「……シマロンの……工作員、だと……?」 愕然と声に出せば、グリエとヒスクライフにはっきりと頷かれてしまった。 「そんなバカな事があるかよっ!?」バスケスも怒鳴る。「俺達にも、それから大シマロンの残党共にも、眞魔国をどうこうしようなんて余裕はねえ!」 だがその一言で、クロゥはハッと気づいた。 「まさか……小シマロン……?」 呟く言葉に、バスケスが「え!?」と視線を相棒に向ける。 大シマロンの王族を保護し、援助すると言いながら、実は大シマロンと反乱軍の両者共倒れを画策し、漁夫の利を得ようとする小シマロン。 「何を狙って……」 「お前らの後ろに、眞魔国がつくと考えたからだろうな」 「どうして……。コンラートのことは……」 「隊長のことじゃねーよ」 どこか冷たくグリエが言う。 「じゃあ……」 「お前達がこの国に来たからだ! それくらい察する事もできんのか、馬鹿者!」 背後からの唐突な怒鳴り声。 咄嗟に振り返った先に腕組して立っていたのは、フォンビーレフェルト卿だった。 「ユー……陛下と兄上達がお待ちだ。来い。……ヒスクライフ殿も、どうぞおいで下さい。ヨザックは、先ほどの件を頼む」 フォンビーレフェルト卿の言葉に、「了解」と答えて、ドレス姿のグリエが去っていく。 さあ、参りましょうと促され、クロゥとバスケスはのろのろとヒスクライフの後に従った。 「別にお前達の動きから全てが始まった訳じゃない」 コンラートのその台詞は、だがクロゥ達の心を落ち着かせる薬にはならなかった。 クロゥとバスケスが、フォンビーレフェルト卿とヒスクライフに連れられるようにやってきた執務室には、すでに宰相フォンヴォルテール卿、コンラート、ムラタ、そして王佐フォンクライスト卿が王を囲んで立っていた。 巨大な執務机につくのはもちろんユーリだ。大きく、それだけで前に立つ者を圧倒しそうな威風を持つ年代物の机と、小柄で華奢なユーリの取り合わせはひどくちぐはぐな印象を醸し出している。が、それに今意識を向ける者はいない。ユーリは、つい数時間前の明るい表情とは打って変わって、暗く緊張した面持ちで机の上を見つめ続けている。 魔王の執務室。 宰相の執務室同様、事務効率を第一に考えた造作で、重厚な雰囲気も華々しさもほとんどない。ただ、その部屋を使用してきた歴代の王の個性にかなり左右されたのだろうと思われる証が、部屋のあちこちに散見された。 天井の色鮮やかな幾何学模様。シャンデリア。柱や窓枠や壁のあちこちに施された精緻な彫刻。 威厳を押し出そうとする王も、華美を尽くそうとする王も、その好みのままにこの部屋を作り変えてきたのだろう。だが、当代魔王は、そのような演出には全く興味がないようだった。 広大な執務室は、基本的には宰相の部屋と同じ造りだ。魔王のための机と、その前に会議用だろう、10人以上が座れると思える大きな机が置かれ、それを囲んで椅子が並べられている。そこには今、書類だの本だのペンだの半分中味の減ったお茶のカップだのが、それこそ適当に積まれ、放り出され、乱雑に鎮座していた。その奥には大人数がゆったり座れそうなソファセットがあるが、そのテーブルの上にも色々と物が放り出してある。書類も山積みだ。ソファの背もたれには、何故か毛布が無造作に掛けられている。他にあるものといえば、本棚と細々したものを収納するらしいチェストや収納棚がいくつか。本棚には本と、正体不明の物が適当に突っ込まれている。 仕事をしているのは良く分かるが、「王の執務室」と呼ぶには、その場所はあまりにも庶民的過ぎるようにクロゥは感じた。とにかく、自分がいて場違いに思えないというのはどうなのだろう。 この部屋でもっとも威厳を醸し出し、そのために妙に浮いて見えるのが魔王の机。華やかなものは、それこそ窓際に飾られた花と、それから本棚や背の低いチェストの上に並べられた、何体もの手作りと思しき毛糸で作られた人形だけだった。 「……小シマロンは、新生共和軍指令部はもちろん、おそらく俺の動向も探っていたのだと思う」 コンラートが硬い声で言った。 「俺が……ベラール直系の血筋を標榜していながら、王位を狙おうともせずに眞魔国に帰国した時から」 人は誰でも己の価値観でしか他人を測れない。支配欲に駆られる者は、支配欲を持たない者の存在を信じる事ができない。 「だから、俺の帰国には裏があると考えたんだろう」 大シマロンと小シマロンを滅ぼすための画策だと。 「そして……新生共和軍の旗色が悪くなってきたところで、俺の副官だったお前達が眞魔国に向かった。ついに動くと、彼らは考えた……」 「ついに魔族が」後を引き取って言葉を継いだのはムラタだ。「反乱軍の背後について、彼らを手足として本格的に両シマロン壊滅に動くってね。だからその前に魔王陛下の足元を騒がせて、その出足を挫こうとしたんだね。機先を制するってやつさ。ま、小シマロン王の判断力と決断力、それから行動力は褒めてやってもいい。根本的に間違ってる事を別にすれば、だけどね。………どうしたのかな、二人とも?」 ムラタにわざとらしい口調で声を掛けられ、クロゥは震える唇をきゅっと噛み締めた。隣に立つ相棒の表情も、強ばっている。 「………俺達が……ここにやってきた、ために……」 何の関わりもない眞魔国の民と、そして誰よりこの魔王に、さらなる痛みと苦しみを与える事になってしまった。 クロゥは目の前で苦悩する少年王の青ざめた顔を見ておれず、視線を床に落とした。 分かってはいたことだった。自分達がこの魔王を哀しませる存在だということは。しかしそれでも、国で待つ仲間のため、あの滅びかけた国に生きるしかない民のため、コンラートを説き伏せたい思いを消す事はできなかった。 しかしこれでは……。自分達は厄病神以外の何者でもないではないか。 「まあ、まるっきり関わりがないってワケでもないけどね……」 ムラタがぽりぽりと頭を掻く。 「お前達にはお前達の事情があることは承知している」 声は、フォンヴォルテール卿だった。 「むしろ問題なのは、我が国の情報収拾及び警備態勢だ!」 吐き捨てるように言う宰相の後を受けて、フォンクライスト卿が大きく頷く。 「全くグウェンダルの言う通りです! 易々と工作員ごときの侵入を許すとは弛んでいるにも程があります! もしも、ヒスクライフ殿の情報網に掛からなければ、一体どのような惨事になることか! この上は早急に態勢の見直しと引き締めを図らねばなりません!」 「などという話はコトが終わってからにしようね。それよりも目の前の事態を収集させることを考えよう」 ムラタの言葉に、「取り乱しまして」とフォンクライスト卿が慌てて頭を下げる。 ムラタは、厳しい表情のユーリにちらりと視線を向け、だがすぐに顔を上げると、コンラートとフォンヴォルテール卿の二人を交互に見遣った。 「本来、王都警備の総司令官はウェラー卿だけれど……」 はい、と頷いて、だがコンラートは視線をユーリに向け、それ以上の言葉を発しなかった。ムラタが「うん」と訳知り顔で答える。 「君には陛下をとことん護ってもらわなくてはね。では……」 「今回の件について、全ての指揮は私がとる」 フォンヴォルテール卿が宣言した。そして、顔をユーリに、それからムラタに向けると、手にしていた書類─ほとんどが地図だった─をユーリの執務机に広げて状況の説明に入った。 「兵の他に情報部員を、工作員が上陸したと推定される場所から王都に至るまでの街道に展開させ、捜索及び情報収集をさせている。王都守備兵の各部隊長にもすでに通告済みで、人数を予定の倍に増やして配備も完了した。それから、王都駐在のヴォルテール、ビーレフェルト、それからクライストの私兵は全て、一般人に身なりを変えて、民の中に。……しかし、それよりも…陛下」 フォンヴォルテール卿が言葉と語調を改めて、無言のままの魔王陛下に言上を始めた。 「王都と民、そして陛下の安全をより確かなものにするには、やはり…」 「祭は中止しない」 きっぱり答えるユーリの声には、クロゥ達がこれまで耳にした事のない厳しさがあった。 「しかし…!」 「分かってる!」 ユーリがここで初めて顔を上げた。顔が緊張に強ばっている。だがその瞳には、揺るぎない強い意志があるようにクロゥは感じた。 「……民の安全を考えたら、祭を中止して皆を家に帰した方がいいのかもしれない。警備だって捜索だって、その方がずっとやりやすいだろうし……。でも……!」 でも、と繰り返して、再びユーリは視線を落とした。机の上に放り出された格好の両の拳が、かすかに震えている。 「すでに工作員は上陸してしまっているんだよね?」 ムラタが冷静に言葉を挟む。全員の注目が最高位の聖職者である少年に向かった。 「ヒスクライフさんの情報から計算すると、敵はすでに王都に入っている可能性が高い。彼らはおそらく祭が開催される事を知って、自分達の幸運を彼らの神に感謝したんじゃないかな。王都が人で溢れかえっているなら、自分達も身を隠さず堂々と歩き回る事ができる。人波に乗じて、どこでも騒ぎを起こす事ができる。血盟城が開放されているとなれば、中へ入り込み、魔王の居城を荒らす事もできるし、もし最高の幸運に恵まれれば、有史以来、初めて魔王をその手で倒した英雄になることもできる、かもしれない。神に選ばれた正義の戦士を自認する彼らは、自分達のあまりのタイミングの良さに、きっと酔いしれているに違いないよ。こんな素晴しい舞台を逃すはずはない。彼らは……この祭の日にこそ」 必ず。動く。 いっそ厳かなまでのムラタの言葉に、ユーリがキュッと目を瞑った。苦し気な主の表情に、コンラートの顔も曇る。 「なればこそ、祭を中止し……」 フォンヴォルテール卿のその言葉は、しかし、ふいに割り込んできたものに遮られた。 全員の視線が改めてそこへ向く。 くっくっく……と、ムラタが笑っていた。 誰かの、喉の鳴る音がする。 「何を言っているんだい? フォンヴォルテール卿」 ムラタが笑みを浮かべたまま、宰相を下から見上げた。フォンヴォルテール卿が、思わず、といった様子で軽く仰け反った。……同じ上目遣いでも、する者が違えば与える衝撃の種類も違う、らしい。 「祭があるからこそ、『正義の戦士』達がのこのこ這い出てきてくれるんだよ? これが中止になってごらんよ。せっかくの壮大な打倒眞魔国計画がダメになって、またまた橋の下の草むらか、どこかの家の床下に潜り込んでしまうじゃないか」 シマロンの「正義の戦士」は、ムラタの頭の中では鼠や害虫と同程度のものらしい。 「我が軍の精鋭達に、王都中のどぶ浚いや床下掃除をさせる気かい? そんな無駄な事をする必要はない。街道に展開させたっていう兵や情報部員達も、全員王都に戻してくれないかな。街道調査は後から報告書でも作る時にやればいいよ。それよりも、王都の警備をとことん厳重にして、隙を見せないことが重要だ。街中でテロ…犯罪行為を起こそうという浮気心を起こさせないためにね。その上でやる事がある。彼らには……最高の舞台で、英雄としての計画と行動を完遂する事に集中してもらうことにしよう」 「………猊下」 誰もが呼吸も忘れたように沈黙する中で、コンラートが低く声を上げた。 「それはつまり……工作員達を逆に誘き寄せる、と?」 その言葉に、ムラタがにっこりと笑った。 「戦略上、最も理想的な作戦はね、敵の動きにどううまく対処するかということじゃない。敵をどれだけうまく自分達の掌の中で踊らせるか、ということなんだよ。そう、ウェラー卿、彼らには最高の餌を用意しようじゃないか。魔族の国にまでやってくるほどの使命感と正義感の持ち主達だ、さぞ英雄願望も強いだろう。そこを刺激して、歓び勇んでやってこずにはいられないような餌を、ね。その上で……」 ムラタが無邪気と言っていいほどの笑みを浮かべて、全員を見回す。 「その上で一気に。全員を、叩き潰す」 こいつが聖職者だなんて、絶対嘘だ。クロゥは心底そう思った。 …………こいつだけは敵にしたくない、かもしれない……。 だが。 「餌は」 思いもかけない声が上がった。 「おれだ」 「陛下!」 悲鳴のようなフォンクライスト卿の声。 「バカを言うなっ、ユー…」 「うん。君だよ、シブヤ」 怒鳴りながら婚約者に迫りかけていたフォンビーレフェルト卿の動きが、一瞬で止まった。 「魔王暗殺なんてものすごいお手柄、そうそう立てられるものじゃないしね。それこそ末代までの名誉だよ。祭り気分に乗じて君が城を出て、ある場所に向かったという噂を流そう。そこに『人間世界を護るため神に選ばれた正義の戦士達』に来てもらう。……ああ、そんな目で睨むのは止めてくれないかな、フォンビーレフェルト卿。それから…ウェラー卿も。殺気がばしばし来ちゃって、顔が痛いよ。僕だって、いくら何でもシブヤ本人を囮にしようなんて考えていないさ。噂だけ流してそれで……」 「それじゃダメだろ?」 ユーリが、ムラタをまっすぐに見ていた。ムラタが顔に浮かべた笑いの形を変える。どこか、困ったように。 「噂だけじゃ疑われるよ。ここまで来る程のメンバーなら、きっと有能だと思うし。俺が城を出て、その場所に向かうって話が流れて、そして実際にそこへ向かう俺の姿をしっかりと見せないと。そいつらだって、きっと民の中に混じって様子を窺っているに決まってる。だったら、ちゃんとあれが魔王だって分からせて、存在をはっきり目に焼きつけさせて、噂通りにおれが動くところを見せないと。じゃないと、きっと疑われると思う。……囮になるのはおれだ。おれ自身だ。そうだろ? ……お前がそれを分かってないはずないと思うけど?」 ユーリに笑いかけられて、ムラタが参ったという顔でため息をつく。 「まあねー。……ただまあ、ここでそれを口にするのはマズいかなー、と思ったわけでさ。後からさりげなく君に話をしようと……」 「ではやはり陛下を囮に……!?」 コンラートが声を尖らせる。 「完璧を期すためにはね。……だからそういう目で睨み付けるのは止めてくれないかなー。シブヤはちゃんと覚悟を決めてるワケだし」 その場の全員が、ハッとユーリに視線を向けた。 「……陛下…!」 「うん、おれがやるよ、コンラッド。それが一番いいとおれも思う。だっておれ、王様だもん。国と民を護らなきゃ。ね? 後は……もし何か起きても、祭に来てくれた皆に迷惑が掛からない場所を選んでもらいたいんだけど……?」 困り果てた顔で、ムラタを除く側近一同が顔を見合わせた。 王を囮にする作戦を止めたい、だが…。 「実は場所ももう決めてあるんだ」 ぐ、と全員が詰まる。一体この大賢者は、どこまで先を読んでいるんだ? 「ムラタ、そこ、どこだ?」 ユーリの質問に、ムラタはにこりと笑って、机に広げられていた王都の地図の1点を示した。 「……ここは……っ!」 コンラートが驚きの声を上げ、ムラタを凝視する。 「まず王都の外れであること。万一の事が合っても、街と民にはほとんど害をなさないこと。何より、王がぜひ見たいと言い出してもおかしくない場所であること。そして、もう気づいていると思うけど、ここには今日、工作員にとっては最高の戦利品になるだろう物が大量に集められる。これも囮としてはすばらしいと思うけどね」 「き、危険です。あまりにも、危険すぎます……っ!」 フォンクライスト卿が叫ぶ。 「万一のことがあれば、へっ、陛下の御身が……!!」 「危険は承知の上」 ムラタはどこまでも冷静だ。いや、むしろ慌てふためく王の側近達を、どこか呆れたような、そしてわずかに面白がっているような顔で見ている。 「いいかい? 先手を取るのはこちらなんだよ? 彼らは僕達がすでに彼らの存在を知っていることすら、まだ気づいていないはずなんだ。その僕達が掛けた網の中に、敵は自ら飛び込んでくるんだよ。そこで失敗する程、僕達はマヌケなのかい? まさかと思うけど、君たちは全てをお膳立てできる立場にありながら、陛下や民を護る自信がない、とでも言うのかな? 陛下はもちろん、この国の安寧を護る力は、まさかそれほどまでに脆弱だとでも? 軍事作戦に危険が伴わないなどあり得ない。陛下も覚悟を決めている。なのに側近の君たちが、陛下の身の安全を護る事だけに汲々としていては……」 バンッ、と鈍い音が響いた。 平手で机を叩き付けたフォンヴォルテール卿が、すっくと背筋を伸ばした。目がムラタを睨み付けている。 「……それ以上仰せにならずとも結構だ。……確かに、工作員どもを誘き寄せるには、この場所が最適だろう」 「グウェン!?」 「兄上っ!」 弟達の声にも眉一つ動かさず、フォンヴォルテール卿はユーリに視線を向けた。 「すぐに具体的な作戦を練る。勝負は夜だ。闇の中故、不測の事態もあり得るが、しかし……」 宰相は、自分を見上げて揺るがない王の瞳を見つめて言った。 「御身はもちろん、民にも王都にも、傷一つつけさせはしない……!」 「うん」 ユーリが、ふわりと笑う。 「信じてるよ」 「……その場所というのは……?」 思わず口を挟んだクロゥに、コンラート達が驚いたように一斉に顔を向ける。クロゥとバスケス、そしてヒスクライフが同席している事をうっかり忘れていたらしい。 「前に」 どうしようと顔を見合わせるコンラート達を余所に、答えたのはムラタだった。 「シブ…陛下が、この祭りでちょっとした面白い企画がある、と言ってたのを覚えているかな?」 「……ああ、確かに……」 ちょっとした、ではなくて、すっごい、だったと思うが。 「あれさ。……こちらに、ありそうでなかったもの。結構時間を掛けて、研究開発して、今夜ついにお披露目という段取りになっていたんだよね」 「ありそうで…なかった、もの……?」 そう、とムラタが頷く。 「ここは、御花の丘。本日のメインイベント、花火の発射会場だよ」 そもそも、『花火』とは何なのか。 その質問には、『見てもらうしかない』という答えが返ってきた。だが、驚いたのは、そのために大量の火薬が必要だという。 「じゃあ、工作員達の戦利品になるものというのは……火薬なのか……!?」 「火薬そのものというより、まあ、火薬を使って作ったもの、かな」 コンラートの説明も、今一つはっきりしない。 だが、ムラタがとんでもなく危険な賭をしようとしている事だけは分かった。むしろ、側近達が納得するのは早過ぎるのではないか!? ものは火薬だ。それも大量の。万一の事があれば………。 「御花の丘を、兵で取り囲むことはできない」 クロゥの驚きと焦りをそのままに、ムラタが作戦行動についての説明を始めた。 「それでは敵を誘い込む事はできない。僕達が何も気づいていない、と思わせなくては意味がないのだしね。少なくとも、目に見える警備は通常通りに。むしろ緩く。そしてもちろん陛下の護衛も、最少人数で、ということになる。直接陛下の側につくのは、ウェラー卿、フォンビーレフェルト卿、フォンクライスト卿、それと……」 「俺も入れてくれっ!!」 怒鳴り付けるような声に、全員の視線が集まった。 「………バーちゃん……」 小さく、ユーリが名を呼ぶ。 バスケスが、決死の覚悟を全身に漲らせて立っていた。 「俺達が来ちまったために、こんな事になったんだ。それに、民を護るために、おめ…いや、魔王、陛下が、自分から囮になって敵を引き付けるなんぞ…そんな、そんなことを聞いちまって、放っておけるワケがねーじゃねえかっ! 俺も、その護りの中に入れてくれ!!」 「人間が!」 バスケスの叫びを遮るように、声を荒げたのはフォンビーレフェルト卿だった。 「魔王陛下の御ために、命を懸けるとでも言うつもりか!? そんな言葉を、信用できると思うのかっ!」 「信用して頂きたい!!」 ハッと、バスケスが隣を見遣る。 クロゥはぐっと剣の鞘を握りしめ、前に進み出た。 「確かに我々は人間で、魔王陛下の臣でもない。しかし、必ず、この剣に誓って、我らの名誉に誓って、魔王陛下を御護りすると約束する! だから……我々二人を、陛下を直接護衛する者に加えて頂きたい!」 「責任を感じているというなら……」 フォンヴォルテール卿の言葉に、二人は激しく首を振った。 そうじゃない。そういうことじゃないのだ。 「攻めてくるのは、お前達と同じ人間だ」 まだ疑いを捨てないフォンビーレフェルト卿が、声を低める。 「いざとなれば、同胞である人間達につくということも……」 「クーちゃんも、バーちゃんも、そんなことしないよ、ヴォルフ」 キッと眦を上げて言い返そうとしたクロゥより先に、少年の何の含みもない声がその場を制した。 「二人ともそんな人じゃないよ」 「……どうしてそんな事が言える」 フォンビーレフェルト卿の硬い声音に、ユーリが「うーん」と困ったように視線を宙に向けた。 「理由なんてないけどさ。ただ……信じてるだけ、かな。クーちゃんも、バーちゃんも、おれを騙したり、ズルしたりなんてしないって。言葉にしたことは、きっと全部本当のことだって。おれは、皆のことを信じてるのと同じくらいに」 ユーリの視線が、まっすぐに、揺るぎなく、クロゥとバスケスに向けられた。 「あなた達を、信じてるよ」 「………ユーリ、陛下……」 クロゥは思わずその名を呼び、バスケスはコクリと息を飲んだ。 「さっきも言ったけど」 ムラタがそこで言葉を挟んできた。 「あからさまに兵を配置するわけにはいかない。敵が陛下と火薬を狙って襲撃してきたその時には、剣を抜いて直接戦うのは陛下の側にいるわずかな人数だけだ。文字通りの命懸けだよ。ウェラー卿達にはその覚悟は充分あるだろうし、それに見合うだけの実力もある。でも、君たちはどうなのかな? フォンビーレフェルト卿の言葉じゃないけれど、君たちには本来戦うべき場所がある。それは決してこの地ではない。君たちは魔王陛下とこの国の民のために、命を捨てる覚悟はあるのか? それがなければ、僕は到底君たちに陛下の身の安全を任せることはできない。どうだい?」 一切のごまかしは許さないと、ガラスの奥の瞳が告げている。 「……確かに」クロゥは声を励まして言った。「大賢者殿の仰せの通り、我々には帰るべき場所があり、待つ仲間がおり、無事に帰還すべき義務があります。しかし。……俺達は、その全てを捨てる事になっても。それによって仲間達の期待と信頼を裏切る事になっても。今、せねばならないと信じる事から逃げることは致しません。今、俺達がなすべき事は、この剣を武器に、この命を盾に、魔王陛下をお護り申し上げる、唯一その一事のみと考えます。……この命を懸けて、我々は魔王陛下をお護り致します。言葉にした事に嘘はないと、陛下より過分のご信頼を頂きました以上は、この誓い、決して違えは致しません!」 それだけを一気に言葉にすると、クロゥは姿勢を正し、胸に拳をあて、ユーリに向けて深く腰を折った。隣にいる相棒も、同じようにがばりと頭を下げる。 「彼らの実力に関しては」 二人が下げた頭の上で、コンラートの声がした。 「俺が保証します。それに、二人とも今現在大小のシマロンと戦っている者達です。実戦の直中を生き抜いてきた二人であれば、必ず陛下の御身を守護する力強い味方となると、俺も信じます」 「そうだね。うん、僕は納得したよ。……陛下はどうかな?」 クロゥとバスケスが頭を上げた先で、ユーリが静かな目で二人を見つめていた。 「おれの臣下でもないのに危ない目にあわせられない、って、ホントは言うべきなのかもしれないけど……。でも、今はそれを言う余裕がないから」 ユーリがそう言って立ち上がる。 「クーちゃん、バーちゃん。……民が無事にこの一日を終える事ができるように、楽しいお祭りの思い出だけをもって眠りにつく事ができるように、力を貸して下さい。おれを……護って下さい」 よろしくお願いします。頭を下げる魔王に、クロゥとバスケスも慌てて再度頭を下げた。 その傍で、ヒスクライフがにこにこと笑みを浮かべて二人を見つめていた。 「陛下だ!!」 「魔王陛下だ! 陛下がお見えになられた!!」 血盟城本丸の中央広場にユーリが姿を現した途端、わあっという声が一斉に上がり、興奮が広場を満たした。 祭りが開催されて数時間。休日の王都の民は、城の麓からこの頂上というべき場所まで、すでに多くが詰め掛けて催しを楽しんでいた。 そこへ、魔王本人が現れたのだ。 漆黒の髪。漆黒の瞳。緩やかに纏う漆黒の衣装。 愛らしい顔に、朗らかな笑みを浮かべて、わずかな護衛と共に歓声を上げる民の中に分け入っていく。 『工作員の侵入に気づいていない魔王は、堂々と姿を見せなくてはならない。隙だらけに見えるように』 そう言ったのは、もちろんムラタだ。 『ただ、衝動的な英雄願望に襲われた敵が、その隙を狙って襲いかかってくる可能性も充分にある。剣はもちろん、飛んでくる矢にも気をつけて。いざという時には、君たちの身体で陛下を護るんだよ』 全くもって容赦のない聖職者だ。 「バスケス、あまりきょろきょろするな」 コンラートの言葉に、バスケスがハッと動きを止める。 「ヨザが祭りの会場にいる全ての兵達に通告済みだ。皆、客の相手をしながら、敵の動きを探っている」 確かに、と、クロゥは思った。屋台の中の兵士達は、にこやかな笑みを民に向けていながら、その目は全く笑っていない。ユーリが歩を進めるのに合わせて、兵士達の視線は魔王ではなく、その周囲に向けて厳しく巡らされている。 ユーリは自分を呼ぶ民の声に、左右に笑みを向け、手を振り、意を決して近づいてくる子供達の頭を撫で、親達を感激させ、ささやかな贈り物を受け取り、屋台を覗いて菓子を手にし、民と一緒になってそれを口にした。その間、明るい笑顔は全く曇る事はなく、その全身からも、緊張は全く感じられない。 「……大したものだな。正直、驚いた」 「何がだ?」 思わず声に出したクロゥに、コンラートが問い返す。 「陛下だ。……今この瞬間、命を狙う者が襲いかかってくるかも知れないというのに、不安や緊張が全くない。笑顔も本物だ。強がっている様子もない。……大した度胸だと思ってな」 「……そうじゃない、クロゥ」 コンラートが苦笑を浮かべたのを感じて、クロゥは思わずその顔に目を向けた。 「コンラート?」 「ユーリはな」コンラートが今度は誇らし気な笑みを浮かべてクロゥを見た。「信じているんだ」 「……え?」 「ユーリは信じている。俺達が、絶対にユーリを護ると。俺達がいるから、自分が傷つけられることはないと、ユーリは心から信じているんだ。だから、恐れも不安も緊張も、感じる必要など一つもない、とな」 虚を突かれた思いで、クロゥは菓子を頬張り、自分を囲む民に衒いのない笑顔を見せるユーリを見遣った。 「ユーリの信頼は」コンラートの声が、水のように耳に流れてくる。「それほどまでに強く、深いんだ」 コンラートの声から、なぜか今にも泣き出しそうな切なさを感じて、クロゥは驚いたように顔を巡らせた。が、もちろんコンラートは泣いてなどいない。 彼らの目の前で、質素な身なりの幼い少女が顔を真っ赤にして前に進み出、握りしめていた小さな花束をユーリに差し出した。ユーリは少女の前に膝を折り、その花束を恭しく受け取ると胸のポケットに挿し入れた。漆黒の衣装に慎ましくも華やかな色が混ざる。 ユーリが少女の手を取り、その指先に軽く口付け、それから少女の金色の頭を優しく撫でる。顔を真っ赤に火照らせた少女の瞳に涙が浮かんだ。 彼らを囲む人々から、暖かい拍手が沸き起こる。 その後も、ユーリは人々に囲まれ、屋台や出し物をゆっくりと見て歩きながら、少しづつ麓へ辿る道を歩いていった。もちろん、その周囲をコンラート、フォンビーレフェルト卿、フォンクライスト卿、そしてクロゥとバスケスがしっかりと固めている。フォンヴォルテール卿の言葉によると、グリエを始めとする腕のたつ者が影供として、一行をさらに大きな円を描くようにして囲み、周囲を探りながら護衛している、らしい。 「陛下! 今夜、とってもすごいものが見られると聞きました! 楽しみにしております!」 「うん! やっと完成したんだよ。とてもきれいだから、ぜひ見てね。おれは今夜のその時間は御花の丘で、現場を見学させてもらうことになっているんだよ」 「私達も御花の丘に行ってよろしいですか?」 「ごめんね。今日は丘と周辺は一般市民は立ち入り禁止なんだ。火薬とか使うから、一応安全のためにね」 「陛下は大丈夫ですか!? 危ないことは……」 「おれは大丈夫! 一応、ほら、これでも魔王だし?」 自分を指差してとぼけた調子で言うと、周囲がドッと笑う。 「本当ならユーリは魔王としてじゃなく、姿を変えて、民と一緒になって遊びたかったはずなのに……」 フォンビーレフェルト卿が悔し気に呟く。 「ユーリは今自分がすべきことをちゃんと分かっている。……だが、夜までに敵を一網打尽にできれば一番いいんだが……」 「難しいでしょうね」コンラートに対して、フォンクライスト卿が低く答える。「敵の人数も正確に把握しておりませんし。状況から見て、決して大人数とは思えませんが、一人や二人を捕縛しても、残党が地下に潜ればより危険な存在となりかねません。やはり全員が集まって襲撃してくるのを待つのが確実でしょうね。ヨザック達が怪しいものを見つけてくれれば我々の先の行動も取りやすいのですが……」 美しい眉をきゅっと顰めて、フォンクライスト卿はそっと周囲を見回した。 「…その花火、というのは」疑問に思っていた事を、クロゥは口にした。「夜でなくてはならない理由でもあるのか? その…祝い事などの時に祝砲を打つのとは違う、のだな? よく分からんのだが…?」 うーん、とコンラートが視線を空に向ける。 「大砲を打つわけじゃないんだ。火薬にも色々と種類と特性があって、それを利用して作ったもの、というか……」 「火薬玉のなかに小さく切った紙を入れて、それが破裂したら紙吹雪が降ってくる、ってのを話に聞いた事はあるがなあ」 バスケスも首を捻りながら呟いている。 「まあ発想としては、それに似たもの、かな…? しかしこればっかりは、見てもらわないと何とも説明のしようがないんだ。……元々、火薬の平和利用の一つとして、陛下がお教え下さったものなんだが……。武器を造るばかりだった職人達も兵士達も、話を聞いた時は半信半疑だったが、実物を、といっても小さなものだが、それを見た時にはあまりの美しさに皆驚愕していたな。どんな美しさを醸し出すかは職人の技次第だから、ある意味、紛れもない芸術なのだと猊下に聞かされた時には、武器を造るしか能がないと思い込んでいた職人達は、揃って感動の涙を流していた」 「……そんなに、その、美しいものなのか……?」 「実は」クロゥの隣で、フォンクライスト卿が笑みを浮かべた。「その花火、というものを実際に見た事があるのは、陛下と猊下とコンラートだけなのですよ。私達も、今夜初めて目にするのです」 「…そう、なのですか…? でも、どうして3人だけ……?」 それは、まあ、とコンラートが口を濁す。 「とにかく!」フォンビーレフェルト卿が助け舟を出すように声を上げた。「お前達は、実に幸運な人間達だということだ! 我々に感謝しろ!」 生意気な弟の台詞に、コンラートが苦笑を浮かべる。 「本当に幸運かどうかは、今夜の首尾次第だな。……皆で花火を楽しめるように、全力を尽くそう」 その通りだと、皆が一斉に頷いた。 そうしてユーリ達は日中を民と共に過ごした。兵の屋台を巡り、地方から出店してきた店を訪れ、たくさんの菓子や軽食に舌鼓を打った。民と暮しについて対話し、子供達に「やきゅう教室」でバットの握り方を伝授し、きゃっちゃあになってボールを受けた。兵士の芝居に腹を抱えて笑い、拍手した。 そして、夜の花火をぜひ見てくれと皆に伝え、自分は打ち上げの現場を見学に、夜は御花の丘に行くとさりげなく、いや、かなり露骨に話を広めた。 自分を危険に導く話を、不安も恐怖も緊張もなく、満面の笑顔で語る王。 己の国と民を護るために、己の命を懸ける王。 自分を護る者を無条件で信じる王。 一度信じた者を、とことん信じ抜く王。おそらくは、裏切られても裏切られても信じるだろう王。 この王を、護る。 クロゥは決意を込めて、天を仰いだ。西の空に、かすかな茜色が浮かんでいる。 間もなく、夜が来る。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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