「……魔王の、ゆめ……?」 再び、クロゥはその言葉を呟いた。 「それを…叶えるために、大シマロンの宮廷に……潜入した……?」 そうだ、とコンラートが頷く。 「大シマロンの圧政に苦しむ民、を、解放し……あの地に……安寧を齎すため……」 「結果としてそうなればいいと思っていた。人間も魔族も、全ての民が飢えや戦に苦しむ事なく、平和に暮らせるようにというのも、魔王陛下のお望みだからな」 バンッと机を叩く音と同時に、バスケスが跳ねる様に立ち上がった。 「魔王の夢、魔王の望み……だと……!?」 ぎりぎりと、歯を噛み締める音と同時に、バスケスの目が怒りに燃えて瞠かれる。 「魔王がそんなもの、望んでるわけがねえだろうがっ!! コンラート、あんたはっ! 混血で生まれたために、この国でさんざんな目にあってきたんじゃなかったのかっ!? だからあんたは、魔王も、この国も捨てて、魔族の血を捨てて、人間の、ベラール王家の末裔として生きる道を選んだんじゃねえのかよっ!? ベラールを騙るヤツらを追い払って、あんたが本当なら王になるべき国の民を救うためにっ! ……あんたが……あんたが忠誠を誓う相手は魔王じゃないっ。あんたの、シマロンの民だろうがっ!!」 いいや。 バスケスの叫びの余韻が残るその場に、コンラートの全く動じない、冷静な声が響いた。 「俺の忠誠は、魔王陛下ただお一人だけのものだ。この思いは、あの方が玉座に登られる以前から、ただの一度として俺の中で揺らいだ事はない。お前達と共に、大シマロンと戦って戦場を駆け回っていたあの時、どの瞬間においても、忘れた事はない。………あの遠い地で、いつもどんな時でも、陛下のことが頭から離れた事はなかった。考えない時はなかった。今、陛下はどうなされているだろうか。何を思っておられるだろうか。お健やかでいらっしゃるだろうか、そして……今、この時、笑顔でお過ごしだろうか、と」 「………コン、ラート………」 それから、もう一つ。コンラートが構わず言葉を続ける。 「護るべき民というなら、俺にとってそれはシマロンの民ではない。眞魔国の、この国の民だ。……クロゥ、バスケス。本当はな、ベラールの血筋など、元々俺にとって何の意味もないんだ。なぜなら俺は」 コンラートが顔を上げ、視線を逸らす事なく、まっすぐに2人を見る。 「俺は魔族だ。魔族である事に誇りを持って生きている」 喘ぐような、不規則な呼吸の音が、ひどく耳障りだ。 だがすぐに、クロゥはそれが自分の呼吸する音だと気づいた。 バスケスが、どすんと音を立てて椅子に腰を落とした。呆然と立っていたクロゥも、のろのろと椅子に座り直した。 「…………俺達を、騙してたのかよ……」バスケスが呻く。「俺達の……エレノア様やカーラやアリーやレイルや……皆の思いを……裏切るのかよ……」 その言葉に、コンラートは初めて、顔を背ける様に目を閉じた。だが。 「僕としては、そういう言い方を許す訳にはいかないね」 「猊下……?」 ハッと目を開けて、コンラートがムラタを凝視する。その顔を、どこか非難するようにムラタが見返した。 「そうやって彼らに責められれば、君の気が済むのかい? ウェラー卿。君が罪悪感を持つ必要はないと、今僕が言ったばかりだというのに」 コンラートが困ったように視線を落とす。その様子を、兄であるフォンヴォルテール卿、師匠であるフォンクライスト卿、そして幼馴染みのグリエがじっと見つめている。 「彼らの思いに応えることはできない。だからせめて恨んで、罵ってくれればいい。……ったく、一体何度同じようなことを繰り返せば気が済むんだい、君は。そんなことは君の自虐的な満足感を満たすだけで、何の解決策にもなりはしないんだよ。それどころか、彼らが君を恨んで、その挙げ句、せっかく倒した大シマロンの後に、魔族に敵対する政府が樹立されたらどうするつもりだい?」 容赦のないムラタの言葉に、心なしかコンラートの頬が赤くなったような気がする。 クロゥとバスケスは、ぱちぱちと目を瞬いてコンラートを見た。 「コンラート…?」 わずかな希望がクロゥの胸を明るくした。 「じゃ、じゃあ、やっぱりさっきの言葉はデタラメ……」 「君たちにも言っておこう」 コンラートはやはり自分達のコンラートだったのかと、一瞬弾んだ胸の鼓動が逆の意味でどきりと鳴る。 「今、ウェラー卿が口にした事は、何一つとして間違っていない。嘘でもデタラメでもない。彼の言葉は真実だ。だけど……あまりにも言葉が足りない。許し難いほどにね。しかしまあ、それは後からちゃんと聞けば良い。さて」 ムラタが姿勢をあらため、クロゥとバスケスに向かって真直ぐ顔を向けた。 「間違ってもらっては困るよ。ウェラー卿はこの眞魔国の民、魔王陛下の忠実な臣下だ。だから魔王陛下とこの国のため、戦争をせずに大シマロンを倒すため、あの国に潜入したんだ。そして、やはり大シマロンを敵とし、倒したいと願っていた君たちと共闘して反乱軍を組織した。聞くけど、君達はウェラー卿が魔王陛下の臣下だと聞いていたら、彼に協力したかい? 共に手を携えて、あの国に立ち向かったかい? できなかったはずだよ。君たちの魔族に対するバカげた偏見は根深かったのだしね。どれほどウェラー卿が命懸けで大シマロン打倒を叫んでも、君たちは彼を信じなかったはずだ。だから彼は、彼の中に流れるベラールの血だけを前に押し出すことにしたんだよ。……ウェラー卿は君たちの戦力を利用した。同時に、君たちはウェラー卿の血筋を能力を利用した。大シマロン打倒という同じ志を持つウェラー卿と君たちは、お互いを利用しあったんだ。でもそのお陰で、反乱は大成功したじゃないか。少なくとも、ウェラー卿がいる間は。君たちの目的は、彼と共に戦う事で、立派に果たされたじゃないか。立場は違っても、同じ目的を持つもの同士が共に得た勝利だ。……それでも彼は、君たちを騙したと責められなくてはならないのか?」 ぎゅっと唇を噛んだまま動かない2人を見据えて、ムラタが再び口を開く。 「それから。君たちはウェラー卿がシマロンの王になるのが当然のように考えているらしいけれど、彼はそんなことを一度でも口にした事があったかい? よく思い返してみるんだね。それは皆、君たちが勝手に描いた、君たちの夢だよ。むしろね、君たちがウェラー卿に対して自分達を『騙した』とか『裏切った』と罵って良いのは、ウェラー卿が君たちの望み通り、シマロンの王座についたその時さ。なぜなら、彼がシマロンの王になるということは、大シマロンが支配したあの広大な土地が、そっくりそのまま眞魔国の領土になるということだからね。そうだろう? 魔王陛下の忠実な臣下であるウェラー卿が支配する土地は、当然魔王陛下に捧げられる。彼が君たちの思いを無視して、国を勝手に魔族の手に譲り渡してしまうその行為こそ、裏切り行為じゃないのか? でも彼はそれをしなかった。一方的に人間を支配することは、魔王陛下の望みではないし、ウェラー卿もそんなことは望んでいない。君たちの国は、その地で生れ育った君たちが護っていかなくては意味がないんだ。ウェラー卿は、大シマロンを倒すという目的を果たし、結果として民を救い、土地を一握りとして我がものにすることなく、全て君たちに委ねた。……さあ、どうだい? それでも彼は君たちを裏切ったのか? ……ウェラー卿の一番大切なものが自分達じゃなかったからといって、拗ねてもらっちゃ困るね」 「……しかし、猊下」 ここで意外にも反論の声を上げたのは、当のコンラートだった。 「彼らをそのような思い込みに誘導したのは俺の……」 「君も間違えるな、ウェラー卿」 ムラタの声は、コンラートにより厳しかった。 「己の行為を貶めるのは、君の、魔王陛下とこの国への忠誠心を貶める事、そしてそれはそのまま、魔王陛下を冒涜することになると知るべきだ」 「誤解しないで下さい、猊下」コンラートが再び反論する。「俺は、俺自身の決断と行動を貶めるつもりなどありません! ……後悔する事があるとすれば、ただ1点、あの人を傷つけてしまった、それだけです。それ以外に、あのシマロンでの日々で悔やむ事などありません。俺は魔王陛下の臣として、なすべきことをしてきたと、今彼らに対しても胸を張って言う事ができます」 コンラートの毅然とした声に、ムラタがちらりと視線を上げる。 「そう。ならいい」 ふ、とムラタが小さく息をついた。 「……悪かったね、ウェラー卿。僕も、らしくなく興奮したようだ。………実は少々心配でね。彼の、ことが……」 ムラタの言葉に、コンラート、フォンヴォルテール卿、フォンクライスト卿、そしてヨザックがハッと視線を向ける。 「……猊下、それは……」 コンラートが低く問いかける声に、ムラタがうん、と頷く。 「この2人の来る時期が……悪すぎたね。ただでさえ精神状態が不安定なのに……。君を自分から引き離し、見知らぬ場所、それも戦場へ連れ去ってしまおうとする者達がやってくる。その報告を受けた時、僕もその場にいたんだが……。ありありと……見えたんだ。彼が、また君を失ってしまう不安と恐怖に、一気に飲み込まれてしまう様子がね。……僕としては、万一君が彼らに説得されてしまったらどうしようと、悩まずにはいられなかったんだよ」 「まさか! そのようなこと、絶対にありません!」 ならいいんだが。そう呟いて、ムラタは視線をグリエに向けた。 「で? ヨザック。道中、どうだった?」 はい、とグリエが答える。 「この2人に対しては、まあ、対抗意識バリバリって感じでしたが……お元気で、いつもながらやんちゃな感じでいらっしゃいましたよ。ただその……雰囲気、なんですけどー」 うん、とムラタが頷く。 「話しておいでのことは、いつも通りでした。人間の魔族への偏見について彼らに話しておいでの時も、いつものように熱血してましたね。ヴォルフラム閣下とのやり取りも普段通りです。ただ何となく、本当に何となくなんですけど………言葉の端々や仕種が、その、妙に幼い感じがした、というか……」 最後の一言で、ムラタが瞑目し、コンラートがハッと目を瞠き、フォンヴォルテール卿とフォンクライスト卿が鋭く息を吸った。 「猊下!」 コンラートがムラタに向かって声を上げる。 「あり得るね」 ムラタが、長いため息と共に頷く。 いつの間にかすっかり無視されてしまったクロゥとバスケスは、だが口を挟む余地もみつからないまま、ただ呆気に取られて目の前の魔族達を見つめていた。 しばらくは、彼らが一体何の話をしているのかさっぱり分からなかった。 だがここに至ってようやく、彼らの話題の主が誰であるかだけは分かった。 ユーリ。 コンラートの名付け子で、家族としてコンラート達と共に暮らしている混血の、まさしく少年。 だが、彼のことが、今この場でどういう意味があって語られているのかがさっぱり理解できない。 ………確かに子供っぽいとは思ったが……? クロゥとバスケスは、お互いそっと怪訝な顔を見合わせて、それから改めて彼らの会話に耳を傾けた。 「………そうなることで、君を取り戻した実感が得られることを、彼の心はもう知ってしまっているからね。不安と恐怖を払拭するために、再びそうなる可能性がないとは言えないね。まして今回は、自分達がどれだけ親密な関係かを見せつけたい相手がいる」 コンラートは複雑な表情で視線を泳がせ、その兄は額に手を当てて深く息をつき、師匠は「またあの日々が……」と肩を落とした。 「猊下、その場合の対処は……」 「前と同じ。手を出すな、口を出すな、したいようにさせておけ。ウェラー卿は……分かってるね?」 はい、とコンラートが頷く。その声と雰囲気が、何やら一気に気合いの籠ったものになったことを、クロゥは不思議なものを見る思いで見遣った。 「見せつけたいといえば」グリエが思い出したように声を上げた。「さっき隊長にも話してたんですけど、坊っちゃんが城の中にお入りになる時、こいつらに捨て台詞を残していったんですよね」 「捨て台詞? どんな?」 「ええ。……えーと、コンラッドは絶対に渡さない、って」 「それくらいは言うだろう」 フォンヴォルテール卿が口を挟む。 「その後があるんです。最後に一声。『コンラッドは、俺のものだ!』 と」 「………………」 「………………」 「………………」 ウェラー卿ウェラー卿。 ムラタが手をひらひらと振る。 「顔のパーツが下に落ちてきてるから」 ハッと顎の辺りに手を当てて、コンラートがぱたぱたと自分の鼻や口を確かめる様に押えている。 ………何か今、あり得ないものを見たような気がする………。 「まあ、とにかく」ムラタがふう、と息をつきながら声を発した。「可哀想だと思うけど、この2人にはなるべく早くこの国を出て……」 その時、「失礼致します!」という声と共に、部屋の扉が開かれた。衛兵が入ってくる。 「魔王陛下がお出でましになられました!」 一拍の間をおいて。 「………げえぇっ!!?」 バスケスが文字通り飛び上がり、椅子にぶつかったことも気づかない様子で背後に飛び退る。 複数の、椅子が倒れる耳障りな音がクロゥの鼓膜に突き刺さった。 そしてクロゥもまた。 一瞬で沸騰した血が、足下から脳天に向かって一気に吹き上がるような感覚を覚えていた。 くわっと身体が熱を持った、かと思うと、次の瞬間、ぞくりと背筋が凍り付く。 魔王が。 全ての人間の敵。邪悪の根源。忌むべきものの象徴。闇の創り主。 伝説など嘘っぱちだと。眞魔国は闇の国などではないと。魔族は魔物でも悪魔でもないと。 一日に満たないこの短い旅の間に、自分はしっかりと理解したはずだったのに。 「魔王」も、お伽話のような化け物ではないのだろうと、自然に思える様になったはずだったのに。 「魔王がくる」。その一言で、理性はあっさりと霧散し、20年以上に渡って信じ切ってきた「常識」と、そこから育てられた「恐怖」が一気に全身と、そして魂を支配する。 魔王が。 来る。 平然とした顔で、コンラート、ムラタ、フォンヴォルテール卿、フォンクライスト卿、グリエが立ち上がる。彼らの王を迎えるために。 クロゥは自分が恐怖に震えているという事実にさらに恐怖した。 無意識に椅子から立ち上がり、逃げ場を求める様によろよろと後退る。 「……ク、クロゥ……」 二の腕にしっかりと、まるで溺れる子供のようにしがみつく相棒の手。 彼もまた、幼い頃から魂に埋め込まれた恐怖に怯えている。 部屋の扉が大きく開かれ、2人の衛兵が揃って敬礼する。彼らの王を迎えるために。 魔王が、来る。 「………あ、あそこから入ってくるのか? 魔王が、あそこから?」 震えるバスケスの声。 「入ってこれるのか? な、なあ、クロゥ、なあ、魔王ってのはすげえでかいんだろう? あんなとこから入って来れるのか? 火を吐くんだろう? 腕が何本もあるっていってたよなあ? もしかして俺達を喰いにきたんじゃねえのか? 人間の臭いがするって……だから、俺達をエサにするために来るんじゃねえのか? なあ、なあ、クロゥ……」 ほとんど錯乱しているような声。クロゥの二の腕を掴むその手が、がくがくと震えている。 だがクロゥもまた、歯の根が合わないような恐怖に、逃げる事ができないほど身体を硬直させていた。 扉のすぐ外に人の気配がする。入ってくる。 一瞬視界を過った「黒」に、クロゥは思わず目をきつく閉じた。 扉の空いた空間全てを埋める、巨大な魔物の姿が脳裏に浮かぶ。 浮かんだその姿にすら耐え切れず、クロゥは再び開けたくない目を開いた。 ………天井近くに向けていた視界に……映るものはない。だが人の気配はする。 視線を、ちょっとだけ下げてみた。 もうちょっと下げてみた。 と。 扉を通り、ずんずんずんと威勢良く歩いてくる人物がいる。 「…………………え……?」 「……ありゃ……?」 耳元で、相棒の間の抜けた声。 黒髪。黒一色の衣装。ムラタが言っていたように、おそらく瞳も黒いのだろう。 「陛下」 どこかうっとりとした声で、フォンクライスト卿が頭を下げる。 「……………う、うそだろ、おい……」 囁くようなバスケスの声。だがそれはすぐに雄叫びのような声に変わった。 「冗談じゃねえぞっ、おいっ、嘘だろ、まさかー………っ!!」 黒を全身に纏った人物がふいに立ち止まったかと思うと、くるっと彼らの方を向いた。 視線が、紛れもなく黒い瞳が、真直ぐにクロゥとバスケスを射る。 「俺が魔王だ! 悪いかっ、ばーろーっ!!」 ………ユーリだった。 顔中を口にして怒鳴ったかと思うと、ユーリは腰に手を当ててふんぞり返った。 小柄で華奢なのと、あまりにも可愛らしすぎるのとで、偉そうにも怖そうにも全く見えない。毛も柔らかな子猫が、一生懸命踏ん張っているような微笑ましさしか感じない。……当人はいかにも怖い顔、らしきものを作ってがんばっているが。 「……うそだろぉ……」バスケスがうわ言のように呟く。「だってよお、お前、ユーリ……」 「バスケス!」 鋭い声が飛んだ。バスケスがびくんっと背筋を伸ばす。 「それから、クロゥも」 コンラートが、瞳にほとんど殺気ともいえる物騒な光を湛えて2人を睨み据えている。……こちらの方が、よっぱど怖い。 「我が眞魔国、第27代魔王、ユーリ陛下にあらせられる。……無礼は許さん」 魔王? ユーリが? そんなバカな………。 呆然と見つめるクロゥとバスケスに何を思ったのか、ユーリはじっと2人を見つめると、突如顔を顰め、べえーっと舌を突き出した。が。 「…っ、ふぎゃっ!」 次の瞬間、ユーリ、いや、魔王(本当か?)は、頭を抱えていきなり床にしゃがみ込んだ。 見れば、すぐ傍で、宰相フォンヴォルテール卿が拳を握って主を上から睨み据えている。 「バカ者!」 低音美声の怒鳴り声は、胸にも腹にもどしんと響く。頭を抱えてしゃがんだままの魔王、が、ぴくん、と震える。 ……もしかして。 クロゥは呆然と考えた。 もしかして、魔王が、臣下に脳天を拳固で殴られ、た……? 「遠方から訪れた客人に対して、それが魔王の態度か!? 王の自覚を持てと、何千万回繰り返せば理解するのだ、お前の頭は!」 「グ、グウェン! 何も陛下の頭を……」 「そうですよ、グウェンダル! こともあろうに陛下の御頭に! もしもの……」 「黙れっ!」 宰相の怒りが、弟と同僚に向く。 「甘やかすのもいい加減にしろ! そもそも、魔王が夜中に城を抜け出していいと思っているのか!? ……それから! お前も、自分の立場というものを理解しているのか!? ヴォルフラム!!」 宰相閣下がバッと振り返った先、扉から入ってすぐの所に。 今の今まで、さっぱりその存在に気づかなかったが。 フォンビーレフェルト卿が直立不動で顔を引きつらせていた。 コンラートのものともフォンヴォルテール卿のものとも違う真っ青な軍服に身を包み、兄の怒りを受けて顔を火照らせている。 「………も、申し訳、ありません……兄上……」 しかし! 何かを訴えようと、フォンビーレフェルト卿が決然と顔を上げた時。 ふひゃ、あ……。 何とも可愛い、というか、間が抜けてる、というか……声がした。 全員の視線が、今はぺたりと床に坐り込む魔王─ユーリに集まった。 なぜか。つい先ほどまで頭を押えていた両手が、口に当てられている。 「………陛下……?」 コンラートの声に、口を押えて項垂れていたユーリが顔を上げた。涙目だ。 「……い、いひゃい……」 押えた指の間から、寂しがりの子猫のような頼りない声がもれる。 即座にコンラートが駆け寄ると、傍に膝をついた。 「陛下? どうされました?」 「………いひゃい………ほんやっろ……」 もしかして。コンラートがユーリの顔を覗き込む。 「舌、噛んだ……?」 こくこく、と小さな頭が上下に振られる。 見せて。優しく囁くように声を掛けると、コンラートはユーリの手をそっと包んで口元から外させた。 ユーリの、小さなピンク色の舌がちろっと現れる。 「ああ…」コンラートの眉が顰められる。「血が滲んでる」 「何ですって!?」 突如かん高い声を上げたのは、フォンクライスト卿だった。コンラートとユーリの様子を何故か食い入るように見つめてしまっていたクロゥは、吃驚して顔を上げた。 フォンクライスト卿の女神のように(男だが)優美な顔に、驚愕と恐怖が貼り付いている。 一声叫んだかと思うと、彼ははばたばたと両手を無駄に振り回し、長い足をもつれさせるように扉に向けて突進していった。 「ギーゼラを呼びなさい! ギーゼラをっ! へっ、陛下の可愛らしいお舌が……!」 ………自分の美しさというものを、もうちょっと自覚した方がいいんじゃないかな、この人は。というか、「おした」って何だ、「おした」って。「お」を付ければ良いってもんじゃないだろ。 何となく、思考が逃避傾向にあるようだ。 クロゥは隣で呆然としているバスケスの、ぽかんと開いた口にため息をついてから、視線を戻した。 「いい加減にせんかっ、ギュンター!」 宰相閣下の声が飛ぶ。 「そんな傷、舐めれば治る!」 全くだ。クロゥはもちろん、ほとんど反射的にバスケスも、思わず納得して頷いたその時。 「……ほんりゃっほ………んっ」 ユーリが、コンラートの袖に縋り付き、瞳を閉じて、ピンク色の小さな舌を傍の男に差し出していた。 「………………」 「………………」 「………………」 沈黙が部屋を覆う。 コンラートは目を瞠いたまま固まっている。 動かないコンラートに焦れたのか、ユーリは目を開けると男を見上げ、ぱちぱちと瞬きし、小首を傾げ、それからほんの少し伸び上がるように顔を近付けると、また「んっ」と可愛い声を上げて舌を伸ばした。 「……これはアレだね」ムラタの声。「ウェラー卿に、『な・め・て・』と言ってるワケだね」 ………そんな解説していらない。というか、何だ、その無気味な声音は。 と、見てる間に。 すっと、コンラートが動いた。 ゆっくりと、ユーリに顔を近付けていく。 唇が薄く開く。 もう間もなく、後、ほんのちょっとで………。 「やめんかっ、こらーっっ!!」 フォンビーレフェルト卿の絶叫に、空気がびりびりと鳴った。 「なし崩しにっ、何をするつもりだ、コンラートぉ!!」 「……ち」 「ち、じゃなーいっ!!」 その時、クロゥの視界の隅で、ムラタが何やら合図した。それを受けてか、グリエがため息をつきながら肩を竦めると、コンラートに今にも掴み掛かりそうなフォンビーレフェルト卿に近づいた。 「失礼、閣下」 一声掛けたと思った次の瞬間、グリエはフォンビーレフェルト卿を羽交い締めにして、ずりずりとコンラート達から引き離していく。 「…っ、な、何をする、ヨザック!? 離せ、無礼者っ、僕はユーリの貞操を護ら……うぐんぐ」 無理矢理口を押さえ付け、そのままグリエはフォンビーレフェルト卿を兄宰相に手渡した。フォンヴォルテール卿がげんなりした顔で弟を受け取り、まだ叫び足りなさそうなフォンビーレフェルト卿の耳に何やら囁く。 「………ほんりゃっと……?」 今の一幕に気づいていなかったのか、ユーリがまたも小首を傾げて、不思議そうにコンラートを見上げている。 その様子に苦笑を浮かべて、コンラートはユーリの頭を愛し気に撫でた。 「ちょっと邪魔が入っちゃったから……後でね」 部屋の隅で青い軍服が暴れている、が、兄とグリエに阻まれて飛び出して来れない。 コンラートをじーっと見つめていたユーリは、ふと何かに気づいたようにハッと表情を変え、それから視線をクロゥとバスケスの2人に向けた。 零れそうな大きな黒い瞳を真直ぐに向けられて、クロゥの胸が恐怖とは全く違う感覚にどきりと鳴った。 「コンラッド!」 つい今し方までの舌足らずな声音は何だったんだと問いたくなるような、きっぱりとした声でユーリがコンラートの胸の辺りを掴んだ。 「キャッチボールしよう! コンラッド!」 え? とコンラートが目を瞬く。 「陛下、でももう外は……」 「まだ大丈夫! ちゃんとボールも見えるから! 中庭なら灯もあるしっ! ……ここにいたらダメだ、コンラッド! おれと一緒に行こう!」 必死の形相で訴えるユーリ。 じっとその顔を間近で見つめていたコンラートが、微笑みと共に頷いた。 「そうですね。今日は全然できませんでしたし。夕食前にすこし運動しますか」 うん! ユーリが破顔して頷く。 「で! キャッチボールが終わったらあ……」 「すぐに夕食ですよ」 「一緒だよね?」 「もちろん、陛下」 「ごはんが終わったら、お風呂に入る!」 「今日は遠出をしましたし、ゆっくりと疲れをとって下さいね」 「一緒に入ってくれる?」 「喜んで、陛下」 「身体、洗って?」 「もちろん。俺が全部洗って差し上げます、陛下」 「おれも、コンラッドの背中、流してあげる!」 「ありがとうございます、陛下」 「お風呂から上がったら、ミルク飲みたい! あっためた方がいい?」 「まだ夜は少し冷えますし、その方がいいですね。蜂蜜を入れましょう」 「ふーってしてくれる?」 「はい、陛下」 「それからベッドに入ってぇ……今夜はね、おれがコンラッドに本を読んであげる! 『ウェラー卿の大冒険』の最新刊!」 「それはちょっと御遠慮したいですね、陛下」 「だめだめ。でもって、本を読み終わったら……寝ようね。コンラッド、今夜は朝までずっと一緒にいて?」 「畏まりました、陛下」 「おれが寝ちゃったからって、どっかに行ったらダメだぞ?」 「もちろんです、陛下」 「朝まで、おれと一緒にベッドの中にいなくちゃダメ!」 「ちゃんとお側にいますから、安心して下さい、陛下」 「で、朝になって起きたら、ロードワークして……。それから後も、ずーっと一緒にいないとダメなんだからな!」 「ずっと、お側から離れたりしません。大丈夫ですよ、陛下」 「コンラッド」 「はい、陛下」 「陛下ゆーな。さっきからずーっと陛下ばっかし言って。おしおきするぞ!」 「お仕置きですか? それは怖いですね。お手柔らかにお願いします、ユーリ」 よし、と頷いて、ユーリが両手を万歳するようにコンラートに向けて伸ばした。 にっこりと笑みを浮かべて、コンラートはユーリの脇に手を差し入れた。そしてそのまま立ち上がり、ユーリを、まるで幼い子供にするように抱き上げた。 「じゃあ、中庭に急ぎましょうね。もうすぐ暗くなりますし」 そのまま、コンラートは誰に断るでもなく、大股で扉に向かった。 「開けろ!」と命じる言葉と同時に、外から衛兵の手によって扉が開かれる。魔王を抱き上げたコンラートは、まっすぐ廊下に向かった。 扉を潜るその瞬間。それまでコンラートの首に両腕を巻き付け、首元に頬をすり寄せていたユーリが、コンラートの肩ごし、クロゥ達に鋭い視線を向けた。 べーっ。 思いきり舌を突き出す。そしてその顔─憎たらしい顔なのに、何ともいえず愛らしい─のまま、コンラートと共に扉の向こうに消えた。 扉が閉まる音の余韻が消えても、部屋の中ではしばらく何の動きもなかった。ただ複雑な色合いの混じった沈黙が続く。だがやがて。 「………まあ、何だね」 今回も、最初に口火を切ったのはムラタだった。その目はクロゥとバスケスに向けられている。……どことなく、哀れみの籠った色を浮かべて。 「君たちも、積もる話をしたいだろうが……しばらくは、まあ、我慢するんだね」 「てゆーか」次の声はグリエだった。「隊長の頭の中から、今こいつらのコトなんぞ綺麗さっぱり消えちまってますから」 「だね」 くっそーっ!! いきなり、部屋の隅から雄叫びが上がった。フォンビーレフェルト卿だ。憤懣やる方ないといった様子で、壁を蹴っている。 「うるさいぞ、ヴォルフラム。みっともない真似をするな」 眉間の皺を深くして、顳かみをくりくりと擦りながらフォンヴォルテール卿が弟を嗜める。 「………やはりああなったか……」 「スイッチを入れたのは君だけどもね、フォンヴォルテール卿」 「……………………」 何だと? ムラタの言葉に、かなり長い間を置いてから、フォンヴォルテール卿が不穏な声を上げた。 「僕のみるところ、今日一日、少々危うかったとしても、彼は自分を保っていたように思うね。でも、君に頭をゴンッとやられた瞬間にね、スイッチが入ったんだろうな。ウェラー卿と彼らが一緒にいることで、焦りが高じた事もあるだろうけど。………まあ、気にしなくてもいいよ。どうやら前回とは様相が異なるようだ」 「そっ、それはどういうことでございますか!? 猊下!」 フォンクライスト卿が半泣きで身を乗り出す。……顔中が妙に濡れてる気がするが、涙だけだろうか……? 「以前は、傷ついた心を癒すために自分をあの状態に追い込んだ。でも今回は違うね。確かに、元々不安定な精神状態だったところへ、ウェラー卿を失う不安と恐怖が重なったのが直接の原因だろうけれど、でも何よりも彼は………見せつけたいんだね。……実は、彼と少し前に話してて気づいたんだけど、彼の不安がこれほど強いのは、大シマロンでウェラー卿と共に戦ってきた人間達が、彼にとって全く見知らぬ人々だという事実が大きな理由なんだよね。どんな土地でウェラー卿が過してきたのかも知らないし、その人間達が一体どれだけウェラー卿と親しかったのか、ウェラー卿とどんな日々を過してきたのかも、具体的には何一つとして知らない。想像もできない。だから不安だし、必死なんだね。その人間達の象徴ともいえるこの2人」 ムラタの視線が、すっとクロゥとバスケスに向けられた。 「ウェラー卿の副官として、常に側にいたこの2人に、しっかりと自分達の絆を見せつけて、間に入り込む事なんかできないと思わせたい。でも、お行儀良くしてちゃ、それもなかなかできないしねえ」 ムラタがくすっと笑った。 「だから大丈夫。たぶん、今夜一晩たっぷり甘えれば、明日には大分落ち着くんじゃないかな。少なくとも以前のようなことにはならないよ。後は……この2人が、ウェラー卿を連れ戻す事はすっぱり諦めた、さようなら、といなくなってくれれば、もうそれできれいに解決さ」 だったら! 叫びと共に、フォンビーレフェルト卿が突進してきて、机にドンッと両手をついた。そして炎の様な勢いで、クロゥとバスケスに向かって喚き始めた。 「今すぐ出ていけ! とっとと出ていけ! 馬でも馬車でも貸してやる! 船賃も出してやる! 何だったら、魔王まんじゅう1年分を土産につけてやる! さあ、すぐ立って……」 「いい加減にしろ、ヴォルフラム」 静かだが、威厳に満ちた声が、フォンビーレフェルト卿の嵐のような喚き声を一瞬で消し去った。 しかし、兄上……。反論しようとするが、兄の厳しい一瞥に、フォンビーレフェルト卿は不満そうに唇を噛んだ。 「……………大丈夫か?」 フォンヴォルテール卿の声。 だが瞬間、クロゥはその言葉が誰に掛けられたものなのか、全く理解できなかった。 のろのろと顔をあげると、宰相の青い瞳はまっすぐにクロゥとバスケスに向いている。 「情報を全く消化できなくて、呆然自失って顔だよねえ」 まあ、それも無理ないけど。ムラタが楽しそうに茶々を入れる。 その言葉に触発されたのか、隣でバスケスがばりばりと頭を両手でかき回し始めた。 「………彼が、ユーリ……が、魔王、なんだな……」 クロゥの口から、自分でも情けなくなるような声が漏れた。 そうだ、とフォンヴォルテール卿が頷く。 「では今朝のあれは……魔王、自らが……」 「ウェラー卿を渡してなるものかと、魔王陛下御自ら御出馬なさった、ということさ」 しみじみと、クロゥはため息をついた。 頭を抱えながら、同じように深いため息をついていたバスケスが、のろのろと顔を上げた。 「俺ぁ、あんなコンラート見たことがねえ。あんな……顔で……笑って……。あいつは、態度は穏やかだけど、いつも厳しい顔をしてて、声を上げて笑ったことなんてろくになかった。ましてあんな、あんな………」 「当然じゃないか。大シマロンには陛下がいなかったんだから。……ウェラー卿のあれはね、忠誠心なんて生易しいものじゃないんだよ? 彼は、まあ言ってみれば、溺愛と過保護の塊が服を着て歩いてるようなものだからね。おまけにその塊は、剣まで握ってる。態度と言葉に気をつけないと、あっという間に首と胴を切り離されるよ」 「ですよねー。下手すりゃ陛下が蹴躓いた石にまで剣を向けるやつですから」 ムラタとグリエの言葉に、クロゥもバスケスもぐったりと肩を落とした。 溺愛と過保護。魔王への。……身体から力という力が一気に抜けていくような気がする。 「とにかく」重々しく、フォンヴォルテール卿が言葉を挟んだ。「部屋を用意させるから、とりあえず今夜はゆっくりするといい。夕食の時間になったら知らせよう。それから……食事が終わったら、少し時間をもらいたい。私の方から、お前達に話しておきたいことがある。コンラートが口にしなかったことも含めて、事実をきちんと把握しておいてもらいたいからな」 部屋まで同行し、色々と教えてやってくれ。グリエにそう命じると、フォンヴォルテール卿は立ち上がった。隣では、フォンビーレフェルト卿が不満げに頬を膨らませている。どうしてそこまでしてやるのだとでも考えているのだろう。 「僕もしばらくこっちにいるよ。久々におもしろ……心配な状況を見逃す、じゃなくて、見過ごす訳にはいかないしね!」 ムラタも明るく言って立ち上がった。 長い長い衝撃の一日。 どうやらまだ終わりそうにないらしい。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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