愛多き王様の国・6 |
「これが現在分かっています、この人物についての調査書です」 地球世界であれば、このようなセリフを口にするとは思えないほど幼い、せいぜい中学生、の少年が、真向かいのソファから透を見つめていた。 鹿爪らしい表情で、腕組みしながら自分をじっと見ているそばかす少年の様子は、魔王陛下とはまた別の小動物の様で、何とも微笑ましい。 ……マズい。宰相閣下の趣味がうつったかもしれない。 コホン、と小さく咳払いをして、透も緩みかけた頬を引き締めた。 「ハウエル・ハウラン氏。ラドフォード領ミツクで法律専門の学舎を設立運営する法学者。学生に教授する傍ら、裁判における被告代弁人などを多数こなす。舌鋒鋭く、というより、口が悪く、態度がふてぶてしく、上流階級や資産家、及び裁判官に対しては常に喧嘩腰で、地元法曹界での評判はすこぶる悪い。ただ経済的に代弁人を雇えない被告人に対しては無報酬でその任を果たすため、低所得者層の人気は高い……なるほど」 弁護士を主人公としたテレビドラマなどでは、結構ありがちな設定の人物だ。 斜に構え、偽悪的で、クールを気取っていながら実は無類のお人よし。 「……ある意味平凡だな」 くす、と笑って、透は受け取った調査書を向かい合って座る相手─王都日日新聞社記者、ローズグレイ・ティートに返した。 「今現在は?」 「しばらく前にラドフォードからこちらに移られて、ご家族、奥さんとお嬢さん、それからお弟子さんと一緒に王都の、こちらの住所にあります一軒家で暮らしていらっしゃいます。法律相談の看板を出しておられますが……」 「ラドフォードの学舎はどうなったのでしょうか?」 「………さあ」 あまり詳しく教えたくないらしい。 「宰相閣下からのご一筆を頂いちまったから了解したがね」 声はいきなりティートの頭の上からした。 顔を上げれば、髭面の男が気難しい顔で透を見下ろしている。 「本来なら、こういう情報は軽々しく部外者に教えられるもんじゃないんでね」 「承知しています、編集長殿。御懸念の向きは分かります。ですが、あなた方が私に便宜を図って下さったことで、この学者殿の身に災いが降りかかることは決してないとお約束いたします」 「行政諮問委員会の委員殿ならご存知だとは思うが」 王都日日新聞の編集長は、ティートの隣にどっかと腰を下ろして、隣に座る部下と同じ様に腕を組んだ。 「今のこの状況は、非常にきな臭い。魔王陛下が襲われたと聞いた時は俺も驚いたし、それが反魔族の人間だと分かった時には本気で腹が立った。畜生、阿呆な人間共め! そう思った。だが……それから後がいかん! シンニチももうちょっと若手を教育しなけりゃな……」 俺はね。 編集長が、探るような眼差しで透を睨み付けた。 「このハウエル先生の言ってることは一理あると思ってる」 編集長! この人は魔王陛下直属の! ティート始め、編集者達が焦った声を上げた。だが編集長は動じない。 さあ、どうだ、と、編集長の厳しい目が透の表情を伺っている。 「一理ある、ですか?」 「おう」 「その程度ですか?」 へ? と、編集長が間の抜けた声を上げた。 「ぼく、いえ、私は、この先生の主張を全面的に支持しています」 立ち上がり、呆気にとられる編集長、そして編集部員達に「お世話になりました」と一礼すると、透は編集部を出……ようとして、ふと足を止めた。 「すみません、お土産にお菓子でもと思うのですが、お勧めのお店を教えて頂けませんか?」 「……うわー、こりゃすごい……」 王都日日新聞の編集部一押しのお店でお菓子を購入し、その箱を抱えて、透はその家の門前に立った。 その場所は、王都でもかなり下町というか、低所得者階層が住む地域というか、スラムと呼ぶほどの場所でもないが、相当猥雑な雰囲気に満ちていた。 まだ昼下がりと呼ぶにも早い時間だというのに、通りの角の居酒屋ではすでに酔客の大声が鳴り響いている。 「今の王都にもこういう場所が残ってたのか……。仮にも行政に携わる者が、こういう場所を見逃してたのはマズいよなぁ……」 行政諮問委員会に属しているのはあくまでも便宜上のはずなのだが、透は真面目に反省した。 「それにしても……」 見れば、ほとんどの家が集合住宅、つまり安アパートだ。かなり老朽化した石造りの、2階から5階建ての建物がひしめくように並んでいる。その建物と建物の間には無数のロープが張り巡らされ、路地裏でもないのに洗濯物がどっさり吊り下がっていた。風が通らないのだろう。洗濯物は全てだらりと垂れている。 ぐるっと顔を巡らせると、いくつかの窓で人影がさっと動いた。まるでこちらを見ていたのを隠すように。 ……どうにも剣呑な雰囲気だ。 そして目指す家は。 3階建てと5階建ての集合住宅の隙間に、押し込まれるように建つ一軒家だった。 一応門もある。看板も出ている。 だが。 その門、そしておそらくは『ハウエル法律相談所』とでも書かれているだろう看板、それからわずかな石畳の向こうの玄関扉と壁。それらは、おびただしい数の張り紙にぎっしりと埋めつくされていた。 『非国民』、『恥知らず』、『魔族の恥、魔王陛下の敵』、『エセ法律家!』、『出て行け!』etc、etc…。 「……サラ金の取立てか……?」 何とまあ…と首を振りながら、その張り紙に書かれた罵倒の文字を目で追っていた、その時だった。 「そこっ! 動くんじゃないわよっ!!」 え? と振り返った目を光が射る。鋼が弾かれた陽の光が…。 剣!? 「えーいっ!」 「うわぁっ!!」 ぶんっ、と鈍く風を切る音と同時に、透は腰に衝撃を感じた。とっさに尻餅をついて剣を避けたのだ。 ……昔なら簡単に、もっとカッコ良く避けられたはずなのになあ……。 だが、避けられただけましかもしれない。もしかしたら、クラリスの特訓の成果、それも、彼女の容赦ない剣から逃げ回った実績がものをいったのかも……。 じんじんと痛む腰に眉を顰めながら、ふと傍らに目をやって、透は「うわぁ」と、今度は情けない声を上げた。 地面についた手のすぐ側に、ぐっさりと剣が突き刺さっている。 「……よくも避けたわねぇ……」 恨みがましい声に、透はそろそろと顔を上げた。 「やっと見つけたわぁ。今日こそ逃がしゃしないわよぉ」 傾きかけた太陽を背に、仁王立ちしているのはまだ年若い少女だった。 年の頃は……魔王陛下や大賢者猊下と大して変わらないだろう。 逆光のせいか、顔立ちはよく分からないが、金髪を三つ編みのお下げにしていること、そしてたった今、少女の口元がにやりと笑みを作ったことだけは分かった。 くっくっく……と少女が喉を鳴らして笑い出す。 「……あ、あの……」 情けないことに、少女の不気味な笑いにすっかり気圧されてしまった。あわあわと口を動かしながら、身体は手と足とお尻を使って勝手にずりずりと後退っていく。 「今度はどんな張り紙をしようとしてたわけ? ん? 言ってご覧なさいよ。ったく、こんな卑怯な真似をして…! 文句があるなら、堂々と面と向かって言えってのよ!」 その通りだ。全く同感だ。だから透はうんうんと大きく顔を上下に動かした。 「何頷いてんのよっ、この下衆野郎っ!」 いや、そうじゃないと、今度は必死で首を左右に振る。 「だから何だってのよ! ……良いわ、あんたみたいな腰抜け、脳天から真っ二つにぶった切って……!」 「っ……まっ、まままっ、まって、待ってくださいっ!」 それだけでもう息が切れそうになる。 「今さら……!」 「ぼっぼっぼっ、僕っはっ、こんな張り紙とっ、関係ありませんっ!」 「なーに言ってんのよっ。あんたが腕の中に後生大事に抱えてるのは何!? それの中に汚らしい文句を書いた紙が入ってんでしょ!? つまんない嘘をつくんじゃないわよ!」 「僕はっ」 一瞬のパニックが去り、自分の状況を理解すると、透は急いで声を上げた。 「ハウエル先生のご意見を直に伺いたくてやってきた法学生です! こちらに伺ってのは、今日、これが初めてです! それからこれは、お土産のお菓子です!」 一息に言って、透はずいっとお菓子の箱を差し出した。上から少女がそれをまじまじと見つめている。 「お菓子?」 その声は全く違う方向から聞こえた。 箱を掲げたまま首を捻ると、新たな人物、透と同年代に見える薄茶の髪の青年がすぐ傍らに立っていた。 「君、法学生?」 「は、はい…」 ちょっと失礼。青年が一言告げて、お菓子の箱を取り上げる。そして丁寧に掛けられたリボンを器用に外し、箱を開けて中を覗き見て…。 「お嬢さん」 「……うん」 「彼の言っていることは本当のようですよ。ほら、これ」 青年に促されるまま、少女が箱の中を覗きこむ。と。 「やだこれっ! 『王都美食と観光の案内・今年度版』に載ってた『リュックルーベンお菓子の館』の超豪華焼き菓子詰め合わせじゃないのっ! すっごく食べたかったのに、お店に行ったらあんまり高くって買えなくて、悔しくってずーっと見てたからしっかり覚えてるわっ! ちょっとあんた!」 少女がキッと透を見下ろした。 「これ、ウチによね!? ウチに持ってきてくれたのよねっ!?」 「ああああの……あ、あなたが、ハウラン先生のご家族なら……。あの…先生は奥様とお嬢様とご一緒にお暮らしだと伺ったので……」 「あたしがそのお嬢様よ!」 言うなり、少女は青年の手からお菓子の箱を奪取し、ガシッと抱き込むと、奪われてなるものかとばかりに、一直線に家の中に飛び込んでいった。 後には、ぽかんと尻餅をついたままの透と、苦笑を浮かべる青年だけが残された。 「君、もう立ったら? それとも腰が抜けたとか?」 え? と青年を見上げてから、透は慌てて立ち上がった。 ……あんな少女に脅されて尻餅をつくなんて……。自己嫌悪に頬が熱くなる。 「とにかくお嬢さんがお菓子も受け取ったことだし、家に入る許可は貰ったと思って良いんじゃないかな。さ、行こう」 促されて立ち上がり、透はその青年と向かい合った。 年齢はやはり透と、いやコンラートと同年代、人間なら21、2歳、というところだ。薄茶のさらさらしたストレートの髪を、肩甲骨の辺りで切り揃えている。女性のような髪形に見えるが、それがよく似合う上品でおっとりとした顔立の、なかなか端正な顔立ちの男だ。だが……わずかに口角を上げた微笑みは、どこか皮肉気に感じる。 「え…と、すみません、僕はスズミヤ……」 「ああ、紹介は後で良いよ。二度手間だから。とにかく早く中に入ろう。あまり人目につくとまずい」 「それは…?」 「いいから」 わずかに苛立った声で言うと、青年はさっと踵を返して扉に向かった。その後に続こうとして、透はあっと足を止めた。 「あのっ、すみません、これをどうするんですか?」 透の足元には、まだ地面に刺さったままの剣がある。 ああ、と頷くと、青年は剣に近づき、ひょいと抜いた。 「よく地面に刺さったな…。これ、とんでもないなまくら剣でね、野菜も切れないんだよ。お嬢さんの腕で殴られても、せいぜいコブが出来る程度だっただろうね」 言うと、剣を肩に担ぎ、すたすたと歩き出す。はあ…と息をついて、透も後を追った。 さっきの姿をクラリスに見られなくて本当によかった。もし見られたら……。透の口からまたも深々とため息が漏れた。 「ロミオ!」 ……ロミオ…? 扉を開けた瞬間、飛び込んできた名前に透はきょとんと首を傾けた。 「ロミオ!」 再び声がする。と思ったら、奥の部屋から女性が飛び出してきた。 先ほどの少女とは別人、いや、年齢と雰囲気からしてあの少女の母親だろうか。 痩せぎすの、癇の強そうな女性が眉と目を吊り上げてこちらに迫ってきた。 「弟子志願が来たってのはほんとかい!? あんな高い菓子を土産に持ってくるなんて、どこの坊っちゃんだいっ! あれが土産なら、束脩は幾らになることか……。いいかい、ロミオ! 絶対逃がすんじゃないよっ!」 どうやら青年はロミオという名前らしい。いやー、何ともロマンチックな名前……。 なんてことはどうでもいい! 透が視界に入っていないらしい女性と、苦笑する青年を目にして、透はごくっと喉を鳴らした。 弟子入り? ちょっと待て、そんな話をした覚えはない、というか……ソクシュウって……。 束脩というのは、弟子入りに当って師匠となる人物に最初に贈る進物や金のことである。が、そんな単語は、かつて筋金入りの戦争屋だった魂を持つ透の、脳内辞書には存在していない。 「奥様、お気持ちは分かりますが、それを本人の前で口にするのはちょっと……」 言いながら青年、ロミオがちらっと視線を透に向けると、女性も一緒になって顔を向けてきた。 昔はそれなりに美しかったんじゃないかと思われる女性が、じーっと透を見つめる。 「………あ、あの……」 「おやまあ!」 女性の表情がコロッと変化した。 釣り上がった眉と眦はだらんと下がり、刺々しさを感じた表情もぐっと柔らかくなる。 「あんたがウチの先生に弟子入りにきた人かい? よくお出でだねえ。ささ、そんな隅っこにいないでこっちにおいでな!」 隅に移ったのはあなたが怖いからだ、と口にできない言葉を心に呟いた瞬間、透は「うっ」と呻いた。 女性がにこやかに笑いながら、透の両手首を握っている。ぐっと握っている。ぎゅうううっっと握って、見れば手の筋が白くぐっと浮いている。……爪が食い込んで、痛い。 「ほらほらっ、遠慮しないでっ!」 いつの間にか、あの少女が透の背後に回っていた。 ほらほらと言いながら、透の背をぐいぐい押している。 母親らしい女性に腕をつかまれ、少女に背を押され、透は否応なしに奥へ連れ込まれていった。 「……ちっ」 目の前の男が、忌々しそうに舌を打った。 「気の利かねえ野郎だぜ。俺への土産が甘ったるい菓子とはよお…」 つまみにもなりゃしねえや。 愚痴る男の真正面で、透はどんどん気が重くなっていく自分を自覚していた。 向かい側から、ぷんぷんと酒の臭いが漂ってくる。臭いだけで酔ってしまいそうだ。 居間らしき場所に放り込まれ、ほとんど無理矢理ソファに座らされ、何か言わねばと口を開いたところへその男は入ってきた。 身体の左側、小脇に抱えているのは厚手の本が数冊。そして右手には酒瓶。 のしのしと入ってきたかと思うと、「ふんっ」と鼻から息を吹きだして、どっかとソファに腰を下ろした。 そして下から睨み上げるように透の値踏みを始めたのだ。 小男である。小さな身体はでっぷり太っている。 丸みよりも、ごつごつとした印象の強い顔は、頬の肉だけが弛んで下がり、何ともいえない悪相を作っている。まるでブルドッグだ、と言ったらブルドッグに悪いだろうか。 男の頭頂は禿げ上がり、頭のてっぺんが灯を反射しててらてら光っている。ただ禿げているだけではない。わずかに残ったこげ茶色の髪が、まるで帯を巻くように輝く頭頂を囲んでいるのだ。まるで……。 トンスラ、っていったっけ。昔のカトリックの聖職者がしていた髪形にそっくりだ。思い出すのは、歴史の教科書に載っていた、フランシスコ・ザビエルの肖像画。 おまけに酒焼けだろうか、膨らんだ鼻が妙に赤黒い。 基本美形な魔族の中では、結構目立つ顔立ちかもしれない。ドラマなら絶対悪役だ。 だが、本当に目立つのはその顔立ちじゃない。 目だ。 窪んだ、丸く小さな碧い目。文字通りの金壷眼。欲深の象徴とも言われるその目が、鋭い光を湛えて透を窺っている。 ……これが学者の目か……? 透はごくっと唾を飲み下した。 「何言ってんだい、父ちゃん! これはあたし達に持ってきてくれたもんなんだよっ。文句なんか言ったらバチが当るからね! ……ねえ、あんた」 父親に怒鳴りつけた少女が、くるっと顔を透に向けてニカッと笑った。 金髪にお下げ、父親とは違う青い瞳がくりくりとして結構可愛らしい。小さな鼻の周りに散ったそばかすが愛嬌を深めている。……父親似でなくて良かった。 「さっきはゴメンね! てっきりこそこそ張り紙をしにきたバカの1人だと思ってさ。でもよく見たら、あんたとっても上品だし、良い人っぽいもんね! 勘違いして悪かったよ! それから、ここのお店のお菓子、あたし憧れてたんだ! お土産にしてもらってとっても嬉しい。ありがとね!」 出会いが出会いだけに透も苦笑するしかなかったが、第一印象とは違って、なかなかさばさばした感じの良い子だ。学舎を営む学者のお嬢さんにしては品が、じゃない、威勢が良すぎる気がしないでもないが……。 透は笑みを深めると、軽く頭を下げた。 「いいえ、僕こそ失礼しました。あの……僕、いえ、私は、スズミヤ・トールと申します。よろしくお願い致します」 「ご丁寧にすまないねえ」 奥方がポットとカップと、それから透のお土産の焼き菓子を盛った大皿を、小さな台車に乗せて運び込みながら言った。 「あたしゃ、この先生の女房でアニッサっていうのさ。この子は一人娘のジュリィ。こっちに立ってるのは、先生の…今じゃたった一人になっちまった弟子で、アンゼル・ロミオだよ。あんたの先輩だね。分からないことがあったら何でも……」 惜しい。娘の名前がジュリエットなら……。あ、いや、そうじゃなく…! 「…あ、あの、済みません、僕……」 「おい、ちょっと待ちな」 先生ことハウエル・ハウラン氏が剣呑な声を上げ、誤解を訂正しようとする透の言葉はまたも遮られた。 「俺ぁまだこいつを弟子にするたぁ言ってねえぜ?」 「………お前さん、あんた一体何を言ってんだい……っ!」 「何って、お前ぇこそ何だ。まだろくに話もしてねぇんだ。海のモノとも山のモノとも知れねぇヤツを、簡単に弟子にできるかいっ!」 「海の底だろうが山のてっぺんだろうが、あたしゃ全然構やしないねっ! 今頃あんたの弟子になってくれるなんて酔狂モノ、そうそういやしないよっ! まともに仕事もしないんだ、せめて束脩でも貰わなきゃ、あたし達ぁ明日にも干物になっちまうよ!」 「仕事をしねぇんじゃねえよ! 仕事が来ねぇんだよ! 好きでのんびりしてる訳じゃねぇや!」 「おや、そうかい! そりゃぁ気づかなくて悪かったねえ! あたしゃてっきり王都には骨休めにおいでになったのかと思っちまったよ!」 「バカ野郎! 俺ぁ法律学者としての使命感に燃えて王都にやってきたんだぜ!」 「使命感!」 はっはあ! 思いっきりバカにした声を上げると、奥方、アニッサはパンと手を叩いた。 「よくぞお言いだ! ラドフォードの裁判所や法律学者のお仲間から突き上げくらって、弟子もすたこら逃げ出して、にっちもさっちも行かなくなって夜逃げしてきたんじゃないか! 王都に来たら来たで、今度は魔王陛下の暗殺犯を庇いだてしてさ! 誰も彼も敵に回すのが、お前さん、そんなに楽しいのかいっ! 次はどこに夜逃げするおつもりだい! え? 先生、この哀れな女房に教えておくれな!」 「暗殺犯じゃねえ。暗殺未遂犯だ! 法律学者の女房が、そんな基本的な間違いをするな! それに俺が言ったことは庇い立てなんかじゃねえ! 法律学者として当然の……!」 「お黙り、この甲斐性なしのとんちき頭!」 「黙るのはそっちだ! このクソアマ!」 「言ったねえっ!」 「言ったがどうした!」 呆然と見つめる透の前で、すさまじい夫婦喧嘩が始まろうとしている。 それにしても、この既視感は何だろう……? 「ろくな稼ぎもないくせに、偉そうなクチをきくんじゃないよっ!」 「るせぇ! 学者の女房なら女房らしく、内職にでも励みやがれ!」 あ。分かった。 夫婦を前に、思わず透は頷いた。 今、目の前で展開しているのは、江戸の長屋の貧乏夫婦の喧嘩、そのものじゃないか。 稼ぎが悪いくせにゴロゴロと遊んでばかりの亭主と、口の減らない女房。 そう思いついた途端、ハウラン先生とアニッサ夫人が、すっかり腕が落ちて酒びたりになった腹掛け姿の中年大工と、肩の辺りに継ぎを当てた着物を着て、手ぬぐいを首に巻き、こめかみに膏薬を貼った長屋のおかみさんに見えてきた。 「ねえ、あんた、こっちにおいでよ」 ハッと振り返ると、2人の娘、ジュリィが手に焼き菓子を盛った大皿を抱きかかえて立っている。 ……では、この子はさしずめ長屋の小町娘、ってとこか。 「コレが始まっちゃうとさ、後は物の投げ合いと掴み合いになるんだ。お茶とお菓子を避難させて、あっちでロミオとお茶にしよう。ね?」 部屋の隅では、すでにロミオが自分達だけのお茶の準備を整えていた。 用意された小さな卓にお菓子を置いて、ジュリィはわくわくした顔で椅子に座った。……どうやら両親の喧嘩は日常茶飯事らしい。2人ともすっかり慣れた様子だ。 「ねえ、お菓子、貰っていい?」 「…あ…ええ、もちろん。あなた方にお持ちしたのですから」 答えると、ジュリィが「へへ」と笑った。魔王陛下や、今日会った新聞記者の少年とは、また違った趣の可愛さがある。と思う。 「いただきまーす」 可愛い声でそう言うと、ジュリィはそうっと焼き菓子を取り上げ、慎重に包みを開き、敬意を表してか、お菓子に向かって小さくお辞儀をすると、目を輝かせて歯を立てた。 一口齧りとって、ゆっくり咀嚼し、コクッと飲み込む。それからほー…っとため息をつき。 「お・い・し・い、よ〜……」 しみじみと言った。 「ごめんねー。ホントにびっくりしただろ?」 3人だけのお茶会。 透の背後では、いまだにがなり合いと家具がぶつかる音と何かが壊れる音がしているが、ジュリィはひたすら幸せそうに焼き菓子を頬張り、ロミオはおっとりした顔をそのままに、平然とお茶を飲んでいる。透もあえて背後からは意識を逸らし、お茶を喉に流した。……修行不足か、お茶の味は分からない。 「お母ちゃん、さ」 「はい?」 ふいに話しかけられた。ジュリィが焼き菓子の欠片を口元につけたまま、透を見ている。 「ウチのお母ちゃん。実はさ、ラドフォードの淫売宿で商売してたんだよね」 ごふっ。 飲み掛けのお茶を吹き出した。 「そしたら何を失敗したんだか、子供ができちゃって。んでお母ちゃん、たまたまお客だった父ちゃんに、あんたの子供だから何とかしろって迫ったんだよね。後で聞いたら、ホントに父ちゃんがあたしの父ちゃんかどうかは全然分かんなかったんだって。でも、そん時のお母ちゃんのお客の中じゃ、父ちゃんが一番偉そうだったから、父ちゃんにしたんだってさ。何つっても学者だろ? 稼ぎも良いだろーって思ったんだね。そんで父ちゃんがお母ちゃんを落籍して、結婚して、あたしが生まれたんだ。だからあたし、父ちゃんのホントの子供かどうか分からないんだ。でも父ちゃんはさ、俺がお前を娘だって思ってんだから、お前は俺の娘で良いんだ! って言ってくれてさ。まあそれはとっても嬉しかったんだけどね……。たださ、お母ちゃんと結婚した辺りから、父ちゃん、ラドフォードの同業の人からすっかり嫌われちゃって。こともあろうに、法律を専門とする学者ともあろうものが、そんな出自の女を妻にするなんてってね。父ちゃんも元々それほど品の良い方じゃないし、お母ちゃんに至ってはさ……。学者としての品性に甚だ欠けるとかってさんざん責められてきたんだよね。それが結局今日の事態を生んだってトコなんだけど。でもね、父ちゃんとお母ちゃん、あれで実は結構仲が良くて……」 「あっあのっ、ちょちょちょっと待って下さい!」 思わず大きな声を上げると、ジュリィがきょとんと口を閉じた。 「あの……どうして今突然そんな、その、話を……」 こんなとんでもなくプライベートな話を、一体どうして見ず知らずの、つい先ほど出会ったばかりの自分にするのだろうか……? 「だってさ」 あっけらかんと、ジュリィが笑う。 「あんたが父ちゃんの弟子になったら、遅かれ早かれ分かっちゃうことだしさ。こういうことって、後回しにしてると妙なしこりを生んだりするだろ? あたしは父ちゃんもお母ちゃんも好きだし、こうして立派に育ててもらったことを感謝してるし、だから父ちゃんとお母ちゃんの昔のことなんてどうでもいいって思ってるからね。でも、そういうことを気にする人も結構いるらしいからさ。先にちゃっちゃと話しておこうって思って」 にこっと笑うそばかすも可愛い少女に、透はごくりと大きく喉を鳴らした。 「…あっ、あの、申し訳ないんですけど……僕、実は……!」 「ちっ、何でぃ、人騒がせもいいとこだぜ!」 ハウエル先生は酒瓶の栓のコルクを口で抜くと、ぺっと床に吐き出した。それから酒瓶に直に口をつけ、ごくごくと水の様に酒を喉に流し込んだ。 はぁ、とため息をつきながら、透は服の襟元を直した。 実は弟子入り志願に来たわけではない。ハウエル先生の意見を聞きに来ただけだ。と、それをロミオに告げ、ロミオから喧嘩中の夫婦に告げられた途端、鬼のような形相のアニッサ夫人に襟首を締め上げられたのだ。 「でも、確かに彼は弟子入りに来たとは一言も言ってませんね。先生のご意見を伺いきた、というセリフは僕も耳にしましたが」 「………ごめん、お母ちゃん。あたしが勘違いしちゃったんだよ。この人のせいじゃないから」 まるで透の責任であるかのようにぶつくさ文句を言いながら、アニッサ夫人は床に散らばった皿や何かの欠片を片付けている。 「どうしたんだぁ、ジュリィ。お前にしちゃ優しいじゃねえか」 酒瓶から口を離し、ハウエル先生がにやっと笑う。 「何だよ、バカ親父! 変な顔で笑うんじゃないよっ。……だってこの人、父ちゃんの話を聞きたいだけなのに、あんな高いお菓子を買ってきてくれてさ……」 良い人じゃん。 もじもじとそう呟くように言う少女に、透は何となく気恥ずかしくなって頭を掻いた。 けっ、とハウエル先生が目を眇める。 そんな学者の様子をそっと伺いながら、透は一体何度目になったのか分からないため息をついた。 この伝法な口調は、何となく、何となくだが、祖父の香坂教授を思い起こさせる。 もっとも祖父が使う言葉は品性とは関係のない、江戸っ子言葉、いわゆる江戸弁だ。そして祖父は外見的には実に見事な紳士であり、それも黙って立っていさえすれば、生え抜きの英国紳士という雰囲気を醸し出している。 祖父の妻である祖母も、これは実際に旧家のお嬢様で、育ちの良さを仕草の端々から感じさせる女性だ。 『あいつぁ、俺の見かけに騙されたのさ』と祖父は笑うが、2人は本当に仲の良いおしどり夫婦だ。 同じ学者、そして似たような伝法な口ぶりではあるものの、祖父夫婦とこの夫婦は大分雰囲気が違う。 「で? んな高い菓子まで用意して、てめぇ、俺に一体何を聞きに来たって言うんだい?」 魔王陛下暗殺未遂犯の処遇に関して、ハウエル・ハウラン氏本人の口からその御存念を伺いたい。 透の言葉に、ハウエル先生は「けっ」と言い放つと、顔の筋肉も脂肪も一緒くたに、まるで絞るように歪め、椅子から立ち上がった。 そしてそのまま部屋の隅の棚に向かうと、新たな酒瓶を取り出した。 「別に、俺ぁ、特別変わったことを言ったわけじゃねえ」 透に背を向けたまま、ハウエル先生が言った。……まるで、子供が拗ねているような口ぶりだ。 部屋には、透とハウエル先生の他に、後3人が立っている。 窓際にロミオが、ハウエル先生が今まで座っていたソファの後ろでは、目を吊り上げ、腕を組んだアニッサ夫人が、扉の側ではお菓子のお盆を抱えたままのジュリィが、困った顔でお菓子と透を見比べている。 「あんた!」アニッサ夫人が刺々しい声を上げる。「そんなことをわざわざ聞きに来て、どういうつもりだい! あんな高い菓子まで用意してさ。何、企んでんだいっ。お言いよっ!」 「企んでなどいません」 透はソファからアニッサ夫人を見上げて言った。 「僕はむしろ、先生の仰ることは正しいと考えています。いいえ、正しいとか正しくないとか、そういう問題ですらない。むしろ…法学者として常識的な意見だと思います」 「…そ、そうなのかい…?」 アニッサ夫人の険のある眼差しが、当惑に揺れる。 「はい。現状のこの事態がおかしいと思います。だからこそ、まずは先生のお考えを直接伺いたいと思い、こうしてお邪魔致しました」 酒瓶を手にしたまま、背中を向けていたハウエル先生の肩からふっと力が抜けた。 それをしっかり目にして、透は小さく微笑んだ。 どうやら先生、かなり緊張していたようだ。……頑固で意地っ張りで見栄っ張り。それから……意外と気が小さい、か。 気を取り直したように勢いよく身体の向きを変えると、ハウエル先生は肩をそびやかし、のしのしとソファに戻ってきた。 「お前ぇの言った通りだ。俺は何も特別な事を口にしたわけじゃあない。実際、いまだに付き合いのある学者達、それもちょいと法律を齧ったことのあるヤツなら皆、俺と同じ意見だったんだ。むしろ俺達が問題にしてたは、大逆罪みてぇなものを別個に規定していない法の不備の方だった」 はい、と透も頷く。 「ところがよぉ……」 法学者がその意見を口にする前に、一般の民の興奮度が異様に高まってしまったのだ。人々はいっぱしの法律家気分で暗殺未遂犯への罰を議論し、一気に「処刑すべし」という世論を作り上げてしまった。さらに、何より客観的であるべき新聞が、その世論に乗ってしまった。 何ら議論もされていない段階で、「いかにして処刑すべきか」という問い掛けを、法律の何たるかも知らない民に向けて発してしまったのである。 法律家からすれば、暴挙ともいうべきとんでもない事態だった。 だからハウエル先生は法律家として、英雄になろうとしたわけでも、暗殺未遂犯を庇おうとしたわけでもなく、ごくごく当たり前の意見を新聞に投書として送ったのだ。 それが……。 「何が情けねえってよぉ、俺がシンニチに攻撃されて、おかげで王都の民からまで総スカンくらっちまった途端、良識的だと思ってた学者仲間の皆が皆、声が出せるってことも忘れたみてぇに口を閉ざしちまった。それに、裁判所の判事だの、どこぞの高名な学者だのが、魔王陛下は神にも等しい特別なお方なんだから、法など超越してると言い出しやがったっていうじゃないか。そんな偉大な陛下のお命を縮めまいらせようとした大悪人、一般の民と同じ法で裁くのは不敬の極み。それどころか、法律がないから駄目だというなら、今から作っちまえと言い出したバカ野郎まで出てきやがった。そんな、学者を名乗るもおこがましい阿呆どもが、陛下への忠誠心が篤い立派な臣民だと持て囃されていやがるときたらもう……。俺ぁ、情けなくって涙も出やしねえよ……!」 感極まってきたのか、ハウエル先生が潤み始めた金壷眼を手で押さえた。ソファの後ろで、アニッサ夫人の鼻を啜る音がぐすうっと響く。 その通りだった。 透が眞魔国にやってくると、状況はさらに進んでいたのだ。 法を知らない民が、暗殺未遂犯を処刑しろと叫ぶだけではない。歴とした本物の学者や、裁判に関る者までが、人間達を処刑すべきだと声高に主張し始めたのである。 魔王陛下は特別のお方だ。法を超越した偉大なる存在なのだ。魔王陛下の尊いお命を狙った者を、市井の民と同じ法で裁くなどとんでもないことだ。許されざる不敬だ。 法律に携わる者からの、ある意味法を無視しろという主張は賛同を呼び、人々は彼らの忠誠心を褒め称えた。 その、熱に浮かれたような王都の様相に、透は遠い記憶を刺激され、背筋を震わせた。 「王都の民だけではなく……おそらくもう、眞魔国中がこんな状態なのでしょうね」 遠い過去の何かを見つめるような瞳で、透は言った。 「まるで熱病の様に思考が犯されて、それが一気に広がっていく。そうして……踊り始めるのです。認識や価値観を共にする者だと、お互いに確認し合いながら踊り狂う。同じ踊りの輪の中にいる者は仲間だと認め、囲い込み、仲間の輪に入れられないと決めた者は弾き出す。弾き出して、そして、攻撃する。さらに、皆で一緒に攻撃することで、改めて自分達の仲間意識を確かめ合う。攻撃されるのは、大抵が弱者です。数が少なかったり、弱い立場の者だったり。……攻撃しやすい相手を『仲間』の輪から弾き出し、それどころか『敵』と定め、『仲間』が一緒になって攻撃し、自分達は正しいことをしているのだと認め合う。悪いのは、自分達と違うあいつらなのだと頷き合う。その繰り返し。……今のこの状態は、この件に関する王都の雰囲気は……僕には何だか懐かしく感じますよ……」 ふと気づくと、ハウエル先生とアニッサ夫人が、きょとんと目を瞠って透を見つめていた。 あ、と見ると、ロミオも、それからジュリィも、似たような表情でまじまじと透を見ている。 「あー……っとよ…」 ハウエル先生が、困ったように頭を掻き始めた。 「お前ぇ……」 「失礼しました」 苦笑して、透は言った。そんなつもりではなかったのだが……。 「僕は……」 一旦口を閉じてから、透は意を決したように口を開いた。目は真っ直ぐハウエル先生に向けている。 僕は、ルッテンベルクの出身なんです。 あえて。そう言った。 予想通り、ハウエル先生とそれから窓際に立っていたロミオの表情が変わった。 「……お前ぇ……もしかして」 混血かい。 そう問われて、透は「はい」と頷いた。 本当は違う。その魂は、かつて確かに魔族の、混血魔族の男のものだったが、今は地球世界の日本人、100%人間だ(おそらく魔族の血が入っているだろう、と大賢者は推測しているらしいが)。しかし、その特殊な事情から、透は眞魔国においては『魔族』として認められている。 だが今は、透はあえて嘘をついた。 「……じゃあ君、もしかしてルッテンベルク師団で…?」 ロミオが静かに問い掛けてくる。 それには苦笑して、透は「いいえ」と答えた。 「僕が、あのルッテンベルク師団で生き残れると思いますか?」 ハウエル先生とアニッサ夫人とロミオとジュリィが、揃って一斉に首を横に振った。 ……分かっちゃいたが、何度確認してもやっぱり肩からがっくり力が抜ける。 「僕は違います。ただ……兄、が……」 大きな男。金髪に青い瞳、逞しい傷だらけの身体、剣胼胝だらけの手、戦場の隅々にまで響き渡ったでかい声……。 「兄貴かい?」 「……はい。……兄が…アルノルドで戦死、しました……」 ほう、と誰かが息を吐いた。 「そうかい……」 ハウエル先生がゆっくりと言った。 「だったら……お前さんは骨身に沁みて知ってるわけだ。謂れのない非難ってやつに晒される辛さをよ……」 「…ええ、そうですね」 そうかい。もう一度その言葉を呟いて、ハウエル先生はうんうんと大きく頷いた。 「どうりでな。わざわざこんなところにまで押し掛けてきやがるなんて、どういう野郎なんだと不思議に思っていたんだが……。やっと納得したぜ」 そう言うと、ハウエル先生はソファの背もたれにゆっくりと身体を任せた。 「おい、茶を淹れてくれ」 「おや、お茶かい? お酒じゃなく?」 「バカやろう。酒を飲みながらする話じゃねえ。いいから、茶だ!」 あいよ、とおかみさん、いやいや、アニッサ夫人が居間を出て行く。 これで落ち着いたと思ったのだろう、ジュリィが避難させていたお菓子の盆を卓に戻し、母親の手伝いをしようというのか、やはり居間を出て行った。 「ロミオ、見張ってなくていいから、お前も座れ」 「でも先生…」 「いいから来い」 見張りとは何だろう、と口を開きかけた透は、ハウエル先生の自分を見つめる真摯な眼差しに、唇を引き結び、背筋を正した。 「じゃあ、あらためて今回の魔王陛下暗殺未遂犯について話をしよう」 「本当に色々とありがとうございました」 ソファから立ち上がって、透は深々と頭を下げた。 いいや、と答えながら、ハウエル先生もゆっくりと腰を上げる。 意外と時間が経っていたらしい。台所ではアニッサ夫人とジュリィが夕食の準備に入っているのだろう、良い匂いが居間まで漂ってくる。 スズミヤ君が帰りますよ、とロミオが声を掛けると、すぐにアニッサ夫人とジュリィが飛び出してきた。 4人に見送られ、透は玄関先であらためて「お邪魔しました」と頭を下げた。 「トールっていったか、お前さん、本当に真面目な法学生だな。よく勉強してる。その若さでそれだけの知識をものにしてるのは大したもんだ。……聞き忘れたが、どこの師匠についてるんだ?」 「いえ、僕は……独学です」 「独学!?」 「何だい、あんた、だったらウチの先生の弟子になっちまいなよ! ね? そうおしよ! 明日にでも束脩を持ってきてくれりゃあ……」 勢い込んでアニッサ夫人が身を乗り出してくる。 「それはおいとけ! ……それより、独学ってのは本当か? 暮らしはどうしてる? 見たところ……上等な服を着てるじゃねえか」 「…あ、これは、その……実は、ある貴族の家で働いてまして……えっと、その……」 「書記か祐筆でもやってるのか?」 「はっ、はい! そんなもんです」 へえ? ハウエル先生とロミオが怪訝な様子で眉を顰めるが、透はぱっと顔を逸らした。 「ねえねえ!」ジュリィが朗らかな表情で透を見上げている。「また来てよね! 今度はさ、あんな高いお菓子じゃなくていいからさ」 「ええ、そうですね。まだお邪魔させて頂きます」 「きっとだよ!」 「はい」 それじゃあ、と玄関を出て、数歩も行かないところで、「スズミヤ君」と声を掛けられた。 振り返れば、ロミオが立っている。 「あの…?」 「とにかく急いでこの界隈から抜けるんだ。人と目を合わさないように。危険だから」 「それは……」 「先生を反逆者として告発したがってる記者や、張り紙をしにくる程度のヤツなら、うるさいだけでさほど危なくない。だけど…君が本当に混血なら分かるだろう? 弱者を痛めつけて鬱憤を晴らそうとする卑怯者は、今も大勢いるんだ」 「……だから窓から見張っていたんですね?」 「ああ。…この家が放火されないのは、被害があまりに大きくなるのを怖れてに過ぎないと思ってるよ」 もし条件がよければ、とっくに火をつけられていた、と言うのか。透はぎゅっと顔を顰めた。 スズミヤ君。ロミオはあらためて透の目を覗き込んで言った。 「君が本当は何者なのかは…聞かないでおこう。少なくとも、あの卑怯者達とは違うことだけは確かなようだしね。だから怪我などしてもらいたくない。行きたまえ。そして、自分の身が大事なら、2度とここへは来ないことだ」 ロミオが家の中に消えるのを見送って、透はようやく踵を返し、通りへと出た。 「……僕は演技なんてしたことないしなあ……」 話ができたことは良かったが、どうやら不審感も同時に呼んだらしい。 「とにかく今日聞いたことを……」 血盟城で待つ陛下と猊下にお話して……と、そこまで考えた時だった。 「おい、そこの若ぇの」 ざらついた声が透の足を止めた。それを待っていたかのように、数人の男達が透を取り囲む。 場所はまだ表通りに遠く、酒場の喧騒が背後に大きく響いている。 「……僕に何か御用ですか?」 聞いたかよ!? 男の1人が声を張り上げた。 「ボクだとよ! ボクに何か御用ですか? だとよぉ。笑わせやがるぜ!」 ぎゃはははと、下卑た嘲笑が一斉に上がった。 ……典型的なチンピラだ。 この手のヤツ等の絡み方は、地球でもこちらでも、どうしてこうもそっくり同じなのだろう。発想の次元は、存在する世界の次元の違いを越えて結びつくものなのだろうか? ……このテーマで論文でも書いてみようか。 「笑われるようなことを言ったつもりはありません。失礼」 前方に立ちはだかる男を避けて足を進めた透の前を、別の男が回りこんで塞ぐ。 「待ちな。そう急ぐこともねぇだろう?」 こういううっとうしいのは、昔だったら拳の1つで簡単に黙らせたのに。 ため息をつきつつ、透は進路を塞いだ男を睨みつけた。…どこからどう見ても、立派なヤクザ者だ。 「なかなか良い目つきをするじゃねえか、え? 若ぇの。なぁに、金を強請ろうってんじゃねえ、ちょいと聞きたいことがあるのさ」 「……聞きたいこと?」 「おう。お前、今、自分が出てきた家がどういうヤツらの住処か知ってるのか?」 「僕がどこから出てこようが、あなた方に関係ないと思いますが?」 「質問してるのはこっちだぜ? いいから答えな。お前、あの家に住んでるヤツが、反逆者かも知れねえってことは知ってたのか?」 「反逆者?」 そうともさ。男が頷く。 「バカな事を言うのは止めてください。失礼です。あの方は、ごく真っ当な法学者でいらっしゃいます」 「真っ当だとぉ!?」 男の声が裏返った。 「てめぇ、何を言いやがるっ! あの赤っ鼻が真っ当な学者だと!? あの野郎はなぁ、魔王陛下を暗殺しようとした人間共を、処刑するなとほざいてやがるんだぞ!」 「処刑するなと仰っているのではありません。処刑に値するかどうか、法に照らして正しく審議すべきだと仰っておられるだけです」 「どっちも同じだろうが!」 「行って来るほど違いますよ」 「うるせぇっ! そうやって言葉を捏ね繰り回しゃあ俺達を騙せると思ってやがるんだろうが、そうはいかねぇぞ! おいっ、こいつもあの反逆者共の仲間だ! やっちまえ!」 おお! 男共が気勢を上げる。 しまったなあ、と思いつつ、透は腰の後ろに手を回した。腰のベルトには、万一のためにと預けられた仕込剣が隠してある。 勝てるかな? ……無理だろうなあ。 クラリスが特訓すると頑張ってくれたが、ほとんど逃げ回っていた実績がある。 とにかくまあ、昔の自分、いや、彼を思い出し、やれるところまでやってみよう。 腹を括り、仕込剣の柄を握ったその時。 「おい、その辺りで止めとけや」 のんびりとした声が上がった。 その声に、ハッと顔を向けた透は、次の瞬間ほーっと息を吐き出した。 透とは逆に、一気に緊張したのは男達だ。 「……あんたっ……グリエ…!?」 グリエ・ヨザックが皮肉な笑みを浮かべて立っていた。 「よぉ、お前、確か……ラグザの親父の盃を受けてる奴、だったよな? ……ほら、そいつから離れな」 「けどこいつは…!」 「そいつは俺のお友達。手を出すって言うなら俺が相手になるぜえ? 近頃運動不足でな、何だったら掛かってこいや。俺を叩きのめせる自信があるっていうならな。ついでに聞くが、ラグザの親父と俺の仲はもちろん知ってるよな?」 男達が狼狽える様に顔を見合わせた。 ヨザックはそんな男達にスタスタと近づき、そして今まで会話していた男のすぐ前に立った。そして胸がつくほど身体を寄せると、にやりと笑って男と目を合わせた。 「どうする? 俺とやるか?」 ぎくしゃくと男が目を逸らす。 「やらねぇんなら、行きな」 その声に弾かれたように、男達が態勢を崩した。男のどこか怯えた目が透を捉える。 「……ぐ、グリエさんの知り合いなら、最初っからそう言いやがれ……」 それを捨て台詞(?)に、男達は走り去っていった。 「……ヤクザとも仲良くしてるとは知らなかったな」 「広く浅く、いつも笑顔のお付き合いは社会生活の基本だぜえ?」 そういえば、この男は軍務の他に副業をいくつも持っているのだった。いわゆる……青年実業家、だ。 ……青年実業家、グリエ・ヨザック……うわ、似合わない……。 「ここにいたのは偶然じゃないんだろ? もちろん」 「もちろん。猊下の御命令さ。万一を考えてな。……ホントはクラリスが来るって言ってたんだが、俺がきて良かったぜ。じゃないと、今頃あの男共は男じゃなくなってた可能性もあるし」 想像して、ぶるっと透は身体を震わせた。その時は自分も……。 「とにかく戻ろう。陛下と猊下と隊長がお待ちだ。……ところで、行っただけの成果はあったのか?」 「ああ。なかなか面白かったよ」 会話を交わしながら、2人は表通りに向かった。 数日後の昼日中。 ハウエル・ハウラン氏の家の扉が叩かれた。 「はい、どなたでしょう?」 扉を開けたロミオは、外に立つ人物を目にした途端、大きく目を見開いた。 「スズミヤ君……」 「こんにちは、ロミオさん。先生は御在宅でしょうか?」 「…あ、ああ……。だけど、君……」 「今日は、先生のお話を伺いたいと仰る方々をお連れしたんです。先生に会わせて頂けますか?」 「方、がた…?」 はい、と答えて、透が身体をずらした。 「こんにちは!」 「初めまして」 「突然申し訳ありません」 「お邪魔しまーす」 どう見ても、ジュリィと同年代の少年─赤毛と金髪の─が、2人。そしてその2人の後ろに、これはロミオと同年代の青年─茶髪と夕焼け色の髪の─が、2人。 にっこり笑って立っていた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
|