愛多き王様の国・14−1 |
「……もう、なんて言っちゃいけないのは分かってるんですけど……お別れするのは寂しいです」 「ありがとうございます、陛下。……私共にそのような温かいお言葉……。涙が出るほど嬉しく存じますわ」 ユーリの言葉にしみじみと答えたのは、アシュラム公領の公女、エヴァレットであった。 彼女の隣にはアシュリー伯と大神官が座っている。その2人も公女の言葉に合わせて、深々と頭を下げた。彼らの背後に控えて立つ乳母母子もまた同じく、感謝の思いを瞳に溢れさせ、心を込めて腰を折っている。 「出立はいつなされるご予定ですか?」 「明朝出発いたします。港から船に乗るのは少々先のことにになるかとも思いますが……。ですが今回の事の顛末を、一刻も早く国に、私自身の言葉で報せたいと存じます」 村田の質問にエヴァレットが答える。 「明日の朝!? そんなに急に……」 驚くユーリに、微笑を浮かべたままエヴァレットが頭を下げた。 「……本来なら、お別れの夜会などを開催できれば良かったんですけどね」 残念そうに言う村田に、「とんでもございませんわ」とエヴァレットが首を左右に振った。頬には苦笑が浮かんでいる。 「上王陛下もそのように仰って下さいましたが、遠慮させて頂きました。……アシュラムの代表者といたしまして、これ以上皆様のご好意に甘える訳にはまいりません」 「エヴァ様達が悪いわけじゃ……」 身を乗り出して言うユーリに、アシュラムの人々の笑みがわずかに哀しげなものになる。 「ありがとうございます、陛下。ですが、今回はこのまま失礼させて頂きます」 きっぱりとしたアシュラム公女の言葉に、ユーリの口からため息が漏れた。 わずかに肩を落とし、視線を伏せたユーリだったが、間もなく「分かりました」と顔を上げた。そしてそのままその視線を自分の肩の上に向けた。 「お前ともお別れかあ……。ホントに寂しくなるなあ」 ザイーシャ。 呼びかければ、魔王の黒衣の肩を止まり木にする「神の鳥」もまた、哀しげに「ぐるるん……」と喉を鳴らした。 「けどお前はアシュラムの守護鳥だもんな。……ザイーシャ、アシュラムの国と民を、しっかりと護るんだぞ?」 指で喉を掻きながら、小さな顔を覗き込んでそう言うユーリに、一瞬見惚れた様に黄金の鳥が目を瞬く。そして次の瞬間、「ぐるんっ!」と声を上げると、ザイーシャはユーリの頭に飛び掛……抱きついた。 内心「顔じゃなくて良かった」と思いつつ、よしよしと頭のてっぺんにへばりつく鳥の頭を撫でてやりながら、ユーリはふと自分の背後に立つコンラートに顔を向けた。 婚約者なのだからと、いくら言っても護衛としての立場を崩そうとしないコンラートは、見上げるユーリに優しい笑みを投げ返す。 「コンラッドも寂しいだろ? 近頃ザイーシャとすっごく仲良しだったもんな!」 周囲の雰囲気が微妙に固まったことにも気づかないまま、全開の笑顔で見上げれば、名付け親で護衛で野球仲間で婚約者の男は、やはりにっこりと笑を深めて頷いた。 「仰せの通りです。これきりザイーシャがいなくなると思うと、何だか張り合いがなくなると申しますか……。残念ですね。しかしまあお前も……」 コンラートの目が、ユーリの頭に全身にしがみ付きつつ自分を見上げる鳥に向けられる。 「鳥にしては頑張ったな」 どういう意味だろう? とユーリが首を傾ける間もなく、ザイーシャが突然、ユーリの頭から飛び上がった。 「ザイーシャ!?」 ふわりと宙に浮かんだザイーシャは、そのまま、コンラートの目の前でゆったりと羽を動かし、ホバリングを続けている。 じっと自分を見つめる鳥の目を怪訝に見返してから、コンラートはそっと自分の腕を差し出した。 その腕に、ザイーシャがゆっくりと身を委ね、羽を畳む。爪を立てるでもなく、ただ自分の腕に身体を任せるザイーシャに、コンラートは思わず目を瞠った。 一体何が起こるのだろうと、その場に集まった全員の視線が集中する中で、ふいにザイーシャが片羽を上げた。そしてそのままその羽で、ぽんぽんとコンラートの肩を叩く。 まるで人が友人の肩を叩くかのように。 「そういうお前も、人にしては頑張ったな。なかなか感心したぞ」 コンラートの肩に羽を置いて、うんうんと頷く鳥。それからおもむろに羽を引っ込めると、くんっと胸を張る。 「しかしまあ、俺に比べればまだまだだがな」 また大きくゆっくりと頷くと、ザイーシャは片方の羽を伸ばし、今度はコンラートの胸に触れ、またとんとんと、拳で叩くように軽く動かした。 「次に会う時まで、しっかり修行するんだな。次回の健闘を祈る」 「…………申し訳ありませんが」 コンラートの口から、どことなくうんざりした声が絞り出された。 「何なんですか、今の」 猊下? コンラートが横目で見た先には、魔王陛下の隣に座り、たった今奇妙な1人芝居を終え、果汁をストローでちゅるちゅると啜っている大賢者がいる。 「何って……ザイーシャの心の声を翻訳してみたんだけど?」 ぴったり合ってただろ? 一見無邪気に笑い掛けられて、コンラートはげんなりとため息をついた。 ……全然現実と合ってないじゃないか。それなのに。 何なんだ、この鳥の妙に満足そうな胸の張り具合は。 ……やっぱりとっとと焼いといた方が良かったか。 「なあ?」 思わず腕に止まるザイーシャを睨みつけてしまったコンラートの耳に、どこかきょとんとした声が響いてきた。 「今の村田の、えーと、ザイーシャの? セリフ? それ、どういう意味だ? 頑張ったって? 健闘を祈るって?」 一瞬ピクッと空気が固まる。 「なんだ、陛下は知らなかったのかな?」 「げ、猊下…!?」 焦るコンラートを無視して、村田がユーリに笑顔を向けた。 「ザイーシャはねー、一国を守る神の鳥としてさらに実力を高めるべく、ウェラー卿と鍛練に励んでいたんだよ?」 「えぇっ!? そうなの!? おれ、全然知らなかったよっ。コンラッド、そんなのしてたなんて、おれに全然教えてくれなかったじゃないかー!」 「……あ、えーと……申し訳ありません……」 「それで? 鍛練って……コンラッドとザイーシャがどんな風に?」 「ウェラー卿はもちろん剣で。ザイーシャは爪と嘴と空中攻撃で対応してたねー」 「わー。おれ、見たかったなー! なあなあ、今からでもそれを……」 「あー渋谷君? それは置いといて、アシュラムの皆さんをほったらかしにしちゃ駄目だろ?」 あ、ととと、とユーリが客人達に顔を向ける。 慌ててしゃんと姿勢を正す魔王陛下に、エヴァレット達がくすくすと笑い出した。 「それにしても……」 笑っていたエヴァレットが、何を思ったのか、ふと表情を変えて呟いた。 「こうして笑ってお別れできるとは、思っておりませんでした」 しみじみとした声音に、ユーリは一瞬目を瞠ってから、柔らかな微笑を浮かべて人間の公女を見つめた。 「エヴァ様も、皆さんも……大変でしたね。……って、ごめんなさい、おれったら他人事みたいに」 いいえ、とエヴァレット達もまた笑みを浮かべて首を振る。 「我がアシュラムの民が仕出かした事。陛下には、ただひたすらご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げるだけでございます。陛下だけではなく、この眞魔国の民、全ての方々に、本当にご迷惑とご心配をお掛け致しました。それなのに……」 微笑むユーリの目を見つめ、それから改めてエヴァレットは目を伏せた。 「あのような結果になるとは……。今朝、あの判決を耳にしました時は正直……」 驚きました。 エヴァレットの短い言葉に、アシュラムの人々が揃って大きく頷いた。 判決の朝。 王都は異様な緊張を孕んでその日を迎えた。 すでに世論は大きく様変わりしている。 もちろん、暗殺未遂犯を全員処刑すべきだという意見もしっかりと残っている。だが、それ以外の意見も様々な形で主張され、意見が違うということで一方的な批判を受けることや、まして声の主が迫害を受けるような状態は解消されていた。 上級裁判所には、当事者である被告、控訴人、代弁人を除けば、記録的な競争を勝ち抜いた一般傍聴人の他、貴族、学者などの有識者、新聞等の関係者などが立錐の余地もないほどに集結し、息苦しいほどの熱気に包まれている。 そして。 「ただ今より、法廷番号第778番の判決を申し述べる」 裁判官の声と木槌の音が、法廷内に鋭く響き渡った。 被告席では、6名の暗殺未遂犯達が、緊張を隠すことなく立っている。いや、唯1人、首謀者である男だけが、全てを覚悟した穏やかな表情で瞑目していた。 そして法廷の両脇では、公訴人と代弁人が被告を間に向かい合い、姿勢を正して席に着いている。 再び木槌の音が響いた。 「……被告6名は、魔族『シブヤ・ユーリ』を計画的に殺害すべく、眞魔国に入国した。そして機を捉え、子供達の発明展会場前の広場でそれを実行に移した。しかしこれに失敗。捕縛されたものである。罪名は殺人未遂」 首席裁判官の目が、6名をざっと眺め渡す。 「この罪が突発的、衝動的に起きたものではなく、周到な計画の上でなされたこと、そしてまた、犯罪を実行された場所が、罪もない子供達が大勢集まる広場であったことは、非常に重大な問題であると考える。だがしかし、彼らの行動が、数千年に渡る魔族への誤解に基づいた宗教、そして教育によるものであること、そしてこれら人間社会における魔族観の重大な過ちが、被告達の責に寄るものではないこともまた明確な事実である。この事実、また、被告全員が己のみならず、人間全ての魔族に対する認識の過ちを認め、事件に関しても心からの反省と謝罪を表明していることは、罪を宣するに当って、十分酌量すべき事柄であると考える。よって、当裁判所は、以下の通り判決を申し渡す」 そこで裁判官は、大きく息を吸って胸を張った。 そして、被告の内、首謀者として直接剣を奮った男の名を読み上げると、「シブヤ・ユーリ殺害計画の指導的役割を果たしたこの者に対し」と続け、わずかに息を止めた。 「……懲役、5年を申し渡す!」 おおおっ!! 法廷がどよめき、人の波が不規則に畝る。 代弁団席からは、安堵のため息が一斉に漏れる。 ホッと肩の力を抜いたハウエル先生が視線を向ければ、被告席では刑を申し渡された男が、そこで初めて目を大きく見開き、唇を震わせていた。 判決文の読み上げは続く。 首謀者の男に続いて、3名の未遂犯には懲役3年を、そして残る2名には。 「この2名は、16歳と17歳という若さである。16歳で成人する眞魔国において、人間の寿命を鑑みたとしても、その罪を免れる訳にいかないと判断するが、その若さは十分考慮すべきであろうと考えられる。また、6名の中において、この2名はほとんど他4名の雑用を片付ける程度の役目しか与えられておらず、シブヤ・ユーリ殺害計画において、何ら積極的な役割を果たしていないと考えられる。以上より、当裁判所はこの2名に対して、懲役に処するよりは魔族の社会に立ち混じり、その理解を正しく深めることこそ相応しいと考える。よって両名には、2年間の眞魔国内における勤労奉仕を命じる!」 ハウエル先生の背後で、クルト先生のほーっというため息が響いた。 法廷内にも、ため息とざわめきが一杯に溢れている。 ぽんと、ハウエル先生の肩が叩かれた。隣を見れば、オーレン先生が友人の肩に手を置いたまま、にっこりと笑っている。 「やったな」 「……おう」 滅多にないほど素直に笑みを交し合うと、2人の法学者は正面を向いた。 被告席では、2人の少年が懸命に背筋をのばそうと頑張りながら、涙に顔を濡らしていた。ふと見れば、並んで立つ少年達の手はしっかりと握り合わされていたる。 「………心細かったろうよ」 「ああ、そうだな。……勤労奉仕となれば、我々としても行き先などをきちんと見届けてやらねばなるまいな」 確かに、とハウエル先生が頷いた時だった。 「判決について、上級裁判所首席裁判官として一言述べておきたい」 裁判席から上がった突然の言葉に、わずかなざわめきが起こった。 立ち上がり、さっそく判決を外に報せようとしていた新聞関係者や一般の傍聴人、そして公訴人や代弁人が急いで席に着く。 法廷内に静けさが戻った。 「我々上級裁判所裁判官は、此度の判決をなさねばならなかったことについて、甚だ遺憾に存ずるものである!」 人々が一斉に顔を見合わせた。 ハウエル先生達の表情も一気に引き締まる。 「此度の事件は、まさしく魔王陛下の尊いお命を狙ったものであり、我が国を混乱に貶めようとする悪意によって発生した許すべからざる大罪である。罪もない子供達が傷つく可能性があったことも、実に許しがたいと考える。しかし、先だって首席代弁人のハウラン氏がいみじくも言葉にした通り、我が国には魔王陛下に対する罪を特別に定めた法が存在していない。法が存在していない以上、この罪を裁く根拠となる法は、至極一般的な殺人及び殺人未遂に関する法のみである。この法を適用するにあたっては、被害者が魔王陛下であることは、罪の大小を決定する何の理由にもならないことは明白である。したがって、此度の被告に対し、我々はこれ以上の罰を与えることができないと判断した。法に照らせば当然のことと、法学者であり裁判官である我らは判断するが、だがしかし、一個人としては、あまりの理不尽に腹が焼けるような痛みと怒りを感じることもまた事実である…!」 上級裁判所の判事が、こんな感情的なセリフを口にするとはな。 思わず呟くハウラン先生の隣で、さもあろうよとオーレン先生が応える。 「……魔王陛下に対する罪を定めた法が存在していない。これは紛れもなく法の瑕疵であり、我が国の国体の根幹を揺るがしかねない由々しき大問題であると我々は考える。なぜなら、例え魔王陛下のお命を狙おうとも、一般的な罪しか適用されないとなれば、それを悪用しようとする輩がこれからも現れないとは限らないからである。したがって、我ら上級裁判所は、此度の事件に対する判決を先の様に決定すると同時に……」 一刻も早く、我が国の法の不備を是正するよう、国に対して強く訴えるものである! 「以上をもって、閉廷とする!」 人々のざわめきと木槌の音が混じりあい、法廷内に木霊した。 「……とにかく。終わったな」 お疲れさん。 ハウエル先生の短い、かなりぞんざいな労いの一言に、代弁団を組織した法学者、先生達が、揃って笑顔で頷いた。 「……判決の後、彼らに会いにいかれたそうですね?」 村田に質問されて、アシュラムの公女達は静かに頷いた。 「それが最初ではありませんが」アシュリー伯が、何かを思い出すようにしみじみと言った。「あの男が、初めて私達に対して頭を下げ、謝罪しました。大変な迷惑を掛けたと……。それまでは、何か覚悟を決めたように傲然と頭を上げていたのですが……。あの男を取り巻く空気が、驚くほど柔らかくなっていたようにも思います。あやつもホッとしたのでしょう」 「ホッとしたというか……」 グラスに残ったジュースの最後の雫を啜り上げると、村田がフッと口角を上げた。 「あの判決で、憑き物が今度こそ根こそぎ落ちちゃったってトコかな。彼が自分を守るために必死でかき集めていたものが全部なくなって、真っ白の空っぽになってしまったんだろうね」 真っ白の、空っぽ? 隣に座る親友に問い返されて、村田が「うん」と頷く。 「大丈夫。空っぽになったんなら、また新しいものを詰め込んでいけば良いのさ。そのための時間はたっぷりあるんだから。……5年が長いか短いかは人それぞれだけど、彼が生まれ変わるには十分な時間じゃないかな?」 穏やかな村田の言葉とその表情。 その場に集った人々は静かに瞑目した。 「とにかく、これで大公様も一安心でしょうね」 雰囲気を変えた村田の声に、エヴァレット達はフッと目を開き、それから頷いた。 「はい。判決の内容を知れば、父はもちろん、国の者も眞魔国の司法の公平さに、さぞ感じ入ることと思いますわ。皆様をよく存じ上げているつもりの私達ですら、あの判決には本当に驚きましたもの。……これで魔族との友好に批判的な者も、多くが己の考えの過ちに気がつくことでございましょう」 「だと良いんですけどね」 「我々も戻り次第、裁判の一部始終につきまして、国の者達に広く知らしめようと考えております。今回のことは、我がアシュラムと眞魔国の真の友好を更に深めるための、大いなる転機とすべきと考えております」 アシュリー伯の気合のこもった様子に、ユーリはもちろん、眞魔国の全ての人々が頷いた。 「あ、そうだ、エヴァ様」 「はい、陛下?」 身を乗り出したユーリに、エヴァレットが応える。 「あの人達の家族についてなんですけど」 「ああ……。確か、父が保護していると……」 はい、とユーリが頷いて、わずかに眉を寄せた。 「今度の事件で、とっても辛い思いをしていると聞きました。あの……おれ達は何もできませんが、その人達は何の罪もありません。穏やかに暮らしていけるようにして欲しいとおれが望んでいたと、その、大公様に伝えてください。それから、あの人達が罪を償って、それでアシュラムに帰ったら、やっぱりちゃんと暮らしていけるようにして上げて欲しいと……」 「陛下……!」 自分を暗殺しようとした一味はもちろん、その家族の行く末までも真剣に気遣う魔王陛下に、エヴァレット達アシュラムの人々は目を瞠った。彼らに襲い掛かるのは、胸を突くような衝撃と感動だ。 だが同時に、不安が彼らの胸の片隅に湧き起こってもいた。 ……これほどまでに稀有な王。 この人が、これほどの方だからこそ、世界は大きく変化を始めた。だが……。 この方をなくしてしまったら、この国は、世界は、一体どうなってしまうのだろう……? 「エヴァ様?」 「……あ、は、はいっ」 きょとんと見つめるユーリに、エヴァレットが慌てて居住まいを正した。 目の前に、少年でもあり少女でもある、美しくも愛らしい魔王陛下が小首を傾けて自分を見ている。 初めて会ったあの日から、少しも変わらない無垢な、冬の夜空の様に澄んだ漆黒の瞳。しかしそこに瞬くのは、凍てついた光とはかけ離れた優しい煌きだ。 大丈夫。 そんな言葉がふと胸に、ぬくもりと同時に湧き起こった。 大丈夫。 この方は私達の元からいなくなったりしない。絶対に大丈夫。 それに、この王が撒いた種は、確実に世界に芽吹いているのだから。 エヴァレットはにっこりと笑みを浮かべた。 「仰せのことにつきましては承りましたわ、陛下。父も、陛下のお心を決して蔑ろには致しません。陛下にご満足頂けるよう、きっと善処致しますことをお約束します。……陛下」 「はい、エヴァ様」 「法の改正など、陛下もこれからさらにお忙しくなりますでしょう。ですがまたぜひアシュラムに遊びにおいで下さいませね? アシュラムの民は、きっと陛下を心から歓迎いたしますわ」 「ありがとうございます! エヴァ様もまた眞魔国に来てください。楽しみに待ってます。……大公様にどうかよろしくお伝え下さい」 「はい、畏まりました。……陛下、猊下、皆様、本当にありがとうございます。どうかお元気で……」 「エヴァ様も、アシュリー伯も、大神官様も、それから乳母さんもアグネスも、また会う時まで元気でいてください!」 そう言ってユーリが差し出した手を、エヴァレットは「これが握手でございますのね」と握り返した。 「きっとまたお会いします」 「はい。きっと」 笑顔で別れを交わす2人を、眞魔国とアシュラム公領それぞれの人々が、確かな希望を胸ににこやかに見つめていた。 「……いい暮らしをさせてもらったが、ここともいよいよオサラバか」 宛がわれた邸の中で、最も長い時間を過ごした大広間の真ん中に立ち、腰に手を当てて、ハウエル先生はぐるりとその場を見渡した。 「色々あったが、ま、良い経験をさせてもらったぜ」 「確かにな。だがハウラン、まだまだ我等の仕事は終わっておらんぞ。彼らの送致を見届けねばならんし……」 「そうですわね。私の担当する子は勤労奉仕となりましたが、どのような形で行われるのか、これから話を詰めていかないとなりませんわ。それにできましたら私、アシュラムへ出かけて、彼らの家族にもきちんと報告したいと考えておりますの」 ハウエル先生の隣にはオーレン先生やクルト先生も立ち、大広間をしみじみと見つめている。 今、広間では、彼らの弟子達が書類の整理など、後片付けに大わらわになっていた。 「ところで、この邸はいつまで使わせてもらえるのだろうね。これで解散というわけには到底いかんと思うのだが……」 弟子達に片付けの指示をしていたハウザー先生が、仲間達の傍らに歩み寄って来て言った。 「そいつに関しちゃ、どうせその内トールが教えてくれるだろうさ。とにかく……俺達ゃ仕事の総仕上げについて、打ち合わせでもしとくか」 「それが良いね。改めて担当の割り振りもしようじゃないか」 「そうしましょう。ロードンとエルンストはどこに行ったのかな? あの2人はどうもまだ弟子気分が抜けんようだな。今回の仕事で、一人前の法学者としての自覚が生まれてくれれば良いのだが。……ところでクルト先生、本気でアシュラムへ行かれるおつもりですか?」 「ええ、オーレン先生。ぜひ私自身の口から……」 「あんた!!」 バンっ! という荒々しい音と同時に扉が開き、転がる様に飛び込んできた人影があった。 会話を交わしていた先生達、片付けに忙しく動き回っていた弟子達の動きが、ぴたりと止まる。視線が一斉に集中した先では、アニッサ夫人が血の気の引いた顔を引き攣らせ、よほど慌てていたのか、ドレスの裾をたくし上げた姿のまま、全身を強張らせて立っている。 「…ど、どうしやが……」 「あんたぁ! 大変だよぉ…っ!」 「父ちゃん!」 ハッとハウエル先生が顔を向ければ、扉の向こうから娘のジュリィも駆け込んできた。そしてその後ろから。 「失礼致します!」 きびきびとした動作で広間に入ってきたのは、どこからどうみても軍人だった。 えらく若い、だが士官らしい男が数人の兵士達を従え、つかつかと広間の中を進んでくる。そしてハウエル先生達の前で足を止め、ピシリと姿勢を正すと、素早く敬礼した。 「魔王陛下暗殺未遂事件における代弁団員ご一同とお見受けいたします。失礼ですが、首席代弁人のハウエル・ハウラン殿は……」 「……俺だが……?」 ハウエル先生が1歩前に進み出ると、士官らしい男が改めて、ハウエル先生に向けて敬礼をした。 「失礼致しました。本日は、御命令により、皆様、本件における代弁団員ご一同のお迎えに上がりました。ご同行をお願い致します」 「………迎え…? どこに、だい?」 「血盟城です」 ハウエル先生の背後で、仲間達の気配がざわりと揺れた。 「血盟城の……どなた様の御命令だい?」 「申し訳ありませんが、そのご質問に対してお答えすることは許されておりません。……外に馬車を待たせております。このままご同行をお願いします」 「今、全員と言ったね?」 ハウラン先生の隣に、ハウザー先生、そしてオーレン先生とクルト先生も並ぶ。 「はい。この邸にお集まりの法学者、法学生、全員であります」 先生方が素早く視線を交わす。 「……どなたに会うことになるのか分からんが、血盟城に上がるのに、このような粗末な姿でという訳にもいくまい。身だしなみを整えて後刻……」 「その必要はございません。御命令をお伝えしましたら、そのまますぐお連れするよう命じられております」 「それはつまり……私達を連行するということかしら?」 クルト先生がいつも通りゆったりとした物言いで質問した。士官達の表情が戸惑うように揺れる。 「いいえ。我らが命じられましたのは、代弁団員ご一同を血盟城にお招きするように、とのことです。連行ということではありません。ただ……」 「ただ?」 「拒絶は為されない方がよろしかろうと存じます。その……色々と……」 杓子定規の軍人にしては妙に歯切れの悪い言い方をすると、士官は自分の頭をポリポリと掻き始めた。その行為は全く無意識だったのだろう。先生方の呆れた視線に気づき、自分の手の位置に気づくと、若い士官は慌てて腕を下ろして気をつけの姿勢を取った。 「しっ、失礼しました! あ、あのっ、とにかくすぐさまご同行をお願いしますっ!」 その若さからいっても、もしかすると任官してから間もないのかもしれない。 頬を赤く染めた、直立不動の士官を見つめてから、ハウエル先生達はお互いの顔を見合わせ、それぞれの意志を確認した。 「血盟城の誰かとなれば、今この場で拒絶しても状況は変わらんのだろうね」 「意図するところが不明ですが、招待を断られたからと不快を覚えられても困りますしな」 「冗談じゃねぇ。名乗りもしねぇでただ来いたぁ、いくら何でも無礼ってモンじゃねぇか」 「それでも……行くしかないのでしょうね?」 クルト先生の言葉に、男性陣が押し黙る。 「私達、何も悪いことはしていませんわ。法学者として仕事をしただけですもの。お城のどなたが何を仰りたいのかは存じませんが、堂々とぶつかってみるのが1番じゃございませんかしら?」 見た目よりずっと当って砕けろ派だったらしい女性法学者は、ぽってりとした唇の端を柔らかく上げて、一見のんびりと若い士官を観察している。 その性格でさんざん怖い思いもしたはずなのに……と見れば、色っぽい法学者に見つめられた若い士官は、顔を真っ赤に染めて俯いてしまっている。 ……何だか、抵抗する気が削がれてしまった。 「……しょうがねえ。行くか」 お前さん! 父ちゃん! 広間を出ようとするハウエル先生に、アニッサ夫人とジュリィの切羽詰った声が掛かった。 考えてみれば、貴族と上手くやった試しのない先生だ。こともあろうに魔王陛下の居ます城に連れて行かれるとなれば、とんでもない災いが降りかかるに違いないと2人は恐怖しているのだろう。 「大丈夫だ。別に城の誰かと喧嘩しに行くわけじゃねえ。安心して待ってろ」 ……そうだろうか……? 魔王陛下を暗殺しようとした人間達の、代弁を行った自分達。その首席たる自分。 皆殺しにされてもおかしくなかった人間達を、一般の殺人未遂事件として裁くよう主張した自分達の存在を、苦々しく思っている者が血盟城にいても少しもおかしくはない。 「先生……!」 いつの間にか、隣にロミオがいた。 切羽詰った眼差しは、妻や娘と変わりない。……長年、夜逃げ人生を共にしてきた弟子なればこその不安だろう。 「僕が必ず御守りします! 何が起ころうと、必ず……!」 ただの田舎貴族じゃない。今度の相手は血盟城だ。 震える拳を握り締め、唇を噛み締めた弟子の不安と恐怖を如実に感じ取りながらも、ハウエル先生はその肩を軽く叩いて笑った。 「なーにを緊張してやがる。血盟城に上がれるなんぞ、滅多にねえ経験だぜ? じっくり観光してこようじゃねぇか。な?」 「先生……」 ハウエル先生、ハウザー先生、オーレン先生、クルト先生の4名を、彼らの弟子達が防壁を作るように取り囲み、前を行く軍人達の背中を睨み付けながらゆっくりと邸を出る。 前庭には、すでに数台の馬車が並んで彼らを待っていた。 「あんた、いいかい!? 立派な方を怒らせたりしないでおくれよ!」 「父ちゃん! 待ってるからね! ロミオ、父ちゃんを頼んだよ!」 妻と娘の声に送られて、彼らは馬車に乗り込んだ。 血盟城。 と言っても広い。 つい先ほどまで居た上級裁判所もまた、紛れもなく血盟城の敷地の一部にある。だが。 血盟城の中の血盟城、魔王陛下のおわします城にはそうそう足を踏み入れることはできない。 「さすがに……城だなあ……」 我ながら間の抜けた感想だとげんなりする。輝く頭頂をバリバリと掻き毟りながら、ハウエル先生はため息をついた。 馬車からは次々に仲間達が降りてくる。 その途端、全員が目の前に現れる城の威容にぽかんと口を開け、緊張も忘れて呆然と見惚れている。 「……田舎者丸出しだわなあ」 「他人事のように言うな」 気がつけば、隣にオーレン先生がいて、一緒になって城の天辺を見上げていた。 「思っていた以上にでかいな」 「全くだ。しかしここはまだただの表玄関だろう? さてこれから……あの士官はどこへ行った?」 視線を巡らせれば、馬車が停められた城の前庭には、多くの兵士や城で働く者達がいて、ちらちらと興味深げな視線を送ってくる。 自分達を連れに来た士官を探してハウエル先生がきょろきょろとすると、「先生!」と呼びかける弟子の声がした。 「ロミオ?」 振り返ってみれば、ロミオが師匠とは全く別の方向を凝視している。 ハウエル先生とオーレン先生が、その視線を追う。 「…………おい? ありゃあ……」 「やっほー! 先生。いらっしゃいませー」 場にそぐわないといえば、とんでもなくそぐわないお気楽な声が飛んできた。 「………てめぇ……」 思わず声が低く、加えて口調も悪くなる。 彼らの前方、巨大な表玄関に、あの少年の1人、性格のわる……ふてぶ……常に冷静沈着な方、ケンシロウがにこやかに手を振りながら立っていた。その隣にはトールもいる。ついでに、いつものお供の1人、朱色の妙ちきりんな色の髪をした男も。 「どーもどーも。わざわざご足労下さいまして、ありがとうございますー!」 口調は丁寧だが、どうも人を小バカにしている様な軽薄な口調に、ハウエル先生の唇がひん曲がった。 「……まさかと思うが……俺達をここに呼んだのはてめぇじゃあるめえな……?」 「僕達、ですよ?」 てめぇと呼ばれたことに気づかないはずもないのに、ケンシロウはにこにこと笑ったままだ。 半歩後ろに控えるトールとお供の男は、不愉快な顔をすべきなのか、それとも苦笑していいのか、判断がつかずに困っているらしい。えらく複雑な表情をしている。 「どうしてそれを最初に教えなかった!? それに…どうして血盟城なんだ!?」 全員が抱いているに違いない疑問を口にしてから、ハウエル先生は「そうか」と声を上げた。腹からいまにも溢れそうだった怒りが、その思いつきにふっと治まる。 「どうやら……ついにお前さん達の親か、でなけりゃあ、お前さん達の後ろで、今度のことを計画したお人に会わせてもらえるようだな?」 だからこそ血盟城なのだろう。やはりよほどの地位にある貴族だったのか……と、ハウエル先生が納得しかけたその時。 「違いますよ?」 ケンシロウがあっさりと否定した。 「だったらどうして…!?」 同じ思いでいたらしい。疑問はハウエル先生の隣、オーレン先生から飛び出した。だが、ケンシロウは笑顔のまま、軽く肩を竦めてみせる。 「ここには、いいえ、この世界のどこにも、僕と彼の親はいません。僕達の後ろにも、もちろん上にもね。いるのはお供の彼らだけ、ですよ」 どういうことだ……? ハウエル先生はもちろん、その場に集まる法学者一同が不審感も露に目の前の少年を見つめる。 「まさか……今回のことをは全て、君達2人の計画だった、と言うのではないだろうね……?」 おずおずと尋ねるハウザー先生に、ケンシロウがにっこりと笑って頷いた。 「その通りです、ハウザー先生。親の名代としておいた方が納得してもらいやすいと思ったものですからね。あなた方を集めたのも、ハウエル先生が首席代弁人になるよう画策したのも、実は僕達ですよ」 「あれだけの手配を君達が!? 誰から命令されたのでもなくかね……!?」 ええ、もちろん、とケンシロウが笑う。 「言ったでしょう? 僕達の背後にも、上にも、誰もいません。この世界のどこにも、僕達2人に命令できる者など存在していないのですよ」 「…な、に……?」 少年の、不穏な、胸を胡乱に掻き乱す言葉に、法学者達は異様な緊張に包まれた。ほとんど本能的な危機感に、思わず身構えるハウエル先生。 くすっと笑ったケンシロウが、自分の目元に手をやった。 少年の両手が、目元を妙な仕草で弄ったと思ったその時、何か小さなものが少年の掌に転がり落ちた。青い、何か。それ受け止めてから、ケンシロウの手がもう片方の目に動く。……同じ様に青い小さなものが掌に落ちる。 それから、目を閉じたままの少年は顔を上げ、金髪に手を差し入れ、そして……。 金色の髪が、するはずのない動きをして、少年の頭から取り払われた。 同時に、閉じたままだった目が、ぽかりと開く。 「改めまして、こんにちは。ケンシロウことムラタ・ケンです。僕の名前は知っているかな?」 ま…まさ、か……。 誰かがうわ言の様に呟き、誰かがヒュウッと鋭い音を立てて息を吸い込んだ。 まさか……だいけん……じゃ……。 「………先にお1人でバラしちゃったら、陛下ががっかりするんじゃないですかー…?」 村田の耳元で、ヨザックがコソッと囁く。 ふふ、と大賢者の形の良い唇から楽しげな笑いが漏れた。 彼らの目の前では、今、この瞬間にも心臓発作を起こしてぽっくり、になってもおかしくない驚愕の表情を顔に貼り付け、顔面の皮膚が破れそうな程に目を見開き、口をあんぐりと開け、驚きか恐怖かに全身を戦慄かせ、または凍らせ、声にならない悲鳴を上げ……とにかくもう、心も身体も大混乱な一同がいる。 「良いじゃないか、いつも渋谷が1人で楽しんでいるんだから。たまには僕だって、黄門様や金さんの役をやってみたいよ」 最後の一言に、透が思わず吹き出す。 「それにしても」 ショックを受けた状態から少しも変化しない学者達の姿をじっくり眺め渡してから、村田がしみじみと言った。 「正体をバラす瞬間って、期待した以上に楽しいなあ。我ながら驚いた。ウチの陛下はもちろん、黄門様や将軍様や金さんがお忍びを止められない気持ちが良く分かるよ」 やみつきになりそうだ。 「……悪趣味ですよ、猊下」 くすくすと笑う村田に、法学者達とそれなりに付き合ってきた透が思わず言った。とはいえ、考えてみれば魔王陛下も同じ事を何度か行っているのだ。その姿を透も目にしたことがある。だがユーリの場合、どうも今の村田とは根本的に何かが違うような気がする。 ……人柄だろうか。 ふと思いついた言葉に、透は思わず口を手で押さえた。頭に浮かんだに過ぎないのに。 僕は何をやっているんだろうと視線を村田に向ければ、なぜか村田は透を見上げ、やっぱりくすくすと笑っていた。 ………全てを見透かされている。たぶん。 「猊下、どうぞ」 ヨザックが、ずっと手に持っていた黒い布を村田に差し出した。 大賢者のローブだ。 笑顔のままそれを受け取り、ふわりと身に纏うと、村田は改めて法学者達に目を向けた。 「来たまえ、君達。魔王陛下がお待ちだ」 つい今しがたまで見せていた、無邪気な少年とは対極の眼差し、そして、従わずにはおれない威厳に満ちた声。 ローブを翻し、踵を返すと同時に颯爽と歩き出す村田、そしてヨザックと透の後ろから、驚愕と恐怖の表情を浮かべた一団が、どこからどう見ても操り人形さながらに、ぎくしゃくと進み始めた。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
|