愛多き王様の国・7 |
「では、ご紹介させて頂きます」 1列に並んでぽかんと口を開けているハウエル先生、ロミオ、アニッサ夫人、ジュリィの前で、透はにこっと笑って言った。 「こちらにおいでの若君は、お2人とも僕がお仕えしているお屋敷の坊ちゃま方で、お名前は……あれ?」 ……しまった、本名でいいのか? いや、やっぱりダメだろう? えーと。 透がハタと詰まった次の瞬間。 「おれ、シンノスケです!」 「僕、ケンシロウです!」 よろしくお願いしまーす! と、元気に揃った声に、透は思わず「何じゃ、そりゃあ」という言葉を飲み込んだ。 「………え、えーと、それからこちらの2人は、僕と同じくお屋敷にお仕えしているー……あー……」 「突然お邪魔して申し訳ありません。私はカクノシンと申します」 「俺はスケサブロウっていいます」 どうもー、とこれまた明るい声に、透は思わずのめりそうになった。 ……何なんだ、この当たり前な雰囲気。慣れてるのか!? こんなあんまりな偽名を使うのは、もしかして初めてじゃないのか!? それにしても、偽名を使うなら使うで、ちゃんと教えておいてくれ。 っていうか、ケンシロウってアニメだろ? ちょっと昔の。今はパチンコか? でもって、時代劇は番組めちゃくちゃだろ。スケさんカクさんが将軍様と一緒にいてどうすんだ? ご老公様は放っておいて良いのか? ……あれ? シンノスケって、将軍様がお忍びで出かけるときに使う偽名だよな? 確かトクダシンノスケって……。まさか、繭里が大好きで、DVDも全部集めてる埼玉の幼稚園児じゃないよな? あれ? もしかしてそっち……? ……じゃなくて! 混乱する思考を無理矢理断ち切って、透はわずかに引き攣った笑顔を目の前の4人に向けた。 「え、と、つまりそういうことで……あー、あの…」 「きれいー」 「え?」 ジュリィが頬を真っ赤に染めて、胸元で手を組み、うっとりと前に立つ2人の少年を見つめている。 「わーん……やだもうどうしよ……ホントにきれいー……」 ねえっねえっ、トール! 少女が頬を赤く染めた顔で透を見上げた。 「貴族の子って皆こんなにキレイなのっ!? 信じらんないよっ。神様みたいにキレイだねっ! お付きの人も男前だしさ!」 あのさっあのさっ! ジュリィが夢中な様子で前に飛び出し、自称シンノスケとケンシロウ、実は魔王陛下ユーリと大賢者村田健の真ん前に立った。 「あたしさっ、あたし、ジュリィって言うんだ。よろしくねっ。トールとはこないだ友達になったんだよ! ウチの父ちゃんのお弟子になってくれるかと思ったんだけど。あ、それはまだ期待してるんだけどさ。あ…あのさ、あたし達、同じ位の年だよね? だったら友達になれるかな!? あたし、王都に来てから全然友達できなくて……」 「ジュリィ!」 そこでようやく母親のアニッサ夫人が飛び出してきた。 慌てて娘の肩を掴むと、無理矢理その身体を引き戻す。 「何やってんだい、お前は! ……済みませんねえ、坊っちゃん方。ウチの娘ときたら、お偉い方への口の利き方なんて全然知らなくて。許してやって下さいねえ」 何すんだよー、と文句を言う娘の後ろ頭を叩きながら、アニッサ夫人がお愛想笑いでぺこぺこと頭を下げる。 そんな2人の前で顔を見合わせたユーリと村田改めシンノスケとケンシロウは、「とんでもないです」と首を振った。 「こっちこそ、よろしくな! ジュリィ」 ユーリの笑顔を真正面で見てしまったからだろう、ジュリィとアニッサ夫人がそろって目をまん丸に見開くと、湯気でも上がりそうなくらい顔を真っ赤に火照らせた。 それでも若いせいか、もしくは逞しさ故か、いち早く放心状態から脱け出したジュリィが「うん!」と笑って頷いた。 「失礼、奥様」 そう言って前に進み出てきたのは、コンラート改めカクノシンだ。 「これは大したものではありませんが、当家の料理人が作りましたお菓子です。こちらは季節の果物を使いました生菓子、こちらは日持ちのする焼き菓子です。皆様でどうぞ」 重ねた二つの箱を差し出すコンラートを、頬を染めたまま、ぽかんと見上げていたアニッサ夫人が、かなりの間を置いてから「……あらまあ、えらく気を遣わせちまって……」と焦ったようにドレスに掌を擦りつけた。それから二つの箱を受け取ろうと手を伸ばして。 「おい、待ちな。手を引っ込めろ」 ハウエル先生の声がした。 「……お、お前さん……?」 手を伸ばした姿のまま、アニッサ夫人が夫を見下ろす(わずかだが、ハウエル先生は夫人より背が低い)。 「父ちゃん?」 ジュリィもまた、驚いたように声を上げる。 そんな妻と娘に目も遣らず、ハウエル先生は厳しい眼差しをユーリ達に向けた。 「あんた等、すぐに帰んな」 え? と目を瞠る一同。 ハウエル先生は、その厳しい視線をユーリ達の後ろに立つコンラート、ヨザック、そして透に向けた。 「お前さん達、この坊っちゃん達に仕えてるって言ってたな?」 「はい、そうですが…?」 コンラートの穏やかな返事に、ハウラン先生がぎゅっと眉を顰めた。 そうですがじゃねえだろっ! 中年男の突然の怒鳴り声が居間に轟く。 呆気に取られるコンラートとヨザックの2人を、ハウエル先生はぐっと顔を上げて睨み付けた。。 「この坊っちゃん達はいざ知らず、おい、お前さん達は立派な大人だろう! だったら今俺がどういう状態にあるのか、この家に来るってことがどれだけ危険なことか、それもちゃんと分かってるはずだ。何で大事な坊っちゃんを連れて、こんな場末にのこのことやって来やがったんだ。ええ!? 知らなかったじゃ済まされねえぞ! トール! お前もだ! 大事な御主人の坊っちゃんなら、どうして止めなかった!」 おい、坊っちゃん方。 ハウエル先生の厳しい碧い目が、今度はユーリと村田に向いた。 「あんたらのその様子を見りゃあ、よっぽど良い御家の坊っちゃんだってぇのは分かる。立派なご家族がいるんだろう? きっと立場もあるはずだ。こんな所へ来て、俺達と一緒に居たとバレりゃあ、いや、きっとバレちまうだろうけどよ、そうなりゃああんた達の親御さんはどうなる!? 下手すりゃ反逆者の仲間だって言われちまうかもしれないんだぞ!? そんな事も考えなかったのか!?」 「反逆者なんですか?」 ぽんと、飛び込むように挟まれた質問に、ハウエル先生が口をパカっと開いたまま固まった。 質問した村田は、にこにこ笑顔で先生を見ている。 「………バカ野郎っ!」 気を取り直した先生が、顔を真っ赤にして怒鳴った。 「俺は反逆者なんかじゃねえやっ!!」 「だったら構わないでしょう?」 あっけらかんとした村田の言葉に、先生がぐっと詰まる。 「……あのなあ……」 はーっとハウエル先生がため息をついた。 「1つ、お伺いしてもよろしいですか?」 再び村田が口を開いた。 「……何だ?」 「先生は、僕達がかなり高位の貴族の息子だとお考えになったんですよね?」 「その通りだろうが。だからどうした?」 「だったら、こんな風にはお考えにならなかったのですか? 僕達を通じて僕達の親に取り入って、その力を借りて自分の今の状況を改善しようとか、もしくは……うまく僕達を利用すれば、貴族のお抱え法律家として更なる上を目指せるんじゃないかとか………うあっ!?」 ごっ、という鈍い音と同時に、村田が素っ頓狂な声を上げて頭を抱えた。 「………あ…っ」 「まさか……!」 「うそぉ…」 「………(ごくっ)」 村田が、大賢者が、脳天をぶん殴られた…! 反射的に頭を抱えて身を縮めた村田と、呆然とするユーリ達が視線を向けた先には、眉を吊り上げ、般若の様な形相になったアニッサ夫人が拳を震わせて立っている。 アニッサ夫人の目が、ギロリと村田を睨み付けた。 「……良いトコの坊っちゃんだからと下手に出りゃあ付け上がりやがってこのガキ」 お、お前……。お母ちゃん…! 一転して気弱な声を出す夫と、娘の声に目もくれず、アニッサ夫人がさらに1歩、村田に詰め寄った。 「いいかい! よくお聞き! ウチの先生はねえ! そんなセコい真似はしないんだよっ! っていうか、できないんだよっ! そんな器用に立ちまわれるくらいなら、夜逃げなんかするもんかい! 王都中から剣突く食らって、こんな場末で落ち込んでるもんかいっ!」 すごい剣幕で怒鳴り続けるアニッサ夫人の背後では、うんうんうんと、当の先生、ロミオ、そしてジュリィが納得顔で頷いている。 「ちょいと良い家で、良い服着て、良いモン食べてるからって、人をバカにすんじゃないよっ! あんたっ、わざわざこんなトコまで来て、あたしの亭主を嗤いに来たのかいっ。ええ!? どうなんだいっ。黙ってないで何か言ったらどうなんだいっ!!」 「……あっ……あの……っ」 答えるも何も、口を挟む余地が全くないのだが、とにかく村田は声を上げた。 「ご、ごめんなさい、あの……バカにしてるとかそういう意味じゃなくて……」 「だったら何だってんだ! へらへら笑って誤魔化すんじゃないよっ! あたしゃ確かに無学な女だけどね、阿呆じゃないんだよっ!!」 「ごっ、ごめんなさいっ!」 「………すげー…」 「まさか……!」 「うそぉ…」 「………(ごくっ)」 村田が、大賢者が……ビビってる! この村田を一瞬でもビビらせる人物がいるとは! その瞬間、村田が仲間達をじろっと素早く睨んだ。 胸元で、拍手の形を取りかけていたコンラートとヨザックの両手がさっと下ろされる。 「……おい、その辺にしとけ」 やれやれといった様子で、ハウエル先生が妻の背を叩いた。 「だってお前さん……!」 「この坊っちゃんはそういう意味で言ったんじゃねえよ」 ったく、気が削がれちまった。 そう呟くと、ハウエル先生は髪のない頭頂をバリバリと掻いてため息をついた。それから。 「来ちまったんだから、今さらどうこう言っても仕方がねえか。けどよ、お前さん達の姿はたぶんもう見られてる。後で何かあっても俺ぁ責任持てねえからな?」 はい! と元気に声を揃える2人の少年に、先生は再び深く息を吐き出した。 「まあいいや。座んな」 「……あのさ、あんた達って兄弟? あんま似てないけど」 興味津々の顔でジュリィが尋ねてくる。 場所はハウエル家の居間。先日透が通されたのと同じ部屋だ。 卓を囲む4つのソファの1つにユーリと村田が座り、その向かいにハウエル先生とアニッサ夫人。直角右側のソファにはジュリィが、左側にはロミオが座っている。 コンラートとヨザックと透はというと、ユーリ達のソファの背後に置かれた小さな卓と椅子(以前、喧嘩中の夫妻から逃れて、透とロミオとジュリィが小さなお茶会をした時に使ったものだ)に落ち着いている。最初、自分達は従者なのだから立っている、と言ったのだが、「あんた等みたいなでかいのに見下ろされてるのは気分が悪い」と言われてこうなった。 4人へのお茶の準備はジュリィとロミオが行った。アニッサ夫人の怒りは今だ解けていないらしい。 現在も夫の隣で腕を組み、つんと顎を上げ、自分はまだお前達を信用していないのだと主張している。 「あ、いえ、僕たち実は従兄弟同士なんですよ。家庭の事情で一緒に暮らしてるんです」 嘘が重なっていくが、これはまあ許してもらおう。 「それで家のことなんですけど」 進行役を自認する村田が、ハウエル先生に向けて人の良い、もしくは良く見える、笑顔を向けた。 「先ほどはご心配下さいまして、ありがとうございます。でも、大丈夫です。実は僕達の家の者も、今のこの事態をとても憂えていまして、先生にご同情申し上げているんですよ?」 「……そうなのかい…?」 ハウエル先生が身を乗り出してきた。 はい、と頷いて、村田が続ける。 「先生も仰いましたように、僕達の家族は血盟城にも出入りしていまして、色々と情報を得ているんです。今回のことで、先生のお話を伺いたいのはもちろんなんですが、実は先生にお伝えしたいこともあるんです」 「俺に伝えたいこと? そいつはつまり、俺のことが、その、上の方で問題になってるとかそういうことかい?」 「まさか、本当に反逆者だなんて言われてるんじゃないだろうね!?」 アニッサ夫人が堪らず口を挟んできた。 「いいえ、そうじゃないんです。実は……」 実は、血盟城には今、何通もの投書、もしくは嘆願書が贈られてきているのだ。 村田の背中を見つめる透の脳裏に、その時の情景が浮かび上がった。 「……じゃあこれ、全部、ですか?」 魔王陛下の執務室、執務机の上には、手紙や書類の山が二つ、堆く積まれていた。だが、二つの山は高さがかなり違う。 「そう。今回の陛下暗殺未遂事件に関してね」 答えたのは村田だ。椅子に座る魔王陛下の隣で、腕組みをして手紙の山を見下ろしている。 魔王陛下の執務机を囲んでいるのは、ユーリの他、コンラート、グウェンダル、ギュンター、ヴォルフラムといういつも通りの側近達と、ヨザック、クラリス、そして透を合わせて計9名。 こちらの山は、と、村田が圧倒的に高い手紙の山を指差す。 「王都はもちろん、国中の一般の民、子供から大人まで年代は様々、と、そして法学者、行政官、各地の貴族や領主達、とまあ送り主は多岐に渡っているものの、内容はほぼ同じ。偉大なる魔王陛下のお命を狙った人間達をぜひ極刑に処して欲しい。悪心を抱く愚か者達への見せしめとして欲しい。陛下のご威光を内外に知らしめて欲しい。子供達はぐっと可愛らしく、『わるものをこらしめてください』。ま、そんなとこだね」 「……本当に法学者も入っているのですね……」 話は聞いていたが、と透は眉を顰めた。 「困ったことにね。法学者の主張もほぼ同じで、魔王陛下は絶対の存在であり、法を超越したお方である。よって法に定めがなかろうとも、そのお命を狙った者はでき得る限りの極刑に処すべきである、というものだ」 バカな。透が呟くように言った。 「確かに眞魔国は魔王陛下という絶対君主に支配された国家です。陛下は、法律などで制限されない絶対的な権力を得ておられますから、まさしく法を超越した方です。しかし、そのことと、陛下のお命を狙った者に対する処遇は全く別の問題です。彼らに対する処遇までもが法を超えて良いなどと、そのような……あってはならないことです」 その通り。村田が応じ、グウェンダル達側近一同が大きく頷く。 「面白いことにね、こういう意見を送ってくる法学者のほとんどが貴族や大商人などのお抱え、つまり地球流に言えば名家、旧家、大会社の顧問弁護士みたいな存在でね。手紙には必ず自分の雇い主の名前が明記されているんだな。私の主とも呼ぶべき某卿某氏も、私と全く同意見でございまして、陛下が偉大なるお方であることを常々云々ってね。つまり……」 「その貴族達だの大商人だのは、法学者の口を借りて、自分がどれほど魔王陛下への忠誠心に溢れているかを証明しようとしている、と?」 「ご明察。だったら自分でペンを取って、自分の言葉で書けば良いのにさ。法学者も法学者だ。どれだけ高給で雇われてるか知らないけど、そのために自分の法学者としての誇りも良識も捨てることができるんだから。ま、本気でそう思っているというなら別だけどね。ただ、そんな法学者は法律家として認められない」 仰る通りです。透が大きく頷く。 「まったくねえ……偉大なお方だ、超越者だ、絶対者だ、それが褒め言葉になると信じているんだからね。そうやって崇め奉れば、我らが魔王陛下は有頂天になって、自分を引き立ててくれるとでも信じているのかな?」 村田の嘲笑混じりの言葉に、ユーリがうんざりしたようにため息をついた。 「民の多くは、きっととっても素直で…シンプルな気持ちで言ってくれてると思うんだ。悪い奴等を懲らしめてって。でも……」 ユーリの眉が辛そうに寄せられた。 陛下…。コンラートがユーリの肩にそっと手を置いた。 「渋谷、そこで止まっていてはダメだよ? さて、今度はこちらだ」 村田が次に手で指し示したのは、手紙や書類の数が格段に少ない、小さな山だった。 「こちらは現在、絶対的少数派に属する人々からの手紙、というか、嘆願書だ」 「……嘆願書」 そう。村田が頷く。 「今回の魔王陛下暗殺未遂事件に関して、新聞に投書されたハウエル・ハウラン氏の主張は、法を学んだ者であるなら至極当然のものであります。その主張は決して魔王陛下への叛意より発したものではなく、現在新聞等におけるハウラン氏への攻撃は全く不当なものであります。論ずべきは、ハウエル氏もその主張の中で示している通り、我が国の法の不備にあります。魔王陛下におかれましては、行政充実のため、行政諮問委員会を設立あそばし、着々とその成果を上げておられます。司法においてもその叡智を奮われますよう、そして我が国の司法がさらなる充実を遂げますことを願って止みません。また、できうるならば、善良な法学者が不当な攻撃により、社会的に抹殺され、さらには心身共に傷つくことのないよう、その慈愛に満ちたお力でお護り頂ければと存じます、とまあ、そんな感じだね」 「ハウエル先生は孤独な戦いを強いられているわけではないんですね」 思わずホッと透が言えば、村田が肩を竦める。 「まともな意見を主張する学者がたった一人きりじゃ、この国の未来が危ういよ。まだまだ少ないくらいだね」 「世論がこの状況では正しい主張もし辛いでしょう。無理もないのでは?」 取り成すように口を挟むコンラートを、「冗談じゃないね」と村田が一蹴する。 「世論に左右されて、科学を究めることができるものか。自分の進む道を自信を持って歩む者は、たとえ全世界が敵に回ろうと揺るがない。そう、それでも地球は回っている、ってね」 地球が回る? ヴォルフラムがきょとんと呟いた……。 「……オーレン・アンセル…!」 「ご存知なんですね?」 「俺と同門の法学者だ。師匠の下から独立して以来かれこれ……30年以上会ってねえが……。そうだ、ありゃあ大戦の直前くらいだったから……。そうかい、あの男が俺を擁護する嘆願書を……。真面目な法学生だったが、俺とさほど仲が良かった訳でもねえのに……」 俺ぁ、あの頃から捻くれてたからよ。 ハウエル先生が自嘲するように笑い、両掌で顔を覆ったかと思うと、ごしごし擦るように動かした。 「………まあ、何だな、結構嬉しいもんだな……」 「……先生」 ロミオが柔らかく微笑んで師匠に声を掛ける。 お前さん。父ちゃん。アニッサ夫人とジュリィも小さく、だが嬉しそうにそれぞれの呼び名を口にした。 「近々、この件について魔王陛下が声明を発表されることになっているそうです。ね? シンノスケ」 うん、とシンノスケことユーリが頷く。 「声明? 陛下が直々にかい?」 顔からぱっと手を離して、先生が前に座る二人の少年の表情を探る。 「どういう内容になるのか……知ってるかい?」 「はい、あの…」 シンノスケことユーリが答え、それからわずかに間を置いて言った。 「魔王、陛下は、この度の事件を起こした者達が、法に従って、正しく裁かれることを望む。以上です」 それだけかいっ!? 叫んだのはアニッサ夫人だった。卓に手をつき、ぐっと身を乗り出した姿は、その目つきも相まって、今にも餌に飛びかかろうとする獣のような迫力だった。ユーリが思わず仰け反る。 「それだけじゃ、何の助けにもならないじゃないかっ! ウチの先生は間違ってないって、ウチの先生の言う通りにしろって、どうして言ってもらえないんだいっ!?」 「バカ野郎!」 夫に怒鳴りつけられて、アニッサ夫人は一瞬それが自分に向けられたものだとは分からなかったのかもしれない。きょとんと目を瞠ると、自分を睨む夫をまじまじと見つめ返した。 「………お前さん……?」 「何も分かってねえくせに、余計な口を挟むんじゃねえ…!」 さらに一喝すると、ハウエル先生は正面のユーリ達に顔を向けた。 「……陛下のお立場としては、精一杯のお言葉だ。法に従って、というお言葉があるだけでもありがてぇ」 はい。村田が頷く。 「それ以上言及すれば、司法への介入と取られかねません。そのお言葉だけでも、解釈によっては危険なくらいです」 その通りだ、とハウエル先生も頷く。 「魔王陛下は絶対の存在だ。それは俺も認める。だから、陛下ご自身が法を超越なさっておいでだというのもその通りだ。だからといって、陛下が司法に介入したり干渉したりできる訳じゃあない。怖れながら、陛下が俺に同情して下さったとしても、陛下が裁判所に対して指図なんかできるわけがねえ。いや、できないんじゃない、そんなことは絶対しちゃあならねえのさ。……だが」 俺は嬉しいぜ…! ハウエル先生がそこで初めて晴れ晴れと笑った。 「恐れ多くも、魔王陛下が俺なんぞにご同情下さったなんてなあ……!」 へへ、と笑うその顔は子供の様に照れくさげで、ユーリと村田は思わず一緒になって笑みを深めた。 「伺ってもよろしいですか?」 照れ隠しにすぐに渋面になったハウエル先生とは逆に、アニッサ夫人はかなり機嫌が良くなったらしい。自分の夫のことを魔王陛下が理解してくれたということが、ようやく頭に沁み込んだようだ。 夫人によって改めて淹れ直されたお茶と新しいお菓子を味わって、ほんのしばらく会話が途切れた後、徐に村田が切り出した。 「…俺にか? 何でぇ?」 「ハウエル先生は、どうして法学者になろうと考えられたのですか?」 ふん、と鼻を鳴らして、先生はぐいっとお茶のカップを煽った。 「……俺みてぇなガラも悪けりゃ品もない男が学者、それも法律を専門にしてるのがおかしいかい?」 「はい」 ブッと、ハウエル先生がお茶に咽た。 呆気に取られる一同の中、慌てふためく親友の隣で、村田の笑顔はにこにこと、少なくとも見た目はまことに邪気がない。 その純真無垢(?)な笑顔に虚脱した様に、ハウエル先生ははーっと呆れた息を吐き出した。 「……あのよ、坊っちゃん。人に説教されることもあんまりないんだろうが、ちょっとは言葉と態度に気をつけな。下手を打つと、俺みてぇに命が危なくなるぜ?」 「さすがに説得力がありますね」 くすくすと村田が笑う。ユーリが「うわぁ」と額を押さえ、背後ではコンラートとヨザックが視線を外してため息をつく。透はというと、これがどう展開するのかと興味津々の眼差しで見つめている。その時。 「それ以上、先生に向かって失礼な物言いは止めて頂きたい」 ロミオの、張り詰めた声がした。 透がハッと目を向ければ、声と同様、厳しく頬を引き締めたロミオが、村田を睨み付けている。 村田が面白そうな表情で、ハウエル先生の弟子に顔を向けた。 「……君、いえ、あなたも、なかなか興味深い存在だね」 くすり、と村田の笑みが意地悪な色を乗せて深くなる。 逆に、ロミオが眉を顰め、その雰囲気がぐっと険悪になった。場に緊張感が漂い始める。 「おい!」 全員の視線が、声の主に一斉に向かった。 いい加減にしろ、バカ野郎。ハウエル先生がまたもバリバリと毛のない頭を掻きながら、うんざりと言った。 「別に大したこっちゃねえよ。……それに、この坊っちゃん方はわざわざこんなトコロまで俺に良い報せを伝えにきてくれたんだ。んな顔をするな、ロミオ」 「……先生……」 おい、とハウエル先生が傍らのアニッサ夫人に呼びかけた。 「酒持って来い」 「お前さん…! だって……」 「俺の昔話なんぞ、茶を飲みながら話せるかってんだ」 構わねえだろ? と村田にちらりと目を遣ってから、先生は後方に控えるコンラート達に「お前ぇさん達も飲むかい?」と声を掛けた。 「いいえ、我々は結構です」 即座に断るコンラートに、「そうかい」とあっさり頷くと、改めて妻に頷きかけ、「俺の分だけでいい。とっとと持ってきやがれ」と促した。 「今時のガキは思いも寄らねえだろうが」 コポコポと、傾けた酒瓶から大きなグラスにたっぷり酒を注ぎながら、ハウエル先生は話し始めた。 「昔、つってもほんのちょっと前、当代陛下がご即位あそばされる前のことだけどよ。貧乏人の子供は学校とは全く縁がなかった。あの頃は、読み書きも全く出来ない、つまり文盲の民なんぞ掃いて捨てるほどいたんだぜ?」 知ってるかい? と問い掛けられて、ユーリ達も小さく頷く。 「貧乏な家の子供であればあるほど、幼い頃に人生が決まっちまう。親の仕事の後を継ぐとか、どこか、読み書きはもちろん、知識も教養も何の関係もない仕事場に修行に入るとか、さもなきゃならず者に一直線とかな。そして、そこで仕事に必要な、その仕事を離れては全く役に立たない知識や技術を学ぶわけだ。…もう分かってるだろうが、俺が生まれたのもそんな貧乏な家でな」 ぐい、とグラスを呷って、ハウエル先生はどこか遠いところを見つめるように宙に目を向けた。 「俺の親父は、いわゆる食肉加工の工場で働いていた。といやぁ立派に聞こえるかも知れねえが、実際は屠殺職人でな。つまり、牛だの豚だのを鎚でぶん殴って殺して、皮を剥いだり解体したりするのが仕事だったのさ」 「………でも、それって、その……大事な仕事、でしょう…?」 そんな卑下した言い方しなくても、と、おずおずと言うユーリに、「確かにな」と先生も頷く。 「誰かがそんな仕事をしなくちゃ、誰も肉を食うことができなくなる。ああ、そうさ、誰もが肉を口にするために必要な仕事だ。でもな……親父はそれでも差別されていたんだ。卑しい仕事をしているってな」 「仕事に、卑しいとか卑しくないとか、そんな区別はありません! 先生のお父さんの仕事も、人の役に立つ立派な、大事な仕事です!」 思わず声を張り上げるユーリを、ハウエル先生が苦笑を交えてまじまじと見つめ返した。 「………ああ、そうだな、坊っちゃん。あんた……」 良い家で、良い親に育てられて、苦労なんて知らずに育ってきたな。 言われて、ユーリがぐっと言葉に詰まる。 「あんたの言う通りだ。俺の親父は誰に恥じることもないちゃんとした勤め人で、後ろ暗いことのひとつもない給料を貰ってた。でもな、坊っちゃんよ。人ってのはな、どんなことでも良いから、人を見下せる材料を見つけてくるもんなんだよ。自分が貧乏だとか、不幸だとか、そんな思いが強い奴ほどそうだ。自分より貧乏な奴、自分より不幸な奴、自分より惨めな奴、とにかく自分より下だと思える奴を見つけようとするもんなんだ。そしてそいつを見下して、蔑んで、哀れんで、自分を慰めるのさ。俺の方がまだましだってな」 そんな感情を知らないで育つってなぁ幸せモンだ。 ユーリが唇を引き結び、目を伏せる。 「俺の親父はもちろん文盲で、そんな仕事をするくらいだから身体もでかけりゃ力も強かったんだが、とんでもなく気が弱くて臆病者でな。黙って殺されるのを待ってる牛や豚は相手に出来ても、人を相手に喧嘩するなんてこれっぽっちもできる男じゃなかった。俺やお袋を除けば、人と向かいあって話すことすらまともにできなかったんだ。だからますますバカにされた。そんな親父がな……ある時、強盗殺人犯ってことで捕まっちまったんだよ」 「強盗殺人!?」 そうさ、と先生が頷く。 「それも女を襲って乱暴した挙げ句、一家を皆殺しにしたってな。親父にできるわきゃあねえ。そんな度胸も根性もあるもんか。……殺された一家ってぇのが資産家でな、警備隊も何としてでも犯人を挙げなきゃならなかったんだが、これが全然見つからなくてよ。あいつらも焦ったんだろうなあ。事件の1週間ばかり前に、俺の親父が、その家の宴会で使う大量の肉を届けに行ってることを聞きつけた途端、ろくに調べもしねえで親父をとっ捕まえたのさ。親父は貧乏人だから、金持ちの一家を羨んだに違いない。身体もでかいし、毎日動物を、それこそ何百匹って殺しているんだから、人だって平気で殺せるだろう。とまあ、ただそれだけの、言ってみりゃあとりあえずって理由でよ。現場じゃあ、強盗犯は複数いたって証拠があからさまに残ってたんだが、それもいつの間にかうやむやになって、結局……親父は処刑された」 「…っ、そんな…!」 「俺達は代弁人なんてのが存在してることを全く知らなかった。知ってたって金がねえんだ、雇えるわけもねえ。俺は親父じゃないって言い続けたが誰も信じてくれなかった。いや、俺の親父がどういう男か知ってる奴は何人もいて、俺の言うことに頷いてくれた。けど、誰も俺と一緒になって親父を助けようとはしてくれなかった。貧乏人が役人に逆らって、良いことなんかひとつもないからな。……処刑の直前に親父に面会したんだがな」 「……お父さんは何て……?」 「………忘れられねえんだ。親父が泣きも喚きも世を呪いもせずにな、えらく…穏やかな顔をしてたのがよ。そんで俺にこう言うのさ。俺は長年動物を殺し続けてきた。だからこれはきっとその報いなんだろう。何の罪もない牛や豚を食うために殺してきたんだから。そう思えば、何も辛いことはない。これはきっと順番なんだ。俺に殺される時、あいつらは皆、恨みがましい顔も、怒った顔も、俺に見せたりしなかった。覚悟を決めて、ただ静かに殺されていった。動物達ができるんだ。俺も静かにいこうと思う。……学も何もない、文字も読めない、貧しく生まれて貧しく生きて、そして貧しく死んでいく、つまんねえ男の、それが最後の言葉だ。なあ、坊っちゃんよ」 いいかい? 不思議なくらい優しげな声で、ハウエル先生はユーリと村田を交互に見た。 「お前さん達は、きっと将来偉くなるんだろうよ。だったら覚えておいてくれ。どんな社会にも底辺ってものがあって、そこでは、こんな風に消されていく命がいくつもあるんだ。お前さんはさっき、仕事に卑しいの卑しくないのという区別はないって言った。命も同じだ。身分に貴賎はあっても、命に貴賎はない」 こくん、とユーリが大きく頷く。その瞳に浮かぶ真剣な光に、ハウエル先生が眩しそうに目を細める。 「だが、実際はあるんだ。俺の親父みたいに、その場しのぎに踏み躙られて、誰からも悼まれることもない、そんな哀れな命がこの世にはある」 「……今も…?」 「今もだ」 瞬間的に、ユーリの顔が強張った。それを何と見たのか、ハウエル先生が「でもな」と急いで付け加える。 「その頃と今じゃ、比べ物にならねえよ。今のこの国の有り様は、あの頃には想像もできなかったほど良くなってる。それは確かだ。警備隊だって、特にこの王都のは、ウェラー卿が総司令になってからは一気に強力な組織になったっていうしな。けどなあ、どんなに国が発展しても、皆の暮らしが良くなっても、それでも置いていかれちまうってのがいるんだよ。それはもう、魔王陛下がどれだけご立派な方だろうと、どうしようもねえんだけどな」 「どうしようも、ないんですか?」 「ああ。どうしようもない。光が当れば影ができるのと同じ様に、こればっかりはなくすことはできねえんだ。ただな、上に立つ者がしっかりしてくれれば、繁栄の陰に消えていく命はぐっと少なくなる。その点じゃあ、当代陛下は遥かにましさ。前の陛下の時は、そりゃもう酷かったからな」 「あの、先生?」 そこで村田が口を挟んだ。 「大変ためになるお話だと思うんですけど、できれば本筋に戻って頂けませんか? それでどうして先生は法学者を目指されたのか」 「………おう!」 すっかり忘れてたぜ。ぽんと手を叩いて、ハウエル先生は声を上げた。 「でもまあ」言って、再びグラスをぐいっと呷る。「後は大した話じゃねえよ。親父が処刑されて、そのすぐ後、身体が弱くて寝たり起きたりだったお袋も首を括って…」 ユーリ達がハッと目を瞠り、思わず口を開きかける。が、ハウエル先生は気にした様子もなく、淡々と言葉を綴った。 「俺ぁ思ったのさ。こんなのはイヤだ。こんな死に方だけはしたくねえ。……幸か不幸か、俺ぁ、親父やお袋と違ってはしっこくてな。口も悪いが手癖はもっと悪かった。そりゃもうできる悪さは全部してのけたぜ。親が生きてた頃から、それこそ近所中を荒らしまわった。身体が小せえからまともな喧嘩はできないが、その代わり汚い技は幾つも身につけたしな。文字通り社会の底辺で、俺みてぇなガキが生き延びていこうとすりゃあ甘ったれてはいられねえからな。ましてほら」 言うと、先生は可笑しそうに笑って、パンパンと自分の頬を両側から叩いてみせた。 「俺ぁ、こんなご面相だろ? どう見たってまともな人生を真面目に歩むってガラじゃねえ。近所の連中は俺がどんなワルに育つかって、賭けをしてたくらいさ」 はっはと笑う先生のグラスに、新たな酒が注がれる。 二親をなくした後。手の中のグラスを揺らしながら、言葉が続く。 「このまんまじゃダメだって考えた。このまんまじゃ、俺は近所の連中が期待する通りの、街のゴミ虫で終わっちまう。泥の中で踏み潰されて死んじまう。そう考えてな、軍に入ったのよ」 「軍に!? 先生が!?」 意外だという村田の声に、「おうよ」と先生が答える。 「この世のどこに、タダで読み書きを教えてくれる場所がある? それも三食給料付きって酔狂な場所がよ」 「………なる、ほど…」 「とにかく読み書きだって思ってな。勉強したのさ。どうやら俺は、頭の作りだけはさほど悪かなかったらしい。読み書きはすぐにできるようになったし、本を読むってのが結構面白いもんだということも知った。知らないことを知るってのは、気分が良いもんだってことも軍で学んだ。同時に、軍人には絶対なれねえってことも分かったな。とにかく身体が小さくて、それにまあ…あの頃は痩せててよ、とにかく腕っ節についちゃ絶望的だった。あの頃の国は文字通りの軍事国家だったから、軍人の身分は役に立ったが、いつ戦争が起こってもおかしくないほど魔族と人間の仲は悪かった。小競り合いならしょっちゅうだったしな。だから役立たずに飯を食わせておくほど甘い場所でもなかった。数年我慢して、もらえる知識はみんな貰って、ここいらが引き時だろうって見切りをつけたところで軍を出たのさ。で、まあ、軍を出たその足で、名前だけは知ってた法学者の門を叩いたわけだ。それが俺の師匠だな」 「軍にいた頃から、いずれは法学者になろうと考えていたんですか?」 「……将来どうしようって考えるたびに、どういう訳か必ず親父の顔が眼に浮かんでな……」 「貧しい人や、お父さんのように不当な目にあってる人を助けようと考えて法学者に…」 「なわきゃねえだろ」 「…え? ……でも」 「俺は親父を見て、こんなのになりたくねえって考えたんだ。何としても金持ちになってやるってよ。貧乏人を相手に金が稼げるかってんだ。俺ぁ、絶対金持ちのお抱え法学者になって、どっさり金を稼いでやるって心に決めたのよ」 「………で、結果は」 見ての通りさ。 自嘲の笑いを浮かべて、ハウエル先生は腕を広げた。 「なろうと思ったんだぜ、俺もな。必死になって金持ちに自分を売り込んでよお。けどな、ほら、俺ぁ見てくれも悪いし、品もねえし。それに何より、うす汚ねえ金持ちが貧乏人を踏みつけにしてんのを目の前にするとなあ、頭がカッカしちまって。試しにって雇ってくれた金持ちを、裁判の場でこてんぱんに貶して、不正の証拠まで公開して、罪を擦り付けるはずだった相手を助けちまった後はもう、どんな金持ちも俺を雇おうとはしなくなった」 「当然でしょ、それ。ちなみに、そのお金持ちはどうなったんですか?」 「役人はもちろん、裁判官ともつるんでて、裁判前に判決文が用意されてるってぇとんでもねえ猿芝居だったんだがな。俺が不正の動かぬ証拠を全部明らかにしちまったからにはどうしようもねえ。財産没収の上、追放とあいなったさ。ちなみのついでに教えとくが、裁判が終わった後、その金持ちとつるんでた役人と裁判官の名簿と、それからつるんでた証拠をまたまた公開してな、そいつら全員を告発してやった。俺ぁ、動かぬ証拠ってのを揃えるのが大好きでなあ。ほら、人の秘密ってヤツを覗き見すんのは楽しいモンだろ? だから俺に一旦証拠を出されちまったら、相手はもうどうしようもなくなっちまうんだな。そいつらも一斉に処分されたぜ。処分しねえとその上の奴等がまた困ることになるからな。無駄な尻尾はさっさと切り捨てねえと。てな訳で、俺の胸はスッとしたが、しばらく命を狙われて困った」 「…よく生き延びられましたね」 「こういうことは用心が必要だからな。言っただろう? 俺はガキの頃から、汚い技を幾つも身につけて、喧嘩もほとんど負けなかったんだよ。だから、こいつはヤバいと分かったその日の内に、とっとと夜逃げしたのさ。マズいと思ったら即逃げる。これこそ生き延びるための鉄則よ!」 「………それが夜逃げ人生の始まりだったんですね……」 何となく、周囲の視線の色と温度が変化したことに気づいたのか、自慢げに胸を張っていたハウエル先生がひょいと首を竦めた。 「……ま、まあ…そんなこんなでラドフォードに落ち着いて、そこそこそれなりの代弁人として働いたのさ。前の失敗をちゃんと生かしたってことだな。小金も溜まって、弟子もできて、俺にゃあ縁がないと思ってた家族も出来て、俺もようやく落ち着けるかと思ったんだが……。性格ってヤツはどうしようもねえからな」 「前と同じ様なことを繰り返して、またまた夜逃げしてきた、と」 「人生ってなあ、思い通りにいかねえもんさ」 グラスを深々と呷り、ぶはーと酒臭い息を吐き出す先生に、ユーリがうっと身体を引く。 「先生?」 「まだ何かあるのかい?」 「結局現在のこの事態は、一体どういうことなのか、なぜこうなってしまったのか、お考えがありますか?」 グラスを口に運んだところで、ふとその手が止まった。 …ふん、と小さく鼻を鳴らして、ハウエル先生は次にゆっくりとグラスを卓へ下ろした。 カタン、とガラスが木の卓にぶつかる音がする。 「……当代陛下が、あまりにご立派、すぎるからだろうなあ……」 ゆっくりと、ユーリが顔を上げた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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