風に向かって進路をとれ・5



「…お、おい」
 すたすたと先を行くグリエを小走りに追いかけて、クロゥは声を掛けた。
「ユーリが城に入ってしまったが、構わないのか? 大丈夫なのか?」
「……ユーリ、だと?」
 グリエが立ち止まり、何故か眉を顰めた顔で振り返る。
 何か不味いことでもあるのか? 疑問が湧くが、他に彼の呼び名を知らないのだからどうしようもない。
 そんなクロゥとバスケスの顔を交互に見遣って、「ま、いいか」と軽く肩を竦めると、グリエはすいっと踵を返した。
「……別に、なくなるのは俺の命じゃねえし」
 えらく物騒な言葉が聞こえたような気がした。どういうことだと確かめようにも、グリエの足はさっさと先に進んでしまう。
 この野郎、と胸の中で罵りつつ、クロゥとバスケスはグリエの後を追った。

 血盟城の中の血盟城、魔王の居城は、やはりというべきか、恐ろしい程奥が深かった。
 今さらだが、魔王の城は障気漂う悪魔の城、いうなれば暗黒の奥津城で、地獄の底から湧き出てきた魑魅魍魎が蠢いている、という実しやかな伝説は、やはり全くのデタラメだった。子供向けのお伽話とフォンビーレフェルト卿には嘲笑われたが、現実を見れば確かにバカにされてもしかたがないかもしれない。
 人間の国ではまず見ないほど巨大である、ということを除けば、血盟城はごくごく当たり前に城だった。
 行き交う人々─兵士も、城の女官か使用人と思われる者達も、化け物どころか人間と全く変わりない。
 初夏の澄み渡った茜空の下、目にする人々は皆明るい表情で、生き生きと立ち働いている。
 気になることといえば、そんな兵士や使用人達が自分達に不審の目を向けるどころか、出会う度にさっと道を譲って敬礼したり、丁寧なお辞儀をしてくるということだ。この状況で考えられるのは、グリエの身分、もしくは地位がかなり高いということなのだが………まさか?

 山の起伏を利用して重なりあう建物、迷路のような回廊を抜けて、ただひたすら進む。
 遠目で見た時には、優雅さや繊細さに欠けると思っていたが、間近に見ればさすがに魔王の城、建物の外壁の隅々まで華麗な彫刻や装飾が施されているし、回廊を抜ける度に視界に飛び込んでくる庭園も、それぞれ個性豊かに整えられている。よほど多くの庭師がいて、腕を競ってでもいるのだろうか。
 だがやがて、辺りは優雅さや威厳よりも、機能を重視した、はっきりいって無愛想な建物が増えてきた。同時に、兵の数が急速に増えてくる。何故か、と目を凝らした時、彼らは大きな広場に出くわした。
 多くの兵士達が広場に散らばり、それぞれ剣を交わしている。剣を持たずに、素手で組み合う者達もいる。
 そうか、と、クロゥは広場を囲む華麗だの威厳だのとは縁遠い建物を眺めて納得した。
 ……ここは、兵の宿舎か教練場だ。
 時間が空いた、もしくは非番の兵士達が身体を鍛える風景は、新生共和軍の砦でも同じだ。
 馴染んだ空気に、クロゥはホッと息をついた。
「……ク、クロゥ……っ!」
 ふいに、隣にいた相棒が喘ぐように声を上げた。見れば、バスケスの瞠かれたその視線は、訓練に勤しむ兵士達の中に注がれている。
「………コンラート、だ……!」
 え? と、慌てて視線を巡らせる。と、広場の隅で、数人の兵士達に何かを指示している懐かしい姿を見付けた。腕まくりをした白いシャツ1枚を羽織った姿は、武装する兵士の中で一際目立つ。行き交う何人もの兵に時折その姿が隠れはするが、絶対に間違いない……!
「コンラートッ!!」
 バスケスが吠える。広場の兵士達が、一瞬動きを止めて一斉に視線を向けてくる。その中に、コンラートの視線もあった。距離はあるが、それでも真正面にその瞳を捉えた。………懐かしい、腹が立つほど懐かしいその目、その顔…!!
 バスケスが走り出す。クロゥも半瞬遅れて地面を蹴る。
「コンラートッ!」
 ようやく見つけた。自分達の唯一の指揮官。自分達の王となるべき資格を持った唯一の男。
 それなのに、彼は唐突に仲間の元を去ってしまった。
 だがもうその背を黙って見送ったりはしない。連れ戻すのだ。彼が本来あるべき場所に。戦うべき場所に。真の仲間達の元に。彼が座るべき正しい地位─シマロンの玉座に。
 どれほど皆が彼の帰還を待ち望んでいることか……!
「コンラート!!」
 必死の思いで駆け寄る2人を、コンラートはその場を動かぬまま、じっと見つめている。

「コンラート……」
 ようやく、いや、予想よりは遥かに早かったものの、それでも気持としてはやっとの思いで再会したコンラートは、感激に言葉を詰まらせるかつての副官を前に、どこか困ったように眉を顰めている。
「………コンラート……」
 クロゥの声に、コンラートはふう、と小さくため息をついた。

「……本当に来たのか……」

 やれやれ、と後に続きそうな口調。その思いもかけない第一声。
 2人に差し伸べられるでもなく、腰に当てられているその両手。……クロゥもバスケスも絶句する思いを隠せないまま、コンラートを凝視していた。
 よく来てくれた、とか。
 大変だっただろう、とか。
 俺も会いたかった、とか。
 心配かけて済まなかった、とか。
 今言える言葉は、他にあるはずだ。
 だが、当然期待して良いはずの言葉をコンラートから掛けられたのは、2人ではなかった。立ち尽くすクロゥとバスケスからすっと視線を外すと、コンラートはその後方に向けて口を開く。
 「済まなかったな、ヨザ。面倒を掛けて」
「いんやあ、中々楽しませてもらったぜ」
 いつの間にか、グリエが彼らのすぐ後ろに立っていた。そしてにやにやと笑いながら、クロゥ達の傍らを通り過ぎ、コンラートの前に立つ。
「2人は?」
「クラリスと一緒に中に戻った。……坊っちゃんたら、すげえ捨て台詞を残したりしてな。隊長に聞かせたかったぜえ? 肝心な時にいなくて、もうざーんねん」
「捨て台詞? ユーリが?」
 そうそう、と頷きながら、グリエがくっくと笑う。怪訝な表情で首を傾げながら、コンラートは身を翻すと、広場の傍らにあるベンチに近づいていった。見れば、そこに上着のようなものが掛けてある。
 コンラートはそれを手に取ると、袖を通し始めた。
 完全に無視された状態のクロゥとバスケスは、コンラートの想定外の態度に、どう反応して良いのか分からないまま呆然とその様子をただ見ていた。だが、コンラートが纏った上着が何であるのか理解した途端、2人は同時に驚愕の表情を浮かべた。
「………軍服……!?」
 クロゥの口から、思わず声が漏れ出る。
 コンラートが身につけたのは、紛れもない軍服だった。最後にベルトを締めると、ベンチに置いてあった剣を取り上げ腰に装着する。……見間違い様のない、上級士官がそこにいた。
「まっ、待ってくれよ、コンラート!」バスケスが上擦った声を上げる。「何であんたが軍服なんか着てんだよ! それじゃまるでこの国の、魔王の兵隊になってるみたいじゃねえかっ!」
 あんたは魔王と決別した。魔族の忠誠心を捨てた。だから俺達と一緒になって戦ったんだろう!?
 バスケスの叫びは、クロゥの叫びだ。
 だがコンラートは軽く眉を寄せたまま、何も言わない。
「もしかしたら、コンラート!」
 クロゥは唐突に脳裏に浮かび上がった考えに、思わず声を張り上げた。
「それが助命の条件だったのか!? 魔王に忠誠を誓うなら命を助けるとでも言われたのか? だったら、そんなものすぐに脱げ! 確かに、お前の実力を惜しむ者が魔族にいてもおかしくはない。だがな! 俺達は、お前が魔族の軍に下る姿など見たくない! 俺達の王になるべきお前が、魔王の兵士になど……! コンラート、これから今すぐにでも、俺達と一緒にここを逃げ……!」
 ぶふっと、盛大に吹き出す音で、クロゥの言葉が途切れた。グリエが腹を抱えて笑いを堪え、コンラートの肩をばんばんと叩いている。
「何つーかすげー想像力だな、おい! どうしてそうも自分らに都合よく……!」
 堪え切れずに、また吹き出す。見れば、コンラートも苦笑を浮かべている。
「……コンラ−……」
「これは俺の、まあ普段着だな。……いい加減バカ笑いを止めろ、ヨザ」
 それは全然答えにならない。そう言い返そうとした時。
 1人の兵士が駆け寄ってきた。
「失礼致します!」
 コンラートの前で、兵士が敬礼する。
「お話中、申し訳ありません、閣下!」
 ………閣下……?
 クロゥとバスケスは思わず顔を見合わせて、それから揃ってコンラートの顔を窺った。
 魔王を裏切り、人間に味方した反逆者のコンラートが、どうして「閣下」……!? それに、コンラートは言っていたじゃないか。自分は混血で、だから様々な形で差別されてきて、貴族としては最下級で……。
「何だ?」
 だがコンラートは表情も変えず、あっさりとその言葉を受け流した。まるで当然のように。……当然、なのか? 何故!?
「はっ。宰相閣下がお呼びです。手が空き次第、執務室にとのお言葉でした!」
 分かった、とコンラートが頷く。
「これから行こう。ヨザ、済まないが、もう少しつきあってくれ」
 了解、とグリエが軽く答える。そして、呼び掛ける間もなく背中を向けられ、クロゥとバスケスはまたも呆然と、離れていこうとするその後ろ姿を見つめた。が。数歩歩んだコンラートはすぐに足を止め、振り返った。
「何をしている? お前達も一緒に来るんだ」
「……なっ……!?」
 どうして!? と、問い返す暇も与えてくれない。コンラートとグリエは並んですたすたと歩き出し、唖然と顔を見合わせたクロゥとバスケスに選択する道はない。2人は慌ててコンラートの背を追った。


 どこかの回廊から城の中に入る。先ほどは外を回っていたが、今は廊下や回廊を巡って、どうやらどんどん城の奥に入っていくようだ。しかしもうどこがどうなっているのか、さっぱり分からなくなっていた。ちらりと見れば、相棒もきょろきょろと城の内部を見回している。
 ……俺もバスケスも、方向感覚には自信があったのに……。
 バスケスの場合は、山賊時代に鍛えたほとんど野生の感だったが。
 胸の内で呟いてみるものの、自分の感覚を鈍らせているのが、ただ広大な城の造りのせいだけではないことに、もうクロゥは気づいていた。
 コンラートの態度があまりにも予想外で、それが衝撃だったから。
 迫害されている訳ではなかったにしても、同志であり部下であり、共に戦場を駆け抜けた戦友である自分達との再会を、彼が喜ばないはずはないと信じていた。いや、そんなこと、端から疑いもしなかった。
 だが実際に再会してみれば、コンラートの態度はあまりにもそっけなく、今も自分達を見ようともせずにグリエと何やら会話している。わずかな時間も惜しんで積もる話をしたい、生死を共にしてきた仲間達の消息を一刻でも早く知りたい、とは考えてくれないのか?
「……よお、コンラート!」
 言葉にしないクロゥの思いを汲み取ってくれたのか、バスケスがコンラートの背に呼び掛けた。コンラートと、そしてグリエが歩みを止めずに振り返る。
「エレノア様のこととか、カーラのこととか、皆が今どうしてて、砦がどうなってるとか、聞いちゃくれねえのかよ?」
「それは後にしよう。……俺だけが聞いても仕方がない」
 お前以外の誰が聞くんだ!?
 怒鳴りつけそうになって、だが再び向けられたコンラートの背中が、それ以上の言葉をきっぱり拒絶している様に見え、クロゥは唇を噛んだ。

 通路を進み続け、やがて周囲は無骨な造りから華麗、もしくは荘厳な装飾を施された区域に変わってきた。壁は美しく塗られ、天井は高く、精緻な幾何学模様に彩られている。回廊も柱も優美な彫刻がなされ、窓も大きく繊細な飾り窓になった。その窓から見える庭園も、先ほど見てきたどの庭園よりも広く、複雑な形に仕切られ、様々な色が華やかに競い合っている。そしてどの庭園にも、それぞれ異なる主題を持つらしい彫刻に飾られた大きな噴水が、惜し気もなく水を噴き上げ、虹を作っていた。
 間違いなく、血盟城の中枢部に向かっているのだ。
 ここへ来るまで、多くの人々と行き会った。城内で働いているらしい人々には華やかさこそ欠けているものの、身だしなみは実にきちんと機能的に整っている。彼らは皆、男も女も、背筋を伸ばしてきびきびと動いていた。そんな彼らと全く違う、優雅なドレスや礼装に身を包み、ゆったりと談笑しながら歩いているのは、おそらく貴族達だろう。上流階級に身を置く者の装いも態度も、シマロンと何も変わらない。
 だが、クロゥとバスケスを驚かせたのは、その誰もが─城で働く者達はもちろん、貴族達までもが─コンラートに向けて最上級の敬礼をし、腰を屈めて礼をとる姿だった。派手やかな出で立ちの男も、そして艶やかなドレスに身を包んだ女も、関係のないこちらがどぎまぎするほど丁寧に、おざなりではない笑顔で挨拶してくるのだ。そしてコンラートはといえば、さすがに貴族らしい人物に対しては立ち止まり、頭を下げ、二言三言言葉を交わすものの、他の者にはせいぜい軽く手を上げる程度、ほとんど気に止めた素振りも見せない。
 次々と行き交う者達に頭を下げられながら、真直ぐ廊下を進んでいくコンラートに、クロゥとバスケスは不安な顔を見合わせた。

 ………何もかもが、予想とはるかに違う形に展開していく。
 クロゥは悔しさや苛立たしさが胸にもやもやと燻るのを感じながら、額を乱暴に擦り汗を拭った。
 一体、これからどうなるんだ。これから……。
 ハッと、クロゥは顔を上げた。
 あの時は、コンラートの様子に気を取られてろくに聞いていなかったが、確か宰相に呼ばれた、と言っていなかったか?
 ではこれから、自分達もこの国の宰相に会うことになるのか?
 宰相といえば、補佐する王の年齢や能力によっては、ほとんどこの国の支配者といっていい権力を持つ人物ではないか。
 いや、その前に。
 眞魔国には宰相がいるのか?
 魔族の王国は、魔王の絶対権力に支配されているのではないのか?
 魔王といえば、小山の様に巨大な身体に蛇を巻き付け、何本もの手に武器を持ち、気に入らぬ者を見付けては殺してこれを喰らう、なとどいう伝説を今さら真実だとは思わないが、それでも、魔族である限り誰1人として逆らう事ができない、唯一無二の絶対権力者である事は間違いないと思っていた。
 だが、魔王が本当に宰相を必要とするとしたら……?

 クロゥが頭をぐるぐると悩ませている間に、一行は2人の衛兵が並んで護る大きな扉に近づいていった。
 兵士が顔を向け、コンラートの姿を認めると、揃って敬礼する。そしてすぐに兵士の1人が、「失礼致します!」と声を張り上げてから扉の片方を開け、1歩中に入った。
 「ウェラー卿がお見えになりました!」と申告すると、すぐに部屋の外に出て来る。同時に残っていた兵士が閉まっていたもう片方の扉を開け、改めて2人揃って敬礼し、コンラート達を迎えた。
 一度も立ち止まる事なく、自ら入室の許可も求めず、コンラートはまっすぐ部屋の中に入っていく。
「………おい、クロゥ……どうなっちまうんだ……?」
「……分からん。だがもう……なるようにしかならんだろう」
 開き直るしかない。クロゥは大きく息を吸うと、コンラートに続いて眞魔国宰相がいると思しき部屋の中に入っていった。

 ……これが、宰相の執務室、か……?
 背後で扉の閉まる音を聞きながら、クロゥはその部屋を意外な思いで見回した。

 王を除けば、この国最大の権力を有する人物の執務室、と聞けば、もっと麗々しい部屋を想像していた。
 香が焚きしめられ、それこそ金銀玉が鏤められ、夥しい数の花やら、いかにも値の張りそうな壺だの絵画だのが飾られているのではないかと。また、何人もの従者や取り巻き、選りすぐった容姿の女達が侍っている様子も頭の中に浮かんでいた。
 そして、玉座に似せた椅子にふんぞり返った宰相閣下が、入室してくる者を睥睨して迎える姿も。
 だが実際その空間は、そっけないほど事務的な部屋だった。
 広い事は広い。もうバカでかい。だが、煌びやかさなど欠片もなく、上品だがどこか武張ったタペストリーが一枚壁に掛かっているだけで、他は本棚が並んでぎっしりと本が詰まっている。
 最も目を引くのは広い空間の半分近くを占める巨大な会議用らしき机と、並べられた椅子だった。装飾よりも機能重視のようで、やたらと頑丈そうだ。その上には、書類らしきものの山が幾つもできている。
 そして唯一の窓、というより、壁一面が全て格子を嵌めたガラス張りになっているその前に、やはりどっしりと大きな執務机がある。その席に、1人の男がいた。
 ガラス一面に燃える今日という日の最後の残照。
 それを背に、がっしりとした体格の、まさしく美丈夫とか偉丈夫と呼ばれるにふさわしい男が、机の傍に立つ全体的に白っぽい、一見女性と思しき人物(それにしては妙に背が高い)から書類を受け取っている。
 部屋にいるのは、この2人だけだった。
 華やかさも、逆におどろおどろしさも、そして仰々しさも何もない。
 その2人に向かって、コンラートが進み出た。
 ……見たくない。
 瞬間的にクロゥは思った。
 この部屋の雰囲気なら、跪くことはないだろう。しかし、どうあれ相手は宰相、敬礼くらいは当然するだろう。だが、見たくない。
 コンラートが眞魔国の宰相に向かって遜る姿も、魔王の一兵士としてぞんざいに扱われる姿も。
 だがコンラートは足を止めて敬礼する事もなく、すたすたと宰相の側に近づいていく。
「彼らか? 大シマロンからお前を訪ねてきたというのは」
 腹にずんと響く低い美声が席につく人物から発せられた。
「ああ、そうなんだ、グウェン。つい今し方到着した」
「ヨザックを向かわせたのは正しかったらしいな」
「まあね」
「……まったく……!」
 あのやんちゃ共が。
 宰相と一兵士とは思えない、気楽な会話が交わされている。
 そこに至ってようやく、クロゥはコンラートが「閣下」と呼ばれていた事を思い出した。それから……グウェン? ……どこかで聞いた覚えが……。
 コンラートが、宰相の机の傍、白い女性(男性?)の反対側に立った。そしてそこでようやく彼の顔がクロゥ達に向けられた。
「クロゥ、バスケス、こちらに来てくれ」
 コンラートに呼ばれ、一つ深呼吸してから宰相らしき人物に近づいていく。
 身につけているのは、色も形もコンラートのものとは違うが、やはり軍服だ。宰相というより、将軍といった方が似合っているような気もする。
 人間ならば30過ぎ、か。細身に見えるコンラートよりも、鍛え上げられた感のある、やはり相当な美丈夫だ。新生共和軍のクォードも同じように讃えられるが、さすがに存在感が違う。きゅっと顰められた眉が美貌に厳しさを加え、鋭く光る青い瞳に見据えられると、思わず平伏してしまいそうな威圧感を感じる。威厳とか、押し出しという点から見ると、コンラートより遥かに強烈なものを持っているようにも思える。
 想像していた「魔族の宰相」像とは掛け離れているが、それでもさすがと思わせる「力」が、瞳から、そして全身から漲っている。
 ………この男が魔族の中で巨大な権力を握っていることは間違いない。

「紹介しよう」
 コンラートが軽く手を宰相に向けた。
「彼がこの国の宰相を勤める、フォンヴォルテール卿グウェンダルだ」
 そして。そう続けて、コンラートは小さく微笑んだ。

「俺の、兄だ」

 ……え?
 言われた意味がよく分からない。バスケスと2人、きょとんを目を瞠いてコンラートを見つめる。目の前の、男の苦笑が深くなった。
「貴公らのことはコンラートから聞いている。私の弟が、かの地で世話になったらしいな。礼を言う」
 威厳に満ちた深い声でそう言葉を掛けられて、ようやく頭が働きだした。隣で相棒の、ごくりと喉の鳴る音がする。
「……コッ、コンラート……まさか、おま……宰相の、おとう……」
「それからあちらにいるのが」
 驚きの声を上げるクロゥを遮って、コンラートの手が宰相─兄、の向こうを示す。
「フォンクライスト卿ギュンターと申します。魔王陛下の王佐を勤めさせて頂いております。遠路はるばるよくいらっしゃいましたね」
「……っ、う、うおっ、お、男……!?」
 自己紹介する声を聞き、バスケスがフォンクライスト卿を名乗る人物を指差して、狼狽えた声を上げた。
 おや、失礼な方ですね。指を突き付けられて、フォンクライスト卿が苦笑する。
「彼は俺の剣の師匠なんだ。言葉と態度には気をつけろよ。ギュンターは俺より強いぞ」
「………げえっ!?」
 大げさに反応するバスケスに、コンラートとフォンクライスト卿が一緒になって笑っている。
「まあとにかく。座って話をしよう」


 書類はちゃんと分けてあるんですからね。滅茶苦茶にしないで下さいよ! フォンクライスト卿がびしびしと指示し、グリエが「はいはい」と答えながら巨大な会議机の上に積まれたり、乱雑に広げられたりする書類を隅に片付けていく。
 適当に座ってくれ、と、とても一国の宰相が口にするとは思えない言葉を掛けられ、クロゥとバスケスはむしろ途方にくれて立っていた。
 見れば、コンラートと宰相─フォンヴォルテール卿は、今まで執務をしていた机の傍で親し気に会話を交わしている。兄弟なのだから当然かも知れないが、それでもクロゥには充分過ぎるほど衝撃的な光景だった。
 魔族の国の宰相とコンラートが兄弟。それも、聞いていたような疎遠なものではなく、見るからに信頼しあった仲の良い兄と弟。
 そう言えば、フォンビーレフェルト卿もまた、コンラートを慕っている様子だった。
 兄弟の中でただ1人だけ人間の血を引き、純血魔族の中で差別され、虐げられ、大貴族である母親や兄弟達ともまともな触れ合いができなかった、と、そう聞いていたはずだった。それともあれは、こちらの勝手な思い込みだったのか? そんな不安が湧き上がるほど、コンラートとその兄の語らいの様子には隔意が感じられない。
 いつの間に指示がなされていたのか、扉が開かれ、メイドらしき女がワゴンを押して入って来た。お茶のカップと菓子らしいものが乗っている。
 ほら、立ってないでそこに坐れ、と、コンラートに椅子を示されて、クロゥとバスケスはぎくしゃくと腰を下ろした。
 彼らの前に、カップと菓子が並べられていく。が。
「数が一つ多いのでは……?」
 フォンクライスト卿が怪訝な声を上げたその時。

「ああそれ、僕の分!」

 新たな声とともに、新たな人物が部屋に入って来た。

 開け放たれた扉。大股で入室してくる人物。その背後で、取り次ぎができなかった衛兵が困った顔でこちらを向いている。だが、そんなことはどうでもよく。

「猊下!」
 座りかけていたコンラート、フォンヴォルテール卿、フォンクライスト卿がさっと立ち上がり、グリエもまた姿勢を正した。

「やあ、ついに来たね」

 新たな人物が、笑顔をクロゥとバスケスに向ける。その姿に、2人は無意識に腰を浮かせていた。

「………そ、双、黒……」

 あり得ない色が、そこにあった。
 漆黒の髪。漆黒の瞳。
 邪悪な色。
 その色を身に備えたその人物は、ごく質素な私服に、だが普通の人間ならば絶対に身につけない黒く丈の長いローブを羽織り、颯爽とやってくる。
 そして彼は姿勢を正して迎える3名の前をすたすたと過ぎると、当然の様にもっとも上座の席に向かい、すとん、と腰を下ろした。
「よく来たね。御苦労さま。僕はムラタ・ケン。この国で、魔王陛下を除けば一番偉い聖職者さ。ま、君らの国の大神官とかを想像してくれればいいよ。何? 双黒がそんなに無気味かい? 別に黒かろうが白かろうが髪の毛は髪の毛だし、見えるものも君たちと全く同じだよ。まあ、たまにはこんな反応も新鮮でいいけどね。でも、『双黒並び立つ眞魔国』っていってね、魔王陛下も双黒なんだ。だから彼に会った時に、くれぐれもそんな顔はしないように。誰かの剣が飛んでくるよ。分かったらその気味悪そうな顔を直して座って座って」
 さらさらと言われても、頭がついていけない。
 あ、とか、う、とか意味のない音が口をついて出るだけで、クロゥもバスケスも中腰のまま、ただ目の前の「少年」を見つめていた。
 年頃はフォンビーレフェルト卿やユーリと同じ位にしかみえない。いや、ユーリは混血でまだ16歳と言っていたから、同年代とはいえないだろう。だが、フォンビーレフェルト卿と比べても、何とも表現できない存在感がある。双黒だからか、それとも見た目が少年だからだろうか、宰相にすら感じなかった得体の知れない怖さを感じて、鼓動が大きく鳴った。……そういえば、今何を言っていた? 魔王も双黒? 彼に会ったら、……って、誰にだ? 魔王? まさか……。
「クロゥ! バスケス!」
 コンラートの厳しい声が飛んだ。かつて戦場で聞いた強い声音に、クロゥとバスケスがハッと己を取り戻す。
「猊下の仰せだ。座れ」
 言われて思わず息をのみ、クロゥとバスケスはガタガタと椅子を鳴らして席についた。
「ヨザック、君もね」
 少年の言葉に、末座辺りに立っていたグリエが慌てて手を振る。
「とんでもありません、猊下。俺なんかが閣下方と同席なんて……」
「その割に、僕らのお茶会じゃ一緒になって座ってるじゃないか。これは公式の会見じゃない。私的な座談会だよ。君の話も聞きたいし、お茶もお菓子も用意してあるんだから、ほら、さっさと座って」
 猊下の仰せですから、とフォンクライスト卿に促され、軽く肩を竦めてから、グリエは末座の席についた。

「どう? 魔族の国に来て、怖いお化けに追っ掛けられたりしたかい?」
 いきなり皮肉が飛ぶ。
 ぐ、と詰まるクロゥの胸に、これ以上負けっぱなしでたまるかという、敵愾心のようなものが急激に湧き起こってきた。
 この国に到着してこの部屋に至るまで、丸一日翻弄され続けてきたような気がする。いや、思いきり翻弄されてきた。いい加減、後手に回って笑われるばかりなのはまっぴらだ。
 きゅ、と唇を一度噛むと、クロゥはムラタと名乗る少年を睨み付けた。……無礼といわれようが、知ったことか!
「魔族でも、聖職者を必要とするのか。魔族が祈る神とは、一体どんな姿をしているのだろうな?」
 ク、クロゥ、と、バスケスが隣で狼狽えている。
 魔族達が怒りを見せればそれはそれでよし、とちらりと見遣ると、コンラート始め、フォンヴォルテール卿もフォンクライスト卿も、一瞬驚いた顔をしたものの、無礼を咎めることもせず、少年の反応を伺っている。
「神、ねえ」少年がゆったりとお茶のカップを持ち上げる。「そんなシロモノがいるとは思わないけどね。でもまあ、生きていれば悩みのタネは尽きないものだし。そうしたら、救いを求めて祈る対象が欲しくなるのは魔族も人間も同じなんだよね。とは言っても、この国の人々が祈る対象は、君たちのいう神とはちょっと違う。……顔はやたらと綺麗だけど、性格はヒドくてねえ。あの頃は全く……苦労させられたものだよ」
 皮肉を返したつもりが、きれいさっぱり外された。どころか、追求するのが怖いようなことを口にしている。コンラート達はと見ると、揃ってさりげなく視線を外していた。
「………本当に聖職者なのか、あんた?」
「どうして?」
「聖職者というなら、たとえ振りだけでも人格者の顔をしてみせるものだろう。最高位の聖職者がそんな態度でも構わないのか?」
「何を言うかと思ったら!」
 魔族の国の大神官(何だか妙な表現だ)は、驚いたように目を瞠いてクロゥを視た。
「人格者のフリなんかしなくても、僕は正真正銘人格者さ! 見て分からないかい? この全身から、叡智と慈愛と奉仕の精神に溢れた黄金のオーラが燃え立っているのを! ねえ? 君たちは分かるだろう? フォンヴォルテール卿、ウェラー卿、フォンクライスト卿、それからヨザック?」
 いきなり話を振られて、それぞれあてどなく視線を彷徨わせていた4名は、慌てて顔を正面に向けた。咄嗟に声が出ないらしく、ぐっと詰まって困ったように眉を顰めている。
「………そりゃもー、猊下は偉大な精神の持ち主でいらっしゃいますともー」
 最初に声を出したのはグリエだった。うんうん、とムラタが頷く。
「例え棒読みであろうとも、ちゃんと答えたのは偉いね、ヨザック。褒めてあげよう」
「ありがとうございますー。これもまあ、宮仕えの哀しい性っつーヤツでして」
「一言多い」
「……申し訳ありませんー」

「まあ、前フリの冗談はこのくらいにしておこう」

 そう言って、ムラタがにっこりといかにも無邪気な笑みを浮かべた。
「……どこからどこまでが、どう冗談だったんだ……」
 小さくフォンヴォルテール卿が呟く声が聞こえて、クロゥと、それからバスケスも、思わず一緒になって頷いてしまった。……どうやらこの大神官、かなりクセのある人物らしい。

「さてと」村田の声の調子が変わった。「ウェラー卿の話によると、君たちの魔族に対する偏見はかなり強いものだったようだね」
 真面目に問いかけられて、クロゥとバスケスはバツが悪気に視線を逸らした。
「そんな君たちが2人だけでここへやってきた。反逆者として魔王に追われている、もしくはすでに捕らえられているかもしれないウェラー卿を救い出し、シマロンへ連れ戻すために、だね?」
 読まれている。クロゥは顔を上げて、ムラタを睨み付けた。だが、意外なほど優しい目で彼を見ているムラタの視線とぶつかって、思わず息を止めた。
「無茶をするね。この国が本当に君たちが考えていた通りだったら、ウェラー卿に会うどころか、とっくに命をなくしていたよ?」
「…………その覚悟は……していた」
 なるほど、とムラタが頷く。

「つまりそれほど、君たちの状況は切羽詰まっている、ということか」

「まだ勝利が確定していないというのに、上層部は領土の分配に揉め始め、盟主を蔑ろにし、自分達の取り分を先取りしてしまおうと、勝手に動くものも現れたようですね」
 言葉を続けたのはフォンクライスト卿だった。クロゥが幼い頃見た聖堂画の女神のような美貌が、憂いを帯びて曇っている。
「そのために、新国家に希望を抱いて従っていた心ある者達が続々と離反しているとか」
「………知っていたのか……?」
「当たり前だ」
 クロゥの言葉に、コンラートがため息と共に答える。
「僕達は君たちと違って、より正しく、そして新しい情報を常に求めているんだよ」
 ムラタが笑う。

「お前達は一体、何をやっているのだ?」

 突如声を上げたのは宰相フォンヴォルテール卿だった。
「注がれてもいない勝利の美酒に酔いしれて、得てもいない領土を奪い合うとは。一体何のための打倒大シマロンだったのだ? 戦いの根本を、こうもあっさり忘れて私利私欲に走るとは……。これではコンラートが命がけで戦った意味がないではないか!?」
 こともあろうに、魔族に説教されてしまった。だがまさしくその通りなので、反論のしようがない。
 唇を噛み、項垂れることしかできない自分達が、あまりにも情けない。だが。
「だけどよ!」バスケスが必死の様子で声を張り上げた。「そこまで分かってるなら、コンラート! どうして戻ってきてくれなかったんだよ!? あんたさえいててくれれば、あの時……いなくなったりしなければ……こんな事には……」
 込み上げる感情に耐えられないのか、バスケスがぎゅっと顔を歪めて拳を震わせる。
「………やはり、俺はそうすべきだったのか……?」
 コンラートの、どこか迷いを含んだ声に、クロゥはハッと顔を上げた。
「俺は、あの時、あの場所を去るべきではなかったのか……。もうしばらく時間を掛けて、状況が安定するまで………」
「僕はそうは思わないね」
 自分で自分に問いかけるようなコンラートの言葉が、大神官ムラタに遮られる。コンラートがムラタに視線を向けた。
「あの時、彼らの多くは君をあの地の王にと望んでいた。君は答えを求められていたはずだよ、ウェラー卿。それに、同時にその場には、君が王位に就く事をよしとしない勢力もまたあった。魔王陛下に忠誠を尽くす君には実にバカげた要請だが、たとえ王位に就く事を拒絶したとしても、君があのままあそこにいた場合、また別の形の分裂と混乱が生じていたと僕は思う」
「……猊下……」
「君は、できる最大限以上のことをやったよ、ウェラー卿。あれだけの短時間で、あれほど強大な国に対する反乱軍を、それも野心も下心も満載の連中を纏め上げ、ちゃんとした軍として組織し、結果として大シマロンという国家体制をほぼ完璧に覆したんだ。見事だった。僕はそう思う。君はすべき事を全て行った。………でも、そうだね、誤算があるとすれば」
 そう言ってから、ムラタは小さく笑った。
「君は有能過ぎた。君がいなくては、何もかも立ち行かなくなるほどにね。そしてもう一つ。新生共和軍とやらの首脳部を占める人間達が、救い様のないほど愚か者揃いだった。それだけのことだよ。……フォンヴォルテール卿が出した君への帰還命令は、時期的にはギリギリの限界だったと思うね。君とフォンヴォルテール卿は、ほぼ完璧に行動した。だから人間達の体たらくに対して、君が罪悪感を感じる必要は全くないよ、ウェラー卿」
「……そのように仰って頂けると……助かります」
「ちょっと……待ってくれ………!」
 ホッと息をつくコンラートに、クロゥはたまらず腰を浮かせた。
 魔王に忠誠を尽くす? フォンヴォルテール卿の帰還命令?
「……どういうことだ、コンラート……? 今、こいつは何を言ったんだ? ……お前が魔王に忠誠を尽くすだと? 一体何の冗談だ!? ……それに……お前はあの時言っていたな? ケリをつけに眞魔国に戻るのだと。なのに……帰還命令とはどういうことだ!?」
 答えろ! コンラート!
 立ち上がり、机に両手をついて身を乗り出しながら叫ぶクロゥに、コンラートは冷静な表情のまま、かつての副官を見上げた。

「俺の夢が何だったか、覚えているか? クロゥ」

 思いがけない問いかけに、クロゥが目を瞬いた。
「お前の……ゆめ……? ……それは……」

「魔族と人間が─もちろん混血も─、何一つ蟠りも偏見もなく、支配することもされることもなく、対等に向き合って、友情を育む世界となること、そんな世界を創る事、だ」
そして、それは。コンラートが小さく微笑む。

「魔王陛下の夢でもある」

 魔王の、夢?
 クロゥの呟きに、コンラートが頷く。

「絶対に戦争をしてはならない。戦争は人間も魔族も区別なく、ただどちらの民をも苦しめるだけだ。そして、戦をせずに、人間達と対等に向き合い、共に手を携えていけるような世界にしたい。我らが陛下は常にそう仰せになっておられる。だが……大シマロンはそんな希望や夢が叶う国ではなかった」
 魔族を滅亡させ、人間が支配する世界の王者となる。そのために、ひたすら戦を重ね、民の血を流し、国土を広げていたあの国。

「だから、俺は大シマロンに潜入した」

 魔王陛下と、俺の夢を叶えるために。

 揺るぎない信念の光をその瞳に浮かべて、コンラートはきっぱりと言った。


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ユーリとコンラッドのいちゃいちゃ(でもまだ恋人じゃないですけどー)を、呆然と見つめるクロゥとバスケス、というのを楽しく書くはずだったのに。
前回と一転してシリアス調で始まり、しっかりシリアスで終わりました。
……おやーっ!?

次回、次回こそ、バカップル、になってないけどバカッブル、を出したい! と願ってます。 ……ホントにこれじゃ、いつ終わるのか分からないよお……(涙)。

何だかもう、な感じですが。
ご感想、お待ち申しております。