愛多き王様の国・9 |
「では、あの……陛下のお命を奪おうとした者達を、その……庇おうというのですか? その代弁人という人物は……?」 血盟城の客間。主格のソファにユーリと村田、脇のソファにはコンラートが座り、侍るのヨザックとクラリス。そしてユーリと村田の正面のソファに、エヴァレットとアシュリー伯が座り、その脇、対角のソファには大神官が畏まっている。彼らの傍らには、エヴァレットの乳母であるエイドリアン・フィータとその娘、アグネスが侍っていた。 アシュラム大公とその跡継ぎである公子は、魔王陛下暗殺未遂犯について気に掛けながらも、国で待つ人々を一刻も早く安心させたいと帰国の途についた。アシュリー伯の息子のランが、その付き添いと、国許において具体的な説明を人々にするため、父の命令で大公達に同行している。 結局、アシュリー伯とエヴァレット、そして大神官の3名が、この後の展開を見極めるため眞魔国に残ることとなったのだが……。 アシュリー伯の瞳と声は戸惑いに揺れている。 彼は隣に座るエヴァレット─こちらもいかにも不可解だという様子で、美しい眉を顰めている─と顔を見合わせ、それからあらためて正面に座る魔王陛下、そして大賢者猊下に目を向けた。 「庇う、ということじゃないんです…!」 ユーリが勢い込んでそう言ってから、どう説明しようという顔で村田に視線を転じた。お茶のカップを手にした村田が、苦笑を浮かべる。 「アシュラムには代弁人という職業はないのですか?」 「その……代弁人という意味が良く分からないのですが……」 そうですか、と頷いてから、村田は軽く小首を傾け、では、と話し始めた。 「例えば…ある問題や争いが起こった時、当事者同士の話し合いだけでは解決がつかなかったり、また力の弱い人や知識のない人が損をしたり、損をすることが分かっていても泣き寝入りを強いられたり、また、どこかで暴力が奮われたり、ということが、この世ではよく起こります」 「それは……分かります。確かによくあることですな」 アシュリー伯が言い、エヴァレット、そして、ソファの脇に侍るエヴァレットの乳母親子も揃って頷いている。 「そしてまた、例えば盗みや殺人などの事件が起こった場合でも、犯人として捕らえられた者が本当は罪を犯していない、無実の罪に陥れられた、という可能性もありますよね? 本当は罪など犯していない人物が罪を着せられても、己の無実をきちんと主張できない場合もあるでしょう。また、真の罪びとが身分や地位の高い人物であった場合、自分よりも弱い立場の人にその罪を擦り付けるということも、充分起こりえることです。そう思われませんか?」 ううむ、と唸ってから、アシュリー伯が不承不承頷いた。 「…あまり認めたくはありませんが……あり得ますな」 「私は、身近でそのような事態が起きているかどうかは存じませんが……」 エヴァレットが恥ずかしそうに続ける 「物語などを読みますと、罪なき者が罪に落とされるというお話はよく目にしますわ」 姫様、そのような物語をいつ…!? 乳母のエイドリアンが、ちょっとお怒りモードで声を上げる。が、すぐに場を弁えて慎ましく身を引いた。近々エヴァレットにはお説教タイムが待っているだろう。 「代弁人は」 村田がゆっくりと話を続ける。 「そのようは問題、争い事が起きた時に、間に立って双方の最も良い形で問題が解決するように、また、弱者だけが損をすることのないように、公平な立場で働きかけます。そしてまた犯罪が関る事件の場合、捕らえられた者が本当に罪を犯したのかどうかを調べ、無実であるとすれば、それを裁きの場において証明し、その人物が不当な罰を受けることのないように力を尽くします。また、その者が実際に罪を犯していたとしても、その罪に対して行き過ぎた刑罰が科せられることのないよう、法に照らして最も相応しい罰が与えられるよう、裁判官に対して働きかけるのも重要な仕事です」 なるほど、とアシュリー伯と大神官が頷いた。 「今仰せになられたような問題、特に、争い事の仲裁は、我が国では主に我ら教会の者が執り行うことが慣習となっております」 お茶で喉を湿らせた大神官が、ゆっくりとそう言った。 「教会はどれほど小さな村にもございますし、司祭は村人達から大きな信頼を得ておりますからな。また、忌まわしい事件が起こりました時も、村長や教会の司祭が先ず先頭に立って、事件が解決するよう行動します。もちろん、村の者が罪を犯したことが明白となれば、その者を憲兵に引き渡すなども致しますが……。しかし、そのような行為を職業にするというのは……私共にはない発想でございますな」 分かります、と頷いて、村田が言葉を続けた。 「共同体の内部で発生した問題を、長老や司祭が解決するというのは昔からよくある方法です。ですがそれは、当事者の感情や人々の思惑によって左右されやすい方法でもあります。職業にするということは、感情を排し、第三者の立場で公平に冷静に判断することができるということなのですよ。もちろん、その判断は、法律に則った、最も適正なものでなくてはなりません。誰かの感情でも思惑でも都合でもなく、法に従うということが何より重要なのです。法学者である代弁人は、その仕事に最もふさわしい存在であるといえますね」 ううむ、と大神官とアシュリー伯の2人が、腕を組み、唸るように考え込み始めた。 「法に従って適正な判断をする。これが、今回の事件でも一番の問題となります」 村田の言葉に、アシュリー伯がふと顔を上げた。 「これ、と申されますと……なるほど、罪に相応しい、最も適正な罰をということですな?」 その通りです、と、村田とユーリが揃って頷く。 「でしたら!」 ソファから外れた場所で、大きな声が上がった。 全員の視線が一斉にそちらに向けられた瞬間、エヴァレットの乳姉妹、アグネスが大慌てで口を押さえた。 「……もっ、申し訳ありません!」 慌てるアグネスに、「構わないよ」とユーリが笑い掛ける。 「アグネスはどう思う?」 ユーリに問い掛けられて、顔を真っ赤にさせたアグネスがおずおずと口から手を離した。 「……あの……魔王陛下のお命を狙ったのでございますから……死罪になるのが一番相応しい罰なのではございませんか……?」 私も同じ意見ですの。エヴァレットも遠慮気味に発言した。 「なぜ陛下や猊下が、そのような代弁人とやらを大罪人につけてやろうとなされるのか、私には理解できません。こともあろうにこの国の王である陛下のお命を狙ったのですよ? それでどうして……。むしろ陛下の御命令で、最も重い罰を与えるのが当然のことではございませんか? その……眞魔国の民も、皆そのように願っていると聞いております。陛下を思う民のその気持ち、私、とてもよく理解できますわ。それから……仰せの代弁人とやらですが……大罪人を罪から逃れさせようとしている不届き者だと……」 「それ、違います!」 「全く間違っています」 魔王陛下と大賢者の声が、綺麗に揃った。 アシュラムの人々が、2人の様子、とりわけ魔王陛下の勢いに、驚いたように目を瞠った。 「おれは命を狙われたからといって、その人達を処刑したいとは思いません。……どうしてそう決断することになったのかは知りたいと思いますけど……。それから! ハウエル先生は不届き者なんかじゃ絶対ないです! あの先生は、法律をきちんと守ろうと言ってるだけです!」 「陛下の仰せの通りです」 村田も頷いた。 「僕は先ほど、法に照らしてと言いました。現在我が国にある法律に従って、罪を犯した者がその罪にふさわしい罰を受ける。それは当然のことでしょう? 魔王陛下に対する罪をどのように罰するか、それを定めた法律がない以上、今回の事件は一般の民に対しての犯罪と同様に裁かれなければなりません。彼らが剣を向けた相手が魔王陛下だからという、ただそれだけの理由で、不当に重い罰が科せられてはならないのです。ハウエル氏の主張で重要なのは、まさしくこの部分です。陛下を思う民の心情がどうであるとか、陛下に対する罪を、一般の民と同じに裁くのは不敬ではないのか、という議論は全く別の問題です。現在ある法律に不備があるとすれば、それはこの後論じられるべきことであって、この事件とは無関係です。法に従うとはそういうことなのです。その彼の主張を、僕達は全く正しいと考えています」 はー……と、深いため息がアシュラムの人々から一斉に漏れた。 「……良い悪いの問題ではない、ということなのでしょうな……?」 「そうです。確かに我らが陛下ご自身は法を超越したお方です。しかし、だからといって、陛下に対して罪を犯した者に科せられる罰までもが法を越えることはあり得ません。そのような法は存在していないからです。……我が国においては、王が怒りに任せて人を罰することはありませんし、民の感情に阿って、法をいたずらに曲げることもいたしません」 再びため息がアシュラムの人々から漏れ落ちる。 さすがでございますわ。アグネスがしみじみと言った。 「魔王陛下、大賢者猊下のお考えの深さ、ご自分の命を狙った者にすら公平な裁きをなされようというお志の高さ……」 頬に手をあて、どこかうっとりとアグネスが呟いた。 「昔、シマロンの王が暗殺されかけた時、王は反逆者の一党を捕らえ、闘技場でその者達を獣に食い殺させたと聞きました。集めた民の目の前でです。大国の王とは、そのような非道も平気でするものかと話を聞いた時には思いましたが……。それに比べればユーリ陛下は……」 「それも少し違いますね、アグネスさん」 村田が苦笑を交えて言った。アグネスが「は?」と間の抜けた声を上げる。 「その当時のシマロンの法に、『王の命を狙った者は獣に食い殺させる』と定めがあったとしたら、それは法律に従うという点では問題があるとはいえませんよね。法律を守る、法律に従うということと、それが非道であるかどうかを論じるのは全く別の問題です。今回の問題も、我らの陛下のお志が高いからではなく、法律がそうなっているのだからそれを守ろう、ということなのです」 わずかに考えてから、「申し訳ありません」とアグネスが恥ずかしげに頭を下げた。 「理解が足りませんでしたわ。その……どうにも頭の中でうまく繋がらないようでございます……」 言葉が見つからないのか、困った様子で首を捻るアグネスに、「気持ちは分かるよ」とユーリが頷いた。 「あの…猊下……!」 唐突に、エヴァレットが強い口調で村田を呼んだ。お茶のカップを傾けていた村田が、何か? と顔を上げる。 「今回の裁判についてでございますが、アシュラムの公女としまして、何かすべきことはありますでしょうか?」 そうですね、と、カップをソーサーに下ろしながら村田が答える。 「被告、つまり暗殺未遂犯達の弁護をするため、おそらく代弁人はアシュラムにおける魔族観などについて尋ねたいと考えるでしょう。その時には協力してあげて下さい」 「ですが、猊下!」 ソファの傍らから、またもアグネスが口を出した。 「私も姫様も、ユーリ陛下を暗殺しようとした不届き者を庇いたいとは存じませんわ!」 「庇えと言っているんじゃないんだ、アグネス。エヴァ様も。何度も言いますが、代弁人は彼らを罪から免れさせようとしているんじゃない。真実を明らかにして、不当な罰が与えられないようにしたいと考えているんです。そのためにアシュラムの正しい情報を求めるのです。あなた方が彼らをどう思っているかは関係ありません。あなた方には、あなた方の知っていること、経験してきたことを、正直に、率直に、代弁人に教えてやって欲しいのです。いいですか? くれぐれも間違えないで下さい。求めるのは真実なんです。真実を明らかにするための協力です。相手が被告の代弁人であるからといって、勘違いしないで下さいね?」 私、また間違ってしまったのでしょうか。アグネスが情けなさそうに呟いた。 「分かりました、猊下」 エヴァレットがゆっくりとそう告げた。 「真実を明らかにするためということでしたら、私、喜んで協力いたしますわ」 日を置かず、魔王陛下の声明が新聞を通して発表された。 『暗殺未遂犯である人間達が、我が国の法律に則り、正しく裁かれることを望む』 短く、そして一見当たり障りのない一言は、民にさほどの影響を与えることはなかった。その文言はしごくありきたりの表現ととられ、民はなぜ陛下がこのような、あまり意味があるとは思えない、いかにも形式的なお言葉をわざわざ発表したのかと訝しがった。 だが、王の短い声明の中から、確実にその思いを汲み取った人々も確かにいたのである。 それからしばらくして、新聞に1つの記事が載った。 『王都上級裁判所は、魔王陛下暗殺未遂事件の審理を円滑に進行させるため、暗殺未遂犯に代弁人とつけることとし、本日、ハウエル・ハウラン氏をその首席代弁人に選出した』 魔王陛下暗殺未遂犯を庇う異端の法学者として、新聞を筆頭に攻撃されていた人物が代弁人に選出されたことに、人々は一様に驚きの声を上げた。 人々の驚き、戸惑い、疑念、そして不満は、新聞や雑誌の、主にスキャンダラスな記事を扱う部分にくっきりと現れた。 『驚きの展開! ハウエル・ハウラン氏、暗殺未遂犯の代弁人就任を快諾、法学者として全力を尽くすと応える』 『上級裁判所は、なぜハウエル氏を指名したのか!? その謎を追う!』 『独占速報! ハウエル・ハウラン氏の素顔! 友人某氏、街の鼻つまみ者だった少年時代を証言!』 『暗殺未遂犯に極刑が言い渡されれば、ハウラン氏は法学者として社会的に抹殺される可能性も。眞魔国法曹界の狙いが見えたか!?』 『ハウエル・ハウラン氏、家族と共に自宅から姿を消す。小紙記者が行方を追うが突き止められず。逃亡か!?』 『王都警備兵がハウラン氏の住居を捜索!? ハウエル・ハウラン氏、犯罪に関与か!?』 『ハウエル・ハウラン氏の行方、いまだ掴めず。過激な愛国者によってすでに葬られた可能性!? 上級裁判所の責任問題か!』 『上級裁判所が異例の布告。眞魔国全土の法学者に対し、ハウエル・ハウラン氏と共に魔王陛下暗殺未遂犯の代弁人となる意志のある者は申し出られたし、とのこと。その真意は!? ハウラン氏は生きているのか!?』 「………やーれやれ」 盛大にため息をついて、ハウエル先生は手にしていた新聞を卓の上に放り投げた。大きな卓の上にはすでに大量の新聞が散らばっている。 「こちらの記事によると」 ロミオが苦笑を浮かべながら言った。 「先生も僕達もとっくに殺されて、道路普請工事の現場に埋められているそうですよ。有力な目撃情報が幾つも寄せられたとか」 「こっちなんかもっとすごいよ」 ジュリィが「ほらほら」と、手にしたチラシのようなものを振っている。 「あたしらが埋められた場所の地図が載ってんの。でもこっちは工事現場じゃないや。王都の北の端にある沼だってさ。……やだなぁ、泥の沼なんて臭いし汚いじゃん」 「死んじまったら臭いなんぞ分かりゃしねぇって。何だそりゃ、新聞じゃねぇのか? 号外? ったく、趣味の悪ぃお祭り騒ぎになっちまって。これで裁判が始まったらどうなっちまうんだ?」 「……ねぇねぇ、父ちゃん」 「おう」 「父ちゃんと一緒に代弁人をやってくれる人……いるのかなぁ?」 「さあなあ」 「さあなあって……! もしかしたら、父ちゃん1人で責任取らなきゃならないんだろ!? 大丈夫なの!?」 「代弁人が裁判で負けたからって、別に責任を取らされることにゃならねぇよ。そんなこたぁ、お前だって良く知ってるだろうが。代弁人は最善を尽くす。それでも駄目だったら、そりゃもう仕方がねぇ」 「そういう意味じゃなくってさあ……」 何のかんのと言いながら、法学者という仕事に命を懸けている父が、本当に命をなくすのではないか。もしそこまで行かなかったとしても、法学者としての生命を絶たれるのではないか。 それをひたすら怖れている娘。 唇と尖らせ、「ったくさぁ、どいつもこいつも根性なしだよね」とぶつぶつ言うジュリィを横目で見ながら、ハウエル先生は小さく笑った。 「ま、何とかならぁな」 「ねぇねぇ、これ見とくれよ!」 言いながら部屋に駆け込んできたのは、もちろんアニッサ夫人だ。手にはワイングラスと思しきガラス製品を握り締めている。 「厨房のさ、棚を色々開けてみたら出てきたんだよ! 信じられないよ、こんなに薄くて、なのにほら! この彫り! 陽に透かしてみたらそりゃもうキラキラして綺麗でさぁ! ほらほら!」 アニッサ夫人が爪で軽く弾くと、硬質の、透き通るように繊細な音が皆の耳に響いた。 「安物じゃあこうは鳴らないよ! こんなのが厨房にぽんと置いてあるなんてさあ。大したもんだねえ」 あるところにゃあるもんだ。 しみじみ、うっとりと目を細めるアニッサ夫人に、ハウエル先生が呆れたように息を吐き出した。 「お前ぇはお気楽でいいや」 夫の言い様に、惚れ惚れとグラスを眺めていたアニッサ夫人が、途端に表情を変えた。 「何だい、その言い方! あたしだってねぇ、お前さんみたいな甲斐性なしの女房になっちまったお蔭で、一体どれだけ苦労してると思ってるんだい!? そもそもねえ、あたしゃ……」 「おい、どうでも良いが、それを振り回すのはやめな。ヒビでも入った日にゃ、弁償もんだぜ?」 ハッと動きを止めたアニッサ夫人が、大慌てで厨房に戻っていく。 その後姿を眺めるともなく眺めながら、ハウエル先生は、この家に来て以来、一体何度ついたか分からないため息を、今日もしみじみつくのだった。 シンノスケとケンシロウと名乗る少年達に、魔王陛下暗殺未遂犯の代弁人になる意志を告げ、それから数日と経ないある日の夜遅く。ハウエル先生はスズミヤ・トールの訪いを受けた。 『先生が人間達の代弁人になる件、了承されました』 『もう決まったのか!? …って、了承? 誰がだ? その人間達が俺に依頼するって決めたのか?』 『いいえ。我が国史上類を見ない裁判を、法に則って粛々と進行させるため、上級裁判所が人間達に代弁人をつけることを決定したのです。上級裁判所はハウエル先生、あなたを選出します』 『………そいつは……!』 『彼らなのか? トール! あの少年達の親が、そうなるように働きかけたのか? 一体彼らは……何者なんだ!?』 『んなこたぁどうでもいいや』 『先生! しかし……!』 『仕事だ。俺ぁ、代弁人だ。代弁人の仕事を依頼されたら全力を尽くす。それ以外にねえ』 『先生……』 『ということで話が纏まったのでしたら』 『トール?』 『先生、ロミオさん、すぐに荷物をまとめてください。いや、荷物は最小限のものだけで結構です。今夜の内にここを出ます』 『何だとぉ!? おい、勝手なことをぬかすんじゃねえ。俺の家は……』 『そういう問答をしている暇はありませんよ、先生。ことはあなただけじゃない、あなたのご家族の命も掛かっているんです。この仕事が危険なものであることは、十分ご承知でしょう?』 『それは……』 『住まいは確保してあります。警備も問題ありません。さあ、とっとと準備に掛かって下さい。これ以上四の五の仰るなら、代弁人の話はなかったことにさせて頂きます』 きっぱり言い渡され、大慌てで身の回りの品をまとめさせられたかと思えば、今度は火事場から追い立てられるように家を出され、あれよあれよという間に連れて来られたのは貴族や大商人などの富裕層が家を構える地域、その一画にあるお邸だった。 高い塀にぐるりと囲まれ、堂々とした門から正面玄関までの距離も長く、馬車も使わず自前の足で歩くとかなりの運動になりそうだ。お邸と塀の間は鬱蒼とした木々に囲まれ、どうやら前庭だけでなく、裏庭もかなりの大きさらしい。とにかく、ハウエル先生の一家がこれまで一歩も足を踏み入れたことのない、文字通りの大邸宅がそこにあった。 『ここが、これから先、暗殺未遂犯の代弁団本部となります』 揃いも揃って口をぽかんと開け、呆然と邸を見上げていた一行が、きょとんとトールを見返す。 『……代弁団……?』驚いた顔で、ハウエル先生が繰り返した。『てこたぁ何か? 他にも代弁人を務めようって物好きがいるのかい?』 それはまだです。トールが即答する。 ……コイツは一体どこからそんな情報を手に入れてくるのだろう。ハウエル先生の胸に、疑問が湧く。 『ですが、先生もお分かりと思いますが、6名の暗殺未遂犯を弁護、いえ、代弁するのに、先生お1人では無理がありすぎます。それに、この広い眞魔国で、物の道理を弁えている法学者がハウエル先生お一人ということは幾らなんでもないでしょう。それでは我が国の法曹界に未来はない、とあるお方も仰っておられますし』 『あるお方?』 『正式に代弁人志望者を募ります。そしてこの家で寝食を共にして頂くこととなります。そうすれば仕事もはかどりますし、警備もしやすいですしね』 警備。その言葉に、ハウエル先生がふと眉を顰めた。 『……どこのどなたがどうやって俺達を護ろうってぇんだい?』 それは、と言いかけて、トールがぴたりと口を閉ざした。 その様子に、ハウエル先生は上目遣いでじいっとトールの目の奥を探った。思わず顔を背けるトール。 ……あの小僧達の親か? 貴族だろうが……私兵を抱えてやがるとか? だとすりゃあかなりの上流貴族だ。……一体ぇ、何が狙いだ……? 上流と名のつく相手についぞ好かれたことのないハウエル先生は、今回もきっと何かとんでもない裏があるに違いないと、用心の二文字を胸に深々と刻んだ。 『中にあるものは、どうぞ自由に使って下さって結構です。生活に必要なものは揃えてあるはずですが、何か足りないものがあったら仰って下さい。あ、僕もこれからちょくちょく顔を出させて頂きます。坊っちゃん達からも、先生をお手伝いするように言われてますので』 よろしくお願いします、と、つい今しがたの問答を忘れた様ににこやかに言われて、ハウエル先生は思い切り渋面を返したのであった。 どこからどう見ても貴族の邸、に、暮らし始めて数日。 厨房には食料も酒もどっさり用意され、日用品も目にしたことはもちろん、手にしたこともない高価な品が取り揃えられ、生活に何一つとして不自由はない。風呂の湯も使い放題で、ハウエル先生はここ数年なかったほど全身ぴかぴかだ。男前も少しは上がったかもしれない。 衣裳部屋には一体どうして知ったのか、身体にぴったりの紳士服とドレスが山の様に吊り下げられていた。もちろん靴も。アニッサ夫人とジュリィは、最初の二日間、衣裳部屋から一歩も出ずに取っ替え引っ替えドレスを着ては、歓声を邸中に響かせていた。 謎の法学生トールは言葉通り毎日顔を出し、様々な情報を伝え、また要望を受け取って行く。そして、要望─何より暗殺未遂犯の調書、そしてまた家に置いてきた様々な本や参考文献など─は即座に叶えられ、全てハウエル先生の手元に届けられた。 『上級裁判所の布告が地方に届き、それから志望者が王都にやってくるまで時間が掛かります。今しばらくお待ち下さい』 山のような調書(なぜか人間達の生まれてから今日までの半生が、事細かに記してある)を繰りながら、一刻も早く人間達や関係者と面談したいと願うハウエル先生に、トールはそう答えた。 それもそうだと思いつつも、ハウエル先生は過大な期待を抱くまいと心に告げていた。 別に、眞魔国に良識的な法学者は己ただ1人と自惚れているわけではない。 むしろ逆だ。 自分ほど無鉄砲で、考えなしで、阿呆な代弁人はいないだろうと思っている。 ユーリ陛下という、眞魔国の歴史を振り返っても例のない、支配者ではなく、民に尽くすことを己の役目とする王に恵まれて、民がどれほどこの時代に生まれたことを喜んでいるか。 自分もまた、あの大戦の時代を生き、そして代替わりと共に一気に世界が変化する様を目撃し、しみじみと今この時代に生があることを幸福だと考えている。ロミオやジュリィのためにも、当代陛下の御世が1年でも1日でも長く続いて欲しいと心から願っている。 だからこそ、ユーリ陛下が人間に命を奪われかけたと知った時、民がなぜここまで怒り狂ったのかも理解できるのだ。 誰も。 知りたくなかったのだ。分かっていても、気づかずにいたかったのだ。そ知らぬ振りをしていたかったのだ。 神のごときユーリ陛下の命もまた、限りある人の生に過ぎないということを。 この御世もまた、いつ突然終焉を迎えるか分からないのだということを。 ユーリ陛下を失う恐怖が、ユーリ陛下という名で象徴される平和と繁栄と幸福な時代が突如消滅してしまうかもしれないという恐怖が、民をすさまじいまでの恐慌に追い遣ったのだ。 それが分かっていて、自分は人々に喧嘩を売ってしまった。 極刑を望む人々のあまりの熱意に、裁判が世論に左右されては大変だと焦ってしまった自分の勇み足だ。 眞魔国では、極論を言えば、己が学者だと思えば、誰でも自由に「学者」を名乗れる。 民に阿って極刑賛成を声高に叫んだのは、よくよく考えてみれば、そんな「自称学者」達が名を上げようとしてやったことに決まっているではないか。 眞魔国には、自分などよりはるかに学識も経験も深い法学者が綺羅星のごとく存在しているのだ。 そんな、本物の法学者を信じれば良かったのだ。裁判所の判事達を信じれば良かったのだ。 そしてもし、万々が一、法に外れる裁きがなされたならば、その時こそ法学者の1人として発言すれば良かったのだ。 つくづく…俺ぁ馬鹿野郎だ。 こんな阿呆なお調子者と一緒に代弁団を組んでやろうという物好き、いるはずがないではないか。 良識を弁えた法学者は、おそらく今頃事の推移を眺め、もし必要と思えば、自分などとは別に、ちゃんとした代弁団を組織してくるだろう。 だから、いつまで待っても、ここにはきっと誰も来ない。 ふー……っと息を吐き出して、ハウエル先生はバリバリと頭を掻いた。 「……俺としたことが……情けねぇ……」 うっかり思い切り後ろ向きになってしまった。 「どうあれ、上級裁判所に指名されたのは俺だ」 だから、自分が立ち止まってぐずぐずしていたのでは駄目なのだ。 「やるしかあるめぇよ」 自分で自分に呟いて、ハウエル先生は改めて調書を捲り始めた。 と。 「父ちゃん! 来とくれよ! トールが来たよ! それに何だか、たくさん人が来たよ!」 ジュリィが興奮に声を上ずらせ、部屋に飛び込んできた。 何てこったい。 呆然としつつ、思わず声を上げれば、玄関に立つ人物が「ふん」と鼻を鳴らした。 「相変わらず酒びたりか。いい加減顔は忘れたが、その赤鼻は忘れられん」 銀髪を短く刈り込んだ中年男性が、ハウエル先生と同じ法服(だがこちらはよほどきちんと火熨斗が当てられ、パリッと整っている)を身につけて立っていた。その後ろには、おそらく弟子だろう、数人の男女が書類や本を大量に抱えて立っていた。 「ぬかしやがるぜ。お前ぇも気取った物言いは相変わらずだぁな」 オーレン・アンセル! 数十年ぶりにその名を呼べば、その人物、かつて同門の兄弟弟子だった男がニヤリと笑った。 「……ま、久し振りだ。そこに座りな」 ここは貴様の家ではあるまい、と文句をつけながら、オーレン氏が適当な椅子を引いて腰を下ろした。弟子達が本や書類を大きな会議用の机の上に置き、師匠の背後に並ぶ。 「で?」 自分も席に着き、ハウエル先生はニヤリとわざとらしい笑みを顔に浮かべ、兄弟弟子に声をかけた。 「田舎じゃそこそこおエラいオーレン先生が、また何で今日って日にわざわざ王都までお出ましになったんだい?」 「……人を愚弄するその物言いも相変わらずよ。貴様の顔をわざわざ見物に来たとでも思ったのか? 私はそれほど暇でもなければ酔狂でもない。法学者が当然為すべきことを為しにきただけだ」 おう、そういやうっかりしてた。オーレン氏の言葉に、今思いついたという顔でハウエル先生が声を上げる。 「お前ぇ、俺を擁護する嘆願書を血盟城に送ってくれたそうじゃねぇか。いや、同門ってのはありがてぇ。感謝感激だ。礼を言うぜ」 ありがとよ。 軽い感謝の言葉に、オーレン先生がまたも「ふん」と鼻を鳴らす。 「後先考えずに吹っ飛んでいくから叩かれるのだ。そもそも法の何たるかも知らぬお調子者の新聞記者が書いた論説如き、まともに相手をしてどうするのだ? 今回の事件について法学者として発言するなら、相手は上級裁判所か血盟城であろう。貴様は昔から考えが足りんのだ」 「お前ぇよお、世論ってものの怖さを無視しちゃなんねぇぜ? そのバカくさい論説が盛り上がって、法学者が何人もとんでもない発言を新聞に載せてるじゃねぇか」 「あのような者共、法学者を名乗る資格はない。私は以前から、名乗ろうと思えば誰でも学者を名乗れる現状を憂えてきた。巷には金持ちへの売込みが何より得手というエセ学者が溢れておるわ。全く恥ずべき現状よ。私はこの機会に血盟城に対し、一定の知識を有さぬ者は学者を名乗れぬよう、資格制度を導入すべきであると提言するつもりだ」 ああ、そうかいそうかい。きらきらと輝く頭頂をバリバリと掻き毟りながら、ハウエル先生がため息をついた。 「そうだ、忘れてたぜ。お前ぇは昔っからガチガチの堅物だったんだ」 「貴様は不真面目過ぎる。あの頃も、見ているとイライラするからあまり視界に入れぬように努力していたのだが、今も少しも変わらぬようだ」 「おきやがれ。ところで後ろに立ってるのはてめぇの弟子だろう。気の毒によ、こんな胸くそ悪ぃ石頭に弟子入りしちまって、さぞ苦労が多かろうに。おい、お前ぇら、構わねぇからその辺に座りな。椅子だきゃあ山の様に余ってるからよ。遠慮は無用だぜ」 「私の弟子にいらぬ節介をするな。気の毒といえば、そら、貴様の後ろに立っている青年こそ気の毒に。見たところ、貴様の弟子であろう。知性も教養も豊かに有しておるように見えるのに、一体何を間違って貴様ごときに弟子入りしたものか。そこの君」 オーレン先生の目がまっすぐロミオに向かう。 「師を誤れば、せっかくの勉強も全てが無駄になる。後悔しているのなら、いや当然後悔しているだろうが、いつでも構わん、我が家の門を叩きたまえ」 「こら、オーレン。……分かったぞ。お前ぇ、あんまりコチコチの石頭なのが祟って、弟子に逃げられかけてるな? だからって、俺んちにやっと1人だけ残った奇特な弟子を引き抜きに掛かるんじゃねぇや。そもそも……」 「弟子が1人だけとは、どういうことですか? 先生?」 ふいに、扉の外から声がした。 一拍置いて、ハッとハウエル先生、そしてロミオが頭を巡らせる。 そこには、やはり透に案内されてきたのだろう、法服を纏った新たな一団が立っていた。 「お久し振りでございます。ハウエル先生……!」 「………お前ぇ…お前ぇ達……」 金壷眼を大きく見開いて、ハウエル先生がゆるゆると立ち上がる。 先輩! とロミオが喜色を孕んだ声を上げた。 「先生!」 「お会いしとうございました!」 「また無茶をなさって……。心配しておりました、先生!」 法服を身につけた男女が、口々に声を上げながらハウエル先生を取り囲んだ。 「……ロードン…ハーン…ウルスラ……ペインにパウラ、ルドファもいるのか……!」 「はい、先生…!」 一団の、最も年長と思しき壮年の男性が、目を潤ませながら笑みを作って頷いた。 「上級裁判所からの通達を受け取りましてすぐ、皆と連絡を取り合い、こちらに向かうことと致しました。先生!」 お元気そうで、何よりでございます! 叫ぶように言って深々と頭を下げる男性。彼に倣って、他の男女も一斉に頭を下げる。 「………お前ぇら……」 しばらく呆然とかつての弟子達を見つめていたハウエル先生が、やがてぐすっと鼻を啜りながらそっぽを向いた。 「…ったくよぉ、一回見限ったら最後まで貫けってんだ……」 「お言葉ですが、先生」年長の男性が苦笑を浮かべる。「我々は先生を見限った覚えはありませんよ? 先生が貴族だか何だかの逆鱗に触れたからというので、緊急避難しただけです。その時がくれば、我々は皆、先生の下に戻るつもりでいたのです。勝手に弟子に見限られた哀れな師匠にならないで下さい」 「どうやら、年をとっても相変わらずのお調子者らしいな、ハウエル」 貴様の辞書には成長という文字がないのか? 横合いから口を挟んでくるオーレン先生を、しょっぱい顔のハウエル先生が睨みつける。 そんな2人をきょとんと見つめるハウエル先生の弟子達に、オーレン先生が破顔して立ち上がった。 「失礼したな」 オーレン先生の表情は、不思議なほど明るい。 「私はウィンコットのバーシェルで法学事務所と学舎を開いているオーレン・アンセルという。君達の不肖の師匠、ハウエル・ハウランとは同じ師匠の下で学んだ兄弟弟子だ。確か、私の方が半年ほど兄弟子だったと思うが……貴様から弟らしい敬意を表してもらったことはなかったな、ハウラン?」 ふふんと笑うオーレン先生に、「けっ」と顔を歪めるハウエル先生。 「これは、私共こそ失礼致しました!」 年長の青年が、姿勢を改め、頭を下げた。仲間達がすぐにそれに倣う。 「私はベイズリー・ロードンと申します。ハウエル先生の一番弟子を自認しております。現在はヴォルテール領のクルシャで代弁人として活動しております」 お見知りおきを願います。礼儀正しく挨拶しする青年、ロードンに続き、彼の仲間達が次々に、己の師匠の兄弟子という人物に恭しく自己紹介をしていった。 それに鷹揚に頷きながら、オーレン先生は大きな笑みを、少々わざとらしくハウエル先生に向けた。 「ハウエル・ハウラン、弟子とはありがたいものだな。師匠の至らぬ部分をこうも見事に補ってくれるとは。揃いも揃って、貴様の弟子とは思えぬ礼儀正しさだ。……ほら、お前達も挨拶をしなさい」 オーレン先生が背後に並ぶ弟子達を振り返って言った。 「ハウエル先生はどうでも良いが、切磋琢磨する仲間は多いに越したことはない。……もしかしたら、近々いい加減な師匠を本格的に見限って、お前達の兄弟弟子になるかもしれんしな」 「だから、俺の弟子に粉かけるなってんだ!」 毒舌をぶつけ合う2人の法学者を、双方の弟子達が今にも緩みそうな頬を懸命に堪えて眺めている。 数日後、新たな法学者や法学生を加えて組織された魔王陛下暗殺未遂犯の代弁団が、上級裁判所に承認された。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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