愛多き王様の国・13 |
「……ふむ、大体こんなものかな?」 「後はハウランが頑張ってくれればな」 書類を見ながら翌日の最終弁論の最終確認をしていたオーレン先生とハウザー先生が、揃って顔を光の差し込む方向に巡らせた。視線を向けた先には、出窓の張り出した部分に腰を下ろし、酒をラッパ飲みしながら外を眺めているハウエル先生がいる。 「ハウラン、まだ陽も高いのに何をやっているのだ。仕事もまだ終わっておらん」 オーレン先生の呼びかけに、酒瓶を手にしたハウエル先生がちらりと視線を流す。 「明日は俺の弁論だけだ。言わなきゃならねぇことはとっくに頭の中に叩き込んであらぁな。てめぇがいつまでもグズグズと……」 「先生!」 扉を開けて入ってきたのはロミオだ。 部屋の中にハウラン先生、オーレン先生、そしてハウザー先生という熟練の先生方が揃っていることに気づくと、サッと姿勢を正して頭を下げた。 「失礼致します。あの……坊、っちゃん……方がお見えになりました」 弟子の言葉に、ハウエル先生が太い眉をキュッと顰めた。 ロミオがそれを告げてからさほど間を置かず、シンノスケとケンシロウ、それから彼のお供達が、アニッサ夫人やジュリィ、代弁団の仲間達に囲まれてやってきた。 「あんた! 坊っちゃま方がねえ、今日はお菓子だけじゃなく、そりゃもう美味しそうなお料理をもってきて下さったんだよぉ。明日の夕食は豪華になるよ。期待してておくれな!」 「どうして明日なんだ。今夜でも良いだろうがよ」 突然訪ねてこられても、応接用のソファは常に用意してある訳ではない。 部屋にはハウエル先生達の大きな会議机─本来は夜会で使用する晩餐用の卓─と、助手達の作業用の机、そして椅子が数多く散らばっている。 そしてどの卓にも机にも、書類や本が乱雑に積み重ねられている。 「そりゃお前さん、明日はお前さんの晴れ舞台だろう? お祝いしなくちゃ!」 満面の笑顔を妻をとっくりと見つめ、それから酒瓶を持っていない方の手で顔をごしごしと擦った。 「……茶を用意しな。そしたらジュリィを連れて台所にでも行ってろ」 「………台所じゃなきゃ駄目かい? 衣裳部屋で明日裁判所に着ていくドレスを選びたいんだけどさ……」 「どこでも良いから行ってろ!」 お茶の用意をしてくるよ。夫の剣幕にしどろもどろになりながら、アニッサ夫人はジュリィを急き立てて部屋を出て行った。 妻と娘の後姿を見送ると、ハウエル先生は肩を聳やかし、溜まっていた息を吐き出した。そしてくるりと踵を返した。 向かう先、会議机には、もう2人の少年が席に着き、ハウエル先生を見つめている。彼らだけではなく、坊っちゃん方の前にある本や書類を片付けている仲間達も、訝しげに彼を見ていた。 ハウエル先生はブスっとした顔で自分の席に近づくと、持ったままの酒瓶をドンと卓に置き、それからどさりと音を立てて椅子に腰を落した。 「まだお昼なのに、もうお酒ですか?」 無邪気な笑顔のケンシロウの質問に、ハウエル先生がジロリとぎょろ目を向ける。 「………おい、ハウラン、無礼だぞ」 オーレン先生が窘めるが、ハウエル先生は気にした様子を見せない。 そんな先生の態度を、無礼を咎めるよりは興味津々といった顔で2人の少年が見つめている。 「あの人間のことを考えていたのですか?」 不意打ちのようなケンシロウの言葉に、数瞬遅れてハウエル先生の顔が歪む。 「ガキが生意気に大人の腹を探るんじゃねえ」 ハウラン先生が投げ付けた言葉は、なぜかケンシロウの耳をすり抜けて、後ろに控えるお供達を直撃したらしい。 全く表情を変えず、ニコニコしたままのケンシロウに対して、助手の席に控えるお供達は面白いほど目を剥いて、まじまじとハウエル先生を凝視している。 周囲から集まるうっとうしい視線に、ハウエル先生はやれやれと肩を竦めた。 「………馬鹿な男だぜ。間違ってたと認めちまったからって、何が変わるってんだ。てめぇがしっかり生きてりゃそれでいいんじゃねぇか。てめぇの生き方次第じゃねぇか。先祖の正しさを証明できるのはそれだけなんだ。てめぇが立派に生きて、ほれ見ろ、俺のオヤジもジジィも皆正しかったと自慢すりゃあ良いんだ。ちっとばっか間違ったこともないワケじゃあねぇが、そんなモン大したこっちゃねえ、息子はこんなに立派に育ったって、堂々と胸張ってりゃいいんだ。それをよぉ……あの馬鹿野郎が……。結局女房子供まで泣かせやがって……」 ハウエル先生の手が卓の上の酒瓶を取り上げ、そのまま口に運ぶ。 ぐいっと酒を呷るハウエル先生を、2人の少年はじっと見つめていた。 「先生って……すげー優しい人なんだ」 ごふっ。 酒瓶を口に含んだまま酒に咽たハウエル先生が、慌てて口を押さえ、ゴフゴフと咳き込んだ。 「……っ、な、なにを、いきなり……」 咽ながら、ハウエル先生がその言葉を発した相手、シンノスケを睨む。 ぱちくりと目を瞬きながら、シンノスケがハウエル先生を見つめ返す。 「…だって……あの人のことを可哀想だって思ってるんでしょう?」 「俺は怒ってるんだぜ!?」 「怒るほど、あの人のことを気に掛けてるんだ。でしょ? やっぱり先生は優しい人だな」 ニコッと邪気の欠片もない笑みを向けられて、ハウエル先生が鼻白んだように顔を顰めた。その顔はどこか悔しそうにも見える。 その様子を眺めていた法学者や弟子達もまた、軽い驚きに目を瞠って少年を見つめていた。とは言えこちらは、いかにも感心したと言いたげな明るい表情だ。オーレン先生などは珍しくひとの悪い笑みを浮かべ、ハウエル先生の顔を覗き込んでいる。その様子がまた癇に障ると言いたげに、ハウエル先生は唇をひん曲げた。と。 突然、あ、とシンノスケが顔を上げた。 「そういえば、うっかりしてたけど、あの人達の家族は……」 どうやら話を変えられそうだと、ハウエル先生が急いで口を開く。 「大神官殿の話によると、アシュラムの大公がどこぞに集めて保護しているらしいぜ。つい最近鳩が届いたそうだ。何でもよ」 アシュラムの裏切りに怒った魔族が攻めて来て戦争になる。アシュラム人は皆殺しにされちまうって話が国土一体に一気に広まっちまったらしい。 ハウエル先生の言葉が耳に入った途端、シンノスケが音を立てて立ち上がった。 「…! でもそれは……!」 「それは? 何だって?」 ハウエル先生に質問を返されたシンノスケは、不自然な勢いでキュッと唇を閉ざすと、何も聞かなかったような顔で椅子に座りなおした。 軽く肩を竦めるハウエル先生。 「あいつらの家族は住んでるところをおん出されたり、魔族が攻めて来た時に差し出して、保身を図ろうとした連中に捕らえられたりしてたそうだ。大公が帰国してすぐ大丈夫だって布告を出して、それから家族を保護したらしい」 「そう……なんだ……。良かった……」 良かったかねぇ。ふんと鼻を鳴らしてハウエル先生が冷笑を浮かべた。 「だって……」 「それこそいざって時の質草を、大公が自分でしっかり握っていたかったってだけの話じゃねぇのかい?」 「大公様はそんな人じゃ…!」 「シブ、シンノスケ!」 「ほう、さすがお貴族様だ。坊っちゃんはアシュラムの大公をご存知かね?」 うっとシンノスケが言葉に詰まる。 「済みませんけど、先生。僕達に八つ当たりするのは止めて下さい。大人気ないですよ?」 子供の無邪気なにこにこ笑顔に、どこか底冷えするものを滲ませてケンシロウが言った。 下座の片隅では、ロミオがムッとした顔でメガネの少年を見つめている。 ハウエル先生が、バリバリと頭頂を掻き毟った。 「家族が保護されていることは、彼らにもちゃんと伝えたわ」 ふいに口を挟んできたのはクルト先生だった。 女性法学者は卓の上に両肘をついて手を組み、顎を乗せ、肉感的なぽってりした唇で柔らかく笑みを浮かべている。何気ない仕草だが、卓を囲む男性法学者達はどことなく困った顔で目を逸らしてしまった。どこか強烈な色気が、卓の上を霧が走るように広がったような気がしたからだ。だが、シンノスケ少年は漂う雰囲気に全く頓着せず、クルト先生に向かって身を乗り出した。 「あの人達は何て……?」 「さすがに辛そうだったわね。これが家族を苦しめることは分かっていたはずでしょうに、私が担当する子は声を上げて泣いていたわ。おじいさま、おばあさま、ごめんなさい、ごめんなさいって」 シンノスケが哀しげに眉を曇らせる。 「魔族も人間も同じだと思うけれど、どうして人というものは、明々白々に見えている結末を見ようとしないのかしらね? 現実を直視して、すぐそこに破滅が待ち構えていることをちゃんと認めれば、こんな馬鹿げた行動を起こさずに済んだでしょうに」 「それはここにいるハウエル先生に言ってやってくれんかね?」 オーレン先生が、手をハウエル先生に向けて笑う。 「そうすれば、この御仁もいい加減夜逃げ人生から卒業できるかもしれんしな」 いい年をしおって、貴族と見ると喧嘩を吹っかけるのだから。 「命を落としてからでは、泣くことも後悔することもできんのだぞ、ハウラン」 「………いい加減にするのはお前ぇの方だ。バカ野郎」 盛大に顔を顰めて、ハウエル先生は坊っちゃん達に向かって姿勢を正した。 「とにかくだ。家族についちゃ、大神官殿も責任をもって守ると仰っておられたぜ? あの男も、どうか頼むと頭を下げちゃあいたが……。つってもなあ……。あいつらの家族も、ひでぇ目に遭わされた土地にはとても帰れないだろうし、土地の者も今さら家族を受け入れて、何もなかったことにはできねぇだろう。何の罪もねえことは分かっちゃいるが、それでもまあ、家族の生活が元に戻るこたぁねえだろうな」 「あっ! だったら!」 何か思いついたらしい。ぱあっと顔を輝かせてシンノスケが飛び上がるようにして言った。 「その家族の人たち、アシュラムで暮らすのが大変なら、全員眞魔国に来ればいいんだ! 家族がいるって分かったら、あの人たちだって安心する…し……?」 「……………」 「……………」 「……………」 「……………えっとぉ……」 「坊っちゃんよぉ」 ハウエル先生がしみじみ息をついて言った。 「お前ぇさん、頭が砂糖菓子でできてんじゃねえのかい?」 一瞬きょとんと目を瞠ったシンノスケが、次の瞬間かあっと顔を真っ赤に染めた。 「ちっとは家族の気持ちを考えてみな。自分の家族が王様の命を狙って捕まった国で、家族がのんびり暮らせると思うのかい? もしバレたらどうなるだろうって、毎日ハラハラドキドキだぜ? あいつらだって、まあこれは命が続けばの話だが、家族の命を魔族に握られているように感じるだろうよ」 「………ごめんなさい。おれ、うっかり……」 しょぼっと小さくなるシンノスケ。その時、少年二人のお供の1人、茶色の髪をした男が立ち上がり、シンノスケの肩に両手を伸ばした。 だがその手が主の身体に触れる直前、シンノスケの隣に座るケンシロウがスッと顔を男に向けた。 ハウエル先生に背中を向けた少年の目が、何を語ったのかは分からない。だが、ケンシロウと目を合わせた男はちらりとハウエル先生に目を向け、それから静かに席に戻った。 すぐに顔を戻したケンシロウが、相棒の肩をぽんぽんと叩く。 「失礼だが、シンノスケ殿は」 ハウザー先生がシンノスケに向かって穏やかに声を掛けた。 「魔王陛下のお命が狙われたことを、何とも思っていないのかね?」 え? シンノスケがぽかんと目を見開く。 「いや、別にシンノスケ殿を責めているわけではないのだ。ただ……、魔族の民であれば、まして陛下の忠臣たる貴族であれば、陛下のお命を狙った人間に対して怒りを感じるのが当然だろう。私達とて同じだ。ただ私達は、何よりも先ず法学者であろうとするが故にこの場に集っているわけだがね。しかし普通なら、陛下を狙った人間達に対して、そしてその家族に対して、怒りや、それなりのわだかまりを感じるものではないかと思う。先ほどハウエル君も言っていたように、彼らの家族が何の罪も犯していないと分かっていてもだ。悲しむべきことだが、人とは往々にしてそういう思考に走るものだからね。……つまり何が言いたいかというと……」 きょとんと大きな目を瞠り、上目遣いでじいっと自分を見つめるシンノスケに気づいたハウザー先生が、思わず言葉に詰まる。 困った様子で咳払いをするハウザー先生の隣から、小さく「ふふ」と笑いが零れた。 「学者の常で、ついたくさん言葉を使っていらっしゃるけれど、つまりハウザー先生はこう仰りたいのよ。シンノスケ殿は、ご自分が何も気にしていないから、他の人も同じ様に気にしないものだとついうっかり思い込んでしまったらしい。でもそれは貴族のご子息の立場としては、ちょっと不思議よね? 一体どうしてなのだろう? と、ハウザー先生は、そして実は私も、ふと疑問に思ってしまったというわけ」 にっこり笑ってクルト先生が解説し、ハウザー先生が苦笑を浮かべ、シンノスケはますます小さくなる。 「……なあ、坊っちゃん方よ」 ハウエル先生が、腕を組み、まじまじと目の前の2人の少年を見つめて言った。 「実際のところ、お前さん達、一体ぇ何モンだい……?」 いささか唐突ではあったものの、ついに発せられた質問に、法学者達の顔が引き締まる。 だが。 「僕達は、裁判が法に則って行われ、そして法に則った正当な裁きがなされることを望む某貴族の息子達、ですよ?」 某って何だ。某って。 すぐに応じたケンシロウの笑いを含んだ暢気な声に、法学者達を包む緊張がなぜか重みを増した。 「……どうして名を隠す? 悪いことをしてるわけでもねぇのによ。お前さん達もだ。どうして俺達に対して偽名を使う必要がある?」 偽名!? 意外なほど大きな声をあげ、シンノスケが椅子の上で飛び上がった。 「どっ、どうしてっ、ぎ、偽名って……!?」 「どうしてって」 酷く衝撃を受けているらしい少年の様子に、ハウエル先生の方が困ってしまう。 「あからさまに怪しいだろうがよ…?」 「嘘っ! だって今までバレたことは……!」 咄嗟に両手で口を覆ったシンノスケを見て、ハウエル先生はため息をついた。これが初めてじゃないワケだ。 ……本当にバレないと思っていたのだろうか。というか、これまで誰も指摘した者はいなかったのだろうか。そもそも何のために、何度も偽名を使う必要があるのだろう…? 愛らしい少年が自分の言葉に衝撃を受けている様は、捻くれ人生を歩んできた男の罪悪感をもちくちくと刺激する。自分がものすごく悪い大人になったような気がして、ハウエル先生は頭を掻いた。見れば仲間達も、何ともいえない複雑な表情でハウエル先生を睨んでいる。 ……なるほど、誰も偽名を指摘しなかった訳が分かった。少年があんまり可愛いから、ついつい温かい目で騙されてやったわけだ。 「まあまあ、シンちゃん」 対してこちらの少年は、全く動じていない、ふてぶてしいまでの笑みを浮かべている。 「大したことじゃないよ。気にしない、気にしない。」 そして卓を挟んで座る法学者達に顔を向けると、これも軽やかに言った。 「で。話は変わりますが」 何でそっちが話を変えるんだ!? 思わず息を吸い込み、身を乗り出した先生方だったが、彼らに向けられたケンシロウの眼差しに、喉から溢れかけた声をぐっと呑みこんでしまった。 どうしてだろう。背筋が冷たい。 「僕、先生達に伺いたいことがあります」 「………俺達に?」 はい、と頷いたケンシロウが、法学者達の顔をぐるっと見回して言った。 「先生方は、現在の眞魔国の法についてどう思われますか?」 ケンシロウの質問に、法学者達が顔を見合わせる。 「……余りに漠然とした質問で」ハウザー先生がゆっくりと口を開く。「どう答えれば良いのか、よく分からないのだがね…?」 皆同じ意見なのか、法学者達はそれ以上誰も何も発言しようとしない。 たとえば。 ケンシロウが笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。 「今回の事件でも、我が国に魔王陛下に対する罪を規定した法律がきちんと制定されていれば、状況はもっと単純に進んでいたと思いませんか?」 「……単純という言い方は良くないね」 オーレン先生が真面目に言った。 「比較的順調に、と言うべきだろう。もっとも昔の大逆罪のようなものに復活してもらいたいとは思わんが」 ケンシロウがクスッと笑って肩を竦める。ひどく大人びた、まるで目の前の学者達と対等の話ができるかのような仕草だ、と、ハウエル先生達は思った。 「大逆罪については僕も同感ですよ。だが、大逆罪を廃止したその昔の人々は、それに変わるもっとちゃんとした法を制定しておくべきだった。そう思われませんか?」 その質問には答えず、法学者達は改めて顔を見合わせた。 「そのように、我が国の法律には様々な穴がある。そもそも、我が国の法律の根本的な部分は、そのほとんどが建国時から変化していないんです。まるで眞王が、いえ、眞王陛下が創られた法を変えることは恐れ多いとでも言うかのようにね。そのためか、新たな法律の制定や改正は、その時々の状況に合わせて、いわば場当たり的に手を加えられているに過ぎない。だから世界情勢や国内の状況の急激な変化に対応できないんです。とうの昔に硬直化してしまっているんですよ。これは何とかしないといけない。と」 思いませんか? にっこりと笑みを向けられて、法学者達は黙り込んだ。 沈黙がその場を覆った。 「…………一体」 その沈黙を破って、ハウエル先生が低い声で言った。 「何を企んでやがる……?」 「企む?」 心外そうにケンシロウが問い返す。 「僕が? 何を?」 「俺達に何を言わせてぇんだ?」 「言わせたい? 僕はただ、せっかく法学者の方と知り合いになれたのだから、この機会にご意見を伺いたいと思っただけですよ?」 「だったら何故てめぇの親が何者なのか名乗らない? どうしててめぇらはこの期に及んで偽名を名乗るんだ?」 「その話は終わったんじゃ……」 「終わってねぇだろうが!」 「では、その話と僕の質問がどう関係すると?」 「分からねぇから腹が立つんだよ!」 「おい、ハウラン!」 身を乗り出したハウラン先生の二の腕を押さえ、オーレン先生が言った。 顔を歪め、鼻と口から盛大に息を吐き出しながらも身を引く友人を確認し、オーレン先生は改めて少年の顔を見据えた。 「我々はずっと気になっていたのです」 言って、オーレン先生はケンシロウとシンノスケを交互に見遣った。 「魔王陛下のお命が狙われて、我が国の民が大混乱をきたしたあの時、民のほとんどの声は、人間達に即座に最大の罰を与えよというものでした。法律だの裁判だの、それがどうした、偉大なる魔王陛下に剣を向けたものを絶対に許すなと、とても理性があるとは思えない意見が当然の様に新聞などを賑わしていました。そう……あの時、魔族の民は完全に理性をなくしていました。このハウエル・ハウランが、我々からすればしごく常識的な意見を述べただけで、命の危険を感じるほどに。だが……そんな時、あなた方が現れた。お父上の、もしくはその他のどなたかの名代として。そして、彼の命を守り、私達を集め、最高の環境で安全に仕事が出来るようにして下さった。……あなた方は、もしくはあなた方のお父上、か、どなたかは、確かに法に造詣の深い貴族なのでしょう。トール君のような」 言って、オーレン先生の目が彼らの背後に控える透に向く。 「とても祐筆だの秘書だのとは思えない優秀な法学生に、私の見るところ援助をなさっておられるくらいだ。そう思えたから私は、私達は、あなた方のご好意を素直に受け止めることができましたし、心から…感謝しております」 法学者達が同意を示すように頷き、ケンシロウがにっこり笑って頷く。 しかしオーレン先生はすぐに表情を変えると、「だが」と続けた。 「現在に到るまで、あなた方はご自分がどこのどなたなのか、我々に明かそうとなさらない。正当な裁きがなされるようにとのお言葉に嘘はないでしょう。だが、今もってあなた方が態度を変えないことが、私達には全く納得がいかないのです。何故隠すのか。隠しながら、何故ここまでしてくれるのか」 「法律に造詣の深い貴族であり篤志家である人物が、匿名であなた方を援助している。それだけでは満足できませんか?」 「満足すべきなのでしょうな、本来なら。だが私達はそうそう単純にはなれない」 「理屈っぽい、ああ失礼、論理的な思考を必要とする職業ですもんね」 子供の皮肉には笑顔で返して、それからオーレン先生は真面目な表情に戻った。 「私は最初、世論が余りに異常な状況を呈しているが故に、名乗れないのだろうと考えていました。私達を保護していることが世に知られれば、民の非難を受ける。しかし裁判が進み、大神官殿の証言もあり、また人間達の生の声が伝えられるに連れて、世論も変化してきました。ところがあなた方は変わらない。親切で気前もよく、そして正体不明だ。そのために私達は色々と推測を巡らせるようになってしまったのですよ。もしかしたら……」 「もしかしたら?」 ケンシロウが続きを促す。 「……血盟城では」オーレン先生がおずおずと言った。「もしかしたら、魔王陛下のお命を狙った人間を厳しく処罰すべきだと、すなわち極刑に処すべきだと主張されているのでは?」 「血盟城の、誰が、ですか?」 ケンシロウの質問に、法学者達がそっと目配せを交わした。 「……魔王陛下、ご自身、です」 つまりこういうことですか? ケンシロウがどこか冷たい声で言った。 「魔王陛下は人間達の処刑を望んでおられる。血盟城では、実はその意見が大勢を占めていて、それであなた方を保護している僕達、僕の親達はそれが明らかになることを恐れている、と? 知られれば上流社会で排斥されてしまう。それどころか魔王陛下の怒りを一身に被ることになる?」 「でなけりゃあ」 ハウエル先生が忌々しそうに吐き出した。 「てめぇのオヤジだか何だかが、この件で何か企んで、それに俺達を巻き込もうとしているか、だ。そうじゃねぇってんなら、正体を明かしな。どこの誰だか分からねぇヤツらに、適当に利用されるのは真っ平なんだよ」 「思考が飛躍しすぎじゃないですか? それこそ論理的な思考をなされる学者の仰りようとは思えませんね。正当な裁判がなされるように心を砕くことが、どうして陰謀に繋がるんです? まして、法学者としてのあなた方の意見を求めることが?」 「んなこたぁ、俺達に分かる訳がねぇだろうがよ!?」 だからイライラするんじゃねえか! ハウエル先生がドンっと拳を卓に打ち付けた。 部屋に何度目かの重苦しい沈黙が広がる。 沈黙しながらも、法学者達は目の前の少年達の反応をじっと探っていた。 2人の反応は、ある意味対照的だ。 シンノスケは、本気で困っているらしく、相棒や大人達をオロオロと見比べている。 対してケンシロウの方は、冷ややかに目を据えて逆に彼らを観察している。 「見損なったな」 冷たい声に、何故かハウエル先生の背筋に冷たいものが滑り落ちた。 「魔王陛下のお気持ちはとうに伝えてあるはず。それをこういう形で疑うとはね。これをこそ不敬というのだよ。それに以前、魔王陛下が人間達の死を望んでいた場合どうするのかと聞いたことがある。あの時、あなた方は何と答えた? 僕の記憶に間違いがなければ、法に従って対処すべきであると正論を主張する、そう答えたはずだ。それでもし身に危険が及んだとしても、不当な処刑には断固反対すると。違っていたかな?」 「それとこれとは話が……!」 「同じだ」 容赦なく反論を遮って、ケンシロウは法学者達を睨み据えた。 「どれほどの逆風の中にあろうとも、それで命を捨てることになろうとも、法学者としての矜持をすてることはしない。王や全ての民を敵に回そうとも、正しいと信ずる道を歩む。その覚悟があるから、あなた方はここに集まったんじゃないのか? それが……」 くっと冷笑を浮かべて、ケンシロウが肩を竦めた。 「僕のような子供に意見を求められただけで、その子供がどこの子か分からないというだけで、己の率直な意見を口にすることすらできなくなってしまうのか? 陰謀だって? 利用されるのが怖いって? 馬鹿を言うんじゃないよ。あるかないかも分からない陰謀に恐怖して、身動き取れなくなってしまう様な愚か者の臆病者が、本物の逆境に耐えられるはずがないじゃないか。いざとなれば、誰より先に権力に膝を屈して、何もかもお偉い皆様の仰せの通りでございますと命乞いをするに決まってるさ。ああ、ハウエル先生、もしかしたらあなたの夜逃げ人生というのも、結局命乞いの連続、その挙げ句のことじゃないですか? ……やれやれ」 ちょっとは骨のある連中かと思ったのに、とんだ見込み違いだった。 ケンシロウがわざとらしく肩を竦めて見せた瞬間、椅子の倒れる耳障りな音が響いた。 全員が顔を向けた先で、ロミオが憤然と怒りに燃え、唇を噛み締めている。 「………撤回しろ……! これ以上、先生を侮辱することは許さん……っ!」 拳を震わせるロミオをチラッと横目で流し見て、だがケンシロウはすぐに視線を正面のハウエル先生達に戻した。戻して、言った。 「君達全員、恥を知りたまえ」 貴様ぁ…っ!! ロミオが拳を握り締め、前に飛び出そうとする。が、周囲にいた弟子達が、咄嗟に彼の身体にしがみ付き、羽交い絞めにして動きを止めた。 「放して下さい、先輩!」 「バカ、ロミオ! 彼らに何かしてみろ、それこそ先生のお命に係わることになるぞ!」 「でも……!」 「おい、うるせぇぞ!」 一喝する師匠の声に、揉めていた一団がぴたりと動きを止めた。 その間も、ケンシロウの表情には何の変化もない。冷たく大人たちを見据えたままだ。 ……大したタマだぜ、このガキ。 本来なら、ここまで挑発されて、それに乗せられなかった試しはない。 とっくのとうに喧嘩を吹っかけて、マズい状況を自分でさらに泥沼化させ、後はひたすら夜逃げの準備だ。 それなのに……。 どういうわけか、こうまでバカにされて、頭は逆に冷えてきている。いや。 ……このガキの、この目を見ていたら、何と言えばいいのか……だんだん興奮した自分が阿呆に思えてきちまった。 バリバリと輝く頭頂を掻き毟ると、ハウエル先生は背もたれにドンと身体を凭せ掛けた。 「この国の法律について、法学者であるあなた方はどのようにお考えになりますか?」 ケンシロウが何事もなかったかの様に質問を重ねる。 ハウエル先生を除く法学者やその弟子達が、一斉に顔を見合わせた。 「眞魔国の法律がとっくに賞味期限切れだってこたぁ、法学者なら皆知ってらぁな」 ハウエル先生もまた、その間のやり取りが一切なかったかの様に返事を返した。 口調はどうあれ、その穏やかな声音に、もう1人の少年があからさまに胸を撫で下ろしている。友人と法学者達との舌戦によほどハラハラしていたのだろう。 「それを何とかすべきだという意見や行動は、あなた方の中から起きなかったのですか?」 「起きなかったわけではないね」 答えたのはハウザー先生だった。 「記録に残るものだけでも、様々な時代に様々な学者が様々な場所に献策を続けてきた。裁判所、領主、その時々の権力者、そしてもちろん魔王陛下。だがそれがうまく通ったとしても、結局は……先ほどケンシロウ殿が仰ったように、その場限り、その時代限りの手直しにしかならなかった。例えば、今現在も行われている道路整備や上下水道の整備事業の様に、百年、千年先を見据えた、抜本的な改革にはなり得なかったのだよ」 「何故でしょう?」 「血盟城には、もちろん以前から法務を担当する官僚達がいる。彼らの多くは法学出身者ではあるが、彼らに求められた職務は、その時々に存在する法をいかに守るか、民にいかに法を守らせるか、様々に起こる法的な問題を、国体に傷をつけることなく、いかにうまく裁くか、また裁かせるか、すなわち、魔王陛下や十貴族の支配をいかに堅固なものにしていくか、だったのだ。法の手直しにしても、それは支配する側にとって都合の良いようにすることが重要だった。つまり、その時々の権力の都合に合わせた場当たり的手直しがほとんどだった、という訳だね。もちろん、魔王陛下や十貴族の当主の全てが、民のことなど眼中になかったと言うつもりはない。官僚にも骨のある人物が何人もいた記録もある。しかし、大きな流れを変えるまでには到らなかったようだ」 「現在はまだましになりました。少なくとも現在我が国には、法改正などを民の視点で審議する機関がある。だが……」 ハウザー先生に次いで、オーレン先生もため息と共に言った。 「現在においてもなお、血盟城は勘違いをしている。この分野の問題を専門家ではない者たちに任せているのですからな」 「行政諮問委員会ですね?」 ハッと少年の顔を見た法学者達が、大きく頷いた。 「その通りですよ、ケンシロウ殿」 オーレン先生が感心した声で言った。 「彼らは行政の専門家達です。この分野において、彼らほど能力を持った者はいないでしょう。しかし彼らは法学者ではない。いや、法学出身者もいるとは聞いている。だがそれでも、彼らはあくまで行政官僚なのだ。ところが現在、法改正や新法作成について協議検討する場は、行政諮問委員会に1本化されてしまっているのです。それも、彼らが自らその必要性を協議することはありません。彼らが法改正などを協議するのは、外部からの訴えや働きかけがあって初めてなされるのです」 「それは当然でしょう」ケンシロウが肩を竦める。「だからこそ、『諮問委員会』なんだし」 全く仰る通りです。オーレン先生も頷いた。 「 諮問委員会とはすなわち、諮問を受けた後、調査、審議して答申を出す組織なのですからな。自分達が自ら問題を提起することはありません。その性質があるが故に、我々法学者も献策がし易くなったし、効率も良くなった。以前と比べると雲泥の差です。しかしそれでも、彼らは法の専門家ではない。現在我が国には、国内及び国際情勢の変化を見極め、自ら現法の問題点を提示し、その法を改め、新たな法律を作る力を有した、専門家による高度な専門機関が存在していないのだ……!」 憤然と言い切るオーレン先生に、周囲の法学者達が熱っぽい眼差しで大きく頷く。 そこにふと、「行政諮問委員会ができるまでは……」と、柔らかな声が流れた。クルト先生だ。何かを思い出しているような表情で、ぽってりとした唇をゆっくりと動かしている。 「……私達にできることといえば、上級裁判所に訴えて、上の方々と親交の篤い上級判事からの働きかけをお願いするのが精一杯でしたわね」 その唇に、どこか自嘲の笑みが浮かぶ。 「法改正にしろ何にしろ、血盟城の法務官達、それに十貴族のお抱え法学者と上級判事が加わって、討議の上で十貴族会議に上申、そして魔王陛下と十貴族との合議で全てが決定するのが慣例でしたわ。オーレン先生が先ほど仰った通り、お抱え法学者の第一の仕事と言えば、主の利益を守ること。それでは民のための法改正や新法制定など実現するはずがありません。でも、市井の一法学者風情が国法の改正を訴えても、誰も鼻も引っ掛けてもくれず……。私、てっきり本気で話を聞いてくれるものだと思った貴族の邸を訪れて、大変な目に遭いかけたことがありますわ。必死の思いで難を逃れましたら、思い切り嘲笑われましたの。エセ学者め、何をお高くとまっているのだ、お前と売女にどんな違いがある、お前達ごときが法を云々するなどおこがましいにも程があると。法学者としての誇りをとことん踏み躙られてしまって、私……」 まあ、ごめんなさい、私ったら個人的なことを。 わずかに哀しげに頭を下げる女性法学者に、男性達がぎくしゃくと応じる。 「法改正や新法策定に関する、決定権を有した専門家による専門機関」 なるほど。 複雑な沈黙など気にも留めない様子で、ケンシロウが呟いた。 「ところで、司法が国家によって管理される危険性についてはどうお考えになりますか?」 「んなモン、いつだってあるだろうよ」 ハウエル先生がフンと鼻を鳴らして言い放った。 「司法の独立性とやらを定めた法律は、やっぱりとっくにカビが生えちまってんのよ。あんなもん、しようと思えばどんな解釈でもできちまう。いい加減なんだよ。作ったヤツらは、よっぽど上が怖かったんだろうさ。権力を握った野郎がその気になれば、司法の独立なんぞいっくらでも押し潰されちまう。だからまあ、それも一刻も早く改正しなくちゃならねぇ懸案事項の一つだな。少なくとも、当代陛下や宰相閣下が今の理性を保ってる間によ」 年を喰ってジジィになっちまったら、ご立派な陛下もどうなっちまうか、分かったもんじゃねえもんな。 ハウエル先生が最後の一言を耳にした瞬間、少年達とお供達が一斉に顔を複雑に歪めた。 「国家とは常に管理したがるものだよ」 ハウエル先生の後を受けて、ハウザー先生が続ける。 「国にしろ地方にしろ、権力者が司法の場に圧力を掛ける例など、それこそ腐るほどある。その最たる例は、前王陛下の御世だな。あれはひどかった。あの摂政殿の政権下では、司法などもう……権力のおもちゃの様に扱われていたよ。それこそ古の大逆罪が存在していた頃のようにね。力に阿る者もいれば、もちろんそれに抵抗する判事や法学者も大勢いた。そのほとんどが社会的に、もしくは……その命を含めて抹殺されたがね。だから生き延びるためには沈黙を守るしかなかった。戦争も泥沼化していったし、正直何もかもが絶望的な状況だったからね。司法の独立性を求める我々法学者にとって、あれはまさしく暗黒の時代だったよ。その時代を知っているからこそ、我々は今回、世論の勢いに流されるわけにはいかなかったのだ」 「その割には、流されてしまう法学者が大勢いましたね。新聞に過激な処刑賛成論を多くの法学者が寄稿していました」 「どいつもこいつも、本物のエセ学者さ」 ケンシロウの言葉に、ハウエル先生が忌々しそうに答える。答えてから、「本物のエセ学者ってのは、妙な言い方だな」と呟いた。 「つまり法学者を名乗る偽者、と?」 「つまり、そういうこった。本人が自分をどう思ってるかは知らねえがな。……今、ハウザー先生が仰ってた通り、俺達にゃあひでぇ記憶が生々しく残ってる。だからこんな時、ついつい口を閉ざしちまう悪い癖がついてるんだよ。大勢がはっきりするまでは、一番お偉いお方がどう仰るのか、それを見極められるまでは、絶対に口を開かないってな。下手に妙なコトを口走ると、えれぇ目に遭っちまうかもしれねぇと、まあ、それが怖いのさ」 「あ、だったら」 シンノスケが分かったと言いたげに、明るい声を上げた。 「ハウエル先生はすっごく勇気があるってことですよね! 皆が理性をなくしてる時に、ちゃんと正論を口にできたんだから」 とたん、周囲の人々が苦笑を浮かべ、オーレン先生が吹き出した。 「そうではないんですよ、シンノスケ殿」 ちょっと意地悪な口調でオーレン先生が言う。 「この男は、単に状況を見極めることができんだけです」 「………?」 きょとんと首を傾げたシンノスケの隣で、ケンシロウがクスッと笑った。 「確かに……それでよくその暗黒の時代を生き延びてこれましたね?」 ケッと、いかにも忌々しそうにハウエル先生が顔を顰める。 「あんときゃ俺はまだ師匠から独立を許されてなかったんだよ。何か発言しようにも、師匠が目を光らせてて何も言えなかったんだ……!」 「おやおや!」 オーレン先生が、大げさに仰け反って見せる。 「てっきり師匠のお世話が楽しくて、自らお側に侍っているとばかり思っていたのに! なんと、君が弟子の中で一番独立するのが遅かったのには、そういう深い訳があったのか!」 「てめぇ……! 知ってるくせしやがってこの野郎!!」 「偉大なる師匠の叡智に感謝したまえ、ハウラン」 仏頂面のハウエル先生を残し、その場に笑いが巻き起こった。 「……まあ、つまり」 ぶすくれた顔で、ハウエル先生が言った。 「眞魔国の法律には、不備やら穴やらが山の様にある。実はとっくの昔に、国家の法ってやつを抜本的に見直す時期がきちまってたんだと俺達は考えている。それを見過ごしてきたために、いろんな矛盾や何かが現れて、そのしわ寄せを全部民が被っちまってるんだ。国は一刻も早く法の見直しをすべきだ。そしてそのためには、今の体制じゃ駄目だ。法の専門家による、それなりの決定力を持った、専門的な組織が必要だ。そしてその組織は、絶対ぇに権力の、もちろん魔王陛下や貴族達のお抱えになっちゃあならねえ。そしてイザという時には、自分達が盾になって司法の独立性を護っていかなきゃならねえ。とまあこんなトコかな……」 とてもじゃねぇが、実現しそうにないがな。 腕組みして言うハウエル先生に、二人の少年が頷いた。 「ありがとうございます、先生。やはりあなた方に伺ったのは正しかったと思いますよ」 「……従って」 筆頭公訴人が、裁判官席、そして傍聴席の人々に向かってゆっくりと顔を巡らせる。 そして大きく息を吸い込むと、低い、力の籠もった声で最後の言葉を発した。 「我々は、我が国の主たる魔王陛下のお命を狙ったその犯罪行為が、そのお方が魔王陛下であることを十分承知の上で、そしてそれによって我が国の国体を揺るがさんという意志の下に、計画的に行われたことを重要視するものであります。また、彼らのその忌むべき行為が、幼い子供達が集まる場所で実行されたという事実も、決して軽視すべきではないと考えます。だがしかし、彼らのその行為が、数千年に及ぶ誤解の上に成り立ったものであることもまた事実。そして、彼らが過ちを認め、行為を悔い、謝罪していることもまた事実であります。よって我ら公訴人はその事実を重々鑑み、また、人間の寿命を考慮に入れた上で、以下の刑の執行を求めるものであります」 筆頭公訴人がそこで一呼吸置く。人々の目が、彼ただ1人に集中していることを確認して、公訴人は徐に口をひらいた。 「……首謀者である者1名に死刑」 おお、と声にならない声が法廷に溢れた。 「積極的に計画立案、及び直接的な行為に深く関った者3名に終身刑、他2名に20年の懲役刑を求刑するものと致します!」 法廷内を、ため息とざわめきが満ちた。 公訴人による論告求刑と代弁人による最終弁論が行われるその日。 人々は人間達にどのような罰が求められるのか、公訴人、代弁人双方の主張を、固唾を呑んで聞き入っていた。 「では続いて代弁人の主張を伺う。筆頭代弁人、ハウエル・ハウラン殿」 首席裁判官に促され、ハウエル先生が立ち上がった。そしてゆっくりと証言台に向かって歩いていく。 この事件が起こった当初、世の声は暗殺未遂犯の極刑以外になかった。 裁判を求める声すら異端だった。不敬とされ、糾弾された。命の危険すら感じた。 そんな中、法に従って裁くべきと、ただ単純な真理を主張し続けた自分を褒めてやりたいと、その時初めてハウエル先生は思った。 ……俺みてぇなやさぐれ法学者が、ここまで来れた。 ふと満足感を覚えそうになって、ハッとハウエル先生は目を瞬いた。 被告人席には、これから一生を決定される人間達が身を固くして座っている。 ここで満足してどうする。 全てはこれからじゃねぇか。しっかりしろ、ハウエル・ハウラン……! 「私、筆頭代弁人ハウエル・ハウラン。判事閣下、そしてこの法廷にお集まりの全ての方々に申し上げる!」 ハウエル先生の最終弁論が始まった。 「法に従うは文明人たる証拠である!」 第一声を放って、ハウエル先生はぴたりと口を閉ざした。それから法廷全体を悠然と見回し、次いで大きく息を吸い込み口を開いた。 「我らが眞魔国には様々な法律がある。この国に生を受けたるものは、すべからくこの法律に従って生きていかなくてはならない。だがしかし! 我が国のみならず、世界のどの国の歴史を見ても、完璧な法が存在した試しはない。法律とは常に不完全なものなのである。不完全な法に、それでも従わねばならぬとは、何たる理不尽! ……いかが思われるか、諸君」 ぐるりと見回してみれば、全ての人々の目が、一体この男は何を言い出すのだろうと怪訝な光を瞬かせている。 「そして今! 我々は不完全極まりない、諾々と従うにはあまりに欠点を有した法の存在に、いいや、存在しないことに、涙せねばならない状況に陥っている。すなわち! 我が国には、何と驚くべきことに、偉大なる魔王陛下の御身に対する罪を、しっかりと明文化した法律が存在しないのである! これを理不尽と言わずして何とする!?」 その意味を図りかねてか、法廷内が無秩序にざわめいた。 裁判官の木槌が下ろされ、その音の響きの余韻と共にざわめきが収まっていく。 「さきほど公訴人殿は、被告達の罪を定め、ご存知の通りの求刑をなされた。1人は死刑。次に終身刑、そして20年の懲役刑。その刑罰の根拠は何か。それはすなわち我が眞魔国の一般的な刑法の中の、殺人に関する罰を、人間の平均寿命に置き換えたものである。この置き換えの法的根拠は何か。これはすなわち、わずか1年と少々前、ある地方で人間による窃盗事件が起き、それをどう対処すべきか悩んだ領主殿から行政諮問委員会に伺いが出され、それを経て刑法に加えられた一文によるものである。すなわち『眞魔国国内にて外国人が法を犯した場合は、眞魔国臣民と同じ裁きを受け、同じ罰を負うものとする。外国人であるが故に差別、もしくは優遇されてはならない。なお、懲役などを長期に科する場合は、魔族と人間の寿命の違いを考慮に入れねばならない』というものだ。たとえ外国人であろうと、犯罪を犯せば同じ様に罰せられるというのはある意味常識だが、その地方の領主殿はよく理解していなかったらしい。だがこの領主殿を、ものを知らないと非難することはできない。なぜなら」 人々をぐるりと見回して、ハウエル先生は大きく腕を広げた。 「なぜなら、ユーリ陛下のご登極以前、人間は敵だったからだ。眞魔国に忍び入り、犯罪を犯す人間は全て我ら魔族を滅ぼさんとする敵であり、裁きに掛け、罰を与える必要などなかったからだ。軍が、彼らの始末をしてくれた。我々は悩む必要もなかった」 だが今は違う! 高らかと上がったその声に、多くの人々が頷いた。 「今は違うのだ。ユーリ陛下の御尽力あって、人間との交流は進み、国内に住み着く人間も数多い。もし彼らが犯罪を、それも殺人のような重大な犯罪を起こせば、過去の関係も絡んで、おそらくや大きな混乱が起こったことは間違いない。かの領主殿が頭を抱えたのも当然であろう。にも拘らず、かの一文が加えられたのはほんの1年前なのだ。それまで問題が起きなかったのは、奇跡と言っても良い。そう思われないか、諸君。……我が国の法の整備はかように遅れ、かつ、国は危険な法の不備を、現在に到るまで見逃してしまっているのである。いかが思われるか諸君!」 ほう、という深いため息があちらこちらから漏れる。首を横に振って憂慮を示している人も多い。 「だがしかし!」 ハウエル先生は、更に声を張り上げた。 「どれほど欠点のある法であろうと、我々は今現在存在する法律に従わなくてはならないのだ。それが法であるが故に、守らねばならない。これこそ、魔族が野蛮人ではない証である。そして今、彼らを」 ハウエル先生の手が、被告人席の人間に向けられる。 「我々は法に従って裁かねばならないのである。彼らを裁く根拠となる法とは何か。その時、我らはまたも議論の根にある法の不備に立ち返らなくてはならない。すなわち!」 我が眞魔国には、魔王陛下に対する罪を特別に定めた法律は存在しないという、この事実である! 怒りと不満を表す呻きが、低く空気を揺らす。 「魔王陛下のお命を狙った。まこと許されん行為だ。狙ったお方が魔王陛下であることを十分承知の上で、そしてそれによって我が国の国体を揺るがさんという意志の下に、計画的に行われた。それもまたその通り。だがそれでも! 陛下に対する罪を定めた法が存在していない以上、これらの要件は全て念頭から追い払い、この恐るべき事件を我らはただ、人間による一魔族に対する殺人未遂事件として扱わねばならないのである。これがすなわち、法に従うということなのだ! 法に従って裁くということなのだ! 傍聴席の方々は、さぞ理不尽に感じられることであろう。だが、我ら法に携わる者はそれを理解しているはずである。公訴団の同僚諸兄よ、そして誰より裁判官殿よ、殺害され掛けたのが魔王陛下であるということで、目を曇らせてはならない! どれほど不備であろうと法は法! 我らは法学者であることを忘れたもうな!」 法学者の迫力に押されたのではあるまいが、法廷を一気に静寂が、ピンと張った細い絃の様な緊張感をもった静寂が包んだ。 「事件が起きた当初、我が国の民は人間達を即座に極刑に処せと声高に叫んでいた。そうあってはならないと、法学者として当然の主張した私は、様々な嫌がらせにあい、また命すら危険な状態となってしまった。お心当たりがおありの方もおられよう」 この事件が何ゆえに民をこれほどまでの恐慌に陥らせたのか。 背中で手を組み、黙考するように目を伏せて、ハウエル先生は静かに言った。 「それはすなわち、狙われたのがユーリ陛下であったからに他ならない」 コクリと喉を鳴らす音、ため息、何かを憚るような静かなざわめきがゆうるりと起こる。 「偉大なるユーリ陛下。誰よりも民を愛し、慈しみ、民に奉仕することを歓びとされる希代の御方。不世出の名君の世に生まれ、偉大なる治世の下でその幸福を享受し、日々歓びと供に生きている我らにとって、陛下は文字通り神にも等しい方である。陛下が陛下であるが故に、我らはそのお命が奪われかけたという事実に我慢がならなかったのである。……偉大なるユーリ陛下に栄光あらんことを」 胸に手を当て、そこにいない尊い人に向かって頭を下げる。 裁判席や公訴人席、そして傍聴席でも、それに倣う人が敬意を込めて頭を下げた。 「だが諸君、ここで一旦足を止め、考えて頂きたい。もしもこれが、この事件によって命を狙われたのがユーリ陛下でなかったとしたら。今この時、眞魔国の王がユーリ陛下でなかったとしたら、もしくは……別の誰かが権力を握り、その人物が命を狙われたのだとしたら。例えば」 己の権力を頼みに、法を、行政を、外交を、軍事を、良識を、常識を、真っ当な見識を、正当な手続きを、何より民の叫びを! 己の気分気ままに弄び、踏み躙り、蔑ろにしてわずかも恥じることのない人物。 民を悲惨な戦場に送って胸を痛めることもなく、己は絢爛たる宮廷の奥で安穏と贅沢にうつつをぬかし、権力に付随する義務と責任の存在に見向きもしない人物。 「もし今回、悪漢共が狙ったのがこのような人物であったとしたら……いかがする? 我が同胞諸氏よ!」 その時、その場に集まった魔族の民の脳裏に、ただ1人の人物の名が浮かび上がった。 かつて、だが昔と呼ぶにはあまりにも記憶が生々しいほんのわずか以前。 民の怨嗟の声を一身に浴びて、にも関らず、長年の間、そうユーリ陛下の登極と同時にその座から引き摺り下ろされる瞬間まで、延々と、そして平然と、権力の頂点に立ち続けた男。 フォンシュピッツベーグ卿シュトッフェル。 「考えてみるが良い。もしも暗殺者に狙われたのが、そのような人物であったとするならば、そのお人はさぞ喚き散らすであろうなあ。ユーリ陛下の様に、全能の王として司法に介入することはなさらず、全ての決断を法に携わる者に託すというお心を、無言を貫くことによってお示しになるのではなく、声を限りに怒鳴り散らされるのであろう。自分のような偉大な存在を狙うとは許せん。即座に処刑せよ。 磔でも、斬首でもよい。 悪心を抱く者が震え上がるように、最も残酷な手段を取れと、そう仰せになるのであろうよ。 例えば、これはあくまで例えに過ぎないが、かつてあの大戦の時期、混血であるというただそれだけの理由で、かのウェラー卿が、魔王陛下の御子でありながら、死地の最前線に送り込まれたように容赦なく。 敬愛する同胞諸兄よ、もしあなたがこのような御仁からそんな命令をされたらいかがする? 命じられたとおりにそやつの処刑命令書に名を綴るか? ……するかもしれんなあ。何せ誰でも己の命が惜しいものだから。 しかし心の中ではどうだ?」 法廷はひたすらシンと静まっている。だが、人々の意識が大きく動き始めたことを示すように、法廷内の空気は急激に熱を帯び始めていた。 「裁判官殿、公訴人殿、この場に集っておられるだろう我が同僚、法学者諸氏よ、思い出されよ。あなた方は、かつて、あの時代、涙を流して怒りを表していた筈だ。 こうも法を蔑ろにされて、それを糾弾することもできない己の不甲斐なさに。噛み締めた唇から血を流し、破裂しそうに痛む胸を抱え、悔し涙に暮れたはずだ。その痛みを知らずして、今、法学者を名乗る資格はない! そうであろう?」 例に挙げた人物がかつての摂政であることをもはや隠しもせず、ハウエル先生は裁判官席、そして公訴人席、最後に傍聴席にと目を向けた。 ハウエル先生の目に、堂々とその視線を受け止める者、後ろめたそうに視線を外す者、それぞれが映る。 だがそれはそのままに、ハウエル先生は改めて正面に目を据え、口を開いた。 「法律の条文について、歴史上法学者は様々に解釈し、その解釈を巡って議論を戦わせてきた。しかしこの場合解釈とは、条文の文言、そしてそこに込められた意味についてのものであり、法をより理解し、正しく執行するためになされてしかるべきものであった。その議論の跡が、様々な判例として記録に残っているのは御承知の通りだ。だが時として、その解釈という言葉そのものを勘違いする者が現れる。時と場合、関った者の身分や地位など、その場限りの条件で、法律の条文を故意に捻じ曲げた挙げ句、それを『解釈の違い』と恥知らずにも主張する輩だ。かつて確かにそれがまかり通った時代もあった。しかし、今、この時代に、『法の解釈』を間違えることがあってはならない! ……今、我々の目の前にあられるのは例に挙げた様な困った御仁ではなく、偉大なる魔王陛下だ。 天下に名だたる名君にして仁君、ユーリ陛下だ。だが!」 言って、それから一呼吸置くと、ハウエル先生は改めて法廷内を見回した。 その決意が漲る瞳が、炯炯と人々を射る。 「我々は二度と同じ過ちを繰り返してはならんのだ! 相手が誰であろうとだ! ユーリ陛下がいかに偉大なお方であろうと、そのお方であるが故に法を曲げて解釈されることは許されん! 今ここで誤った裁きがされれば、これは判例になる。 ユーリ陛下の後、どのような王が即位されるか、どのような摂政、どのような宰相がその地位につかれ、どれほどの権力を行使されるか、今は何も分からん。 だが分かることが一つだけある! もし今ここで1つの判例が残されれば、それは必ず後の世の禍根となるということだ! この判例を悪用する権力者が現れぬと、どうして分かる!? 偉大なる名君が登場する可能性も、最低の愚王が現れる可能性もある」 法学者、同僚諸兄、そして眞魔国の民よ! 法廷に集う人々に呼びかけて、ハウエル先生は大きく腕を上げた。 「時によって、人によって、都合によって、理性を失った巷の声によって、その解釈を故意に変えるは野蛮人の業である! だが、我らは野蛮人ではない! 法を守る文明人である! 諸君! 法律とはそも何であるのか。我らは今一度、それを己に問い掛けねばならぬ! 己の内に問いかけ、己の内にその答えを見出すのだ!」 裁判官殿。 ハウエル先生の声からスッと力が抜けた。 振り上げていた腕を下ろし、同時に表情も眼差しも冷静なものに変わる。 「代弁人は以下の様に考えます。被告は失敗して未遂に終わったものの、1名の魔族を計画的に殺害しようとした。その犯罪を、いたいけな子供達の集う場で実行した。これは動かぬ事実であります。だが、この計画的犯行は公訴人殿もお認めの通り、数千年に渡る誤解の上に成り立ったものであり、今、被告達はその過ちを全面的に認め、心から悔いております。誤解から始まったものであること、犯罪が未遂に終わったこと、全ての罪を認め、後悔の念と、被害者への心からの謝罪を表していること、これらのことから我々は、被告の罪を殺人未遂罪としても相応の酌量の余地があるものと考えます。よって……」 今回の犯行において、首謀者であった者1名に懲役5年。 積極的に犯行に関った者3名に懲役3年。 他2名に懲役1年と勤労奉仕1年。 「以上が相当と考えます」 ハウエル先生の最終弁論が終了した。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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