風に向かって進路をとれ・3



「………俺達を、コンラートの副官と言っていたぞ……!」

 入国管理局の建物を飛び出し、初夏の陽射しの中で大きく息をついてから、クロゥは振り返って叫んだ。
「どうしてそれを…っ!? それにっ、何なんだ、あの女達は!? 一体何が……っ!」
 彼らのすぐ後ろに立つ男が、それがどうしたと言いたげに、小さく鼻を鳴らした。
「ヒスクライフ殿が、眞魔国に対して偽造した書類を提出するはずがねえだろうが。あの人はちゃんと本当の事を書いて、それをお前さんたちに持たせたのさ」
「…………だが、どうして………」
 新生共和軍において、自分達がコンラートの副官であったことを知っているのか。
 当然といえば当然の2人の疑問に、男は軽く肩を竦めて、唇を皮肉な笑いに歪めた。

「コンラッドが教えたからに決まってるだろうが」

 返ってきた答えに呆然と立ち竦む2人に、「人の迷惑になるから、さっさと歩け」と男がそっけない口調で促す。
「それから管理局のお嬢さん達については…その内教えてやるさ。……ほら、そこの門から外に出られる。入国許可証を出しておけよ。………門を出たとこに、港に出入りする連中を相手にしてる店が軒を連ねててな。朝も暗い内から色んな種類の朝食を出してしのぎを削ってるのさ。競争が激しいから、味のいい店が揃ってる。俺のお勧めの店で、坊っちゃん達が待ってるからな。そこでまずは腹ごしらえだ。この港は国でも一番王都に近いとはいえ、距離は結構あるんだし、しっかり食っておかないとな。……好き嫌いは聞かねえからそのつもりでいろよ」
 会話の主導権を全く譲ろうとしない男は、すぐに2人の先に立って、言葉を返す間も与えずにすたすたと歩いていく。
 何故、とか、どうして、とか、胸に渦巻く疑問や不安を口にすることもできないまま、クロゥとバスケスは男の後を懸命に追いかけていった。

 街に通じる門を何事もなく潜り、一歩踏み出した途端、クロゥ達は一気に人の「生活」の音の中に放り出された。
「旦那っ、お早うございます! 朝飯はいかがです? ウチのスープは絶品ですよ!」
「疲れた腹にはお粥が良いですよ! 毎日10種類のお粥を用意してます! 美味しいですよ!」
「取れ立て野菜のサラダはいかが!? 果物も新鮮ですよーっ」
 道の両側に立ち並ぶ店の呼び込みが、満面の笑みと共に2人に襲いかかってくる。
 何だか、この国に到着して以来、やたらと元気な魔族にしかお目に掛かっていないような気がするのは……気のせいだろうか。
 魔族といえば、陰に籠った無気味なもの、という印象しか持ったことはないのに。
 燦々と輝く朝陽を浴びて、どうしてこうも元気一杯なんだろう?


 男に連れていかれた店は、店の中だけではなく、道路にもテーブルを並べたかなり繁昌しているらしい店だった。
 そしてその外のテーブル席に、コンラートの弟と、名付け子、という2人がちょこんと座っている。
 初夏の、まだ涼しい朝の内なら、外での食事の方が確かに気持が良いかもしれない。
 2人は彼らが到着するのを待たずに、というか、無視して、2人だけでさっさと食事を始めている様だった。大きなパンらしいものに野菜か何か、色々と挟んだものを大きな口を開けながらかぶりついている。そしてテーブルには、スープらしいものがなみなみとつがれたスープ皿、というより大振りの椀が鎮座している。
 3人が近づいてくるのに気づいた途端、少年達はクロゥ達をじろりと見上げると、2人してふんっとそっぽを向いた。事前に打ち合わせしていたように、ぴったりと動きが揃っていた。
「おや、お連れさんがお見えだね?」
 掛けられた声に振り返ると、店の者らしい恰幅のいい年輩の女性が、盆を手に立っていた。
「今すぐ追加を持ってきますよ。……味は如何かねえ、坊っちゃん方」
 福々しい体つきにぴったりのにこやかな笑みを向けられた少年、赤毛の方、が、ぱあっと明るい笑みを返した。それこそ「花が綻ぶ」という表現がぴったりの、華やかで、かつ可憐で軽やかな、そしてそれを向けられた者が幸福感を覚えずにいられないような、たまらない魅力に満ちた笑みだった。
 思わず。クロゥもバスケスも、その笑みに魅せられたように、赤毛の少年から視線を動かすことができなくなっていた。
「すっごく美味しいよ、おばちゃん! 野菜も新鮮で美味しいけど、パンが最高! これもこのお店で焼いてるの?」
「ええ、もちろんですよ、坊っちゃん」頬を染めて、嬉しそうに女性が頷く。「ウチの亭主が毎朝暗い内から焼いてるんです。気に入って頂けましたかねえ?」
 うんっ、と元気に少年が頷く。
「とっても! 噛めば噛むほど甘味がじんわり、って感じで、ホント美味しい!」
「このスープも、じっくり煮込んであって旨味がたっぷり出ている」
 椀に直接口をつけて、ごくごくとスープを飲んでから、コンラートの弟も満足げに言った。
「さすがヨザックだ。良い店を知っているな」
「そりゃもうお仕事柄チェックは抜かりありませんって。……おばちゃん、俺達のもよろしく。一晩中馬を走らせてたし、もう腹ぺこだわ」
 はいはい、と女性が笑いながら店の奥に引っ込んでいく。
 ほら、ぼーっとしてないで坐れ、と少々乱暴に促され、クロゥ達も少年達の真向かいの席についた。
 少年達は相変わらず2人を無視している。が、今のやり取りからしても、この少年達が最初の印象とは違い、貴族らしからぬ、むしろ目下の者を思いやることのできる、好ましい性格の持ち主であることがはっきりと見て取れる。
 大貴族の子息が、こんな市井のちっぽけな店の者に、普通これほど優しい言葉を掛けたりはするまい。
 というか、そもそもこんな店で食事をしたりしないだろう。
 さすがあのコンラートの弟と名付け子、コンラートを慕うだけのことはある、と思えば、嫌われる立場になってしまった現実が、少々寂しくもある、と考えている自分に気づいて、クロゥは内心慌てた。
 魔族と仲良くなりに来た訳ではないと言ったのは、紛れもなく自分のはずなのに。
「で?」
 ふいに、男が声を上げた。
「……え?」
「先ずは自己紹介ってのが、普通じゃねえか? 飯を奢ってやって、王都まで案内してやろうってんだ。そっちから名乗るのが礼儀だろうさ」
 頼んだ訳じゃない、と口から言葉が飛び出しそうになって、クロゥはきゅっと唇を噛み締めた。魔物の中に身を潜める、という危険はどうもなさそうなものの、やはり今彼らに置いていかれるのは困る。
「…………クロゥ・エドモンド・クラウド、だ」
「俺ぁ、ただのバスケスだ。じいさまの代にシマロンに農奴に落とされて、家の名前なんぞどこぞへ消えちまったからな」
「………くろえど何とかと、ただのばすけっと……」
「……おめえ、全然覚える気ねえだろ……」
 宙を向いて呟く赤毛少年に、バスケスが顳かみをぴくぴくさせながら声を低めて呻く。
「俺はグリエ・ヨザックだ」
「グリエが姓で、ヨザックが名か?」
 ああ、そうだ、と男、グリエが頷く。
「それで、こちらの坊っちゃん達だけどー」
 名乗りますか? それとも無視を続けます? と顔を覗き込むグリエに、コンラートの弟がムッとした顔を正面、クロゥ達に向けた。
「………僕の名は、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムだ。その必要があれば、フォンビーレフェルト卿と呼べ」
 確かに大貴族らしい御大層な名だ。クロゥは納得したように頷いた。
「おれ、シブヤ・ユーリ!」
 赤毛の少年が名乗る。その名乗りに、おや、とクロゥとバスケスが瞳を上げた。
「……貴族ではないのか?」
 卿がついていない。
「えと」わずかな間を置いて、少年、ユーリが頷いた。「……うん、まあ、おれ、貴族じゃない、よ」
 気のせいか、目が泳いでいる。それにしても。
 ………大貴族と平民の子供が……家族として暮らしている…?
「まあ、とにかく」グリエがクロゥ達の視線を遮るように、声を高める。「坊っちゃん達に聞きたいことがあれば、まずこの俺に聞け。分かったな? ……ほれ、食事が来たぜ」
 はーい、お待たせ、と先ほどの女性が山盛りのパンだのスープの椀だのを乗せた大きな盆を運んできた。たまらない芳香が、クロゥ達の鼻を打つ。
 食えといわれ、野菜や肉を挟んだパンに齧りつき、実沢山のスープを啜る。
「………美味い……!」
 熱いスープの旨味や、香ばしいパンの甘味、しゃきしゃきとした野菜の水気が五臓六腑に染み渡る。
 心底腹が減っていたのだと、クロゥとバスケスはここで初めて自覚した。
 というか、何なんだ、この野菜の瑞々しさは。パンの香ばしさは。熱々のスープのこの美味さは!?
 表情に出そうになるのを懸命に押えつつも、クロゥは内心で叫んだ。
 魔族がこんなものを食っていいのか? 魔族なら魔物らしく、屍肉を漁るものじゃないのかっ!? いや、もちろんそんなものを出されても困るが。おかげでものすごく助かるが。ありがたいが。………畜生っ!
 心の中で喚きながら、ほとんど八つ当たり気味にがつがつと食物を腹に納めると、ようやくホッと息がつけるようになってきた。不思議なことに、この地にやってきて、初めて大地に足がついたような、何とも言えない安定感が身体に溢れてくる。
 全員がパンもスープもお代りをして、すっかり腹がくちくなると、座の雰囲気までもがどこか柔らかくなってきたようにクロゥは感じていた。
「それで……聞かせてもらいたい」
「何をだ?」
「先ほどの……コンラートがヒスクライフに俺達の事を教えたということ、だが……」
「当然だろうが」
 答えたのはコンラートの弟だった。
「ヒスクライフ殿は、コンラートが大シマロンに行った理由も経緯も全て理解しているからな。お前達の接触を受けてすぐ、これはコンラートに関わりがあるに違いないとこちらに連絡をよこしてくれたんだ」
「そ、それは……」
「コンラッドとヒスクライフ殿とは」グリエが苦笑を浮かべて補足の説明を入れた。「あいつが大シマロンへ行くずっと前から、つまりお前さん達なんぞより、遥かに長くて深いつきあいがあるんだよ。あの人は、お前らよりよっぽどコンラッドという男を知っているし、コンラッドもヒスクライフ殿を信頼してる。だから、お前らがあの人の屋敷の扉を開いた時には、お前らの情報は全てコンラッドからヒスクライフ殿に流れていたという訳さ。……てっきり聞いているもんだと思ってたんだけどな。あのお人も、結構いたずらがお好きらしい」
 あの時。
 ヒスクライフの屋敷で、決めてきた役どころを懸命に演じていた時。
 あの男は、何もかも、クロゥ達がどういう人間なのかも、その使命も、全て知っていたというのか。それもコンラートによって齎された情報で。
 それは紛れもない驚きだった。だがそれ以上に。
 自分達よりもコンラートを理解する人間が他に存在する、ということに、クロゥは意外なほど衝撃を受けていた。
「お前さん達は」クロゥの思いを見透かしたかのように、グリエが笑った。「自分達以外にコンラッドを知ってる人間がいるなんて、考えてもいなかったんだろう?」
 クロゥとバスケスが、揃って苦し気に顔を歪める。
「コンラッドを理解できるのは自分達だけだとか、それこそ、コンラッドの心の支えは自分達以外にいないんだとか、だからコンラッドが帰る場所は、自分達の所以外にないんだとか、そんな風に思ってたんだろ?」
 図々しいにも程がある。コンラートの弟、フォンビーレフェルト卿が吐き捨てるように呟いた。
 赤毛の少年、ユーリも、きゅっと眉を顰めてクロゥ達を睨み付けている。
「残念だったな」
 グリエが笑った。
「あいつのことを、お前さん達以上に知ってる人間なんて、ヒスクライフ殿の他に何人もいるんだぜ? お前さん達は、その大勢の中のほんの一部に過ぎないんだよ。……ああ、これもお前さん達のために言っておくんだが」
 コンラッドが、お前達を歓迎してくれるなんて期待はするなよ?
 皮肉な笑いと共に告げられた言葉に、クロゥの中で憤りが一気に高まっていった。
「お前も……」
「ん?」
「コンラートの事を誰より分かっているような口をきくのだな」
「当たり前じゃん!」
 グリエに言い返したつもりなのに、答えたのはコンラートの名付け子、ユーリの方だった。

「グリエちゃんは、コンラッドの幼馴染みで親友なんだぞ! 100年近く一緒に生きてきたんだからな。それに、コンラッドが軍にいた時には、それこそ何十年もコンラッドの副官を勤めてきたんだ。あんた達なんかとは比べ物にならないんだからな!」
「……全く思い上がりも甚だしい人間共が……!」

 ユーリが言い、ヴォルフラムが憎々し気に呟く。
 だが、少年達のそんな態度よりも、告げられたその内容に愕然として、クロゥとバスケスはグリエの顔をまじまじと見つめていた。
「………コンラートの……幼馴染み……?」
 100年という、途方もない時間を共有してきた……?
「副官を、何十年もって……」
 バスケスも、呆然とその言葉を呟く。

「さてと」
 徐にグリエが立ち上がった。
「そろそろ出発しましょうか。ぐずぐずしてたら、夕飯も食いっぱぐれちまう」


 港から、彼らはすぐに大きな街に入った。
 何となく、打ちのめされたような気分でグリエ達の後ろからとぼとぼと馬─腹の立つほど気のきくグリエが、ちゃんとクロゥ達の分まで用意してくれていた─を歩かせていたクロゥとバスケスも、足を踏み入れた街の大きさと賑やかさに、思わず目を瞠っていた。

 大通りに面して立ち並ぶ建物は、どれも丈高く、頑丈だが洗練された造りに見えた。商店街なのか、広々とした通りに面した建物の1階はほとんどが間口の大きな店で、一日の仕事の始まりを迎え、店の前を掃除したり、水を打ったり、門前を飾る花の手入れをしている者もいる。見れば、視界に入る建物の全ての窓という窓に、様々な花が飾られていた。
 ゆっくりと馬を進めるほどに、人の数が増えていく。
 時間が早いせいか、それはほとんど買い物客というよりも、仕事の準備をしている者か、仕事場に向かう者たちのようだ。その様子は、人間と全く変わりがない。というより、こうして街の様子を見ていると、「人間」と「魔族」の違いなど、欠片ほども見受けられない。
 ……俺達は、一体どこにいるんだ……? 決死の覚悟で、魔物の巣窟に忍び込んだんじゃなかったのか……?
 瘴気もなく、腐臭に満ちた闇もなく、目に映るのは朝陽の中で人々が明るく朝の挨拶を交わす、どこにでもある平和な一日の始まりの風景だ。
 いや。
 どこにでもある訳じゃない。
 少なくとも、かつて大シマロンであったあの土地のどこにも、こんな穏やかな朝はない……。
 クロゥの胸が、軋むように痛んだ。

 悔しさとか苛立たしさとか、溢れてくる複雑な痛みから視線を逸らすように、手綱をぐいと引いた瞬間。
「待て!」
 グリエの鋭い制止の声が上がった。
 何だ、と顔を向けたその視界に、ちまちまとした集団が飛び込んできた。
「……クロゥ……子供だ」
 バスケスが、妙にぼんやりとした声で言う。
 確かに。子供だった。
 見た目、7、8際から12、3歳頃までの子供達が2列になって、お喋りをしたり、歌を歌ったり、飛んだり跳ねたり、それこそ人間の子供と少しも変わらない賑やかさで、大通りを横断していく。
 どの子供達も、背中に同じような形の鞄を背負い、皆で揃って一つの目的地に向かっているようだ。
「学校へ向かう子供達だ。この列が切れるまで、無理に馬を進めるんじゃないぞ。お前達の国じゃどうか知らねえが、この国じゃ歩行者優先だ。馬や馬車に乗ってる者は、常に歩行者の安全に気を配ること! いいな?」
「……歩いている者が危険だから、か?」
 確認するクロゥに、「当たり前じゃん!」とユーリが声を上げる。
「安全第一、弱者優先! 緊急の場合を除いて、人通りの多い町中で馬を走らせるのは禁止です!」
「………そういうことを気にする国なのか……?」
 弱い者は、強い者に食われる。踏みつけられ、奪われ、そして滅ぼされる。弱いからだ。
 それが嫌なら強くなるしかない。できないなら文句をいう権利も資格もない。
 それが人であろうがなかろうが、馬は障害物を蹴散らして走る。そういうものだと、クロゥは思っていた。
 そんな人の社会の有り様を憎みながらも、そういうものだと諦めていた。
「………どの子も元気そうだなあ……」
 ふいに相棒の呟きが耳に飛び込んできて、クロゥはハッと視線を隣に向けた。
 バスケスが、どこか泣きそうな眼で子供達の集団を見つめている。
 子供達は。
 さほど派手やかな服装はしていない。だがどの子にも言えることは、皆が皆、頭の天辺から靴の先まで実に清潔な身なりで、その姿にも影にも、飢えも乾きも感じられないということだ。身体の線も、もれなく皆ころころとまろやかで、実に福々しい。
 バスケスが、ほう、と息をついた。
 彼は弟妹の全てを、悲惨な飢えと戦火のまっただ中でなくしている。
「学び舎に通えるということは、どれも金持ちの子弟というわけだな。確かに財力のある街のようだ」
 学校に通える子供の数だけ金持ちがいるということだ。
 ふん、と鼻を鳴らして冷笑するクロゥに、フォンビーレフェルト卿が冷たい眼差しを向けた。
「ばか者」
「……何だと……?」
「何も知らぬ癖に、聞いた風な口をきくなと言うのだ」
 ムッとするクロゥに、今度はフォンビーレフェルト卿がふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「眞魔国ではな」後を引き取ったのはグリエだ。「国民の教育と医療は全て国が金を出すことになってるんだよ。金持ちだろうが貧乏人だろうが、この二つに一切費用は掛からない。そして、子供が教育を受けることは、権利であると同時に義務でもある」
「………金が、掛からない……?」
「今、いりょうって言ったよな? それって、医者とか薬のことか? つ、つまり何かよ? 病気になっても、医者も薬も全部、まさか、全部……」
「全部タダ、だ。眞魔国に住う者が病や傷を得た場合、その者は完全に治癒するまで、最高の治療と薬を無償で与えられる権利を有する、ってコトになってるな」
 グリエの言葉に、クロゥもバスケスも、唖然と息をのみ言葉もない。
「どれほど国土が広大であろうと、民が疲弊していては国の未来はない。国家の力とは、すなわち民の力そのものを意味する。民が心身共に健康であるという基盤なくして、国家の発展などあり得ない。それが、当代魔王陛下によって掲げられた、我が国の理念だ!」
 誇らし気に、フォンビーレフェルト卿が宣言する。その隣で、ユーリもうんうんと大きく頷いている。
 身の内、その奥底からぞくぞくと湧き上がる震えに、クロゥは無意識に胸を押えていた。
「………聞きたいんだが……」
 声が、どこか震えて聞こえる。
「それでも…貧しい家はあるはず、だ。子の稼ぎがなければ立ち行かぬような……。そんな家の場合はどうなるんだ? ……先ほど、子供が教育を受けるのは義務でもあると言っていた、が……」
「その分を国が補助する」
 フォンビーレフェルト卿の答えは、明解過ぎるほどに明解だった。
「もちろん厳重な審査はあるが、本当に子供が働かなければ暮らしが立ち行かない家庭であると判断された場合は、国が生活を援助することになっている」
「………そこまでするのか……!?」
「する。そうでなければ、不平等だろう?」
「その代わり、税金は高いぜ?」グリエが笑って言った。「とは言っても、貧しい民の骨の髄までしゃぶるような、どこかの国よりゃよほどましだろうけどな」
 その証拠に、国のどこからも税金の額に対する不平不満は上がってこない。
 グリエの言葉に、当然だとクロゥは思う。
 家族が重い病に掛かって、しかし金がないばかりに、ただ死を待つ以外何もできなかった家庭を幾つも知っている。母親のわずか数日分の薬のために、身を売った娘を知っている。病に掛かって、もはや家族の重荷にしかならなくなったと、自ら首を括った老人を知っている。
 学どころか文字の一つも知らず、鍬を振るう以外にたつきの道を得ることもできず、大地が荒れ果てた後はただ虚ろに死を待つばかりだった数多くの農民達を知っている。

 こんな国が、そんな王が……この世界にあり得るのか……!?

 恐怖に似た震えに、クロゥは胸元をぎゅっと握りしめた。

「ほら、行くぜ?」
 いつの間にか、子供達の列はとうにその場を去っていた。



「うわー、来る時は暗かったからよく分からなかったけど、すっごい綺麗なトコなんだなーっ」
 のんびり馬を進ませながら、ユーリが明るい声を上げた。
 その声を、初夏の爽やかな風が攫い、広々と開けた天空へと運んでいく。
 心までが深呼吸するほど、のどかで美しい風景が眼の前に開けていた。

 街道に出てすぐ、彼らは馬を走らせ始めた。人家もまばらな場所に出ると、一気にその速度を速め、集落が見えると速度を落とす、ということを繰り返す。
 やはり歩行者の安全のためだと、ユーリが胸を張って言った。
 これでは効率が悪かろうと呟くと、そのために現在歩行者のためだけの道路と、馬や馬車の専用道路とを分けて整備する、という事業が進んでいるのだとグリエに教えられた。
「……なあ、クロゥ……。俺ぁ、何だか分からなくなってきちまったぜ。……魔王の恐怖政治ってのは、どの辺りにあるんだ……?」
「…………俺に聞くな……っ」

 そうして太陽は冲天に上り、時間もやがて昼時になろうかという頃、彼らはその村に差し掛かったのだ。
 見渡す限り延々と続く、果樹園。
 人の背丈ほどの木々が整然と並び、それが視界一杯に広がっている。そして、どの木々にもたわわに実る大きな、柑橘系の果物と思しき実。
 大地を埋める緑。黄金色の丸い実。天蓋の蒼。そして流れる透明な風。
 全てが陽射しの中で煌めいて、それを見つめる瞳までもが潤っていくようだ。
 クロゥとバスケスが我が故郷と愛しむあの土地では、もはや夢でしか見ることのできない光景がそこにある。
「ご存知でしたか、坊っちゃん。この実は眞魔国特産なんですよ。人間の国にも輸出してますし、この地方の重要な農産物の筆頭です。港にも近いから新鮮な状態で送りだすことができるし、おかげでこの辺りの村はかなり潤ってますね。……こんな感じで国民の所得が全体的に底上げになってるから、税金が高くなってもあまり生活に影響が出ないんですよねー」
 そんな理屈はどうでもよく、クロゥは時間を追う毎に見せつけられるこの国の豊かさに、ただ圧倒されていた。
「……話が全然違うじゃねえかっ」
 荒々しく声を上げたのはバスケスだ。
 その口調の激しさに、馬上のグリエ、ユーリ、フォンビーレフェルト卿が驚いたように顔を向ける。
「眞魔国には夜しかねえって、昔っから皆言ってたじゃねえか。腐った風が一日中吹いてて、瘴気が渦巻いてるって! 空には魔王の目がいつも国中を睨んでて、逆らう者がいないか見張ってるってよぉ。国中に魔物がうじゃうじゃいて、魔族は魔王の怒りに触れないよう、皆地面に這いつくばるようにして暮らしてるって……」
 魔族は美しい人間の世界を羨んでいる。だからいつか汚して滅ぼしてやろうと、常に奸計を巡らし、その時が来るのを手ぐすね引いて待っている。
 それが「正しい」言い伝えだった。はずだ。
「夜しかない?」
 驚いたように、ユーリが問い返す。
「んなワケないじゃん。眞魔国に夜しかなかったら」
 ユーリが真面目な表情で、眉を顰めて言った。
「ヴォルフが寝っぱなしじゃん!」
「…………そういう問題じゃないだろうがっ!」
 このへなちょこっ。フォンビーレフェルト卿が顔を真っ赤にして怒鳴る。同時にグリエがぶふっと吹き出した。
「そもそも! お前達もおかしいぞ!」
 フォンビーレフェルト卿の怒りは、クロゥ達にも向けられた。
「闇の世界だの、魔物がうじゃうじゃだの、何だそれは! 子供向けの怪談話を真に受けるなど、いい年をして何を考えてるっ!? それに大体、お前達はコンラートを慕ってここまでやって来たのではなかったのか!?」
 ハッと、2人がコンラートの弟に目を向ける。
「コンラートはこの国で生まれて育ったんだぞ! あのコンラートが、お前達の知っている、お前達が慕っているコンラートが、そんな無気味な国で生れ育ったと思うのか!? そんな世界で育った男が、ああいう性格に育つとそもそも思うのか!?」
「……そ、それは……」
 コンラートは人間だから。
 そう答えようとして出来ず、クロゥもバスケスも唇を噛んで項垂れた。
 あの地でなら。コンラートと自分達が命を賭けて戦って来たあの国でなら、胸を張って主張できただろう。
 コンラートは人間だと。魔族の血を捨て、人間として生きているのだと。だから魔族とは違うのだと。
 だが、この国を知ってしまったら。陽の光に溢れた、豊かなこの国を知ってしまったら。

「あんた達、自分の見たいものだけ見て、信じたいことだけ信じてきたんだ」

 ユーリの素直な言葉が胸を抉る。
 当たり前に信じていた、様々な「真実」があまりにもあやふやに姿を変えて、もう言葉にすら出来ない。

 だが。
 ふいに、クロゥの胸を突くような疑問が湧き上がってきた。

 ……では。ではなぜ。コンラートはこの国を捨てたのだ?
 魔族の国の実情を、なぜ全く口にしなかったのだ? そしてなぜ。

 なぜいきなり。共に生きてきた自分達を放り投げるように、この国に戻ってきたのだ……?

 馬はゆっくりと進む。
 農作業は朝の内になされるのか、果樹園にあまり人の姿は見受けられなかった。
 それでも時折通りかかる村人達が、ゆったりと道を行く彼らに、「こんにちは」と声を賭けてくる。
 「こんにちは」「いいお天気だね」と。
 のどかに声を掛け合いながら、ゆっくりと村の中心部に向かって馬は進んでいく。
「そろそろ昼ですし、村の中心に旅人向けの休憩所もあるはずです。そこで飯にしましょう。坊っちゃん、お腹空いたでしょ?」
 実はとっくにぺっこぺこ! ユーリが情けなさそうに笑って答える。と、その時。
 すぐ近くから軽やかな音楽が聞こえてきた。
「あれは……」
 わずかも行かない内に、果樹園が切れてちょっとした広場が道沿いに現れた。奥に集会所のような建物があり、広場では子供達が輪になって身体を動かしていた。
「村の学校ですよ。……お遊戯の時間かな?」
 輪になった子供達の傍らに大人が2人立ち、その内の1人が両手に楽器のようなものを抱えて演奏している。
 子供達が手を繋ぎ、教師らしい大人の演奏と手拍子に合わせ、「マイマイマイ……」と声を揃えながら輪の中心に向かって駆け寄ったかと思うと、それっと足を蹴りあげる。そしたまた、きゃあきゃあと歓声を上げながら広がっていく。
 手を動かし、足を動かし、単純な動きだがいかにも軽やかでリズムも良く、子供達の顔は笑いに溢れている。
 うーん、すっかり定着しちゃったなー。フォンビーレフェルト卿と並んでその様子を見ていたユーリが、なぜか苦笑を浮かべて呟いている。
「………っ、畜生!」
 唐突に。吐き捨てるような、何かを呪うような声が傍らから起こった。
「……バスケス……?」
 クロゥの相棒は、苦痛に耐えかねたように顔を背け、手綱を返した。
「………この国に生まれてりゃあ……!」
 低く激しく吐き出される声が、道連れ達の耳を打つ。
 クロゥ達を置いて馬を進めるバスケスの後ろ姿を見送って、ユーリがもの問いた気な視線をその相棒に向けた。
「バスケスは」ふう、とクロゥはため息をつく。「家族の全てを飢えと戦の中でなくしている。……あいつは長男だったんだが、文字通りの貧乏人の子沢山で、弟や妹が6人だか7人だかいたらしい。それが全員……。大分以前の事で、皆まだ幼かったから、だから……」
 クロゥの視線が、学校の校庭で踊る子供達に向けられた。
 そっか、とユーリが小さく呟く。
「我が国とて、ずっとこのように豊かだった訳じゃない。先の大戦の傷は癒えかけているものの、まだ残っている。………国や民がここまで明るくなったのは……当代陛下の御代になってからだ」
「……だが、コンラートはこの国と王を捨てた」
「捨ててないっ!」
 ユーリが気色ばんで叫ぶ。一瞬で色を失い、唇を震わせるユーリの肩を、傍らに馬を寄せたフォンビーレフェルト卿が抱く。
「お前らは何も知らない。何一つ分かってない」
 クロゥの背を、グリエの硬い声が叩く。
「……それは……」
「コンラッドに聞け。そして聞いたら……消えちまえ」


 硬い空気を纏ったまま、彼らは馬を進めた。
 と、間もなくその先に、馬を止め上空を仰いでいるバスケスの背を見付けた。
「……バスケス、何をやって……」
「………危ねえぞ、ありゃあ……」
 馬を寄せるクロゥを振り返らないまま、バスケスが呟くように言う。
 追い付いたグリエ達も、バスケスの視線の向く先に顔を向けた。
 あ、とユーリが声を上げる。
「何やってんだ、あの子! 危ないじゃないかっ!」
 道沿いの丈高い樹を、子供が1人、よじ登っているのが見えた。その根元では、やはり子供達が数人、樹を上っている仲間を見上げ、何か懸命に声を掛けている。
 同時に、彼らの耳に人のものではない、かん高い声が聞こてきた。
 ………めぇ、めぇ、めぇ………。
 切羽詰まった悲鳴に似た声。
「………猫……?」
「猫ですね。ほら、あの上の枝に子猫がいる。……たぶん、上って下りられなくなっちまったんだな。それを助けに上ってるのか……」
 言っている間に、子供は樹を上りきり、そして枝に身体を預け、そこにしがみつく子猫に向かって腕を伸ばし………。だが。
 不自然に子供の身体が揺れたかと思うと、何かが折れる鈍い音と同時に子供の身体がぐらりと傾いた。
「…………っ!!」
 誰が反応するより早く、バスケスが手綱を振り、一気に馬を走らせる。
 落下する小さな身体。悲鳴。
 だが次の瞬間、子供の身体はバスケスの逞しい腕にしっかりと抱きとめられていた。
 10になるかならないかの幼子とはいえ、遥か上空から落ちてきた身体を受け止めて、巨躯を誇る男は落馬どころか小揺るぎもしない。
「バスケス!!」
 一行が駆け寄る。と、バスケスの腕の中で放心状態だった子供、幼い少女が、腕に子猫をしっかりと抱き締めたまま、ものすごい勢いで泣き出した。一拍遅れて、樹の根元に集まっていた子供達もわんわんと泣き始める。
 のどかな村に、子供達の絶叫にも似た泣き声が響いた。


「ありがとうございましたっ!!」
 村の大人達に一斉に頭を下げられて、バスケスが照れくさ気に頭を掻く。
 当初、何事だ、人攫いか、それとも盗賊かと、得物すら手にして集まってきた村人達だったが、事情を知らされた後は、村人こぞってひたすらお詫びと御礼が繰り返された。

「どうぞたんと召し上がって下さい!」
 彼らが王都へ向かう途中で、昼食を摂ろうとしていたのだと聞ききつけた村人達に、半ば引きずられるように連れてこられたのが村の広場だった。
 大きな広場には、確かに旅人向けなのだろう、広場を囲むように屋台が並び、時分時ともあってか肉や野菜の焼ける香ばしい匂いや、「絞りたての果汁はいかが?」と誰かに呼び掛けているらしい声も聞こえてくる。いくつものテーブルと椅子が並べられ、見ればすでに何人かの人々がテーブルで食事を始めていた。
 彼らが席に座る前に、串に刺して焼いた肉だの野菜だのパンだのがどんどんと運ばれてくる。
「娘の命の恩人へのお礼としちゃ粗末なものですが、どうぞご遠慮なく召し上がって下さい!」
 少女の両親始め、駆け付けてきた村長だの近所の者だのが一緒になって、またも頭を下げてくる。
「あ、いや、こうまでされると返って申し訳ない。当然の事をしただけなので、どうかもう気にしないで頂きたい」
 照れて身の置きどころがなさそうにしている相棒に代わって、クロゥがそう答えた時。
「おーっ、うまそーっ」
 と、脳天気な声が聞こえてきた。
 見ればユーリが瞳を輝かせ、わくわくとした様子で目の前に並べられた料理を見入っている。
「うーん、たまらない焼き加減っ」
 そう言ったかと思うと、グリエがいそいそと肉や野菜を串から外して皿に並べ、と思ったら、ひょいひょいとそれを自分の口に放り込んで相好を崩した。
「んーっ、お、い、しっ」
 はい、坊っちゃん、どうぞー! ユーリとフォンビーレフェルト卿に皿を勧める。
「……………」
 こっちが遠慮してるのに、どうしてこいつらっ! と内心いきり立つ間にも、3人は人々に見つめられながら平気で食事を始めている。と。
「おじちゃん」
 下から幼い声が聞こえてきた。見下ろすと、あの少女が手に皿を持ってバスケスを見上げている。
 皿には先ほど目にした黄金色の果物がざくざくと大振りに割られて盛られていた。
「ウチの畑でできたの。……食べて下さい」
 おお、とバスケスが皿を受け取る。少女の肩には、子猫がしっかりと掴まっている。
 椅子に腰掛けながら、「怪我はなかったのかい?」とバスケスが少女に問いかける。少女はにっこりと笑って大きく頷いた。
「子猫も無事でよかったなあ」
「うん!」
 ほんのちょっと躊躇ってから、バスケスは腕を伸ばして少女の頭に手を置いた。軽く撫でてから手を離し、ついでのようにちょん、と子猫の頭を突つく。
「父ちゃんや母ちゃんを心配させるようなことをするんじゃねえぞ。お転婆も悪かあないが、怪我をしちゃ話にならねえ」
 うん、と少女が頷く。
「おじちゃん、あのね………ありがとう」
 頬をほんのり染めた少女の姿に、バスケスのいかつい顔が笑みに崩れる。だがその笑みにどこか切なさが混じっていることに、クロゥはちゃんと気がついていた。
 結局自分だけが立ったままであることに気づいて、ため息を一つつくと、クロゥも席に着いた。

「……では、こちらのお二方は人間の国から」
 ふとクロゥが顔をあげると、村長らがグリエと話し込んでいる。自分達の事らしい、と、クロゥは肉を咀嚼しながら耳を澄ませた。
「そうなんだ。坊っちゃん方はさる筋から、このお二人をお迎えするように命じられてね」
 ほお、と、どう見てもやんごとない身分であること間違いなしの少年達と、クロゥ達とを見比べて、周りを囲む村人達は、瞳を好奇心できらきらと輝かせ始めた。………のどかすぎて、刺激が少ないらしい。
「実は……あんまり大きな声で吹聴されると困るんだが」
 グリエが声を潜め、村人達が顔を寄せる。
 何を言い出すつもりだと睨み付けるクロゥに、グリエがにやりと、悪気たっぷりの笑みを浮かべた。

「このお二方はな、あのウェラー卿が大シマロンに潜入なさっていた折り、ウェラー卿の何と副官として、卿の手足となって、大シマロンと戦って下さった英雄でいらっしゃるのさ!」

 さっきの質問の答えが出るぜ。

 うおお、という歓声と共に、周囲が一気に興奮状態に陥る。
 呆然とするクロゥとバスケスの耳に、グリエの楽しそうな声がなぜかはっきりと聞こえてきた。


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展開がしつこくて、鈍くて、ホントに申し訳ありませんっ。
全然進まなくて、ゴメンなさいっ。

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