑みを作ると、クロゥはほんの少し声の調子を変えてみた。 「次はどこへ連れていって頂けるのですか? あなたにご案内頂けるのは今日だけなのでしょう? 明日からは相棒と2人で色々と回るつもりですが、今日はあなたのお勧めをお教え下さい」 そう言うと、ユーリはじっとクロゥを見つめ、それから「いいの?」と小さく問いかけてきた。 「もちろん。バスケスともそんな話をしていたんです。な?」 話を振ると、困り果てていた相棒はぶんぶんと大きく顔を上下に振った。 「おう、そうさ! せっかくのいい機会なんだから、魔族の民の生活をたっぷり見て回ろうって、夕べも話をしてたんだぜ! だからよ、機嫌直して、色々案内してくれや!」 ぱんっと手を合わせて拝むバスケスに、2人の人間を交互に見ていたユーリがプッと吹き出す。 「バーちゃん、そんなコトしなくていーから! ……うん、分かった。じゃ、あらためて」 笑ってユーリが手綱を巡らす。 「出発進行!」 彼らが血盟城に戻ってきた時、時間はもう間もなく夕食という刻限になっていた。 「…うはぁ、なんつーかもう……色々あったな」 部屋に戻った途端、いつもは元気なバスケスがぐったりとソファにへたり込んだ。 「そろそろ食事だぞ。先に汗を流してきたらどうだ?」 クロゥがそう言うと、バスケスは「うー」と唸りながら腹を撫でている。 「何だか一日中食ってばかりいたような気がするぜ。……いつも俺が先に使わせてもらってるからよ、クロゥ、今日はお前が先に浴びろや」 そうか、と遠慮も見せず、クロゥは今日市場で購入してきた着替えや小物を袋から取り出した。 「貴金属を金代わりに持ってきておいてよかったな。使えるかどうか不安だったが、ちゃんと両替えできたし、欲しかったものも買えた」 「確かに。この国に来るまでは、まともに着替えなどできまいと思っていたが……。ここでコンラートに借金までしたら、情けないことこの上なかった」 全くだ、とバスケスが朗らかに笑い、それから「それにしてもよ、クロゥ」と浴室に入りかけていたクロゥに呼び掛けた。 「何のかんのとあったが……楽しかったな」 まあな。クロゥも笑って、浴室に入った。 あの後、彼らは精力的に街を巡った。 王都で最も大きな市場の側にある、グリエお勧めの小店で軽い食事─とろりとした白くて熱いスープに太い麺と、たっぷりの湯で野菜を乗せた異国風の料理で、ユーリは「とんこつうどんだー」と喜んでいた─をした後、休日を楽しむ人でごった返す市場を素見して買い物リストを作り(帰りに買ってかえることにした)、それから向かったのは芝居小屋だった。入り口の上には、何やら派手な看板が掛かっている。 『我が一座の天才脚本家が独自の解釈に挑んだ、〈大冒険〉より面白いウェラー卿の華麗なる大活躍!』 ……を、目にした途端、約1名がユーリの目を覆い、すぐに方向転換させようとしたが、グリエとクラリスに阻まれた。 「独自の解釈か……。ほう、面白そうではないか」 「大冒険より面白いって! 自信ありそう。よーし、行こう!」 なぜかグリエが懐から切符をひらりと取り出し、皆揃っていそいそと入っていく。「こりゃー面白そうだ」とのんきなバスケスは気づかなかったが、後方から歯ぎしりと呪の言葉をとしか思えない呟きが耳に入ってしまったクロゥは、またぞろ胃が痛くなり始めていた。 芝居小屋の観客席は結構広く、すでに8分方人が入っていた。椅子はなく、床の敷物に直に座るようになっている。彼らは後方の片隅に陣取ったのだが。 「ウェラー卿」は一座の花形とかいう、背は高いが小太りの妙な節回しで喋る男で、「我こそはルッテンベルクの獅子とその名も高き、ウェラー卿コンラートなりー!」とひっくり返った声で叫んだ瞬間、誰かが即座に剣を抜きかけて、グリエに羽交い締めにされた。 さすがに憚られるのか、「魔王」の姿はベールの奥に隠れているという設定だったが、その王に向かって「ウェラー卿」が、「偉大なる我が魔王陛下。その濡れて輝く漆黒の御髪は夜の帳よりもさらに深く、眠る幼子を護らんとする母の肱のごとき温もりに溢れ……」と、延々魔王の美貌を褒めそやし出すと、まるで条件反射のようにユーリが「くう」と寝息を立て、フォンビーレフェルト卿に揺り起こされていた。 観客達は、魔王陛下が讃えられれば拍手して同意を表し、「ウェラー卿」が「陛下の御ため我は立つ! たとえこの身が万に切り裂かれようとも、我が青春に悔いなしなりーっ!」と叫ぶと喝采した。 おどろおどろしい牙を生やし、長くねじくれた杖を振り回す「大シマロン王」が、極彩色の羽で飾られた子砂熊を、「我が僕の地獄の悪魔」と呼んで「ウェラー卿」と対峙させた時には、純真な子供達から「がんばれ、ウェラー卿!」と励ましの声が上がり、舞台上をよちよち歩く子砂熊に、「ウェラー卿」がどう見ても蹴躓いたとしか思えない姿で転んだ時には悲鳴が溢れた。 そしてウェラー卿が恋人である人間の王女(何がなんでも、コンラートは禁断の恋をしなくてはならないらしい)と人目を忍んで愛を語り合い、「あ〜い〜それは〜とおとく〜」と手を取り合って歌い出すと、一緒になって歌い出す女性の声があちこちから聞こえてきた。 そしてその間。 観客席のある一画でのみ、大爆笑が治まらなかった。 1名を除き、コンラート役の俳優が似てないと笑い、セリフがヘンだと笑い、砂熊が出れば笑い、転んだと笑い、歌ったといって、敷物の上を転げ回って笑った。 バスケスは皆と一緒に初っ端から笑い出し、必死で堪えていたクロゥも、砂熊が出てきた辺りからどうにも抑えられずに吹き出してしまった。 当然。他の観客の目が次第に白くなっていく。 ついに、上演時間の半分も観ない内に、芝居小屋の関係者に小屋を追い出されてしまった。 追い出されてもユーリは怒りもせず、ムラタやフォンビーレフェルト卿と共に様々な場面を思い出しては腹を抱えて笑っていた。グリエやバスケスも同じように笑っていて、コンラートの怒りはもっぱらこの2人に降り掛かった。クロゥはともすれば歪みそうになる唇に必死で力を込め、コンラートの怒りのぶつけ所を探す眼差しから逃れた。ちなみにクラリスは、「隊長はいつも大体あんなものでしょう」とあまりにしれっとした顔で言うので、逆にコンラートから避けられていた。 「次は僕のお勧めだ!」と宣ったのはフォンビーレフェルト卿で、連れていかれたのは王立美術館だった。眞魔国国内の現代芸術家が腕を競った展覧会、とかで、朝の発言といい、よほど芸術が好きなのかと思ったら、自身が名を変えて出品しているのだという。 「見ろ! これが僕の傑作。『魔王陛下と虹と薔薇の日々』だ! どうだ、素晴しいだろう!!」 「『酒と薔薇の日々』だったらアル中だねー」というムラタのセリフは誰にも理解されなかったが、フォンビーレフェルト卿の傑作は、さらに意味不明だった。 とにかく様々な色が画布にこれでもかと叩き付けられ、一体どこが魔王なのか、虹なのか、薔薇なのか、皆目見当もつかない。 「遠慮しなくていい。思うまま、感想を述べてみろ!」と言われたが、感想の湧きようがない。というか、これがそもそも絵画だということも理解できない。すると、呆然と絵の前に立つクロゥの袖がつんつんと引っ張られた。ユーリがじーっとクロゥを見上げている。 「おれ、こんな感じ? どう思う?」 自分を描いた(?)友人の絵を褒めてもらいたがっているのか、ワケが分からんと言って欲しいのか、ユーリの真剣な眼差しの語る意味がピンと来ず、クロゥとバスケスは思わず顔を見合わせた。 この2人はおそらく親友だ。何をするにも一緒のようだし、とても仲がいいのだろうと思う。 フォンビーレフェルト卿は褒めてもらって当然という顔で、絵の横でふんぞり返っている。なので、クロゥとバスケスは無言のまま頷きあった。 「……あ、あの、えー……と……陛下の、その、素晴しさが実に滲み出ている傑作かと……思いま……」 うそーっ! 懸命に心にもない言葉を綴ってみれば、ユーリが一声叫んで「がーん!」と顔を引きつらせている。 「……お、おれ……こんなのに見えるの……? こんな、たぬきにさえ見えないぐちゃぐちゃに……?」 しまった、間違えた! と思った時にはすでに遅い。 「そうだろう、そうだろう! 貴様ら、人間にしてはなかなか鋭い感性をしているではないか!」 もうしんじないー、だれもしんじないー、おれのこと、かわいーだの、うつくしーだのいってさー。うそばっかー。たぬきどころかあめーばーじゃん。みとこんどりあじゃん。でなかったら………。 床にしゃがみ込み、指で床にくりくりと円を描きながら、ユーリが意味不明の言葉を呟き続ける。 その傍に歩み寄ったフォンビーレフェルト卿がふんぞり返ったまま、「分かったか、ユーリ。ちゃんと見る目を持った者が見れば、この絵の素晴しさが分かるんだ!」と大威張りに威張っている。 クロゥは頭を抱え、バスケスは2人の間を彷徨うようにおろおろと大きな身体を泳がせた。 「……僕、この絵が描かれてる時、通りすがりに見た事があるんだよねー」 「猊下もですか。実は俺もなんですけど……」 「と、わざわざ言うってことは、君もやっぱりそう思う? ウェラー卿」 「やっぱり猊下もそうですか? じゃあ、間違いありませんね」 「そうだね。これ……」 上下逆さまだよ。 耳に流れ込んできたコンラートとムラタの会話に、頭を抱えたままクロゥは固まった。 「どうしよう。教えた方がいいのかな?」 「別に構わないんじゃないですか? 描いた本人が全然気づいてないんですから」 「それもそうだね」 ………どっと疲れが襲ってきた。 ヤケ食いだ−っ! とユーリが叫んだその後は、名所案内なんだか、美味しいもの巡りなんだかさっぱり分からない道中となった。 ここのさんどいっち、あそこのケーキ、この屋台の揚げ菓子、そこの串焼きと、歩き回っていなければ到底消化できない量の食べ物を買い漁り、街を眺め、人を眺めて食べた。休日を気楽に楽しむ人々の、のんびり明るい雰囲気と、気を張らずにわいわいと騒ぎながら美味いものを口にできる一時に、クロゥ達も肩の力を抜いて楽しむ事ができた。 結局そんなこんなと遊び回り、夕刻になって、西の空に朱が混じる頃、ようやく彼らは最後の名所、「御花の丘」に辿り着いたのだった。 「こりゃ何つーか、清々しい場所だなぁ」 バスケスがうんっと背伸びして、朗らかに言う。 確かに、身体だけでなく心も深呼吸するような景色が、視界一杯に広がっていた。 「御花の丘」。かつては魔王陛下専用の休息所だった場所だが、当代魔王、つまりユーリによって一般に開放された。なだらかな、「柔らかい」と表現するのが最もふさわしい起伏が延々と続き、丘と空以外に視界を遮るものは何もない。 今は朱を含み、微妙な陰影に飾られた空の下、ゆったり波打つような丘の緑。そして、花、また花。 1年中花の絶えることはないというその丘陵には、踝か、せいぜい脛までしかない草花が、薄紅色や黄色、それから紫、橙、青と、とりどりの色で咲き乱れ、何とも目に優しい光景が広がっている。 初夏の宵。丘は散策に訪れた多くの人々で賑わっていた。 「あっち! あっちだよ、早く!」 ユーリにせかされて、全員が向かった先は展望台というか、物見台というか、丘から張り出すように作られた木造の広場だった。 「ほら! あれ!」 ユーリが指差した方向に目を遣った途端、ほう…っ、と誰かがため息をついた。 かなた血盟城が、朱金の光に照らし出されてそこにあった。 斜めに射し込む、朝とはまた趣の違う黄金色の光に照らし出され、その光を眩いまでに反射しながら、深い陰影の中、城は神秘的なまでに荘厳に、絶大な力と存在感を溢れさせ、堂々と聳え立っている。 胸を打つ程に美しく、威厳に満ちた姿だった。まさしく「魔王」の力そのもののように。 「ほら、あそこに魔王様がおいでになるんだよ。ささ、お祈りして」 すぐ近くにいた年輩の女性が、孫らしき子供に言い、子供が素直に手を組んでお祈りを始める。 「まおーさま。どうかおとうさんが、おしごとから、はやくかえってきますように。げんきでいますように。はやく、かぞくみんなでいっしょにくらせますように。……おばあちゃん、これでだいじょーぶだよね? おとうさん、すぐかえってくるね?」 「大丈夫だとも。魔王陛下は民のどんな祈りでもお聞き届け下さる慈悲深いお方だもの。お前の父さんも、きっとすぐに帰ってくるさ」 「人間の中にも、自分達の神ではなく、ユーリ陛下に祈りを捧げる者が現れたのですって」 別の方向から、また誰かの声がする。 「当然じゃないかしら? 人間の神なんて、眞王陛下や魔王陛下に比べたら、何の力もないじゃないの。だから人間の国は滅びかけているんでしょう?」 「さあ、皆さん! こちらですよー!」 旗を持った女性が、集団を案内してやってきた。 「あちらに見えますのが我らの偉大なる魔王、ユーリ陛下がおわします血盟城です!」 おおー、と感動の声が集団から上がる。 「今あそこに陛下がおいでになるんですね!」 「何をなさっておられるのかしら?」 「きっと眞魔国のさらなる発展のために、執務に励んでおいでに違いないですよ」 「皆さん!」旗の女性が声を張り上げる。「ユーリ陛下は、ご存知の通り、歴代魔王の中でも群を抜いた、眞王陛下に匹敵するともいわれる魔力と、その聡明にして慈悲深いご性格、卓抜した政治手腕をもって、眞魔国を現在の繁栄に導かれた偉大な魔王陛下であらせられます! ユーリ陛下の御代に生きることができるとは何という幸運かと、私は運命に感謝せずにはおれません」 「本当にその通りですよ!」 「魔王陛下がいつまでもお健やかでいらっしゃいますように」 「ユーリ陛下の御代がいつまでも続きますように」 ほんの数歩離れた場所に、当の魔王がいるとも知らず、人々の祈りや賞賛の言葉が続いている。 「よお……」 人々の声も聞こえないかのように、柵に身体をもたれさせて城を眺めるユーリに、バスケスがおずおずと声を掛けた。 「なに? バーちゃん」 振り返った顔は、意外なほど穏やかだった。 「……あのよ、もしかしたらまたイヤな思いをさせるかも知れねーんだが……」 「いいよ、何でも言って!」 にこっと、ユーリが笑みを浮かべる。 あのよお。バスケスが小鼻をぽりぽりと掻きながら、言い辛そうに口を開いた。 「………重くねーか……?」 ほんのわずか、じっとバスケスの顔を見ていたユーリが、いきなりふわっと笑った。 「重いよー。むっちゃくちゃ重いんだよぉ」 でもさ。 「おれだけが重いわけじゃないから。一緒に重いの背負ってやろうって人が、おれの周りにいっぱいいるから。だからさ、おれってさ」 すっごい幸せな王様だよね。 てへへ。ちょっとだけ声を潜めてそう言うと、照れくさそうに、ユーリが笑った。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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