愛多き王様の国・3 |
思考の止まったユーリの視界で、世界がいきなり揺れた。 おれ、倒れる…? 空が見える。平和な青い空。 そのまま仰向けに倒れていく身体は、だが中途半端に止まった。 背中と後頭部に、地面とは全然違う感触が当る。 しっかりとした硬い、だがひどく慣れた気のする、心地の良い感触。 「……………あ」 耳元に、とんでもなく荒い呼吸音。 「…………あ……あれ……?」 いったい…? と続くはずだった言葉は、そこでいきなり耳を劈いた、きぇーッ! という叫びに遮られた。 人のものとは違う、だけど確かに切羽詰った感情の籠もった声。 ここに到ってようやく、ユーリの脳は活動を再開し始めた。 目をぱちぱちと瞬き、斜めに傾いたまま、何かに支えられて立っている自分を自覚する。 「……あ」 胸元に視線を落とせば、がっしりと回された両腕が見える。 ……見慣れた、彼に一番似合う軍服の色。 背後で自分を支え、そして力いっぱい抱き締めてくれている身体。 肩口に押し付けられた頭。耳の中で嵐の様に響く呼吸音。 「…………コン、ラッド……?」 ようやく声が出せることを思い出した。 同時に、目の前で。 きぇぇっ! ケーっ!! と凄まじい怒りの声を上げながら、黄金の鳥が一人の男に襲いかかっていた。 狂ったように激しく羽を動かしながら、ザイーシャは鋭い爪と嘴とで男を攻撃し続けている。 その様を、人々が遠巻きに、恐怖に凍りついたような姿と表情とで見つめていた。 「………あの、ひと……」 少女を抱き上げ、父だと言い(きっと嘘だったんだろう)、少女を投げ付けた後、短剣を構えてユーリに襲い掛かってきたなまはげ男。 その男は頭を抱えて地面に伏せ、ザイーシャの攻撃から少しでも逃れようと文字通りのた打ち回っていた。 ふと地面を見れば、散らばる色とりどりの贈り物や花束の間に、短剣が鈍く輝きを放ちながら転がっている。その無造作な転がり具合が、なぜかひどく場違いな気がした。 「……ッ! やっ、やめ……! やめてく…っ! ひっ……ひいっ! や、やめ……おっ、おま……まさか、ザ……」 ザイーシャ! 男が悲鳴を上げる様に叫んだ。 「なぜ…っ! 何故だ、なぜ……ザイーシャ…! かっ、神のっ、鳥が、なぜ、なぜ魔王を……!」 なぜ、なぜ、なぜ……! 恐怖と、苦痛と、疑問が、悲鳴となって繰り返される。 叫びを上げながら転がりまわる男に、警護の兵士や紅色の軍服を纏った女性兵士達が殺到する。 「………ユーリ……!」 ぜいっぜいっという、なかなか治まらない苦しげな呼吸と一緒に、絞り出された声。 無理矢理首を回して見上げると、自分を覗きこむコンラートの眼差しとぶつかった。 ユーリには滅多に見せない怖いまでに鋭い眼差し。乱れた髪。流れる汗の粒。呼吸音。 恐怖とか怒りとか焦りとか、跳ね回る心臓と一緒になって荒れ狂う感情が、茶色の瞳、銀の星の奥に見える。気がする。 「…コンラッド……」 あの時、自分を取り巻く世界の、時間と空間の全部がスローモーションの様に引き伸ばされた気がした。現実感がいきなり消えた。 世界は、突然スクリーンに映る映画の様に薄っぺらになり、何もかもがゆっくりとゆっくりと動いて、自分はただスクリーンかモニターの向こうに見える世界をぼんやり見つめて立ち尽くしていた。 あの時。男が短剣を手に飛び掛ってきたあの瞬間。 ……思い出した。 あの時、あの瞬間、身体はいきなり力任せに後ろに引っ張られた。全然準備のできていなかった身体は、堪えきれずに倒れて、そして支えられた。 ……身体を無理矢理引き寄せることで、襲い掛かる刃から護ってくれたのはコンラッド。 それと同時に、ザイーシャが男に襲い掛かったのだ。 ……ものすごく長い時間が経ったような気がしたけど……。 男が短剣を構えて襲い掛かってきた瞬間から今まで、もしかしたら1分、いいや、30秒と経っていないのかもしれない……。 「ユー、リ…大丈夫、ですか…っ!? お怪我は……!」 背後から苦しいほどに自分を抱き締めて、焦った声を上げるコンラート。 「……大丈夫、だよ、コンラッド」 ありがと。 そう囁いた途端、ユーリはさらに強く抱きしめられた。 「陛下!」 ハタッと目を瞠って声のしたほうに無理矢理首を回せば、傍らに駆け寄ってくるクラリスの姿があった。 コンラートの腕がすっと離れる。 「陛下! 申し訳ございませんっ!」 いきなり謝られた。 見れば、クラリスの顔は紙の様に白く引き攣っている。 一体何を、と答えようとしたユーリの目に、クラリスの向こうに突っ立っているもう1人の姿が目に入った。ヴォルフラムだ。 目をこれ以上ないほど大きく見開き、やはり色をなくした唇を戦慄かせ、木彫りの人形か何かの様に顔も手足も強張らせて立っている。 瞬きを忘れた瞳は真っ直ぐユーリを見つめ、その足元にはやはり子供達からの贈り物が散乱していた。 震える唇が、「ユーリ…ユーリ…」と繰り返しているのが、なぜかはっきりと分かった。 「…ヴォルフ…?」 「へいか…っ!」 ヴォルフラムの顔を見つめるユーリのすぐ傍らから、今度は子供の声がした。 顔を巡らせると、すぐ近くに少女が、あの男に利用された赤いドレスの少女が、今にも泣き出しそうな顔でユーリを見上げていた。 「……へ、へいか……だいじょうぶ、ですか……? わたし、私、あのとき……、あの、男の人が、いきなり……」 ぐすっと少女が鼻を啜る。 「いきなり……陛下、陛下が、もしも、お怪我を……」 自分が関ったことでユーリが怪我をしたのではないかと、少女は恐怖に駆られている。 ユーリは慌てて少女の顔を覗きこむと、その小さな肩を抱き寄せた。 「大丈夫だよ、おれは大丈夫! かすり傷1つないよ! ほらっ、ね!?」 満面の笑顔を返してやれば、少女は涙の幕で潤んだ瞳をユーリに向けてきた。 「…ほ、ほんと、うに……ごぶじ……?」 「もちろん! おれは本当に大丈夫だよ!」 はたはたと、少女の見開きっぱなしの目から涙の粒が転がり落ちてきた。と。 少女の身体がふわりと浮き上がった。 「……コンラッド」 コンラートが少女を抱き上げている。 「陛下は御無事だよ。どんな悪者も陛下を傷つけることなどできない」 その言葉を聞く少女は、真剣な眼差しでコンラートを見つめている。 「だから安心しなさい。……あそこにいるのは君の御両親かな?」 少女と一緒にユーリが視線を巡らせば、人の列から前に飛び出すように、一組の男女が恐怖に似た表情を浮かべてこちらを見ていた。 こくりと頷いた少女を地面に降ろし、「大丈夫だから、ご両親のところに戻りなさい」と、頭を撫でながら優しく告げた。 もう一度頷いた少女が、ユーリを見上げ、たどたどしくお辞儀をする。その少女にきちんとお辞儀を返して、ユーリは「君の名前は?」と尋ねた。 「マーサと申します。陛下」 答える少女に、ユーリが改めて微笑みかけた。 「マーサ、怖い思いをさせてごめんね? 何も気にしなくていいから、マーサはこれからも毎日元気で暮らしてください。お父さんとお母さんにもよろしく伝えてね?」 「はい! 陛下!」 ようやく元気を取り戻したらしい少女は、今度こそにっこりと笑うと、くるりと踵を返して両親の下に走っていった。 少女の向かう先に立つ両親らしき男女に、ユーリは笑みを浮かべて手を振った。2人の青ざめた顔がふわっと緩むのが見える。 少女、マーサが両親の腕の中に飛び込む姿を目にしながら、コンラートは近くにいる紅色の軍服を身につけた女性護衛官を呼び寄せた。 「閣下?」 「あの家族の下に行き、話しを聞いてきてくれ。あの男がどうしてあの娘を使おうとしたのか、その時両親はどこで何をしていたのか。前後の詳しい状況を知りたい。だが尋問ではないのだから、質問はあくまで丁寧にしろ」 「畏まりました!」 女性護衛官が小走りにマーサとその両親の下に向かう。 「……コンラッド、もしかしてあの人たちのことを……」 「ご安心下さい。事件の全貌を把握するために、あらゆる角度から情報を集めておく必要があるだけです。あの娘は紛れもなく被害者ですよ」 人を疑いたくないユーリを思いやり、コンラートは優しく微笑んだ。もっとも、疑うことを忘れては王の護衛の資格はない。 だが今はそれよりも。 「陛下」 改めてコンラートがユーリを呼んだ。 「陛下って呼ぶ……」 「陛下」 その声の調子に、ユーリが口を噤む。 「民に、ご無事であることをお示し下さい。皆、心配しております」 あっ、と見回せば、人々の顔はいまだ一様に恐怖に引き攣ったままで、自分を見つめている。 「へっ、陛下!」 転がるようにやって来るのは、王都ぷらざの確か所長、今回の展覧会の責任者だ。 「くっ、曲者が…! お怪我はっ、よもやお怪我は……っ!?」 真っ青になって慌てふためく小太りの所長に、ユーリは「何ともないよ!」と声を掛けると、クラリス、ヴォルフラム、そして恐怖に凍ったように立ち尽くす全ての人々をゆっくり見回し、殊更にっこりと明るい笑みを浮かべ、それから大きく手を振った。 「皆! おれは大丈夫だよ! 心配してくれてありがとう!」 陛下はご無事だ! かすり傷1つなく、お元気であらせられる! 人々に向けて、コンラートの大きな声が響いた。 おお…! と、人々の間からため息に似た声が漏れた。 「陛下!」 「魔王陛下!」 ユーリが無事であることを確認したいのか、あちこちからユーリを呼ぶ声が上がった。 その声に応える様に、ユーリは人々に向かって笑顔で手を振り続ける。 ケーン! 空中から声が降ってきた。 兵士達に男を任せた鳥は興奮が収まらないのか、辺りをせわしく飛び回っている。 「おいで! ザイーシャ!」 ケーン! ユーリの声に応えて、ザイーシャが文字通り突進してくる。 そして最後は優雅に、ユーリの肩に舞い降りた。 ほお……と、人々から今度は感動のため息が漏れた。 眞魔国の民が敬愛してやまない魔王陛下の肩に、まるでその偉大さを象徴するかのように美しくも気高い黄金の鳥がいる。そしてその鳥は、民の目の前で恐るべき暗殺者から彼らの王の命を護ったのだ。 魔王陛下を護ること、まさしくそれこそが天の意志、世界の意志、神の意志であるかのように。 「魔王陛下、万歳!」 「眞魔国、万歳!」 「魔王陛下に栄光あれ!」 凍るような恐怖と悲鳴が、一転、興奮と歓呼に変わった。 うおおっという、怒涛のような叫びがその一帯に満ち満ち、溢れた。 人々の声に応えようと、ユーリはくるくると向きを変え、必死に笑顔を振り撒き始めた。 その姿を目に納め、クラリスと、集まってきた彼女の部下達に頷きかけると、コンラートはユーリの側を離れた。現在、この場における魔王陛下警護の最高責任者はコンラートだ。捕えた男の処置も含め、状況の把握と指示を徹底しなくてはならない。 「隊長」 視線を向けた先にはヨザックがいる。厳しい表情の幼馴染にちらりと視線を走らせ、コンラートは口を開いた。 「なぜあの場にお前がいなかったかについての詳しい報告は、後でグウェン達と一緒に聞く。……何人だ?」 何の理由もなく、ヨザックがユーリの側を離れることはあり得ない。それに、この襲撃は無謀な者が突発的に行うものではなく、明らかに計画的なものだ。とするならば、必ず仲間がいる。そう考えての質問だったのだが、予想した通りヨザックは頷いた。もちろん、その顔に自慢めいた表情はない。 「5人だ。兵士達に捕縛させてある。陛下は無事だったんだな。……クラリスがいるから大丈夫だと考えたんだが」 「それも後でだ。……どうした?」 何か報告したそうに、大股で歩み寄ってきた兵にコンラートが声を掛けた。 は、と答え、コンラートのすぐ前にやってきた兵が、「これをそこで拾いまして」と手を差し出した。 「……これは陛下の……」 兵の掌の上には、中途半端に切り取られた金の飾り紐があった。その紐の端には、丸く磨かれた紅玉がついている。 それは間違いなく、ユーリの上着の胸元を飾っていたものだ。 コンラートはそれを受け取って、しばらく見つめた後、ほう、と息を吐き出した。 飾り紐は途中から断ち切られている。その切り口だけで、魔王陛下暗殺を企てた実行犯が相当の腕の持ち主だということが分かる。 もし……後1歩、遅れていたら。 視線を向ければ、人々の歓呼の声に応えて、ユーリがくるくると向きを変えながら笑顔で手を大きく振り続けている。 「……ギリギリだったな……」 ヨザックの呟きに頷きながら、コンラートは手にした飾り紐を口元に運び、紅玉に唇を寄せ……。 ハッと目を瞠った。 「コンラッド? どうした?」 ヨザックの見ている前で、コンラートは改めて飾り紐に鼻を寄せた。そして、きゅっと眉を顰めたかと思うと、手にしたものをまじまじと見つめ、いや、睨み付け始めた。 「コンラッド……隊長…?」 声に不審の響きが増す。 「…………毒だ」 え!? ヨザックの顔が緊張に固まった。 「おそらく…あの男の剣に毒が塗ってあったんだろう。陛下を……確実に殺害するために。その毒がこれに付着している」 「おい…!」ヨザックが焦ったように声を上げた。「これの残りは陛下の胸に残っているんだろう!? だったら…!」 「兵が落ちていた短剣を確保したはずだ。保管状況を確認して城へ運ばせてくれ」 それだけ伝えると、コンラートは走り出した。 「……ユーリ」 歓呼の叫びを上げる民に、満面の笑顔で懸命に手を振り続けるユーリのすぐ側から、聞き慣れた、だが低く沈んだ声がした。 いつの間にかヴォルフラムが傍らに立っている。 「ユーリ、僕は……」 ごめんっ、ヴォルフ! いまだ唇まで青く引き攣らせる友人の姿を目にした瞬間、ユーリは叫んでいた。 ヴォルフラムとクラリス、そしてクラリスの部下の護衛官達が、きょとんと主を見返す。 「おれが子供達から貰ったものを無理矢理持たせたりしたから……。だからヴォルフ、どう動きようもなかったんだよな。……ホントにごめん。おれってば考えなしで……」 ヴォルフラムは、コンラートに代わってユーリの護衛を自認していたはずだ。 それが、子供達からの贈り物をユーリが持たせたために、その役目が果たせなかった。ヴォルフラムはそれが悔しくて、同時に何もできなかった自分を責めているのだろう。 申し訳なさに、ユーリの眉がしょぼっと落ちた。 「…ユーリ…! 僕は……!」 ヴォルフラムが口を開いた時だった。 「陛下!」 コンラートが駆け寄ってきたのだ。 コンラートの表情がさらに厳しくなっていることに気づいて、ユーリは急いで笑顔を浮かべて見せた。 「コンラッドー、何かさ、くるくるしてたら目が回ってきちゃったよ」 たはは、と笑うユーリの二の腕を、コンラートが掴む。ユーリが驚いて目を瞠った。 ユーリの胸元には、紅玉と途中で斬られた飾り紐の残りが揺れている。 「隊長?」 「どうした、コンラート!?」 クラリスとヴォルフラムがコンラートの様子に驚いたように声を上げる。 「陛下」2人を無視して、コンラートはユーリに強い口調で言った。「すぐに血盟城に戻ります。あの男は剣に毒を塗っていました」 毒? ユーリが目を瞠り、それからきょとんと首を傾ける。 「でもおれは怪我してないし……」 言いかけたユーリを遮って、「これを」とコンラートが手にした飾り紐を見せる。 「…あれ? これ……」 胸元に目をやって、そこでユーリはようやく胸の飾りが途中ですっぱりと切り落とされていることに気づいた。 「毒がこれに付着しています。当然、紐の残った部分、そしておそらく服の布地にも毒が移っているでしょう。万一ということもあります。すぐに血盟城に戻ってお着替えを。それから本当に何事もないかお身体を調べましょう」 ユーリの服に毒が付着している可能性がある。それを知らされた周囲の人々が、ハッと表情を変えた。 「ユーリ!」ヴォルフラムもまた声を張り上げた。「コンラートの言う通りだ! すぐに戻ろう!」 ユーリを護る者達はもちろん、ぷらざの所長も職員達も皆ヴォルフラムの言葉に頷いている。 だがユーリは答えない。 ただじっと胸元で揺れる飾り紐の残りを見つめている。 「ユーリ…!」 じれったそうにヴォルフラムが高めた。だが。 「城には戻らない。このまま発明展の開会式に予定通り出席する」 「陛下…!」 「ユーリ!」 一斉に声を上げる側近達の顔を見回すユーリ。主の顔に浮かんだ表情に、取り巻く人々は発しようとしていた言葉を飲み込んだ。 「紐の切り口についた程度の毒なら微量だろ? それが上着についても大した問題にはならないと思う。今も身体に異常は感じないし…」 「無意識の内に手が触れることもあります。手に付着すれば、体内にも容易に入ります」 この毒は強力なもので、微量であろうと危険です。 応じるコンラートの言葉は、どこか淡々としているだけに切迫感がある。 「触らないように気をつける」 「陛下!」 「もしこのまま帰ったら」 一旦目を伏せ、それから改めてコンラートに向けられた瞳には決意があった。 「今日はおれの暗殺未遂事件が起こった日、ここはそれが起こった場所っていう、ただそれだけのものになってしまう。展覧会は台無しになって、子供達やぷらざの人達の努力が無駄になる。おれが無事だと分かって……」 ユーリの視線が居並ぶ民に向いた。視線を向けられた民が手を振り、「魔王陛下!」「陛下、ご無事でよろしゅうございました!」と口々に声を上げる。その声に向かって、ユーリは笑顔で手を振った。歓声が湧く。 「皆、今はこうして喜んでくれている。でも、展覧会がダメになってしまったら、そして、おれが皆に背中を向けてここを去ってしまったら、結局皆がっかりすると思う。中途半端に放り出されてしまったっていうか……そんなやり切れない気分だけが残ってしまうんだ。こんな事件が起きたことで皆の中に……何ていうのかな、えっと……そう、マイナスの気分が広がってしまうと思う。この事件、たぶん明日の新聞に載るだろう? おれが襲撃されたことや、予定を途中で切り上げて、それでせっかくの催し物がダメになったと知ったら、王都の民全てにそのマイナス気分が広がってしまうかもしれない。それは良くない。絶対良くないよ! だから、ここはこのまま予定を進めていきたいんだ。予定通りプラザに入って、展覧会の開会式を行って、おれがテープカットをして、そして皆の発明を見て回って……。そうすれば、そのー……皆の気持ちがちゃんと完結するっていうか、納まりがつくっていうか、事件もイベントの中で起こった突発的なアクシデントってことになって、皆もすごいもん見ちゃったーって夕食の話題にする程度で終わるんじゃないかっていうか……」 自分でも何を言おうとしているのか分からなくなったのだろう。 突然口を噤むと、ユーリは「うー」と唸って苛立たしげに身体を揺すり始めた。 何を言いたいのかさっぱり分からん、というヴォルフラムの呟きや、まいなすきぶんって何? という誰かの囁きが耳に入って、ユーリの眉がさらにきゅうっと顰められる。 「……つまり、一言でいうと」 小さくため息をついて、コンラートが口を開いた。 「王として、民の心に不安や動揺を残すべきではない、ということですね」 きょとんと顔を上げたユーリが、しばらく腕組をして首を捻り、それから。 「そう! つまりそういうこと!」 と、嬉しそうに声を上げた。さすがコンラッド! という主の賞賛の言葉に、コンラートが苦笑を浮かべる。 「たったそれだけのことに、何をぐだぐだと…! 本当に頭が悪いな、お前は!」 怒りの声を上げるヴォルフラムに、ユーリが「何をー!」と反応する。 「ああ、ほら、皆が見てますから、陛下! ヴォルフも!」 年少2人の間に入ったコンラートが、さらに苦笑を深めた。 「分かりました。陛下の仰せに従いましょう」 「コンラート!」 「陛下は王として為すべきことを為さろうとしておられる。ならば臣下として、それをお輔けするのが役目だろう。確かに、民を動揺させたままにしておくのは良くない。しかし陛下、万一ということがありますので、とりあえず上着を脱いで下さい。俺が持っています」 「……うん、分かった。でもコンラッド、毒に触らないように気をつけろよ。…あっ、そういえば、おれを引き寄せてくれた時に、コンラッドの服にも毒がついちゃったんじゃないか!? 大丈夫か、コンラッド!?」 「俺は大丈夫です」にっこり笑ってコンラートが頷く。「この後も気をつけますので、ご安心下さい」 お前じゃないんだから、と言いかける弟を制して、コンラートは答えた。 「陛下、本当によろしゅうございますか?」 おずおずと尋ねてきたのはぷらざの所長だ。退役軍人だが、事務一筋という変り種で、戦闘能力はないに等しいが事務処理能力は格段に高いと評価を得ている。定年退役したものの、魔王陛下の御世に尽くしたいと再就職を軍に訴え、この度ユーリが造った王都ぷらざの所長に就任した人物である。 「うん! 大丈夫! ちょっと時間が遅れちゃったけど、予定通りに進めてください」 心配してくれてありがとう。 笑顔で礼を述べるユーリに、所長が「ははぁっ」と勢いよく頭を下げた。 「よし!」 所長の後頭部に微笑みかけて、それからユーリはぐっと拳を握った。 「それじゃ、気分を新たにやり直そう! あっ、子供達からの贈り物は…」 「全て集めてございます!」 ずらりと並んだぷらざの職員達が、腕に抱えた贈り物の山をユーリに向かって掲げて見せた。 「零れはございません!」 力強い職員の言葉に、ユーリが「ありがとう!」とにっこり笑って頷いた。職員達が一斉に頬を染め、興奮に瞳を輝かせる。 「じゃあ、行こう」 はっ! 側近や護衛を始めとする、その場に集う全員が声を揃えた。 「発明展は、予定通りに開催いたします! 魔王陛下のご臨席を得て、これより開会式を行います! 全て予定通り、変更はありません!」 所長が集まった民に向かって大きな声で宣言した。 一時の興奮が納まり、これからどうなるのかと不安げに顔を見合わせていた民達から、再び大きな歓声が上がった。 我が子が何日も前から楽しみにしていた、魔王陛下をお迎えしての展覧会がちゃんと執り行われる事、そして、魔王陛下が本当に何事もなくご無事だった事、それを民達は心から喜んでいる。 「魔王陛下!」 「陛下、万歳!」 「眞魔国、万歳!」 今度はコンラート、ヨザック、クラリス、ヴォルフラム、そして女性護衛官達にがっちり周囲を固められて、それでもユーリは明るい笑顔を人々に振り撒き、手を振り続けた。 コンラートは、そんなユーリの傍らを歩きながら、そっと背後に視線を向けた。 一行からかなり距離を置いて、ある一団がついてくる。 突然の出来事にすっかり存在を忘れ去られてしまった、アシュラム公領の人々だ。 コンラートの目にも、彼らの表情が一様に固く青ざめていること、魂がどこか別の場所に飛んでいるかのように動きがぎくしゃくとぎこちないことがはっきり見て取れた。 「……お姫様達、相当衝撃を受けてるな」 コンラートの視線の向く先に気づいたのだろう。ヨザックが囁きかけてきた。 「まあ、無理もないけど。……もちろん、気づいてるだろう?」 ああ、とコンラートが頷く。 あの男。忌まわしい暗殺者。 その口からはっきりと飛び出したあの名前。 エヴァレット達アシュラムの人々が今感じているだろう恐怖を、そしてこれから起こり得ることを思い、コンラートはわずかに眉を顰めた。 魔族と人間の子供達の発明展は、少々時間の遅れはあったものの、無事に開催された。 魔王陛下は終始にこやかで、開会式も、続く展示作品の御観覧も、笑いと歓声と拍手が溢れる明るい雰囲気の中、何事もなく終了した。 魔王陛下を見送り、家路につく王都の人々の胸には、美しく愛らしく明るく気さくで慈悲深い彼らの王への崇敬の念と、婚約者であり国家の英雄であるウェラー卿と魔王陛下が照れくさそうに笑みを交し合う姿を間近にできた喜び、子供達の発明がなかなか大したものだった、何より魔王陛下に自分の発明を説明申し上げる我が子は実に立派だった、これは親戚にもご近所にも自慢しなくては……という楽しい記憶と幸福感だけが残った。 その夜の彼らの食卓は、魔王陛下と展覧会の話題、愚かな暗殺者と、天の使者の様に暗殺者を退けた黄金の鳥の話題で、にぎやかに盛り上がることとなるだろう。 コッコッコッコッ……。 静まり返った部屋で、小さなその音だけが響いている。 ほっそりとした少年の指、その爪が、机の表面を叩いている音だ。 「……一つ一つの失態は、実際のところ失態と呼べるほどのものじゃあない」 何か効果を狙っているのか、それとも無意識なのか、彼の指は机をリズミカルに叩き続けている。 「重大な情報を王都警備の最高責任者にしか報せない、と言われて、ウェラー卿が出かけて行ったのも、ウェラー卿、君個人の行動力、機動力を思えばもっともなことだ。……君が最優先すべきは陛下の護衛であり、陛下がおいでになる限り誰より陛下のお側にいなくてはならず、ならば、他の者を責任者に仕立てて情報を得るとか、どうしてウェラー卿でなくてはならないのか、その背後に何か別の目的がないのか、まずはその人物の身柄を押さえて背後の調査をすべきだった、というのも、こうなったからこそ言えることで、さほどの説得力があるとはいえない」 説得力がないのなら、どうしてこうも胸がグサグサと抉られるのだろう。 申し訳ありません、と、それ以外何をどう答えようもなく、コンラートは頭を下げた。 「そして、フォンヴォルテール卿とフォンクライスト卿が陛下の予定を変更しなかったことも」 少年、もちろん他の誰でもない、大賢者村田健の、本人曰く「説得力のない」言葉は続く。 「事実かどうかも分からない情報を持ってきた人間がいる、というだけで、陛下の大切なご予定を変更させる必要性を感じなかったことは無理もないことだ。情報に緊急性があるかどうか不明だからこそ、最悪の状況を予想して、陛下の身の安全を図らねばならなかった、というのももちろんただの結果論に過ぎない」 ぐ、と唇を噛み締めた宰相と王佐が、やはり頭を下げる。「言い訳のしようもございません…」と搾り出す様に言った王佐の顔は今にも泣き出しそうだった。 「陛下の最も身近にいながら、迫り来る暗殺者に対して何もできなかったフォンビーレフェルト卿も」 次は自分だと覚悟を決めていたヴォルフラムが、ぐっと奥歯を噛み締めて直立不動を保つ。 「陛下に命じられて子供達からの贈り物を山の様に抱えていたとなれば、とっさに剣を抜くことなど当然出来なかっただろうし、身体を張って陛下を庇うことも、暗殺者に飛び掛ることもおそらく難しかったのだろうね。手にしていたのは陛下への貢物なのだから、それを暗殺者に叩きつけて動きをわずかでも妨害する、という行動を咄嗟に取れなかったのも仕方がないことだ。貢物を捧げた子供達が可哀想だし、あまりにも突然のことだったから君も動転していたのだろう。もちろん、陛下の身に万一のことがあれば貢物など何の意味もないことや、常に危急の事態が発生することを予測し、何が起きても即座に対応できてこそ護衛だなどと、今さら君に教える必要もないが」 ヴォルフラムの顔が、これ以上ないほど大きく歪む。 「ヨザックが誘い出されていると分かった上で誘いに乗ったのも、不審人物を捕えるためには仕方がなかった。自分はあくまで陛下の護衛として陛下のお側から離れず、信頼できる兵に命じて男を追わせ、仲間共々捕えるように命じることができたんじゃないか、ということも今だから言えることだ。それからクラリスも、幼い女の子が利用されて、放り出された子を咄嗟に受け止めたために出遅れてしまったことも、どう考えても不可抗力だろう。……そんな場所で身体を放り出されても、せいぜい擦り傷を作る程度、命に関る大事になるわけでもない。そう即断して子供のことなど構わず、陛下をお護りすべきだった、という主張もあり得るが、状況から判断するととても無理だったと思うね」 部屋の隅に控えて立つヨザックとクラリスは、身体も表情も硬く強張らせたまま、その場に立ち尽くしていた。 大賢者の言葉は、文脈からすると彼らを慰めているようだが、実際のところその一言一言が刃となって彼らの胸を斬りつけて来る。 そんな中で、身の置き所がなく、心も身体も縮こまって座っているのが当の魔王陛下、ユーリだった。 結局のところ、ユーリの責任が一番重い。ユーリには村田の言葉がそう聞こえる。 「君達の一連の行動1つ1つを取ってみれば、どれも特に問題があるとはいえない。失態とあげつらう程の失態ではない。ほんのわずか、後から考えてみれば確かに失態といえるかもしれない、という程度のものだ。そして今回、その失態と呼べば呼べるが、さほどのことでもない、という失態が幾つも重なり、結果としてこの事態を生んだ。これをすなわち」 大賢者の目が、すっと眇められる。 「油断という」 側近一同の顔が苦しげに歪み、視線が落とされ、拳がきつく握り締められた。 「ザイーシャが大評判らしいね」 村田の声の調子がふと軽くなった。 「……は。シンニチが号外を出しまして、神秘に輝く黄金の鳥が陛下のお命を救ったと大きく報道しております」 答えるギュンターに、村田が小さく笑って頷いた。 「無理もないね。インパクト大きすぎだし。ま、良い宣伝になる。魔王陛下は精霊の王、世界の主。民もそれを再認識できて盛り上がるだろう」 残念だったね、ウェラー卿。 村田がウィンク付きで悪戯っぽく笑った。 「ザイーシャがいなければ、『婚約者である魔王陛下を愛の力でお助けした英雄』とか何とか、ウェラー卿伝説に更なる1ページを追加できたのに」 「お戯れを、猊下」 コンラートの頬がわずかに引き攣った。それが村田の言葉に対してなのか、手柄を独り占めした鳥に対してなのかは誰にも分からない。 「確かにザイーシャは男を捕える役に立った。だが、実際のところ、陛下のお命をすんでのところでお助けしたのはウェラー卿だ。ウェラー卿が陛下の身体を引き寄せるのが1歩、いや、半歩遅れていれば、陛下は刃か毒のどちらかで命を奪われていただろう。それはちゃんと自覚しておいでなのかな? 陛下?」 うんうんうん、とユーリは何度も首を縦に振った。 グウェンダルもそうだが、村田の「陛下」呼びと敬語はさらにとんでもなく心臓に悪い。 「文字通りの僥倖だった」 椅子の背もたれに身体を無造作に預けて、ため息と共に村田は言った。 「今度ばかりは、天だの神だの運命だの、いるんだかいないんだか分からないものに感謝したくなったよ」 「私も」ギュンターがしみじみと口にする。「眞王陛下に感謝の祈りを捧げました」 「アレが役に立つもんか。無駄なことはするな、フォンクライスト卿」 う、とギュンターが詰まる。 「とにかく」 言って、村田が改めて全員を見回す。 「良い勉強、というにはあまりにも危険だったが、結果として実に良い教訓になったと思う。いいかい、君達。今さらこんなことを言いたくないし、君達だって言われたくないとは思うが……目の前を全てが順調に流れていくように見えるからといって、決してその底の淀みが消えるわけではないことを忘れるな。眞魔国は平和と繁栄の直中にある。人間との関係も改善著しい。だが魔族への偏見をなくした人間は、世界でもまだほんの一握りに過ぎない。眞魔国とその友好国だけが自然の脅威から脱し、繁栄を築きつつあるが故に、さらに大きな憎悪と悪意が成長していることも忘れるな。いいね?」 二度と油断するな。 はっ。決意をこめ、側近、護衛一同が声を揃える。 「………ごめんな……みんな……」 ふいに、頼りなげな声が執務室(大賢者猊下のお説教は、魔王陛下の執務室で行われていた)に響いた。 全員がハッと顔を向けた先で、魔王陛下が肩を窄め、眉を思い切り八の字に落とし、身の置き所がなさそうにしょんぼりとしている。 「……全部、おれが油断してたから……だよな……。おれがいつも考えなしに動くから……。そのせいで結局皆にまた心配かけて……。ほんとに、ごめん…なさい……」 ますますしょぼっと小さくなる魔王陛下に、一同一斉に慌てた、が。 「何を言ってるんだか、渋谷。油断も何も、君がそもそも日常生活に緊張感を持ったことなどあったかい?」 「…………」 さすがにそれはちょっとあんまりではないだろうか。 言い返したい魔王陛下と側近一同だったが、もしかしたらその通りかも知れないという一抹の不安が彼らの口を開かせなかった。 「考えなしにどーんと突っ走って、何かにぶつかるまで走るのをやめないのもいつものことじゃないか。そこが君の美点であり……まあ、遠慮深く表現するなら、救いようのない欠点でもあるが」 どこが遠慮深いんだー、と叫びたい一同だったが、やっぱり胸の片隅で同意するものが反抗を許さなかった。 「だから君は思いのまま行動すればいいんだよ。もちろん、周りの面倒とか迷惑とかを思いやってくれれば言うことないけどね。でも、君は君らしく、それでいい。後のフォローは君を支える僕達の役目だ。その役目が果たせない者がいるとすれば、その者には君という、掛け替えのない王の側近を名乗る資格はない」 資格の有無を問われかけた一同の表情が改まる。 「それはそれとして、渋谷」 村田が立ち上がり、ユーリの執務机の傍らまで歩み寄ると、王の顔を覗きこんだ。 「……村田?」 親友の顔は笑っている。 「君が展覧会をすっぽかして帰ってこなかったのは英断だったね。毒の危険は僕も十分理解できるが、そのリスクを犯してでも、民の不安を払拭させたのは良かった。……君はしょっちゅうミスを犯すが」 ユーリの口がへの字になる。上目遣いで睨まれて、村田の笑みが更に深くなった。 「それでも君は、一番大事な決断をすべき時を間違えない。そして必ず正しい道を選ぶ。それは王として素晴らしい資質だと思うし、そんな君を主とすることを、僕は心から誇りに思うよ」 「……む、むらた…!?」 突然のとんでもない賞賛に、むしろユーリは焦った。 ……親友を疑いたくないが、もしかしたらこの後とんでもないオチがあるとか……!? 「そう思わないかい、君達。ねえ、ウェラー卿?」 村田が身を起こして側近達に声を掛けた。 「猊下の仰せの通りと存じます」 今度は笑顔で、コンラートがきっぱりと応えた。居並ぶ一同も同様の表情だ。 村田が笑顔のまま頷く。……どうやらオチはないらしい。 「それじゃ、この話はここでお終い! ……と言いたいところだが、これからのことがあるからね。話をそちらに移そう。捕えた男についての報告を」 執務室の空気が「職員室でお説教される小学生」モードから、一気に「大人のお仕事」モードに突入した。 「これで全員とは断言できませんが、現在捕らえたのは6名です。王都警備本部の兵士の証言から、隊長を誘い出した男もその中にいることが確認できました。それぞれ別々の牢に入れてありますが、全員黙秘して一言も語ろうとしません」 ヨザックの報告に、村田が「ふーん」と鼻を鳴らした。 「ま、命はないものと当然覚悟してるんだろうけどね。実行犯の男は、自分の出身国をうっかりバラしたことには気づいていないのかな?」 「把握したことは隠して尋問しておりますが、黙秘しているところから判断すると、気づいていないのではないかと。何せ、剣に匹敵する嘴と爪で連続攻撃を受けてましたし。……見事なまでにボロボロでした」 「ふん……。ところであの国の出身者は1人だけなのかな。それとも全員そうなのか」 「申し訳ありません。まだ不明です」 「まあ、黙秘してるんだからそうだろうね。……フォンヴォルテール卿」 は、とグウェンダルが応える。 「そろそろアシュラムの御一行に協力を願うべきじゃないかな? 彼らも放って置かれたままでは不安だろう。ここに来てもらって、アシュラムの国内情勢など詳しくご説明願うとしよう」 まるで処刑場に引き出された罪人のようだ、と、魔王陛下を除く全員が思った。 処刑を間近にした罪人の顔など知らないユーリは(闘技場で処刑される予定の罪人と顔を合わせたことはあるが、当時それが処刑だとは知らなかった)、執務室に入ってきたアシュラムの人々─エヴァレット達、見慣れた人々が皆、まるで初めて魔王の謁見を乞いにきたかのような緊張感に溢れ、今にも倒れそうな様子であることに息を呑んだ。 『なぜだ!? ザイーシャ!』 あの時の男の叫びは、コンラート達に指摘されるまでユーリの記憶から抜け落ちていた。 だが……。 「御足労をお掛けした。そちらにお座り頂きたい」 グウェンダルに促されて、先頭に立つエヴァレットががくがくと頷いた。 半歩下がったアシュリー伯の肩にはザイーシャがいる。部屋に入り、ユーリを真正面に認めた途端、ぐるっぽーと声を上げて飛び上がろうとしたが、何を思ったのかザイーシャはいきなり羽を畳むとアシュリー伯の肩に戻った。 ……大手柄を立てて自慢たらたらな姿を予想していた眞魔国の人々の目に、その姿は不自然なくらいがっくりと、肩を落として(?)見える。 「………あ、あの、あの……陛下……」 「……エヴァ様」 何だかユーリまで緊張してきた。 エヴァは目を泳がせるように、ユーリ、コンラート、グウェンダルと視線を移動させ、口を開き、閉じ、を繰り返している。何か言わねばと必死に考えているようだが、何も言葉が出てこない。 「まずはお席に、殿下」 ギュンターに声を掛けられたエヴァレットは、その瞬間、弾かれた様に「陛下!」と声を張り上げた。 「はっ、はいっ!」 「あのっ……アシュラムへの巫女様派遣は取りやめになるのでしょうか!?」 一息に叫んでから、エヴァレットは両手で口を押さえた。 姫! 姫様! アシュリー伯を始め、彼女に仕える人々が焦って主を窘める。 「…も、申し訳ありませんっ!」 眞魔国の人々に対して、誰より魔王陛下に対して、今、彼女が口にすべきことは幾つもある。だが、焦ったエヴァレットは優先順位を間違えてしまった。 自分とアシュラムの民にとって何より大切で、気がかりなことが口を突いて飛び出してしまったのだ。 エヴァレットの愛らしい顔が、今にも泣き出しそうにくしゃりと歪んだ。 「どうしてそう思われましたか? エヴァ様」 冷静な声で村田が問い掛ける。 泣きそうな顔のまま、エヴァレットは村田と向き合った。 「……お分かりのはず、ですわ……」そう言って、エヴァレットの視線がさらにコンラートに向く。「お聞きになったはずです、コンラート様も……。あの時、あの男はザイーシャの名を呼びました……」 『ザイーシャ! 神の鳥がなぜ、なぜ、魔王を……!』 魂切る叫びが耳に蘇る。 「ザイーシャを知っているのは、あのようにザイーシャを呼ぶのは、アシュラムの民以外にありません! あの男は、陛下を亡き者にしようとしたあの男、は……アシュラムの、我が国の人間です……っ!」 叫ぶように言い切ると、エヴァレットは顔を両手で覆った。 姫……。ランと乳姉妹のアグネスがエヴァレットに寄り添い、彼らはそっとソファに腰を下ろした。 すすり泣くエヴァレットの前に、カチャリとかすかな音を立ててお茶のカップが置かれる。 ふと手を外してそれを見たエヴァレットが、涙に濡れた顔を上げた。 コンラートが穏やかな眼差しで彼女を見下ろしている。 「エヴァ様」 ユーリの声に、コンラートを見上げていたエヴァレットがハッと視線の向きを変える。 「皆さんも、お茶を飲んで落ち着いてください。……あの男がアシュラムの民だとしても、それと両国の友好には何の関係もありません。おれ達は何も変わりません。巫女の派遣も予定通りです」 「……陛下……!」 「ただし」 と、間に入ったのは宰相フォンヴォルテール卿だ。 「あの男を陛下暗殺に向かわせたのがアシュラム大公、もしくは、政に関る者だとすれば、話は変わるが」 「それはあり得ません!!」 飛び上がってエヴァレットが叫んだ。 「そのようなことっ、絶対にありませんっ!」 「姫っ! 落ち着いてくださいっ!」 髪を振り乱して声を張り上げるエヴァレットを、背後からランがほとんど羽交い絞めに抱きしめる。 「……失礼した。私は眞魔国の宰相として、最悪の事態を想定をしない訳にはいかないので」 「重々分かっております」 公女に代わって答えたのはアシュリー伯だった。 興奮し過ぎて、どこか呆然とするエヴァレットを息子の手で席に着かせ、代わって立ち上がると、アシュリー伯は魔王陛下に向かって頭を下げた。 「大公家の一員として、我が命、我が誇りにかけて申し上げます。アシュラムは、眞魔国との永遠の友好を切に願っております。我等は両国が更に友情を深めることを祈りこそすれ、陛下のお命を縮め参らせるような真似は、決して致さぬとお誓い申し上げます。あの男は確かにアシュラムの民。しかし、どうか陛下! わずかな愚か者のために、アシュラムの全ての民をお疑いあそばすことだけは何とぞ……!」 改めて深々と頭を下げるアシュリー伯に続いて、エヴァレットを除く全員が頭を下げた。 「大丈夫です、アシュリー伯」 ユーリも立ち上がって、彼らに応えた。 「ラン様も乳母さん達も……。さっきも言いましたけど、おれ達は何も変わりません。おれは、いいえ、おれ達眞魔国の民は、アシュラムの皆さんをを信じています。だからどうぞ安心して下さい。それから……あの、エヴァ様にお茶を飲ませてあげて下さい。皆さんも、どうか」 「おお、陛下…!」 ようやく愁眉を開いたアシュリー伯と一行が、揃って深々と安堵の息をついた。 「……あの」 お茶を飲み干したエヴァレットが、ようやく人心地ついたのか、恥ずかしそうに声を発した。 「先ほどは取り乱しまして……お許し下さい、陛下。その……あまりに動転してしまって、私、本当に……恥ずかしゅうございます……」 最後は消え入りそうな声で身を縮めるエヴァレットに、「無理もないです。気にしないで下さい、エヴァ様!」と、ユーリが明るい声で慰めた。 その声に励まされたのか、エヴァレットが気を取り直したように背筋を伸ばし、ユーリに真っ直ぐ顔を向けた。 「ありがとうございます、陛下。……それでお伺いしたいのですが、その……捕らえられた者共は、何と申しているのでございますか?」 「…あー、それは……」 「まだ何も喋ろうとしないらしいですよ」 答えたのは村田だ。 「今はまだ簡単な尋問しかされていないようですけど、完全黙秘だそうです。もちろん自分がアシュラムの人間だということも口にしていません」 そうですか……と呟いたエヴァレットが次に顔を上げた時、その顔には決然とした何かがあった。 「陛下」 「あ、は、はい!」 全員の注目を浴びながら、エヴァレットはすっと立ち上がり、それからゆっくりとユーリの座す執務机の前に立った。 「お願いがございます」 「…エヴァ様…?」 「どうか、私をその男達に会わせて下さいませ! 私がその者達の存念を聞きだしたいと存じます!」 「姫!」 「姫様、それは…!」 アシュリー伯達が一斉に声を上げる。 「そして…!」 決意を瞳に漲らせ、エヴァレットはきっぱりと言った。 「場合によっては、私がこの手で! アシュラムの大切な友好国の王である陛下を弑し奉ろうとした不埒者、私自身のこの手で……成敗いたします…っ!!」 ユーリの喉がごくっと鳴った。 内容もそうだが、とにかくエヴァレットの気迫がものすごい。 その気迫に圧倒されたかのように、執務室から一切の音が消えた。 だが。 「困りますよ、エヴァ様。簡単にそんなことを言われては」 村田の冷静な声が、部屋の静寂をあっさりと破った。 「眞魔国の法を犯した者は、眞魔国の法によって裁かれなければなりません。公女殿下の誇りも大切でしょうけど、ここはアシュラムではなく眞魔国です。我が国には我が国の法がある。他国の法を蔑ろにするような発言は謹んで下さいね」 ……ただ問題は、その法律なんだよねえ……。 ハッと目を瞠り、気迫が一瞬で崩れたのだろう、狼狽えるエヴァレットを視界の隅で眺めながら、村田は内心でため息をついた。 ……これからが大変だよ。…全くもう……。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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