カッカッカ、と石の回廊を荒々しい歩調で進む音が響く。 薄暗い回廊の先に、四角く切り取ったような光の壁が見える。彼は、その光に向かって、更に足を早めた。 「エストッ!」 光の中に飛び込むように身を踊らせた彼が叫んだその先で、今にも馬に飛び乗ろうとした人物がふと動きを止めた。 「………クロゥ」 場所は、砦の正門に向かう前庭だった。 すでに数頭の馬が、出立の準備を整えて乗り手の合図を待っている。 クロゥと呼ばれた彼─銀色の腰まで届く長い髪に銀色の瞳を持つ、なかなかの美丈夫だ─は、その印象的な髪をなびかせて、目的の人物に迫っていった。 「エスト! まさか、本当に行く気か!?」 「行くよ」 エストと呼ばれた、これはクロゥとは全く雰囲気を異にする、見上げる程に大きくそして筋骨逞しい女性─本名はエストレリータという─が、あっさりと頷く。 そう答えた瞬間、詰る様に眼差しを強くした男に、手綱を握っていたエストレリータは「ふん」と鼻を鳴らした。それからくるりと身体の向きを変え、相手に向き合った。 「行くさ。……あたしたちはさ、クロゥ、もううんざりなんだよ」 「エスト……」 その言葉に、クロゥが唇を噛む。 「あたしたちはねえ、クロゥ、それこそ物心ついた時から大シマロンにさんざんな思いをさせられてきた。憎んで憎んで憎み続けて、それでもあたし達の力じゃどうにも抗えなくて、皆、血の涙を流して耐えてきたんだよ……。だから、今度こそ大シマロンに一矢報いることができるんだと分かった時には……嬉しかった。そして、本当にあのどでかい国をぶっ壊しちまったんだものね。………今まで生きてきて、あの時が初めてさ。嬉しくて、感動して、泣いちまったってのはね……」 でもさ。 エストの言葉が暗く続く。 「だからこそ、さ、我慢できないんだよ。大シマロンのベラール、あの僭称者共を追い払ったのはいい。でも……今の指導部は一体どうしちまったんだい!? まだ完全に勝った訳でもないってのに、もう領土の分配で揉め始めてるじゃないか。あいつらは、これまでずっと虐げられてきた民の苦しみや哀しみを、一体何だと思ってるんだ!? 何のために立ち上がったんだ!? 大シマロンの領土を分捕りたいだけだったのかいっ!!?」 エストの瞳に炎が灯り、その激しい思いをクロゥこそが元凶であるかのようにぶつけてくる。 「あんなヤツらが国を治めるようになったって、結局大シマロンが別の名前になるだけさ。民の苦しみは終わらないよ。………あたしゃ、もうあんなヤツらの手助けはゴメンだね」 反論できずに、クロゥが顔を歪めた。 反大シマロンの旗の下、打倒シマロンを合い言葉に生まれた新生共和軍。 怒濤の勢いで大シマロン軍を次々と打ち破り、ついにはその王、そして強大であった国家体制をほぼ完全に瓦解させるまでに至った。しかし、まだシマロン残党は数多く、大シマロンを支援する小シマロン─支援しつつも、その領土を狙う野心もあからさまな─も活発に活動している。 そんな状態にも関わらず。 彼ら、新生共和軍の指導部、かつて大シマロンに滅ぼされた国の王や王族、将軍達や上流貴族達がその中核をなす、軍の頭部とも心臓部ともいえるその最も重要な部分が。 今、崩壊しかけている。 「………コンラートは……」 エストの口からついに漏れ出たその名前に、クロゥの表情がさらに苦しげに歪んだ。 指導部が崩壊し、今彼らが危機的状況に陥ったきっかけ、もしかしたら唯一の理由。 「コンラートは、どうしてあたし達を捨てて行っちまったんだい!?」 その答えが欲しいのは、誰よりもこの俺だ、エスト。クロゥが胸の中で呟く。 「コンラートは!」 一旦その名を出してしまったらもう止まらないとでもいうのか、エストは激しい口調で思いを吐き出し始めた。 「…コンラートは、魔族の血を捨てて、人間として、身体に流れる本物のベラールの血に従って、民を救うためにここにやってきたんだろう!? 眞魔国を、魔王を裏切って、あの恐ろしい魔物の怒りをかってまで、あたし達と共に生きることを選んだんだ。なのに……何で今ここに至って、コンラートは眞魔国に戻ったんだい!? 自分を裏切った者を、魔物の王が許すはずがないじゃないか! どうしてコンラートは、わざわざ殺されに戻ったりしたんだよっ! ここにいれば、このままいけば、コンラートは間違いなく王になれたのに。皆、それを望んでいたのに! コンラートになら、コンラートにこそ! あたし達の上に立って、王になって、民を、この広大な領土を、治めて欲しいと!!」 エストが、荒々しく息をつき、肩を大きく上下させる。 「……長いこと副官をやっていながら」 まだ言い足りなかったのか、エストが絞り出すように言葉を続けた。 「何でみすみすコンラートを行かせたんだよ……?」 本当に何でだろうな。 やっぱり言葉にすることができなくて、クロゥは瞳を閉じた。 「………エストまで行っちまったのか……」 石壁を背に空を見上げるクロゥに、どこか情けなさそうな声が掛かる。 それが誰かを確かめようともせず、クロゥは瞳を閉じてため息をついた。 「なあ、クロゥよ……」 隣に大きな身体が並ぶ気配。 「俺達ぁ、一体どうなっちまうんだろうな……」 コンラートがいてくれりゃあなあ……。 べそをかく子供のような声に、クロゥは初めて視線をその声の主に転じた。 「バスケス」 生れも育ちも性格も違うが、この年月コンラートの両脇を固める副官として、共に戦ってきた得難い相棒だ。どれだけ互いの背を護りあい、そしてコンラートと共に戦場を駆け抜けてきたことか……。 「バスケス」 ようやくバスケスが、湿った眼をクロゥに向ける。 「ちょっと俺につきあってくれないか?」 クロゥのその言葉に、バスケスがぐすっと一つ鼻を啜って頷いた。 「……ああ、別に今やることもねえしな。……どこへだ?」 「眞魔国」 「………クロゥ、あなた、あなた達は一体何を言い出すのです………!?」 その日、夜半、新生共和軍の盟主─今となっては名ばかりの─であるエレノアは、言葉を発した後は口を閉じることも忘れたように呆然と二人の同志を見つめていた。 そのすぐ傍らでは、エレノアの3人の孫、すでに一軍の将としての実力を認められ、兵士達の信望も厚いカーラ、その妹のアリ−、そして彼女達の従兄弟であるレイルが、やはり愕然とした面持ちで椅子から腰を浮かせている。ただ、エレノアの長年の盟友である法術師にして大神官のダード老師だけが、ソファに腰を落ち着け、興味深げに瞳を輝かせていた。 エレノア・パーシモンズは、かつて一国の女王だった。あらゆる分野の政策に大過なく、民を飢えさせることも、不満分子を生み出すこともなく、一見変化に乏しいように見えながら、その実、穏やかな海をゆったり航海するように国の舵を取り、長い治世、ただの一度も民を嵐に遭遇させなかった手腕は、確かに名君として賞されるものだった。 だが、大シマロンというたった一度の嵐が、その全てを壊した。 エレノアは、大陸の全ての王が手本と認める長年の実績、明晰な頭脳と、穏やかな、民に対して慈しみ深い人柄、そして独裁者とは無縁の性情から、対シマロン軍の盟主となった。 果断な決断力や強烈な指導力という点においては、欠けているものが多い。しかし、盟主となってからのエレノアに求められたのは、むしろ緩やかな仲裁者しての能力だった。腹に一物もニ物も、それこそ野心も下心もたっぷり持つ反乱軍の首脳部を忍耐強くまとめあげるために、彼女の力は不可欠だった。そして、盟主として重大な決断を迫られたその時には。 エレノアの傍らには、常にコンラートがいた。 しかし、今コンラートはなく、エレノアの力を遥かに越えて、新生共和軍の指令部は崩壊の坂を転がり落ちようとしている。 「ここを去るための口実ではあるまいな」 「バカにするな」 カーラの硬い声に、クロゥが即座に言い返す。 「エレノア」クロゥの瞳が、ソファにへたり込む様に座るエレノアに向く。「このままでは、我々は破滅する。分かっておいでのはずだ」 その言葉に、エレノアがふるりと肩を震わす。 「だから」 クロゥがその場にい合わす全員を見渡した。 「俺達は、コンラートを探しに眞魔国に行く」 「……クロゥ、危険だ、あまりにも……」 カーラが、肩を落とす祖母を心配げに見つめながら、それでも言った。 「危険は承知の上だ」 「でっ、でも、あの」レイルが咳き込むように話しに加わってきた。「どうやってコンラートを探すんですか!? コンラートがどこにいるかも、全然分かってないのに……」 「以前、コンラートからちらっとだが、王都に住んでいたと聞いた事がある。それに、もし……万一ではあるが……コンラートがすでに魔王に捕らえられているとしたら……」 全員の目が、恐怖の光と共に瞠かれる。 「魔王に対する反逆者を、地方に置いておくはずがない。身柄は必ず王都にあるはずだ。……生きていれば、だが。………どちらにしても、俺とバスケスは王都を目指す。それにこれは俺の勝手な憶測だが……」 少しだけ躊躇ってから、クロゥは言葉を続けた。 「眞魔国は魔王の恐怖政治が敷かれていると聞く。天空には常に魔王の目があり、己に逆らうものがいないか国の隅々まで見張っていると。魔族とて、不平不満を抱く者がいるはずだ。俺はもしかしたら、コンラートは元々そんな不満分子と繋がっていたんじゃないかと考えているんだ。貴族といっても名ばかりの混血だし、純血の魔族達からかなり酷く差別され、蔑まれてきたとも聞いている。だから……。もしこの推測が正しければ、コンラートがそんな反魔王の拠点に匿われている可能性もあり得る」 「そ、そうだなっ! 確かに、コンラートの行動を思えば、それはあり得ない話ではない!」 よほどコンラートの身が心配なのだろう、カーラが希望を込めた瞳で大きく頷く。 「だからとにかく、眞魔国の状況を確認し、コンラートの……」 「私も行く!!」 突然、それまで黙っていた少女の声が割り込んだ。カーラの妹のアリ−だ。 「私も行くわ! ここに居たって、私じゃ何にもできないし。だから、私もコンラートを探しに行く!」 「アリ−!?」 カーラとエレノアが、悲鳴のような声を上げる。だがそこで、もう1人の少年までが手を挙げた。 「あ、アリ−が行くなら僕も……!」 「足手纏いだ」 クロゥの冷徹な声が、少女と少年の熱い思いをすっぱりと切って捨てた。 「………クロゥ……」 「眞魔国がどんな国かも、俺達は分かっていない。どんな危険が待っているのか、何一つとして予測できないんだ。お前達のような子供を連れて行って、万一の事があっても、どうすることもできない」 「…で、でも…っ」 「もう一度言う。足手纏いはいらない。邪魔だ」 足手纏いにはならない、と、さすがに言い切れないアリ−とレイルは、しょぼんと肩を落とした。その様子に、エレノアがほうっと大きく安堵の息をつく。 「では私が、と言いたいんだが……」 切なそうにそう呟いて、カーラが苦笑を浮かべた。 「カーラ、あんたはエレノア様のお側にいなきゃいかんだろうが」 エレノア様の心痛を、これ以上増やしちゃならねえよ。バスケスの言葉に、「そうだな」とカーラが哀しげに頷く。 「コンラートを見つけることができるか、せめて影だけでも掴まえられるか、もしくは……何もわからないか、結果を予測することはできないが、とにかく、あの国に飛び込んでみないことには始まらん。最低でも、コンラートを探す目安だけでもつけてくるつもりだ。もしも、アリ−やレイルや、それにカーラに動いてもらうとすれば、それからでも充分だろう?」 宥めるようなクロゥの言葉に、3人が不承不承頷く。 「……くれぐれも、無理はしないで下さいね」 エレノアがクロゥとバスケスに真摯な眼差しを向けて言った。 「あなた達をなくしたくはありません。 ……私が常に案じていることを、どうか忘れないで下さい」 エレノアが静かに紡ぐ言葉に、クロゥもバスケスも神妙に頷いた。 「それで? どうするね?」 それまでずっと成りゆきを見守っていたダード老師が、ゆったりと問いかけの言葉を発した。 「魔族にとっては、我々は今現在も『大シマロン人』だ。どうやって、あの国に入るつもりだね? そうそう密入国をさせてくれるとは思わんがね」 「最初からそんな危険を犯す気はありませんよ、老師」 クロゥが答えて、エレノアに視線を向ける。 「エレノア、確か、我々と今後の協力関係について話し合いたいと親書を送ってきた人物がいましたね」 「え? ……ああ、ええ、私達が新たな国家体制を築くと評価してくれたのでしょうね、これからの経済上の諸問題について会談させて欲しいと……。ミッシナイのヒスクライフ殿、でしたね、確か」 ええ、とクロゥが頷く。 「ヒルドヤード、ミッシナイの大商人ヒスクライフ。実はカヴァルケードの元王太子。王冠よりも恋を選んで国を捨てた人物です。商才があったのでしょう、今ではヒルドヤードでも屈指の大商人だ。そして、カヴァルゲートの次期女王の父親でもある」 「そ、それ、どういうこと!?」 見知らぬ人物の波瀾に満ちた人生に、アリ−が思わず声を上げる。 「カヴァルケードの王位継承権者が、子供を残さずに亡くなったかどうかしたらしいな。気がついたら、王家の血筋で残っていたのは、継承権を捨てたヒスクライフの一人娘ただ1人だけだった、ということだ。彼は、富裕な商人であると同時に、一国の支配者の父親という立場にも立つ、大陸でも重要人物の1人だ。そして、この男には、更に重要な点がある。それが……」 眞魔国の中枢部と、最も親密な人間、ということだ。 クロゥの言葉に、誰かがこくりと息を呑む。 「現在、眞魔国と友好を結ぶ人間の国が数を増しているという。その影に、このヒスクライフという男が存在しているのは確かだ。彼は、自分の娘が王位に就くことが決定した途端、それまで魔族に敵対的だったカヴァルケード政府を説得して、瞬く間に眞魔国との友好を結ばせた。その後も、大陸各国の首脳を説き伏せて、次々と眞魔国との国交を開かせているらしい。……魔族と結んで何を企んでいるのか知らんが、相当頭の回る人物であることは確かだな。エレノアに送ってきた親書も、商売人としてももちろんだろうが、その奥には間違いなく魔族の影があるはずだ」 「魔族の真実の姿を知った上で、人間との確執をなくし、共存共栄を目指すべきだと思い至った、冷静にして公正な平和主義者ともいえるのではないかね? その半生をみても、迷信だの因習だので目が曇るお人ではないようだしね」 魔族は魔物ではない、と、長年主張し続けてきた神官が、おっとりと反論する。それに、ちらりと冷たい視線を飛ばしてから、クロゥはエレノアの名を呼んだ。 「このヒスクライフに、返書を出して欲しいのです。これから新たな国家を構築するにあたって、魔族への対応は重要な問題である、と。故に、信頼できる者を送って、眞魔国がいかなる国かその目で確かめさせてみたい。どうか協力して欲しい、と」 「なるほど。……ヒルドヤードかカヴァルゲート政府が正規に発行した旅券で入国しようというのですね!」 レイルの声が興奮に高くなる。 「分かりました」エレノアが納得したように大きく頷いた。「確かに、それが最も危険の少ない方法でしょう」 「お願いします。………約束はできないが、しかし……できることなら、コンラートと3人で帰ってきたいと思っている。だから」 祈ってくれ。 日頃無信心なクロゥにしては謙虚な願いに、その仲間達はこれからの旅が孕む危険の大きさに改めて思い至り、揃って悲壮な表情で頷いた。 「ようこそお出で下されました。私がヒスクライフです」 初夏の陽射しに、向き合う男の頭部がキラキラと輝く。 カヴァルゲートの上流階級独特の挨拶は知識としては知っているが、実際目の当たりにしたのは初めてだ。 何となく目の置きどころに困る思いで、クロゥは軽く腰を屈めた。半歩後ろでは、ぽかんとヒスクライフ氏の頭部を見下ろしていたバスケスが、慌てて頭を下げる。 「ささ、どうぞ、お座り下さい。お疲れになったでしょう。狭い屋敷ですが、こちらにご滞在中はどうぞご遠慮なくおくつろぎ下さい」 ご面倒をお掛けします。そう神妙に挨拶してソファに腰を下ろすクロゥを見て、剣を手に戦う武人を想像する者はいないだろう。 艶やかに梳った銀色の髪を優雅に背に流し、その面だちはどこから見ても貴族の若君らしく上品かつ艶麗に整っている。纏う衣装も長旅で少々気崩れてはいるものの、上流階級の公子にふさわしいものだ。ソファにゆったりと身を任せる所作も優雅にもの慣れている。隣にぎくしゃくと座り、緊張に固まった、これはいかにも若君の護衛といった様子のバスケスとはかなり違う。 「この度は、面倒なお願いを快く御承知頂き、まことにありがとうございます」 いやいや、とヒスクライフが笑って、メイドが置いていった茶菓を「どうぞ」と勧める。 お茶のカップに添えられこちらに向けられた商人の手に、紛れもない剣胼胝を見付けて、クロゥは小さく眉を顰めた。 ヒスクライフという人物は、会ってみると意外な程気さくな、物腰の柔らかな人物だった。 世界の破滅を画策する魔族の懐に入り込み、共に奸計を巡らす。そんな邪悪な性根、陰湿な野心とは掛け離れた、からりと明るい雰囲気に溢れている。この人物自身はもちろん、彼のこの屋敷にも。 半ば敵の懐に飛び込むような緊張感を抱えてやってきたクロゥの第一印象としては、ヒスクライフという人物の周囲に「魔」に犯され病んだ部分を感じ取ることはできなかった。 もちろん、真に邪悪なものは、それを隠すのもまた上手い、はずだが。 「私は商人ですからな。商売の好機と見れば、そこが戦場であろうと乗り込むことに躊躇はいたしません。かの大シマロンをこれほどの短期間で壊滅させたあなた方の手腕には、まことに感服致しておりますよ。できますれば、ぜひご交誼の輪にお加え頂きたいと図々しくお手紙を差し上げました。が……」 ヒスクライフの瞳の光がほんの少し色を変えた。 「……ここしばらく、状況は停滞しているように見えますな」 これほど離れた場所にいようと、情報は洩れなく手に入れられるのだと。ヒスクライフの、商人であり、かつて一国の太子であったその目がはっきり告げている。 油断できない。クロゥは丹田に力を込めて、相手の視線を真正面に捉えた。 「あれほどの大国を滅ぼし、新たな国を興そうというのです。そうそう簡単に事は進んでくれません。前進と後退を繰り返すのも、また致し方ないこと。重要なのは、最後に勝利するの我ら新生共和軍である、ということです」 「確かに仰せの通りですな。それに、本当に危機的な状況であれば、他国を視察したいなどと思われるはずもない」 その通りです。穏やかに笑って、クロゥが頷いた。危機的な状況であるからこそ、眞魔国へ向かいたいのだ、という態度はもちろん露程にもみせない。 「私はご覧の通り、武張った事が大の苦手で、むしろ外交を得意としてまいりました。我らが指導部も近頃になってようやく、国を新たにして後は、眞魔国との関係を抜きにしては政が成り立たぬと考えてくれるようになりました。それでまあ、事前調査として、以前より眞魔国に多大な関心を抱いていた我々を派遣することとなったのです。ただ、魔族にとって我々はまだ敵国人。如何しようかと思い倦ねておりました所、ヒスクライフ殿の親書に思い至りまして、ご無理をお願いした次第。御承知下さいまして、心から感謝致しております」 流れるように言葉を連ねるクロゥに、隣でバスケスがひくひくっと喉を鳴らす。 「左様でしたか。確かに、これからの世界の有り様を考えれば、眞魔国との和解と友好は、あなた方にも重要な意義を齎すものと考えておりますよ。それで、かの国についてはどの程度の知識をお持ちかな?」 「恥ずかしながら、ほとんど何も。集まる情報といえば、おどろおどろしい言い伝えやお伽話の類いばかりで。ヒスクライフ殿は、眞魔国の宮廷についてお詳しいと伺っておりますが……」 「ええ、確かに。恐れながら魔王陛下、そして宰相閣下といった側近の方々とも親しくさせて頂いております。……よい国ですよ。ぜひご自分の目でそれを確かめて頂きたいと思います」 「あ、や、でも……!」思わず、といった様子でバスケスが声をあげる。「魔族の国は夜しかないとか、それに、魔王の目がいつも空にあって地上を睨んでるとか……」 クロゥがテーブルの下でバスケスの足を蹴飛ばすのと、ヒスクライフが「わっはっは」と大きな笑い声を上げるのがほぼ同時に起こった。 「いやはや、言い伝えというのは際限のないものですな。………ここで私がそうではないと申し上げても、大した説得力は持ちますまい。あなた方はこれからかの地に向かうのです。私の話などより、己の目で確かめてみるのが一番だ。長年言い伝えられていたお伽話、魔族が悪鬼羅刹の類いであり、世界を破滅に陥れようとしているのだという、いわば人の世の『常識』の正体を、しっかりと見極めてこられることだ」 余裕を持って笑みを浮かべるヒスクライフに、クロゥが厳しい眼差しを送る。 「人が長い年月言い伝えてきた『真実』が、嘘っぱちだとあなたは仰るのか……?」 「嘘っぱちかどうかを、確かめにいかれるのだろう?」 質問を逆に返されて、クロゥは目を逸らした。それから一つ大きく息をつくと、笑みを浮かべて正面を向いた。 「失礼しました。確かに仰せの通りです。………少々お答え願いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」 どうぞ。ヒスクライフの余裕は全く崩れない。 「さきほど、眞魔国はよい国だと仰いました。魔王の治世は……安定しているのでしょうか」 「実に安定しておりますな」ヒスクライフが大きく頷く。「あれほど民を思われる王を、私は見た事がない。陛下のその思いが、今や国の隅々にまで行き渡っております。眞魔国の民が願うのはただ一つ。当代魔王陛下の治世が1年でも長く続くことです」 真に民を思う王が、魔王のはずはない。ならばコンラートが出奔するはずがない。 内心冷笑する思いで、クロゥは質問を重ねた。 「それでは、魔王の治世に逆らう者、不満分子のような者は存在しないのでしょうか?」 「どれほど善政を敷こうとも、不平不満を抱く者はおりましょう。しかし、当代陛下の治世を転覆させようなどと企むような愚か者は存在しないと考えます」 「………近頃」 焦るな。自分にそう言い聞かせながらも、聞かずにおれない自分を叱りつけ、それでもクロゥはその言葉を続けた。 「魔王への……反逆を企む者が捕らえられた、というような話は耳にされませんでしたか?」 「全く聞きませんな」 言下にヒスクライフが否定する。思わずホッと気が緩みそうになる己を叱咤しながら、クロゥは次の質問を前にひどく乾いた唇を舐めた。 「ヒスクライフ殿は、眞魔国の宮廷、貴族の方々ともおつき合いが深いと伺っております。その……この名を……」 言葉を綴るクロゥの隣で、バスケスの身体が一際強く強ばったのが分かる。 「……コンラート・ウェラーという人物の名を……お聞き及びではないだろうか……?」 ふむ、と、ヒスクライフがお茶のカップを取り上げて、もどかしい程ゆっくりとそれを口に含む。 「……ヒスクラ……」 「一つ、訂正させて頂こう」 「……え?」 クロゥとバスケスが、揃って目を瞬かせる。 「魔族の習慣ですが、あちらでは名前は姓を先に名乗るのですよ。コンラート・ウェラーというのは、人間の国での呼び方。本来は、ウェラー・コンラート、となるのです」 ウェラー・コンラート。 口の中で転がすようにその名を呼んで、クロゥは苦く笑った。 「あまり語呂がいいとは思えませんね」 「それは人間の感覚ですよ。あちらではそれが当たり前。あちらからすれば、姓名を逆にされる方がよほど妙に感じられるでしょう。それともう一つ。その人物が貴族であるならば、姓と名の間に『卿』を入れなくてはなりません。すなわち、その人物の場合、正式の名称は『ウェラー卿コンラート』というのが正しいのです」 「……ウェラー卿コンラート……」 そうです。と、ヒスクライフが頷く。 「あっ、あのっ」バスケスが焦ったような声を上げる。「それで、その名前を聞いた覚えは………」 さて、と、ヒスクライフが首を捻る。 「その御仁がどうかなされましたかな?」 「……いいえ……別に……」 わずかに落胆したような二人の様子に頓着せず、ヒスクライフは「そうですか」とあっさり頷いた。そして徐にその口調を変えた。 「私どもの船が眞魔国に向かって出立するのは明後日です。旅に必要なものがありましたら、ご遠慮なくお申し出下さい。すぐに用意させましょう。出立まで、どうぞゆっくりとお過ごし下さい」 会見終了の合図だ。 ありがとうございます。よろしくお願い致します。 頭を下げ、立ち上がる。すかさずヒスクライフの手で振られた鈴に呼ばれ、使用人が扉を開けた。 見事なまでにタイプの違う二人の男が、使用人に案内されて部屋を出て行く。 ぱたん、と扉の締る音が響いた次の瞬間。 ぷっと、ヒスクライフが吹き出した。 「……いやはや……若い若い」 自分もさほどの年ではないのだが、あの青年達の様子を思い出すにつけ、笑いがこみ上げてしまう。 あれでうまくごまかしたつもりなのだろうか。 あんなあからさまな態度で、疑問を抱かれないとでも? それにしても。 彼らが求める相手と自分とが、彼らより遥かに長く深いつきあいがあるのだと知ったら、あの必死の青年達はどんな顔をするだろう? 「何やら、色々と勘違いされておりますぞ、ウェラー卿……?」 くっくっく、と笑いながら、ヒスクライフは改めて鈴を振った。 先ほどとは別の使用人が扉を開く。 机の引き出しから1通の書簡を取り出して、ヒスクライフは使用人に向かって言った。 「これを眞魔国、ウェラー卿宛てで送ってくれ。特急便でな」 ヒスクライフがこの件でコンラート宛に手紙を送るのは、これが3度目。 エレノアが協力を依頼してきた時が最初。状況からウェラー卿絡みであることは間違いないと判断したからだ。そして、こちらに派遣されるという2名の、人物照会のために送ったのが2度目。あの青年達は、自分達の詳しい情報、それこそ容貌から長所短所を含めた性格、そして新生共和軍での位置、眞魔国へ渡ろうとする目的までを、当のコンラートから既に入手しているなどと、夢にも思わないだろう。 そして今回の書簡には、彼らが乗る船の名前と、眞魔国へ到着する予定日時が書かれている。 二人が確かにやって来て、予定した船に乗ることが確定してから出そうと決めていた手紙だ。 ヒスクライフは、何となく楽しい予感に胸を弾ませながら、窓辺に寄った。 彼らは、決して魔族に好感情を抱いてはいない。それどころか、魔族は悪魔、魔物だと、素直に信じている。ただ、ウェラー卿を求める一心で恐ろしい国へ渡ろうと、決死の覚悟を決めているのだ。 「……どう変わるかな?」 あの国を見て。あの人々を見て。そして……あの魔王陛下を知って。 変わらずにいられるはずがない。それはヒスクライフの絶対の確信だ。 そうしてきっと、世界は少しづつ少しづつ変化していくのだ。 あの魔王陛下と共に。 ………………だがここで。 ヒスクライフにも予想のつかなかったアクシデントが起こった。 3通目の手紙は、コンラートの手ではなく、別の人物達の手に渡ってしまったのである……。 「良い季節に海を渡ることになったね、お客人! この分なら眞魔国に着くまでずっと海は穏やかだ」 甲板に出ていたクロゥとバスケスに、甲板員らしい男が気軽に声を掛けて来た。 「こっ、これのドコが穏やかだってんだ!? ゆ、ゆ、揺れてるじゃねえかっ!」 柵に必死の様子で掴まる大男に、甲板員がさも可笑しそうに笑う。 「波があれば揺れるのは当たり前だろうが。けど、この船の大きさからみたら、この程度の揺れ、ないも同然だぜ? ……何だい、あんた達、船旅は初めてかい?」 初めてだった。 足元が揺れるという状態がこれほど不安な気分を掻き立てるものだということも、クロゥはこれまでの人生で初めて知った。 バスケスはすっかり気分を悪くしてしまい、風に当たろうと部屋を出て来たのだが……。今度は果てしない海原に投げ出される恐怖におののいている。 二人が盛大に顔を顰めるのを見て、船員が腹を抱えて笑い出した。 「……聞きたいんだが」 船員は甲板長だった。簡単な折り畳み式のテーブルと椅子を他の船員に用意させると、まあ落ち着きな、と笑いながらお茶の準備を整えてくれた。 「何だね?」 「………眞魔国へは、もう何度も……?」 「ああ、もちろん。ウチは眞魔国との交易についちゃ、大陸でも1、2を争う程だしな。あんた達は初めてだそうだな」 お茶を飲んでやっと落ち着いた二人が、こくりと頷く。 「どんな…国なのだろう。その、事前に情報を集めておくことができなかったので、色々と教えてもらえるとありがたいのだが……」 頼むクロゥの隣で、バスケスも「頼む」と頭を下げる。 甲板長は穏やかな眼差しでにこにこと笑いながら、しかし、首をはっきり左右に振った。 「ダメだな」 「…………え?」 呆気に取られる二人の前で楽しそうに笑う、陽に焼けた、小柄ながら頑健な体躯の男の様子は、どこかとても人なつこい。 「実はな、ヒスクライフさんから止められてるのさ。あんた達はきっとそう聞いてくるだろうが、答えるなってな。あんた達……」 本当は、魔族を嫌ってるだろう? あっさりと投げられた言葉に、クロゥもバスケスも返す言葉をなくした。 「魔族は魔物、悪魔だ。眞魔国は化け物の国だ。魔王はそりゃもう恐ろしい姿をしてて、おぞましい魔力を奮っては人間をどう滅ぼそうかと年中企む悪鬼だ。それが当然だと信じてる。そうに違いないと思い込んでる。……違うかい?」 「……………そうじゃないとでも……?」 だからさ! 男が言った。 「魔族は人間と何も変わりゃしない。まあちょっと育ち方に差はあるが、ただそれだけだ。あの国は、そりゃもう暮らしやすい良い国だ。魔王は民思いのいい王様だ。……って俺が言ったとしても、あんた達は信じるかい? 信じやしねえだろう?」 それは……、と、二人が視線を落とす。 「ヒスクライフさんも言ってたはずだぜ? 自分の目で見てみな。そして自分で判断しな。事前の情報なんぞ意味はねえよ」 確かにその通りだ。クロゥとバスケスは、目を合わせて頷きあった。 事前に何を聞いたとしても、この目で見、この身体で体験することが全てだ。だが。 コンラートを疎んじた国を、好きになれるはずがない。 「ほら、見えてきたぜ。あれが眞魔国だ」 空がようやく白んできた頃。まだ淡い光の中に溶け掛かった闇が、紫色のグラデーションに輝き始めている。 その中に、これはくっきりとした漆黒の大地の影。 数日の航海を経て、彼らはようやく目的の地、魔族の国へとやってきたのだ。 「………とうとう来ちまったな、クロゥ……」 「ああ。……もう後戻りはできん」 刻一刻と近づいてくる大地を、二人は決意を込めて睨み付けた。 「………………なあ、クロゥよ」 「ああ……どうした……」 なんつーか、よお。バスケスの声が、戸惑うように揺れる。 「想像してたのと……ちょっと違うな」 確かに、と頷きつつ、クロゥも意外な思いで目の前に広がる光景を見つめていた。 船が港に到着する頃、朝陽は燦々と魔物の国に降り注ぎ、港と彼方に広がる街並をきらきらと照らし出していた。紛れもない初夏の、爽やかな光と風が気持よく頬を嬲る。 眞魔国の港は、彼らが出立したヒルドヤードの港とは比べ物にならない程大きく、そして美しく整備されていた。岸壁は船が繋留し易いように、まるでチーズを刃物ですっぱり切り取った様に直線に整えられ、目を凝らしてもどんな歪みもデコボコもない。そして、積み荷が下ろされ、様々な作業が活発に行われる広々と開けた場所は、一体どんな技術、もしくは魔術を使ったのか、信じられない程平坦で、石の継ぎ目や欠け毀れ、隙間から伸びる雑草などは全く目にできなかった。そのためか、大量の積み荷を移動させる台車や荷車は、躓くこともどこかに引っ掛かることもなく、実に滑らかに走り去って行く。 だが、それよりも二人が驚いたのは、今目の前で活発に働く男達(と、少数の女達)だ。 どれも魔族、のはずだ。 魔族は闇の生き物。光を怖れ、厭い、眞魔国は常に不吉な闇に包まれている。と、言い伝えられてきたはずだ。なのに。 太陽は、平等にこの国にも光を齎し、そしてその光の下で、魔族たちは元気に働いている。 「おはよう。航海お疲れさん!」「やあ、おはよう。早くからすまんね」「いやいや、この荷を待っていたんだ。無事に到着して嬉しいよ」「ありがとう! よろしく頼むよ」「おう、任せてくれ!」 すでに汗をかきはじめた働き手達が、笑顔で人間達と会話を交わし、活き活きとした様子で実にきびきびと作業している。時々空を眺めて、爽やかな陽射しと澄んだ青空を確かめると、気持が良さそうに伸びをする者もいた。 目を見張る程広大な広場が、一日の仕事の始まりに沸き立つ人々で埋まっている。 その中で。 クロゥとバスケスの二人だけが、ぽつんと取り残された様に、その場に佇んでいた。 「どうだい? なかなか賑やかで、見物のしがいがあるだろう?」 ハッと振り向くと、甲板長がいつもの笑顔で立っていた。 そこに、と甲板長が、広場に沿って立ち並ぶ、3階建てから5階建て程の建物の一つを指差した。 「ウチの交易事務所があるんだ。ここに並んでいるのは、ほとんどがそういった各国の交易商人達の事務所でな。あのたくさんの建物の、1室から2、3室を借りて商売の拠点にしてる訳だ。そう考えると、かなりの商人達が眞魔国と商売をしていると分かるだろう?」 一種呆然と、クロゥは頷いた。一枚壁を張ったような滑らかな広場は延々と続き、そこに沿って建物もまた数多く並んでいる 自分達が全くそっぽを向いている間に、いつの間にか人間と魔族の関わりはこれほどまでに深くなっている。………自分達が、全く気づかぬ内に。 「ほら、そこに」と、男が今度は一際背の低い建物を指差す。「あれが、この国の入国管理局だ。外国人は先ず最初に、あそこで入国手続きをすることになってる。それをせずにこの港から街へ出ることはできねえよ。密入国になるからな。出立前に渡された書類があっただろう? アレを出せばいいから」 じゃあ俺は仕事があるから、と甲板長は手を振って去っていった。親切な男に、二人も心を込めて手を振り返す。 「………んじゃあまあ、ここでぼんやりしてても仕方がねえしな」 「ああ。とにかく手続きを済まそう」 ふいに襲ってきた正体不明の不安を振り切るように、二人は入国管理局に向かって歩き始めた。 と。 その時。 「その必要はない!!」 唐突な怒鳴り声に、二人の足はぴたりと止まった。 「………………子供……?」 彼らの目の前に、一体いつの間にやってきたのか、二人の少年が肩を怒らせ、足を踏ん張り、瞳に怒りと決意を漲らせて立っている。 一生懸命になって威嚇の唸り声を上げる子猫や子犬がこんな感じだな、と、クロゥは心の隅でふと思った。 「お前達は、今すぐこの国から出て行けっ!」 子猫の1人が、すらりと剣を抜いた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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