にこにこと、満面の笑顔でユーリ、魔王が部屋に入ってくる。 本当に美しい、というか、しみじみと愛らしい少年だ。今日の朝陽の、あの透明な金色の煌めきの中でこの笑顔を見れば、どれほど人の心を浮き立たせることか。 闇の色を纏っていながら、青空と太陽の光が似合う魔王。 カーラやアリ−の顔を思い浮かべると、どことなく悔しさが胸に湧き上がってくるものの、コンラートが心底愛しむ気持もまた分かる、と、ふと思ったところで気がついた。 「……コンラートは……?」 現在の状況を考えれば、ぴったりとくっついていなくてはおかしいコンラートの姿がない。 途端、魔王が「しーっ」と指を口に当てて、いたずら小僧らしく笑った。 「ここに来たのはコンラッドには内緒。……グリエちゃんに聞いてさ」 「何を、です…?」 「コンラッドにつれなくされて、2人が落ち込んでるって!」 思わずぐっと詰まって、クロゥもバスケスも揃って顔を盛大に顰めた。それを認めたユーリが、あははっと楽しそうに笑い出す。 「それを見物にきたってのか? 悪趣味だぞ、このくそガキ魔王!」 バスケスががなる。その言葉に、開き直り過ぎだとクロゥは思わず天を仰いだ。もし誰かが(コンラートだったら最悪かもしれない)聞いていたら、即座に無礼を咎められるだろう。 だがユーリ本人は、バスケスの言葉の無礼をあまり気に止めなかったようだ。きょとんとした後、ムッとした顔で反論してきた。 「見物じゃない! おれは2人を慰めにきたんだぞ! せっかくこんな遠いトコまでコンラッドを連れ戻しに来たってのに、全然ダメだったから可哀想に思って!」 ということは。 クロゥはユーリの言葉に、彼がほぼ回復した事を確信した。 コンラートが決して自分から離れない、自分を誰より大事に思い、ずっと側にいてくれる。その確信を得る事ができたからこそ、今の言葉があるはずだ。 ……ならば、コンラートとの話し合いは、思ったより早く実現しそうだな……。 落ち着いてそう推測するクロゥとは違って、バスケスは更に頭にきたらしく、数歩魔王に詰め寄ると、拳を振り上げて怒鳴り始めた。 「慰めなんぞいらねえってんだ! ったく、バカにするんじゃねーぞ! ……そもそもなあ……!」 バスケスがビシっと指を魔王に突き付ける。 「おめーも魔王だってんなら、そんなへらへらしてねーで、もうちょっと魔王らしくしたらどうなんだ!」 「へらへらなんかしてないっ!」 魔王が顔を真っ赤にして怒鳴り返す。 「ってゆーか、あんたの魔王らしいってどんなんだよっ!?」 そりゃおめー……。と答えかけて、バスケスが腕を組み、えーと、と視線を宙に向けた。 「………魔王っていったらよお、でかくてごつくて……ってのは無理だろうけど、とにかく、人間にしてみりゃ魔王っていったら、魔物っつーか悪魔っつーか、この世の恐ろしくておぞましくて凶暴で禍々しいものの大元締めなんだよっ。おめーがそんなだと夢が壊れる……ってのも妙な言い方だけど、とにかくそれっぽくしてもらわねーと色々困るんだよっ!!」 「…………それって、すごく勝手な言い分だと思うんだけどー……」 まったくその通りだと、クロゥも内心で頷いた。魔王、ユーリは困ったように顳かみを指で掻いている。 「しょーがないなー。えーとぉ……………が」 「「が?」」 思わずユーリの顔を覗き込むクロゥとバスケス。 「………がおー……?」 「……………小首を傾げるな! 上目遣いをするな! おずおずと言うなーっ!! ……そうじゃなくてっ。魔王ってのはなあ…………うがーっ!!」 何で俺が魔王に向かって魔王らしくしろなんて説教かまさねーとならね−んだーっ!! 相棒が錯乱したように抱えた頭を振りたくるのを、クロゥは深いため息と共に見ていた。と、隣でユーリも同じようにため息をついている。 「バーちゃんって、結構形から入るタイプなんだなー」 それは全然意味が違うだろう。 クロゥは新たなため息を深々とついた。 「それで? 俺達をどう慰めようと?」 大した意味もなく問いかけると、ユーリは意外なほど嬉しそうに笑い、ずっと小脇に抱えていたらしいものを「これこれっ」と差し出した。 「………本?」 そうっ、とユーリが頷く。 「ほら、あの村の人達も言ってたじゃん。コンラッドが大シマロンを倒すために、命懸けの潜入工作してたことに感動した作家さんたちが、腕を競っていろんなお話を作ったって!」 「…………コンラートがシマロンの王女とどうとかこうとかいう……アレか……?」 「それそれ! 色んな種類のコンラッド本が出版されてるんだけどさ、このシリーズが一番人気があるんだ。おれも超おすすめっ」 「……それは、コンラートがわずかなりとも情報を提供したりした……」 「ワケないじゃん! 小説家の想像力ってすごいよなっ。おれなんて、とてもこんなスゴイの書けないよ。これを読めば悩みも忘れて抱腹絶倒間違いなし! 笑い過ぎて心臓発作にご注意ってくらい!」 「……喜劇なのか?」 「全然! 書いてる人はすっごく真面目なんだな、たぶん。これはさ、邪悪な魂の持ち主で、世界を支配しようと謀略を巡らす大シマロンの王様が、暗黒の法術と闇の軍隊を操り、大地と自然の護り手である魔族を滅ぼして、高潔な魂の持ち主である魔王─おれだよ、おれ!─を自分の奴隷にしてしまおうと画策してることに気づいたウェラー卿が、祖国と最愛の主─分かってると思うけど、おれのことだからな! ここ、大事なトコだぞ─を護るため、主を裏切って国を出奔したという形で、魑魅魍魎、悪鬼羅刹、隠謀、謀略、奸計、美女軍団……とにかくごちゃごちゃに渦巻く人外魔境のシマロン城に乗り込んで、正義の刃を奮ってるウチに敵の王女様と禁断の恋までしちゃいましたっていう、手に汗握る英雄冒険恐怖純愛大活劇的大河小説なんだ!」 「………………」 「………………」 塩っぱい顔で見つめるクロゥとバスケスに、ユーリが2冊の本をずいっと差し出す。 「ほら! ちゃんと2人で一緒に読めるよう、1巻目を2冊持ってきてやったんだぞ。気がきくだろ? 気に入ったら、すぐ続きをもってきたげるから! とにかく、これを読めばどんな悩みもストレスも一気に……」 「倍増間違いなし! ですね」 「その通り! ますます落ち込んで心はまっくら………おや?」 ユーリが笑顔のまま、きょんっと首を傾げる。だがすでにクロゥ達の視線は少年の後ろに向いていた。 「陛下」 「びっくー」 後ろを振り向けないユーリが固まった。 ユーリのすぐ真後ろで、腕を組んで立つ男の口元だけが笑みを作っている。 ……「魔王」なぞ足下にも及ばないほど怖い。クロゥとバスケスは思わず数歩後退った。 「突然いなくなるから、ものすごく心配しましたよ、陛下」 「へーかってゆーなー、なづけおやー」 背後から立ち上る気配に恐怖しているのか、言い返す言葉が弱々しい上にすっかり棒読みだ。 「つい癖で。そんなことよりも、ユーリ、その本をこちらに渡して下さいね。以前に申し上げましたよね、そんなものを読んだらバカになるって」 「………昨日寝る前に読んだげたら、コンラッドだって笑ってたじゃないか……」 「怒りと情けなさを通り越すと、もう笑うしかなくなるんです。さ、陛下」 「また陛下って言った!」 背後からコンラートが手を回そうとしたその瞬間、ユーリは一声叫ぶと、2冊の本をクロゥとバスケスに向けて思いきり放り投げた。そして一瞬の虚をついて脱兎のごとく床を蹴ったユーリは、クロゥとバスケスの間を駆け抜け、一気にベランダに向けて走り出した。 「ユーリ! 待って下さい!」 わずかに遅れて、コンラートも後を追う、と思ったら、バッと振り向いて2人に厳しい目を向けた。 「いいか! それを読むなよ! 読んだら……」 「読んだら?」 思わずバスケスが問い返す。 「…………泣くぞ」 誰が? と確認する間も与えず、コンラートはすぐさま踵を返し、ベランダに向かった。クロゥとバスケスも思わず後を追う。 「ユーリ! そんなに急いで降りたら転びます! お願いだからゆっくり走って下さい!」 「逃げてるのにゆっくりなんかできるかーっ」 「何で逃げるんですかっ!?」 「何でも!」 何故かベランダの下の方から声がした。コンラートもベランダの端から下を覗き込んでいる。 気がつかなかったが、ベランダの端には庭に降りる階段があったらしい。ユーリはそこから階下に逃亡(?)したのだ。すぐに後を追って階段を降りようとしていたコンラートだったが、気を変えたのか、手摺に手を掛け、あっと思う間もなく身体を宙に浮かせた。そしてそのままクロゥ達の視界から消える。 「あーっ、反則ーっ!」 「何言ってるんですか! ユーリ、転びますから止まって下さい! じゃないと……お仕置きですよっ」 「やだっ、捕まえられるもんなら捕まえてみろー!」 「言いましたね!」 ユーリに渡された本を手にしたまま、クロゥとバスケスはベランダの手摺に凭れるように花畑のような中庭を見下ろした。 眼下をユーリとコンラートが駆け回っている。小さな分小回りが利くのか、花壇の間に張り巡らされた小道を、ユーリがくるくると飛び跳ねるように駆けていく。その後ろから、時折花壇を飛び越えて、コンラートが追い掛ける。 ………想像していた通り、ユーリの満面の笑顔は、朝の光にこの上ないほどよく似合う。 中庭を通りかかっていたメイドや使用人達は慣れているのか、2人の邪魔にならないように脇に避け、幸運にも行き会った楽しい光景を堪能しようと、笑いながら見物している。「陛下、がんばってー」というにぎやかで無責任な声が、いくつも中庭に響いた。 「………なあ、クロゥ」 バスケスが2人を見つめたまま声を上げた。 「何だ?」 「これって、報告書にするとしたらどう書く……?」 「コンラートは魔王と花畑の中で鬼ごっこをしてはしゃぎまわっていた。実に幸せそうな光景だった」 「……エレノア様やカーラ達が、信じると思うか?」 「魔術で頭をおかしくされたと思うのが関の山だな。………ああ、捕まえた」 コンラートがユーリを肩に担ぎ上げていた。 「下ろせ、下ろせ」と言いながら、頭を下にしたユーリがぽかぽかとコンラートの腰の辺りを叩いている。だがその顔は楽しくてたまらないと言いたげに、満面の笑みに輝いていた。そしてコンラートもまた、ユーリの腰をしっかり両手で抱き締めて、声を上げて笑っている。 「ダメですよ、ユーリ、離しません」 お仕置きですから。そう言って、コンラートはユーリを担ぎ上げたまま歩き出した。 暴れる、というより、肩の上ではしゃいでいる魔王をがっちりと抱き締めて、コンラートはそのままクロゥ達に背を向け、どこかに向かって歩き去っていった。端でその様子を見ていたメイドや使用人達が、連れ去られる(?)魔王に手を振っている。 「……………朝食にしてもらおう」 何となく力の抜けた声で、クロゥは2人の去った方向をじっと見つめる相棒に声を掛けた。 2時間後、本を投げ出して撃沈するクロゥと、その隣でソファを転げ回って爆笑しつつ、ページを捲るバスケスの姿が認められた。 「コンラッド、サンドイッチ作って!」 昼食を共に、と使いが来て、クロゥとバスケスは案内されるまま、前夜夕食をとった部屋に入った。 部屋にはすでに魔王とフォンヴォルテール卿、コンラート、フォンビーレフェルト卿、フォンクライスト卿、そしてムラタという、前回と同じ顔が揃っていた。 どこか疲れた顔のクロゥと、口元が変な風に弛んでいるバスケスの2人が席につき、食事が始まった途端、 ユーリがコンラートに向けて声を上げた。 「サンドイッチですね。じゃあ……先ずはポテトサラダを挟みましょうか」 「ハムとチーズも!」 はい、とにこやかに頷くコンラート。そんな2人を余所に、フォンクライスト卿はナプキンを噛んで引き裂かんばかりに手で引っ張っているし、フォンビーレフェルト卿も、握った先の割れたスプーンを不穏な様子で彷徨わせている。と思えば。 「午前中は放っておいて悪かったな」 無愛想な顔と口調とは裏腹に、フォンヴォルテール卿が親切に声を掛けてくれた。 「いいえ、とんでもありません。その……」 コホン、と咳払いして、クロゥは「さんどいっち」とやらを作るコンラートの手元を、わくわくとした目で見つめる魔王にちらりと視線を投げた。 「陛下、から、お勧めの本、というのをお借り致しましたので………まあ、たいくつすることはなく……」 途端、コンラートの手が止まった。剣呑な目つきで、じろりとクロゥを睨み付ける。 「………読むなと言ったのに」 「三分の一で挫折した。……俺は」 「俺は思いきり笑わせてもらったぜ!」まだ興奮しているらしいバスケスが、大声を上げる。「無事にシマロン王の懐に潜入できたコンラートが、やる気のあまり塔のてっぺんで踊りながら歌い出すって下りにゃあ、もう腹が捩れるかってくらい……って!」 いきなりバスケスが鼻を押えて呻いた。 テーブルに何かの栓か蓋のようなモノが転がる。 「バーちゃん、どうかした?」と首を傾げるユーリ、素知らぬ顔でパンにハムを挟んでいるコンラート。 クロゥは脱力する思いに、さりげなく視線を外した。 「ああ、『ウェラー卿の大冒険』の第1巻だよね、それ」 大賢者とかいう呼称を持つムラタが口を挟む。 「その後、ウェラー卿が蹴躓いて塔から転げ落ちて、でも偶然雪が積もってたおかげで助かったかと思えば、沈んで埋もれて、何一つ仕事をしないまま危うく凍死しそうになったところで、趣味の雪掻きに励んでた王女様にスコップ一丁で掘り出されるっていう、感動の出会いの場面はもう読んだ?」 ……誰がどこに感動するんだ? 「いやあ、まだそこまでは。……そっかあ、そういう出会いがあるのか! そいつは面白……がはっ!」 バスケスの顔に、皿がへばりついていた。いや違う。叩き付けられていた。一瞬しがみつくようにバスケスの顔を覆っていた皿が、ずるずると顔から胸にかけて滑り落ちていく。 「……う、うげ……」 衝撃と痛みに、バスケスが涙目になっている。……なるほど、確かに「泣いて」いる。 え? 何? と、そこでようやく異変に気づいたらしいユーリが顔を上げる、が。 「はい、ユーリ。特製サンドイッチ、できましたよ」 自分は全く関知しないと言いたげに、コンラートが穏やかな表情でにっこりとユーリに笑いかける。 「あ、ありがと、コンラッド!」 「いえいえ、はい、ユーリ」 色々と挟み込んで厚くなったパンを、ユーリの口元に持っていく。食べさせてやろうというのだろう。 だが。 うん! と頷いたユーリは、嬉しそうに手を差し出し、パンを自分の手で受け取った。そして、大きく口を空けて、ぱくんとかぶりつく。 パンを持っていたコンラートの両手が宙に浮いている。顔がきょとんとユーリを見ている。そしてたっぷり時間を空けてから、コンラートは何かを諦めたように手を引っ込めた。顔があからさまにがっかりしている。 ………心に傷を負ったユーリのため、罪悪感を抱えながら必死で愛情を注いでいる、はずだったよな。 クロゥは思わず疑惑の眼差しをコンラートに向けた。 どうも根本的に解釈を間違えているような気がする……。 明らかに暗くなったコンラートと対照的に、様子を変えたのがフォンビーレフェルト卿とフォンクライスト卿だった。ユーリの様子をじっと見つめて何やら確認すると、ほうっと息をつき、思い出したように食事を始める。両者の表情はあっという間に落ち着きを取り戻していた。 何がどうなっているのか、見ればムラタがくすくすと笑っている。 「午後からはどう過ごすつもりだ? 何か予定は立てているのか?」 場の雰囲気に区切りをつける様に、フォンヴォルテール卿がクロゥに声を掛けてきた。 「…あ、いいえ、特には。……でもできれば、剣の鍛錬をさせて頂きたいのですが」 「剣?」 「はい。船旅も長かったですし、身体が鈍っておりますので」 フォンヴォルテール卿が頷いた。 「グリエに言って、兵の教練場に案内させよう」 「……兄上」 隣から声を上げたのはフォンビーレフェルト卿だった。 じろりとクロゥ達を睨み付けて、それから兄に視線を向ける。 「この者達にどうしてそのような……。コンラートはもうこいつらにも大シマロンにも関わる気はないのですし、出ていかせるべきではありませんか?」 視線に気づいて顔を向けると、フォンビーレフェルト卿の言葉を聞いていたのか、ユーリがパンを手にしたまま、じっとこちらを向いていた。 「その事で、陛下に話がある」フォンヴォルテール卿が食事を中断して、ユーリに顔を向けた。「大シマロンもほぼ崩壊し、大陸に広大な領土を有する新たな国家体制が築かれつつある今、彼らとの友好をいかに築くか、我々は真剣に考えねばならないだろう。最初に何より重要なのは人の交流だが、もちろんコンラートをあちらに派遣する事は考えられない。だが、今こうして彼らの中枢部に近い2人が我が国に滞在している。この事実、そして機会を、我々は大切にせねばならないと思う。彼らに我が国、魔族の真実の姿をよく学んでもらい、両国の友好の掛け橋となってもらうべきだと私は考えるのだが」 「手っ取り早く言えば」コンラートが眉を顰めて兄を見た。「この2人をしばらく滞在させる、と言いたいのか? グウェン」 「陛下のお許しを頂けるならな」 宰相の言葉に、ずっと手にしたままのパンを皿の上に置き、あー、とユーリが小さく声を上げた。 「……うん……そうだよね、グウェンの言う通り、だ。あんな大きな国と友好条約を結べれば、世界平和もぐっと近づくし、どれだけ民も安心するか……」 うん、と頷くと、ユーリはにっこりと笑ってクロゥ達を真直ぐに見た。 「クーちゃんもバーちゃんも、しっかりこの国を見ていってよ! でもって、魔族と人間が仲良くなれるよう、これから力を貸して下さい!」 よろしくお願いします! そう言って、ぺこんと頭を下げるユーリ。これにはさすがにクロゥとバスケスも慌てた。「魔王」に頭を下げられ、「お願い」されるなど……。 「あ、いや……頭を上げてくれ、いや、下さい! その……っ」 「だから困るんだってばよお……」 クロゥの言葉に顔を上げ、にこっとあどけなく笑うユーリの美しさと愛らしさに、改めてクロゥとバスケスが言葉を詰まらせた。だがすぐに、がっくりと肩を落とし、この国に来てから何度目か分からなくなったため息を、今回も深々と吐き出した。 「…………俺達としても」クロゥがようやく声を発する。「魔族と人間が争う事がなくなり、本当の意味での友好を結ぶ事ができれば、それは素晴しい事だと考えています。少なくとも、魔族が言い伝えと全く違うのだと分かった今は、本気でそう思います。ですから、その力になれるなら、微力を尽くさせて頂きたい、と……思います。お言葉に甘えてしばらく滞在させて頂きますが、どうか、よろしくお願い致します」 神妙にそう言い、クロゥは魔王、それから厳しい眼差しのままのコンラート、うさんくさい表情を隠さないフォンビーレフェルト卿、真意をはかるように無表情で見つめるムラタ、心配そうに主を見つめるフォンクライスト卿らの顔をぐるりと見回し、それから頭を下げた。バスケスが慌てた様子でそれに倣う。 「うん! こっちこそよろしくね! 協力するから、クーちゃんもバーちゃんも、民とじっくり触れあって、本当の魔族の姿をあちらの、元大シマロンの人達にも伝えて下さい!」 真剣な眼差しと無防備なまでに開けっ広げなユーリの笑顔。これに接して頑なままでいられる者など存在するのだろうか。 瞬間、この国と、この王に対する複雑な思いを忘れ、クロゥとバスケスは敬意を込めて頭を下げた。 「………話も決まった事だし、食事を続けよう。せっかくの料理が冷めてしまうからな」 フォンヴォルテール卿がそう言って場を纏めてくれた。その言葉に合わせ、それぞれがパンや食器を手にし始める。 だが、それですっきり終わった気分にならない男が1人、いた。 その男は傍の魔王に複雑な視線を送り、口を開いた。 「……ユーリ、1つ確認したいのですが」 「何? コンラッド」 「先ほど口になさっていた……『クーちゃん、バーちゃん』というのは……何なんですか?」 スープを啜りかけていたバスケスの喉が、ぐふっと妙な音を立てる。 「ああそれ! おれがつけた呼び名だよ。こっちに来る途中でつけたんだ。呼びやすいし、可愛い感じがするし、今こうしてみると親しみもあっていい感じだよね! そう思わない?」 「ええ、そうですね。とてもいいセンスだと思いますよ」 にっこりと優しく笑いかけられて、ユーリも「えへへ」と嬉しそうに笑顔を返す。 「……本当に……」 コンラートの視線が、ユーリからゆっくりとクロゥ達に向けて動く。その静かな動きの間に、コンラートの表情がじわりと変化を始めた。 殺気にも似た光を湛えた、冷たい眼差しがクロゥとバスケスを同時に射る。コンラートの唇の両端がくっと上がったのを見た瞬間、クロゥは紛れもない冷気が背骨を駆け抜けていくのを感じた。隣でバスケスも、棒を呑んだ様に硬直している。 口に入れたままの芋の塊が、喉につかえてぴくりとも動かない。必死に飲み込もうとするのに、次第に呼吸すらできなくなってくる。 「……よかったな、2人とも。……ユーリに……『ちゃん』付けで呼んでもらえて……」 グリエだって呼ばれてるじゃないかっ! 叫びは胸の中だけで反響する。決死の思いで飲み込んだ芋が、胃ではなく、心臓に入っていったような気がする。苦しい。 フォンヴォルテール卿が、どこかげっそりという様子でため息をついた。 ムラタが、「いやー、見てて飽きないなー」と小さく呟くのがしっかりと耳に届いた。 ユーリはにこやかに「さんどいっち」をぱくついている。 やけっぱちな気分で水をがぶ飲みし、ホッと息をつく。 見れば、すでにコンラートは何もなかったかのように─ユーリの皿にあれこれ料理を取ってやったり、切り分けてやったりしながら─食事を続けている。 コンラート。 思わず、クロゥは胸の中で呼び掛けた。 ……呼んで欲しいのか? ……「ちゃん」づけで………。 教練場での鍛錬は、思いのほか楽しかった。 訓練に勤しむ兵の雰囲気は、彼らの砦のものと少しも変わりがない。 人間が混ざってきた、というので、その雰囲気も変わるかと思ったが、意外なほど2人は兵達から歓迎された。 「ウェラー卿と共に」「大シマロンと戦った」という2点で、むしろ尊敬の眼差しを向ける者も少なからずいるようにクロゥは感じていた。この際、2人が人間であるということは、問題にならないらしい。 我も我もと集まる兵士達に、存分に剣の相手を頼み、久し振りに気持のいい汗をかいた。 一息ついて、バスケスと2人、気分良く汗を拭っていると、最初は遠慮がちに、そしてすぐに熱意を込めて、2人は兵達に取り囲まれた。大シマロン崩壊の様子、そしてウェラー卿の英雄的な働きについて、教えて欲しいと熱い眼差しで訴えてくる。 そんな彼らと会話をして分かった事は、やはりコンラートが、魔族の兵士達に絶大な尊敬、ほとんど崇拝の念を向けられている、ということだった。 立派な方です。すばらしい方です。武人の鑑です。我らの英雄です。そう讃える若い兵士達は頬は、初々しいほどに紅潮している。……クロゥ達より数十年も長く生きているはずなのだが……。 「ご身分も地位も天と地ほどに離れているのに、すこしも奢り高ぶったりなさらず、俺達みたいな下っ端にも快く手ほどきして下さるんです」 そう、コンラートはそういう男だ。砦でもそうだった。そしてどんな男も、コンラートのためならと喜んで剣を捧げてくれたのだ。 「それに、閣下がおいでになると、しょっちゅう陛下が御見学にお見えになるんですよね」 「魔王……陛下、がここに……?」 ええ、と兵達が頷く。 「今はもう慣れましたけど、最初はびっくりして緊張して、手も足も動かなくなってしまいましたよ」 そこの、と兵の1人が広場の隅の木陰にあるベンチ─今、別の男が使っている─を指差した。 「いつもあそこにちょこんとお座りになって。時々コンラート閣下に手を振ったりなさって。そして、閣下と連れ立ってお戻りになる時は、いつも俺達に向かって『お邪魔しました。がんばってね』と笑顔で手を振って下さるんですよ。本当に、俺達にも、どんな下々の者に対しても、陛下は何一つ分け隔てなく笑顔で接して下さって……」 ユーリ陛下の御代をお護りする事のできる俺達は、本当に幸せ者です! 嘘もへつらいもない、心からの思い。 湧き上がる複雑な感情から目を背けるように、クロゥは魔王が使うというベンチに寝そべっている男に顔を向けた。 「……彼、グリエのことだが……」 「グリエ殿は、コンラート閣下の幼馴染みで、長く副官を勤めておいでだったんです。……コンラート閣下、それからフォンクライスト卿ギュンター閣下と並んで、眞魔国でも3本の指に入る剣の達人なんです!」 「そ、そうなのか……!?」 はい! と兵士達が一斉に頷く。 「すごい人ですよ、グリエ殿は。俺達と同じ下っ端兵士から始めて、でも混血だから、大変な苦労をしてきたらしいんですけど、今ではフォンヴォルテール卿はもちろん、魔王陛下からもそれはもう厚く信頼されてる人なんです。俺達にとっては、目標っていってもいい人ですね」 思わずまじまじと、ベンチでだらしなく寝そべるグリエを見つめるクロゥとバスケスに、兵の1人が「そういえば」と思い出したように口を開いた。 「確か、コンラート閣下が大シマロンにおいでの時に、グリエ殿は何度か大シマロンに潜入して、コンラート閣下と宰相閣下の繋ぎをなさったそうですよ」 え? と目を瞠いたクロゥの脳裏に、雷のように閃くものがあった。 ………そうだったのか! 初めてグリエを見た時、どこかで見た顔だと思った。 あれは、そう、砦でだ。 コンラートと親しく話をしている倹しい身なりの兵士がいた。あまりに自然体だったせいか、怪しいやつだとは思いもしなかった。確か……コンラートも問題ないと言っていたはずだ。 あの髪の色、あの雰囲気。思い出した。間違いない。 ……俺は、砦でグリエを見ている。 あの頃から、いや、事の最初から。確かにコンラートは祖国と繋がっていたのだ。 嵌っていくピースに、クロゥは重いため息をついた。 剣の鍛錬を終え、仕事があるというグリエに礼を言って分かれて、バスケスと共に城の回廊を歩いていると、思いもかけずコンラートとばったり顔を合わせた。 「……1人、なのか? コンラート」 「陛下は今、十貴族会議に御出席なさっておられる。護衛の必要はないので、今の内に雑用を片付けようと思ってな。……陛下もすっかり元に戻られて、もう安心だし」 ………顰められた眉も、白くなるほど握りしめられた拳も、全く別の感情を主張している様な気がするのは……気のせいか、コンラート? 「……ところで、教練場にいたのか?」 ふと思いついたように、コンラートが尋ねてきた。 「ああ。……ああいう場所はどこでも変わらんのだな。ここの兵達も気楽に相手をしてくれたし……久し振りに気持がよかった」 「結構いい兵隊が揃ってるじゃねえか。どいつもかなりの使い手ばっかりだったぜ」 バスケスの言葉に、年季が違う、とコンラートが苦笑した。 「それに、血盟城に詰める兵士はどれも厳選された者ばかりだ。農民上がりがほとんどの砦の兵と一緒にしてもらっては困る」 そりゃそうだろうけどよお……。バスケスがどこか不満げに、唇を突き出すようにして呟いた。 「……確かに俺達の兵は多くが土地を逐われた農民達だ」 ムッと湧き上がる不愉快な感情に、クロゥも思わず声を上げた。 「だが、皆新たな、平和な国を自分達の手で実現させようと、死に物狂いで戦っている! それはお前もよく知っているだろう、コンラート! お前の口から、そんな……皆をバカにしたような言葉は聞きたくない!」 「バカにしたつもりはない。事実を述べただけだ。だが、そう聞こえたのなら謝ろう。……クロゥ」 なんだ? とコンラートの顔を見返す。正面に立つ男の視線に厳しい光が灯った。 「ちょうどいい機会だから、確認しておきたい。お前が昼に言った言葉だ。……人間と魔族の友好を望んでいる、と。そのために、ここに滞在して魔族の真の姿を学び、人間達との掛け橋になる、と。……本気か?」 「本気か、とは……?」 ひやりとする気分で、クロゥは問い返した。 「本気で、魔族との友好を結ぶために働くつもりなのか、と聞いているんだ。……お前の魔族嫌いを、俺が忘れたとでも?」 「………俺が」こくりと唾を飲み込み、息を整えて、クロゥは口を開いた。「俺達が真実だと信じていた魔族についての言い伝えは、ほとんど全てがでたらめだった。たった二日だが、もう嫌になるほどそれは理解できた。魔族が人間と少しも変わらず、平和を求める種族だというなら、あえて争う必要はないはずだ。争うよりも、理解しあう努力をした方がいいに決まっている。……俺自身のこれまでの言動を振り返れば、お前が怪しむのも当然だと思うし、その道が困難であることも分かっている。だが……できるなら、力を尽くしたいと思っている。バスケスも、同じ意見だと思う。今となってはな……」 「あの村の連中は、いいやつばっかりだったしなあ」 子供達も可愛かったし、飯も美味かった。バスケスが何かを思い出すように、のんきな笑みを浮かべて視線を遠くに向けた。 「陛下を」コンラートの眼差しから、鋭さが消えない。「その場限り言葉で言い包め、欺くような真似をすれば、ただでは済まさない。……その時には、生きてこの国を出られるとは思うなよ」 「………コンラート!」 じゃあ、と彼らを置いてそのまま歩み去ろうとするコンラートに、クロゥは思わず大きな声を上げた。 2人に背を向けていたコンラートが、ちらりと横顔だけを覗かせる。 「何だ?」 「………そんなに……そんなにあの子供が大事か!? ……名君だ何だと大層な評判らしいが、それもお前やフォンヴォルテール卿がいるからこそだろう! あんな……簡単に壊れるような弱い心の、未熟な子供が! お前達がいなかったら、無能な王としてとうに玉座を逐われていたかもしれなかったそうじゃないかっ!」 たったそれだけ口にしただけで、荒々しく肩が上下する。隣にいる相棒が、緊張に強ばっているのが分かる。 コンラートがゆっくりと、身体を2人に向けた。 冷たく凍えた炎。 そんな相反する、だが質量すら感じる程に強烈な何かが、コンラートの全身から噴き上がる。クロゥは一瞬湧き上がった恐怖にゾッと背筋を凍らせた。 「……陛下の心は弱くなどない。ユーリは強い子だ。……だが、その強さすら挫けるほど、俺はあの人を傷つけたんだ……。この世の誰よりも、この世界そのものよりも大切なあの人を……。全てはあの人の、ユーリのためだったのに。なのに、俺は………。…………クロゥ」 ユーリは、真の王者だ。 コンラートの目が、確信の光に強く瞬く。 「ユーリこそ、世界をその手にするにふさわしい、偉大な王なんだ。確かに、今はまだ幼く未熟だ。しかし遠くない未来に必ず、この眞魔国だけではなく、人間の世界においても、ユーリは偉大な王として讃えられ崇められることになる」 俺はそう信じている。 それだけ言うと、コンラートはくるりと踵を返した。 「待て! コンラート!」 コンラートの歩みは止まらない。 「だったらどうして! お前は王位に就く事を拒んだんだ!? あのまま、皆に請われるまま王になれば、あの広大な領地を魔王に献上できたのに!」 そこでようやく足を止め、コンラートがふう、と息をついた。 「陛下がお望みにならないからに決まってるだろうが。陛下は人間を支配したいなどと、少しもお考えではない。陛下のお望みは、魔族と人間が対等に、友人として、共存共栄していくことだ。それが分かっているから、俺はシマロンの王位につくことはしなかった。……俺はな、クロゥ。もう二度と」 陛下の望まない事はしない。 クロゥは唇を噛み、今は冷静に自分達を見つめるコンラートを見返した。 「コン、ラート……」 何を、どう言えばいいのだろう。 「……結局、俺達がここへ来てからお前は一度も……皆の事を聞いてくれてない、な……」 「夕べ、グウェンと話をしたと聞いたが……?」 「ああ……。戦況も含めて、俺達の分かる限り具体的に申し上げた」 「だったら別に、俺が改めて聞く必要はないだろう」 コンラート! 自分の声が、悲鳴のように聞こえる。 「エレノアやカーラが……! それに、アリーやレイルやエストや……。お前を家族とも慕っていて、お前が帰ってきてくれると、自分達を大切に思ってくれてると信じてる皆の……っ!」 「悪いが」 ぶん殴りたくなるほど冷静な声が、きっぱりと溢れる言葉を遮った。 「俺の最も大切な人はユーリだ。ユーリ以外の存在など、正直俺にはどうでもいい」 コンラートを想って、それでも懸命に耐えて戦うカーラの姿が目に浮かぶ。 「だったら!」 思わず。クロゥはその言葉を口にした。 「魔王を殺すと言ったらどうするっ!? あの子供なら、俺の手でも簡単に殺せる! 魔王を殺されたくなかったら、俺達と共に皆の元へと俺が言ったら………!」 「その時には」 無気味なまでに静かな声が、クロゥの舌を凍らせた。 「逆に俺が、あの地の人間達を皆殺しにしよう。エレノアもカーラも全員な。長く指揮を取ってきたんだ。お前達の弱点など全て分かっている。兵を率い、1人残らず屠ってやろう。そして、それを最後までお前に見せてやる。お前を殺すのは、その後、一番最後だな。そうされたいなら、構わん、俺を脅迫してみろ」 「……やめてくれよ、コンラート」バスケスが狼狽えた声を上げる。「頼むから、そんな恐ろしい事を言うのは止めてくれよ……。クロゥだって本気じゃねえ。売り言葉に買い言葉で、つい口走っちまっただけなんだよお……」 おろおろと宥めるバスケスと、身体を震わせて立ち尽くすクロゥを見遣って、コンラートは再び言葉を継いだ。 「……これだけは言っておく。……ユーリは俺の全てだ。ユーリこそが、俺が護る世界そのものだ。ユーリがいてこそ、俺の世界は世界として存在するんだ。……この空も、空気も、水も、花も、そして人も! 世界がどうあろうと、ユーリがいなければそんなもの、俺には何の意味もない! ……ユーリのいない世界など、どうなろうと知ったことかっ!!」 歩み去る背を見つめて、クロゥががくがくと膝を震わせ、回廊にへたり込んだ。 「クロゥよお……」 バスケスの声が、ひどく遠い。 目の奥から、ぐうっと熱いものがこみ上げてくる。 ……それでも。 両目を手で押えて、流れ出ようとするものを懸命に堪えながら、クロゥは胸の中で呟いた。 それでも、お前が必要なんだと、一緒に帰って欲しいと言ったら………笑うか? コンラート………。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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