入ってくれ、と招き入れられたのは、見覚えのある宰相の執務室だった。 部屋の中はしっかりと灯が入れられ、隅々まで明るい。クロゥ達を招くため、というよりも、おそらくこの宰相殿が夕食後も執務に励むのは日常的なことなのだろう。 またも「片づけものがあるから、適当に座って待っていてくれ」と言われて、クロゥとバスケスは今度はまごつくことなく、それこそ適当な椅子を引いて座った。 執務席につき、書類を数枚取り出した宰相フォンヴォルテール卿は、すぐに何やら書き込みを始めた。 その姿を見るともなしに見ていると、間もなく扉が開かれ、メイドがお茶のワゴンを押して入ってくる。 目の前でお茶がカップに注がれ、クロゥとバスケスの前に置かれる。同時に小さな焼き菓子を盛った皿も添えられた。それからメイドは宰相閣下の元にワゴンを押していき、同じようにお茶とお菓子を机の隅に置いた。その時、ふと顔を上げたフォンヴォルテール卿が、二言三言メイドに声を掛けた。頷いたメイドが、壁に並ぶ棚の一つから何かを取り出し、ワゴンに乗せて再びクロゥ達の前にやってくる。そしてその何か─小振りの酒壜らしきものを菓子皿の傍にそっと置いた。 「すぐさま酒を酌み交わすというのも何だからな」 低音美声が、わずかに離れた執務机から真直ぐ耳に届く。 「その酒をスプーンで1、2杯ほど落とすと、実に良い香りがする。この国の特産品だから、味わったことはないだろう。よかったら試してくれ」 書類から目を上げないままそう言われ、クロゥは「どうも」とその壜を取り上げた。 メイドが去り、扉が閉まるかすかな音を聞きながら、クロゥは酒をカップに落とした。ついで、バスケスも同じように、だが量は多めにお茶の中にそれを注いだ。 「…………こいつぁいけるぜ」 嬉しそうにバスケスが声をあげる。クロゥも漂う香りを充分に味わって、それから頷いた。 お茶独特の渋みのある芳香に、琥珀色の酒の香りが混ざりあい、かつて味わったことのない芳醇な香りが鼻腔を満たす。 ふと見ると、バスケスが酒をスプーンに注いでそのまま口に入れ、舌の上で転がすように味わってから、再びお茶のカップを傾けている。 「おもしれえな。こいつ、生のままより茶と混ぜた方が香りも味も良いような気がするぜ。けどまあ俺は」 混ぜる必要もねえ、そのまんまで美味い酒を貰った方が嬉しいけどよ。 クロゥの方を向いてニカッと笑う相棒に苦笑しながら、クロゥはゆっくりとお茶のカップを揺らした。 紅と琥珀を混ぜたような美しい色合いの透明な液体が、部屋の灯を受けて揺れながら輝いている。それを一口、静かに喉の奥に流し込めば、深い味わいの中の酒精が血流に乗って身体の隅々に行き渡る。 強ばりがゆったりと溶けていくような感覚に、クロゥはほう、と息をついた。 怒濤の会見の後、グリエを伴い、メイドに案内されて客室に入ってようやく、クロゥは自分達が魔王の城の客として遇されていることに気づいた。 よもやこんなことになるとは、朝、船から降りた時には想像もしなかった。……思えば長い一日だった。 エレノアやカーラ達が聞いたら……本気にしないだろうな。 魔王本人に出迎えられ(……ちょっと意味が違うが)、魔族の国の実体を見せつけられ、魔王の居城に入り、コンラートに再会し、思いもよらない話を聞かされ、こんなに可愛くて愛らしくて、ちょっと間違ってやしないか? な魔王と、お前コンラートじゃないだろう、なコンラートの姿に驚き、初めて出会う魔族達、特に魔族でありながら聖職者という、見かけだけは少年に説教され、おもちゃにされ、コンラートの兄にどうやら同情され……ここにいる。 たった一日で、だ。 「………疲れた……」 グリエが去った後、椅子に坐り込んでぐったりため息をついても、誰からも責められないと思う。 部屋は広かった。 クロゥが腰を下ろしているのは、部屋の真ん中を閉めるどっしりと大きなテーブル─塗りも彫りも豪華な─を囲む、皮張りのソファの一つだった。傍にはふかふかの、これまた麗々しい刺繍が施されたクッションが並んでいる。そのテーブルと椅子を挟むように、両の壁際に天蓋付きの大きなベッドがある。この部屋は本来独り部屋なのだそうだが、一緒の方がいいだろうとベッドをもう一つ用意してくれたのだ。それでも部屋にはたっぷりと余裕がある。 部屋の隅には更に、大きな、透かし彫りの紋様が美しい衣装箪笥やもの入れが備えられ、別の棚には酒とグラス、当然水指しも並んでいる。必要なものがあれば、紐を引いて合図して頂ければすぐに伺います、とメイドが言っていた。 ベッドの頭の方向は、宰相閣下の執務室同様、一面飾り格子とガラスで覆われていた。ただその中央付近は、両開きの扉になっているらしい。どうやらその向こうにはベランダもあるようだ。朝起きたら、そこから朝陽を眺めてみようか。 「クロゥ! すげえぞ! ちょっと見てみろよ!」 相棒が喜々として視界に飛び込んできた。元気な男だ。 ほれほれと無理矢理立たされて、連れていかれたのは部屋の隅にある扉の奥だった。 「浴室だとよ! ほら、これ見ろよ!」 石壁がむき出しの新生共和軍のものとは似ても似つかない、広々と明るい、見るからに清潔な浴槽と洗面台が備わった小部屋があった。 「さっきグリエに教わったんだ。ほら、これ、信じられるかよ!?」 浴槽の傍に筒のようなものが2本、浴槽に向かって突き出ている。その根元辺りの丸い取っ手をバスケスが回すと、何と水が迸るように溢れ出てきた。 「こっちは水が出てくるんだ。でもって、こっちは何と湯だぜ! なっ、とんでもねえだろう!? 熱い湯がひと捻りででてくるんだぜ!? 洗面台も同じだそうだ。……厨房で湯を湧かして運んでこなくても、いつでも好きな時に水も湯も使えるんだ」 すげえな。 しみじみとバスケスが言う。 「ああ、すごいな……」 魔族は人間を憎み、人間を羨んでいる。魔族には永遠に手に入れられぬものを人間は生まれながらに持っているからだ。 善き光に満ちた世界、を。 そうやって、魔族の真の姿から目を遠ざけてきたこれまでの歴史を思うと、どことなく切なさを感じる。 「まあ、とにかく」 クロゥは相棒に視線を向けて小さく微笑んだ。 「せっかくだ、夕食前にざっと埃だけでも落とそう」 そして夕食は。 ほとんど予想通りの展開だった。 執務室とは違って、シャンデリアや絨緞はもちろん、カーテン1枚、蝋燭1本に至るまで豪華に設えられた部屋。華麗な紋様に彩られた大きな円卓。その上を占める、豪勢な料理を盛ったたくさんの皿。そして花々。 「はい、ユーリ」 にっこりと目尻を下げて笑うコンラートに応えて、ユーリ、いや、魔王、が「あーん」と口を大きく開く。 差し出されたスプーンをぱふんっと銜え、口に入れた料理をんぐんぐと咀嚼してこくんっと飲み込む。 「じゃあ、次は何がいいかな? 野菜も食べないとね」 「青色にんじん、嫌いー」 「だーめ。甘くグラッセにしてもらったから、食べてごらん。ほら、美味しいよ?」 しっとりと煮詰めた青い塊をフォークで刺すと、コンラートはわずかだけ齧り取った。 うん、甘い。そう言って齧りかけのにんじんを向けると、ユーリはいそいそと顔を近づけ、飛びつくようにぱくん、とかぶりついた。 「美味しいでしょ?」 コンラートが笑顔のまま、もぐもぐとにんじんを味わうユーリの顔を覗き込む。 ユーリが嬉しそうな表情で、大きくこっくりと頷いた。 「………今度は、コンラッドに食べさせてあげる!」 にんじんを飲み込んだユーリが言ったかと思うと、切り分けてあった肉の塊にフォークをぐさりと突き刺した。そしてそれをずいっとコンラートに向ける。 「はい、どーぞっ」 「ありがとうございます」 思わず、ほう、とため息が溢れでる。 ふいに、がしがしがしと、不穏な音が耳に響いて、クロゥはその音の出所に顔を向けた。 フォンビーレフェルト卿が肉にフォークを何度も何度も突き刺している。厚く切って焼いた肉は、すでに原形を留めていない。そしてその隣では、フォンクライスト卿が静かに、だが何かにとり憑かれたようにパンを両手で千切り続けていた。皿には、粉々になったパンくずの山ができている。 テーブルの反対側には、この2人とは対照的に平然とした顔で食事を続けるフォンヴォルテール卿とムラタ(大賢者というのだそうだ)がいた。 クロゥはバスケスとさり気なく視線を交わし、それから殊更平然とした顔を作って、食事を続けた。 もう充分驚いた。驚くことに、いい加減うんざりしてきた。 だからこの先何を見ても、聞いても、仰天したり呆然としたりして、ムラタ達を面白がらせることはしないでおこう、と2人は話し合い、決めていたのだ。というか、もうこれ以上衝撃的な事態にならないで欲しいと願っていた。 「こちらの料理は舌に合うか?」 フォンヴォルテール卿が声を掛けてきた。この宰相閣下は誰より(切ないことに、コンラートよりも遥かに)自分達のことを気に掛けてくれているらしい。クロゥはその気遣いに応えるように笑みを浮かべた。 「ええ、大丈夫です。というより、これほど美味い料理を口にしたのは久し振りです。……正直、こちらでこれほどまでに持て成して頂けるとは思ってもみなかったので……驚いています」 頷きながら、フォンヴォルテール卿が給仕に向かって合図を送った。背後から近づいてきた給仕の1人が、手にしていた酒をクロゥとバスケスのグラスに注いでいく。 こいつぁどうもと嬉しそうに声をあげると、バスケスがさっそくグラスを空け、お代りを催促した。 「……弟が世話になったのだからな。持て成すのは当然のことだろう」 だがその弟君は、俺達のことなど見向きもしてませんが。 フォンヴォルテール卿の言葉に、クロゥは心の中で言い返した。 16歳の少年としては異常なほどに幼くふるまう魔王とコンラートとの、まるでおままごとの様な食事の風景は、まだ延々と続いている………。 「さぞ驚いただろうな」 声にハッと顔をあげれば、残していた仕事を終えたらしいフォンヴォルテール卿がテーブルに向かって歩み寄ってきていた。 手には別の酒壜とグラスを3つ、器用に持っている。 いつの間にかお茶は冷め、せっかくの芳醇な香りも薄らいでいた。 クロゥはそっとカップをソーサーに戻した。 「陛下の様子を見て、どう思った……?」 「……魔族の精神はゆっくりと成長すると聞いていますが……あれは……」 「あれはそういうものではない。ユーリ…陛下は、本来は、まあ、年齢相応の至極普通の少年、だ」 では、どうして。 フォンヴォルテール卿は無言のまま、クロゥとバスケスの前にグラスを置き、酒をゆっくりと注いだ。 赤い酒が、灯を反射して煌めく。 「陛下があのようになったのは、これで2度目だ。最初は………コンラートがお前達と袂を分かって帰国した直後、だった」 宰相閣下の言葉に、「それは……」と応えかけて、クロゥは押し黙った。 フォンヴォルテール卿はゆっくりと目を閉じている。彼の中で、時間がゆっくりと遡っていく、そんな根拠のない思いが浮かんで、クロゥもバスケスもその邪魔をしないようにグラスに手を伸ばした。 「……私達は、いや、私は、お前達人間を……滅ぼすつもりでいた」 ぐふ、とバスケスが酒を詰まらせ、吹き出しそうになるのを危うく堪えている。クロゥもぴくりと肩が揺れたものの、内側の動揺を抑えるようにゆっくりグラスをテーブルに戻した。 「お前達は我ら魔族の存在を決して受け入れようとしないし、悪魔と見なして忌み嫌っている。過去を鑑みても、我々が人間に好意を抱く理由は皆無だ。当然、人間が我らの滅亡を望んだとしても、座して滅びに向かうなど、到底認められない。……かつてのシマロンとの戦争は痛み分けに終わった。だが、年月を経て、大シマロンは世界統一戦争とやらを画策し、再び魔族の殲滅を謀っていた。そして私達もまた、時間を掛けて国力を養い、軍備を増強し、対人間への準備を怠りなく進めていた。何としてでも勝利を掴み、二度と魔族に対して戦を仕掛けようなどと考えないよう、人間達の鼻っ柱を叩き潰す。できうる限りの人間達を滅ぼす。その準備がほぼ整いかけた時だった。………前魔王陛下が退位を宣言され、新たな魔王が、ユーリが即位したのだ」 遠い昔を思い出すように視線を宙に向けると、ため息をついてフォンヴォルテール卿はグラスを持ち上げ、口に運んだ。 「お前達が知っているかどうか分からんが、我が眞魔国では王位は世襲ではない」 え!? とクロゥとバスケスが揃って目を丸くする。 「……世襲じゃないって……で、では、一体どうやって王を決めるのですか!?」 「四千年前に我が国を創建なされた初代魔王、眞王陛下と呼ばれる存在が廟に祀られている。……先ほど猊下も仰せになっていたが、この方、すでに魂だけになって存在するこの方が、我ら魔族のいわゆる「神」だ。廟には眞王陛下のお声を聞く巫女が仕えており、誰が魔王になるかはこの巫女の託宣によって決せられる」 ごくり、と喉が鳴った。 「そして、選ばれたのがユーリだ。……帝王教育はおろか、王とは何たるかも、玉座に座る意味も、何も知らないまさしくただの子供だった。この大切な時期に冗談ではないと憤ったが……すぐに考えを改めた」 宰相が、くすりと自嘲気味に笑う。 「何といっても、あの貴色、我ら魔族にとって最も尊く、美しい黒を纏い、加えてあの美貌だ。子供とはいえ、あれが笑みを浮かべて民に手を振れば、中味はなくとも充分訴えるものがあるだろう。民の心をまとめるには役に立つ。いつもにこにこと笑わせておいて玉座に据えておこう。それでこの子供の存在価値は十分だ。そう思った。……だが、あれは大人しく飾り物になってくれるような子供ではなかった」 『絶対に戦争はしない! おれが王になって、魔族を変えてやる!』 「戴冠式もまだだというのに、あれはそう宣言した。誰も本気にしなかった。当然のことだ。人間と魔族は憎みあい、争いあうもの。時至れば、雌雄を決せずにはおられぬもの。それが、誰1人疑うもののない現実、そしてそう遠くない未来に起こる事実でもあったからだ。……ユーリのあの美貌と性格に惹かれるものは多かったが、それでも人間との共存共栄を信じる魔族などほとんど皆無だった。私も、ヴォルフラムも、それから何くれとなくユーリの世話をしていたギュンターも、その点については一致していた。人間は敵だ、と。相手が滅ぶか、自分達が滅ぶか、我々にはその道しかないのだと。例え我々が平和を望み手を差し伸べたとしても、人間の方はそれを魔族の弱腰と見、これぞ好機と攻め入ってくるだろう。魔族と人間が理解し合える時など、永遠に来はしないのだ、と。……だが1人だけ。この国で、新しい魔王陛下のその思いを真剣に受け止め、その夢を共にし、夢の実現のため、そして道を誤れば自滅しかねない新たな若い王のため、命を賭けると誓った者が1人だけ、いた」 フォンヴォルテール卿が、視線を静かに2人に向けた。 「それが、コンラートだ」 クロゥの隣で、バスケスが大きく喉を鳴らす音がした。 「自分達のことで手一杯だったお前達はよく知らないだろうが、今や我が眞魔国と相互平和条約や友好通商条約を結ぶ人間の国は、世界貿易で近年一気に国力を増してきた新興の都市国家を中心に、20を越えている。今年はさらに増えるだろう。来年はまた更に。……港で、見てきたものがあるはずだが……?」 「大変な数の交易事務所が設けられていました。港があれだけ整備されているのも、船の往来がかなり多いということですね」 そうだ、と宰相が頷いた。 「貿易が盛んになったことが切っ掛けとなって、我が国の経済、そして産業はすさまじい勢いで発展を続けている。当初は陛下の意向を嘲笑っていた各地の貴族や領主達も、経済の発展と国民の生活向上がいかに税収を飛躍的に伸ばすかという現実を目の当たりにして、一気に考えを改めた。文字通り、現金な話だがな。だがまあ、税金は搾り取って増やすものではなく、育てることで自然に増えるのだと気づいたことは悪いことではない。そして今や、各都市、各街、各村が、いかにして独自の特産品を開発し、そしてそれをいかに売り出すかを真剣に考えている。……人間との共存、そして友好が、平和だけではなく、全体として国そのものを発展させていくのだということに、我々も気づいたのだ」 「あの村みてぇにだな」 バスケスがうんうんと頷く。 「つまりそれは……」クロゥは口調に不思議さを滲ませて宰相を見上げた。「ユーリ……陛、下、の夢が叶った、もしくは、叶いつつある、ということですね。でも実際どうやって……」 「ユーリがやった」 「……え?」 簡単な答えに、クロゥは目を瞬いた。 「全ての切っ掛けはユーリ、陛下自身なのだ。……あれが……体当たりで人間達にぶつかっていき、理解者を増やしていったのだ。例えば、お前達も会ったヒスクライフ。あの男も、魔族への意識を変えることになった最初のきっかけは、娘の命を陛下に救われたことだった」 「……そんなことが……」 「そうやって、陛下は魔王という身分を振りかざすこともなく、というか、まあはっきりいって、自分の立場も弁えず、国内のおいては市井の民に混じり、人間の国においても迷うことなく人々の中に飛び込み、理解者を増やしていった。子供ならではの純粋な思いを力に変えて、我々と人間達の意識を変えていったのだ。そして……」 そのユーリの隣には、必ずコンラートがいた。 「多くの交易船、貿易事務所、我が国の通りを身の危険を感じる事なく当たり前に歩き、当たり前に暮らす人間達。底辺の暮しを強いられていた過去の影など、欠片も残らぬ豊かな村と特産品。平和と繁栄を享受する民。……その全て、現在のこの国の姿の大本に存在するのが……陛下と、そしてコンラートなのだ。全ては、2人の思い、2人が手を取り合って共に思い描いた夢から始まった……」 ふ、と小さく息をついて、フォンヴォルテール卿は手ずからグラスに酒を追加し、それからクロゥとバスケスのグラスにも酒を注いだ。ど、どうも、と慌ててバスケスが頭を下げる。 「だから……陛下が受けた衝撃はとてつもなく大きなものだった」 続けられた言葉に、クロゥとバスケスが揃って首を傾げる。 「2人は常に共にいた。常に……寄り添っていた、と言ってもいい。ユーリの、コンラートへの信頼は絶大なものだった。……そのコンラートが、己を見限り、国を裏切って大シマロンに出奔したと知らされた時」 「しかしそれはユーリ、陛下のために……」 「ユーリには、何も知らせていなかった」 瞬間、フォンヴォルテール卿が発したその言葉が何を意味するのか、クロゥは理解できなかった。しかし。 「…………知らせなかった……? つまりそれは……ユーリ陛下、は、コンラートがなぜ大シマロンへ向かったか、それが……自分のためだったと……知らなかった、と?」 そうだ、とフォンヴォルテール卿が頷く。 「私とコンラートとで、そう決めた。陛下には……何も言わずにおこうと」 「ど、どうしてっ!?」 たまらずバスケスが声を荒げる。信頼していた人物に、突如理由も分からず去られては、それも、裏切られ、切り捨てられる様に去られては、傷つくなと言う方がおかしい。 「国のためだ。……魔王陛下がコンラート出奔の理由を知っているとなれば、それはそのまま大シマロン反乱の背後に我が国があるという解釈に繋がる。だが、陛下が何もご存知なければ、それはベラールの血を引いたコンラートの、勝手な暴走ということになる。事が失敗した時にはそれで……」 「詭弁だ!」 それは姑息なごまかしに過ぎない。ただユーリを苦しめるだけの。 フォンヴォルテール卿が苦し気に眉を顰めた。 「……全ての責任は……私とコンラートの2人で取るつもりだった」 沈黙の中で、ゆっくりと時間が過ぎていった。 フォンヴォルテール卿も、クロゥも、バスケスも、次に何を言うべきか、言って良いのか、何も分からなくなってしまったかのように、ただ視線をそれぞれ別の方向に向けたまま、口を閉ざしていた。 だがやがて、己の中で一つ区切りをつけたかのように、フォンヴォルテール卿が口を開いた。 「コンラートが帰国した時」 クロゥとバスケスが、視線を正面に向ける。 「ユーリは……陛下は心からお喜びになった。出奔の理由を黙っていたことを責めることもなく、ただ国のために命を賭けたことに対し、皆の前で礼を述べられ、そして……よく無事で帰ってきてくれたと、もうどこにも行かないでくれと、涙ながらにそう仰せになった。コンラートも、改めて剣を捧げ、生涯変わらぬ忠誠を誓った。全てはそれで終わったと、私もコンラートも、そしてユーリ自身も…信じた。だが……ほんの数日も経たぬ内にユーリに変化が現れた。まるで……幼児のようにふるまい、コンラートに甘え始めたのだ」 今日、彼らの前で見せたように。 「訳が分からず、ただ戸惑うばかりだった私達に、明確な答えを齎してくれたのは猊下だ。猊下はこう仰せになった。人の心というものは、決して一塊でできているものではないのだ、と……」 ユーリの心の奥底、ユーリ本人も気づかない無意識の底で、コンラートの「裏切り」に傷つき、癒えない傷から延々と血を流し、その痛みに身を捩りながら、「子供」が独り泣き叫んでいる。 「コンラートが戻り、陛下に笑顔が戻り、もう何もかも元通りになる。皆がそう思い、陛下自身もそう信じた。だが……幼い少年の心についた傷は、そう簡単に癒えるものではなかったのだ。真実を知らされなかった怒り、悔しさ、離れていた間の様々な辛い思い出、そしてまた、コンラートが再び己の元を去るのではないかという不安と恐怖……。ユーリがもう大丈夫だと思い込めば思い込むほど、笑顔でいればいるほど、その傷はユーリの無意識の底で広がっていたのだな。そしてついにそれが弾けた」 ふう、と、フォンヴォルテール卿が小さく息をついた。それからほんの少し表情と口調を変えて、話が続けられた。 「あれは……何といったか……とにかくやり直しなのだそうだ」 「やり直し?」 意味が分からず、クロゥはそのまま問い返した。フォンヴォルテール卿が頷く。 「心を幼い子供に戻して、思う存分コンラートに甘え、そしてコンラートに甘やかされ愛されることで、心についた傷を癒す。傷をなかったことにしてやり直す、のだそうだ。……ああ、質問はしないでくれ。私にもよく分からんのだからな。………ともかく、コンラートに誰より愛され、大切にされていることを実感することが重要なのだそうだ。今回もそうすることによって、不安や恐怖を一掃しようとしている、らしい」 「不安や恐怖?」 「お前達に、コンラートを奪われるのではないかという恐怖、だな」 「では………ああなったのは、俺達のせいだと!?」 声をあげるクロゥに対し、フォンヴォルテール卿が即座に大きく頷いた。 「お前達の来る時期が悪かったという事もあるが、直接的にはその通りだ。だから、この先どれだけ待とうと、コンラートがお前達と親しくしてみせたり、自分から話しかけたりなどは絶対にしないだろう」 「…っ、そ、それは……!」 何の関係があるのだと、思わず腰を浮かせたクロゥの動きを、フォンヴォルテール卿の視線が制した。 「ユーリを、ある意味、心を病むほど傷つけたのだという事実に、コンラートが苦しまなかったとでも思うのか?」 思わず、クロゥは言葉を呑んでコンラートの兄を真正面から見つめた。 「国のため、いや、何よりユーリのため、命を賭けて敵の懐中に飛び込み、たった1人で1つの国家を転覆させるほどの任務を遂行した。ただただユーリ陛下の御ために。だがそれが原因で、当の陛下をそれほどまでに傷つけてしまった……。その策と作戦行動そのものに対して、我々は何一つ悔やんではいない。あれを為したからこそ、今の平和があるのだ。だが……私とコンラートは、重大な過ちを1つ、犯してしまった」 フォンヴォルテール卿が、コンラートの兄が、静かに目を閉ざした。 「陛下の思いに賛同する家臣がどれだけ数を増やそうとも、コンラートに比肩する側近が、どれほど増えて陛下の回りを固めようと、陛下にとってコンラートは、コンラート1人しか存在しない。誰もコンラートには成り代れない。……私達はそれを失念していたのだ。……コンラートは、自分が裏切り者の汚名を着たまま命を落としても、陛下を支える手は多くあるから大丈夫だと自分に言い聞かせていた。それどころか、陛下が自分を憎んでくれれば、自分が死んだと聞いても心を乱されることはないだろうとまで考えた。それが……どれほど陛下の心を傷つけるか想像もしなかった……いや、想像するまいとしていた」 愚かだった、と、フォンヴォルテール卿が小さく呟いた。 「一国の宰相として、臣下として考えるなら、我々の判断に誤りはない。今でもそう信じている。だが、それでも私達は……コンラートは、己の行いを心の底から後悔したのだ。だからあの時、コンラートは心に誓った。もう二度と、何が起ころうとも陛下のお側を離れたりはしない。陛下を傷つけるものは、それが自分自身であっても許さない。陛下のため、その心と身体、そして笑顔を護るために人生の全てを捧げる、とな。今また自分のために陛下があのようになったとあれば、コンラートは陛下の胸の内に巣くう不安や恐怖を払拭するために全力を尽くすだろう。全力で、まあ、つまり、陛下を猫可愛がりに可愛がって、甘やかすだろう。何者が現れようとも、コンラートの心を占め、その視界に入る事ができるのは陛下ただ1人だけだということを、陛下自身が心底納得するまで、な」 分かってもらえるか? 宰相の問いかけに、クロゥもバスケスも悔し気に唇を噛んだ。 「つまり、こういう事ですか…?」クロゥが低い言葉を押し出すように言った。「俺達がいる限り、ユーリ、陛下はあのままで、陛下があのままの状態である限り、コンラートは俺達を見向きもしないし、俺達の話を聞く事もしないだろう、と…?」 「以前と同じならな。だが……猊下の読みによると、どうやら今回の状態はさほどのものではないらしい。一晩経てば落ち着くとのお言葉だ。この後の事は、明日の様子を見てから考えても良いだろう。……お前達も、このままでは帰れまい。しばらく待ってくれれば、コンラートとゆっくり話をする時と場所を用意しよう」 「……俺達に協力して頂けるのですか?」 「話もさせぬまま追い返すような非礼はしない、と言っているのだ。誤解するな。……これだけは言っておく。陛下のことがなくとも、私はこの国の宰相として、いいや、コンラートの兄として、弟を二度と、ただ1人で戦場に向かわせるような真似はしない。それがどれほどこの国にとって必要なことであろうとも、だ。……忘れないでもらいたい。コンラートは私の、大切な弟だ。その弟にあえて汚名を着せ、死地ともいうべき敵の直中に送り込んだ事を、私もまた心底後悔しているのだ。………かつて私は力が足りず、ただ混血であるというその一点故に、悲惨な状況に追いやられていくコンラートを救う事ができなかった。だが今は違う。もう……あのような危険をコンラートに犯させるつもりはない。もう二度と、決して、だ……!」 強い眼差しが、クロゥとバスケスを射る。物理的な圧力すら感じるその眼光の鋭さに、不本意ながらクロゥはたじろぎ、視線を伏せた。視界の隅に、膝の上で小刻みに震える相棒の拳があった。 その時、ふとガラスが触れあう澄んだ音がして、クロゥは垂れていた顔を上げた。 フォンヴォルテール卿が2人のグラスに新たな酒を注いでいる。 「……大体のことは話した。疲れているだろうが、もしよければ、あちらの状況を教えてもらえないだろうか? 我々としても、大陸最大の領土を持つ大シマロンが倒れた後には、できるだけ我々魔族に友好的な体制が敷かれることを望んでいる。そのためにできる協力があれば、検討を約束しよう。もちろん、コンラートの派遣は除いて、だが……?」 テーブルの上を滑らせるように、グラスが2人の前に差し出される。 グラスの中で、かすかに揺れる酒をじっと見つめてから、クロゥは顔を上げ、魔族の宰相と真直ぐに視線を合わせた。 「………コンラートの事は……まだ納得してはいません。俺達にとって、あの国にとって、コンラートの力が絶対に必要なのです。魔王、陛下、や、閣下のお気持ちは理解できる…と思いますが、それでも……」 「コンラートの思いが、もうとうにお前達から離れていてもか?」 一瞬瞳を閉ざし、だがそれでも、と己を励まして、クロゥはしっかりと目を開いた。 「コンラートと話をさせて下さい。とことんあいつを話をして……それから……。とにかく。それまで俺は、俺達は、あいつを諦める事をしたくありません」 うん! と隣で力強く頷く相棒がいる。 「俺達にも、コンラートと共に過してきた時間があるんです。あなた方からすれば、短い、取るに足らない時間かも知れない。それでも、俺達にとっては忘れ難い大切な日々です。あの日々が、コンラートと共に過してきた日々があるから、あの日々を信じているから……俺達は、諦めません……!」 しばし、じっと互いを見つめ合う。やがてフォンヴォルテール卿が肩からすっと力が抜いたかと思うと、「そうか」と小さく呟いて目を閉じた。 その様子に、クロゥとバスケスもホッと息をついた。お互いに、言うべき事は言った。 「我々の現状をお話させて頂きます。ただその前に、1つ伺いたいことがあります」 「何だ?」 フォンヴォルテール卿が目を開け、背筋を伸ばす。 「人間との平和、友好、そして共存について、閣下はどのようにお考えですか? 宰相としてではなく、かつては人間を滅ぼそうとお考えだったフォンヴォルテール卿ご自身のお考えをお聞かせ下さい」 クロゥの言葉に、フォンヴォルテール卿が唇の端を軽く上げて微笑んだ。皮肉の欠片もない、魅力的な男の笑みだった。 「この世界は、我ら魔族がいて、人間がいて、他にも様々な生き物がいて、それでこそ成り立っているのだと今では考えている。……何故に戦を起こすつもりだったかといえば、結局は生きたいからだ。魔族の民を生き延びさせたいからだ。だがそのために民の血を流すのでは、本末転倒というものだろう。民の血を一滴たりと流す事なく、平和を国に齎す。それこそが我々のすべき事なのだと、私もようやく気づく事ができた。そのために争いを避け、人間との間に理解を深め、友情を育むことこそが重要なのだとな。それはある意味、戦争を起こすよりも遥かに困難に満ちた道だ。だがそれでも……人間との対等な共存共栄を目指すという陛下の夢を、私も共に見、共に叶えたいと、今では心からそう考えている」 ゆっくりと、一語一語を噛み締めるように発せられたフォンヴォルテール卿の言葉を受け止めて、クロゥとバスケスは大きく頷いた。 「ありがとうございます」 クロゥは礼を述べると、「では」と口調を改めた。 クロゥとバスケスの、眞魔国最初の一日。 それはまだ終わる事なく、ゆっくりと夜は更けていく。 朝。 クロゥが目覚めた時、陽は思いのほか高く登っているらしく、カーテンを引き忘れた窓から燦々と陽射しが部屋に射し込んでいた。 初めての国に来て寝過ごした自分に驚きながら身体を起こすと、ほとんど同時に浴室の扉が開いた。 「よう、目が覚めたかあ? お前も湯を浴びて来いよ。思う存分湯が使えるってのは堪らねえな。クセになりそうだぜ」 上着を裸の上半身に引っ掛け、髪を拭きながら相棒がやってくる。 「……ああ、そのようだな……」 半分眠った身体を引きずるように、クロゥも浴室に向かった。 クロゥがすっきりとした気分で浴室を出ると、バスケスの姿は見えず、ベランダに続くガラス戸が開いていた。 タオルを肩に掛け、ガラス窓に近づくと、ベランダに相棒が立っているのが見えた。 「……花畑だぜ、クロゥ」 振り返らないまま、バスケスが言う。クロゥもベランダに出て、相棒の隣に立った。 朝の光がいくつもの透明な帯となって、彼らの前に降り注いでいた。 彼らの部屋は2階。ベランダは城の広大な中庭、らしき広場を臨んでいる。そしてその広場は、一面色とりどりの満開の花に覆われていた。金色に霞む輝きの中で、そよ風に揺れる花々。 広場の中心には大きな噴水があり、勢い良く吹き上げる透明な水と、大理石の彫刻に降り注いでは弾ける細かな飛沫が、陽射しを反射してきらきらと輝いていた。 美しい光景に、2人は言葉もなくただ見入っていた。 風に乗って運ばれてきた澄んだ水の香りと花の甘い香りが、心地よく鼻腔をくすぐる。 花畑、ではなく、花壇なのだろう。角度のせいかよく見えないが、間に小道があるらしく、彼らが見ている間も何人ものメイドや使用人達が忙し気に行き来していた。 絢爛たる色彩と光の中で、地味で質素な服装の彼らの姿は不思議なほど邪魔にならない。それどころか、一幅の絵画のように、しっくりと似合っている。 おそらくは。クロゥは思った。彼らの顔が皆、新しい一日の始まりに生き生きと輝いているからだ。 一面の花々や勢いよく弾ける水、そして明るい陽射しと同じく、その表情に、足取りに、全身に、健康に朝を迎え、また希望に満ちた一日を始めることができる喜びが溢れているからだ。 多くの人間達がいまだ知らない、多くの人間達がすでに得る事の叶わなくなった、魔族の国のこれが朝。 一日の始まりだ。 「……今日も……良い天気、だな」 「ああ、そうだな」 どことなくやるせないバスケスの声に気づかない振りをして、クロゥは頷いた。 「朝食にしてもらおう。しっかり食わなきゃな。……開き直る事にしたんだったろ?」 だな。バスケスが力強く頷いて、ニカッといつもの笑顔を見せた。 どういう結果が待っていようと、自分達は自分達の目的を忘れずに、やれることをやり抜こう。 結局それしかないのだと、フォンヴォルテール卿の執務室を出てから2人で話し合った。 ここで挫けては、彼らの帰りを待つ仲間に申し訳がなさすぎる。 たとえコンラートがどんな答えを出そうとも。そして……あの少年魔王が、彼らの存在にどれほど傷つこうとも。 自分達の為そうとすることが、もしも罪であるのなら、いつか必ずその報いを受けるだろう。 その覚悟は決めたから。 ぽん、と相棒の二の腕を叩いて笑みを交わすと、2人は踵を返し、ベランダから部屋に入っ………。 「…………っ!?」 「………う……?」 2人並んで部屋に足を踏み入れた姿のまま、揃って硬直してしまった。 部屋の扉が片方だけ開いている。 閉まっているもう片方の扉から、人の顔が覗いている。 真横になった顔。 その両目から上だけが。 瞬きもせずに、じいっと2人を見つめている。 誰かと問う必要もない。 漆黒の大きくつぶらな瞳。漆黒の髪。 「……………何をしておられる……?」 朝からちょっと疲れた気分になってしまった。 大きな目が、ばちくりと瞬きしたと思ったら、横に傾いていた顔がすっと扉の影に隠れた。 だが次の瞬間。 「おっはよーっ!」 片手をぶんっ、と振り上げて、黒衣の少年がぴょこんと飛び出してきた。 「くーちゃん、ばーちゃん、2人ともよく眠れた?」 朝一番。魔王御自らのお出ましだった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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