愛多き王様の国・4



 都内某所。
 某私立大学の一画、建築学を専門とする教授の研究室に、2名の来客があった。

「こんにちはー!」
「お邪魔します」

 やって来たのは、教授の孫息子の友人と、その弟だ。

「おお! よく来たよく来た。久し振りじゃねえか、渋谷君、それに有利君も」
「ホントにお久し振り! 元気そうね〜。どう? ちゃんと王様やってる?」

 気さくな挨拶とお気楽な質問をしてきたのは、この部屋の主、香坂教授とその孫娘で、将来は建築デザイナーを目指す香坂繭里だった。部屋にはその他に、香坂教授の研究室を溜まり場にする、駒井一哉と高沢逸美がいる。2人は建築とは全く何の縁もない、心理学を専攻する学生だ。ちょっとした切っ掛けでこの研究室にやってきた彼らは、以来、すっかりこの部屋に入り浸っている。
 ついでに言うなら、彼らは地球に根を張る魔族の存在、異世界の存在、渋谷有利が異世界の魔王であること、故に時折、異世界の魔族がやってくること、その異世界産の魔族がそんじょそこらにいない「イイ男」であること、そして有利の兄である渋谷勝利が、将来本気で都知事になる気でいること、といった世界の重大な秘密を全て知っている貴重な存在でもあった。

「今日はお前らだけか? あれ? 凉宮は?」
 勝利が友人の名前を呼ぶ。
「勝山君はバイト。透はゼミの用事で遅れるって。ついでにお茶菓子を買ってくるって連絡があったわ。有利君が来るんですもの、きっと最高級和菓子か有名パティシエのケーキを買ってきてくれるんじゃないかって、皆で期待してたとこなのよ〜」
「僕等もぜひご相伴させてもらおうと思って」
 繭里の説明に駒井が笑って付け足せば、高沢逸美も照れくさそうな笑顔を見せた。
「あの〜」
 笑っていた逸美が、ほんのわずか頬を染めて、有利に声をかけてきた。
「今日はー、そのー……コンラートさん、は?」
 あー、と間延びした声を上げてから、有利は「ごめんなさい」と答えた。
「コンラッドは今回は来てないんです。……あ、そうだ、コンラッドと言えば……教授!」
 残念そうな逸美をそのままに、有利はとことこと書類を片付ける香坂教授の元に歩み寄った。
「コンラッドが、よろしくって言ってました。この前、とても美味しい料理をご馳走してもらったって」
 おお、と香坂が嬉しそうに破顔する。その時。
 研究室の扉がいきなりドンドンと音を立て始めた。というか、外から誰かが扉を叩いている。音の位置からすると、手ではなく、足で蹴っているようだ。
「何よ、一体誰!? ……って、透!?」
 繭里が勢い良く開いた扉の向こうにいたのは、どうやら不審者ではなかったらしい。
「ああ、やっと到着………陛下!」
「透さん! ……何それ? どうしたの!?」
 そこに立っていたのは、有利も顔馴染みの青年だった。

 凉宮透。

 香坂教授の孫息子。繭里の従兄弟。渋谷勝利と同じ大学の法学部に通い、将来は検事を目指す、だが近頃ちょっと将来設計に変更が加えられる可能性も出てきたという青年だ。
 有利と知り合ってさほどの時間は経っていないが、実のところ、透と有利の縁は深い。
 なぜなら凉宮透のその魂は、かつて眞魔国に生きた、1人の魔族のものだったからだ。
 その名を、ハインツホッファー・カールという。
 魔王ユーリの親衛隊長クラリスは、カールの妹にあたる。
 それだけでも縁があるといえるが、カールと深く関っているのはクラリスだけではない。
 カールは魔族と人間の混血としてシマロンに生まれ、無理矢理放り込まれた収容所から、ダンヒーリー・ウェラーとコンラートに助けられて眞魔国に渡り、魔族として生き直すことになった男だ。その経緯はグリエ・ヨザックと全く同じであり、実際、カールとヨザックとは親しい友人でもあった。
 彼はやがて軍に入り、コンラートの部下となる。 巨躯を誇り、「剛腕」の異名を持つ勇猛果敢な兵として名を馳せ、やがて多くの混血たち同様ルッテンベルク師団の一員となり、コンラートやヨザックと共にアルノルドに向かった。そしてその地で敵の刃に倒れ、魔族としては短い生涯を終えたのだ。
 だがカールの魂は、生前の記憶を有したまま、地球世界、この日本で、凉宮透という名の平凡な日本人として新たな生を受けることとなった。
 そして、地球においては存在し得ない世界の記憶を持つ凉宮透は、日本人としての意識と、カールの記憶の板ばさみに苦しみながら成長することとなる。
 だが、断絶した二つの記憶を持つ彼の苦しみは、渋谷勝利と出会うことによって終りを迎えた。そして、有利と村田に会い、コンラートと「再会」することによって、凉宮透という日本人青年の人生は大きな転機をも迎えることとなったのである。

 今、祖父の研究室に入ってきた透は、両腕に紙の箱を山の様に抱えて立っていた。
 箱はパステル調の色も形も可愛らしい箱と、渋く格調高い色合いで、生真面目な包装がされた箱に大別されるが、とにかく形も大きさもバラバラなため、透の腕の中でどれも危なっかしく揺れている。
「都内のスイーツ&甘味……って、どっちも同じ意味だと思うんですけど、とにかくガイドブックをチェックして、それから同じゼミの友人に車を借りて、店を回る最短コースを調べて……」
「全部回ってきたの!?」
 呆れ半分嬉しさ半分の声を出す従姉妹に、「少し持ってくれよ」とお菓子の箱を半分ほど渡し、透はホッと息をついた。
「陛下が久し振りにおいでになるのに、つまらない駄菓子なんかお出しできるか!」
 力強く言い切る透に、有利が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ありがとう、透さん。でもおれなんてホントに、スーパーで売ってるお煎餅かクッキーかチョコかカステラかシュークリームかお饅頭かお団子でよかったのに……」
 遠慮しつつもそれなりの欲求は隠せない成長途中の男子高校生に、「とんでもございません!」と透は声を張り上げた。
 それからテーブルの上にお菓子の箱をそうっと丁寧に置くと、有利に向かって改めて姿勢を正した。
「お久しゅうございます、陛下。お元気そうで何よりです。わざわざお越し頂き、光栄に存じます」
 そう言って深々と頭を下げると、今度は隣に立つ勝利に向かって軽く手を上げた。
「やあ、渋谷君、おひさ」
「………『しぶり』もなしか? 態度が違いすぎじゃないか!?」
 俺はゆーちゃんのおにーちゃんだぞ!!
 喚く勝利をほったらかして、透は「陛下、どうぞお座り下さい」とにこやかにソファへ誘った。

 ……あれはヨザックだっけ……?
 透の笑顔を間近に見ながら、有利はふと思った。
 透のこのさらりと爽やかな笑顔が、どうも近頃誰かに似てきたとお庭番が嘆いていた。
『昔生きてたあのヤローと似ても似つかない純情ぽいトコが可愛かったのになー。俺も面倒の見甲斐があったのに…。近頃すっかりふてぶてしくなってきやがって、っていうか、誰かさんに影響されて、どんどん可愛げがなくなってきやがった』

 そうかなー? と有利は首を捻る。
 透のこの爽やかで優しい笑顔はとても感じが良いし、見知らぬふてぶてしくて可愛げのない誰かさんなどではなく、むしろコンラッドの影響を受けているのではないかと思うのだが……?
「透さん、でも……ここではおれ、ただの高校生だから、陛下はなしにしてもらった方がいいよ。それにもし人に見られたら……」
「事情を知らない人間の前でヘマはしませんからご安心下さい。僕としましては、むしろあちらへ伺った時にうっかり狎れた態度を取って、城の皆さんに不快な思いをされる方が怖いですので、どうかご容赦をお願いします」
「……そういうモン…?」
 バイトで眞魔国出張がままある透にとって、有利はどこにいても「魔王陛下」なのだ。
「って透は言い張るわけなのよ」繭里が呆れ声で口を挟んでくる。「でも私やおじいちゃんや逸美ちゃん達にとっては、有利君は渋谷勝利の弟で、埼玉のごくごく普通の高校生である有利君。ね? それでいいのよね?」
「はい! もちろんです!」
 元気に答える有利に、繭里はもちろん、香坂教授も高沢逸美も駒井一哉も笑顔で頷く。……勝利だけが「渋谷勝利君とか勝利さんとか言えないのか…!」とぶつぶつ呟いていたが……。

「陛下、本日は猊下は……?」
 皆がソファにつき、お茶が行き渡ったところで透が口を開いた。
 テーブル一杯に、まるで名産品の物産展か美味いもの見本市のように、絢爛たる色合いの和菓子洋菓子がぎっしり並べられている。
 左手に取り皿、右手に割り箸(…)を持ち、先ず最初に何を食べようかとすっかり迷い箸状態の有利がふと顔を上げた。
「あー、あいつ、今日は補習なんだって。でも早く終わったら電話するって言ってたな。あいつの学校、ここからそんなに遠くないし、時間によっては来るかも」
「……補習、ですか……?」
「村田君に補習なんて必要ないんじゃない?」
 逸美の質問に、「おれもそう思うけど」と有利が答える。
「クラス全員参加なんだって。学校行事だから仕方がないって言ってたなー」
「……大賢者猊下が補習……」
 眞魔国の偉大なる双黒の大賢者。
 彼が姿を現せば、眞魔国の並み居る重鎮達も一斉に最敬礼し、崇敬の念を露にする。そして村田も、魔族の支配階層にある彼らの前で常に堂々たる態度を崩さず、当然の様に命を下す。
 眞王陛下、魔王陛下と並び、魔族にとって絶対の存在でもある生きた伝説。
 その姿を目の当たりにしている透にとって、村田が平凡な高校生の制服を身に着け、学校に通い、教師の言う事を聞いて教科書を開いている姿を想像するのはかなり難しい。というか、想像しようとすると胸の辺りと背筋がぞわぞわする。
 ユーリが割り箸でケーキを摘み取った。何種類ものフルーツが宝石の様に飾られた美しいケーキだ。
 そのケーキを割り箸でいそいそと割る有利の姿に、透は思わずため息をついた。
「……繭、せめて陛下にだけでもフォークを……」
「だから言ったでしょ? フォークもスプーンも全部坂田教授にお貸ししちゃったって。研究室でゼミの皆とお茶会をしたいけど、フォークが全然足りないって教授自ら借りに来られちゃったんだもん。それに! お箸っていうのは素晴らしいものなのよ。フォークはフォークでしかないけど、お箸はフォークにも、場合によってはナイフの代わりだってできるんだから! あ、そうそう、お箸を使うのは脳に良いのよ!」
 だからって……と思うが、有利は「あ、気にしないで下さい」と割り箸でぱくぱくとケーキを食べている。この気取りのなさがユーリ陛下の人気の理由の1つでもあるわけだが……。
 透は再びため息をつき、自分もお茶菓子を頂くべく、割り箸を持ち上げた。

「すっごく美味しいです、このケーキ! あ、こっちのお饅頭も美味しそう……」
 美味しそうっていえば。有利がふと何か思い出したように顔を上げ、香坂教授に視線を向けた。
「教授、コンラッドがこの前ご馳走になったって言ってましたけど、何を食べたんですか? コンラッド、すごく感激してたみたいで……」

『すばらしいものを頂戴しました。香坂教授にお会いになりましたら、どうかよろしくお伝え下さい。あ、そうそう、アレは大事に保管してあるとも』

 重大事案は全く解決していないものの、その時点で魔王にできることは何もないのが現状だった。そこへ村田から、「今の内に雑用(村田にとっては補習も試験も雑用らしい)を片付けておこう。それにあちらに行けばまた気分も変わって、新しい考えが浮かぶかもしれないしね」と帰省(?)を誘われた。その言葉で、有利はふと、法律家を目指す透の存在を思い出したのだ。
 香坂教授の研究室を訪れ、教授や透とも話をしたいと思う。その考えを告げた有利に、コンラートが言ったのだ。

「……この前って」
 皿の上の最上級の練り切りを無造作に口に放り込んで、勝利が何かを思い出すように目線を上げた。
「ほら、皆でディズニーランドに行っただろ? でもって、次の日は東京ドームに野球観戦に行って……」
「ああ、あの計画が盛りだくさん過ぎてへとへとになったやつ」
「おれは全然平気だったぞ。勝利が体力不足なんじゃねーの? 年か?」
「………それでどうしたって?」
「俺が誘ったのさ」香坂教授が説明を始める。「コンラートさんと2人でじっくり酒を酌み交わしながら、色々話をしてみたくてなぁ」
 透の話を初めて聞いた日から20年近い。その「思い出」話が子供の夢物語でも妄想でもなく事実であったこと、その「思い出」の中のほとんど主人公とも呼ぶべき「隊長」が実在していたこと、そしてその「隊長」と、ついに出会ったこと。
 一連の出来事が与えた衝撃は、それなりの人生経験を経てきた香坂教授にとっても、言葉に出来ないほど強烈なものだったのである。
 だが、透の祖父として、香坂教授はその事実を事実として受け止めた。
 そして、「透の隊長」、ウェラー卿コンラートと2人きりでじっくりと杯を交わしたいと、ナイター観戦直後で興奮しきりの有利達に申し入れたのだ。
 彼ら一行がその日の宿泊所に選んだのは、東京ドームのすぐ隣にあるシティホテルだった。時間的には、大人の夜はまだまだこれから、という頃。
 どこにいようと有利の護衛であることを第一にしているため、どうしようかと躊躇うコンラートを、「行ってこい!」と半ば王様命令で送り出したのは有利だ。
 香坂教授は透の祖父だし、とても良い人だと思う。
 例え存在を信じていなかったとしても、20年近くも前から知っていたコンラートとじっくり話してみたいという気持ちは、有利なりに理解できる、と思う。
 この人の願いを無下に断ってがっかりさせるようなことはしたくない、有利はそう思ったのだ。それに、コンラートが地球の、そして日本の知り合いと仲良くなるのは、有利としても嬉しいことだ。……相手が女性だったら、またちょっと違った感情がオーラとなって全身をゆらゆらと取り巻いたかもしれないが、幸い不安を感じるような要素は何もなかった。
 その夜、コンラートは有利が寝入って大分経ってから戻ってきた。らしい。
 翌朝話を聞くつもりだったが、その日も朝から観光の予定がぎっしりと詰まっていたため、結局コンラートが香坂教授とどこでどんな話をして過ごしたのかを有利は聞きそびれてしまった。そして今日までそのままになっていたのだ。

「神楽坂に行きつけの鳥料理の店があってな」
「へえ、神楽坂ですか」
 勝利のどことなく羨望の籠もった声に、教授が「おう」と嬉しそうに答える。
「女将は昔、左褄を取ってたこともあるって粋筋の良い女でなあ」
「……ひだりずまって何だ?」
「ひだりずまじゃなくて、ひだりづま。左褄を取ってたってのは、芸者さんだったってことだ」
 渋谷兄弟のひそひそ話が聞こえているのかいないのか、香坂教授は何かを思い出すようにうっとりと宙を見上げた。
 ………元芸者さんの、粋で良い女。
 有利の眉間がきゅっと狭まる。
「年の頃はもう70過ぎてんだが」
 有利の眉間がぽわんと広がった。魔族の70歳なら……だが、ここは大丈夫だろう。
「小体の、だが居心地の良い店でな。ぜひコンラートさんを案内したいってずっと思ってたのさ。きっと気に入ってくれると踏んでたんだが、俺が期待してた以上に気に入ってくれたみたいで、俺も面目が立ったぜ。……それにしてもコンラートさん、箸の使い方が実にしっかりしてたなあ」

『これほど美味しい鳥料理をご馳走になったのは初めてです。このような味は、これまで味わったことがありません。それに、先だって天ぷらを頂いた時にも思ったのですが、この国の料理は盛り付けも器も、とても美しいですね。我々感じてきた美味しさや美しさとは全く違う。でも確かに美味しくて、そして美しい。……ユーリがこの国で育って、本当に良かったと思いますよ』
 箸を器用に使い、口福をじっくりと噛み締めながら、コンラートはしみじみとそう言った。

 女将と板さんの2人だけで長年営業してきたその店は、教授言うところの「玄人筋のうるさい客が多い」店だそうだ。
 様々な鳥料理を中心に、つまみも他の料理もさりげなく凝ったものが多く、日本酒にしろ焼酎にしろ厳選したものが置いてある。さらに数は少ないが、店の料理に合うと踏んだワインもあるとあって、その方面ではかなり評価の高い店、なのだ。

『それに、温めた酒がこれほど美味しいとは……。料理にもぴったり合って、酒の味も料理の味もお互いに引き立てているように思います』

「……コンラッドとどんな話をしたんですか?」
「どうって具体的なことは覚えちゃいねえが……まあ、色々とな」
 色々とってどんなんだろう、と思った瞬間、頭をごつんと叩かれた。隣で勝利がそ知らぬ顔でお菓子を食べている。
 ……大人同士の話に、子供が口を出すな、ってことだろうか。
 それでも一応、なんだよー、と小さな声で文句を言って、有利はお箸でお饅頭をつまみあげた。

「女将もな、それほど会話は多くなかったはずなんだが、どうもすっかりコンラートさんが気に入ったみたいで……」

 さあそろそろ帰ろうかというところで、女将が『ぜひお持ち下さいな』と土産を持ってきた。

「お土産?」
「ああ。コンラートさんに、門外不出、秘伝のタレをな」
「たれ……って、もしかして焼き鳥の……」
「そのタレさ。冷凍保存すればもつからってな」
 はあ……と有利は小首を傾げた。
 ではコンラッドが最後に呟いていた、「アレに合う良い肉も見つけたし……」というのは、秘伝のタレに相応しい鶏肉を見つけた、ということなのだろうか……?

「実はコンラートさんが女将の心遣いにすっかり感動したらしくて……」

 お土産のタレを手渡されて、驚いた顔のコンラートは、すぐにその表情を笑顔に変え、そして女将の手を取った。
『お心遣い、ありがとうございます』
 と、微笑と共に囁き、女将のその手に口づけたのだ。
 その瞬間、70歳を過ぎた女将は顔を真っ赤にし、とてつもなく良い男にそれとなく視線を送っていた他の客達も一斉に『おおー!』と感歎の声を上げた。
『……いやですよ、こんなおばあちゃんの手に……』
 恥らう女将にコンラートは、その笑みを更に優しく深め、そして言った。
『己の人生を、己の手で切り開いてこられた方の手です。俺の目にはどんな宝石より美しく輝いて見えますよ?』

「……………」
 さすがコンラートさん! という周囲の声を聞く有利の目も鼻も口も、何だか1本の線になってしまったというか、ほとんどこけしになったというか、とにかく何ともいえない表情がその顔に浮かんだ。

『これが他の客ならねえ、なに気障な真似をしてんだい、気色の悪い! って引っ叩いてやるとこだったんですけど……。あんまり似合ってて、私ときたら恥ずかしながらうっとりしちまいましたよ。あれ以来、あの外人さんは来てないのかって、毎日通ってくる女性のお客さんがねえ……それも1人や2人じゃなくって』

「後から女将が言ってたんだが……いやあ、モテる男は違うなあ」

「……あいつはぁ、どうしてそうサラサラと……」
 有利が密かに拳を握っている。
「天性のタラシだな。眞魔国の魔族が、新宿区にまでファンを量産してたとは…。どうだ? 愛想尽かすのももうすぐって気がしないか?」
 囁く勝利の足を思い切り蹴る有利を眺めながら、透は苦笑を浮かべた。

 有利がウェラー卿コンラートと婚約していることは、実は渋谷家の家族ですら知らない。
 結婚を前提におつきあいを、という挨拶をするにはしたのだが、父親の渋谷勝馬にはロリコンだの何だのと罵倒され、意外な理解を示した勝利からは、いずれ殴るという条件付きで、「大学を卒業するまで待て」と言われている。全面的に支持を表明したのは母親の美子だけだ。
 それもあって、実は眞魔国ではとっくに正式な婚約が済んでいるのだという事実は隠されている。
 そもそも眞魔国においては、有利の地球世界における家族や生活は、ほとんど問題視されていない。というか、関心を持たれていない。
 その身を(正確には魂を)護るため、緊急避難的に異世界で育てられたに過ぎない、というのが大勢の考え方で、異世界の者達とはその内縁を切るだろう、もしくは、とっくに関係なくなっているだろうという程度にしか認識されていないのが現実だ。魔王陛下の家族といえば、上王フォンシュピッツベーグ卿ツェツィーリエとその3人の息子、そして養女のグレタ姫、彼ら以外にいないと考えるのがあちらの常識となっている。
 だから、眞魔国的発想なら、コンラートは結婚の許しを渋谷家に求めに来る必要はなかったのだ。
 もちろん、ユーリ陛下の渋谷有利としての気持ちを誰より理解し、渋谷家の人々、さらには地球世界の人々とも親交のあるコンラートが、彼らを無視などできるはずもないのだが……。
 それはさておいて。
「陛下」
 透が呼びかけると、割り箸を口にくわえた有利が「ん?」と顔を向けてきた。
「本日こちらにお出でになりましたのは、何か御用がおありだったのではないのですか?」
 有利が口をもぐもぐと動かしながら、大きな目をぱちぱちと瞬かせる。……眞魔国で魔王としておいでになる時とは比べられないが、この人は本当に可愛い。一体どこの小動物だと、透は思わず瞑目した。……これじゃあ宰相閣下が気難しい顔をして見せるのは至難の技だろう。
 こくん、と小さく喉を鳴らして、有利がお菓子を飲み込んだ。
 それから改めて大きく頷くと、「そうだった!」と大きな声を上げた。
「実は……」


「……………」
「……………」
「……………」
「…………暗殺、されかかった、だとぉ……!?」
 勝利の声も身体もぶるぶると震えている。
「おう」
「おうじゃないっ!」
 一声叫ぶと、勝利は飛び上がり、ほとんど弟に飛び掛った。
「わわっ、アブない、勝利! ケーキが潰れるだろうが! 腕痛ぇよ! 離せよ!」
「ケーキがどうしたっ。そんなもんどうでもいい! 大丈夫なのか、ゆーちゃん! 怪我は!? どこか怪我したのかっ!? くっそう! あのタラシ! 護衛のクセしやがって何やってやがる! 俺のゆーちゃんを暗殺なんぞ……! どこのどいつだ! ここに連れて来い! 俺がぼこぼこに切り刻んでやる!」
「落ち着けよ、渋谷君。切り刻むのはぼこぼこにするって言わないだろう?」
「……透、つっこむのはソコじゃないと思うわ……」
「ホントに落ち着けってば、勝利! 全くもう! 怪我なんてしてねーよ!? 見りゃわかるだろーが!」
 ちゃんとコンラッドが護ってくれたよ!
 最後に大声で怒鳴りつけると、一瞬呆然と弟を見つめていた勝利が、やがてほーっと息を吐き出した。有利の二の腕を掴んでいた手から、がっくりと力が抜ける。
「当然だよ」
 お茶のカップを手に、透が微笑みすら浮かべて頷いている。
「隊長がお側についているんだ。暗殺者なんか近づけるもんか」
 絶対の信頼である。
 ……ちょーっとアブなかったことは、黙っていようと有利は思った。
「問題はそこから後なんだ」
 兄の腕を振りほどき、ケーキの無事を確かめて、有利はようやく本題に入ることにした。
「透さん、専門が法律だろ? だからおれ、透さんの意見を聞きたいって思ったんだ」



「問題は」
 そう言ったのは村田だ。場所はユーリの執務室。居合わせたのは、ユーリの他、グウェンダル、コンラート、ヴォルフラム、ギュンター、そして護衛のヨザックとクラリスの7名。
「今回捕らえた6名の処遇だ」

「処遇?」ヴォルフラムがきょとんと目を瞠る。「処遇も何も、尋問してヤツ等の企みを全て白状させ、それから処刑する……以外にあるのか?」
「企みだけじゃなく、背景もしっかり掴まねばなりませんよ、ヴォルフラム」
 ギュンターが教師の顔で口を挟んだ。
「彼奴等がどこの国のどのような組織に属し、どのような活動を行っているのか、そして他にも我ら魔族に対してどのような悪事を企てているのかなど……」
「それで最終的には?」
 村田にそう問われて、ギュンターも一瞬戸惑った顔を見せた。それからわずかに考えて、口を開く。
「……全ての情報を引き出すことが出来ました後は……魔王陛下暗殺を企てた者に対する正当な裁きを下す必要がありますが……」
「処刑する?」
「恐れ多くも魔王陛下に対し奉り為された恐るべき犯罪行為、それが当然かと……」
「法的根拠は?」
 は!?
 ギュンターはもちろん、ユーリを除く全員が呆気にとられた顔で大賢者を凝視した。
「…えーと、村田?」
「何だい? 渋谷」
「法的根拠っていうと……」
「今フォンクライスト卿が言っただろう? 正当な裁きを下すと。だから聞いたんだよ。魔王陛下を暗殺しようとした人間を罰する法律が存在しているのかどうかとね」
「法律が存在するかどうかなど、何の意味がある!?」
 ヴォルフラムが声を張り上げた。
「ユーリは魔王だぞ! 魔王を暗殺しようとした者を極刑に処す。当たり前の事ではないか!?」
 何を論ずる必要がある!
 ヴォルフラムの言葉に、グウェンダルやギュンター、そしてヨザックとクラリスも一様に同意の表情を浮かべた。そして大賢者が一体何を言わんとしているのかと、怪訝な、そして探るような視線を送っている。
「フォンクライスト卿」
「は、はいっ、猊下」
「魔王陛下の暗殺を企てる者に対しての罰は、どのように規定されている?」
「…は、あの…それが……」
 わずかに言い淀んでから、ギュンターは表情を改めた。
「第2代陛下の頃、大逆罪が制定されました。陛下弑逆の企ては、当然その範疇に入るかと存じます。そしてその大逆罪でございますが、これが成立いたしましたのは、国そのものはもちろん、眞王陛下という、絶対の存在をなくしてしまった直後なだけに、王権も不安定だったが故であろうと推察されます。ご存知の通り、最初の頃は眞王陛下がお選びなされました魔王陛下の即位に対して、異議を申し立てる者もおりました。それが謀反に発展したことも……。ですが、やがて眞王陛下のお言葉に逆らった場合、何が起こるかを皆が知るようになりまして……」
「天変地異が起こったんだったね」
「はい。最初は偶然と考えていたようですが、眞王廟からの発表もあり、国土を襲う天変地異が眞王陛下の下された罰であることが国中に知れ渡ることとなったのです。以来、眞王陛下のお言葉には決して逆らわぬことが宮廷の不文律となりました。十貴族会議も機能を発揮し、国家の運営が軌道に乗り、国情も安定してまいりますと、謀反などが起こる土台も失われます。それにまた一般の臣民には、そもそも国家、そして陛下に対し奉り、御身を傷つけたり反逆を企てるなどの力はございませんでした。国が安定すれば尚更です。つまり……」
「国家の安定と共に、大逆罪の存在理由がなくなってきた」
 左様でございます。
 ギュンターが軽く頭を下げる。
「大逆罪は、当時の国情があったのでしょうが、大変厳しいものでありました。謀反を実行した者はもちろん、それを計画した者、どころか、計画したと看做される者、謀反の意志を胸に抱いたことがはっきりしたと思われる者、というかなりいい加減な罪までが、同罪として罰せられたのです。そして大逆罪における罰則はただ1つ、死刑のみです」
 ギュンターの言葉に、ユーリは「ひえ…」と声をあげ、村田は「へえ」と目を瞠った。
「それって、旧憲法、旧刑法下の日本の大逆罪とほとんど同じだよ。面白いなあ……。計画したと看做される、という点で、かなり政治的な臭いがしてくるんだよね。つまり体制に反抗するものはさっさと始末してしまおう、という意志の下に発動するというか」
「仰せの通りでございます。すなわち当時の魔王陛下、そしてその宮廷の政治的意図がかなり強いもので、反対派の抹殺に利用されたものと考えられます」
「…ギュ、ギュンター」おずおずとユーリが口を挟む。「そんなんで処刑されちゃった人がいっぱいいるのか?」
 いたら怖い、という顔のユーリに、ギュンターが「それがまた上手くしたもので」と苦笑を浮かべた。
「そのようないい加減な罪で、大量の反対派に死刑を言い渡すのですが、その後に、魔王陛下の「仁慈」によって恩赦が下されるのです。実際に処刑されたのは、かなり強硬な、それこそ今にも謀反を起こしそうな反対派だけだった模様でございますね」
「つまりね、死刑になる人を救ってやることで、魔王陛下がいかに慈悲深いお方か、民に印象付けようとするわけだよ」
「……うわー……それってすげーセコくないか?」
 信じらんねーとユーリが首を振る。
「という訳で、フォンクライスト卿、大逆罪は廃止されたわけだね」
「はい、左様でございます。残しておくには、あまりにも危険な法律ですので」
「その後に、反逆、もしくは、魔王陛下の弑逆を企てる者は現れたのか?」
「そのような不届き者、ただの一人として現れておりません! 魔王陛下は偉大なる眞王陛下の意志の体現者、我ら魔族にとって絶対のお方でございます! 我ら魔族の忠誠心は不滅でございます! 我々は常に陛下をお支えし、国を支えてこの4000年を過ごしてきたのでございます!」
「なるほどねえ……」
 くすりと村田が笑う。その笑いに頭が冷えたのか、ギュンターがコホンと咳払いをした。
「更に付け加えますならば、魔族にとって、どのような時代であろうと、最大の敵は人間でした。人間達に逐われた記憶も残る時代であれば当然の意識ですが、極端に申せば、当代陛下が御即位あそばすまで、我等の敵は人間であるという考え方に変化はございませんでした。よってその時代時代に大小の波はあったとしても、概して魔族の結束は固く、結果、謀反と呼ばれるに値するほどの行為は、ほぼないまま今日まで続いてきたと考えられます」
 うん。村田が頷く。
「そういう説明なら大体納得できるよ」
 でもね、と村田の言葉が続く。
「ここで問題が発生する。もし魔王陛下に対して危害を加えようとする者が現れたら、どう対処する?」
「それは……」
「魔王陛下に対する犯罪行為について、特別に定めた法律はない。そしてもう1つ。今、この犯罪を犯した者は、友好国の人間だ。君ならこれをどう考える?」
「もちろん処刑するに決まっているではないか!」
 それまでずっと聞き役に徹していたヴォルフラムが大声を上げた。
「まったく、先ほどから聞いていれば何をぐだぐだと。大逆罪がどうした! そんなものがあろうがなかろうが、魔王は魔王だ! ギュンターも今言っていたように、絶対の存在だ。別格なんだ! 魔王を害しようという者がいたら、魔族であろうと人間であろうと極刑をもって罰する。何の不都合がある!?」
「法的には」
 ヴォルフラムの言葉など聞いていなかったかのように、村田の声が冷静に続く。
「魔王に対する犯罪について、特別に定められた法がない以上、一般臣民に対する犯罪と同じに扱うのが当然だろう」
「それは不敬だ!!」
「法的には不敬ということにはならない」
 あくまで冷静な村田に、「ぐぐ…」とヴォルフラムが唸る。
「…で、では……あの男共を、ユーリの命を奪おうとしたヤツらを! 街にたむろする男達に対する罪と同じに裁けと命じるつもりか……?」
「そんなことが出来る訳ないじゃないか…!」
 驚いた顔で言い返す村田に、逆にヴォルフラムがきょとんと目を瞠った。
「…しかし、いま……」
「僕達が裁判所に対してそんな命令を出すことはできないよ。たとえどれほど法の整備が不十分であろうとも、我が国においても、司法権の独立は認められているんだからね。もし我々が裁判所に対してそんなことを命令すれば、それは政治の司法への介入ということになってしまうじゃないか」
「……しほうへの…かいにゅう……?」
 ヴォルフラムの声が戸惑いに揺れた。
 ギュンターやグウェンダル、そしてコンラートらは、難しい顔でただじっと村田を見つめている。
「………村田」
 真摯な眼差しを親友に向け、ユーリが村田を呼んだ。
「ああ、何だい?」
「それで? これからどうなる? おれはどうすればいい?」
 問い掛けるユーリに、村田はふっと笑みを零した。

「言っただろう? 事は司法の問題だ。だから今のところ君にできることはない。下手に動いたり、何か発言すれば、それは司法に対する介入になる。せいぜい、法に従ってきちんと裁かれることを望む、といった声明を出すのが精一杯かな。だから、今の所は見守っていよう。ここからは、我が国の法に携わる者が、どう考え、行動するかの問題だ。これから法律を整備していくためにも、何よりこの国の将来のためにも、彼らがこれからどうするのかをしっかり見極めていこう。……僕はね」
 村田は言うと、窓際に歩み寄って外の景色に目を向けた。
「この国で、果たしてこれからどんな議論が生まれるのか、それとも何も生まれないのか。もし議論がされるなら、どんな展開を見せるのか」

 村田は、そこに何か希望の光があるかのように、宙を見つめてにっこりと笑った。

「実を言えば、それが楽しみで仕方がないんだよ」  



「……なるほど……」
 言って、透がカップを傾ける。何かを思い出そうとするかのように、その端正な眉がきゅっと寄った。
「友好国の人間が、剣で魔王陛下を殺害しようとした……」
「映画だったら、その場でばっさり返り討ちってシーンだよね」
 駒井が笑って言う。
 おれの国ではそんなことしません! と言い返しかけたが、結局有利はぐっと唇を噛んだ。
「こちらの世界なら」
 友人の軽口など聞いていなかった様に、透が話し出す。
「主権国家であれば、その国で行われた犯罪はその国の法で裁くのが当然と看做されます。外国人であるかどうかは関係ありません。ですが……あちらでは、どうもそういった、国家の主権という意識が希薄だったように思います。国家の興亡は激しいですし、地域によっては未だに戦国時代のような有様ですし…。数千年に渡って体制を維持してこれたのは、おそらく眞魔国以外にはないでしょう。それはフォンクライスト卿の仰せの通り、魔族という少数種族が、絶対多数の『敵』である人間に囲まれていたという歴史がその大きな理由だろうと僕も思います。そういった世界の状況を考えますと、相手が友好国の、だが人間であるという事実がどう影響するかと猊下が危惧なさるのも分かります。何と申しましても、魔族と人間の間には、数千年に渡る確執の歴史がございますから……」
 だよね、と有利も頷く。
 滅ぼさなくては滅ぼされる、滅ぼされる前に滅ぼせ。ヤツらは敵だ。それが数千年に渡る、魔族と人間の互いに対する認識だ。
 僕の記憶に過ぎないのですが、と前置きして、透が再び口を開いた。
「当時の眞魔国にも人間はいました。貿易業者とか…。そういった人間が犯罪、例えば窃盗とか詐欺とか、戦争とは関係ない殺人などを犯した場合、多くは魔族が同じ罪を犯した時より重い罰が与えられていたはずです。それは主権国家の権利云々というものとは無縁の、人間風情が魔族の国でよくも、という感情的なものが加わっていたのは間違いありません。そしてまた、敵国人が戦争行為、例えば潜入工作などで捕らえられた場合は、罪を問うどころではありませんでした。彼らの行為は、国の存亡に関るかもしれませんでしたからね。捕らえたら即拷問に掛けて、洗いざらい喋らせたら始末する。当時の僕たち…あ、いえ、特に兵士達などはそんなものだと考えていたはずです。ですから、敵国から忍び込んできた人間を法律に従って裁く、などということは全く考えていませんでしたね。たぶんあの頃の、彼…だったら、何を悠長な事を言ってやがる、聞き出すことを聞き出したら、とっととぶっ殺してしまえ、とか……言いそうだなあ。……つまり」
 透が改めて有利に顔を向ける。
「わずか2、30年前ですらそういう状態でした。当時は戦争中だったということを割り引いても、法に対する意識はかなり低かったのです。そして現在も、その考え方はこちらとは大分違います。魔王陛下を人間が暗殺しようとした、となれば、かなり強硬な声が出ることは間違いないでしょう」
 うん、と有利が頷く。

「法律なんて関係ない、魔王は別格、極刑が当然、ってことだよね?」

 ヴォルフラムの主張と同じだ。そして……。

「どうやら猊下はそこから議論が活発化し、結果として国民の意識が向上し、法が整備されていくことを期待なさっておられるご様子ですが……?」
「うん、そうなんだ」
 透の言葉に、有利が大きく頷いた。

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基本を押さえていなければ、本当の事はもちろん捏造も書けないという、当たり前のことに気づいてからがもう大変……。
思いもかけず差し伸べられた神の救いの手に全身でしがみ付きながら書いております。
すでに脳は沸騰状態……。

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