相棒にも教えなかった事がある。 眞魔国へと向かい、コンラートを探すと決心したその夜から。 悪夢に襲われはじめた。 クロゥは必ず闇の中で目を覚ます。 そこは、月明かりも星の瞬きもない真の闇で。 闇よりさらに濃い闇色の霧が立ちこめている。 霧はねっとりと重く、まるで意志を持つかのように身体に纏わりつき、鼻から口から侵入してはクロゥの身の内を闇に染めようとする。 コンラートを探すのだと。その思いだけで剣を抜き、霧を払って前進する。 その時、闇の中で血の色をした光が瞬く。 二つ、対になった丸い……目だ。 あちらで。こちらで。血の色をした目が開かれ、クロゥを見る。見つける。 『人間だ』 『人間だ』 「人間だ』 四方八方から、地を這うような声がクロゥの足を絡め取る。 かつり、と硬いものが石畳らしい地面に突き刺さる音がする。 爪か。それとも踵か。 ずるり、と何かが引きずられる音がする。 足か。それとも鱗に覆われた尾か。 『餌だ』 『うまそうだ』 『食おう』 迫ってくる。群れが。 どろり、どろりと流れる霧が、クロゥの身体をがんじがらめに縛ろうとする。 それを払い、死に物狂いで薙ぎ払い、クロゥは走る。 どこだ、コンラート。どこだ。どこにいる。コンラート。答えてくれ。 叫ぶ声は音にならず。 やがて、巨大な腕が、尾が、触手が、クロゥを捕らえる。そして。 声にならない叫びを上げて、寝台の上で今度こそ本当に目覚めるのだ。 物心着いた頃から教え込まされてきた「魔族」への恐怖。 人ならぬものへの、根源的な恐れ。 それでもクロゥは逃げなかった。逃げる事を己に許さなかった。 コンラートを、本来生きるべき場所に連れ帰るのだと。 その思いだけで己を叱咤し、眞魔国、本物の魔物達が住う国までやってきた。 ついに。やってきたのだ。 ……が。 「………何で……こんな事に………」 ウェラー卿の副官として、大シマロンと戦った英雄達だ! と。 グリエが声を潜めるフリをして、高らかに宣言した次の瞬間。 立ち寄った村に住む魔族達は、怒濤の興奮状態に陥った。 そして今。 何だかもう、こっちが困ってしまうほど瞳をきらきらさせ、頬を真っ赤に紅潮させ、皆揃って胸元で拳を握りしめ、もしこれが見間違いでなければ、ほとんどもう「うっとり」という様子でクロゥとバスケスを見つめている。………熱い視線が痛くて息苦しい。 「………ウェラー卿と共に、大シマロンと戦った方々……」 「そんな方々が我が村においで下さるなんて」 「本物なのね。実物なのね」 病に罹ったかのように熱っぽい眼差しを向けてくる村人達に、バスケスも恐れをなしたかのような顔を向けてきた。 「……ク、クロゥ……こりゃあ一体……」 「知るかっ」 この騒ぎを引き起こしたグリエは、と見ると、フォンビーレフェルト卿とユーリを相手になにやら楽しそうに話をしている。そして、話が纏まったのか、3人してクロゥ達に視線を向けると。 3人揃ってさりげなくその場から後ずさり(ユーリはしっかり焼肉の串を2、3本手にしていた)、村人達の輪から外れると、意地悪っぽく笑いながらひらひらと手を振ってきた。 一体何なんだ、お前た……。 「おじちゃん」 可憐な声がして思わず視線を下に向ける。そこにはバスケスに助けられたあの少女が、やはり顔を真っ赤に染めて2人を見上げていた。 「……おじちゃんたち、ウェラー卿と、お友だち、なの……?」 どきどき、とか、わくわく、といった描写がぴったりの様子で、少女が問い掛けてくる。 「お、おう!」 期待の籠った少女の瞳に、内なる何かが掻き立てられたらしい。バスケスが力強く頷いた。 「俺と、ここにいるクロゥはな、コンラートといつも轡を並べて、大シマロンの兵隊達と戦ってきたんだぞ!」 おおおっ!! 村人達がどよめく。 「聞いたっ!?」 「聞いたわよ! コンラートですって! 呼び捨てよ、ウェラー卿を名前で呼び捨て!」 「よっぽど親しくなくちゃ、こうはいかないよね!」 「すっごーい!」 ………感心する部分が、違うような気がする……。 おじちゃん、おじちゃん、と少女がバスケスの腰に取りすがった。 「じゃ、じゃあね、ホントにウェラー卿のすぐお側にいたの? お喋りしたり、それから……ウェラー卿に触ったこともある!?」 「コンラートに触れることなんざ、そりゃしょっちゅうさ」 バスケスが笑う。 「俺達ぁ、あいつの副官なんだからな。朝から晩まで、いつでもどんな場所でも、俺達はコンラートと一緒だったぞ。それこそ手を握ることもありゃあ、あいつの背中をどやしつけることだってあった。それから戦いに勝利した時には抱き合ったり……」 おおおおおっ!! さらに村人達のどよめきが増す。 「おじちゃん!」少女が叫ぶ。「おじちゃんの手に触ってもいい!?」 おお、いいとも、と、バスケスが太い腕を差し出す。その広い掌に小さな両の手を乗せ、そっと撫で、握り、少女は「きゃあっ」と感動の声を上げた。 「ウェラー卿に触った手に、私も触っちゃった!」 「そんな大したモンじゃねえよ」 すごいすごいと興奮しきりの少女の頭をぽんぽんと軽く叩いて、バスケスはがははと笑った。と。 「あの! お願いします!」 声に顔を向けると、女が我が子らしい男の子の背中を押して前に進み出てきた。 「ウチの子の頭も撫でてやって下さい!」 それが切っ掛けになったのか、取り囲んでいた大人達が、次から次へと我が子を前に押し出してきた。「ウチの子も連れてこなくちゃ!」と一声叫んだかと思うと、何人もの村人達が大急ぎでその場から離れていく。 「あのぉ、よろしいでしょうか……?」 バスケスほど単純に笑えないクロゥは唖然としつつも、この騒ぎの大本がコンラートの存在故であることだけは理解していた。と、そこに、おずおずとした女性の声が発せられた。 頭を巡らせた先には、見覚えのある数人の若者が立っている。 「あの、私達、学校の教師をしている者なんですが……」 ああ、と思わず納得して、クロゥは頷いた。学校の広場の前を通りかかった時、輪になって踊る子供達の側にいたのが確か彼らだ。手拍子をしていた女性と、楽器を演奏していた男性。それから見覚えのない女性が2人ばかり側に立っているが、彼女達もおそらく2人の同僚なのだろう。代表らしい手拍子の女性教師が1歩前に進み出た。 「先ほどは、子供を助けて下さいまして、ありがとうございました! あの、それで、私達、子供達に色々と教えてやりたくて、ぜひお話をお伺いしたいんですが……」 「話?」 「はい! ウェラー卿の……」 「ちょっと待ってくれ!」 ここで状況をきっちり押えておかなくては、もう頭の中の収拾がつかなくなりそうな気がする。 「ここの人々がこれほど興奮しているのは、俺達がコンラートの副官だから、だな?」 やっぱりコンラートって呼んでる〜、と、女性の背後に立つ教師達が手を取り合って喜んでいる。 なぜここで喜ぶのかさっぱり理解できないクロゥに向かって、代表女性が「もちろんです!」と大きく頷いた。いつのまにか、彼らの様子に気づいた他の村人達も集まってきている。 広場に、バスケスを囲む輪と、クロゥを囲む輪、二つの大きな人の輪ができていた。 「聞きたいんだが……。あなた方は、コンラートを知っているのか?」 質問の意味が分からないのか、教師達がきょとんとクロゥを見つめる。 「あの……もちろんです。だってウェラー卿ですよ? 反逆者となることを覚悟の上で眞魔国を出奔され、大シマロンの宮廷に入り込み、悪逆な大シマロン王の懐に飛び込んで、その上で密かに反乱軍を組織して、見事に大シマロンを転覆させて……!」 女性教師は興奮してきたのか、頬をうっとりと赤く染め、何かを見つめる様に視線を宙に向けている。 彼女の言う事は正しい。全くその通りだ。どこも間違ってない。だが。 「どうしてあなたが……いや、この村の人々がそんな事をそうまで詳しく知っているんだ……?」 おまけに。どうしてそうも楽しそうなんだ? 「だって! 新聞でもずっと特集してましたし!」 「本もいっぱいありますし!」 「新聞に………本?」 怪訝な顔で首を傾げるクロゥに、教師達が「はいっ!」と声を揃えて答えた。 「ウェラー卿の英雄的な行為に感動した多くの作家達が、持ちうる限りの想像力を駆使して書き上げた本が、現在それはもう大量に出版されているんです!」 コンラートが己の血脈の運命に従って、本来支配すべき国土を取り戻し、虐げられた民を救うために行った行為が、どうして魔族にとって「英雄的」なんだろう? ……想像力って…? 「邪悪な大シマロンを相手に孤高の戦いを繰り広げるウェラー卿の、恋と冒険の日々……。でもっ! どんなに素晴しい物語でも、真実にはかないません!」 ……………こいとぼうけん…………。って、恋!? 誰が? コンラートが? 「あのっ、それで、ウェラー卿とは、戦いの合間にお酒を酌み交わして、なんてこともやっぱりあったんでしょーかっ!?」 「え? …あ、ああ、それはもちろん、というか……ほとんど毎晩……」 まあっ、と教師や村人達が感動の声を上げる。……何でだ? 「種族の違いを越え、友情で結ばれた男達が酒を酌み交わし、夜を徹して心静かに語り合う。それを見守っているのは、ただ煌々と輝く満月のみ……。ああ、素敵。……あの、話題はどんなものが!?」 素敵、って一体何が? 「……話題? いや、それは普通に……これからの作戦のこととか、国の将来についてとか……」 「恋については!?」 「ど、どうして恋にこだわ……」 「大シマロンの王女との許されざる恋とかっ!」 「宿敵の王の娘を愛し、それでも使命を捨てる事は許されず、苦悩するウェラー卿!」 「そして反乱軍の指揮官となり、完全に敵味方に分かれた悲劇の恋人同志が、ついに戦場で再会を果たす……!」 …………彼らが夢中になっている本の内容が、だんだん見えてきたような気がする……。 「ねえ、大シマロンに王女様っていたの?」 瞑目してげっそりと肩を落としたクロゥのすぐ側で、聞き覚えのある少年の声がした。 目を開けて声のした方に顔を向ければ、本当にすぐ傍らで、焼肉の串(肉はもうなかった)を握りしめたまま、胸元辺りの高さから上目遣いでじいっとクロゥを見つめるユーリの大きな瞳とぶつかった。 何となく怒っているような、ムッとした顔でクロゥの答えを待っている。その姿が……。 なんとも言えず愛らしく、こう……その……ぷくっと膨れた滑らかな頬を、指でちょんと突つきたくなるような……。 ゲホッゲホッゴホン! わざとらしく咳き込み、胸をぐっと押さえて大きく息を吸い込む。それからクロゥは「はーっ」と深々と息を吐き出すと、何事もなかったように顔を上げ、首を振った。 「いたことはいたが、確か50過ぎの出戻りだったから、コンラートと悲劇の大恋愛をする相手にはならんだろう。……宮廷であいつに夢中になった女達が大勢いたという話だが、結局見向きもしなかったと聞いている。それに挙兵してからも、当然の事だが、あいつの周辺からそんな浮ついた話が出た事はないし、あいつの口から女の名が出たこともない。ああいう男だから、コンラートを振り向かせようと競う女達は大挙していたが、誰1人として成功しなかった。俺達はずっとあいつの側にいたから知っている。……コンラートの頭の中にあったのは、大シマロンを倒すこと、そして民と大地を救う事だけだとな」 ユーリがあからさまにホッとした様子で緊張を解いた。 何を一体気にしているのかと、怪訝な思いに囚われてクロゥが首を傾げた時。周囲の人々の会話が聞こえてきた。 「えー、ちょっとがっかりー?」 「んーっ、でもさ、使命一筋だったってことだし、それはそれでいいんじゃない?」 「まあ、ウェラー卿が人間の王女と恋をするって、あらためて考えるとちょっと悔しい気もするし?」 「よねー。それにいくら何でも50歳じゃねえ?」 「そうよね、それじゃウチの娘と同い年だもん。幼すぎるわよ。世紀の大恋愛にならないわ」 「ちょっと変態ぽいし。せめて80歳か……ああ、でもやっぱり100歳くらいでないと大人の恋愛にならないわわねえ」 ……そうだった。ついつい失念していたが、こいつら皆魔族だった。 あれ? ちょっと待て。ということは……。 クロゥは身体の向きを変え、人垣の向こうの相棒の姿を探した。 バスケスは……身体中に子供を纏わりつかせている。 バスケスに助けられたあの少女が、いつの間にかしっかり肩車されて特等席を確保していた。そしてクロゥの相棒は両腕に子供達を抱え上げ、何か熱心に語りかけては近頃目にしないほどの底抜けに明るい笑顔を振りまいている。その周囲を、今度は自分を抱き上げてくれとばかりに、子供達が取り巻いていた。 あの子供達は、どれも自分やバスケスよりはるかに年上なのだ。 生きてきた年数で魔族を計ってはいけない。魔族の精神はゆっくりと成長するのだ。魔族の精神年齢は見た目そのまま。見た目10歳なら、実質年齢50歳でも心は10歳。 コンラートから教えられて、それなりに納得したつもりだったが、ついうっかり気づいてしまうとどうにもいけない。 思わず額に手をやってぶつぶつと呟き出すクロゥに、会話を終えたらしい教師と村人達が迫ってきた。 「それであの!」代表手拍子女性教師が勢い込んで声を上げる。「ぜひっ、他の村の人達に自慢できるような誰も知らないウェラー卿のネタ、いえ、裏話、じゃなく、思い出を語って頂きたいのですが!」 お願いします! 村人達が声を揃える。 「……あー……」 何だかもう、何をどう反応して良いのだかよく分からなってきた。と、そこへ。 「こらこら、皆、いい加減にしなさい」 パンパンパンと手を叩きながら、おっとりと割り込んできた声があった。 中年─だからあくまで見た目─のふくよかな人物、確か村長、が、人の良さそうな笑みを浮かべながら村人達とクロゥの間に入ってくる。ふと気づくと、バスケスを囲んでいた人垣も崩れており、相棒が少女を肩に乗せたままクロゥの側に歩み寄ってきていた。村長の介入に、村人達が皆何事かと注視している。 「今、この方とも話していたんだがね」 この方、と手を向けられたのはグリエだった。どーもー、とにっこり笑っている。……悪意が滴っているような気がするのは……錯覚だろうか…? 「この際、ぜひお二方にお願いしようと思う事があるんだ」 にこにこと笑みを満面に浮かべながら、村長がクロゥとバスケスの前に進み出てくる。 「ウェラー卿と共にあの悪逆非道な大シマロンと戦い、ついに倒して下さった英雄のお二人が、この村にお立ち寄り下さったのも何かの縁。どうかお願い致します!」 村長の満面の笑みが、さらに輝きを増した。 「どうか我が村の、名誉村民になって頂きたいっ!」 うおおーっという歓声と、拍手が一斉に湧き起こる。 だから。何でこんなことに。 暗黒の王国に、悲壮な決意と共に上陸してからまだたった半日。 くらくらっと。目眩がクロゥを襲った。 「いっやー! 名誉村民、おめでとーっ!!」 ぎゃははは、とグリエが馬上で笑い転げている。 ちらっと横目で見れば、フォンビーレフェルト卿とユーリも、ぶふっと吹き出したかと思うと、くすくすと楽しそうに笑っている。 彼らの視線の先には。 「バスケス!」 たまらず叫んだ。 「いい加減、それを取れっ!」 「いやあ」 一馬身先を行く相棒が、にへらっと笑って振り返った。 その首に掛かっているのは、ピンクと白の可憐な花で出来た花輪飾り。そして頭にはオレンジ色と黄色の花でできた花冠。 村の子供達が出立の時に贈ってくれたものだ。 「こんなもの貰うの初めてだからよぉ。外すのもったいなくって」 実は、というか、当然というか、クロゥも子供達によって花を飾られてしまった。 衆目の中で、これほど恥ずかしい思いをしたのは初めてだ。 人々に混じって、グリエもフォンビーレフェルト卿もユーリも、満面の笑みで拍手していたが、笑いの種類がどう見ても村人達とは違っていた、と思う。 その場でむしり取りたかったが、さすがに純粋無垢な子供達の笑顔をまともに見たら、そんな無体な真似はできなかった。なので、村を離れて彼らの姿が見えなくなってから大急ぎでそれを外したのだが。 「捨てたりしたらダメだぞ! そんなコトしたら、あんたのことを捨ててくからな!」 すかさずそう言い放ったのはユーリだ。 なので不本意ながら、クロゥの花輪と花冠は荷物に括りつけてある。 「なあ」 声にふと見れば、ユーリが馬をバスケスに近付けていた。 おう、とバスケスが気楽な声で応じている。 「子供達に懐かれて、嬉しかった?」 「そりゃな」バスケスが頷く。「あんな無邪気に笑う子供達の顔を見たのは……何年ぶりかなあ。あっちじゃな、皆、生きてくのに精一杯で……」 笑い方も忘れちまった。 最後の一言は、何かを思い出したようにぐっと声が低くなる。 「大シマロンがなくなっちまえば、すぐに全部良くなるって思ってたんだけどなあ……」 「あんた、おれよか単純」 あっはっは、と、バスケスが天を仰いで笑った。 「全くだ。……なんだ、お前ぇも単純ヤローか。俺と一緒だな」 「あんたと一緒にされたくない!」 「ユーリは単純の上にへなちょこがつくんだ」 「へなちょこ言うなっ!」 フォンビーレフェルト卿に向かって、ユーリががう、と噛みつく。 わっはっは、と、バスケスがさらに笑う。相棒の笑顔から翳りが薄れていることに複雑な思いを抱きながら、クロゥはその顔を見つめていた。 「……あの子供たち……可愛かったなあ。帰りにも絶対寄ってね、なんてよぉ。……土産もどっさり貰っちまったし」 バスケスの鞍の横にぶら下げられた袋には、よく熟れた果実がいっぱいに詰め込まれている。もちろん村人達の心遣いだ。 「まさか、魔族ってのがこうも人間と変わらねえとはなあ。……魔よけの札まで貰ってきたってのに」 「げ、信じらんねーっ」 「だな」 「魔族と人間の違いなんて、成長が速いか遅いかってだけなんだぞ。確かに魔力はあるけど、人間にだって法力があるし……。まあ、人間の国にはいない生き物とかも、いることはいるけどさ。でも皆、化け物でも魔物でもないんだ。姿形は変わってても、人間をどうこうしようとか、まして戦争したいなんてこれっぽっちも考えてなんかいない。毎日が平和でありますようにって祈りながら、一生懸命生きてることに変わりはないんだ。なのにあんた達は……自分らの方がずっと数が多いからって、自分らと違うってだけで、魔族を化け物扱いするんだ」 「……ああ……そうかもしれんな……」 「そうなの! ……自分の目で確かめようともせずに、バカみたいな言い伝えを信じてさ」 「全くだな。……うん」 済まなかったな。許してくれや。 バスケスが、ユーリに向かって穏やかな笑みを投げかける。 一瞬、きょとんとユーリがそれを見返して、困ったような表情で顔を背けた。 「……………あんた、悪い人じゃないんだな……。えっと……ただのばすけっとさん」 「……バスケスだ!」 「ばかすか?」 「………おめー、頭悪ぃだろ」 「悪くて悪かったなっ!」 「自覚はしてんだ」 「うーるーさーいーっ」 ったく。がなられて、バスケスがうるさそうに眉を顰める。 「ほんっとにガキだな。おめー、俺よりよっぽど長く生きてるんだろうが」 「おれは16!」 え? とバスケスが目を瞬かせ。クロゥもまた、意外な言葉に目を瞠き、まじまじとユーリを凝視した。 「おれ、混血だからさ。成長の仕方がちょっと違うんだ。……コンラッドだって、12歳頃までは人間と同じだったって言ってたぞ」 「…そ、そうか……コンラートと同じか……」 そうだったのか。バスケスがぽりぽりと頭を掻く。 「えーと……悪かったな」 「……何について謝ってんだよ?」 「そりゃあ、その………あのよ、混血ってコトは、この国じゃ結構生き辛いんじゃねーのか?」 「全然!」 ユーリの答えは、こちらが脱力する程あっさりしている。 「……差別が完全になくなった、とは言えないかもしれないけどさ。もう昔とは違うし、それに……おれは皆にすっごくよくしてもらってる!」 だったら。 再び湧き上がった疑問を思わず声に出しそうになって、クロゥは隣を行くグリエにちらと視線を向けた。 だったらどうして、コンラートはこの国を出奔したんだ……? 「あんたさ」 自分の答えに対し、「そいつはよかった」と眉を開いて笑顔を見せるバスケスに、ユーリは本当に困った顔を見せて言った。 「割といい人なんだな」 「俺はかなりいい人だぞ!」 バスケスが胸を張る。ぷっと、ユーリが吹き出した。 「だよね。コンラッドが悪いやつを副官にするはずないし……。えーと、バカス……」 「バスケス!」 めんどくさいなー。ユーリがわざとらしいため息をついて呟く。 「どこがめんど臭いってんだ!?」 「じゃあもう、いいや」 「な、何がいいって……」 「あんたのこと、バーちゃんって呼ぶことにしよう!」 な、な、ななな……っ!? バスケスが馬上で窒息しかけた魚の様に口をぱくぱくさせて目を剥いている。 「俺がっ! 一体いつ! おめーのばあさんになったってんだっ!?」 フォンビーレフェルト卿とグリエが、ぶっと吹き出して、腹を抱えて笑いを堪えている。 ユーリは自分の考えがよっぽど気に入ったのか、満足げに頷いている。 「うん、いいな、ばっちり」 「何がばっちりだっ! 冗談じゃねえ、何がばーちゃんだ!」 「決めたし」 「決めるなっ!」 「遠慮深いな、バーちゃんは」 「遠慮なんざしてねえっ! だから、そんな妙な名前で呼ぶんじゃねーっ!!」 「こんな近いトコで、何でっかい声だしてるんだよ、バーちゃん。ほら、小鳥さんがびっくりしてる」 ぐうう、と腹の底から溢れ出る唸り声と共に、バスケスが握りしめた拳を震わせた。 何だか馬鹿馬鹿しくなって、クロゥは思わず深々とため息をついた。 と。 それを聞きつけたのでもあるまいが、ユーリがくるりと振り返ると、じっとクロゥを見つめてきた。 「………な、何だ……?」 嫌な予感に思わず吃る。 「……………拗ねてる」 「……え?」 「バーちゃんだけ、かっこいい呼び名がついたから」 「「ちょっと待て!」」 クロゥとバスケスの声がぴったりと重なった。 「誰が拗ねてる!?」 「どこがかっこいいんだっ!」 「……そうだよな、1人だけ呼び名をつけないのは不公平だよな」 「そんなモノはいらん! バスケスだけで充分だ!」 「えーと、確かクロエド何とかっていってたよな」 「話を聞けっ!」 「 バーちゃんがバーちゃんだからぁ……」 「待てと言ってるだろうがっ!」 「よし、決めた!」 ユーリがにっこーっとクロゥに笑いかける。 「ま、まさか……」 思わずうろたえるクロゥ。そんな彼を、ユーリがびしっと鋭く指さした。 「あんたは今日からクーちゃんだ!!」 「嫌がらせ以外のなにものでもないだろう、それはっ!」 クロゥの叫びに、グリエとフォンビーレフェルト卿の爆笑が重なった。 空の透明な蒼がわずかにくすみ、西の空に茜色が混じる頃、 彼らは小高い丘の上に辿り着いた。 「………でけえ……っ!」 ほとんど無意識かもしれない、バスケスの吠えるような声がクロゥの鼓膜を叩く。 目の前に、広大な魔族の都が広がっていた。 城壁に囲まれ、護られた都。まだ充分に残る陽射しを反射して、街全体が煌めいて見える。しかし、バスケスの視線の先にあるのは街ではなく、その先、街を挟んで対面にある山の裾野から頂きにかけて聳える巨大な城だった。 さほど標高の高い山ではないが、それでも彼らが今いる丘よりはずっと高い。 その山全体に、巨大な城が広がっていた。まるで山そのものに鑿を入れ、城の形を彫り出したかのようだ。緑の中に幾つもの尖塔が突き出し、数多くの棟々が回廊で繋がっているのが見える。そして山の頂きには、おそらくこの国の中枢が集まっているのだろう、城の本丸ともいうべきこれも巨大な城館が聳え立っていた。 この城は。クロゥは思った。 優雅であることを何よりとする大シマロンの城の様に、左右が完璧な対称を描いているという訳では決してない。贅を凝らした意匠に飾られている様にも見えない。だが、そのどこかバランスを欠いた、だが無骨なまでに堅牢そうな城からは、何か強烈な信念の様なもの、隠すこともごまかす事もしない強い意志、そしてそれらを支える絶対の自信、そんなものを感じる。 「あれが、我らの偉大なる魔王陛下がおわします血盟城だ。……まあ、政治、経済、軍事に関わる全ての機能が寄り集まってるし、それこそ士官学校に兵学校、最高裁判所に、金券の発行や外貨の管理を統括する眞魔国銀行総本部なんぞもあって……、まあとにかく見ての通りやたらとでかいんだな。自分の関係する場所以外、一度も他の場所を見た事がないって職員も大勢いるぜ。……だもんで、どこかの誰かもいまだに道に迷って遭難して、その度捜索隊が結成されるという……」 げほげほげほと、ユーリが突然咽せた。 「あれが……」クロゥは山の頂きにある城の中枢部、望楼や尖塔を備えた城館を見上げた。「あそこに魔王がいるのか……!」 クロゥの呟きに、ちょうど水筒の水を呷っていたユーリがまた咽せた。けふけふと咳き込むユーリに、「へなちょこー」とフォンビーレフェルト卿が呆れた声を掛けている。 まさかこんなに早く、この国に上陸してから一日と経たない内に王都に辿り着くとは思わなかった。この点については、目的はどうあれ3人の魔族に感謝しなくてはならないのだろう。魔物達の目を盗み、たとえ泥を啜り、地を這うことになろうとも、必ず王都に侵入する、と決意していたほんの10数時間前の自分を思うと、何とも脱力する思いだが……。……それにしても。 クロゥは、しみじみと息を吐き出した。 広大な街。堂々たる巨大な城。魔族の心臓部でありながら、禍々しさも、おぞましさもない感じられない。傾きかけた陽の光を浴びて、そこにあるのは、お伽話や伝説に語られる悪魔の王国などではなく、確かにこの大地に存在する、強大な、大陸のどの国にもない平和と繁栄の直中にある独立した一国家の首都だ。 クロゥの脳裏に、ダード師の笑顔が浮かんだ。 ………老師、あなたは正しかった。 「……さ、行こうぜ」 一言いって、グリエが馬首を返す。 ようやく、王都に入るのだ。 「すげえな……」 城門を入ったその瞬間から、視界は一気に大都会の街並と、そこを埋める人々の姿に支配された。 クロゥはその昔、大シマロンの王都で暮らしていた。大帝国の都はやはり隅々まで整備され、巨大な建築物が人を威圧するように並び、商店は贅沢な品を競って並べ、行き交う人々は皆、贅を凝らした衣装で身を包み、飢えも戦も、その言葉すら知らないという顔をして街を闊歩していた。広場という広場の噴水は惜しむ事なく水を吹き上げ、鳥は人間達からのおこぼれを貰って丸々と太っている。国を一つ征服する毎に、その富の全てを、人の血や涙すらも吸い上げて、あの王都は日々肥大していった。……間違いなく、大陸最大の大都だった。 目の前に現れた光景は、あの、大シマロンの王都に勝るとも劣らぬ程に広大な、そして魔族の国の王都と呼ぶにふさわしい、堂々たる迫力に満ちた街の姿だった。 街の中心を貫く大通りは、シマロンのものよりかなり幅があるようだし、馬の進む様子からみても整備は完璧のようだ。その両側に立ち並ぶのはどれも堅牢な造りの、かなり高層の建物ばかりで、その窓という窓にはやはり花が飾られ、石造りの無骨な壁を華やかに彩っている。見れば鮮やかな色合いのタペストリーのようなものを窓から壁に掛けたり、色とりどりの旗のようなもので飾り立てた建物も数多い。 そんな大通りを、文字通り人が埋め尽くしている。 「買い出しに出てきた主婦と、仕事や学校から帰るダンナ連中や坊っちゃん嬢ちゃん、明日の商売のために乗り込んできた商人や、逆に今日の商売を終えて城外の村に戻る農民達……。って感じで、今が一番人がごった返す時間なんだよ。きょろきょろしてんじゃねえぞ。一度はぐれたら、もうそれっきりだからな!」 案外脅しでは済まない雰囲気に、クロゥもバスケスも慌てて手綱を引き、グリエ達から離れないよう、人波を縫うように馬を進めていった。 大通りからほんの少し外れると、ようやく通りにも余裕が生まれ、人心地がついたような気がした。 庶民の住宅が並んでいるらしい地区を通りかかると、家々は一気にこぢんまりとしてきて、そこかしこから腹の虫を刺激する良い匂いが漂ってくる。 次第に空の茜色が広がっていくのを眺めながら、馬は更に進んでいく。 進むに従って、生活の匂いは薄れ、景色が少しづつ変化していった。庶民の家は、次第に門構えも立派なお屋敷へと変わっていく。血盟城に近づくに従って街は富裕層の地区となり、やがて貴族達の屋敷街となるのだ。血盟城を護る形で、貴族達の王都における屋敷が山の裾野に広がっているのだとグリエが教えてくれた。 行き交う人の姿はほとんど見えなくなる。 おそらくこの中に、フォンビーレフェルト卿の屋敷もあるのだろう。もしかしたら、コンラートの屋敷もあるのだろうか? 貴族としては最下級と言っていたコンラートの家が、こんな大きな屋敷街にあるとは思えないが、と首を傾げながらも、馬は止まる事なく進んでいく。 道はやがて坂になり、彼らの前に丈高い壁と、堅牢な門、そしてそれを護る兵の姿が現れた。 「……おいっ!」 焦って声を上げるクロゥに、グリエ達は振り返りもせず進んでいく。 「このままでは城内に入るぞ!」 「どこへ行くと思ってたんだ?」グリエがようやく振り返って言った。「コンラッドに会うんだろう? 城の中に入らなけりゃ、あいつには会えないぜ?」 コンラートが血盟城内にいる? 疑問が胸に湧く。だがそれを押し退けて、クロゥは新たな不安と疑念に焦りの声を上げた。 「そんな簡単に入れるのか!? 俺達は人間だし、それに……!」 だが馬は止まらず進み、そして。 兵達は彼らをちらっと見上げただけでその歩みを止めるでもなく、一行はあっさりと最初の門を潜った。 「……いいのかよ、おい……」 バスケスが戸惑った声を出す。クロゥもまた、唖然として前を行く3人の背中を見つめた。 「………フォンビーレフェルト卿がいるから、かもしれん……」 名だたる大貴族だと聞いた。彼がいるから、彼が引き連れた一行だから、何の誰何も受けなかったのかもしれない。 馬は坂を更に進み、幾つもの門、幾つもの建物を眺めながら、山の中腹から頂きへと向かっていった。 このまま行けば、あの丘から眺めた城の中心部、魔王がいる巨大な城館に辿り着いてしまう。 バスケスが、不安に揺れる眼差しでクロゥに視線を送ってくる。いつしか彼の顳かみには汗が浮いていた。 胸の鼓動が、皮膚を突き破るのでないかと思える程、激しく胸の内側を叩いている。 そして。 彼らの馬は、ついに最後の城門を抜け、山の頂き、魔族の城の中心部へと彼らを運んだ。 予想していたよりも、遥かに巨大な城が目の前に聳えている。城の中の城、いわばこれが本当の血盟城だ。 城門を抜けたすぐ前に広がる広場には、多くの兵がいた。その姿にも臆せずに馬を進めると、城の玄関ともいうべき門の前で、彼らはようやく馬を下りた。クロゥとバスケスもそれに倣って馬を下りる。と、すかさず数人の兵が寄ってきて、馬の手綱を取った。どう反応すべきかとグリエ達を見遣れば、3人は平然と手綱を彼らに任せている。 クロゥが彼らに歩み寄ろうとした時、ひどく華やかな色が彼の視界を過った。 「………女…?」 1人の女性が彼らに向かって歩み寄ってきている。だが、その姿は女性らしいドレス姿ではない。赤ワインの色、とでもいうのか、深い紅色の軍服に身を包んだ、おそらくは女性士官だった。 「クラリス」 声を発したのはユーリだ。とたんに、困ったというように眉を顰めて顔を背ける。 「お帰りなさいませ」 女性士官が感情を交えない声で彼らを迎えた。淡い金髪の、目を瞠るほど美しい、だがあまり暖かみを感じない人形のような顔立ちの女だ。 ユーリが、どこかおずおずと彼女に相対した。 「勝手なコトしてゴメンね。…えっと……グウェンに叱られた?」 「いいえ」女が首を左右に振る。「そのような事は何も。ただ……驚きました」 ごめんね。再び謝罪の言葉を口にすると、ユーリはため息をつき、それからクロゥ達に顔を向けた。 クラリスと呼んだ女性士官をそのままに、ユーリが近づいてくる。そしてクロゥ達の真正面に立つと、決意に満ちた表情で口を開いた。 「……あんた達が悪い人じゃないってことは分かったけど」 ユーリの瞳に、頑な光が蘇る。 「でも、これだけは言っとくから」 キッと眼差しを強くして、ユーリは真直ぐにクロゥ達を見た。 「コンラッドは、絶対あんた達に渡さない! 絶対にだ! コンラッドは……おれのものだっ!」 唖然とするクロゥとバスケスを置いて、ユーリは身を翻すと城の中に向かって駆けて行った。その後をフォンビーレフェルト卿と女性士官が追う。 広場に、クロゥとバスケスと、そしてグリエが残された。 「さて、行こうか。コンラッドが待って……るかどうかは分からねーけど、とにかく会いに行かなきゃ始まらねーしな」 気楽なグリエの声に、クロゥもバスケスも、ただ頷くことしか出来なかった。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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