愛多き王様の国・11 |
「お前達は、あの人間達をどうしたいと考えているのだ?」 事件が起きた時の状況をざっと話した後で、フォンビーレフェルト卿が発したのはこの質問だった。 この日のため、客間にあった立派な応接用のソファや卓を据え置いて、証人でもあり、高貴なお客人でもある一行に座ってもらっている。 ソファに落ち着いて、いや、全く落ち着いた様子ではないが、とにかく腰を下ろしているのはフォンビーレフェルト卿ヴォルフラム閣下、アシュラム公領公女エヴァレット殿下、アシュリー伯、アシュラムの大神官、以上4名だ。ソファの後ろには、公女の乳母という初老の女性と、その娘だとかいう公女と同じ年頃の娘が気難しい顔で立っている。 そして証言とは何の関係もないが、やはりお客と呼ぶべきシンノスケとケンシロウの2人は、自分達はただの見学者だからと弟子達が使う事務用の椅子を適当に引っ張り出して座っていた。2人のお供であるはずの男2人と、新たな女1人も、その辺りにある椅子にそれこそ適当に座っている。側にはトールもいた。 ……こいつらは、どうもよく分からねぇ……。 ちらりと「坊っちゃん」達に視線を向け、ハウエル先生は内心首を捻っていた。 彼らは今、自分達で持ってきた「差し入れ」とかいう焼き菓子を切ってもらい、ぱくついている真っ最中だ。 シンノスケとケンシロウの傍らには何故か娘のジュリィまでがいて、一緒になって菓子を食べている。そしてコロコロと、父親にも滅多に聞かせない可愛らしい笑い声を上げ、さかんに少年達に話しかけては会話を弾ませていた。 ちなみにその焼き菓子とお茶は代弁人一同と客人達の前にもあったが、こちらは誰も手をつけていない。 ハウエル先生の耳に、またも娘と、それから妙に付き合いの良い少年達の笑い声が飛び込んでくる。 ……場を弁えないにも程ってぇもんがある。ジュリィのヤツは後で叱っておかなけりゃよ。 それにしても。 シンノスケとケンシロウは間違いなく貴族の、それもかなり上流の貴族の息子のはずだ。 それなのに、なぜこの2人の雰囲気から、嗅ぎなれた貴族の臭いがしないのだろう。紛れもない上流純血貴族、それなのにジュリィと話していても少しも違和感がない。ジュリィを見る目にも、庶民を見下す光が全くない。それにだ。 ハウエル先生の目が、彼らのお供に向いた。 ……こいつらにしても、どうも家来が主に侍っているってぇ、いかにもなモンがねえ。己は何程の者でもないくせに、主の権威を笠に着て俺達を見下す、あのどうにも腹が立ってならねぇ雰囲気が、この従者達には全くない。 ひどくのんびりと、気楽な顔でお茶を啜っているあの様子はどうなのだろう。上流貴族である自分達の主が、ジュリィのような市井の娘と親しげに会話することを何とも思わないのだろうか。 普通なら、そうだ、あのいかにも気張った様子のアシュラムの乳母とその娘であれば、そのような真似は絶対許さないだろうに……。 「……いっ、おい、ハウエル……!」 耳元にいきなり飛び込んできた声と、肌に感じた熱い息に、ハウエル先生は思わず飛び上がった。 耳を押さえて隣を見れば、オーレン先生の顔が目の前にある。 「な、何でぃ、気色の悪い……」 「馬鹿! 何をぼんやりしている…!」 顎でしゃくられて、ハッと正面に顔を向ければ、腕を組んだフォンビーレフェルト卿がイライラとした顔でハウエル先生を睨み付けていた。 ハッと気付いて、慌てて姿勢を正す。 「……失礼。あー……」 何だって? とオーレン先生に囁くと、ジロッと睨まれた。 「我々が人間達をどうしたいと考えているのかとのご質問だ…!」 ああ、そうだったと頷くと、ハウエル先生は高貴な若君に向けて姿勢と表情を改めた。 「誤解されたくないのですがな」 精一杯言葉を選んで、ハウエル先生は話し始めた。 「我々は、決してあの人間達を無罪にしようなどと考えているわけでは全くありません。それが正当な罰であると判断されるなら、死罪となっても仕方がないと考えます」 「当然のことだ。あの人間達は、こともあろうに魔王陛下のお命を狙ったのだからな。僕は、その一点において、死罪が妥当であると考える」 我らが魔王陛下に栄光あらんことを。 フォンビーレフェルト卿の忠誠心に呼応してみせるように、ハウエル先生が気取った声で言い、胸に手を当て、頭を下げた。 かなりわざとらしい仕草だが、魔王陛下の忠臣を自認し、それを何とか世間に向けて主張したいと願って止まない金持ち連中には結構ウケが良い。その内機会があれば、例えばそれで点数を上げられそうな場があれば、自分でもやってみようと思うらしい。 だがフォンビーレフェルト卿の反応は、胡散臭そうに軽く眉を顰めただけで終わった。 正真正銘魔王陛下の側近であるこの少年にとっては、そんな取ってつけたようなわざとらしい仕草に、何の価値も認められないのだろう。 コホン、と再びハウエル先生の咳払いが響く。 「魔王陛下のお命を狙ったという、その一点のみにおいて死罪が妥当、と。なるほど。しかし閣下、我が国において大逆罪ははるか昔に廃止され、現在、魔王陛下に対する罪を特別に定めた法は存在しておらんのです。法がない以上、今閣下が仰せになられたことは妥当とは申せません。今回の事件はごく一般的な法で裁かれなくてはならないのです。それが不敬であるとするならば、それは我が国の法律が不備であるということであり、つまりそれは……」 「法の不備を論じるのは、今回の事件とは全く別の問題だ。お前が言いたいのはそういうことだろう!」 フォンビーレフェルト卿の怒りを含んだ声に、ハウエル先生は思わず「ほう」と声を上げた。 隣のオーレン先生も、ちょっと意外そうな顔をしている。 「それはさんざん聞かされた! だが僕は……」 「聞かされたとは、一体誰に?」 話している途中で言葉を遮られ、フォンビーレフェルト卿がきょとんと目を瞠る。その視線が、ふと誰かを探すように横にブレたのをハウエル先生は見逃さなかった。 だが、フォンビーレフェルト卿はとっさに踏みとどまるように、視線を正面の法学者達に戻した。 「誰でも良い! ただ僕は、納得できんということだ……!」 「納得して頂けようと頂けまいと、それが法というものなのですよ、閣下。そして我々は、彼らが死罪に相応しいとは考えておりません」 「………何故だ……!? 魔王陛下の民、眞魔国の臣民でありながら、他国の者に王を奪われかけて、それで何故お前達はその者達を庇う!?」 「庇ってなんざいねぇや!!」 一瞬、フォンビーレフェルト卿の顔が呆気に取られて固まった。 あ、とハウエル先生が間の抜けた声を漏らす。 「魔王陛下に対するに限らず」 一緒になって固まってしまった2人の間に、オーレン先生が、少なくとも表面上は慌てることなく割り込んできた。 「人の命を奪おうと企むは大罪でございます。それは当然のこと。しかしそのような犯罪行為に到った理由、何ゆえにその者があえて大罪を犯そうとしたのか、その背景次第で罪の重さは変わるのではないか、与えられる罰もそれぞれ変わるべきではないかと、我々は考えるのです」 ちょっとばつ悪げにハウエル先生が身じろぎし、フォンビーレフェルト卿が忌々しげに息を吐き出した。 「何故にそのような決断をしたのか。そして実行に移したのか。そこに到る過程を明らかに致すことは、事件の全貌を明らかにすること、事件の真実を明らかにすることでございます。そう、我々は真実を明らかにしたいと願っているのでございます。人の命を奪おうとした。故に死罪。それでは真実を明らかにすることはできません」 「ただの人ではない。魔王陛下だ」 フォンビーレフェルト卿が頑なまでにその事実を指摘する。 オーレン先生の視線を受け、ハウエル先生が「悪ぃな」とちょっとだけ申し訳なさそうに眉を下げ、頷いた。 「仰せの通り」 ハウエル先生が改めて応える。 「しかし閣下、閣下が何度もそれを仰せになる限り、我らも何度も同じ答えを申し上げねばなりません。我が国には、魔王陛下に対する罪を特別に定めた法は存在しておりません、と」 唇を噛み締めたフォンビーレフェルト卿が、不快気に、だが仕方がなさそうにため息をついた。 「……堂々巡りだな。いや……お前達の主張は分かる。頭では分かるのだ。だが……」 「認めなくない。そういうことですな」 そうだ、と、意外なほど素直にフォンビーレフェルト卿が頷いた。 閣下。ハウエル先生が言葉を継ぐ。 「これも何度も申し上げますが、我らは決して彼らを無罪にしようとしているのではありません。もちろん、庇うなどもっての外! ただ、我らは真実を明らかにし、あの人間達がどうしてあのような恐るべき行為に走ったのかをはっきりさせたいと考えているのです。今、この時、この御世のためだけではなく、後の世のためにも、真実を明らかにし、歴史にその経緯を刻むこともまた我等の重要な使命と考えております」 「……後の世のために……?」 はい。ハウエル先生が大きく頷いた。 「その上で、もしも人間達に何か減刑に値する点があるとするならば、例えば、彼らが魔族という存在を根本的に誤解していて、今回の事件が誤解の上になした行為であり、もし彼らが今その誤解と、犯罪行為を深く後悔しているとするならば、ある程度罪を減じる、ということもあってよいのではないかと、我らは考えております」 神妙な顔で控えるアシュラムの人々に目を向けてから、ハウエル先生は言った。 「人間達は自分達の過ちを認めているのか?」 「認めつつあると我らは感じております」 ふむ、とフォンビーレフェルト卿が眉を顰める。そこへ。 「閣下」 ハウザー先生がフォンビーレフェルト卿に呼びかけた。碧眼が老練な法学者に向けられる。 「この件につきまして、魔王陛下は何と仰せになっておられますでしょうか?」 「……陛下が人間達の死を望んでいるとしたら、お前達はそれに従うのか?」 いいえ、と、ハウザー先生が即答する。 「例え魔王陛下のお言葉であろうと、唯々諾々と従うことはできません」 「ならば何故聞く?」 「それは……そうですな、これまで陛下のお心の内を教えて頂く機会などございませんでしたからな。おそらく、いえ、間違いなくこれから先もそのような機会に恵まれることはございますまい。ですが閣下は陛下のすぐお側におられる方です。我らにとって雲上人たる陛下が、実のところどのようにお考えになっておられるのか、1度参考までに伺っておきたいと存じました」 淡々と述べるハウザー先生に、フォンビーレフェルト卿が「ふん」と小さく鼻を鳴らした。 「陛下のお心の内であれば、とうに発表されているではないか。陛下のお望みはただ1つ、人間達が法に従って正しく裁かれること、それだけだ」 「ありがたきお言葉にございます」 ハウザー先生が間髪入れずにそう述べると、恭しく頭を下げた。 「…………?」 「陛下のそのお言葉がどれだけ我らを力づけて下さるものか、閣下にはお分かりになりませんでしょうな」 「……分からんな」 「閣下」オーレン先生がハウザー先生の後を受けて言った。「我らが為そうとしていることこそ、陛下の御心に従うもの。我らはそう確信しております」 「法に従って、ということか。今現在、我が国に存在する法、それが全てということだな」 はい、と法学者達が一斉に頷く。 「民がそれで納得すると思うか?」 「前にも申しましたとおり、民が納得するかしないかの問題ではございません」 1つ尋ねよう。 フォンビーレフェルト卿が、法学者一同を見回し、言った。 「もし……もし陛下が人間達を死刑にしろと仰せになっていたら、お前達はどうした?」 それは、とわずかにオーレン先生達が言葉に詰まる。が。 「もちろん。それが過ちであることをあらゆる手段を通じて主張致します」 きっぱりとそう言い切ったのは、ハウエル先生だった。 「命知らずだな。もしそうなれば、お前に対する非難は現在の比ではない。非難を受けるどころか、命をなくすぞ?」 フォンビーレフェルト卿の挑むような眼差しを、ハウエル先生は瞬きもせずしっかりと受け止めた。 「法を無視し、人間達を死罪にせよと仰せになるような王が玉座にあるとすれば、眞魔国は決して現在のような平和と繁栄の中にはありますまいよ。その様な国なれば、私も不敬罪だの何だのと罪を作られて捕らえられることでしょうな。愚王の御世に生まれて生きたが身の不運。そうなりゃもう仕方がない。とことん非道な王と国を罵って死んでいきましょう」 フォンビーレフェルト卿が、ハウエル先生をまじまじと見つめている。 ハウエル先生もまた、高貴な若君の視線を真正面から受け止め、そして強い意志を眼差しに乗せて返した。 「……なるほど。面白い男だな」 フォンビーレフェルト卿の唇が決して不快ではない笑みを浮かべた瞬間、オーレン先生を始めとする法学者達、そして弟子達、さらに、父親が高貴なお方を相手に何を言い出すのかとハラハラしながら見守っていたジュリィが、ほーっと安堵の息を吐き出した。 「こともあろうに、陛下を呼び出して尋問しようとしただけのことはある」 笑って言うフォンビーレフェルト卿に、ハウエル先生の顔がここで初めてくしゃっと歪んだ。 「とんでもねぇ、あ、いや、とんでもない。あれはまあ……勢いというもので……。もし実際に陛下がここへお姿を御見せになろうもんなら、お言葉を伺うどころじゃねぇ、いやいや、ございません。私共ごとき卑しい者、陛下のその神々しさに目は潰れ、心臓なぞアッと叫ぶ間もなく破裂してしまうことでございましょう」 しみじみとそう告げるハウエル先生の顔をじっと見つめてから、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムはちらりと見学者を装う魔王陛下に視線を走らせた。 堅い椅子に大賢者と2人並んで座り、焼き菓子を頬張っている。 ヴォルフラムの視線に気づいたのか、魔王陛下は頬を菓子で膨らませたまま、照れくさそうに笑みを浮かべた。横からコンラートの手が伸び、頬にくっついた菓子の欠片を摘む。 「…………まあ……それはない、だろうな……」 怪訝な眼差しで自分を見つめる法学者達を余所目に、フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムは深々とため息をついた。 その日早朝、血盟城の敷地の一画にあるにも関らず、上級裁判所の周囲は人々でごった返していた。 ついに今日この日、人々が待ちに待っていた魔王陛下暗殺未遂犯の裁判が開かれるのだ。 今この場に集まっている人々は、裁判の進行をその目で確かめようと各地から集まってきた一般の人々─魔族はもちろん、人間達も─だった。 上級裁判所の大法廷は、数百はあるだろうという傍聴席の数の多さで有名だった。法廷をUの形で階段状に囲む傍聴席は、前後二つに仕切られている。前部は事前に傍聴が許された、貴族や上流階級の人々、学者識者の面々、それから新聞記者など、民に裁判の内容について報せることを役目とする人々のための席だ。そしてその後ろが一般の民のために用意された席になる。 これまで、一般の民の席が満杯になった事はない。だが今回、この魔王陛下暗殺未遂事件の審理においては、それこそ千を超える人々が集まって傍聴を希望していた。そのため急遽くじ引きで傍聴の許可を出すことになったのだが……。 くじ引きで当りを引いた人々が意気揚々と入場した後も、外れた人々がその場を離れることはなかった。 そこには、ただ興奮だけがある。 もう中には入れないというのに、人々は皆、顔を興奮に赤らめ、寄ると触ると議論を交わし、時には胸倉を掴み合い、喧々囂々と己の主張をひたすらぶつけ合ってはさらに興奮を高めている。 やがて。 上級裁判所に向かって、数台の馬車がやってきた。 血盟城の敷地にやってくるには、あまりに粗末な馬車だ。それだけではない。馬車の窓は板で覆われ、中が全く見えないようになっている。 「あの人間共が乗っているぞ!」 誰かが叫んだ。 「陛下のお命を奪おうとした極悪人だ!」 その声と同時に、音を立てる様に怒りが一帯に燃え上がった。 石が飛び始めた。馬車にガツンガツンと石が当る。魔力を込められた石もあるのか、閉ざされた窓を今にも突き破りそうなものまである。 「やめろ!」 「石を投げるな! 下がれ!」 叫びながら警備の兵士達が飛び込んできた。それに対しても、石は容赦なく投げ付けられる。 「何だお前ら! 軍人のくせに、極悪人を庇うのか!」 「陛下を殺そうとした人間共を生かしておくな!」 「殺せ!」 「暗殺犯を庇うヤツらは皆同罪だ!」 言い掛かりも甚だしいが、興奮して理性をなくした民の怒りは治まらない。 だがその時、馬に乗った士官が馬車の前に飛び出し、大音声で叫んだ。 「ここは血盟城の敷地の中だ! 血盟城での暴力行為は反乱と看做す! お前達は反逆者になりたいのか!!」 さすがにその言葉には、民も反論できない。宙を飛ぶ石はとたんに力をなくした。 唸るように怒りの声を上げながら、人間達を乗せた馬車を睨み付ける民に囲まれ、それでも兵達は態勢を整えると、粛々と裁判所の門の中に入って行った。そしてそのまま、人々の視線に晒されることのない建物の裏側に向かっていく。 燃焼仕切れなかった怒りが、ふつふつと煮えるようにその場に溜まっている。 そこへ、更なる馬車が数台連なってやってきた。 今度は街で目にするごく普通の馬車だ。窓も別に閉ざされてはいない。 これは誰を運んできた馬車だろうと、人々が窓の中を覗こうと注目し始めた。 その窓の1つに、ちらりと一人の男の姿が見えた。 ほとんどの民は、それが誰か分からない。だが、気づいた者が数人、その場にいた。 「あれはハウエル・ハウランだ!」 やり場もないまま溜まっていた怒りが、途端、その向かう先を定めた。 「生きてたのか、あの野郎!」 「人間達の代弁人だ!」 「魔族のくせに、悪党共を助けようとしやがって!」 「あいつらこそ反逆者だ!」 もう石は飛ばない。だが罵声は容赦なく馬車を襲う。 詰め寄る人々の間に、暴動を怖れた警護の兵が一斉に割り込んだ。民の怒りの礫に怯んだか、わずかに速度を落としていた馬車が、慌てふためく様に裁判所の門の中に滑り込んだ。 今度は、裁判所の正面玄関に馬車が停まった。 即座に閉められた門に、怒りに燃える民が集結する。 民の怒りは、代弁人一同が馬車から姿を現したことでさらに熱く燃え上がった。 「こんなに大勢いやがるのか!?」 「貴様ら、それでも学者か!」 「恥知らず!」 「いずれ天罰が下るぞ!」 「慈悲深い魔王陛下がお許しになられても、眞王陛下がお前達を許すものか!」 「……すっかり悪役ですわね」 クルト先生がくすくすと笑いながら、わずかに乱れた法服を整える。 「落ち着いておられますな、クルト殿」 「これしきのこと、代弁団に参加を決意する前から覚悟しておりましたわ。これまで、なぜか私、難しい事件に携わることがなかなかできませんでしたの。どの依頼者も、私を見るとどういう訳か腰が引けてしまって……。ようやくやりがいのある事件を担当できるのですもの、私、今、わくわくしておりますわ」 見かけによらず肝の据わった女性らしい。ついでに、自分の外見的特長について少々自覚が足りないようだ。 ウチの古女房も、その辺りを分かってくれりゃあ助かるんだがな……。 背後で交わされる会話をぽりぽり頭を掻きながら考えるハウエル先生に、オーレン先生が声を掛けてきた。 「お前も落ち着いているな、ハウラン」 「今さらじたばたしたって仕方があるめぇよ」 それはそうだが、とオーレン先生がため息をつく。 「何せ私はお前と違って人に嫌われるということがない。尊敬すると言われたことは多々あるのだが……。このような経験も、まあ、新鮮と言えばいえるが、クルト殿のような心境に到るのは難しいな」 けっ、と吐き出して、ハウエル先生はオーレン先生を横目でジロッと睨んだ。 「嫌われ者で悪かったな!」 「別に悪いとは言っておらん。そもそも、貴様が嫌われようが好かれようが、私に何の関係がある? 私はただ、こういう状況に慣れている貴様が少々羨ましいと思っただけだ」 「バカやろう。俺だって、ここまで嫌われたことなんざねぇよ」 ふう、と、ため息をついた時、背後で重々しく扉が閉められた。 周囲から一気に音が消える。同時に、上級裁判所のしんと冷えた、重々しい空気が彼らを押し包んだ。 「………よし。行くぜ」 王都上級裁判所大法廷のざわめきは、被告である人間達が姿を現したことで、急激に罵声と野次の坩堝となった。 だがあまりに人の数が多すぎるのと、法廷の音響効果が相まって、何を言っているのか聞き取ることはできない。ただ、怒りの感情をぶつけられているという、それが分かるだけだ。 ……ま、言ってることは似たようなモンばっかだろうがよ。 ハウエル先生達が入廷してきた時も、かなりの野次が飛んでいた。しかし、法廷内ということだろう、ちょっとは遠慮があったのだが。 代弁人席のハウエル先生がやれやれと肩を竦めると、法廷内にカンカンカン! と槌の鳴る大きな音が響いた。これも音響効果のお蔭だろうか。 「神聖な法廷内である! 静粛にできぬものは即座に退廷させよ!」 法務官が大きな声で命じれば、法廷内をぐるりと取り巻くような位置につく警備兵の鞘から、一斉に鍔鳴りの音が響いた。 かつて武人同士の争いが多く、裁判も一般の民に対するより武人に対するものが多かった頃の名残だ。騒ぎを起こすものは容赦しないという意思の表れ、率直に表現するなら脅し、である。法務官の命令に応じて、兵士達は鞘からわずかに抜いた剣を素早く鞘に納め、わざと鋭い鍔鳴りの音を立てる。これを続けざまに2度行えば、金属が立てる鋭い音は法廷内に高々と鳴り響き、一気に人々の興奮を冷まさせるのだ。 戸惑いと緊張、何より不安に身体を堅く強張らせながら、人間達がぎくしゃくと席に着く。最も落ち着いて見える年長の男も、顔を青白く引き攣らせている。 人間達は、ここにきてようやく魔族の民の怒り、憎悪を肌身で知ったのだ。もしも彼らが己の信念に従ったまま、その正義を信じたままでいられたら、こうも不安に慄くこともなかっただろうに。 ハウエル先生は、同情に似た感慨に、深々とため息をついた。 ……それにしても。 ハウエル先生は、人間達に向けた視線をそのまま法廷内に向けた。 さすがに王都の上級裁判所だぁな。でけぇもんだ。 傍聴席が階段状になって法廷を取り巻いているというのも初めて目にした。ぐるりと取り囲まれるだけじゃなく、上から見下ろされるというのもあまり気分のいいものじゃない。 上を見たり後ろを見たり、落ち着かないハウエル先生の耳元でコホンと咳払いの音がした。 「いつまでもきょろきょろするな、ハウエル。田舎者丸出しだぞ」 オーエン先生に言われて、ハウエル先生はちぇっと口を尖らせた。 「何でぇ、田舎モンはお前ぇも同じじゃねぇか。自分ばっかり都会人みてぇな顔をしてんじゃねえや」 法廷にハウエル先生達とは違う法学者の一団が入廷してきた。一列に連なってやってきた彼らは、代弁団と反対側に設えられた席に腰を下ろす。 代弁団と相対する場に並んで座る彼らは、地球世界における検察にあたる法学者、公訴人達だった。 眞魔国には警察がない。治安維持と犯罪の取り締まりもまた、王都警備に当る軍の仕事だ。そして犯罪者を摘発し、取調べるのも軍だ。 だが裁判において、検事に当る席に座るのは軍ではなかった。これは、代弁人と同じく、裁判所に任命された法学者の仕事なのである。 公訴人は犯罪者を捕らえた軍の仕事を引継ぎ、犯罪者の罪を裁きの場に問うのである。 「……何だかなあ、金に不自由してなさそうな顔ばっかりだな……」 「それは僻み根性というものだろう。……しかしまあ、貴様と気が合いそうな顔がいないのは確かだな」 「裁判に勝利すれば名を上げられると立候補してきた連中ではないのですか?」 ハウエル先生とオーエン先生の背後から、ベイズリー・ロードンがそっと囁いてきた。 「上級裁判所が認めた者達だ、そのような紛い物はおらんだろう」 前を向いたまま答えたオーエン先生が、「だが」と続ける。 「法学者が公訴人を務めるのは、裁判の場で国家の力を背景に持つ軍の存在が圧力にならぬようにするためだ。司法の判断が国家の力に左右されてはならんからな。それ故、中立的な法学者同士が公訴人と代弁人に別れて戦うという形になる。とは言え、公訴人をよくする法学者は、いつの間にか軍と気脈が通じていくものだ。罪を犯した者に対しての視点も、刑罰に関する考え方も軍と似てくる。だから彼らが、このような事件で代弁人を務めることはまずない。同じ法学者でも、代弁一筋の我らとは発想がすでに違っているだろう」 「いらん説明をつらつらとありがとよ。つまるところ、お前ぇもあいつらとは気が合わねえってことじゃねぇか」 「私は、ちょっと気に入らないような気がするというだけで喧嘩を売るような男ではない。誰であろうと礼儀正しく接してきたし、これからもそうするつもりだ。例え罪と罰に対する考え方が違っている相手であろうとな」 「………そうかいそうかい。お偉いオーエン先生はさすがに違うぜ。じゃあまあ、俺があいつらに殴り掛かりそうになったら、しっかり止めてくれよな」 「安心しろ。お前が彼らに掴みかかりそうになったら、ちゃんと足を引っ掛けて転がすから」 カンカンカンカン! 木槌の音が響いて、重々しく扉が開かれた。 ハウエル先生達代弁団一同も、公訴人一同も、一斉に立ち上がり、頭を下げる。 眞魔国で最高位にある王都上級裁判所の裁判官達が入廷してきたのだ。その数は10名。 裾の長い法服を引きずりながら、殊更ゆっくりと歩み、それぞれの席に着く。 裁判官達が腰を下ろすのを確認してから、一同も席に着いた。 「これより」 裁判官達の中央に座る上級裁判官が、ゆっくりと口を開いた。 「魔王陛下暗殺未遂事件の審理を開始する」 その日から、裁判が本格的に開始された。 審理の始めは、事件の姿そのものを明確にすることであった。 事件を起こした人間達当人、そしてまた事件に関った、もしくは、その場で事件を目撃した人々の証言が、数日に渡って続けられることになる。 人間達は全員が己のなしたことを認めた。その時、彼らの名と出自が明らかにされたのだが、彼ら全員がアシュラム人だと判明したことは、その場に集った人々にかなりの衝撃を与えていた。 アシュラムは、小国ながら魔族への友好度も高く、どの国よりも多くの民を眞魔国に送り出し、交流を深めているという認識が魔族の人々の間にあったからだ。 さらには、今回の事件における、アシュラムの神鳥ザイーシャの活躍がある。 魔族のアシュラム公領観が非常に好意的になっているこの時に明らかになった真実。 人々の間に、失望に似た呟きが広がった。 法廷内に溢れる、肌にピリピリと感じるその雰囲気に、被告席に座る人間達、特に年若い者達が哀しげに目を伏せたことに気づいたものはほとんどなかった。 裁判の様子は、逐一民に知らされた。新聞各紙が号外を出すだけではない。民の中には、己の見聞きした法廷の様子を、勝手に設えた舞台で講談調に語っては小金を稼ぐ者まで現れた。それも1人や2人ではなく、語りの上手い者の周辺には大勢の民が集って、裁判の様子を熱心に聴いては議論を戦わせていた。 その人々の間でも、暗殺未遂犯達がアシュラム人であったことの驚き、そしてアシュラム公領に対する失望感と怒りが育ちつつあった。 法廷では証言が続く。 その日、代弁団が送り出した証人が、人々の大きな注目を浴びた。 これまでの証人の中でも抜きん出て身分が高く、重要な証言者であることが誰の目にも明らかであるからだ。 証人席に据えられた椅子に、特別に座ったまま証言を許されたのは、アシュラム公領において最も高位の聖職者、大神官その人だった。 「本日は、このような場にわざわざお越し頂き、まことにありがたく存ずる」 ハウエル先生の言葉に、大神官が「いいえ」と頭を下げる。 「それでは早速ですが、大神官殿。この度この裁きの場に引っ立てられましたるこの者共、貴国アシュラム公領の民であることはご存知ですな?」 「存じております。私もあの現場に居合わせました。その時……彼らが同胞であることは分かりました」 「ほう、それは何故に?」 「彼らがあの時……ザイーシャの名を呼びました故に……。アシュラムの神鳥の存在を知り、その名を呼べるのはアシュラムの民だけです」 なるほど、とハウエル先生が頷く。 「アシュラム公領は」 言って、ハウエル先生はぐるっと法廷内を見回した。 固唾を呑んで見守る人々の、様々な感情を乗せた眼差しがハウエル先生一点に向かってくる。 「アシュラム公領は、ここにお集まりの全ての方々がご存知の通り、我が眞魔国と深い友情の絆を結んでいる国です。両国の友好の歴史は決して長くないが、人の交流については他国に抜きん出て数も多く、また熱心であることでも有名です。だが、そのアシュラム公領から、今回こともあろうに……」 魔王陛下を暗殺しようとする者達が現れた。 ほうと溢れるため息。状況を確認し、頷き、また首を傾げる人々。 その様子をじっくりと観察し、それからハウエル先生は言葉を続けた。 「人間の国は数多ある。この世界において、支配種と呼ばれるのは人間だ。人間と魔族の人口を比べてみるまでもなく、世界の9割9分を支配しているのは人間なのです。そして、当代魔王陛下の御尽力により、我が眞魔国と友好を結ぶ国が増えたとはいっても、世界全体を眺めてみれば、それは半分どころかせいぜい3分の1にも満たん数だ。決して多いとはいえないのです。魔族を魔物と信じる国も、まだまだ数多く存在している。ここで私は疑問に捕らわれるのです。一体何故」 暗殺者は魔族を恐れ厭う国からではなく、友好国から出現したのか。 この疑問に、多くの人が頷く。 「大神官殿」 ハウエル先生に呼びかけられて、大神官が顔を上げた。 「私の疑問にお答え頂けるだろうか。彼らは何故、このような暴挙に出なければならなかったのか。そしてそも、アシュラムにおいて、魔族とはいかなる存在だったのか」 人々の眼差し─傍聴する民だけではなく、裁判官や公訴人に到るまで、全員の視線が真っ直ぐ老人に向かう。 その視線に気づいているのかどうなのか、大神官は上げた瞳をどこか遠いところに向けて、ゆっくりと口を開いた。 朝になれば太陽が昇るように。 夜の月が、日々満ち、また欠け、星が動くように。 大神官の口から、どこか詠う様な声が漏れる。 「魔族がこの世に仇なす魔物であるという認識は、我々にとって至極当たり前のこと、当然の『真実』だったのです……」 大神官の語る『物語』に、法廷の中がシンと静まった。 「私達は、父祖の代、遥か昔からその『真実』を語り継いでまいりました。……この世の西の果てにある眞魔国は、人ならぬモノ、魔族と呼ばれる魔物の住まう国。そこは闇に閉ざされ、魔王と呼ばれる悪鬼の首魁によって支配された国だ。悪徳非道が善しとされ、正義は貶められ、泥にまみれている。魔族が望むのは、ただこの世界を自分達と同じ闇に染めることのみ。魔王とその配下たる魔族達は、何より人の心を闇に堕とすため、様々な悪辣極まりない手段をとる。策を弄し、甘言で惑わし、人を欲得の崖に追い込んでは突き落とす。地上の悪は、恐怖は、悲しみは、憎悪は、何より全ての争い、戦争は、全て魔族が作り出したもの。故に、我々人間は力を合わせ、恐るべき魔族の奸計を退けなくてはならない。いつか魔族を滅ぼして、地上に真の正義を、そして争いのない楽土を、実現しなくてはならない。……私達は何百年も、この『真実』を信じ、ただの1度も疑うことなく、次の世代へと言い伝えてきたのです。ただの1度も……疑わずに……」 しわぶき1つ上がらない法廷内で、ただ大神官の深い深いため息だけがその音を響かせた。 「少なくとも、当代魔王陛下がご即位なされるまで、それを疑う人間はいなかった…はずだと思いまする。これまで何百年も、何千年も伝えてきた『真実』を、この先また何百年、何千年と、魔族を滅ぼすことが叶うまで言い伝えていくのだと、私達は当たり前に信じておりました。ところが……当代陛下ご即位なされて以降、世界は一気に変化を始めた……。長年の、親類筋でもあった隣国フランシアが眞魔国と友好を結ぶと耳にした時、私は真剣に神に祈りました。あの若い国王夫婦が魔族の忌まわしい計略に嵌ってしまったことを憂い、いつかフランシアにとてつもない災いが起こることを憂い、彼らの魂が救われることを、過ちに一刻も早く気づいて、魔族と縁を切ることができるよう、心から祈ったのです。神よ、フランシアの民を救いたまえと……」 「……アシュラムの大公陛下が眞魔国と友好を結ぶと発表された時」 ハウエル先生の声が法廷内に響く。 「あなたは何より早く支持を表明されたと聞きます。その心境の変化について伺いたい。それほどまでに魔族を魔物と忌み嫌っておられたあなたが、そのお心を急激に変えたのは何ゆえなのか」 それは。大神官が、ゆっくりと、何かを思い出すような表情で言った。 「当代魔王、ユーリ陛下にお会いしたからです」 人々の表情が、一気に得心したものに変わった。 我等の陛下に1度でもお目に掛かれば、信じてきた『真実』がどれほど馬鹿げたものか分かるはずだ、と。 大神官の表情も、初めて魔王陛下に会った時のことを思い出してか、柔らかく解れている。 「あの方は、にっこりと笑って、『こんにちは。魔王です。よろしく』と、いともあっさり仰せになりました。焼き菓子を頬張り、お茶のカップを両手に挟んで、それはもうにっこりと……。私達が想像していた魔王の登場の仕方とは……そのお姿は、あまりにもかけ離れておりました。私達が信じてきた『魔王』は、闇と障気の中で、そのおぞましい姿を現すはずでした。決して……明るい日差しの下で、お茶と焼き菓子と花々に囲まれてではなく……。あのお方の笑みには、邪気も、妖気も、禍々しいものなど欠片もなかった。そこにいるのは、ただ……この世の人とは思えないほど愛らしく、そして礼儀正しい少年に過ぎなかった……」 「あなた方の考え方からすれば、そのような愛らしい少年に見せることも、また魔物の悪しき企みだとはお考えにならなかったのですかな?」 ハウエル先生の質問に、大神官は自嘲気味に笑った。 「そう考えられれば楽でしたなあ……。だが、私は教会の最高位にある大神官であり、その場に同席した者も皆、厳しい修行を経て強き法力を得、その地位に上り詰めた実力者ばかりだったのです。私達は全員、悪を見抜く自信があった。今も、あります。魔のもの、悪しきものが目の前にあれば、どのように偽装しようと見抜く自信が。しかし……」 魔王陛下に、悪しき心は全く感じられなかった……。 しみじみと述懐する大神官に、ハウエル先生が深く頷いた。 「なるほど。ではその出会いによって、魔族に対する考え方が変化したと仰せなのですな?」 人々が深く納得するその問い掛けに、だが大神官は大きく首を左右に振った。 「いいえ。違います」 「違う?」 「はい」 「それはどういうことでしょうかな?」 「私の、私達の考え方が決定的に変化した出来事は、その、翌日に起こりました」 大神官は、数呼吸の間を置いて、さらにゆっくりとその時の出来事を、あの、森の中で見た光景を語り始めた。 森の中、池のほとりで平和な眠りの中にあった少年。 そして。 「私達は……見たのです。あの光景を」 森の中、池のほとり、煌く木漏れ日。光と、かすかにさらさらと聞こえる葉ずれの音、小波の音。その中でまどろむ少年。そして……。 少年を囲むように身を寄せ合う動物達。 法廷に集う全ての人々が、傍聴する民はもちろん、裁判官までもが、息の呑み、身を乗り出し、大神官の描き出す光景に聞き入って、いや、見入っていた。 「神秘的という言葉すら陳腐に思えるほど神秘的で……美しい光景でした。本来ならば捕食し合う種類の動物達までが共に集い、平和な、それはもう幸福そうな眠りの中にあったのです。まるで……神話か童話の様な……まさしく我らが夢見る楽土の姿でした。しかし……」 神官達が彼らの眠りを破った時、動物達が一斉に目覚め、そして。 「動物達の、アシュラムに生きる全ての、人間を除く全ての命が、一斉に私達に目を向けました。その瞬間の、動物達の目を見たときの衝撃を何と表現すればよいのか……」 「動物達の目に、あなた方は何をご覧になられた?」 ハウエル先生に問われて、大神官はそこで初めて苦渋に顔を歪め、そして言った。 「我ら人間への……怒り、そして…憎悪、です」 声にならない呻きの様なものが法廷を一気に満たした。 ごくりと喉を鳴らす音もそこかしこから聞こえる。己の職分を突如思い出した記者だろうか、憑れた様にものすごい勢いで紙に何かを認め出した者もいる。 「その目は、私達に告げていました。声が…はっきりと聞こえたのです。あれは動物達の、いいえ、アシュラムの大地そのものが発した声だと、今では信じております。彼らの目は、声は、私達に告げたのです。お前達人間は……この楽土に入ることを許されぬのだと……。愛と平和に満ちた夢のような世界から、人間という種族はとうに拒まれた存在なのだと……! なぜなら……」 大地を滅ぼすのは、世界の敵は、魔族ではなく、我ら人間、なのだから。 法廷内から全ての動きが消え、音が消えた。 「………動物達の、その、あなた方を見る目から、それだけのことを読み取られたのか?」 そうです、と大神官が頷く。その目に、緩やかに水の膜が盛り上がるのを人々は、そして被告席に着く人間達は、固唾を呑んで見つめていた。 「一番大切な真実を見抜くことができなかったくせにと……お笑い下され。だが……私達は知ってしまったのです。分かってしまったのです…! 世界が、この大地が、自然が、王と認めるのはただ一人、魔王陛下のみであることを。そして私達人間は……護っていると、いいや、支配していると思い込んでいた大地から、この世界そのものから、破壊者として憎まれている……。人間はこの世界から、存在を、共に生きることを、拒絶されているのです……!」 それでも、私達はこの世界を愛しているのに……! 言い放って、大神官が顔を覆った。薄い肩が小刻みに震えている。 彼のすぐ傍らで、被告席に座った人間達が呆然と目を見開き、その姿を凝視していた。 対して、魔族達は静かな感動のうねりの中にあった。 彼らはずっとそれを言い続けてきた。魔王陛下は「精霊の王」であると。 大地は、自然は、魔王陛下をこそ愛し、崇め、その命に従うのだと。 だが「精霊の王」という尊称は、ある意味魔王陛下の偉大な力を象徴する、実体のないものでもあった。なぜなら、魔王陛下が史上最強の魔力を有していることは知っていても、誰一人として、魔王陛下が「精霊の王」であること、大地と自然の王であることの実際の証を目にしたことはなかったからである。 だが今、ここにその証を、奇跡とも呼ぶべき光景を、精霊達の声を、その目にし、その耳にした人がいる。 人々の目が、その輝きも新たに、大神官に向けられた。 「………失礼。お見苦しいところをお見せしてしまった……」 大神官が手を外し、顔をゆっくりと上げて言った。その目はまだ濡れていたが、表情は既に落ち着いて見える。 いいえ、と答えて、ハウエル先生は小さく咳払いをした。 「……お認めになるのは、辛かったでしょうな……?」 その質問に、大神官は小さく笑った。 「辛いなどと、とてもそのような言葉では……。我がアシュラムが眞魔国と友好を結ぼうとしていることは分かっておりました。教会も、早急に態度を決しなくてはならなかった。何も見なかった振りをして、これまで通り魔族は魔物、決して結んではならないと主張すべきか、それとも……教会の長年の過ちを認め、大公陛下の決断を支持すべきか……」 「あなた方は支持することに決した」 「どうして……見なかった振りなどできましょう……」 大神官の眉が、再び苦しげに寄せられた。 「我らは何日も何日も、それこそ夜を徹して議論し合いました。己が見たものは真実だったのか、魔物に誑かされただけではないのか、落ち着いて考えてみれば、あれは魔物が見せた幻だったのではないか。そのように主張し出す者も一人や二人ではなかった。その考えに縋りつきたい思いもあった。そうすれば、どれだけ楽になれるか。例え……アシュラムの大地が枯れ、命が全て失せようとも、魔族の所業と呪っていられるならどれほど気が休まるか……。しかし同時に、我らは分かっておりました。魔族に騙されたのだと主張する者達ですら、本当はちゃんと分かっておりました。我らが見たものは、頭に響いた声は、全て真実なのだと。そして、これを否定するのは、ただ、神官という地位と権力に綿々と執着するが故の愚行に過ぎないのだと……。故に、私は皆に申しました。もし我ら教会が、今ここで長年の過ちを潔く認めることができなければ、分かっていながら真実から目を逸らせば、アシュラムの滅びと共に我等の魂は間違いなく地獄に落ちるであろうと。その時こそ、我らは本物の悪鬼、魔物となるのだ。人間としての、民を導く聖職者としての、真の誇りを自ら地に投げ捨て、醜い自尊心と虚栄心のために、民を見殺しにした悪鬼に……」 そしてあなた方は決意した。ハウエル先生が呟くように言った。 「ご立派であったと思います。心から」 そう言って静かに深く頭を下げる法学者に、大神官も小さく礼を返した。 法定中の人々は、長い緊張から解き放たれた様に、ほー…っと深く息を吐き出した。 「ですが」 続くハウエル先生の声に、人々の表情が再び引き締まる。 「アシュラムの民にとって、あなた方の決断は大変な衝撃でしたでしょうな」 「その通りです」 大神官が大きく頷いた。 「民にとって、もちろん国中の教会、神官や法術師にとって、あり得ない決断であったろうと思います。我らも、魔王陛下との出会いがなければ夢にも思わぬことでしたからな。だが……我らは決断し、それをアシュラムの全土に発表しました。しかしそれは、今考えても、あまりにも……性急にすぎたのかもしれない」 「決断がですか?」 「発表が、です。もっとじっくりと、国中の神官達を集め、我らが見たものを告げ、説得し、全員ではなくても、多くの同意を得てから発表すべきでした。そうすれば、あれほどの混乱を生み出すこともなかったはずです。眞魔国との友好条約締結を急ぐ宮廷につられ、いずれ友好がなれば自然と分かるだろうと安易に判断し、発表する時期を誤ってしまった……。そのために、とてつもない凝りを国に残してしまいました」 私達の責任です。 そう言って、大神官が被告席に座る同胞達に視線を向けた。 「彼らがあのような所業に到ったのも、まず皆の理解を求める努力を怠った我等の、私の責任なのです。この者達には……心から申し訳なく思います」 どうか許して欲しい。そう告げて頭を下げる大神官に、人間達がぎくしゃくと視線を逸らした。 「眞魔国と友好条約締結が叶い、交流が始まって」 大神官が改めて目をハウエル先生に向け、話し始めた。 「災いが起こると恐怖していた民は、次第に魔族への理解を深めてまいりました。魔族と結んでも、何一つとして悪いことが起きない。それどころか、眞魔国から齎される様々な技術や知識は、アシュラムを崩壊から護ってくれ、民の生活を良くしてくれる。やはり我々は間違っていたのだと、ありがたいことにその意識は少しずつではありますが、民の中に浸透していきました。だが、民の意識が変化すればするほど、言い伝えを信じてきた神官達は頑なになっていきました。信じてきたものを否定することは、信じてきた神を否定すること、自分達自身を否定すること。そのようなことに、彼らは耐えられなかったのだろうと思います。連綿と続いてきた教えに殉じる思いもあったでしょう。我らが何とか説得しようとしても、彼らは耳を貸してくれようとはしませんでした。そして私達、大公陛下や私を含め、眞魔国との友好を支持する神官達の命を狙い始めました。だが、私達は彼らを憎むことも、排斥することも、まして捕らえて罰することも…できませんでした。彼らの思いが分かるが故に……。私達も、もしあの出会いがなければ、あの光景を目にすることがなければ、彼らと同じく、いいえ、彼らの先頭に立って国と民を危うくしていたに違いないからです…! 説得しようと思いました。私達人間は、これまでずっと間違え続けてきたのだと。そしてまたこうも思いました。このまま魔族との交流が深まり、魔族の本当に姿が分かるようになれば、彼らもいつか分かってくれるであろうと。ですがまさかその前に……」 魔王陛下のお命を狙おうとは……! またもほー…っと、今度は先ほどとはわずかに色合いの違う、哀しげなため息が人々から漏れた。そしてそのため息は、被告席に座る人間達からまでも耐え切れぬ様に溢れて出た。 「……裁判官殿、そしてここに集う皆様に申し上げます」 大神官が立ち上がり、ぐるりと法廷を見回し、そして静かに語り始めた。 「我が同胞のなしたこと、これは許されぬ罪であります。それはアシュラム大公始め、我ら重々承知致しております。まことに、まことに申し訳なく存知まする。ただ……どうかご理解頂きたいのです。彼らは、我等が、数百年、数千年に渡って伝え続けてきた教えを、ただひたすら信じていただけなのです。自分達は正義をなすのだと、これによって悪は滅ぼされ、世界が平和になるのだと、人々を救えるのだと、愚直なまでに信じていたのです。決して、悪事を為そうと考えていたわけではありません。もちろん、だからと言って、彼らの罪が軽くなるとは思いません。何度も申し上げますが、許されざる罪であることはよく分かっております。ただこれは……むしろ我等の罪なのです。魔族を魔物と呼ぶことで、民の目を真実から逸らし、己の権威を護ろうとした先人達の意に操られた我等の、真実とは懸け離れた虚像を真実の姿として人々に伝えた我等の、我等の罪なのです……! ……眞魔国の皆様のお怒りは当然のこと。彼らの罪を減じてくれとは申しませぬ。ただ、できるならばその怒り、憎しみはどうか彼らではなく、愚かな教えを数千年もの永きに渡って民に信じさせてきた我等に、今ここにいるこの私にこそぶつけて頂きたいと、心から願うものでございます。………最後に」 大神官は、そこで1つ大きく深呼吸して真正面、裁判席に顔を向けた。 「例え暗殺未遂犯がアシュラム人であろうと、それはごく一部の者のこと。アシュラムの国と民の、眞魔国への友情を疑うことは一切ないと仰せ下されました魔王陛下に、アシュラムを代表いたしまして、心底よりの感謝を捧げ奉りまする」 大神官は1度深々と頭を下げ、そして疲れ果てた様子で椅子に腰を下ろした。 →NEXT プラウザよりお戻り下さい。
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