愛多き王様の国・14−2 |
「なんてこったあーっ!!!」 なんてこったなんてこったなんてこったあ……! まるで呪文の様に繰り返しながら、ハウエル先生が頭を抱えて地に突っ伏し、額を地面に打ち付けていた。 ハウエル先生の傍らには、地面に膝をつき、師匠を庇うかのように寄り添うロミオが、色をなくした顔を引き攣らせ、唇を震わせながら、瞬きもせずに前方を凝視している。 他の法学者、法学生一同に至っては、言葉を発する力もなくしたかのように呆然と目を瞠り、揃いも揃って地面にへたり込んでいた。そしてある者は脱力し、ある者は頭を抱えて夢を振り払おうとするかのように顔を左右に振りたくり、クルト先生の弟子である女性達は、全員で抱き合ってすでにさめざめと泣き出している。 彼らの様子に、一身に注目を、それも異様な熱を孕んだ眼差しを向けられている人物は、困り果てたように頭を掻いていた。 「………ええっとー……あのー……」 血盟城内にある、魔王陛下の私的な行事に使われる庭に設えられた席で、今のいままでくつろいでいた双黒の魔王陛下は、隣に座った相棒をちろりと横目で睨んだ。 「むらたー。お前、皆を迎えに行って何やったんだよー。……それに迎えに行く前はかつらやカラコンつけてなかったか?」 「そうだっけ? それにしてもさ、渋谷、学者ってのはアレだね、想定外のアクシデントに弱いよね。理屈ばっかり捏ね回してる頭でっかちはこれだからダメだよねー」 ケロリと笑う村田に、こいつは…とため息をついてから、ユーリは立ち上がった。そしてそのまま思い思いの方法で(?)襲い来る衝撃と戦っている法学者達に向かって歩き始めた。 黒髪に黒い瞳、柔らかな黒い長衣に身を包んだ、もうすっかり見覚えた人物、「シンノスケ」が近づいてくることに気づいて、ロミオが反射的に顔を地面に伏せたままの師匠の背を、それこそ力任せにぶっ叩いた。 「せっ、せんせ、先生! 先生っ!! 先生ってばっ!!」 へ? とどこか間の抜けた声をあげ、ハウエル先生が伏せていた顔を上げる。 ブルドックのような顔のあちこちに土がついているが、もちろん気づかない。 すぐ側で腰を抜かしているオーレン先生が、ごくりと大きく喉を鳴らした。 ハウエル先生、ロミオ、オーレン先生、ハウザー先生、そしてクルト先生のすぐ目の前で、その人が足を止めた。 その愛らしい顔には、どこか申し訳なさそうな苦笑が浮かんでいる。 「先生、皆さん、お疲れ様でした! それから……長いこと、騙すような真似をしてすみませんでした! やっぱり、その、俺達が表立って先生たちを援助するわけにはいかなくて……ほんとに」 ごめんなさい! ぺこんっと勢いよく頭を下げて謝る双黒、黒衣の少年に、パニックに陥っていた人々の動きがぴたりと止まった。というか、恐慌状態の姿のまま固まってしまった。 「………魔王、陛下で…いらっしゃいますか……?」 聞かでもがなの質問を口から絞り出したのは、最年長のハウザー先生だった。 つい昨日、ちょうど今頃の時間、同じ卓についてお茶を飲みながら話をしたはずの少年。それが……。 細い、震える声を耳にして、黒衣の少年は柔らかく微笑んだ。 「はい。……自己紹介が遅くなって済みません。何だか今さら照れくさいんですけど……おれ、ユーリです。一応というか何というか、魔王です。それからもう分かってるかと思いますけど、あいつが大賢者の…………こらーっ! 村田ぁ! お前、何1人で先に食べてんだーっ!」 いきなりの陛下の怒鳴り声、に、法学者達は飛び上がった。 ……今の今まで彼らは気づかなかったが、実はその庭には地球的に言うところのガーデンパーティー、つまり立食用にテーブルと、様々な料理がセッティングされていたのである。 そこでもう1人の双黒、ケンシロウことダイケンジャー村田がすでにつまみ食いに勤しんでいた。 「味見だよ、あーじーみー。……ったくもう」 右手に飲み物を入れたグラス、左手に何か食べ物を持ち、口をもぐもぐさせながら大賢者がやってくる。 グラスを呷り、喉をこくんと鳴らしてから、村田がいまだ地面にへたり込んだままの法学者達に呆れた眼差しを向けた。 「いい加減にしたまえよ、君達。いつまでそんなところに座り込んでいるつもりだい?」 村田に見下ろされて、法学者達が呆然とその顔を見上げる。 「………何、ゆえに……」 魔王陛下と大賢者猊下を震える眼差しで交互に見つめながら、ハウザー先生がおずおずと尋ねた。 村田がやれやれとため息をつく。 「言っただろう? 僕達は今回の事件で、あの人間達に対して法に則った裁きをして欲しかったんだ。相手が魔王だからという理由で、法を曲げるような真似をせずにね。我が国の法律に不備があることは分かっている。それを一刻も早く何とかしなくてはならないことも分かっていた。ところが法律改正の準備を整える前にこんな事件が起きてしまってね。残念に思ったけれど、僕達はそれをある意味で利用することにしたんだ」 「つまり」 大きく息を吸い込んでから、オーレン先生が声を上げた。 「法の不備を白日の下に晒して、それを是正する必要性を国民全体に知らしめようとなされたわけですな」 「そういうこと。だから何としても君達には頑張ってもらいたかったんだよ。とはいえ、僕達が表立ってそれを表明するわけにはいかなかった。下手をすれば司法への介入になってしまうからね」 だから、できる限りの援助を匿名で行ったということさ。 法学者達が、ようやく得心したと言いたげに、大きく肩を揺らし、息を吐き出した。 「……なんてぇこった……」 はーっと人一倍大きなため息をついて、ハウエル先生ががっくりと肩を落した。 衝撃から脱しかけて、やや脱力気味の法学者一同。 だがそこに、新たな爆弾発言が降って落された。 「そろそろ地面と仲良くするのは止めたらどうかな? そこに椅子があるんだから座りたまえ。そうしたら、僕達の本当の狙い、君達が見事に言い当てた陰謀について話をしよう。言っておくけど、今さら逃げようとしても無駄だからね」 庭には、料理や飲み物を取り揃えた大きな卓が1つと、数人ずつで座る事のできる小さな丸い卓がいくつか用意されている。 小さな卓は、法学者とその弟子達全員が座るだけの席を用意してくれたらしく、今、法学者、そしてその弟子達は、思い思いに椅子に座り、自分達と相対している人々を、緊張した面持ちで見つめていた。 大賢者猊下の口から飛び出した「陰謀」の一言が、法学者達を恐怖にも似た緊張で縛っている。 正面に座る魔王陛下と大賢者猊下、そしていつの間にか増えていた3名の人物が、彼らの恐怖をさらに煽っていた。 1人は見知ったフォンビーレフェルト卿ヴォルフラム閣下。そして後2人。 その2人が、フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下とフォンクライスト卿ギュンター閣下と聞かされて、あまりに高名な、高名すぎて実在している実感すらない宰相閣下と王佐閣下であることに、ハウエル先生達は眩暈を感じて頭を抱えた。 加えて、「坊っちゃん達」のとうに見知ったお供の1人が、偉大なる英雄ウェラー卿コンラート閣下と知らされた時には、間断なく襲い掛かる衝撃に、法学者達の惑乱は限界にまで達してしまったのである。 「すごい顔をしているね。ワインでも飲むかい? 別に飲みながら聞いてもらっても、一向に差し支えはないよ」 唯1人、立ったまま話をしている大賢者に尋ねられたが、皆顔を引き攣らせるだけで応えようとしない。が。 「………頂くとするか」 いきなりそう言って立ち上がったハウエル先生の腕を、隣に座っていたオーレン先生が「おい!」と掴む。 「ハウエル先生」村田が声を掛ける。「座ったままでいいよ? メイドさんが適当なものを選んで……」 「申し訳ありませんがね、猊下」 大賢者猊下の言葉を途中で遮り、オーレン先生の手を振り払うと、ハウエル先生は構わず席を離れた。 「末期の酒になるんなら、さっき目に入ったとびきりのヤツを頂きたい。あんな高い酒、もう2度と飲めそうにねえしよ」 先生! 弟子達の別席に控えていたロミオが、師匠のあまりに無礼な言葉に声を上げる。が、ハウエル先生はあっさりと無視した。 そして料理と酒が並ぶ卓の前に立つと、「ついでだ」と言って皿に料理を山盛りに盛りつけ、目をつけていたという酒の瓶を鷲掴みにして席に戻った。 どっかと椅子に腰を下ろすハウエル先生を、村田がにこやかに見つめている。 「ハウエル・ハウラン。本当に面白い男だね、君は。…じゃあ先生はどうぞ食事をしながら聞いて下さい。あ、お酒はどうぞゆっくりと味わって下さいね。といっても、別に末期の酒にはなりませんから。他の先生方もお弟子さん達もどうですか? 食事もお酒も、別に気にしなくていいんですよ? ………いないのかな? では他の方の食事は後にしてもらって、話を始めよう」 「……い、今、何と仰せに……」 ハウザー先生が、驚きに目を瞠り、震える声で確認した。 「法務を行政諮問委員会から分離する。そして、法務を統括管理し、同時に、我が国に現在ある法の不備を徹底的に精査し、その改正を、いいや、全く新たな、より完成された法律の制定を目指す専門的な機関、仮に『法務庁』と呼ぶが、これを血盟城内に設置する。……何を驚いているんだい? その必要性を訴えたのは君達だろう?」 卓と卓の間をゆっくりと歩きながら、村田が詠うようにその計画を口にする。そして最後にハウザー先生達を見下ろし、にっこりと笑いかけた。 「そ、その…法務、ちょう、に我々を……?」 そう、と村田が再び頷く。 「この事件が起きた時、そして世論が狂ったように人間達の処刑を求めた時、僕達は失望しそうになった。法というものに対しての我が国の民の意識はこうも低いのかってね。何せ、法学者を名乗る人達ですらあんな調子だったしねえ。正直、かなりの危機感を覚えたんだよ。だが同時に、これは好機だとも思った。我が国の民の全部が全部、低い意識のままでいるはずがない。不完全ながらもちゃんと法律がある以上、そして裁判制度や代弁人制度がある以上、あるべき姿を弁えている人がいるはずだとね。……先ほど僕は、法律改正の準備に入ろうとしていたことを言ったよね?」 ぐるりと見回され、法学者達ががくがくと頷く。 「そう、僕は一刻も早くその作業に入りたかったんだ。でも重大な問題があった。人選だ」 またゆっくりと歩きながら、大賢者が言葉を続ける。 「官僚の中にも人はいるだろう。もちろん行政諮問委員会の中にもいる。例えば、そこにいるお馴染みのスズミヤ・トール君は、れっきとした行政諮問委員会の委員であり、優秀な法務担当官でもある」 ハッと顔を上げた法学者達の視線が、脇で控えるトールに向いた。視線を受け、笑みを浮かべたトールが軽く頭を下げた。 なるほど、そうだったのか……! オーレン先生が頷きながら呟いた。 「十貴族会議に諮れば、おそらく優秀な法学者を推薦してくれるだろう。だが、それでは駄目だと僕達は考えた。必要なのは、権力の紐付き学者じゃない。広い視野と見識を備えた、むしろ在野の人物だ。民の声を直にその耳で聞いて、民のためになすべき事をなしてきた者だ。だが、これを国中から集めるのは至難の技だよ。分かるだろう? ……今回の事件は、その意味でも素晴らしい好機だったんだよ」 にっこり笑った大賢者に対し、「なるほど……」とオーレン先生がため息と共に呟いた。 「失礼ながら、陛下がご自分の命を狙われたことに、まるで無関心の様であらせられた意味がようやく分かりました。陛下も猊下も、あの時点において、そのご関心は全く別のところに向いておられた訳ですな」 そういうこと。村田が頷く。 「頭が働いてきたね。そう、あの時点で僕達の関心は、君達が僕達の願いを託するに値する人物なのかどうか、そこだったんだよ」 「合格した、ということでしょうか?」 クルト先生が村田を見上げて尋ねる。 「及第点、ギリギリといったところかな? あの時点ではね。しかしまあ、あの最終弁論は悪くなかった。特定できる個人を例に出したところがちょっと減点対象だけれど、民には理解しやすかったようだし、考える良いきっかけになっただろう。という訳で」 僕達は新たに創設される『法務庁』に、あなた方を招聘します。 「ぜひ受けてもらいたい」 最後の一言に、法学者達が全員、は〜っ、と息を吐き出し、今度こそ最大限に脱力した。椅子から滑り落ちそうになって仰け反っている者もいるし、卓に突っ伏した者もいる。 「……一体何を想像してたんだろう? 一気に脱力しちゃってる、よね?」 もっとビックリすることを期待、じゃなく、想像してたんだけど。 首を捻るユーリに、背後に控えていたコンラートがくすくすと笑った。 「どうやら本当に『陰謀』があるんじゃないかと疑っていたようですね。そちらの方の安心感が強くて、自分達が何に招かれたのか、まだ全く分かっていないようです」 「そっか……」 ちょっとがっかりー。ちっちゃく唇を尖らす魔王陛下に、「バカ者」と、グウェンダルがお茶のカップを傾けながら小さく呟いた。 「………それが…陰謀……」 ナイフや先割れスプーンを筋が浮き出るほど強く握り締めていたことにも気づかないまま、ハウエル先生もまたがっくりと肩を落した。 正直なところ、重大な仕事に任命されたという驚きは、まだ全く実感できない。むしろ、陰謀が実際に恐るべき「陰謀」でなかったことに、ただひたすら安堵していた。この点は、コンラートの推測通りである。 だがそこで。 「ああ、いけない、僕としたことが。一番大事な事を忘れていた」 大賢者が、ぽんと手を打って言った。 「法務庁の最高責任者、つまり長官だけど、ね? 陛下?」 くるっと振り返った大賢者にパチンとウィンクされて、魔王陛下は「うん」と頷いた。 「法務庁の長官には」 魔王陛下のお言葉に、法学者達もさすがにしゃっきりと背筋を伸ばす。 「ハウエル先生。あなたにやってもらおうと思います」 はああっっ!!? ガシャーンと音を立てて、先割れスプーンとナイフが落ちた。 「あ、ウケた。じゃない、びっくりしてる」 自分の言葉に驚いてもらえて、ちょっと嬉しそうな魔王陛下の視線の先では、目をこれ以上ないほど瞠り、今にも顎の外れる音が聞こえそうなほど口をあんぐり大きく開けたハウエル先生が、彫像の様に固まっている。 まさしく大驚失色の図。 一斉に驚きの表情を見せる法学者達の中で、ハウエル先生の顔が一挙に、まるで膨れ上がる様に真っ赤になった。 「…ちょっ、ちょっと待ってくれ…あ、いや、待ってくだ……お待ち下さい…っ!」 飛び上がるように腰を浮かせ、顔を赤黒く染めたまま、ハウエル先生が大口を開けた。 「俺ぁ……ああ、いけねぇ、俺、じゃなく、私、は、ご覧の通りの男で、ご存知の通りの、そのっ、貴族と喧嘩しちゃあ夜逃げばっかりしてきた男で、そ、そう、育ちも悪いし、ろくでもねぇ代弁人だってそりゃもうあっちこっちから文句言われて、それから……酒がねぇと生きていけねぇし、ああいや、いけないし……だからそのっ……オーレン! てめぇも何とか言いやがれ!」 「………あ、いや、その……」 頼りにならない友人に、チッと無作法に舌打ちすると、ハウエル先生は改めて魔王陛下、その傍らに立つ大賢者猊下に顔を向けた。 なぜか高貴なるお2人は、面白そうに彼を見ている。 からかわれているのではないか、そんな疑問がハウエル先生の胸を過ぎった。 自分のような三流代弁人に、魔王陛下が直々に役目を与えてくださる? 法務の長? あるわきゃねえだろ、バカバカしい! ハウエル先生は無礼も忘れ、金壷眼を怒らせると、2人の尊い方を睨めつけた。 「……人をおもちゃにするのは止してもらいてぇな。どんな狙いがあるのか知らねぇが、いくら魔王陛下や大賢者猊下だって、言って良いことと悪いことがあるだろうよ。俺がそんな大層な地位にふさわしくないことは、誰より俺が分かってんだ……。ここにゃあハウザー先生がいるし、オーレン、先生もいる。この2人の方がよっぽど人の上に立てる法学者だ。それに、今回は代弁団に参加することができなかったが、ちゃんとした立派な法学者は、俺が今思いつくだけでも10人以上いる。どれも、俺みてぇなヤクザなろくでなしじゃねえ。……悪い冗談はなしにして、そういうちゃんとしたお人を選んでくれ……あー、選んで下さいますようお願い致します」 言い切って、憮然とした表情を浮かべると、ハウエル先生はどすんと音を立てて椅子に座りこんだ。 シンと静まった庭に、いきなり「ぷっ」と吹き出す声がする。 「ホントに楽しい男だなあ、君は」 大賢者が笑いながら言うと、ゆっくりとハウエル先生に向かって歩き始めた。 「確かに立派な法学者は、きっとまだ国中に散らばっているんだろうね。ハウザー先生も、オーレン先生も素晴らしい法学者だと思うよ。教養、品格、その他諸々、確かにハウエル先生、あなたより上かもしれない」 でもねえ。 椅子に座るハウエル先生のすぐ側まで、大賢者がやってきた。 その眼差しに気圧されて、ハウエル先生の身体はピクリとも動かない。いや、動けない。 「出会いというものは、ものすごく大きな意味を持つものだと思うんだよ。どれほど立派な人物であろうと、出会わなければいないと同じだ。僕達は信頼に足る人物を探していた。今回の事件が起こり……」 膝がぶつかりそうなほど近くに寄ると、ほとんど真上から大賢者はハウエル先生の顔を見下ろした。 見上げるハウエル先生のブルドックの様な頬が、小刻みに震えだす。 「ハウエル・ハウラン。君は誰よりも早く、1番最初に正しい声を上げた。どんな非難にも負けずにその主張を守った。そして僕達は君を見つけた。君は、自分自身の信条を、法学者としての誇りを守ることで僕達に、魔王陛下と、そしてこの僕、大賢者に発見されたんだ。分かるかい? 偉大なる魔王陛下とこの僕、この世に2人といない存在に、君は見つけ出されたんだよ。この意味、君はちゃんと理解しているのかな? 僕達はこの出会いを無駄にするつもりはない。覚悟を決めたまえ。……言ったはずだよ? 逃げようとしても無駄だ」 ニヤリと笑って真上から見下ろすその瞳の輝きに、ハウエル先生の身体がぶるりと震えた。 その様をじっと見つめて、透はしみじみ考えた。 どうしてだろう? 才能ある人物が、ものすごい地位に大抜擢された感動の瞬間なのに、どうして蛇と、睨まれて動けない可哀想な蛙にしか見えないんだろう……? 「さすが猊下です。誠意と友愛に満ちた説得をなさっておられるようですね」 「ギュンター。お前、あれが誠意と友愛に満ちた説得に見えるのか!?」 「……おれ、ヒグマにロックオンされた絶体絶命の鮭に見える……」 「ゾモサゴリ竜の顎に今にも飲まれるいたいけな子犬たんだろう」 「グウェン、あの先生が子犬か? 陛下、俺はキングコングに捕まった自衛隊員に見えます」 「コンラッド、キングコングはアメリカで、捕まるのは美女。自衛隊は関係ないから」 「………美女って、グリーンベレーの隊員でしたっけ?」 透は深々とため息をついた。 「さあ!」 大賢者猊下が、パンと手を叩く。 とたんに法学者一同と、ひそひそ話をしていた魔王陛下とその側近一同が一斉に背を伸ばした。 「いいかい? 僕達はここにいる全員を『法務庁』に招聘したいと考えている。何せ、10人、20人の所帯でできる仕事じゃないからね。それこそ百人単位の人材をこれから揃えるつもりなんだ。しかし、君達の中には官僚であるよりも、現場で、民と実際に触れ合いながら代弁人としての職務を果たしたいと願う者もいるだろう。その願いを踏み躙るつもりはない。諸君の中で、どうしても在野のままでと願う者がいるなら、遠慮なく申し出て欲しい。その場合、引き止めるような真似はしない。民のために働く優秀な代弁人も、絶対に必要な存在だからね。ただその場合でも、できれば信頼できる他の法学者を推薦してもらえればと思う。あなた方の推薦なら信用できるだろう。組織造りは人材が肝心だからね。そのつもりでよろしくお願いする。だが僕達は、できることならあなた方全員に残ってもらいたいと考えている」 大賢者猊下が、集まった法学者、法学生達の顔をじっくりと眺め渡してから、その顔を魔王陛下にむけた。 うんと頷いて、魔王陛下が立ち上がる。そして、にっこりと明るい笑みを浮かべる、大賢者と同じ様に全員の顔を見回し、言った。 「おれはあなた方の力で、百年先、いいえ、千年先まで眞魔国を支える法律を作って欲しいと願っています。あなた方に、心から期待してます。皆さんそれぞれ事情もあると思いますが、どうかよろしくお願いします!」 同じ双黒、同じ年代、同じ体格、同じ仕草でありながら、なぜかこちらは春の日差しのような温もりに満ちた魔王陛下の笑顔。 まるで呪縛が解かれたかのように、ハウエル先生の身体がずるずると椅子から滑り落ちた。 全身を引き攣らせ、氷の様に固まっていた法学者一同の身体も、小首を傾げて微笑む魔王陛下から溢れる春のオーラに、確実に解凍されているようだ。 成り行きをある意味ドキドキしながら見つめていた透は、今度こそ安堵の息をゆっくりと胸から吐き出した。 とにかく結論は急がなくていい。 そう最後に付け足されて、ようやく息をついた法学者とその弟子一同は、のろのろと身体を動かし始めた。 「話は以上です。あの、せっかく用意したんですから、お料理食べていって下さいね。あ、ワインもありますよ。どうぞどうぞ、遠慮しないで」 魔王陛下が口にするとは思えない言葉で、一生懸命気を遣う少年に、それではと先生方は料理の卓に向かった。 全員が一斉に手を伸ばしたのはワインなどの酒瓶だ。ほとんど精神安定剤代わりである。 先ほど酒瓶を1本独占していたハウエル先生が、それを片手に仲間の輪に合流した。 「………怖ぇ……むちゃくちゃ怖ぇよ……」 言った途端、ハウエル先生が酒瓶を口にあて、酒をラッパ飲みし始めた。窘める声はない。 普段の傲岸不遜さが綺麗さっぱり払拭された顔は、漂白されたように青白い。 彼の言う「怖さ」が、いきなり降って湧いた新たな地位でないことは確かだろうと、法学者一同は心の内に頷いた。 「……大丈夫か? ハウラン」 恐る恐る尋ねるオーレン先生。 オーレン先生はもちろん、ハウエル先生を見つめる法学者達の眼差しに、彼の「幸運」を羨んだり、妬んだりする捻くれた光はない。むしろ同情と、友人を心配する思いが溢れている。 「先生、しっかりして下さい。僕達はどこまでも先生に着いて行きます……!」 「そうですとも! 先生を見捨てて、1人だけ逃げたりしません!」 ロミオやロードンなどの弟子達も、口々に師匠を励ましている。 師匠が大抜擢を受けたというのに、なぜか喜びとお祝いの言葉が出てこない彼らの様子に、透は思わず苦笑を浮かべた。 よっぽど猊下と、猊下に迫られる(?)ハウエル先生の様子が怖かったんだろう。 「失礼します」 声を掛けると、卓の周囲に集まった法学者達が一斉に振り返った。 「君は、行政諮問委員会の法務官僚だったんだね」 オーレン先生がしみじみと透の顔を眺めて言った。 「どうりで優秀な人材だと思ったよ」 ありがとうございます、と礼を述べ、透は頭を下げた。 「申し訳ありません。その、イロイロと……。あの、僕は『法務庁』が立ち上がりましたら、皆さんのお手伝いをさせて頂くことになっています。どうかよろしくお願い致します」 再度頭を下げて挨拶する透に、先生達が軽くため息をついた。 「……あまりのことに、まだ頭の整理ができておらんよ」 苦笑を浮かべてハウザー先生が答えた。 「思いも寄らぬ幸運というか、法学者としてじつに喜ぶべき状況が生まれつつあることは分かっているのだが、こうも怒涛の展開が繰り広げられるとね。いやはや、この年になって人生設計の大転換を迫られるとは思ってもみなかったよ」 「全くです。それに地元に仕事も残っておりますし、頼りにしてくれる人々を放って置くというのも……」 さてどうしたものかと、ハウザー先生やオーレン先生達が腕を組み、悩み始めた。 「陛下も仰せでしたが、急がれる必要はないと思います。『法務庁』も、全てはこれからなんですから。ですが……」 透はちらりと視線を動かすと、自分を見つめる法学者達に微笑みかけた。 「クルト先生は、もう参加をお決めになったようですよ?」 透の言葉に、先生方が一斉に驚きの表情を浮かべ、女性法学者の姿を探し始めた。 「じゃあ、クルト先生はアシュラムに行かれるおつもりなんですか?」 「はい、陛下」 見かけよりずっと行動派の女性法学者は、相手が魔王陛下であろうと「シンノスケ」であろうとどうでも良いかのように態度を変えず、にこやかに会話を交わしていた。 「これまでの彼のことやこれからのことなどを、私の口からご家族に伝えたいと考えております。幸い勤労奉仕処分となりまして罪人ではなくなりますし、家族も会おうと思えばいつでも会えますわ。そのようなことも含めまして、色々と相談に乗れたらとも思いますの」 「それはとっても素晴らしいことだと思います! あ、だったらおれの手紙を持っていってくれますか? エヴァ様には大公様宛の手紙をお渡ししたんですけど、できれば民に直接おれの気持ちを伝えたいかなって思うんです……」 「ご立派ですわ、陛下。私でよろしければ、喜んで役目を果たさせて頂きます」 「お願いします。それで…クルト先生、『法務庁』については」 「アシュラムから戻り次第、身辺の整理を致しましてこちらに上がらせて頂こうかと思います。『法務庁』は設立準備もまだこれからとのお話でしたので、その立ち上げからお手伝いできましたら光栄です」 「ありがとうございます! 早速決めて下さって、おれ、嬉しいです!」 弾むような魔王陛下のお言葉に、クルト先生も頬をほんのり染めて頷いた。 「こちらこそ……。実は陛下、私、ずっと悩んでおりましたの。このまま代弁人を務めていて良いものだろうかと……」 「ど、どうしてですか!?」 「実は、お恥ずかしい話ですが、私の相談所はなかなか顧客がついてくれないのです。私に仕事を依頼しようとなさる方がいても、ほとんどの方が私を一目見た途端、理由をつけて去ってしまうのです」 「何で!?」 「その……私の容姿が、代弁人らしくない、と言われたことがございますの。とても仕事ができるようには見えないとか、ひどい時には、私の相談所が女性ばかりであることから、代弁人を装って、実はもっといかがわしい仕事をしているのではないかと疑われたり……」 「それ、ひどいですっ!」 「全くですわ。とんでもない誤解です。女性であっても優秀だと世間から認められる代弁人は大勢おります。私も、それはもう懸命に勉強して師匠から一人前と認められたのです。私の師匠も女性でした。それがどうして私ばかり……。私、女性による女性のための法律相談所を作ろうと、今の体制を整えて懸命に働いてまいりました。ですが……」 「クルト先生……」 「先ほど猊下のお話を伺いましてから確認しましたところ、私の弟子達のほぼ半数は、代弁人として人々のために働きたいと申しております。特に虐げられた女性と子供のために。外見のせいで能力を認めてもらえないというのはあまりにも理不尽な話で、私自身悔しくて堪りません。ですが、ここは敢えて方向転換を計り、女性による女性のための、それから子供のための法律相談所は弟子達に任せようと思います。そして私は、外見など何の関係もない、国家の事業に邁進したいと存じます……!」 「先生! ありがとうございます!」 「意外と熱血漢だったのですな、いや、えーと、熱血女性と呼ぶべきか……」 魔王陛下に手を握られ、ぶんぶんと上下に振られてちょっと困っているクルト先生を眺めながら、オーレン先生が呟いた。 「しかし……自分の容姿や雰囲気には全く無自覚のようだな」 ハウザー先生の一言に、透もくすっと笑った。 「無自覚といえば、陛下もそうです。陛下は御自分の容姿を、どこにでもある平凡で見栄えのしない顔立ちだと本気で信じておられますから。褒め称えられる度に、皆の美的感覚はどうかしている。そんなに双黒が好きなのかとボヤいておられますよ?」 「………陛下は御目が悪いのかね?」 不安気なハウザー先生の問い掛けに、透は大きく吹き出した。 「いいえ、視力はとてもよろしいかと。ただそのように思い込んでおられるご様子で、側近の閣下方もそれだけは何ともと首を捻っておられます」 いやはや、と先生方が揃って頭を振った。 「………大賢者猊下は…どうなのかな…?」 ふいに上がった声に、皆が驚いて顔を向けた。 ワインのグラスを手に、ロミオが眉を顰めている。 「あのお方は、ご自分をどのような存在だと思っておられるのだろう……」 「……ロ、ロミオ……」 「僕は、伝説の大賢者猊下は聖人のような方だと信じてきたんです。慈悲と叡智に満ち溢れ、かつて眞王陛下を支え、人間に滅ぼされかけた魔族の魂を支え救ってきた聖者。ずっとそのように言い伝えられてきましたし、今も魔王陛下とこの国にとってなくてはならない偉大な方だと伺っています。しかし最初に会った、いえ、お会いした時からあの方は……」 「ロミオっ!!」 ……え? 異様に切羽詰った師匠の声に、呟きながら物思いに沈んでいたロミオがきょとんと顔を上げた。 目の前に、まるで恐怖に慄いているかのような顔が並んでいる。 「初めて会った時から……何かな? ロミオ君?」 ひくぅっ! ロミオの全身が引き攣った。飛び上がった心臓が喉に詰まったらしい、呼吸ができない。 「ロミオ君。ハウエル先生が血盟城に出仕する時は、もちろん君もついておいでね?」 動けないロミオの隣に、小柄な身体がすっと並んでくる。 「僕、実は初めて会ったときから君のこと気に入っちゃったんだよ。『法務庁』は言いだしっぺとして、僕が責任を持って指揮監督するつもりでいるからね。君が働くようになったら、僕ががっつり苛め、あ、間違った、目を掛けてあげるよ」 そういうと、村田は恐怖に立ち竦む法学者達の間に入り、持っていたグラスに果汁を注いだ。 それからスッと踵を返して歩き始めたところで、「あ、そうそう」立ち止まった。 村田が軽く小首を傾けてロミオの顔を覗きこむ。それからそっと顔を近づけて微笑んだ。 「聖人なんてね、ロミオ、100年もやりゃいい加減飽きるよ?」 4000年という途方もない生命の記憶。 幼い少年の小さな身体に納まる、人知を超えた叡智。まさしく大賢者。 ……100年で聖人に飽きたのなら、残り3900年はどんなだったんですか……? 決して聞いてはならない疑問が、その場に集う人々の胸に渦巻いた。 夕陽が空を金色に染める頃、馬車は邸の前に到着した。 『このまま残ってくれても構わないんだよ。法務庁設立準備機関を立ち上げるつもりだからね、仕事は明日からでもある。その気になったらいつでも来てくれたまえ。待っているよ』 記憶に残っているのは魔王陛下の朗らかな愛らしい笑顔、大賢者猊下のお言葉。 だがとにかくと、彼らは当面の住処である邸に戻ってきた。 「……魔王陛下がご用意くださった邸だったのだな……」 しみじみと呟くオーレン先生。 「私達、今まで魔王陛下や大賢者猊下とご一緒していたのね……。いやだわ、私ったら、今頃感動がこみ上げてきたみたい……」 先生達の背後で交わされる弟子達の会話に、ハウエル先生達がふと顔を見合わせた。 「分かるよ、その気持ち。何だか……嵐が目の前と吹き荒れて、それで……吹き過ぎていった、っていうか……ものすごい話を聞かされたのに、ぽかんとしている内に終わってしまったような気もするんだ」 「僕もだよ。でも……昨日まで同じ部屋で、すぐ側にいた方々がまさか魔王陛下や大賢者猊下だっただなんて……信じられないよ」 「昨日陛下がお使いだった椅子、僕がいつも使ってるものなんだぜ?」 「私の椅子にはウェラー卿がお座りだったわ。……素敵な方だとずっと思っていたけれど、まさかあの方がウェラー卿でいらしたなんて……」 「暢気だな、君達は。……どうするつもりなんだい? これから、その『法務庁』のことだけれど……」 「それは……」 話し込み始めた弟子から意識を離して、オーレン先生はハウエル先生に目を向けた。 「どうするつもりだ、ハウラン?」 「……どうするって……。おい、考えてもみなって、この俺だぜ? この俺が法務の長? 冗談じゃねぇよ、想像しただけで笑っちまうぜ」 本当にへっへと笑ったかと思うと、ハウエル先生は突然がっくりと肩を落とし、それから深くため息をついた。 「俺が身の程知らずに血盟城に上がっても、すぐ見込み違いだったとがっかりされるのがオチさ。俺ぁ、これ以上道化扱いされるのはゴメンだ」 「君らしくない言い様だね、ハウエル君」 「俺の頭の中にだってね、ハウザー先生、謙虚って言葉くらいあるんですよ」 「それは謙虚というものではなかろう。卑屈な物言いで逃げるのはやめたまえ」 「…………」 常に温厚なハウザー先生のキツい言葉に、ハウエル先生とオーレン先生は揃って目を剥いた。クルト先生は冷静な表情で、両者を交互に見つめている。 「私はね、ハウエル君、魔王陛下と大賢者猊下の御判断はなかなか的を得ているのではないかと思う。君は確かに何をしでかすか分からん、少々危うい部分がなきにしもあらずだが、しっかりとした補佐がいれば、すべき仕事をしっかりとこなしていけると思うがね」 もし君さえその気なら。 ハウザー先生が静かに、笑みを浮かべて言った。 「私は君の補佐役となってもいいと思う」 「………ハウザー、せんせい……」 「ハウザー先生の仰るとおり」オーレン先生も続けて言った。「貴様はきっちり押さえておかんと、どこへ吹っ飛んでいくか分からんヤツだ。もし1人で血盟城に上がったとしても、おそらくあっちこっちの敵を作って、さんざん空回りした挙げ句に潰れてしまうかもしれん。貴様が案外小心者だということも、それなりの付き合いで分かっているしな」 「…………てめぇ」 「貴様には優秀な補佐が必要だ。だが弟子では駄目だな。彼らでは貴様を押さえておけん。ハウラン、ハウザー先生同様、私も貴様の補佐として力を尽くしてやってもいいぞ?」 「……オーレン……おま……お前ぇには地元に仕事がたんとあるだろうが。お前ぇを頼りにしてる客も大勢……」 「先ほど確認したのだが、私の弟子の中にも、代弁人として仕事をしながら民の中で生きたいと希望している者が何人かいてね。エルンストもその1人だ。私の仕事も彼らに任せて大丈夫だろうと思う。何といっても、私の弟子は皆、優秀だからな」 「オーレン……」 「正直に言えば」オーレン先生が照れくさそうに笑って続けた。「陛下と猊下に提示された仕事は、法学者として一生を懸けて悔いのない仕事だと思う。要請を拒み、民と共に生きるのも立派な仕事だ。だが、新たな法を作り上げるという仕事に従事できる栄誉をみすみす逃し、見知らぬ法学者に譲るのは……悔しいというか、想像するだけでも腹立たしいのだ」 私も意外と野心家だったらしいな。 そう告げるオーレン先生の顔は、むしろさばさばと明るい。 「野心は悪いものではありませんわ、オーレン先生。ハウエル先生、私も補佐してまいります。共に頑張ってまいりましょう!」 クルト先生にも力強く宣言されて、ハウエル先生はぱちぱちと目を瞬いた。 「……おいおい、止してくれ。お前さんらはすっかりその気らしいが俺は……。それに……そうだ! 俺の女房と娘のことはよく分かってるだろうが。あの2人に上流の方々との付き合いができると思うか? あいつらだって、冗談じゃねえって嫌がるさ」 「女房と娘を言い訳にする気か? 卑怯だぞ」 「ハウエル君、君の奥方とジュリィは実にしっかり者だと私は思うよ? 彼女達なら新たな環境でも逞しく生きていけるさ」 「そうとも。……ハウラン、そうやって貴様はまた逃げるのか? 逃げて逃げて、貴様どこへ向かうつもりだ?」 「…………」 オーレン先生の質問には答えないまま、ハウエル先生は玄関に向かった。 「ハウラン!」 「……いつまでも外で話してたってしょうがねえだろうが。俺ぁ、腹が減っちまった」 そう言って、ハウエル先生は扉を開いた。 と。 「あんたっ!」 「父ちゃん! 生きてたんだねっ! 無事だったんだね!」 よかったーっ!! 安堵の叫びを上げながら、アニッサ夫人とジュリィが満面の笑みを夫であり父であるハウエル先生に向けた。 「あたし達、父ちゃんがきっとまたヘマをやって、牢屋にでもぶち込まれたんじゃないかって心配してたんだよ!」 「本当に良かったよぉ」 嬉しそうな妻と娘の姿に、だがハウエル先生は呆気に取られた顔で目を瞠り、2人を凝視していた。 「……お、お前ぇ達、何なんだ、その格好……」 「格好って……これかい?」 答えるアニッサ夫人が、背負っていた巨大な風呂敷包みを揺すり上げた。 よく目を凝らして見れば、2人の足元にはこれも巨大な旅行鞄が幾つも鎮座している。 「決まってるじゃないか、夜逃げの準備だよ! あんたのことだもん、どうせまたお偉い方と喧嘩してきたんだろ? 血盟城にいるお貴族様となりゃあ、この先何が起こるか分からないからね。逃げるなら早いほうがいいよ。あんたの荷物もちゃんと纏めておいたからね」 「もちろんロミオのもだよ! あのさ、父ちゃん、衣裳部屋にあったドレス、貰ってってもいいよね? 自由に使って良いって言ってたもんね。後さ、厨房にあったグラスも詰め込んだんだ。構わないだろ?」 「イザとなりゃ売っぱらっちまえるからね。ありゃ良い金になるよぉ」 「父ちゃん、母ちゃんとも話してたんだけどさ、父ちゃんの仕事ならどこへ行っても何とかなるよ。人間の国だって大丈夫さ。今じゃ人間の国にも当たり前に魔族が暮らしてるモンね。ちゃんと仕事はあるよ。……もし血盟城の偉い人と喧嘩しちまって、国にいられなくなっても、絶対大丈夫だよ! だからなんも気にしないで。あたし達、どこまでも父ちゃんと一緒に行くよ!」 「そうだよ、あんた! 家族が揃ってりゃあどこでだって何とかなるもんさ! 幸いあたし達ゃ、身体だけは丈夫にできてるしさあ。ね? ほら、あんた、ぼさっとしてないで! 物置に引き車があったんだ。それに荷物を詰め込んで、適当なトコで馬車を用意して、それからどこでも行けるところに行こうじゃないか!」 ね!? 満面の笑顔で、屈託の欠片もない妻と娘の顔を呆然と眺めてから。 ハウエル先生はバリバリと頭頂を掻いた。 「………まったくよう……。お前ぇらときたら……。まったく……」 へへ、と笑いながら、ハウエル先生は身体の力を抜いた。 自分の中で張り詰めていた何かが、すっと溶ける様に消えていく。 「……家族が揃ってりゃ、どこで何をしても何とかなるか……」 「そうだよう、あんた。何とかなるよ!」 「あたしら弱虫じゃないからね! 大丈夫さ、父ちゃん!」 「そうか」 笑って頷いて、それからハウエル先生は振り返り、自分の背後で様子を見つめる仲間達に向けて苦笑を浮かべた。 「どうやら、一番の弱虫は俺だったらしいぜ?」 「そんなこと、最初から分かっておるわ、バカ者」 オーレン先生も笑って頷く。ハウザー先生もクルト先生も、そして弟子達も、皆笑ってハウエル先生を見ていた。 「………よし!」 覚悟を決めたように、ハウエル先生が大きく声を上げる。 「決めたとなりゃ善は急げだ。おい、荷物をその引き車とやらに乗せな。すぐ出発するぜ」 「あいよ!」 「すぐに荷物を車に積むよ!」 「お手伝いします!」 ロミオも飛び出してきた。 「……おい、ハウラン、今これから行く気か?」 「おう」 それまでの悩んだ顔が嘘の様に、ハウラン先生は晴れやかに笑った。 「ぐずぐずしてたら、まぁた弱気の虫が這い出してきちまうからよ」 だから。 「俺ぁ、一足先に行くぜ」 膨れ上がった鞄をよいしょと持ち上げ、ハウエル先生は颯爽と外へ出た。 引き車─眞魔国風大八車、に荷物を積み込むハウエル先生に、オーレン先生達が歩み寄った。 「ハウラン、身軽なお前と違って我々はすぐには動けん。だが、整理がついたらすぐに合流する。頼むからそれまでに問題を起こすなよ? 特に……猊下とは……」 傍らにいたロミオの手から、荷物がどさりと落ちる。ちょっと何やってんのよというジュリィの声。 「俺にだって分別ってぇもんがあるんだぜ? ……たまにしか思い出さねぇけどよ。ま、任せとけって」 「父ちゃん、荷物全部積み終わったよ」 「あんた、そいじゃ行こうかね。皆さん、お世話になりました。どうぞ皆さんもお元気でねえ」 これでお別れと、アニッサ夫人が先生方に向かって深々とお辞儀をする。 「奥さん」オーレン先生が笑って言った。「またすぐお会いすることになりますよ。私達のくされ縁は、どうやら長く続くようでしてね」 「は?」 きょとんとするアニッサ夫人の後ろから、「おい!」とハウエル先生が声を掛けた。 「ぐずぐずすんな。行くぞ」 「あ、ああ、分かってるよ、あんた」 「それで? 父ちゃん、今度はどっちを向いて行く?」 「決まってらあな」 ハウエル先生は、自分がやると言うロミオの手を退けて、眞魔国風大八車の引き手をぐいと持ち上げて言った。 「俺の夜逃げ人生最後の行き先はあそこ」 へ? アニッサ夫人とジュリィがきょとんと目を瞠る。 「血盟城さ!」 それっと、小柄な身体には似合わない力で大八車を引き始めると、ハウエル先生は一気に走り始めた。 「今、何つったのさっ。父ちゃん!?」 「あんたっ、待っとくれよ!」 「先生! 僕達もお供します!」 朱金に染まる王都。 その日、多くの民が、荷物を山と積んだ大八車を引き、怒涛の勢いで王都を駆け抜けていくすさまじい形相の男と、その後を必死に追いかけていく男女の一団という不思議なものを見送った。 法学者ハウエル・ハウランは、後に「ハウエル法典」と通称される、世界に冠たる憲法を作り上げた国家の重鎮として、同時に、大八車に家財道具を積んで血盟城に初出仕した人物として、長く眞魔国の歴史にその名を残すこととなる。 おしまい。 2009/02/08 プラウザよりお戻り下さい。
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